極限
「分かりました。そう言うご事情であれば、致し方ないでしょう。お貸しした分の半額を返していただければ結構です」
父の葬儀の日に、借金の告白に現れた紳士は、快く承知してくれた。二郎おじさんが、私たち女3人残された事情や、今後どうして暮らして行くか、などを説明してくれて、借金分を値切ってくれた。そして、二郎おじさんが用意してくれた念書にサインしてくれた。
「…ありがとうございます」
私と二郎おじさんは、昼下がりのビジネス街で、この天井の高いカフェのテーブルを挟んで、その紳士に頭を下げた。
若い私は、その事態を素直に受け入れることが出来ずにいた。
どうして、会ったこともないおじさんに頭を下げて、50万円もの大金を支払わなくてはいけないの?
私の下げた頭の中は、ムンクの叫びの絵画のように不満が渦を巻いていた。
その紳士は、二郎おじさんがテーブルの上に差し出した現金の入った白い封筒を、そそくさと上着の内側のポケットに閉まった。
「ところで…甥っ子は、あなた以外の方にも借金していたのでしょうか?」
二郎おじさんは、その紳士に尋ねた。
「ああ、残念ながら、私の知っている限りで私の他に4人から借りていますよ」
4人?!私は、驚いて目を見開いた。
二郎おじさんは、更に尋ねた。
「それは、貴方と同じように、事業資金が必要だから、と言う理由ですか?」
「ええ、そうだと思います。会社を作りたいから発起人になって欲しいと言われたと思います」
え?本当なの?酒代じゃなくて?
私は、ほんの少しだけ父を見直した。私が思っていたより父は頑張っていたのかも?
「では、その方たちの連絡先を教えていただけませんか?」
「いいですよ。えーっと…」
紳士は手帳を出して、二郎おじさんが差し出したメモ長に手慣れた手つきで書き写してくれた。
「名前と携帯電話の番号です」
紳士は、そのメモ長を二郎おじさんに手渡した。
「ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして。楓さんも、これから色々と大変かとは思いますが、どうか頑張ってください」
「あ、はい。ありがとうございます」
私は、一応、軽く会釈した。
「では、私はこれで…」
と、紳士は席を立った。
私たちも、立って深々と頭を下げて見送った。
男性が見えなくなると、また席に座りなおした。
「楓ちゃん、良かったね。半額で済んだし、変な人でもなかったしね」
「二郎おじさんのおかげです。それと、普通の人でホッとしました。お葬式の日に名刺を渡された時は怖かったけど…」
「この感じからいくと、また半額にしてもらえれば、一人頭50万として、あと200万必要だね」
「そうですね。父の預金から支払えますし、まだ少し余りそうです。二郎おじさんには本当にお世話になってるので、おじさんもここから持っていってください」
「いやいや、私はいいよ。それにまだ余るとは限らないよ」
「そうですけど…」
「楓ちゃん、私の事は気にしなくていいよ。乗りかけた船だから最後まで付き合うから」
「ありがとうございます。心強いです」
「また、私がこの人たちに連絡をしておくから、また楓ちゃんの仕事が休みの日に一緒に会いに行こう」
「本当にすみません。何から何まで…」
「何回も言うようだけど、楓ちゃんのお父さんに世話になった事はないけど、楓ちゃんのおじいちゃんは兄貴だからね。たくさん世話になったんだよ」
「はい、ありがとうございます。私一人では、何をしていいか、さっぱり分かりませんでした」
「あ、そうそう、環ちゃんは元気にしてるか?」
「あ、はい。おかげさまで、今は寝込んでいたのが嘘みたいに元気です。私より元気です」
「そおか、それは良かった。葬儀で一緒に受付した時に少し話したが元気そうだったよ」
「はい、いつも元気になると寝込んでいたのが嘘みたいに元気になるんです」
「そうだってね…。どこが悪いのかな?可哀想にな」
「はい…」
「楓ちゃんもお母さんも苦労するね」
「いいえ…」
「楓ちゃんは、まだ喘息が出るの?」
「今は、ずいぶんとマシになったんですけど、まだ季節の変わり目とか、花粉が酷かったりすると
発作が起きます」
「そうか、スッキリ良くなるといいんだけどね」
「早く、そうなりたいです」
私は、少しため息をついた。
「じゃ、どこかで美味しいものでも食べて帰ろうか」
「はい、すみません」
二郎おじさんは、祖父と10歳くらい離れた弟なので、今は70歳を少し過ぎたくらいだと思う。今は、奥さんと長男家族と同居している。
今は年金暮らしだが、仕事は大工の同僚をしていたので、色が黒く背も高くて御体もいい。少し強面なので、先ほどの紳士も従がわざるを得なかったのかも知れない。二郎おじさんのような親戚が居てくれて本当に助かった。
父のせいで休みの日に、頭を下げて借金返済に回るのは不本意だけど、二郎おじさんのおかげで随分と気楽になった。
二郎おじさんが、お父さんなら良かったのに…
と私は小さい頃から何回も思った。
その後、二郎おじさんに松花堂弁当をご馳走になった。二郎おじさんは、松花堂弁当が好きで、どのお店に行ってもいつも頼む。私は、いつもおじさんと同じものを頼むようにしている。色んなものが入っていて楽しいんだそうだ。食後には、いつもコーヒーも飲むのも習慣だ。
その後、自宅の沿線が違うので、その店の前でおじさんと別れ、私は地下街を一人で歩き出した。
この地下街は、通り慣れた道なので、両側に並ぶ色々なお店を見ながら歩いた。しばらく歩くと携帯が鳴った。
私はバックから携帯を出して耳に当てた。
「もしもし?」
「あ、俺っ」
「ユウくん?」
「楓、今ドコ?」
「今、二郎おじさんと別れて駅の方へ地下街を歩いてる」
「じゃ、駅まで迎えに行くよ。何時くらいに着く?」
「調べてメールする」
「分かった、じゃ、後でな」
「うん」
私は電話を切るとすぐ、到着時刻を調べて彼にメールした。すぐに、了解、と返信が来た。
母にも遅くなるかも、と連絡をいれておいた。
駅に着くと、ユウくんの白のBMWが見えた。
私は小走りで車に近寄った。
「待った?」
「さっき来たトコ」
彼は笑った。
「疲れた…」
と、私は助手席に乗り込んだ。
「どうだった?上手くいった?」
彼は、車を出しながら尋ねた。
「うん。割とすんなり…」
「そっか、よかったな」
「うん。私って、二郎おじさんに限らず、おじさんとは相性いいみたい。なんか、いっつも色んなおじさんに助けられてる気がする」
「それは、楓が美人だからな」
「え?そこ?私、そんなに綺麗じゃないよ」
「十分、キレイだよ」
「そうかな?環の方が綺麗じゃない?」
「環は、可愛いって感じかな。お前は、美人」
「そおかなぁ…。でも、綺麗なら皆んな言うこと聞いてくれるの?」
「まあね。男は皆んなスケベだから」
と、彼は私の胸を触ってニャッと笑った。
「バカ…」
私は、少しムッとして彼の手を振り払った。
「怒らないでよ〜、楓ちゃーん。今日は好きなトコ連れてってやるからさ」
「んーんっ、別に行きたいとこないしっ」
「じゃ、ドライブいこ。海でも見に行く?」
「あ、いいね。海、見たいかも」
「おし、いこお!俺も楓のシモベだから」
「もう!何言っんだか」
「疲れてたら、眠っててもいいよ」
「あ、うん。ありがと」
ユウくんは、いつも明るくて優しい…。
けど、その明るさが、いつの間にか私の心に影を落とすようになっていた。
友達の紹介で知り合った彼は、天真爛漫なタイプだった。その明るさは育ちの良さからくるような気がして…。彼は男ばかりの三人兄弟の真ん中っ子で、祖父母も同居していて彼の家は裕福だ。しかも、家族仲もいい。彼の家に行くと、彼の家族は私に優しく接してくれるが、それが私の家族を否定されている気がしてなんとも言えない疎外感を味わってしまう。私とは違う…。付き合いが長くなればなるほど、徐々に私との距離を広げていっている気がしている。もう五年も一緒に居るのに、私の気持ちは、結局この人には分からない、というネジ曲がった感情が沸き起こる。
私は、真から彼に心を開くことが出来ない。すべてを頼ることが出来ない。
彼には何一つ非はないのに…、私のことをただ大事にしてくれているだけだというのに…。
父の葬儀と、色んな手続きをようやく終えて支払いを済ませて、父のアパートも業者に頼み、丸ごと処分してもらった。後は、父の借金返済の件だけになったが、それも、二郎おじさんのおかげで目処が立ちそうだ。
私のひ弱な身体が、よく保ってくれたものだ。
もう、明日で忌引きが終わる。明後日から出勤だ。
安堵した瞬間に眠気が訪れた。
私は、助手席のシートを倒して、車の天井を見るでもなくボーっと眺めた。
私は、夢を見た。
美味しそうな真っ赤な林檎。
手を伸ばしたら、その林檎は届く距離にあるはずなのに、届かない。
あれ?
私の距離感が、ズレているの?
私は、もう一度、もう少し遠くへ手を伸ばした。
ここにあるはずなのに、やっぱり届かない。
私は、どうしてもその林檎が食べたくなった。
何度も何度も、手を伸ばす。
少しずつ位置を変え、距離を変え、チャレンジした。
しかし、林檎に手を触れることすら出来ない。
「貴女には、無理よ。林檎は手に入らない」
声のする方を見ると、レイチェルがいた。
「林檎は諦めた方がいいわ」
なぜ?
レイチェルまで、そんなことを言うの?
いつでも、私の味方だって言ってくれたのに…。
「諦めることを知ることも大事なの」
え?私…何を諦めるの?諦めなきゃいけないことがあるの?レイチェル?
レイチェルは、パタパタと羽ばたきながら言った。
「すべては自分の思い通りにはならないもの」
そう言い終えるか、終えないうちに、レイチェルはフッと消えた。
私は、レイチェルの消えた場所を目を見開いたまま凝視していた。
それは、車の天井だった。
私は眠ってなどいなかった?
「どうした?楓?」
ユウくんの声で、私は我に返った。
「うううん、なんでもない」
「疲れてるんだろ?眠っていいからね」
「うん。ねぇ、ユウくん?」
「ん?」
「今夜、抱いてくれる?」
「え?あ、うん。いいよぉ、もちろん」
「私、わがまま?」
「いや、そういう楓のツンデレなとこ、俺は好きだよ」
「…ありがと」
その夜、私は激しく彼を求めた。
身体が壊れてしまえばいと思った。
満たされぬ心を身体で無理やり埋めてしまうように、奥の奥まで刺激を貪った。
現実と夢の狭間にある景色が、今の私には一番の正解に思えた。