雨雲
神はいる。
暗雲の立ち込める日常にも、時折、陽の差し込むような出来事を絶妙に織り交ぜてくる。まるで、スパイスの効き過ぎた辛めのカレーライスを食べた後の、ティラミスのように。
三年前に、我が家に子犬がやってきた。
名前は、リックと父が名付けた。雄で、犬種は柴犬。シュッしたイケメンで、家族はたちまち虜になった。ただ一人、祖母を除いては…。
リックと生活するようなってから、幾らかは父の酒乱がマシになったように思う。タマちゃんも六年生になり、あの時のような完全不登校をすることもなく過ごせていた。たまに行けない日もあるが、何日も続くようなことは無くなっていた。
ただ、最近は少し元気がない。それは、この冬を越すと親友が私立の中学へ進学してしまうからだ。私たち姉妹は、奇しくも同じ十字架を背負う事になってしまった。ただでさえ、中学校という壁は、小学生にはとてつもなく高い。憧れよりも、不安の方が強いのに。けれど、私は、思っていたよりも早く中学へ馴染めたので、妹もそんなもんだろうと思っていた。
私は、自転車で共学の公立高校へ通っていた。
仲の良い女友達もクラスに2人出来て、相変わらず身体は虚弱体質で、喘息の発作や、アトピー性皮膚炎は続いていたが、身体が大きくなるにつれて体力もつき、まあまあ楽しく過ごせていた。学校の帰り道に、友達とファストフードに寄ったり、お菓子をたくさん買い込んで友達の家でおしゃべりするのが幸せだった。
初めての彼氏も出来た。実は、なぜだか中学の後半頃から急に異性にモテるようになった。小学校のころは陰気で何事にも引っ込み思案だった私だが、徐々に明るくなってきてそれが原因で好転したのかも知れない。
こんな穏やかな日がいつまでも続きますようにと、私は祈りながら毎日を送っていた。
私は、家庭で満たされなかった欲求を外に求めるようになっていった。
しかし、神がいるように、この世には、やはり鬼もいた。
咲き誇った桜の花が、やがて道の上をカーペットのようにピンクに染めて、いつの間にかそれが綺麗に無くなり、代わりに、ツツジの花が道路の脇を飾るようになった頃。
タマちゃんが入院した。
また、以前のように不登校になってしまったのだ。2度目の不登校だった。中学の全校朝礼でグラウンドに集まった際、そこで倒れ、母が迎えに来て家へ帰ったのが始まりだった。
家族の誰もが、もうそうならないように腫れ物に触るように、大事に大事に環に接していのに、一番恐れていた事態になってしまった。
今度は、以前にも増してひどい状況だった。
身体も以前より大きくなっていたし、中学生なので思春期でもある。
妹は、また寝室の布団から出られないでいた。思い通りにならない悔しさからか、諭し宥める両親や祖父母に抵抗するように、二階の階段の上から色んなもを手当たり次第放り投げ出した。椅子や、掃除機などの大きいものまで投げた。
その奇行は、何度も何度も続いた。
その度に、家族は投げられたものを二階に運び元通りに片付けた。
「こんなに身体が調子悪いのに、私の気持ちは誰も分かってくれない!」
と、叫びながら…。
それで、医者の薦めで、一度精密検査をした方がいいと言うことで入院した。
結果は、起立性蛋白という診断で、寝ている時は大丈夫なのだが、立ったり動いたりすると尿にタンパクが大量に出てしまう病気だそうだ。
だが、その原因は分からなかった。誰もが、きっと親友と離れて不安なまま中学校に入学し、これまでと違って規則正しい規律の元の集団生活だし、なかなか馴染めなかったのが原因だろう、と感じていた。環は、誰よりもデリケートで繊細な子供だった。
我が家に、再び重苦しい空気が漂い、また一気に暗雲が立ち込めた。
父は、色んなことを全て母のせいにして母を罵倒し、喧嘩が絶えず、また父は酒乱の日が多くなった。また祖父と父の喧嘩も再燃し、祖母もなす術もなく、ただ頭を抱えながらただ日常を過ごすより他になかったようだ。
私は、再び訪れてしまったこの地獄のような家庭から逃げ出してしまった。外に捌け口を見つけてしまった私は、次第に家から離れるようになった。学校から帰る時間をなるべく遅くしたかったので友達の家や彼と毎日のように会い、夕食も外で済ませ、ただ寝るだけに家に帰るようになった。彼は3つ年上で、大工の見習いをしていた。収入もあったため、高校を辞めて早く彼と自分の家庭を持ってもいいとさえ考えるようになった。
実際、ほとんど勉強もしなかった私は成績も下がり、次第に落ちこぼれるような状態になった。
当然、未成年でそんなに遅い時間に帰ると、ひどく叱られた。父は、彼が気に食わなかった。
「あんな男のどこかいい?」
「パパは何に知らないくせに!なんでそんなに彼を嫌うの?」
「おまえこそ、何も分かってない!こんな時間まで高校生の娘を引っ張り回して、遊ばれてるのが分からんのか!」
えらい剣幕で、私を殴った。
「そんなこと絶対ない!彼の方がパパよりもずっと真面目に仕事してる!飲んだくれて私に手をあげることもない!」
実際に、その通りだった。父より私の事を大事にしてくれたし、優しかった。彼と居る方が楽しかったし、未来も見えた。
私は父に反抗し、全く聞く耳を持たなかった。大卒の父や祖父を見ても、少しも幸せそうに見えなかった。学校を卒業して得られる幸せを、描くことがとうしても出来なかった。
私は、どんどん、家族から、学校から離れていってしまった。
ある日、私は妹の入院している総合病院の小児病棟に、一人でお見舞いに来た。
「タマちゃ〜ん」
6人部屋の病室の入り口の一番奥の左側のベッドで、上半身を起こして座っている環を見つけ、手を振りながら声をかけた。
「お姉ちゃん!」
環は、ニッコリした。
私は、環のベッドの傍に置いてあったパイプ椅子に腰掛けた。
「元気そうだね」
「うん」
「お姉ちゃんが来てくれるの、初めてだね」
「ごめんね、ぜんぜん来れなくて…」
「この病院は不便なところにあるから仕方ないよ。でも、来てくれて嬉しい」
「これ、タマちゃんの好きなやつ」
私は、袋に入った天津甘栗を手渡した。
環は、袋の中身を覗き込んで言った。
「わー、栗だ!ありがとう」
「消化が悪いからいっぺんに食べないで、ちょっとずつ食べてね」
「分かった〜」
環は、ニッコリ微笑んだ。
私は、環の笑顔を久しぶりに見た気がした。
「お姉ちゃん、高校は忙しい?」
「う〜ん、忙しくはないんだけどね…。なんだか家に帰りたくなくて…。忙しいフリしてるんだ」
「パパは、また飲んで暴れてるの?」
「うん、まぁ、相変わらずね…。ウチは、パパさえまともだったら普通の家庭なのにね。諸悪の根源だよ、アイツは」
「でもね…タマちゃん、パパのことちょっと分かる気がする…」
「またぁ…なんであんなやつの肩を持つかなぁ。タマちゃんとパパは違うって!」
「……」
「どうしていつも繰り返すのかなぁ。アル中なのかな?やっぱり…」
私は深いため息を吐いた。
「そんなことより、タマちゃんは、どう?具合は?」
「うん。まあまあ、かな」
「そっか。病院には慣れた?」
環が入院してから、もう約1か月位経っていた。
「うん。院内学級に行っててね。そこでいっぱい友達が出来たよ」
「そうなんだ。それは良かった」
環は、ずいぶん落ち着いている様子だった。
「でもね…。昨日、院内学級で元気だった子が、今日は、面会謝絶になってたんだぁ…」
「そっかぁ。ちょっと疲れちゃたのかな?早く良くなるといいね」
「うん…。この前もね、違う子なんだけどね、同じようなことがあったんだ」
「そっかぁ…皆んな病気なんだもんね…」
「それが…その子は、それから面会謝絶が3日くらい続いて…。その次の日に、部屋のドアが開いてたから除いてみたら、何も無くなってて…ベッドも綺麗になってて…」
環はそう言って、枕を抱えてうつむいた。
「そっかぁ…。それは、つらかったね…」
「うん…」
私は胸が張り裂けそうになって、言った。
「私たちは、まだマシだね…。全然マシだね。頑張らないといけないね…」
「がんばってるんだけどね…タマちゃん…」
「ごめん、ごめん、頑張るのは私だよ。タマちゃんは、病気を治すのが仕事だよ。出来ることだけすればいいんだよ。今は、まず病気をしっかり治してね」
「治るのかなぁ…」
「もちろん、治るよ!きっと、治る」
私は、環に彼と一緒に暮らそうと思っていることを話そうと思っていたが、とても言えなくなった。
ふと窓を見ると、いつの間にか雨が窓ガラスに当たって流れていた。当たっては流れ、当たっては流れる雨を、私はしばらく眺めていた。
「お姉ちゃん、雨が降って来ちゃったねー。止むまでゆっくりここに居たら?」
「そうだね。ゆっくり居るよ」
「もう少ししたら、夕食の時間だから一緒に食べよ」
「うん。久しぶりだもんね。下の売店で何か買って来るから一緒に食べよ。お菓子も食べよっか?」
「やったぁ!」
「売店行った時にママに電話しとくから、面会終了時間まで一緒に居よう!」
「うん。えへへっ」
環は、嬉しそうに笑った。環が笑うと、私も嬉しかった。ずっとこうやって笑っていれるといいのに。贅沢は言わないから、せめて穏やかに過ごしたい。環が、ずっとずっと笑っていられますようにと、私は、幾重にも折り重なった雨雲の隙間を探すように願った。
光が差す気配もない空に向かって…。
そういえば、レイチェルはどこに行ったんだろ?なぜ、近頃は現れてくれないんだろ?
今でも、私の側に居てくれているよね?
会いたいな…レイチェル。