決別
一瞬、目を疑った。
「おまえは!おまえは!あっち行け!!あっち行けぇ!」
普段は上品な祖母が、豹変しているのを見た。
祖母は、庭で愛犬リックを庭箒で何回も掃くように殴打していた。
「キュン…キュン…キューーン…」
リックは、悲しそうな控えめな声を上げた。
祖母が動物を嫌っているのは知っていたが、まさかこんな事をするなんて…。
日曜日の朝、遅く起きた私は、トイレに行こうと庭に目を向けたときに、目に映った衝撃の光景だった。
「やめてっ!おばあちゃん!」
私は、咄嗟に叫んでいた。
祖母は、ハッと私に気付き、私を見て何もなかったように笑顔を作った。
「おはよう、楓ちゃん」
「…おばちゃん、いま…いま」
「え?おばちゃん?何もしてないよ」
祖母は、明らかにシラを切った。祖母のやり場のない感情が、こんなところに…。私は、それ以上言うのを止めた。
私に、言う資格ないよね…。
おばちゃんは、何食わぬ顔をして俄かに箒で落ち葉を掃くフリをした。
私は、3日前に堕胎していた。
彼の子を身篭れば、父もきっと彼との結婚を許してくれるはず。そう信じていた。
が、予想は見事に外れることになってしまった。
「18歳で、しかも高校生で子供を産むなんて、絶対に許さん!お前は、なんてふしだらな娘なんだ!」
父はそう言って、散々私を侮辱し、叩いたあげく、彼と彼の両親を自宅へ呼びつけ、子供は堕ろさせるから、もう二度と娘に会わせない、別れさせると誓わせた。
次の朝、私は両親に連れられて、自宅から遠く離れた産婦人科へ連れて行かれ、処置を受けた。
「ごめんね…ごめんなさい。こんなことになるなんて…私の赤ちゃんなのに…守ってあげられなくて…」
私は自分の浅はかさと、罪悪感で消えて無くなってしまいたかった。
彼にも失望した。父に反論してくれるものと信じていたのに、あっさり別れる事を承諾し、その後も何の連絡もくれなかった。
私は自暴自棄になり、父に当てつけるように高校を中退した。全てがどうでもよかった。
ある夜、自室のベッドの上で何を見るでもなくボーっと天井を眺めていると、白いものがふわっと飛んでパタパタと羽ばたいた。レイチェルだ!
「大丈夫?」
「会いたかったよ〜、レイチェル…。どこにいたの?」
「ずっと居たよ。貴女のそばに」
「そうなの?でも、ぜんぜん現れてくれなかったね」
「ごめんね。人間にはいつでも見える訳ではないのよ」
「どうしたら見えるの?」
「うーん。説明が難しいんだけど…なんて言うか、貴女の波動と空間のゆらぎとの絶妙なタイミングで、私は現れることができるの」
「なんか、分かんないな…」
「それは、私の力では無理なの?」
「そう。もし、貴女が自分でその波動を出せたとしても、いつもその空間のゆらぎとピッタリ合うとは限らないから」
「ふーん。でも、私が自分の波動をコントロール出来たとしたら、確率は増えるよね?」
「ま、そうだけど。難しいよ」
「今、私、暇だらけだから練習してみようかな?」
「それもいいかもね」
レイチェルは、微笑んでくるりと一回転した。
「ところで、楓。いつまでそうしているつもり?」
「だって、何もする気力がないんだもん」
「どうして?」
「未来が見えないの…」
私はため息をついた。
「未来はね、作るものなんだよ」
「作る?」
「そうよ。自分で作ることが出来る。人は自分の思い通りにならないもの。だけど、自分は自分の思い通りに出来るんだよ」
と、レイチェルはニッコリ微笑んだ。
「そうか!そうだよね。自分で出来ることをしてみればいいんだね」
「やらなくて後悔するより、ぜんぜんいいと思うよ」
「分かった、私やってみる!」
「がんばれ!」
「ありがとう。見ててね、レイチェル」
「もちろん!いつも見てるからね。楓なら、きっと大丈夫!」
そう言って、レイチェルはフッと消えた。
それから、私は独学で勉強して大学検定に受かり、高校卒業資格を取得した。
そして、進学する気のなかった私は、若者向けの洋服店で働き出した。
私は、レイチェルの言う通り、私に出来るだけのことをした。
環の方は、3か月の入院を経て、中学へ通い出し、担任の先生の協力もあり、ゆっくりと授業に追いついていくことが出来た。
家族は、胸を撫で下ろした。また、誰もが環を以前にも増して腫れ物扱いした。彼女が欲しいと言ったものは全て買い与え、彼女のほとんどのワガママは通った。部活は、運動部はハード過ぎてついていけず、文化部に席を置いて、幽霊部員で過ごした。環の希望で、書道、茶道、ダンス、テニス、ピアノと色んな習い事もしたが、どれも長続きはしなかった。母曰く、身体がついていかないんだそうだ。私には、それだけではないように感じられた。
父も、私には何かある毎に殴ったが、環がどんなにワガママを言っても一度も手を出したことはなかった。
実際、環は私のように楯突いたり、暴言を吐いたりすることもなかったのだが…。
そして、中学を無事に卒業し、公立高校へ進学できた。環は、成長するにつれ女優のように美しい女性へと変貌していった。
そんな矢先、祖父が倒れた。
心筋梗塞だった。
少し前より兆候はあった。入院先の主治医は、覚悟しておくようにと険しい顔で、家族に伝えた。
次の日、私は勤めが終わると、真っ先に病院へ向かった。
病室は、個室だ。扉を開けると、ベッドの傍らで座っていた祖母が言った。
「楓ちゃん、来てくれたよ」
「ああ…来てくれた…か…」
祖父は、重そうな瞼を開けて私を見た。
「…おじいちゃん」
「おじいちゃん、家へ帰りたいな…」
祖父は、弱々しい声で呟くように言った。祖母は、ひと筋流れた涙を隠すように、片手で涙を押さえた。祖父母は、戦果のような家族の中で唯一、仲睦まじかった。お互いに寄り添うように生きていた。私は、必死で泣きそうになる自分を抑えた。
「明日、帰れるよ、おじいちゃん」
私は、言った。
「やっぱり…家がいいな」
祖父は、静かに瞼を閉じた。
次の日、仕事から帰ると、念願叶って祖父が自室で寝ていた。
「おじいちゃん、おかえり。良かったね」
私は、枕元に座った。
「うん。やっぱり家はいいよ」
おじいちゃんは、嬉しそうに微笑んだ。思ったより元気そうでホッとした。
「今晩は、ゆっくり眠れそうだよ」
「病院は、寂しいし、落ち着かないもんね」
「まったくな。食事も美味くないしな」
「だよねー。今日から好きなもの食べれるね」
「そうだな、何食べようかな?」
その時、襖が開いた。環が部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん、帰ってたんだね」
「うん、さっきね」
「ママが、ご飯食べようって」
「仲良く、食べておいで。おじいちゃん、疲れたからちょっと寝るよ」
「あ、ごめんね、おじいちゃん。じゃ、ごはん食べてくるから、ゆっくり休んでね」
2人は、そっと部屋から出た。
祖父は、細く微笑んでゆっくり目を閉じた。
明る朝…祖父は静かに息を引き取った。
父は、最後まで祖父に謝ることはなかった。
そして、お葬式の間中、喪主にも関わらず飲んだくれていた。なんとも締まらないお葬式で、私はやるせない気持ちになった。たぶん、私だけでなく、そこに居た誰もがそう感じたに違いない。