表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫陽花  作者: 漣 案山子
6/9

禁句

 その日は、朝から雨だった。 

 しかも、生理になった。

 頭痛と腹痛が酷くて、朝食を見ると吐き気がした。それでも、寝込んでいる環と、その世話をしている母のためにも、私が頑張らなくてはという思い一心で、痛み止めの薬を飲んで仕事へ向かった。

 色彩り取りの傘をさして駅へと急ぐ人波にまぎれ、私も傘の下に感情を押し殺し懸命に、前へ前へと代わる代わる足を出していた。

 前方から、一方通行の細い道路にそぐわないスピードの車が人を両脇に掻き分けながら、こちらへ向かってきた。

 私も端に寄って歩いた。

 その車が私の横を通り過ぎようとした時に、タイヤが水溜りにパシャッと音を立ててはまり、泥を跳ねた。

「あっ」

 私のロングスカートの裾に、その泥が飛び散った。

 モスグリーンのスカートは、思ったより目立ちにくかったので少しホッとしたが、私の心のシミは広がる一方だった。


 案の定、一日中、調子が悪かった。

 夕方、なんとか仕事を終えた。

 身体も心もヘトヘトだ。


 こんな日は、運の悪さと、女に生まれたことと、虚弱体質を本当に呪う。

 どうしようか迷ったが、結局、手渡すと約束した10万円を持って、父が入院していると言う病院に来てしまった。

 病院の入院受付で父の病室を尋ねて、部屋の前まで来ると、4人部屋の扉が開いていて、ちょうど手前のベッドへ座っていた父と目が合った。

「やあ、こっち、こっち。来てくれてありがとう。まぁ、ここへお座り」

 私は、父の呑気そうにヘラヘラとした笑顔が許せなかった。

 私が、今日どんな思いで過ごしたか!

「もお!ぜんぜん元気そうね。ホントに具合悪いの?!」 

 私は、父の用意していた椅子にも腰掛けず、ぶっきらぼうに言葉を叩きつけた。

「そう、怖い顔しなくても…。ジュースでも飲んで」

 父はそう言うと、ベッドの傍らに居る私に、ブリックパックに入ったオレンジジュースを渡そうと手を伸ばした。

「要らない!」

 私は、その手を払い除けた。

 その拍子に、オレンジジュースが床に落ちた。

「……」

 父は、黙ってベッドから身体を起こし、それを拾おうとした。

 私は、それよりも早くジュースを拾うと、サイドテーブルの上に乱暴に置いた。

「もう!いや!なんで私ばっかりこんな目に遭うのよ!肝心な時に、環は寝てばっかで何にも助けてくれない。ママも離婚したらパパとは関係ないし!」

「……」

 父は、フーっとため息を吐き、深呼吸した。

「お願いだから、もう私に頼らないで!仕事をする気も無いなら、お願いだから、せめて静かに暮らして!」

 私は、言葉と一緒に封筒に入った10万円をベッドに叩きつけた。

 向かいの年老いた男性の気の毒そうな顔が、私の視界に入った。

 私は、そのまま父へ背を向け、病室を出ると一目散に立ち去った。


 気がつくと電車に乗っていた。

 情けない…やっぱり今日は行くんじゃなかった。自然と涙が溢れてきた。

私は、必死で涙を堪え、吊り革を持つ腕で顔を隠した。

 自宅の最寄り駅前に着いて改札口を抜けると、まだ雨が降っていた。

 素早く傘をさして顔を隠したら、再び涙が溢れ出した。

 ああ、雨で良かった。

 夜の通勤ラッシュ時間はとうに過ぎており、人影もまばらな道は今の私には好都合だった。

 駅から家まで、女の足で25分。その距離も今の私には有り難かった。母と環がいるアパートの前に着く頃には涙も枯れ、私は何もなかったように玄関で靴を脱いだ。

「遅かったね。ご飯食べてきたの?」

 母の声が出迎えた。

「うん、食べて来た。濡れたから、そのままお風呂入るよ」

 嘘をついた。

 お腹も空いてなかった。

「それがいいわ。今日は朝からずっと雨だもんね。ホントに良く降るね」

「うん、空も泣きたい日もあるんだよ…」

「そうだね」

「タマちゃんは?」

「寝てるよ、ずっと…」

「そっか…」

 私は、顔を伏せたまま、そそくさとバスルームへ向かった。


 バスタブに浸かりたかったが、生理だった。

 立ったままシャワーを頭から浴びた。

「ハァーッ」

 全てが流れて行くような気がした。

 今日は、もう誰とも会いたくない。

 彼とも。

 私には、5年付き合っている彼がいた。

 けれど、もう彼を愛しているという感情は無くなっているように思う。惰性で付き合っているというと、そうなのだけど、そんな一言で片付けられるほど単純な関係でも無くなっていた。


 髪の毛をバスタオルで拭きながら、ダイニングに行くと、母が声を掛けてきた。

「楓ちゃん、ちょっと、コンビニ行ってくるから」

「あ、うん。分かった。気をつけてね」

「帰りにドラッグストアに寄るから、ちょっと遅くなるかも」

「りょーかい」

 母は、身軽な格好で出かけた。

 環が寝込んでいると、ゆっくり買い物ができないらしく、母は私が帰ってから息抜きに少し出かけることがある。

 遅い時間で心配だが、いつの間にか慣れっこになった。

 ダイニングの床に座って、ドライヤーで髪を乾かしていたら、お腹が空いてきた。

 炊飯器を開けると、割とご飯が残っていたので、私はお茶漬けを掻き込んだ。

 少し落ち着いたので、早めに寝ようと環の寝ている部屋へそっと入った。1DKのアパートでは、この部屋に3人で川の字に布団を敷いて寝るしかない。

 環は、壁の方を向いて目を閉じていた。

 母の寝床が真ん中なので、私はもう一方の端に布団を敷いた。ついでに母の布団も敷くと、自分の布団に潜り込んだ。

「お姉ちゃん…」

 環は、こちらを向いて声をかけてきた。

「ん?タマちゃん、どうしたの?」

 私は、寝たままの姿勢で、環と顔を合わせた。

「お姉ちゃんは、いいなー」

 今夜は、もう勘弁して欲しかった。

「よくないよ…。なんか今日は疲れた」

 私は、知らぬ間に溜め息を吐いていた。

「でも、外へ行けるし、仕事もしてるし、友達とも会えるし、いいなぁ」

「タマちゃんだって、その気になれば何でも出来るんじゃない?」

「ムリ…身体が固まって動かせないよ」

「そう思ってるだけなんじゃない?」

「違う。本当に本当。動かないの」

 私には、到底理解しがたいことだった。

「じゃあ、今度のお休みに一緒に外へ出てみない?気分転換になるんじゃないかな?」

「そんな事が出来るなら、とっくにしてるよ」

 環は、眉を(ひそ)めた。

「でも、お医者さんも、もうどこも悪くないって言ってるんでしょ?」

「…そうだけど、どうしてもダメなんだもん」

「…そう、それなら寝てるしかないよね。ずっと何もしないで寝てたらいいよ」

「ハァー、誰も分かってくれない。もういいわ」

 環は、そう言ってソッポを向いた。

「タマちゃん、もう、寝よう」

「ずっと寝てるから眠れない」

 ソッポを向いたまま環が太々しく言った。

 私の中で、何かが弾けた。

「私は、好きで出かけてるんじゃないの。仕方なく仕事に行ってるの!」

「それでも、うらやましい…」

「お姉ちゃんは、いつも好きなことして、思い通りに生きてる」

「ハァ?あんたの目はふし穴なの?私がいつ、好きな事ばっかりした?」

「もう、いいよ。お姉ちゃんは、いつもそう」

「なにが?」

「人の言うこと、ちっとも聞かない」

「聞いてるよっ」

「聞いてない!」

「タマちゃんだって、私が外で何してるか全然知らないでしょ」

「分かるわけないし、ここから何処へも行けないから」

「今日だって、どんな思いで…私が、どんな思いで!」

「だから、もういいって!」

「タマちゃんだって、都合が悪くなると、いつもそう…」

「でも、お山の大将のお姉ちゃんよりは、ずっとましだよ」

「もう!タマちゃんなんか、もう起きなくてもいいよ!ずっと一生このまま寝てればいいよ!」

「………」

 私は言ってしまって、ハッとした。

「お姉ちゃんは、トガったナイフだね…」

「…ごめん」

 玄関の鍵が、カチャリと開いた。

 母が帰って来た。

 もう少し、早く帰って来てくれたら…。


 環は、小さな声でつぶやいた。

「死にたい…」


「もう、寝たのー?」

 玄関から、母の声がした。

 

 私たちは、隣の部屋で眠ったフリをした。


 今日は、長い長い最悪の日だった。

 



 






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ