第12話 押し殺さなければならない想い
カチ、カチ、カチ、カチ……と、部屋の壁に掛けられたアナログ時計の秒針が時を刻む音が寂しげに響く。
新太の沈んでいた意識がふっと浮かび上がってくる。
うっすらと目蓋を持ち上げれば、自身の右手は詩葉の手が握られている。
小さくて柔らかい──そして、来たときよりも気持ち体温が下がっているようでひとまず安心だ。
「あ、起きた?」
「……琴音?」
一体いつからそこにいたのか──新太は自分の隣で床に腰を下ろしている琴音の存在に気が付くと共に、いつの間にか身体にブランケットが掛けられていることも知る。
「ずっと詩葉の傍にいてくれてありがとね」
「ま、世話係だからな」
「寝込みの詩葉に変なコトしなかった~?」
「するかバカッ!?」
新太は思わず声を大きくしてしまったことで、詩葉が起きてしまったのではないかと確認するが、どうやら大丈夫だったらしい。
ほっと息を吐き、自分に掛かっていたブランケットを琴音の肩に掛ける。
「ちょっと長居し過ぎたな」
「あれ、帰るの?」
立ち上がった新太に、琴音は不思議そうな視線を向ける。
「あんまり男子が女子の家に長くいすぎるのも良くないだろ?」
新太はどこか恥ずかしそうに頬を掻きながら、視線を泳がせる。
それを琴音は少しキョトンとしたように見詰めてから、小さく笑みを溢して「別に気にしないのに」と答える。
そして、新太を見送るため、琴音は玄関まで一緒に降りていく。
外は既に日が沈みきり、空は一面黒塗りになっている。
半分より少し丸みを帯びた感じの月が明々と月光を降り注ぎ、無造作に散りばめたかのような星々は姦しく瞬いている。
「今日は月が綺麗だな……」
「……えっ!?」
ふと新太の口から出た言葉に、琴音はボッと頬を赤らめる。
その様子に、新太は「どうした?」と訝しげな視線を向けるが、少しの時間を置いて自分の発言を振り返り、誤解を与えたのだと理解する。
「い、いや、普通に綺麗だなって思って……」
「あ……あぁ、うん! わかってるわかってる!」
琴音はそう笑って答えながらも、手でパタパタと顔を扇いでいる。
(けどまぁ……確かに綺麗なんだよな……)
新太はそんな琴音のことを横目で盗み見ていた。
雲間から差し込んだ月光が、琴音の黒髪を照らし出し、その艶やかさを一層際立たせている。また、雪のように白い肌は、まるで自ら発光しているかのように淡く輝き、黒い瞳が夜空の星屑を映して燐光を灯している。
容姿端麗な琴音だが、今このときは幻想的な雰囲気も纏っていた。
「懐かしいね。前はいっつもこうやって私が見送ってた」
「……そうだったな」
前というのは、もちろん新太と琴音がまだ付き合っていた頃のことだ。
二人はどこか懐かしむように視線を交わらせ、流れる沈黙をたっぷりと味わう。
そうしていると、何かを思った琴音は一度目を伏せてから、熱を帯びた視線を少し甘えるように上目遣いで新太に向ける。
「……キス、する?」
「…………」
新太は微かに目を開いたが、無言のまま、すぐに表情を戻した。
見送りのキスは、付き合っていた頃はよくしていたことだ。
今でも唇に触れれば、その感触を思い出すことも出来る。
しかし、もう新太と琴音は恋人同士ではない。
それは、琴音が新太を大切に思うがゆえに……新太が琴音の夢を応援するがゆえに行き着いた“別れ”。
ここでキスをしてしまえば、再び確かな恋心が芽を出してしまうだろう。それは────
「ははっ……そういう冗談やめろよな~。本気にしちゃうだろ?」
「……あはは、そうだね」
おどけて肩をすくめる新太に、琴音は曖昧に笑って横に垂れる黒髪を指で巻き取る。
微妙な沈黙が両者の間に流れる。
そして、新太は「じゃ、またな」と別れを告げて琴音に背を向ける。
一歩、二歩、三歩──と続いて、四歩目はなかった。
ドン……と、新太の背中に重量感。
歩みを止めるように、その場に引き留めるように新太の身体に回された細い腕。
「間違って……ないよねっ……?」
「…………」
若干震え気味の琴音の声はどこか湿り気を帯びている。
「私達、間違ってないよね……? この“別れ”は正しかったんだよねっ……?」
新太は何も言えない。
正しいか正しくないか……そんなものは、新太にだってわからない。互いに互いを思った結果の“別れ”。
少なくとも間違ってはなかったはずだ。しかし────
「なら、何でこんなに苦しいのっ……!?」
「……ッ!?」
琴音の新太を抱く腕に力が込められる。
新太は背中越しに琴音の体温を感じる。そして、同時に小さな震えも伝わってくる。
「何か最近モヤモヤするの……よくわからない感情が、グルグル胸の中で回っててギュッて締め付けてくるの……」
「琴音……」
「嘘、わかってる……この感情が何なのか、私はよく知ってる。でも……でもっ、それは言っちゃダメだから。
教えてよ……私達、これで良かったんだよね……?」
「……わからない。でも、絶対に間違いではなかったはずだ。だって、俺はお前を、お前は俺のことを考えて“別れ”の選択をしたんだろ? それが、間違いなはずがない……」
そう、互いに最善の選択をしたはずなのだ。
結果として、琴音は声優として現在成功している。仕事の数も増えてきているし、この前の映画にだって重要キャラに抜擢されるにまで至った。
────それが、間違いなわけない。
「……そっか」
どういう感情か──琴音はそう反応して、新太から腕を離し、一歩後ろに下がる。
「そ、そうだよね! ゴメンね、急に変なこと言って……ちょっと寂しくなっちゃったのかも」
「琴音……大丈夫か?」
新太は振り返って不安げな眼差しを向けるが、琴音は「大丈夫だよ!」と笑顔を作って答える。
「ほら、そろそろ帰らないと身体冷えちゃうよ?」
「……おう」
「また、学校でね?」
新太は手を振る琴音に見送られて、日比谷家を後にした。
そして、帰っていく新太の背中を見詰める琴音は柔らかな笑顔を浮かべている。
しかし、その横顔には、一筋の雫が静かに頬を伝っていた────




