禁句
その日は、朝から雨だった。
しかも、生理になった。
頭痛と腹痛が酷くて、朝食を見ると吐き気がした。それでも、寝込んでいる環と、その世話をしている母のためにも、私が頑張らなくてはという思い一心で、痛み止めの薬を飲んで仕事へ向かった。
色彩り取りの傘をさして駅へと急ぐ人波にまぎれ、私も傘の下に感情を押し殺し懸命に、前へ前へと代わる代わる足を出していた。
前方から、一方通行の細い道路にそぐわないスピードの車が人を両脇に掻き分けながら、こちらへ向かってきた。
私も端に寄って歩いた。
その車が私の横を通り過ぎようとした時に、タイヤが水溜りにパシャッと音を立ててはまり、泥を跳ねた。
「あっ」
私のロングスカートの裾に、その泥が飛び散った。
モスグリーンのスカートは、思ったより目立ちにくかったので少しホッとしたが、私の心のシミは広がる一方だった。
案の定、一日中、調子が悪かった。
夕方、なんとか仕事を終えた。
身体も心もヘトヘトだ。
こんな日は、運の悪さと、女に生まれたことと、虚弱体質を本当に呪う。
どうしようか迷ったが、結局、手渡すと約束した10万円を持って、父が入院していると言う病院に来てしまった。
病院の入院受付で父の病室を尋ねて、部屋の前まで来ると、4人部屋の扉が開いていて、ちょうど手前のベッドへ座っていた父と目が合った。
「やあ、こっち、こっち。来てくれてありがとう。まぁ、ここへお座り」
私は、父の呑気そうにヘラヘラとした笑顔が許せなかった。
私が、今日どんな思いで過ごしたか!
「もお!ぜんぜん元気そうね。ホントに具合悪いの?!」
私は、父の用意していた椅子にも腰掛けず、ぶっきらぼうに言葉を叩きつけた。
「そう、怖い顔しなくても…。ジュースでも飲んで」
父はそう言うと、ベッドの傍らに居る私に、ブリックパックに入ったオレンジジュースを渡そうと手を伸ばした。
「要らない!」
私は、その手を払い除けた。
その拍子に、オレンジジュースが床に落ちた。
「……」
父は、黙ってベッドから身体を起こし、それを拾おうとした。
私は、それよりも早くジュースを拾うと、サイドテーブルの上に乱暴に置いた。
「もう!いや!なんで私ばっかりこんな目に遭うのよ!肝心な時に、環は寝てばっかで何にも助けてくれない。ママも離婚したらパパとは関係ないし!」
「……」
父は、フーっとため息を吐き、深呼吸した。
「お願いだから、もう私に頼らないで!仕事をする気も無いなら、お願いだから、せめて静かに暮らして!」
私は、言葉と一緒に封筒に入った10万円をベッドに叩きつけた。
向かいの年老いた男性の気の毒そうな顔が、私の視界に入った。
私は、そのまま父へ背を向け、病室を出ると一目散に立ち去った。
気がつくと電車に乗っていた。
情けない…やっぱり今日は行くんじゃなかった。自然と涙が溢れてきた。
私は、必死で涙を堪え、吊り革を持つ腕で顔を隠した。
自宅の最寄り駅前に着いて改札口を抜けると、まだ雨が降っていた。
素早く傘をさして顔を隠したら、再び涙が溢れ出した。
ああ、雨で良かった。
夜の通勤ラッシュ時間はとうに過ぎており、人影もまばらな道は今の私には好都合だった。
駅から家まで、女の足で25分。その距離も今の私には有り難かった。母と環がいるアパートの前に着く頃には涙も枯れ、私は何もなかったように玄関で靴を脱いだ。
「遅かったね。ご飯食べてきたの?」
母の声が出迎えた。
「うん、食べて来た。濡れたから、そのままお風呂入るよ」
嘘をついた。
お腹も空いてなかった。
「それがいいわ。今日は朝からずっと雨だもんね。ホントに良く降るね」
「うん、空も泣きたい日もあるんだよ…」
「そうだね」
「タマちゃんは?」
「寝てるよ、ずっと…」
「そっか…」
私は、顔を伏せたまま、そそくさとバスルームへ向かった。
バスタブに浸かりたかったが、生理だった。
立ったままシャワーを頭から浴びた。
「ハァーッ」
全てが流れて行くような気がした。
今日は、もう誰とも会いたくない。
彼とも。
私には、5年付き合っている彼がいた。
けれど、もう彼を愛しているという感情は無くなっているように思う。惰性で付き合っているというと、そうなのだけど、そんな一言で片付けられるほど単純な関係でも無くなっていた。
髪の毛をバスタオルで拭きながら、ダイニングに行くと、母が声を掛けてきた。
「楓ちゃん、ちょっと、コンビニ行ってくるから」
「あ、うん。分かった。気をつけてね」
「帰りにドラッグストアに寄るから、ちょっと遅くなるかも」
「りょーかい」
母は、身軽な格好で出かけた。
環が寝込んでいると、ゆっくり買い物ができないらしく、母は私が帰ってから息抜きに少し出かけることがある。
遅い時間で心配だが、いつの間にか慣れっこになった。
ダイニングの床に座って、ドライヤーで髪を乾かしていたら、お腹が空いてきた。
炊飯器を開けると、割とご飯が残っていたので、私はお茶漬けを掻き込んだ。
少し落ち着いたので、早めに寝ようと環の寝ている部屋へそっと入った。1DKのアパートでは、この部屋に3人で川の字に布団を敷いて寝るしかない。
環は、壁の方を向いて目を閉じていた。
母の寝床が真ん中なので、私はもう一方の端に布団を敷いた。ついでに母の布団も敷くと、自分の布団に潜り込んだ。
「お姉ちゃん…」
環は、こちらを向いて声をかけてきた。
「ん?タマちゃん、どうしたの?」
私は、寝たままの姿勢で、環と顔を合わせた。
「お姉ちゃんは、いいなー」
今夜は、もう勘弁して欲しかった。
「よくないよ…。なんか今日は疲れた」
私は、知らぬ間に溜め息を吐いていた。
「でも、外へ行けるし、仕事もしてるし、友達とも会えるし、いいなぁ」
「タマちゃんだって、その気になれば何でも出来るんじゃない?」
「ムリ…身体が固まって動かせないよ」
「そう思ってるだけなんじゃない?」
「違う。本当に本当。動かないの」
私には、到底理解しがたいことだった。
「じゃあ、今度のお休みに一緒に外へ出てみない?気分転換になるんじゃないかな?」
「そんな事が出来るなら、とっくにしてるよ」
環は、眉を顰めた。
「でも、お医者さんも、もうどこも悪くないって言ってるんでしょ?」
「…そうだけど、どうしてもダメなんだもん」
「…そう、それなら寝てるしかないよね。ずっと何もしないで寝てたらいいよ」
「ハァー、誰も分かってくれない。もういいわ」
環は、そう言ってソッポを向いた。
「タマちゃん、もう、寝よう」
「ずっと寝てるから眠れない」
ソッポを向いたまま環が太々しく言った。
私の中で、何かが弾けた。
「私は、好きで出かけてるんじゃないの。仕方なく仕事に行ってるの!」
「それでも、うらやましい…」
「お姉ちゃんは、いつも好きなことして、思い通りに生きてる」
「ハァ?あんたの目はふし穴なの?私がいつ、好きな事ばっかりした?」
「もう、いいよ。お姉ちゃんは、いつもそう」
「なにが?」
「人の言うこと、ちっとも聞かない」
「聞いてるよっ」
「聞いてない!」
「タマちゃんだって、私が外で何してるか全然知らないでしょ」
「分かるわけないし、ここから何処へも行けないから」
「今日だって、どんな思いで…私が、どんな思いで!」
「だから、もういいって!」
「タマちゃんだって、都合が悪くなると、いつもそう…」
「でも、お山の大将のお姉ちゃんよりは、ずっとましだよ」
「もう!タマちゃんなんか、もう起きなくてもいいよ!ずっと一生このまま寝てればいいよ!」
「………」
私は言ってしまって、ハッとした。
「お姉ちゃんは、トガったナイフだね…」
「…ごめん」
玄関の鍵が、カチャリと開いた。
母が帰って来た。
もう少し、早く帰って来てくれたら…。
環は、小さな声でつぶやいた。
「死にたい…」
「もう、寝たのー?」
玄関から、母の声がした。
私たちは、隣の部屋で眠ったフリをした。
今日は、長い長い最悪の日だった。