違和感
紫陽花の 花言葉 知ってる?
「移り気」
それは、紫陽花って、根から吸い上げる成分によって、花の色が変わるからなんだって
咲いている最中でも変わるみたい
他にも、小さな花がひしめき合って咲いているように見えるから
「家族」
って 言う花言葉もあるみたい
それから 花の色によっても 違う花言葉があるんだって
ピンク色は
「強い愛情」
青色は
「無常」
妹は、死んだ。
この日に狙いを定めるように、自ら命を絶った。
ご主人の、息子の、友人の、母の、私の、誰の誕生日にも重ねず、何の記念日でもない、その真新しいページを選ぶように…。
きっと、真夜中の妖精レイチェルに、導かれてしまったに違いない。
自家用の白いスポーツカーの中で。
自宅近くの運動公園の、誰もいないだだっ広い寂しげな駐車場で、運転席のシートを少しだけ倒し、ほんの少しうたた寝するような格好で、そのまま冷たくなっていたそうだ。
一緒に残されていたのは、普段持ち歩いていたバッグと、お気に入りのメーカーの缶入りジンジャエールだけ。ジンジャエールは、運転席のドリンクホルダーに半分以上も残してあった…。
特に目立った外傷もなく、顔も美しいまま で…。
小春日和になるはずの今日…私の誕生日から、わずか一週間後のこと。
黎明が、まだ目を覚ます前に、その知らせは届けられることになる。
真実は、月だけが知っていた。
どうして、大切なことは、いつも後から…。取り返しの付かなくなってから分かるんだろうね、レイチェル…。
「お姉ちゃん、最後に、ママに会いに来たよ。やっぱりママが好きだから…」
その夜の妹からの電話は、いつもよりあっさりとクライマックスを迎えたように感じられた。携帯越しの環の声色は、昨日より随分と落ち着いて聞こえた。
「タマちゃん、今、どこ?」
「今、ママのマンションの前に着いた…」
母は、父と死別してから、高齢者用に造られたマンションのワンルームの一室で細々と一人暮らしている。
妹のマンションから、車で10 分くらいの距離で。
カチン…カチン…
ゆっくりと、車のサイドブレーキを引く音が微かに聞こえた。
「車?」
「そう、車で来た。今からママに会いに行って来る」
私は、携帯電話の向こうからの妹の言葉に、ホッとした。今夜は思ったより早めに解放されそうだ。
同時に、こんな夜更けに起こされなくてはならない母のことをとても気の毒に思った。
母は、週6日、9時から夕方の6時まで、工場の軽作業をして働いてる。還暦を八年前に迎え、もう70台に手が届きそうな歳になっていた。
妹には、双極性障害の持病がある。
今は、その「鬱」の状態で、そうなると決まって自殺願望が芽生える。
そして、その自殺願望は、環が結婚して母となり、その息子が、小学校低学年になった今も続いている。鬱症状になったときには、必ず連絡が何回も来る。今回は、相当に拗らせていた。鬱状態がなかなか治らず…二月前には、会いに行って何日間か母の家に泊まり込んだ。そして、一旦は少し良くなったものの、もうかれこれ3ヶ月くらいは具合が悪そうだった。私には言いたくないことがあったのだと思う。何かがあった、と思う。
いままでで、一番長く鬱状態が続いたのは、半年も続いた。その時の半年間は、今回とは違いほぼ寝たきりだった。
けれど、また「躁」状態に移行してしまうと、これがまたやっかいで、誰も手が付けられないほどの興奮状態になる。
ドーパミンが出っ放しの状態になるのか?眠らなくても大丈夫なほど元気で、誰もついて行けないくらいにハイになる。その時は、人の言うことは一切聞かず、自分の思うままに全ての事を成してしまう。加えて、躁状態の時は自覚が全くなく、金遣いも荒くなり、その度に私にお金の無心をしてくる。最近では、他人にも迷惑をかけてしまっているようだ。
困ったものだ。
私は、鬱状態のときも、躁状態のときも、妹に振り回される。妹の都合だけで始まるこの手の電話は、もう何十回…いや、何百回受けただろう。ひょっとすると、何千回に達しているかもしれない。環の正常な状態の時と、躁状態のときでは、見分けがつきにくい時が多いけど、果たして「正常」な状態の時は、どのくらいあるのだろう?
振り回される私たちも大変だが、彼女はもっと大変なはすだ…。
それほど迷惑をかけられても、私は環のことが好きだった。5つも年下の環は、とても可愛かったし、環は病気なんだから、私が守ってあげないといけないんだという気持ちもあった。私にとって、環は、妹であり、家族であり、友達でもあった。普通の精神状態の時の環は、良く気がつき、社交的で、そして、お人好しだった。
2人で居ると、実際にすごく馬があった。友達なんかいらない、と思うほどに仲良しだった。そして、それと同じくらい鬱屈した嫉妬の念も抱いていた。
現在は、2人とも家庭を持ち、私は旦那の転勤で、名古屋に住んでいるから、会うことはかなり減り、その分、電話やSNSでのやり取りが多くなっていた。
「分かった…環。ママによろしくね」
と、私はとりあえず妹の行動を肯定した。
眠かった。
このところ、精神状態が不安定な環からの電話が、昼夜問わず引っ切りなしにかかっていた。
私は、家事と小学生の娘二人の育児とパートを抱え、それでなくても疲弊していた。
鬱状態の環からの電話で、私の心と体は悲鳴をあげ、ボーダーライン寸前にまで達していた。
今夜は一刻も早く、お布団に潜り込んで眠りたかった。
「お姉ちゃん?」
「ん?」
「今、何時?」
「えーっと、もうすぐ日にちが変わりそうな時間だよ」
「そっかぁ…」
「ママに会ったら、早めに帰ってあげてね。優くんだって明日は学校なんだから」
「もう帰らない!」
「何言ってるの!子供みたいなこと言わないで」
「もう…優とは、お別れは済んでるから」
「何てこと言うの!もう、いい加減にして!大体、環はいつも…」
「分かった!分かった!分かった、分かった、分かった…。お姉ちゃんには、ほんとに負けるわ」
環は、私の言葉を遮ってそう言った。
「じゃあね。ばいばい、お姉ちゃん…」
環の声が、さよならを告げた。
私は、いつもどうしてこんな物言いしかできないんだろ?
ああ、けど、眠れる…。
これは、いつもルーティーンなのだ。そう、かれこれ三十年以上もエンドレスなのだから。きっと、また明日か、数日後に、死にたい、から始まる電話が鳴るんだろう。
「おやすみ、タマちゃん」
私は、これ以上、話を長引かせたくはなかった。
そして、いつものようになんの躊躇いもなく電話を切った。
母に会えば、環もきっと落ち着くはず。
今夜は、もう安心だ。
私は、足早にリビング横の寝室へ向かった。我が家は3LDKのマンションの6畳の和室に、川の字にお布団を並べて家族4人で寝ている。そっと襖を開けると、家族がそれぞれに小さな寝息を立てて眠っていた。
良かった。誰も起きていない。
私は、一番手前の自分の寝床の枕元へ携帯を置くと、その柔らかな布団に滑り込み、すべてを暗闇に放り投げ、私はすぐに眠りに落ちた。
その、わずか数時間後、携帯の着信音がまた鳴った。
また、環だ…。
深い眠りの静寂を切り裂く不快なメロディなのに、それでも私の身体は柔軟に反応する。まるでパブロフの犬みたいに。
寝ボケ眼でも、器用に画面をスライドさせて、携帯を耳に当てると、
いきなり的外れな声が聞こえた。
「恩田です。環が亡くなりました…」
遠い意識の端っこで、環の旦那さんの声がした。
「………建人君?」
「はい…」
「え? なに? ほんとう…に?」
「はい、残念ながら…」
その声は、徐々に私の核心にまで響いた。
昨夜の私の予測は大きく外れ、有無を言わさず環の無と初対面することになった。
「…近くの公園の駐車場で…車を止めて…。行ったときにはもう…もう、冷たくなっていました。今度は…いつもの様子とは、違いました…」
完全に目覚めた私は、まるで観念した少女のような返事をした。
「…うん」
顎と手が小刻みに震えた。
「警察に連絡しました」
それを告げなければならなかった寡黙な建人君の苦痛の声が、何故か薄っぺらく喉の奥に貼り付いた。
「…分かった。なるべく早く、そっち…行くね。…建人くん、大丈夫?」
ようやく絞り出した私の声は、上手くそれらを隠せていただろうか?
「…大丈夫です。義姉さんも、お気をつけて」
「…ありがとう」
私と違って彼の声はとても冷静で、すでにある程度の覚悟と共にあるように感じた。
けれど、とても疲れた声だった。
その後、何と言って電話を切ったのか覚えていない。
振り向くと、隣で寝ていたはずのパパが、異変に気付いて布団の上で正座していた。私は、携帯を握りしめたまま今の短い電話の内容を旦那に伝えた。
眠っている娘たちを起こさぬように、パパはゆっくりと、ただ頷いた。
誰も、もうそんなには驚かないのかも知れない。
予行演習が、念入りに行われていたから?
彼女の自殺未遂を知らされる度に、渦巻いた数々の莫大な感情が、その都度、薄められていっていたから?
人間って、慣れるんだね、レイチェル。
どんなことにもね。
いつの間にか、震えは治まっていた。
スヤスヤと寝息を立てて眠っている2人の娘の寝顔を、私は斜めに見た。
気がつくと、私は一人で新幹線に乗っていた。
無我夢中で記憶が途切れることってあるんだ。これが気が動転しているって言うのかな?
始発の新幹線って、思ったより人がいるもんなんだな。
妹と私の距離は、おおよそ500kmほど。
遠いよなぁ、やっぱり。
私の頭は、昨日の環と話した電話の内容を反芻していた。
あの電話の後で、環は母と会ったのだろうか?
そもそも、妹は、あの時、本当に車内で一人っきりだったのか?誰かと一緒に乗っていた可能性だってある!
あの妹が、こんなにもあっさりと人生の幕を下ろすなんて…。私の頭は、数々の違和感を浮き出し始めた。
車の中で、本当は建人君と一緒にいたとか?いや、知り合いと?それとも、私の知らない誰かと居たとしたら?
どれもあり得ない話ではない。
そう言えば、昨夜の電話があっさりと終わった事を思い出した。その同乗者がいるならば、その人は、私との電話の最中に、咳もせず、クシャミもせず、息を潜めて、妹の車に居たのだろうか?
いや、実は、妹は助手席に座っていて、その違う誰かが運転していた可能性だってある。
私はきちんと聞くべきだった。一体、死因は何だったんだろう?
私の妄想は、とてつもなく膨らみそうな勢いを見せたので、一旦、視線を別のところへ移した。
おや?自分のクリーム色のカーディガンに赤色のシミが付いているのを見つけた。両手をそっと座っている太ももの上で、甲の方を向けて広げて見た。すると、左手の小指の赤切れに、まだ固まりきれていない赤い血があった。
私は悪くない。
悪くないよね?レイチェル?
新幹線がトンネルに入る時の特有の走行音がした。
ファーーン、ホォーーーン、フゥーーーーン。
私は、自分の意識から飛び出した偽善者の言葉の意味を、携帯で検索した。




