芽出し
「ただいまー!」
ハッちゃんは、元気いっぱいに自分家の玄関の扉を開けた。
彼女は、小学校6年になった今までずっと一緒に帰っている親友で名前は、初子だ。でも、中学は、私立のお嬢様学校へ行くことに決まっている。私は、近くの市立中学校に行くので、もうすぐ離れ離れになってしまう。
最近の私は、すごく寂しい気持ちでいっぱいだった。
「お帰りなさーい」
と、ハッちゃんのお母さんが玄関まで出て来た。
ハッちゃんのお母さんは、いつも明るくて、ハッちゃんと同じくらいハツラツとしている。
「楓ちゃんも、お帰りなさい。今日は、家庭教師の先生が来る日だから、また違う日に遊びに来てね」
「あ、はい」
私は、そう答えて軽く会釈すると、ハッちゃんにバイバイと手を振った。
ハッちゃんは、玄関で靴を脱ぎながら、私に同じようにバイバイして、家へ上がって行った。
私は駆け足で、家路に急ぐフリをした。
我が家との距離は、角を曲がって100mほどだ。
私は、ハッちゃんの家の方が自宅より近くにあって良かった、といつも思う。
ほどなく、自分の家の前に着いてしまった。私は、一旦、深呼吸をしてから言った。
「ただいまー」
案の定、返事はなかった。
勝手口の引き戸を開けると、台所の奥から怒鳴り声が聞こえた。
あ、また、か…。
私の家は、なんでこんななんだろう。
とうして、一緒に帰ってきた初子ちゃん家みたいに、いつも笑顔のお母さんが出迎えてくれないんだろ…。
私は、意気消沈しながら靴を脱ぐと、ランドセルを背負ったまま、ひっそりとした台所を通り抜け、それに続く居間の扉をそおっと開けた。
「おお!帰ってきたか、帰ってきたかぁ!可愛い楓ちゃんのお帰りだぁー」
明らかに普通のテンションではない。
片手に一升瓶を抱え、もう一方の手に湯呑みを持ち、頭に手ぬぐいを巻き付けた、だらしない下着姿の父が私を出迎えた。
「ろおだ!学校は〜らのしかったか?」
呂律が回っていない。
私は返事をせず、父の姿を見ないふりをして、通り過ぎようとした
背後に父が罵声を浴びせた。
「おーい!楓しゃんは、耳が聞こえらくなっちゃったろかな?父親に返事も出来んのか?」
私は、無性に怒りが込み上げてきた。
「うるさい!あんたなんかパパじゃない!」
あー、また言ってしまった…。
「なんらとぉ〜!それが父親に向かってゆー言葉か!バカもん!」
「あー!うるさい!うるさい!うるさい!バーカ!」
「なにおー!!」
父は、ひょろっと立ち上がると、持っていた湯呑みを壁に投げつけた。
入っていた日本酒がそこら中に飛び散り、湯呑みは二つに割れた…。
「やめてよ!もお、情けない!何もかも全部あんたのせいよ!」
私は、父を睨みつけ、全ての怒りを父にぶつけた。
「おまえは、そおやって、いつも減らず口ばかりたたくな〜」
父は鬼の形相で、その言葉尻と同時に私の頭のあたりをいきなり殴った。
小学校六年の私は、ランドセルごとふっ飛んで、タンスに思いっきりぶつかって倒れた。
「なにするのよぉ!」
私は、勢いで肩から外れたランドセルを父に向かって投げ返した。ランドセルは、父には当たらなかった。
その時、茶の間の扉がガラッと開いた。
「やめなさい!!」
祖母が、慌てて奥の部屋から出てきた。
父は、罰が悪そうに座り直し、新しい茶碗を戸棚から出して来て、一升瓶の酒をそれに注いだ。
「楓ちゃん、二階に行きなさい…」
祖母は、投げたランドセルを私に手渡しながらそう言った。
「ママと、タマちゃんは?」
私は、祖母に尋ねた。
「一緒に二階に居るよ、さあ…」
祖母は、私の背中をやさしく押しながら促した。
祖母は、居間の扉を静かに閉めた。
俄に、奥の部屋の扉が空いた。
「おかえり、楓」
額に大きな絆創膏を貼った祖父が、優しく声をかけた。私は、祖父にそっと駆け寄り、小声で尋ねた。
「おじいちゃん、その傷、大丈夫?」
「ありがとう、おじいちゃんは大丈夫だよ」
おじいちゃんは、そう言って微笑んで言葉を続けた。
「もうちょっとしたら、パパは疲れて寝ると思うから、二階で宿題しとくといいよ」
「…分かった」
私はそう言って頷き、階段を登って行った。
おじいちゃんは、昨日の夜、父と殴り合いの喧嘩になって、エキサイトした父が、応接室にあるガラスの灰皿で祖父の額を殴ったのだ。父と祖父は、性格も全然違い、普段から馬が合わないらしく、何かと喧嘩が絶えない。
私は、昨夜、ただただ怖かった。
父は、その後、また飲んだくれ、次の朝も会社に行かず、この有り様らしい…。流血騒ぎは初めてのことだった。
階段を上り切って、いつも寝ている和室の襖をスーッと開けると、妹の布団が敷いてあり、環が横たわって眠っていた。その傍で添い寝していた母が私を見つけると、体を起こしながら小さな声で言った。
「おかえり」
「ただいま」
私も小さく答え、その横に座り言った。
「…タマちゃん、大丈夫?」
「うん、さっき寝たよ」
「タマちゃん、何で良くならないのかな?」
小学校2年生の環は、もうかれこれ2ヶ月くらいも学校を休んでいた。今で言う「不登校」だ。でも、ここまで長く学校を休んだのは初めてだ。私は、すごく心配だった。けれど、環に付きっきりになる母をいつも見て、頭では分かっているのに、環に嫉妬していた。
「そうだね、お医者さんは、もうどこも悪くないって言っていたんだけどね。やっぱり精神的なものなのかなぁ…」
母は、そう答えて、小さく
ため息をついた。
「パパは、朝からあんな感じ?」
「そうなのよ。本当にダメなパパだね」
母は、いつもより一回り小さく見えた。
父と母の間もまた、喧嘩が絶えない。父は、仕事ストレスや、妹の不登校の原因を母のせいにして、それを母にぶつけることが日課のようになっていた。唯一、同居の祖父と祖母は、仲睦まじかった。
「ランドセル、置いてくる…」
私はそう言うと、直ぐに立ち上がり、足早に隣の自分の部屋へ向かった。涙が頬を伝っていた。母に見つからないように、何でもないふりして背中を向けたのだった。私は自分の部屋の扉を閉めると、自分の勉強机に突っ伏して、静かに泣いた。針の筵だった。
いつまで、こんな事が続くんだろ?
父は仕事が上手くいかないらしく、5年くらい前から飲んで暴れるようになった。
母や、口答えする私や祖父には、暴言をはき、暴力を振るった。大体、ひと月に一回くらいは、こんな日があるのだ。俗に言う「酒乱」っやつ…。普段は飲まないのだが、営業の仕事をしているので、飲まない訳にはいかないらしい。ある一定の酒量を超えると「酒乱」になるみたいだ。
もともと酒の弱い体質みたいで、すぐに避けぬ飲まれてしまう。最近は、頻度が増えて来たように感じる。
父が、もしも職を失ったとしても、我が家は、祖父が自宅で司法書士事務所をしているので、すぐには困らないくらいの蓄えはあった。父は、それにも甘んじているように私には見えていた。
しばらくして、部屋から出て隣の和室の襖をスーッと静かに開けた。もう、母は居なかった。
「…お姉ちゃん?おかえり」
私は、タマちゃんを起こしてしまった。
「タマちゃん、大丈夫?」
私は、そっと布団の中の5歳年下の妹の傍に腰を下ろして顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃんは、いいなぁ。いつも学校に行けて。私は、なんで行けないのかな?」
タマちゃんは、泣きそうなほど弱々しく言った。
「タマちゃんだって、行こうと思えばいつでも行けるんじゃない?」
私は諭すように言った。
「私はムリ。だって固まってるもん」
「固まる?」
「うん。身体が、固まって動かないから」
タマちゃんは、私の目をじいっと見上げて言った。
「気のせい…じゃない?」
「誰も信じてくれないけど…ほんとに動かせないもん…」
そんな事あるはずない。環は、学校に行きたくないからそんなことをいつも言ってる。私は、少し苛立ちを感じた。
「私は、タマちゃんの方がいいよ。いつもママと一緒に居られるし」
「でも、つらいよ。すんごく…」
私は、胸が苦しくなった。幼い私は、胸に無数の重りを抱えて潰れそうなほど膨らんでいた。
「パパも、あんな感じだし…。タマちゃんは、辛そうだし…ね。早く良くなるといいね」
「でも、わたし…パパの気持ち、ちょっと分かるよ」
「何言ってるの。パパとタマちゃんは、全然違うよ!パパは、最低ー」
「でも、やっぱりタマちゃんは、分かる気がする…パパのこと」
「なんで?」
「きっと、パパも…」
そう言うと、環は口籠もってしまった。
「………。」
私は、何も言えなかった。
パパも?って?なに?それ?
きっと!学校に行きたくない理由があるんだろう。友達と何かトラブルがあったってママから聞いたし。
私は、訳の分からない事をいう環に、疲れてきた。家庭もこんな風だと、精神的におかしくなるのも仕方がないのかも知れない。
「ねぇ、タマちゃん。明日、お姉ちゃんと学校行ってみよう?」
環は、私の言葉を聞くや否や、ガバッと布団に潜り込んでしまった。
私は、その夜、喘息の発作を起こした。
小児喘息と診断を受けたのは、幼稚園の頃だったと思う。私は、俗に言う虚弱体質だった。喘息の他にも、アトピー性皮膚炎の持病があった。アトピーは瞼の裏や、耳の中や、舌の上にも出来るので、いろんな箇所が悪くなる。
口の中が爛れた時には、何も食べられずに入院したこともある。
かかりつけ医は近所の内科で、優しいおじいちゃん先生だった。私は先生が大好きだった。山中先生は、小児喘息は、辛いけど…大きくなったら治るからね、といつも励ましてくれた。苦しくて一晩中、眠れない日も多いけど、発作が起こると薬を飲んで、しばらく座っていると治まる日もあった。薬でも治らない日は、点滴をしてもらった。
すると、すごく楽になる。
この喘息の持病のせいで、私は普段から子供らしくはしゃぐことが出来なかった。はしゃぐと胸がゼーゼーと苦しくなってしまうので、できるだけ大人しく過ごすように気をつけた。
私は、皆んなが羨ましかった。皆んながしてるように一緒に心ゆくまではしゃいでみたかった。
それでも、運動やスポーツは大好きだった。はしゃぐのとは呼吸の仕方が違うのか?運動をしても発作を起こすことはなかった。発作を起こすのは、はしゃいでしまった時か、眠る時に横になる時か、風邪をひいてしまった時のように思う。
その日の発作は、クスリを飲んで、いつものように座布団を高く積んでもらって、そこへもたれて座って居ても、ぜんぜん治らなかった。
母は、心配して時々隣に来て背中をさすってくれるが、それでも治らなかった。母も眠いので、さすがに明け方近くはぐっすり眠っていて、皆んなの寝息のスースー言うのを、ずっと聞いていた。あんなに疲れた顔をしていたタマちゃんも、飲んだくれの父親でさえも…。いいなぁ、皆んなみたいに私もぐっすり眠りたい…、そう思って涙が出た。
私は、どうして、こんなに身体が弱いんだろう?もうツライよ。私は、何か悪いことをしたのかな?だから、こんなに毎日どこかが悪くなるのかな?私なんか生まれて来なければ良かった。そう心が叫んだ。
その時、突然、私の目の前に、天使が現れた!
白い幽体のような…大きさは、ほんの15cmほどのミニのワンピースを着て背中には立派な2つの羽が生えていて、パタパタと優雅に飛んで、クルクルって美しく回転した。
私は、ぜいめいで話すことが出来ず、心の中で
問いかけてみた。
「貴女は、誰ですか?」
「私は、レイチェル」
不思議と、私の意識の中に、その天使の言葉が聞こえる。また、問いかけてみた。
「レイチェル?どうしてここに来たの?」
「私は、貴女の味方。貴女が辛い時、私は側にいるよ。貴女にしか見えないよ」
「…ありがとう。嬉しいよ。ずっとそばにいてくれる?」
「もちろん!私はね、見えない時の方が多いと思うけど、ずっとそばに居るから安心してね」
天使は、そう言ってニッコリ微笑んだ。
「うん」
「でも、私の事は誰にも言ってはいけないよ。
言ってしまったら、もう会えなくなってしまうからね」
「分かった」
「貴女は、ちっとも悪くなんかないよ」
「…ありがとう…ありがとう…ありが…」
私は、ずっとお礼を言いなから静かに涙を流した。すぐにレイチェルは、消えてしまった。
でも、私は、すごく救われた気がした。
その後も、明け方まで眠ることは出来なかったが、不思議と心はあったかかった。
そして、その朝、父は濃紺のオーダースーツをパリッと着込み、何もなかったような顔をしてネクタイを締め、私の顔を見るとこう言った。
「気をつけて、いってきなさい」
「………。」
私は、言葉を発することが出来なかった。
普段の父に戻って、出勤していった。
私は、駅へ向かう父の後ろ姿に届きそうなくらいの嫌悪を身体に巻きつけて、心の中で怒号した。
「おまえは、ジキルとハイドか!マジシャンかっ!」