男運
「あれ?あの黒い軽四…たしか…昨日も」
自宅アパートの前に停まっていたその車の運転席には、眼鏡をかけた若い男が乗っていた。
すると、環がアパートから飛び出してきた。
私に気付く様子もなく、一目散にその黒い軽四へ駆け寄り、慣れた様子で助手席に乗り込んだ。
環の彼?
すぐに走り去ったその車を、私は物陰から見送り、環と入れ替わりに玄関のドアを開けて家へ入った。
「ただいまー」
母は、リビングのちゃぶ台の前で座って泣いていた。
「あ、お帰り…」
母は、手で涙をそっと拭った。
「どうした?」
私は、母の前に座って尋ねた。
「もう…どう言っていいか……」
そう言いいながら、母はため息を吐いた。
「ひょっとして環のこと?、たった今、前に停まってた黒い車に乗って行っちゃったけど…」
「はあ…その男の人は、妻子持ちらしいのよ」
「ええ!まさかの不倫…」
「全くもう、私はそういう事は大嫌いなのよ!お子さんは、まだ2歳なんだって」
母は、顔を覆った。
「でも…今は熱くなってしまってるだけで、またすぐに冷めるんじゃないかな?」
私は、母を宥めるように言った。
「さっき、あの子…絶対にあの人と別れない!って飛び出して行ったのよ」
「そうだったんだ…ね」
「人様のものに手を出すなんて、そんな子に育てた覚えはないわ!絶対にバチが当たる」
母は、昔の人だからか?不倫はどうしても許せないらしい。
「最初は…結婚してるって知らなかったのかも。好きになってしまったから知ったのかも」
「だったら、その時点で諦めない?」
「まあね…私だったら、そこで諦めるかもな」
「そうでしょ!あの子は、ホントに誰に似たんだか…」
「どうして、不倫だって分かったの?」
母は、目を見開いて話し出した。
その男は、環のバイト先の店長だった。
「実は、その人の奥さんから電話があったのよ」
「え?環の携帯じゃなくて?この家の電話に?」
「そうなのよ!私が出たのよ」
「ええ?!それは…大変だったね…」
そうだったんだ…。それは、さぞかし修羅場だったろう。母がこうなるのも無理ないかも。
私は、その状況を想像して納得した。
「奥さんは、別れて欲しいって、ご主人にも環にも何回も言ったらしいけど、全然聞いてくれないから私に説得して下さいって言ってきたのよ…」
「で、なんて言ったの?」
「別れるように言いますって、謝った」
「そっか…そりゃそう言うよね」
「環は、カアーッとなったら突っ走るからね。でも、冷めるときも早いから大丈夫だよ。今までだってそうじゃない。男の人と長く続かないし」
「そうかな?」
「今は何言っても、ヌカに釘かも。もう少し様子を見て見ようよ」
「でもねぇ…」
「環も、馬鹿じゃないんだから、きっと分かってくれると思うよ」
「だと、いいんだけどね…」
「信じようよ、環を」
「…そうだね」
母は、少し落ち着いたようだった。
「あの男の人ね、奥さんが言ってたんだけど…
初めてじゃないらしいのよ、浮気」
「ええっ!そうなの?許せない!女の敵だね」
「嫌だねー、だらしない人」
「奥さん、泣いてた。子供が小さいから働きに行けないし、お願いだから別れて下さいって」
「じゃ、そんな人なら環が嫌になるのも時間の問題かもよ」
「だと、いいんだけどね」
「そうだよ、きっと。さっ、お風呂でも入ってサッパリしよう!入れてくるね」
「ありがとう…」
母が小さく見えた。
せめて私は、あんまり母に心配かけちゃいけないな…と思った。
環の彼が、まさか妻子持ちとは…。
あの車を見かけるようになったのは、2か月前くらいかな? 環も今はのぼせ上がっているだろうけど、そんな男性ならその内に嫌になると思う。もし、その奥さんと別れて環と一緒になったとしても、女癖の悪い男はきっとまた繰り返すんだろうな。何かに縋りたい環の気持ちも分かるけど、早く気付きますように。一度、それとなく環に話さなくちゃね。
ホントに次から次へと色々とあるなぁー、生きるって大変なことなんだよな。
父の借金の返済が今日でようやく片付いたところなのに…。
結局、父が借金していたのは、皆んなビジネスマンでいい人たちばかりだった。二郎おじさんのおかげで全員半額にしていただけたし。
世の中の人も、亡くなった親の借金を返済している人がいっぱいいるんだろうな。私は、父の預金で支払えたんだから、ラッキーだと思わなきゃね。
葬儀費用と、家財道具の処分や、借金返済したあとの父の通帳には、あと少ししか残っていなかったが、残った分の少しを二郎おじさんにお礼として少しばかり包んで渡すと受け取ってくれて、残りは環と二人で分けなさいって、二郎おじさんが言ってくれた。ひょっとしらた、まだ何かに必要になるかも知れないので、しばらくはそのまま置いておいて、折を見て、母に二人の口座へ貯金してもらうようにした。
母は、少しだけど結婚式の足しにしなさい、と言っていた。
結婚か…
今は、とても考えられない。
バスタブにお湯を張りながら、満たされていくお湯の流れと音が、何故だか心地よく聞こえ、私のやり場のないガサガサした感情を癒やしてくれた。
私の予想どおり、程なくして環と彼は別れた。
けど、その幕引きは、想像もつかないものだった。
例の黒の軽四で、河原で逢引きしていた二人は、ガラの悪い男3人に取り囲まれて金品を奪われたのだ。
そして、その男は、あろうことか環を放って逃げたらしい。
残された環は、たまたまその時間に巡回に来た警官に保護された。
もし、警官が見つけてくれなかったら…と思うとぞっとする。
「やっぱり、バチが当たったわ」
母は、顔を顰めて言っていた。
環は、百年の愛も一気に覚めたらしい。
その後、環は、寝込む事もなく短大を無事に卒業し、大手の商社にOLとして働き出し、環は服を着替えるように男も変えた。
綺麗な環に、言い寄ってくる男は山のようにいた。
ちょっといいことを言われると、環はすぐに周りが見えなくなってしまうほど熱を上げてしまう。
けれど、次第に環のわがままに振り回され、どの男の人も心身ともに疲れてしまうようだ。
環は、今までの鬱憤を晴らすように自由に恋をして、女友達と海外旅行にもあちこち行くようになり、派手に過ごすようになった。
勤めた商社がかなり羽振りが良くて、ボーナスを年間に100万円くらいはもらっていたと思う。
私の会社は、その半分くらいのボーナスしかもらっていなかった。
私は、キラキラした環が羨ましかった。
それに、私はとても身体がついていかず、環のようには遊ぶことが出来なかった。
仕事と日常生活と、ユウくんに遊びに連れてってもらうことで、私の体力はボーダーラインギリギリだった。
しかし、環は、その後も男運は悪かった。
男を見る目がないんだろうか?それとも、環が男をダメにしてしまうんだろうか?
自レ古佳人多命薄、閉レ門春尽楊花落
私たち家族は、女3人で働くようになり、身を寄せ合った1DKの生活にピリオドを打ち、3DKの連棟の借家へ移り住んだ。
そのタイミングで、私は5年付き合った彼ともついにピリオドを打った。
適齢期を過ぎても、彼との結婚は、どうしても描くことが出来なかった。このままズルズルと付き合っているのは申し訳ないと考えた。彼は私より2歳年上だし、彼の適齢期も考えると、ここで別れるのが彼のためでもあると思った。
彼は、それでも一緒に居たいと言ってくれたが、私はやはり彼の将来を考えて別れることを選択した。
彼は、他に好きな男ができたんだろうと詮索し、しばらく私を付け回したが、当然そんな人は見る影もなく、そのうち彼も諦めた。
私は、孤独になった。
仕事も思い切って変えてみようと転職したのだが、新しい仕事に馴染めずに辞めてしまい、その後も職場を転々とした。
身体が弱いので無理が効かずに、調子が悪くなり辞めることが多かった。
そんな私の心の支えは、レイチェルだった。
最近は、前より頻繁に姿を見せてくれるようになっていた。
一年後くらいに、運良くある商社の事務の仕事に定着出来た。
そこで、今の結婚相手と巡り会うことになる。
彼は、懐の大きい人で、体も大きくて良く食べ、あまり物事にこだわらない穏やかな性格で、私の心は徐々に満たされていった。
半年くらい付き合ってから、年明けを待たずに、私たちはトントン拍子で結婚した。
実家の近くのマンションに住み、一年経たないうちに女の子を出産した。
子供を出産するとひ弱だった体調も良くなり、ママ友もたくさん出来て、今までないくらいに私は順風満帆な日々を過ごした。
2年後には、2人目の女の子も出産した。
出産すると、体質が変わると言うのは本当かもしれない。体力もついてきたし、以前のようにすぐ寝込むことも少なくなってきた。
それに合わせるように、レイチェルは次第に姿を見せなくなってしまう。
そして、時を同じくして、環も結婚した。
私も母も、心から安堵した。
しかし、喜んだのも束の間、一年も経たないうちに環の方は離婚してしまった。
夫には、多額の借金があったのだ。
それを隠して、環と結婚した。
当然、すぐにバレて生活が苦しくなり、夫婦喧嘩が絶えなくなって破綻した。
子供が出来なかったのが幸いだった。
私は、産後の身体で環の離婚の話し合いや、引っ越しにと動き回り、その挙句に倒れてしまった。
幸いただの過労だった。
乳飲み子がいるということで入院は免れ、自宅で下の娘と二人で寝たきりになった。
上の娘は、母や義母や叔母が代わる代わる見てくれたので助かった。
しばらくは微熱が続いてきつかったが、横に寝ている娘とゆっくりとした時の流れを感じ、その屈託のない表情を見ていると自然に癒され、細やかな幸せを感じることができた。
パパも優しく、仕事から帰って夕飯も作ってくれた。子供が生まれてからは、旦那のことを子供が呼ぶのと同じように、パパ、と呼ぶようになった。
環も、仕事に行かなくてもいい日は、手伝いに来てくれたが、離婚のショックと疲れでやつれたように見えた。
ある日の昼下がり、仕事が休みだった環はランチを買って来てくれた。
「お姉ちゃん、具合どう?これ、一緒に食べよ」
紙袋には、私の好きなフルーツの入ったサンドイッチとコーヒー牛乳が入っていた。
「ありがと、ごめんね」
私は身体を起こして、ダイニングテーブルに腰を下ろした。
「熱、下がったんだって?」
環も、向かいの椅子に腰掛けて言った。
「うん。もう大丈夫だよ」
「ごめんね…色々と…」
「いいよ、姉妹じゃないの。タマちゃんは?大丈夫?ちょっと疲れてるみたい…」
「まあね、離婚って思ったよりパワー要るよね」
「色々と大変だったね…」
「ほんとにもう、災難だったわ…」
「こういうのって、人災って言うのかな?」
私たちは、それを食べながら話した。
環は、徐に話し始めた。
「あのね…実は、私も今週、病院に行って来たの」
「え?タマちゃん、どこか悪いの?」
「ずっと怠い感じはあるけど、身体じゃなくてね、こっちの方…」
環は、自分の胸に手を当てた。
「あー、そっかあ…そうだよね…」
「そこのね…クリニックビルに入ってる心療内科にね、勇気出して行ってみた」
「うん。ママも、一度、行ってみたらって言ってたもんね。で?どうだった?」
「鬱…みたい」
「そっか…」
鬱?私は、その病名が少し腑に落ちなかったが、話の腰を折るのが嫌で言葉を飲み込んだ。
「でも、行って良かった。薬もらったの飲んだら凄く楽になって、良く眠れるようになったよ」
環は、安堵した表情を見せた。
「良かったね。そこの先生、どうだった?」
「男の先生だけど、優しかった。こんなに楽になるなら、もっと早く行けば良かった」
「ずっと、辛かったんだね…」
「そこなら、仕事の帰りにでも行けるし、いいかなって思って」
「うん。今の時代、心療内科を利用している人も沢山いるからね」
「…うん」
「あ、それにしても、この組み合わせ最高だわ。サンドイッチと、コーヒー牛乳って、鉄板!」
私は、話を変えた。
「で、しょ?」
環は、小さく微笑んだ。
私は、環の手を握りしめた。
「大丈夫、大丈夫。また、ゆっくり始めたらいいよ。環なら、大丈夫」
「うん、そうだね。そうする。ありがと、お姉ちゃん」
環は、しばらくぶりに微笑みを見せてくれた。
姉妹っていいもんだと感じた。私たちは何があろうと夫婦のように別れることはない、ずっと環の姉で一緒に人生を過ごしていけるんだと思った。
小さな頃から、父に振り回されて育った私たちは、いつも身体を寄せ合って生きてきた。
これからも、ずっと…。
その後、私の身体は思ったより少しづつしか回復しなかったが、2ヶ月くらいかけて元の状態まで回復した。
環もまた母と暮らすようになり、心も落ち着いてきた様子だった。
そんな時、パパに転勤の内示があった。
1ヶ月後に、正式に辞令が降りるらしい。