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春は北からやて来る  作者: 石倉栄治
3/3

うまくいかない人生、仕事  生きにくさを感じているすべての人へ送る応援歌


一〇

 

その日のうちに信越線、長野新幹線と乗り継いでアパートまで帰ってきた。ドアを開けて電気をつけると熱帯魚たちが上の方に集まってくる。太郎左衛門たちにただいまを言ってえさを一つまみ撒いてやる。そのころには隣の部屋のケージからばたばたと羽音が聞こえてくる。隣の部屋を開けて電気をつける。

「帰ったよー、ちーちゃん」

 ケージのふたを開けてやるとさっと飛び立ち、電灯の周りをくるりと回ると、肩にとまった。

「長い時間お留守番させて悪かったね」

指で首筋やのどをなぜてやると気持ちよさそうに首を長くする。水とえさ、小松菜をケージにセットして下の新聞紙を変えてやる。家庭用の自動餅つき機に米と水、それに少しの塩をセットしてスイッチを入れる。ほっと吐息をついて畳に座った。餅を薄く延ばし、かき餅を作り焼いてみようと思っている。机替わりにしているコタツの上に成田さんの造った半年もののたまり醤油と、今日もらってきた魚醤二種類を出した。部屋の隅に丸めて置いてある大きなグラフ用紙を出してきた。これはB全版という一メートル×七〇センチのグラフ用紙だ。横長に置いて、一〇センチごとに鉛筆で線を引き、正方形の升目を作った。升目の下に一〇:〇から〇:一〇までの数字の列を二つつくった。一つはたまり醤油と魚醤を入れる分。もうひとつはたまり醤油とお魚エキスを入れる。ビーカーを二二個、出してきて並べた。横で餅つき機から水蒸気が上がり始めた。もち米を炊いているのだ。文鳥がそこに突っ込むと、気管や肺をやけどするのでケージに入れた。

 メスシリンダーにまずたまり醤油を一〇cc注ぎ、ビーカー二つに入れた。次に九cc、八ccと注いでいった。次にお魚エキスのビンを開け一ccから順番についで行く。魚醤も同じようにやる。ガラスの棒で丁寧にビーカーの中身をかき混ぜた。水を入れたやかんとグラス、そしてポリバケツを用意する。餅つき機から振動音が聞こえてきた。すぐにつきあがるだろう。

 目をあけるとぼんやりと蛍光灯の丸い電球が見えた。旅行の疲れが出て居眠りをしたみたいだ。時計を見ると午前一時を回っていた。餅もつきあがったことを示すオレンジ色のランプに変わっている。バットの上にサランラップを引き、片栗粉を振って、餅がくっつかないようにしてから上に餅を載せた。ちょっとつまみ食いをする。塩味がうっすらと効いてなかなかうまい。そう言えば腹が減っている。もう一口食べる。もう一口。きりがなく、実験用のものがなくなってしまいそうなので食べるのをやめた。手に水をつけてから、丁寧に薄く延ばしていった。上から包丁で切り目を入れる。これでしばらく乾燥させてばいい。乾燥した餅を焼きさらに醤油をつけて焼いてみるつもりだ。さらに餅つき機に米などをセットしててから、顔を水で洗って口をゆすいだ。顔を両手の平ではたいて気合を入れてから、ガラスの棒を一番端のビーカーに入れて軽く回した。上に引き上げるとそのしずくを舐めてみる。舌で味わって、やかんから水をグラスに注ぎそれで口をゆすいでバケツに捨てた。この前、成田さんの倉で味わったたまり醤油の味だった。一回ごとに口をゆすぎながら、さらに順番に味わっていく。お魚エキスのほうはなかなか味の違いが出てこない。魚醤も試してみる。何回かじっくり味わってみた。魚醤のほうは八:二あたりで、たまり醤油の味に深みと香りがいいバランスで出てきた。ほぼ思ったとおりの味になってきた。もう一息だ。九:一から七:三の間をさらに八.九:一.一というふうに分けてビーカーに作った。ヒーヨ、ヒーヨ。気がつくと外でヒヨドリが鋭い声で鳴いている。窓の外は紫色になってきていた。夢中でやっているうちに、いつのまにか時間が過ぎていたようだ。

 組み合わせを変えて、味見をしてやっとこれだという物ができた。もちろんこれをつけて焼いたり、揚げたりすると味が変わる。水分が蒸発する分味も濃くなる。だからその味の周辺、一〇種類のビーカーを残した。できたー、できたぞ。うーんと伸びをして横になった。心地のいい疲労が頭の芯でキーンという音を立てている。

 昼近くまで畳の上で眠っていた。体の痛さと、ものすごい汗で目がさめた。外ではセミがけたたましく鳴いている。やかんから水を一杯飲む。餅つき機をあけて出来上がっていた餅をかじる。太郎左衛門たちやちーちゃんにご飯をやって、餅つき機にまた餅をセットした。この醤油にみりんと砂糖を混ぜるのだが、これがまた無限の組み合わせがある。分量もだが、砂糖にもいろいろな種類がある。たとえば、白砂糖、黒砂糖、三温糖など。この自宅の実験室ではそこまで追求するのは不可能なので、この分量は、今、売り出している本当においしいせんべいと同じにすることにした。ヒット商品のパリセンはちょっと甘辛く味付けがされ過ぎて癖が強すぎるからだ。たたき台としてノーマルな物を作ってそこから発展させていけばいい。一〇種類のビーカーにそれぞれ砂糖とみりんを入れてよくかき混ぜた。かき餅を一度オーブンで軽く焼く。お好み焼きのソースを塗るのに使う刷毛を出してきて、せんべいのように焼けた餅に塗ってもう一度オーブンに入れる。醤油を焦がしたようないい匂いがしてくる。わずかに磯の香りがする。三回塗って焼いてを繰り返してからひとつ食べてみる。ぱりぱりと噛むと焼いた醤油の香りが濃厚に口の中で広がる。思ったとおり、深みのあるそれでいてまろやかなたまり醤油の特徴が引き立っている。わずかに海苔巻せんべいのような磯の香り。うめーなー。ひとつ食べると押さえが利かなくなり、次から次に食べてしまった。気がついたら最初に焼いた分はもうなくなっている。これが本当にやめられない味だな。ひとつ食べるとほんのりといい香りが口の中に残り、もう一つ、もう一つと手を出してしてしまう。味もくどくなく、たくさん食べてもあきない。これはいいな。

それから夢中で餅を焼いた。オーブンを頻繁に使い出すとやたらと部屋の中が暑くなってきた。汗が流れ落ちてきて目にはいる。腕でぬぐうと今度はあごから落ちる。エアコンはあるが普段はつけない。仕事に行っていたりして昼間、部屋の窓を閉めきっているときに文鳥たちのために弱めにつけているだけだ。基本的にけちなのだ。子供のときにひどい経験をして、どんなに困っても誰も助けてくれないという恐怖が頭に染み付いている。だからいざこうなったらといろいろな悪い状況を想像すると、ついお金は蓄えに回してしまう。社内預金は金利がいいので限度目一杯の給料天引きをしている。それにあわせて持ち株会にも入って、これも補助金が出るので限度目一杯している。残ったものは郵便局に入れている。男一人、会社とアパートの往復ではほとんど使う金はない。このアパートも会社の補助金が出ている。それでも今の部署に移ってから誘われればみんなと飲みに行ったり、ご飯を食べたりするようになったほうだ。そんなわけで普段、家にいるときは窓を開けて網戸にしているのだけど、今日はカーテンがそよとも動かない。あまりの暑さにとうとうたまらなくなってエアコンを入れた。ブーンという音とともに心地のいい乾燥して涼風が吹き出してくる。汗まみれになった顔を洗ってまた机替わりにしているコタツにもどってきた。袋に醤油の比率を書いた。自分としては七.八:二.二の組み合わせがいいと思う。そこでその醤油を五〇〇cc作った。砂糖、みりんを混ぜ、残りの餅全部をそれで焼いた。背中も首も腰もバリバリに痛い。最後のせんべいをオーブンから取り出した。かなりの量のせんべいが出来上がった。湿気ないように冷めたものから袋に入れる。気がつくと外で鳥が鳴いている。時計を見ると朝の四時になっていた。このまま眠ったらもう起きれそうもなかった。風呂に二日間入ってなかったのでシャワーを浴びることにした。ぬるめにして体と頭を洗い、床に座り込んで少し熱めのシャワーにうたれる。このまま眠ってしまいたい気持ちを振り切って風呂を出た。眠気はあったが悪い気分ではない。テスト勉強を徹夜でしてテストの日の朝を迎えたような、気力の充実した、いい気持ちだ。


 月曜日、今週もまた始まる。少し早かったが、このまま部屋にいると眠ってしまいそうだったので朝ごはんを食べて、出来上がったせんべいの袋をお気に入りの若草色のリュックに入れて出勤した。朝、七時半の工場横の小道。すでににぎやかに鳴き始めたセミと、朝の訪れを喜んでいる鳥たち。人はまだほとんど歩いていない。工場の裏手にある僕たちの部屋がある小さな建物も、今は木々の中で息を潜めるようにひっそりとたたずんでいる。しんとした建物の中に入り、眠っていた建物を揺り起こすように電気をつける。湯を沸かし、掃除を始めた。時間があったので今日は窓も拭き、サッシのごみも取る。それが終わると各机の上にあるパソコンのディスプレーの画面を乾いた布で拭いて回った。今週もみんなを助けてくれよ。いろいろな情報を映し出して、提供してくれるこのディスプレーはみんなの心強い相棒だ。八時半を過ぎるとみんなが来はじめた。いつもの週初めのように、休日の疲れを少し残したような顔でみんなが次々に出勤してくる。 

一〇時を過ぎたころ僕はみんなに、昨日作ったせんべいの大きな袋を出して見せた。

「これ、今回行ってきた所の調味料を使って作ったせんべいなんですけど、よろしかったら食べてみていただけませんか」

 みんながソファーのところに集まってきた。

「ほう、並木君はこんな物作れるんだ」

「室長、そりゃそうでしょ。こいつはこの前までそういうところで働いてたんですから」

「でも、自分のうちでせんべいをつくちゃうなんてちょっとすごいな」

 みんなが口々にそんなことを言いながらせんべいを取ってくれる。大隅係長はせんべいを光にかざしたり、香りをかいだりしてから慎重に口に入れた。

「なーみちゃん、なかなかいいな、これ」

 大隅係長のその一言でほっと僕の緊張が解けた。

「ほんと、おいしいですねえ。こんな物が家で作れるんですねえ」

「おい、おい、なみちゃん、こんな特技があるんなら早く言ってくれなきゃ。今度、彼女に持っていってやろう」

「菅ちゃん、相変わらず物で釣ってるのか。俺みたいに男の魅力でついてこさせなきゃな」

「大隅さん、そっちの袋に確保してるのなんですか。まさかこれから受付にいる志穂ちゃんや美加ちゃんに、あげに行くんじゃないでしょうね」

「大場君、そのように細かいこと気にしているからもてないんだよ」

「大隅係長もマメですよね。でも確かにうまいな、これ」

 椿山さんも気に入ってくれたみたいだ。いつのまにかせんべいで大きく膨らんでいた袋は、かなり小さくなっていた。

「おい、おい、みんな。もうなくなってきたじゃないか」

「だって、佐伯室長、これ、一度食べ出したらやめられないんですよ」

「確かにいくら食べてもくどくないし、あきないよ」

 菅野さんにしては素直な感想をくれた。

「しかしな、なーみちゃん。これはせんべいだから、腹にたまるよ。いくらでもと言っても限度がある」

「大隅係長、さすが営業の意見は鋭いですね。じゃあ、軽いスナック菓子のようなものにこういう味付けをするって言うのはどうですか」

「確かにそうなんだがな、椿」

 ちょっと息をついて再び大隅係長が話し出す。

「スナック菓子というのは不思議なもので、塩味以外なかなか受けないんだ。いろいろトライしてみたんだがな。スナックに味を吸い込みすぎてくどくなるからなのかなあ」

「そうなんですか」

 椿山さんはちょっと驚いたような顔で大隅係長を見た。

「なるほど、そういうもんですか。大隅さんもやるときはやるんですね。ちょっと見直しました」

「あのですね、安達チーフ。私はいつもやっています」

「あっはは」

 月曜の朝だというのに部屋の中が明るい雰囲気に包まれる。まるで新商品開発の会議をしているような雰囲気だ。

「あーあ、もうなくなっちゃったよ」

「大場、おまえ食べすぎなんだよ」

「菅野さんだって」

「俺はおまえみたいに二個も三個もいっぺんに口の中に入れてないぞ」

「だって、こうやって食べたほうがうまいんですよ」

「まったく、食い意地張ってるともてないぞ」

 いつもながらこの二人のコンビの掛け合いは楽しい。この部屋のムードメーカーとしてなくてはならない存在だなと思う。

「あの、佐伯室長」

「う、なんだ、並木君」

「これが作ったサンプルなんですが、一度、研究開発室のほうに提案してみていただけませんか」

「なんだ、自分の古巣なんだから自分で行けばいいじゃないか」

「菅野さん、並木はこの部屋からの提案ということにしようとしてるんですよ」

 相変わらず椿山さんにはかなわない。この丸い穏やかな顔の下に、どれだけの思慮深さと包容力と、そしてパワーを秘めているのだろう。

「ふーん。いいとこあるねえ、なみちゃんも」

「ここでの仕事を通して作れたものですから。それに僕、あそこの室長、苦手なんですよ」

「なーみちゃん、俺がもっていってやるよ。俺の提案ですって」

「大隅さんならやりかねませんねえ」

「勘弁してくださいよ、安達チーフ。冗談ですよ、冗談」

「しかしねえ、並木君。私がこれをハイと渡してもうまくは説明できないよ。何しろ人事畑が長かったから」

「では、大隅係長。お願いします」

「そうだろう、やっぱり。室長、お供しますよ」

 各袋に書いた比率の意味と作った過程を説明した。

「だけど、そんな説明したら、後はこっちでやりますってことになるでしょ」

「そう、そう。アイデアだけ取り上げて自分の手柄にするとか」

「なあ、菅野君、大場君。俺を誰だと思ってるのよ」

「いや、女の敵」

「ただのエロおやじ」

「こら、こら、二人ともなんということを言うんだ。俺はこう見えても凄腕営業マンだったんだぜ。なーみちゃん任せとけって。うまくやるよ。アイデアだけを取られるようなことはしないぜ」

「よろしくお願いします」

 佐伯室長と大隅係長は生き生きとした表情で部屋を出て行った。クレーム処理も大切な仕事だろう。ここに来るまで、毎日、毎日こんなにたくさんのクレームや意見、問い合わせが寄せられているとは、まったく考えもしなかった。でも、やはり新しい物を作るということは特別な気持ちの高揚感がある、本当に楽しい作業だ。改めてそう実感していた。


 昼ごはんをみんなと一緒に社員食堂で食べ、少し昼寝をしようと外に出た。

「並木さーん」

 後ろから女の人に声をかけられた。会社で女の人に声をかけられるなんで初めてのことで、心臓がどきどきと速くなった。振り返った。夏のまぶしい光の中に立っていたのでよく顔が見えなかったが、うちの制服を着た女の人がゆっくりと建物から出てくるところだった。やがて明るいところに出てきて顔が見えた。大隅係長が冷やかされるときにいつも話題になる、浅田志穂さんが建物の入り口から出てくるところだった。両手にはコーヒーの紙コップを持っていて歩きにくそうだった。

「こんにちは」

 こちらからも近づいて行って挨拶をした。自分よりも少し年下だとは思うが、髪の長いきれいな人だ。紙コップが入ったアイスコーヒーを一つ渡された。

「これ、僕に」

「そう、おせんべいのお礼。おしかったわ。ご馳走様」

 浅田さんと日陰のベンチに並んで座った。アイスコーヒーが冷たくて美味しい。

「こんなに美味しい物が作れるなんて並木はすごい。うちの部署に置いておくのは宝の持ち腐れ、会社の大損だって言ってたよ、あの人」

「そんなことないですよ。でも、大隅係長がそんなこと言ってくれるなんて意外だな」

「あの人並木さんたちの部署でなんて言われているんですか」

「まあ、いろいろ」

「口が悪いから自分も結構いわれているんでしょ。私たちのこととかも」

 ちょっと悲しそうな顔になった。

「ええ、まあ。でも人気者ですよ、大隅係長は」

「あの人ああ見えて営業ではかなりすごかったんです。同期の中で一番出世。大抜擢されて第三営業部部長」

「部長?」

「並木さんはうちの社員だったので知ってるでしょ。エーススーパーのこと」

「ええ」

 あいまいにうなずいた。あれは五年ほど前だっただろうか。神戸に本社を置く、小売業、国内売上高最大のエーススーパーから取引の打ち切りをされ、その後一切の東京製菓の製品は納入できなくなった。新聞でも大きく取り上げられ、株価もストップ安が何日も続いた。かなりの打撃だっただろうが、そのころの並木はそんなことはまったく興味がなかった。興味があったのは自分が作る味や香りのことについてだけだった。実際、部屋の中にいる限りでは、何の影響もなかった。

「きっかけは本当に小さな出来事だったの。あることでクレームを受けた。それをエーススーパー担当の若い社員が、軽く考えて忘れてしまっていた。そして営業にかかってきたお叱りの電話も行き違いで、担当者に伝わらなかったの」

「営業の部署って忙しいんでしょ、結構ありがちなことだと思うけど」

「そうだけど、普通はそんなことありえないというような行き違いが重なったの」

 そのときちょうど女子社員が電話に出ると、卑猥なことを言うようないたずら電話が頻繁にかかってきていた。そのことで中にいた女の人はかなりぴりぴりしていたらしい。

「そして再びかかってきたお叱りの電話で、折り返し電話しろと言ったのがわからなかったのかとか、あんたの所の社員はみんなばかばっかりだというようなことを言われ、ついその女の子も言い返しちゃったの。大きな傘の下で威張ってんじゃないわよと」

「そんなことで」

「あわててお詫びに行ったのだけど、話しが上に上にいちゃって」

「そう言えばあそこは創業した人がまだ会長で、すごくワンマンなんでしょ」

「ええ、最後はその人がうちと取引するなと言ったらしいわ」

「それでー」

「大隅さん、その責任を全部一人で引き受けちゃったの。たまたまその直属の部長だっただけ。課長が責任取るのか部長か、その上の本部長か、重役か。誰が何の基準で部長だって決めたのかすごくあいまい。でも、自分で責任は俺にあるなんて言っちゃって」

「へえ、そうなんだ」

 そんなまっすぐな正義感の塊の人のようには見えなかったので意外だった。

「それで出された辞令は二階級降格。新設されて間もなかったお客様相談室行き。つまり辞めろってことね」

「ぼくみたいに」

「あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの」

「ははは。いいんですよ」

「しばらくして離婚したの、部長」

「結婚してたんですか、大隅係長」

「社内結婚だったらしいわ。こんなこと言っていいのかどうか分からないけど、社内結婚する女の人の気持ちって打算があると思うの。この人と一緒になって将来どうなるのかを想像する」

「それは誰でもそうじゃないのかな」

「同じ会社にいるんだから余計そういうことが見えると思うの。この人出世しそうだなとか、部長くらいにはなるんじゃないのかなとか。そうなったときの具体的な待遇もわかる訳だから、将来の自分たちの生活も思い描きやすいでしょ」

「そんなもんなのかな」

「その奥さんは勝ち馬にのったって感じがあったんじゃないかと思う。だって部長は二〇代後半で結婚したらしいけど、そのころにはもう完全に同期の人たちから頭一つ抜けていたらしいから。新規取引先の開拓記録はいまだに破られてないらしいわ」

稲光を見たようにあっと思った。その話なら聞いたことがある。取引先にどんどん商品を押し込む。売り方も工夫して、小売店に自ら出向き店頭販売も手伝う。アルバイトの女の子も雇って笑顔で商品の宣伝をさせたり、試食させたりと言う、今でいうキャンペーンガールのはしりのような事まで個人のアイデアで行なっていた。目新しいこの売り方が受け、その人が担当していた地域だけ局地的に、ある商品が飛び抜けて売れると言う現象が何度も起こった。新規取引先の月間、年間の開拓記録はいまだに社内で更新した者がいない等。並木たちにとっても開発した新商品が売れるのはありがたいことなので、たびたびその人のことが話題になった。それが今の大隈係長?当人を目の前にしながらまったくそれに気がつかなかった。それが本当なら大隈係長こそこの部署にいるのは、会社にとって大損ではないか。

「その人がいきなり二つも階段を滑り落ちて係長に降格。それがすべてではないかもしれないけど、結局つらいときにいっしょにいてあげれないというのは、そういう見方をされてもしょうがないんだと思うな」

「そうあってほしくないけど」

「部長がそうまでして守った第三営業部は、その後の経営縮小で分解されたの。メンバーも希望退職でほとんどが自ら出て行ったわ。担当だった若い人も、直属の係長も、課長も。そして、当時の営業担当の最高責任者、常務の秋田だけが出世した」

「今の副社長?」

「そう。最後の交渉に失敗して帰ってきたやつ。その責任を部下に押し付けて自分だけいい子になったやつ。あんなやつが次期社長候補だなんて、この会社も傾くはずね」

「何でそんなに詳しいんです、浅田さん」

「私、当時営業部にいたから。電話を取って言い返した子はもう退職しちゃったけど。担当だった若い人、結構やり手でね、電話を取った子と付き合ってたんだけど、私もあきらめられなくて彼のことで張り合ってたの。だから、部長の奥さんのこと打算だ、勝ち馬に乗っただとえらそうに批判できないんだけどね」

「大隅係長が伝説の人だとは知らなかったよ」

「だから、あの人のこと悪く言わないでね」

「あの人はみんなに人気があるよ。僕も大隅係長のこと好きだし」

 僕がそう言うと浅田さんは夏のひまわりのように、にっこりと笑った。


一一


翌日、三時を過ぎたとき突然、電話が鳴った。みんなの手が一瞬止まった。しかし、すぐに内線電話の音だとわかり、それぞれのことをまたやり始める。

「ハイ、お客様相談室、並木です」

「お疲れ様です。こちら受付の浅田です」

「はい」

「並木さん宛に安西様がお見えです」

「安西…」

 浅田志穂さんは声をひそめていった。

「とてもお若い、かわいい方ですよ」

「はあ…」

 僕は受話器を置くと受付へと向かった。外は今が一番暑い時間だろう。セミがにぎやかに鳴いている。太陽の光が強烈で、気のせいか景色が黄色がかって見える。安西さん、若い人。こんな僕に若い女の子が何の用だろう。事務関係や営業などが入った、正門に一番近い五階建の大きく長い建物に、裏側の工場からの通用口から入って、受付の裏側のドアを開けた。

「ラッキーセブンですよ」

 そう言うと、浅田さんはウィンクまでした。七番というと衝立で仕切られただけの一般の面会室ではなく、中庭が見える個室の立派な応接室だ。何でと思ったが、すぐに浅田さんの好意だと気がついて、ありがとうと言った。これも大隅係長のおかげか。深呼吸を一つしてノックをする。知らない人と会うときはどきどきとする。

「失礼します」

 向かいであわてて立ち上がる気配があった。顔をあげると確かに若い女の子が向かいに立っていた。まっすぐに見つめてくる目に見覚えがあった。誰だっけ。どっかで確かに会ってるんだけど。

「あっ、あの、つばめさんの」

「すみません、お仕事中にこんなところまで押しかけてしまって」

 この子は確か安西由紀子とつばめが言っていた、僕が始めて店に行ったとき髪を切るように誘ってくれた若い店員だった。黒色の制服を着ているときも一番若く見えたが、私服姿の安西由紀子はより幼く見える。襟が白で薄いブルーでノースリーブの涼しげなワンピースを着ている。いつもは髪を後ろできっちりまとめているが、こうは肩くらいまでの長さの髪を下ろしている。それにふっくらとした顔のほほがほんのりとピンク色で、それでいつもと違ってより幼く見えるのだろう。いつも店にいるときはそばにいるものまで楽しくさせるような明るさがあるのだが、今日は表情が硬い。知らない会社にきて緊張しているためだろうか。ノックがして、浅田さんがアイスコーヒーをグラスに二つ、トレーに乗せて持ってきてくれた。普通の面会客にこんな物が出ることはまずない。紙コップで麦茶が出るか、よくて茶碗に入った番茶だろう。僕は喫茶店で出るようなグラスに入ったアイスコーヒーと、ストローを置いてくれた浅田さんにどうもと頭を下げた。浅田さんはひじでこんこんと突付いてクスリと笑った。

「ええと、今、並木さんは暇ですからゆっくりしていてよいと大隅係長の伝言です」

「あの、暇でもなぃ、いった…」

 浅田さんに足を踏まれた。

「このまま直帰してもよいと佐伯室長の許可が降りたといっていました」

「あ、ありがとう」

「では、ご健闘を祈ります」

 浅田さんは自衛隊の隊員のように敬礼をしてドアを閉めた。僕は首をゆるゆると振った。

「なんだい、ありゃ。からかってんのかな」

「ごめんなさい。私、普通の会社のこと、何も分からなくて、ここに来ておどおどしてたんです。そうしたら、あの受付のお姉さんがわざわざ出てきてくれて、声をかけてくれていろいろと親切にし相談にのってくれて。あの、仕事が終わるまで待ってますって言ったんですけど、いいから、いいからって」

「うん。今日は美容室、休みなんだよね」

「はい、朝からここに来ると思ったらもうどきどきしちゃって、時間はなかなか過ぎないし。早く話しをしたいのに」

 そこまで言うと安西由紀子はアイスコーヒーを一気に半分以上飲んだ。

「あの、話しというのは」

「お客さんにこんなお願いしていいのかどうか分からないんですけど」

 そう言うと後の言葉を捜すように黙り込んだ。見ていると、目に急に涙が膨れ上がった。みるみるうちにそれは溢れ出し、後から、後から、ほほを伝って流れ落ちる。

「あ、あの。安西さん、しっかりして」

 やがてコン、コンとまたノックの音が聞こえた。由紀子はあわてて涙を拭いた。浅田さんが顔を覗かせた。僕の若草色のリュックを持っている。いつまでも顔を引っ込めようとしないで、興味津々で見ているような感じだ。

「あの、浅田さん」

「並木さん、大隅係長がこれ持ってきてくれたわ。でも、ここでゆっくりお話を聞いてあげたほうがいいようね」

「あ、ありがとう」

「何時になっても私が残っててあげるからいいよ。ごゆっくり」

 そう言うとやっと顔を引っ込めた。

「ごめんなさい。わたし」

「さあ、何でも話してみて」

「あの、籠井先生を助けてあげてください」

「何、この前のやくざがまたきたの」

「そうなんです。今月中に立ち退かないとあの店をブルドーザーでぶっ壊すといって」

「そんなこと」

「でも私、ちょっと聞いたんです。ただの地上げじゃないみたいなんです」

「どう言うこと」

 由紀子が硬い顔をして一つ一つゆっくりと思い出しながら話し出した。大日本銀行から五千万円の融資を受けて、つばめは店を借りて、改装をほどこしてあそこで美容院を始めた。そのうち一千万はさいたま市の保証での低利融資、さらに一千万は中小企業支援融資などで、残り三千万はつばめの実家を担保にしての銀行からの融資だ。売上げも順調で毎月の返済は滞ったことがない。しかしあるとき周辺の土地をまとめて大きなビルを立てるから立ち退いてくれと、ガラのよくない人がやってきて嫌がらせが始まった。

「建物の持ち主には言ってみたの」

「ええ、向うから店に来ました」

もともとの建物の持ち主も契約解除の説明にきた。地上げ屋に言われて無理やりこさされたらしい。その人の話ではバブル期に建物を担保に株をやり、一時はかなり儲けたらしいがその後の暴落で借りていた金を返せなくなった。銀行で相続税対策にと強引に入らされた変額保険も元本を大きく割ってしまったと愚痴を言った。財務省の指導で銀行は不良債権対策として、現金が必要になった。そこで貸し剥がしをして現金を確保しなければいけなくなったようだと建物の持ち主は言っていた。

「それで銀行は建物を処分して現金を確保しようって言うのか」

「そうなんです。でもひどいのはその銀行も大日本銀行だということ」

「えっ、じゃあ、自分のところで融資をして店を始めさせといて、それも分かった上で」

「そうなんですよ」

「うーん」

 しばらく考え込んだ。ものすごい勢いで頭の中をいろんな考えが駆け巡る。経済や経営は専門ではないからよく分からないけど、とにかくなんか変だ、この話し。

「並木さん、大丈夫ですか」

「あっ、ああ」

 頭の上から声をかけられて、僕は眠りからさめたように周りをきょろきょろ見回した。またやっちゃったか。

「ええと、うなってた」

「ええ、うーって」

「頭を抱えて」

「はい」

 由紀子はクスリと笑った。僕もつられて笑った。

「考え出すと回りが見えなくなっちゃってだめなんだ、僕は。でも、これって、半分そうなるのが分かっててつばめにお金を貸したんだよね。道義的にも許されないけど、なんか変だよね」

「ええ、大日本て聞いてなんだか変だなと。わたし、ばかだし学校も先生に勧められて行き始めたばかりだから、そういうことわからないんですけど、でもちょっと待ってよって」

「分かった。僕が調べてみるよ。つばめには言わないでいいからね。何か分かったら報告に行くから」

「本当ですか。でもこの前みたいに怪我をしたらと思うと、わたし怖くて」

「僕は大丈夫。あれくらいなんでもないよ」

「すごい。うちの男の子なんてびびちゃって下向いたり、それはまだいいほうで、あの人たちが見えると用事があるふりして裏に隠れたりするんですから」

「それは誰でもそうするよ。僕だってそうする」

「でも」

「つばめにはね、借りがあるんだ。あいつのおかげで僕はすごく救われたことがある」

「ねえ、無理しないでください。ごめんなさい。頼みに来てこんなこというのへんですよね。でも、先生が困っているのをなんとかしたくて。」

「ありがとう。僕のことは心配しなくていい。うまく行くかどうか分からないけど、何が起こってこんなことになったのかだけでも知らないと納得できないよね」

 気がついたら、中庭は暗くなっていた。時計を見ると七時前だ。

「さあ、今日はもう遅いから」

「あっ、ごめんなさい。遅くまで」

 玄関まで送って行った。由紀子はぺこりと頭を下げて小さく手を振り正門のほうに歩いて行った。戻ってくると受付の電気がまだついている。浅田さんが机の向うから乗り出すようなポーズを作って、興味津々という感じを出して笑っていた。

「ありがとう、助かったよ」

「うまく口説けなかったの」

 ちょっと悲しそうな表情を作ってそんなことをいう。

「そんなんじゃないってば」

 カーッと顔が熱くなり、なんていっていいのか分からなくなる。

「ふふふ、大隅係長がいうように、かわいいね、並木さんて」

「あの、とにかくありがとう」

 僕はぺこりと頭を下げて逃げるように外に出た。相手が好意で言ってくれてるのは分かるのだが、どう反応していいのか分からない。きっとここを僕は治さないといけないんだ。しかし、会話って難しい。予期せぬことを言われたとき、ぱっと反応して、適切な言葉を選び、そのときにふさわしい表情で相手に返す。まるでスポーツのようだ。

翌日朝、会社に休みを取ると連絡して、午後から大日本銀行の大宮支店に出向いた。銀行の内部はキャッシュカードでお金を引き出すコーナーのガチャガチャしたイメージとは違い薄暗く静かだ。夏の暑い日に鍾乳洞に入ったようなイメージがふと頭の中をよぎった。外の暑さは微塵も感じさせない。厚いコンクリートと空調で不気味なほど静かだ。自分が緊張しているから余計にそう感じるのかもしれない。受付で自分の名前を告げて、大宮駅前のつばめ美容室の融資担当者に会いたいと伝えた。受付の女性は手際よく内線電話で調べてくれた。受付の女性に案内されて二階の通帳などを作るカウンターがあるフロアーへ行った。内部から案内されて一般の客がいるほうのドアが開くと眩しいくらい明るく感じた。壁で仕切られた応接室に案内されお茶を出されるとすぐに担当者が現れた。

「お待たせしました。大野木です」

三〇台半ばくらいだろうかいかにも勉強ができますという、色白で面長の顔、メタルフレームのめがね。きっちりと七、三に分けねずみ色のセンスのない背広を着ている。顔に力がなく表情に乏しい。何で文系のエリートはこんな陰険なタイプが多いのだろう。同じ勉強をするタイプでも理系の人間は、髪の毛ぼさぼさ、よれよれのGパンに首の回りが伸びたTシャツというイメージなのに。

「籠井さんに融資をしたのはあなたですか」

「会社です」

「あなたが判断をして、融資をしたんでしょ」

「判断は融資審査課がして、最終的には取締役決済です」

「では、あなたは何をしたんです」

「わたしはただの窓口です」

 ぬる、ぬるとしてつかみ所がない。

「籠井さんへの融資の件ですが、あそこの建物がすぐに取り壊されるのを承知で融資なさったのでしょう。なぜ」

「取り壊されるのは知りませんでしたよ、当然」

「そんなことはないでしょう。あの建物を担保に融資をしたのもあなた方だ。しかも同じ部署だ。株や変額保険の価値が下がり、返済できないことも知っていた。あなたはあそこに店を出すための融資だと知っていた。先が見えているのになぜ融資をしたんです」

「言いがかりだ。迷惑だ」

「籠井さんは店を閉めさせられる。融資は返せなくなる。五千万のうち二千万は公的機関の保障つきでこれは労せずに取り上げられる。後の三千万。籠井さんの所の実家は今、県が道路を拡張しようという計画のライン上ある。実勢価格の三千万で取り上げて、県に一億で売る」

「な、何を根拠に」

「伊沢興業が買って、差額七千万。あなたのポケットにいくらはいるんだ」

「あなた、失礼だ。わたしは忙しい。あんたの寝言を聞いてる暇はねえんだよ」

 やはり当たらずといえど遠からずだろうな、銀行を追い出されながらそう考えた。

大野木を訪ねる前に二つのことを確認していた。昨日会社を出た後、つばめの実家に行ってみた。つばめのうちは僕のうちがあるところから、小学校をはさんで反対側にある。駅からもかなりはなれている。子供のときの倍に広がった交通量の多い大通りにぶつかる。歩道橋を越ると、狭い一方通行の道路が碁盤の目のように走っている住宅地になる。子供のころはこんなに自動車が通らなかったが、今ではよく渋滞する大通りの抜け道として絶えず車が走っている。その住宅地の中につばめの家は建っていた。昔からの家なので少し広い庭と古い建物が建っている。周りを歩いてみたが、昔のまま変化はないようだ。しかし、自分の実家まで戻ってその周囲のことを聞いて驚いた。母親の話では、大通りとつばめの実家から二キロほど向うの環状線を結ぶ道路の拡幅工事が始まるという噂があるらしいことがわかった。その計画にどこが当たっているのかは、もう決まっていて、ルートがあればそれを知ることは簡単だろう。

そして今日、休むと会社に連絡を入れ、朝から用意をして出かけた。大宮から二駅。駅から一〇分も歩くと住宅地に畑が混じり始める。その一角に立花正義の家は建っていた。鉄筋二階建て、白かったであろうその建物は長年の風雨と畑のほこりに薄黒く汚れている。もう疲れたと言っているようだ。前庭は芝生とレンガで仕切られた花壇で芝は伸び、花壇は雑草が目立った。

招き入れられた応接室の向かいに座る初老の男の肩は落ち、少し肥満気味の体も着ている白の開襟シャツにしわが幾筋も入り、空気が抜けかけた風船のようだ。

「立花さん、すぐに取られると分かっていてどうして籠井さんと賃貸契約を結んだんです」

「そんなはずじゃなかったんです。お聞きかどうか、わたしはあそこの土地を担保に株をやり失敗しましてね。いや、銀行が無理やり融資をさせてくれとお金を押し付けてきたんです。そういう時代でした、あの当時」

「それで金が返せなくなった」

「そうなんですが、金利だけ支払えばすぐに返済してくれとは言わないと担当者は言っていました。無理やり融資を押し付けたした手前もあったと思います」

「返済を迫り破産されると不良債権になるからですよ」

 いつだったか新聞で読んだことがある。

「「金利も下がってきていますし、あそこの家賃でほとんどは賄えてたんだ」

「ならどうして」

「前の店子が出て行って籠井さんがは入るまで三ヶ月空いた」

「そういうことはよくあるでしょう」

 立花の顔が赤くなった。ギリッと奥歯を噛み締めた音が聞こえた。

「そうよくある。次が決まったときに礼金や保証金を遅れた分に当てて、今まではそれで銀行も何も言わなかった」

「でも、今回は違った?」

「あのやろう」

 何か込み上げてくるものに必死で蓋をするように口を固く結んだ。再びギリッ、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。

「支払いはちょっと待ってくれと言ったら、ニコニコ笑いながら早くお願いしますよと言ったんだ」

「それがどうして急に返済を迫られる羽目になったんです」

「わからん」

 立花はほっとため息をついた。

「籠井さんから振り込まれたお金を渡そうとしたら、審査部の検査が入っているのでちょっと待ってくれといわれて」

「でも支払うと言ったんですよね」

「言ったよ。それなのに、翌月になって返済が滞っている先は金融庁の検査のさい、不良と判断されるので融資を引き上げろと指示が出ましたと、しらっとした顔で言ってきやがった。あの土地もこの家も全部持っていって、まだその倍の残金を返済してくださいといいやがった」

「ひどい。それは故意に潰すということですね」

「そう思うだろ、誰だって。ちくしょう」

 男は握り締めたこぶしで自分の膝をたたいた。

「担当はなんと言う人です」

「大野木」


外に出て駅へと歩き始めた。アスファルトから陽炎が立ちゆらゆらと揺れている。目眩がするような暑さだ。大宮駅に戻り、二階の広場にあるベンチに腰をおろした。財布から名刺を取り出す。通常の名刺よりかなり大きなものだ。この前、つばめの店を出て行く地上げ屋が、胸のポケットに入れていったものだった。右上に金箔で会社のマークが入っている。太陽に稲穂のように見える。伊沢興業。墨書きの行書体で書かれている。伊沢清秋 さらに大きな文字でそう書かれていた。堀の内にあるらしい。地図で確かめると駅をはさんでつばめの店の反対側だ。駅前の道をまっすぐ行けばいい。二階にある広場の端まで歩いて行き上からつばめの店を見ると、暑いのに外にたち元気に広告のビラを配る安西由紀子が見えた。まだ昼を過ぎたばかりで、店が暇なのかもしれない。つばめの店を見たら元気が出た。僕は感情を消して堀の内へ向かって歩き始めた。

 会社のある場所はすぐわかった。駅前からまっすぐ伸びている道を、歩いて一〇分ほど行った、交差点の角にある細いビル。下はコンビニエンスストアー。横の狭い通路を通って、郵便受けで一番上の五階であることを確認して暗い階段を上った。五階は部屋が一つしかなく右手に無愛想な鉄の扉がある。天井から斜め下に向かってテレビカメラが下がっている。インターホンもテレビカメラつきだ。無造作にボタンを押した。どきどきもあまりしていない。すでに半分の感情は死んでいる。

「どちらさん」

 相手はこっちの顔が見えているのでぞんざいな応答だ。

「並木と申します。お仕事のことでお話しにまいりました」

 がちゃ、がちゃっと乱暴に受話器を置く音が聞こえた。カギがはずれる音がして扉が開いた。中からハリネズミが覗いている。

「あっ、てめえは」

「駅前の美容室のことで参りました。伊沢社長さんはいらっしゃいますか」

 相手の返事を待たずに中に入った。一二畳ほどの部屋だ。窓際には普通の事務机が四つ並んでいる。机の上に電話がぽつんと二台置かれている。少し離れて黒光りする木できた、高級そうで二人分はありそうなほど大きな机がある。事務机のほうは普通の椅子だが、その大きな机の後ろには恐ろしく背もたれの高い、黒の革張りの椅子がおいてある。壁際に目を向けるとソファーが置いてある。そこにスキンヘッドが座り机に足をのせ、雑誌を開いたままこちらを見上げていた。

「あの、伊沢社長に」

「うるせー」

 ハリネズミにいきなり後ろから蹴られ、ソファーの前まで飛ばされた。スキンヘッドに髪の毛をつかまれ、上を向かされる。スキンヘッドは顔をくっつきそうなほど近づけてきた。近くで見ると目がやたらぎょろついていている。

「てめえ、なめてんのか」

「いえ」

「どこまですっとぼけてやがる。社長に何の用がある」

「それはお目にかかってお話しいたします」

「ふざけんなよ。俺たちには話しができねえってか」

 ハリネズミは僕の肩口を持ち立たせた。がーんとほほに衝撃がきた。ぶっ倒れるだろうという想像に反して立ったままだった。ハリネズミが再び殴るためにつかんだまま離さなかったのだ。すぐに二回、三回とほほに衝撃が来て火にあぶられているように熱くなった。口の中は鉄の香りとぬるぬるした液体で満たされた。ぱっとつかんでいた肩口を離した。左目の端で足が上がるのが見えた。本能的に後ろに飛びのいた。相手の足はむなしく中を蹴る。

「このやろう」

 このまま抵抗なしにやられたら死ぬかもしれない。少しの恐怖が背中をざわつかせた。事務机の向うに走って逃げた。

「待てよ、このやろう」

 ハリネズミも追いかけてきたが子供の鬼ごっこのように、事務机をはさんでいるので追いつかない。

「何を騒いでやがる」

 突然奥のドアが開いて角刈りの大男が、ものすごい怒鳴り声を上げた。

「あっ、しゃ、社長。すいません」

 伊沢はこちらを見て目を細めた。

「ほう、これは、これは、珍しいお客さんで」

「駅前の美容室のことでお願いに参りました」

「ま、そんなところに突っ立ってねえで、こっちの部屋にこいや。おい、イク、冷たい麦茶二つ」

 イクとはハリネズミのことらしい。何でこいつにお茶なんかと言う悔しそうな顔で、こっちをねめつけている。

「まあ、まあ、こっちへはいって」

 伊沢の満面の笑みで、奥の部屋に迎え入れられた。

「あそこの立ち退きの話となりゃ、お客さんよ。なあ、兄さんよ」

 部屋の正面には大きな神棚がある。横の壁に太陽と稲穂のマークが紺色で描かれたちょうちんが一対、掛かっている。右手奥には窓があり大きな事務机。その前に高級そうなソファーのセットがあり、奥の長いほうの椅子に座らされた。伊沢が一人がけの椅子に座り、隣りにスキンヘッドが座った。座って話が途切れると、沈黙が重苦しく息が詰まりそうだ。やがてイクと呼ばれたハリネズミがお盆にグラスを二つ、麦茶を入れて入ってきた。

「それで?籠井さんはやっと立ち退く気になったのか」

「あそこを開店する資金もまだ回収できていません。もう五年、いや、八年待ってもらえませんか」

「おまえ、何、寝言っとんじゃ」

 伊沢のニコニコ顔がとたんに一変した。

「籠井さんはあそこを開店するために、実家などを担保にお金を借りているのです。そのお金が回収できなければ、銀行に実家を取られてしまいます」

「そんなことは知ったこっちゃねえ」

「ごちゃ、ごちゃ言ってんじゃねえぞ、こら」 

 いつのまにか後ろにきていたハリネズミに、後ろから髪の毛をつかまれた。腹に衝撃。息が詰まる。胃が一気にせりあがる。昼からなにも食べていないので中からはなにも出ない。さらに一発、二発、三発。胃液を吐き出して激しくむせた。床に転がったところを、腹、背中と容赦なく蹴られた。

 トルルルルル、トルルルルル

 電話の受信音。ハリネズミが肩で息しているせいか、スキンヘッドが電話に出た。

「はい」「あっ、ごくろうさんです」「いえ、はい、いらっしゃいます。変わりますか。はい」「社長、おやじさんのところから戸田さんです」

「戸田のアニキが。機嫌悪かったか」

「いえ、ただ呼べと」

 伊沢が幾分緊張した面持ちで受話器を取った。スキンヘッドが保留ボタンを解除する。

「アニキ、お久しぶりです。お変わりありませんか」

 伊沢の声がやけに高くなっている。

「はい、すみません。ちょっと手間取ってまして」「いえ、自分たちにやらせてください」「今ちょうど、スケの男が訪ねてきてまして」「しめて、何とかうんと言わそうと」「そんな」「分かりました。すぐ伺います」

 伊沢は不機嫌に受話器を置いた。

「おい、こいつを連れておやじのところに行くぞ」

「おやじさんのところにですか」

 スキンヘッドが驚いたような声をあげる。

「地上げが進まんので銀行から文句がきて、おやじはいらいらしているらしい。戸田のやろう、おめえのところで手に余るようなら、こっちでやろうかと抜かしやがった」

「そりゃ、ひでえ。今まで手を回して、やっと収穫というときに」

「そうはさせるかってんだ。おい、車」

「はい」

 ハリネズミが飛び出して行った。スキンヘッドが僕の脇をつかんで引っ張った。おやじのところってどこだ。このまま帰れなくなるんじゃないだろうか。逃げなくちゃっと思うのだが、体に力が入らない。引きずられているときに若草色のリュックが目の端を通り過ぎた。

「ぼくのかばん」

 リュックの肩ひもをつかんだ。

「ほう」

 伊沢は目を細めてしばらくこちらを見つめていた。

「おめえ、どっかで会ったことあると持ってたんだ。あんときのやつか」

「何の話しですか」

「あの焼き鳥屋の前で肩がぶつかったときのやつだろう、おめえ。ここが俺たちの事務所と知って乗り込んできたんか、おまえ。あの時も普通と違うと思ってたが、本当のばかか、それとも自殺志願者か」

「あっ、てめえ、あのときの」

 スキンヘッドも思い出したらしかった。あの時は椿山さんに助けられた。ハリネズミとスキンヘッドは完全に遊ばれていた。

「あのときのやつは一緒じゃねえのか」

 伊沢の目がそのときだけ一瞬和んだ気がした。

「あの人は関係ありません」

「まあいいや。いくぞ」

 伊沢が再び厳しい顔に戻りあごを降って先に歩き出す。椿山さんはやっぱりすごいな、こんな人の心の中にも何か残している。スキンヘッドにほとんど抱えられるようにして下に降りながら、よく回転しなくなった頭で漠然とそんなことを考えた。歩道をはさんで玄関の前に黒のベンツが止まっていて、ハリネズミと二人で車に押し込まれた。大きな声で助けを呼べばコンビニにいる人や、歩道を歩く人が気付いてくれるかもしれない。そう気が付いたときにはすでにドアが閉まって車が動き出していた。

 

車は大宮駅の反対側に出て、しばらく走った商店街のはずれ、三階建の黒いビルの前でとまった。ハリネズミが運転席を降りてインターフォンに向かって頭を下げている。全体的に黒っぽいタイルを貼っているビルで、異様に威圧感がある。よく見ると窓は一番上の階にしかない。石垣の高い城のような建物だ。いたるところに照明装置とセットになっているビデオカメラが、下を通るものを睥睨するように無遠慮に上から下を見下ろしている。ビルの中段には大きな一枚板に金色で太陽に稲穂のマークと平沼興業の黒の文字が浮かび上がっている。その文字は両側から照明で照らされていた。やがてハリネズミが戻ってきた。ビル正面の城門のように重そうなシャッターが自動で開き、そこに車を入れる。車は地下に降りていき、駐車スペースの一角に慎重に止めた。周りは車の展示室かと思われるほどいろいろな外国の車が置かれている。スキンヘッドとハリネズミに両側を抱えられ薄暗いエレベーターの扉の前に立つ。ハリネズミがインターフォンを押すと「ご苦労様です」という声とともにエレベーターが下りてきて扉が開いた。こちらからは何も操作をしない。エレベーターの中にもテレビカメラがついている。それを中から確認して向うで操作をしているようだ。不気味な音とともにふわりと浮かび上がる感覚があり永遠に動き続けてくれという願いもむなしくごとんと言う音とともに止まった。二階に止まったようだ。ドアが開くと、きちんとスーツを着た坊主頭が二人、扉の前で頭を下げていた。

「ご苦労様です」

 相当大きな声だ。二人とも顔を見たらまだ高校生くらいの幼い顔をしている。エレベーターを出たところが玄関になっていた。ベージュの落ちついた絨毯をしいたそのスペースは殺風景だ。三方向にドアがついている。

「社長、わしらはここで」

 そう言うとスキンヘッドとハリネズミは一つの扉を開けた。下に向かう階段のようだ。

「こちらです」

 坊主頭の一人が先に立って反対側のドアを開けた。上に続く階段。坊主頭に先導されて伊沢と二人でその階段を登った。

「あの人たちは何でこないんです」

「あいつらは直接この部屋には入れん。ここに入れるのは直系の者だけだ」

 よく意味が分からなかったが、いろいろと厳しいしきたりがあるのだろう。このような組織は、そういうしきたりで縛ることによって内部を統制しないと崩壊してしまう。そんなことをテレビで言っていたような気がする。こんな緊迫した場面でよくこんなことを思い出すものだな、もうほとんど回転してない頭でぼんやりとそんなことを考えた。粘度の高い液体の中を歩いているようで、体が重くて足がなかなか前へと進まない。登った先に結構広い踊り場がある。そこにもカメラつきのインターフォンがあり、鉄の重そうな扉がついている。

「お連れしました」

 坊主頭がそう言うと内側でがちゃりと音がして重そうな扉がいた。中に入ると一二畳くらいの応接スペース。赤ら顔のよく太った男が立っていた。この男も髪の毛を角刈りにしている。ここはみんな短い髪型にする決まりがあるのだろうか。

「ご無沙汰しております」

 伊沢は最敬礼で状態を九〇度に折って挨拶をした。

「よう、久しぶりだなあ、伊沢よ」

「はあ、何かと忙しく動いていまして、なかなか顔を出す時間が取れなくて申し訳ありません」

「おやじさんがお待ちかねだぜい」

「はい」

 伊沢に促されて隣の部屋に続く廊下に出た。恐怖のためか吐き気がしてきた。胃のあたりが重く、むかむかする。頭の中のキーンという音が大きくなり、手と足の指先がしびれているような感じがする。突き当りのドアの前で立ち止まった。部屋の向うから何人かの男たちの笑い声が漏れてきた。伊沢がノックをする。

「おう」

 中から大きな声が聞こえて、伊沢はドアを開けて中に入る。かなり広いスペース。二〇畳以上あるだろう。正面に神棚。両脇には伊沢の事務所にあったのと同じように、太陽と稲穂のマークの入ったちょうちんが架けてある。黒色を一番内側に種々の色が対で並んでいる。一番外側に井沢の事務所でみた紫紺のちょうちんがあった。中は臙脂の毛足の長い絨毯が敷き詰めてある。濃紺で革の、かなり大きな応接セットが部屋の半分を占めている。ガラスの机を囲むように一四、五人ほどは座れそうなソファーがコの字形に並んでいる。

そのソファーの向こう、一番奥には体の小さな白髪の男が座っている。ベージュの背広に薄いブルーのワイシャツ、臙脂のネクタイをきちんと締めている。一見リタイヤしたおじいちゃんが昔の習慣で、いまでも背広を着ているという感じだ。ソファーの両側には五人の男が座っている。こちらはそれぞれくせのありそうな壮年の男達だった。

「おやじさん、ご無沙汰しており申し分けありません」

 伊沢が先ほどよりももっと腰を折り小さくなって挨拶をした。後ろからいきなり頭をつかまれ下げさせられた。「組長の前だぜい。挨拶せんかい」押し殺した声が後ろから聞こえた。後ろに短い足が見えている。さっきの赤ら顔だろう。

「よう、伊沢か」

 頭の向うで声がする。押さえられていた手がなくなったので頭を上げた。伊沢も頭を上げている。一番奥の一人がけのソファーに座った初老の小さな男は、機嫌よさそうに穏やかに笑っている。

「伊沢よ、ずいぶん手間取っているじゃねえか」

 長いソファーに座っている紺色の背広に濃い青色のシャツ、紺色のネクタイを締めたかっちりとした大男が野太い声を出す。

「申し訳ありません」

「女だからわたしに任せてくださいって、てめえでいったよな」

 向かいのほほかたるむくらい太っている色白のめがねが不機嫌そうに言う。

「まあ、いいじゃねえか。話を聞いてやれや」

 組長と呼ばれた小さな老人は穏やかで柔らかな品がいい話し方をする。

「おやじさんはこいつの甘すぎますよ」

 一番手前ののっぽはおもねるようにそう言った。

「で、めどは立ったのか」

「はあ、それが居座られちまってまして」

「たたき出しやがれ」

 紺色の背広が凶暴な声を出す。

「それが、相手が警察に相談して、ちょっと強引にはできなくなっているんです。あまり無理に行くと、こちらに迷惑がかかるかもしれないんで」

「それで、後ろの兄ちゃんか、その女のひもは」

「いや、ひもと言うわけではないようですが、知り合いのようです」

「じゃ、そいつに説得してもらったらいい」

「あの、組長さん……」

 いきなり横腹に衝撃がきた。体が宙を飛んで柔らかな絨毯の上にどさっと落ちた。うーっとうなり声が自然に出た。後ろの赤ら顔に蹴り倒されたようだ。体を折って、痛みを抱え込む。

「勝手にしゃべるんじゃねえぜい」

 また頭の上から押し殺した声がした。

「まあ、まあ、戸田よ。それで、あんたなんて言う名前だ。わたしは平沼だ」

 横にあったものにつかまって何とか立ち上がる。

「はい、わたしは並木と申します」

「あんた、素人さんだろ。どこの会社」

「東京製菓です」

「東京… 」

 少し言葉が途切れた。

「それであの美容室とはどう言う関係なんだい」

 にこやかで、つい釣り込まれそうな親しみ深い顔。

「はい、籠井さんとは幼馴染で」

「籠井ってのは美容室の経営者の女でして」

「そう、あんた、籠井さんにほれてるんだ」

 顔がカーッと熱くなってうつむいた。

「そんなんじゃない。僕はあの人に借りがあるんだ」

「ほう、命に代えなきゃならん借りかね」

 平沼の突然凍えそうな冷たい声。あわてて顔をあげると、目を細めて鋭い目でこちらを見つめいた。

「スケに電話しろ、伊沢。今すぐに立ち退き合意書に判子をもらえないとこいつ、東京湾に沈むぞと」

「は、はい」

伊沢は携帯電話を懐から取り出した。僕は突然足に震えがきた。ぶるぶる震えて立っていられないほどだ。横にあるものにつかまって崩れそうになる膝を、かろうじて手で支えた。しかし、手にもほとんど力が入らない。こんなことでひるんでたまるか。あのころこんなひどい目に毎日あったんだ。畜生、どいつもこいつも人を犬か猫のように、蹴飛ばして、殴り倒していびりやがって。そう思うと突然腹の底からえもいわれぬ悲しみが湧きあがってきた。「ウォーーー」地鳴りのような唸り声を遠くで聞いていた。ギョッとした顔が一斉にこちらに向けられた。

「電話するんじゃねえ。このやろう。殺せ、死んでやる」

自分の声とは思えないけもののような声だった。気がついたら銀色の棒を手に持っていた。今までつかまっていたハンガーや帽子をかけておくために置いてあるものだった。

「いざわー、ふざけるなよー」

必死で振り回しながら伊沢のほうへ向かった。思わず手をあげて避けようとした伊沢の手を棒の先が薙いだ。携帯電話が窓のほうに吹っ飛んだ。もう目の前が真っ暗だった。何をやっているのかどこにいるのか分からないまま、夢中でほえ、振り回した。何回か手ごたえがあったが、どうなっているのか分からなかった。その興奮は突然の後頭部への衝撃で収まった。続いて横腹。息ができない。つかまれたと持ったら体が一回転していた。上に天井が見た。すぐにつかみ起こされた。このままでは殺される。椿山さんの顔が一瞬浮かび、どこでもいいからひっ捕まえて、くっついてればいいんだと言っていた穏やかな声が耳の奥に聞こえた気がした。つかまれた腕を持ち体ごとぶつかって行った。意表をつかれた戸田がよろける。腕を体に回そうとしたがだめだった。肥満した体のため腕が回せない。投げ飛ばされそうになった瞬間、ちょうど手のところに相手のベルトか触れた。夢中でそれに指を通しきつく握る。足を絡ませ投げられるのを防いだ。いいぞ、その調子だ、絶対に放すんじゃないぞ。椿山さんの声に励まされる。相手は振り解こうとして振り回す。体は宙に浮くが夢中でしがみついていた。相手は必死に引き離そうとしていたようだが、すぐに振り回す力が弱くなった。

「てめえ……」

 息があがって戸田の声が続かないのが分かった。振り解くのをあきらめて殴ろうとするが、あまりに近いためか、それほど痛くない。後ろから引き剥がそうと引っ張られた。チラッと横目で見ると顔面血だらけの伊沢が、目をむき地獄の底の餓鬼そのもののように、必死の形相で後ろから引っ張っている。離すもんか、絶対に。やられ続けた人生とも今日でおさらばだ。うじむしでも、ばかでも、ナメクジでもいい、最後に意地を見せてやる。戸田の息はすごい速さで胸が波打っている。やがて胸を抑え、膝をついて崩れ落ちた。伊沢も引きずられてくる。ベルトを離すと同時に思い切り後ろ向きに走った。伊沢がバランスを崩して尻もちをついた。その腕に自分の体を預けた。勢いが余って後ろに飛ばされた。再び立ち上がって伊沢の膝にしがみつくと力の限り噛み付いた。

「ぐわー」

 伊沢が声をあげた。やがて鉄の香りとともに口の周りにぬるぬるした物が溢れ出す。どすん。突然わき腹を蹴られて口が開いた。続けて三発。たまらず転がった。

「それくらいにしといてやれや」

 紺の背広が見下ろしていた。ぴかぴかに磨き上げられたとがった靴の先が顔面に迫ってくる。必死で手を顔の前にもっていったが、体ごと飛ばされた。服をつかまれ引き起こさる。背負い投げのように派手に投げられ、続いてまた蹴りがきた。手で防御してもしきれるものではない。最後にあごにまともにくらって後ろに吹っ飛んだ。どさっと背中に何か当たったのは分かったがそのまま崩れ落ちた。

「ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」

 薄れる意識の中、頭の上で何か騒いでいる。

「あきちゃん、僕あきちゃん。あそうぼう、あそうぼう」

 うっすら開けた目に白いオウムのコバタンがはねをばたばたさせてしゃべっている。

「あきちゃん…」

「なみちゃん、遊ぼう、なみちゃん遊ぼう」

「このやろう、余裕ぶっこいてんじゃねえ」

 紺色のの背広が迫ってきた。

「やめんか!」

 部屋にものすごい声が響いた。背広が固まった。

「なみちゃん、遊ぼう。なみちゃん、遊ぼう」

 部屋の中にオウムの声だけが異様に大きく聞こえている。僕は朦朧とした意識の中でコバタンににじり寄った。ヨロヨロと立ち上がっる。コバタンの立派な薄黄色の冠の羽根。胸の羽根もきれいに生えそろっていて、とても健康そうに丸い体なっている。

「あきちゃん、よかったねえ、元気になって。よかった、よかった」

 ケージの扉を開けて手につかまらませる。階段をやってやるといつまでもあきないで足を入れ替え続ける。

「エレベーターだよ」

 手を上下させると羽を小さくばたばたさせて喜んでいる。自然に涙が流れてくる。ほほが温かい。僕は立っているのがつらくて後ろの壁にもたれかかり、足を前に投げ出して座り込んだ。あきちゃんの首筋をなぜる。コバタンは首を思い切り伸ばして毛を逆立てて、気持ちよそうに目を細める。お腹、羽、背中とマッサージをするようになぜてやる。

「おい、並木君とかいったな」

 声がしたほうを目だけで見上げた。もう顔を動かすのも面倒なくらい疲れていた。

「あんたこのアキコを知ってるのか」

 平沼組長の目からは先ほどの暗く冷たい光が消えていた。

「以前、クレームの電話をいただいて、姉川さんのマンションに行ったとき、この子がいたんです」

「そういや、東京製菓と言ってたな、あんた」

「ええ。そのとき、胸の毛が抜けたこの子を見て、ストレスだなと思いました。それで、姉川さんに遊び方と、地鳴きをしないように言葉で話す習慣とその喜びをこのオウムに教えてやったらいいですと言ったんです」

「あいつ、そのこと、喜んでたよ。アキコが元気になっただけじゃなく、自分になついて、自分も毎日が楽しくなったと」

「それは姉川さんに根気があったからでしょう。教えたからと言ってその通りやるのは、大変な根気がいりますから」

「あんたの言い方をすれば、わしはあんたには借りがあるんだな」

「僕もこの子が幸せになってくれて嬉しいので、それは当てはまりませんよ」

 あきちゃんの首筋を再びなぜながらそう言った。

「まあいいやな。あんたの言い分を聞いてやろう。話しみな。ただしわしが納得できなければ美容室の立ち退きはしてもらうぞ」

「籠井さんは最初から理不尽なことは言ってませんよ。それを納得しないのはあなたたちが、世間の常識からずれているからでしょう」

「おい、言葉を慎め」

 のっぽが陰湿な目を吊り上げて言った。

「いいんだ。言わせてやれ」

「あそこの店を開くとき、五千万の資金を大日本銀行の融資課の大野木と言う人を通して借りました」

「ほう。いまどき都市銀行がよく貸してくれたな」

「二千万円は県や公共機関の保証がついていますし、三千万は籠井さんの実家の担保がありましたから」

「まあ、そうだろうな」

「今度、あそこの立ち退きを求められる原因となった、美容院の入居しているあの建物の持ち主も、同じ大日本銀行から融資を受けていて、それが返せなくなったのです」

 平沼はニコチン取りパイプにタバコを差し込んだ。すぐに横から紺色背広が火を差し出す。吸い付け一服ふかしてから目で先を促す。

「その借金はバブルのときのもので、もう返せなくなっているということは銀行でも分かっていたんです。同じ部署にいて、大野木がその物件を見て知らなかったと言うことはないでしょう。知っていて五千万の融資をしたんです」

「その女を無一文で家から追い出す以外、何の得がある、銀行に」

「籠井さんの実家がある町の道路拡幅工事がからんでいるんです」

 そこからは自分で調べたり考えたりして、大野木を問い詰めたことを話した。

「ほう、おもしろい話しじゃねえか。えっ伊沢よ」

「いや、その件は報告しようと思ってたんですが」

「地ぃ上げるのを急いでるんは分かってるよなあ、伊沢」

「ええ、それは」

「市の条例が変わりそうなんだろ、あそこの場所。今の場所に新しく五階建て以上のビルを建てるときは、商店街に協力金を支払うことや、防火のために隣から一メートル以上の空きスペースを作って建てることということを市議会で検討しているんだよな」

 白ブタが訳知り顔でうなずく。

「その条例が通っちまうとえらい損だ。だから急いでんじゃねえのかよ」

 のっぽの陰険な声。

「で、伊沢とその大野木ってやろうが組んで女経営者の実家、取り上げて小遣いかせごうってか。しかも、本部を通さず」

 紺背広がドスの利いた暗い声で言った。

「滅相もありません。おやじさん、信じてください。私はこの金、今度の九月までにかせいで、新しい車をおやじさんの誕生日に間に合うように買おうと思ってたんですよ」

「並木さんよ、それじゃ、そっちも立ち退きもできんわな。借金も残るし、騙し取られるって分かってて」

「経営は順調なんです。せめて借金がなくなるまで待ってやってくれって言ったんですが」

「それは無理な相談だな」

 凍えそうな冷たい声で平沼は即座に否定した。

「しかし、ひでえ銀行だな。ちょっとお灸を据えてやるかい。おい、大日本の天野に電話」

 ちょっと口調を変えてそう言うと、のっぽがさっと立ち上がってこちらに近づいてきた。入ったときは気がつかなかったが、こっちの窓際には巨大な執務机があり、そのとなりにコバタンの入ったケージが置かれているのだ。

「天野取締役が出られます」

 のっぽは電話の子機を渡す。

「ああ、平沼です。お宅の融資課の大野木というのがうちの伊沢に知恵入れて、あくどい小遣い稼ぎをしているらしいですな」「いや、ことと場合によっちゃ酒井常務か副頭取にでも相談しようかと思ったんだが、まあ、先にあんたに話すのが筋だろうと思ってな」「なあに、世の中、正直に生きてるもんが報われんようじゃ、真っ暗闇ですよ。はっはは」「ああ、後はうちの伊沢とあんたとで今日にも打ち合わせをして、早急に解決してくれればいい」「事情はあんたも知っての通りで、こっちも時間がないんだ。長引くような副頭取に直で話しさせてもらうよ。あんたも次の移動で出世するんでしょう。こんなところで躓いてる場合じゃないわな」「ああ、よろしくたのむ」

 受話器をそばで立って待っていたのっぽに渡した。

「伊沢」

「はい」

「天野に話してな、地上げの手数料にあと六千万上乗せするようにしろ」

「それじゃ、向うの足が出ちまいます。うんといわんで…」

「ばかやろう」

 平沼の表情が一変した。

「てめえ、一回東京湾に沈むか。どうなんだ、おい」

「はい、上乗せさせるようにします」

「そんで、その五千万で美容室の融資の返済をしろ。それから希望があれば同じ家賃で新しいビルにもう一度店を開く権利もつけさせろ」

「はい」

「並木さんよ、それでいいかな。あとはあんたが女を説得してくれよ。こっちにも時間をかけれねえ事情があるんだ」

「分かりました。籠井さんに話をします」

「伊沢、お送りしろ」

 僕も伊沢も戸田もヨロヨロしながら下の階に降りた。緊張が解けて痛みも出るし、体に力が入らない。誰もまともに歩いていなかった。スキンヘッドとハリネズミが目を見張った。それはそうだろう。僕だけでなく伊沢も顔面血だるま。戸田も顔が紙のように白くなっていて、玄関にどさっと座り込んだのだから。高校生のように見える坊主頭があわてて救急セットと濡れタオルを持ってくる。タオルで丁寧に顔を拭いてから消毒液を吹きかけ、脱脂綿で拭いてもらった。さすがに手馴れているなどと考えるとおかしくなった。そのときめがねがなくなっているのに気がついた。組み付いたか殴られたときにどこかに吹っ飛んだのかもしれない。せっかくつばめが選んでくれためがねなのにとちょっと残念だった。手渡された冷たい麦茶を一気に飲み干した。あまりにあわてて飲んだのでむせ返った。せきをすると傷口が痛い。気がつくと伊沢も戸田も同じようにむせていた。地下に降り、大宮駅のつばめ美容室の前まで黒いベンツで送られた。


一二


車を降りたときにはすっかり日が落ちて暗くなっていた。店の前には若い子が今日は立っていない。お客が店にいっぱい入っているのだろう。ウィンドー越しに明るい店内を見るとかなりの人が待っていて、店は混んでいた。つばめを始め三人が客の後ろに立って髪を切っている。安西由紀子は客の周りの髪の毛をT字ほうきで集めている。こちらに向いたとき由紀子と目があった。ほうきを使う風にして入り口から出てきた。

「あっ」 

 由紀子は口を手で押さえた。目は見る見るうちに涙が膨れ上がった。

「大丈夫だよ。お客さん、いっぱいだね」

「わたしのせいで、そんな顔になって」

「たいしたことないでしょう。ふっふふ。もっとも自分ではどんな顔しているのか、わからないんだけどね」

 由紀子が何か言っているような気がするが声が小さくてよく聞こえない。今日は少し暗くて回りがよく見えない。疲れた。立っているのもしんどい。

「ちょっと疲れたよ。なんだか眠いんだ」


 どれくらい眠ったろう。うっすらとあけた目に、薄暗い天井が見えた。

「まっくん、気がついたの」

「ああ、つばめか。ここはどこ」

「病院よ。店の前で倒れて、救急車できたの」

 ああ、なんだか目の前が暗くなったな、そう言えば。

「つばめ、店に迷惑かけちゃったな。忙しいんだろう。早く帰れよ」

「もうとっくに閉店の時間よ。大丈夫だからもう少し寝て」

「そうか」

 うまく頭が回らない。いつのまにかまた眠りに引き込まれた。


 回りがやけに明るい。まぶしいなあ。目を細めて目を動かした。

「目がさめたの」

「ああ」

 一人暮らしが長いので、起きたときに誰かに声をかけられるのが不思議な感じだ。でも悪くない。

「今、お医者さんを呼ぶね」

 そう言うとつばめは病室を出て行った。やがて白衣を着た、僕たちと同じくらいの若い女の先生がやってきた。

「どうですか」

 僕は起き上がろうとして顔をしかめた。胸が、首が、腕がものすごい痛みでうっと息が詰まったまま体は動かなかった。

「横になっていてくださいよ。あばら骨が二本折れています。腕はものすごい内出血、首は捻挫かもしれませんね。外の痛さ以外、お腹とか、頭の中とかどこか異常はありませんか。後で脳波などは調べますけど」

「ええ、大丈夫みたいです。ちょっとお腹、すきました」

「まあ、頑丈な体ですこと。ふっふっふ。ところで」

 先生の表情が急に厳しくなった。

「はい」

「これはどう言う怪我ですか。道で転んだなんていいませんよね」

「はあ」

「警察に連絡しますか」

「連絡してください」

 横でつばめがこらえきれなくなって涙を流しながらそう言った。

「いや、いいんです。僕は階段から落ちました。ぼうっとしてました」

「泣き寝入りしてたら、またつけ込まれますよ」

「そうよ、まっくん。もういいの。店、閉めるわ。実家には悪いけど、また一からやり直すから。伊沢興業でしょ。まっくんごめんね。ごめんね。由紀ちゃんから聞いてびっくりしちゃって」

 つばめは布団に顔を付けて、声をあげて泣いた。

「先生、僕は大丈夫。脅されてなんかいません。ちょっと二人で話させてくれませんか」

「いいわ。でも、並木さん無理してはだめですよ」

「ありがとう、先生」

 先生が部屋を出て行ってもしばらくつばめは泣き続けた。僕もそのままにしておいた。ちょっとつばめに落ちついてもらいたかったから。やがてつばめは泣き止み、顔をあげた。

「めがねをなくしちゃったよ。せっかくつばめに選んでもらったのに」

 つばめの気持ちをちょっとでも楽にしようと思って微笑もうとしたのに、顔が痛くてうまく笑えなかった。

「安西さんが会社に来たんだ。火曜の夕方」

「ええ、聞いたわ。何でまっくんに頼みに行ったのって叱ったら、うちの男の子は頼りないけど、あの人は勇気がありそうに見えたからだって」

「笑っちゃうよね。いじめられっ子でつばめに助けてもらってたなんて知ったら、どんな顔するだろうね」

「あの子、まっくんを尊敬しているような目をしていた」

「ふふふ、見る目ないよね。男に泣かされるタイプだな」

「冗談言ってる場合じゃないでしょ」

「あはは、体が痛い。あの日さ、会社の来客室であの子からの話を聞いて、銀行のやろうとしていることに気がついたんだ」

 僕が考えたことを話して聞かせた。硬い表情で聞いていた。

「そうなんだ。はじめからそのつもりだったんだ」

「銀行で大野木ってやつに話をしてあいつの表情を見て、そう確信した」

「かっこ悪いガリ勉タイプでしょ。今度、食事に行きませんかとか言うんだよね。気持ち悪いよ、あいつ」

「それで伊沢のところに行ったんだよ」

「そんな話ししたら殺されるよ。まっくん」

 それから連れて行かれて人質に取られて、つばめに迷惑をかけるところだったことなどを話した。心配するといけないので武勇伝は少し省略した。

「それでね、前に仕事のとき会った白オウムがいるんだけど、その子が僕のことを覚えていたんだよ」

 以前クレームで姉川さんのマンションを訪れたときのことを話した。

「そんなことってあるの」

「コバタンて言う種類のオウムであきちゃんて言う名前なんだけど、結構大きくて四〇センチくらいはあるんじゃないかな。オウムでも大型の物は五〇年くら生きるし、人間の言葉を覚えることでもわかるように、結構、頭もいいんだよ」

「それにしても、まっくんを覚えていたなんて」

「犬や猫も家族だけでなく道で頭をなぜてくれる人や、おやつをくれる人を覚えているだろう。オウムも犬、猫くらいの頭脳は持っているらしいから」

「へえ、すごいんだ」

 それかがきっかけで話を聴いてもらえて、銀行の上の人と話をして、平沼が譲歩した条件をつばめに話した。

「五千万は銀行から地上げの手数料として伊沢の入り、その金をつばめ美容室に伊沢興業が渡す。それで銀行に返済することと、二年後の新しいビルに、今と同じ条件で店を開くことができるようにしてくれると言った。ただし、二階の寮にしている部分は無理だと言っていたよ」

 一千万は平沼興業には入るらしいがそのことは言わなかった。つばめの目にまた涙があふれた。何も言わず僕の手を握って何度もうなずいている。

「ああっ!あいたたたた」

 自分で大きな声を出して体中に響いた。

「何よ、いきなり」

「ちーちゃんと太郎左衛門たち」

「あっはっは、何、それ」

 赤くはれた目でつばめは笑った。やはりこの子は笑顔のほうがいい。

「いや、こんなところでのんびり寝てる場合じゃないんだよ。僕、文鳥と熱帯魚を飼っているんだけど、ご飯あげなきゃ」

「なあだ。それならこれからまっくんのアパートに行ってあげとくわ。入院の用意もしてくる」

 実験道具や参考書籍などで、散らかった部屋の中を見られるのはちょっと恥ずかしかったが、そうも言ってられない。世話の仕方を教えて、やってもらうことにした。つばめは昼食の配膳が始まると帰って行った。僕のアパートによってから店に出ると言っていた。入れ替わりにナースが顔を出し、ガーゼを変えてくれた。

「お腹すいちゃったよ」

「残念でした。並木さんは今日一日は点滴です」

「ええ、お願いしますよ。何かください」

「ははは、おとなしくしてないと伊東先生に大きな注射されちゃいますよ」

 その若いナースはまったく相手にせずに、さっさと出て行ってしまった。

 

僕は結局その週は会社を休んで病院で過ごした。肋骨の骨折は上からコルセットをはめる以外やりようがないし、最初の日こそ痛み止めを点滴に混ぜもらっていたが、二日目には点滴ははずされ、普通にご飯も出された。体中、痛いと思っていた痛みは、腕の打ち身と首の軽い捻挫以外、全身の筋肉痛と分かって思わず笑ってしまった。ほとんど運動してない上に、絶体絶命という場面に遭遇して、限界以上の筋力を振り絞ってしがみついたからだ。いろいろな姿勢で力を入れてみて、筋肉痛の場所を確認して、そう納得した。全身の筋肉痛がこんなにつらいものだとは思わなかった。つばめに笑わされると腹が痛い。起き上がると肩から背中が痛い。立ち上がると太もももふくらはぎも痛い。それでも筋肉痛は土曜日には治まり、普通に動けるようになった。つばめは店に出る前と店が終わった後必ず顔を見せてくれた。疲れているからいいよと言っても平気だからとかしか言わない。文鳥や熱帯魚の世話もしてくれている。日曜日は手続きができないと言われて、土曜日の夕方ご飯を食べてから退院した。退院するときもつばめは店を抜けてきてくれた。女医さんにお礼を言ってから、タクシーに乗りアパートに向かった。入院しているときは快適だったが、外はむっとするような、湿度と昼の熱気がまだ街の中にこもったままだった。

「まっくん、伊沢が大野木と一緒に昨日来たの」

「雁首そろえて」

「そう、伊沢なんてまるでおとなしくなっちゃって。大野木の顔はどす黒くて、目が死んだ魚のようだったよ」

「そりゃ、そうだろう。どっちも今度のことで上に悪事がばれちゃったからね。特に大野木はお堅い銀行のサラリーマンだから、もうこれから先の道は閉ざされたろうね」

「経験者は語るだね」

「アハハ、つばめも案外きついね」

「うふふ、ごめん」

 肩をすくめてぺろりと舌を出した。

「小切手を伊沢があたしに渡して、それを大野木に渡したの。大野木は融資契約書と実家の抵当権解除の謄本を渡してくれた。もちろん今まで返済に当てたお金も、全部、返してくれたよ」

「一件落着だね。二年我慢して、またあそこで始めればいい。今度はきれいなビルになっているから、余計いい店になるよ」

 つばめはそっと手を握ってくれた。

「ありがとうね。まっくんのおかげだよ」

「安西さんのおかげでもあるよ。あの子、僕の会社に来るの、結構、勇気がいったと思うんだ。いい従業員に恵まれたよね。それもつばめの人柄のせいだろうけど」

 つばめは首をゆるゆると振り続ける。

「運がいいって分かってるよ、あたし。みんなに助けられて。従業員には今回の経緯を話して、二年の間、他のところで働いてもらって、もしよかったら新しい店するときに帰って来てって言ったわ。由紀ちゃんはまだ資格持ってないから、あたしがいた店で雇ってもらうことにした」

「つばめは」

「あたしは、これから探すよ。店やってみて、短い間だったけど、まだ勉強不足だなと思ったところが多かったの。そういう部分をも一度勉強できる絶好の機会だから」

 つばめは少し上をむいて目を輝かせながらそう言った。

「すごいね、つばめは」

 涙が出そうになった。つばめは常に上を向いて前向きで明るい。そうだ、あの時。小さい『っ』を言うときにちょっと口から出てくる舌の動きを見ながら、突然頭に昔の光景が、一枚の絵のように浮かんだ。つばめと話をし始めるきっかけになったあの遠足。あのとき、遠足なのに一人ぼっちだと言うことを気にする様子もなく、透き通ったような屈託のない顔を上げて一人で遠くの景色を見つめていた。ちょうど今のように。


一三


 月曜日、バンソウコと、包帯とコルセットで覆われていてちょっときまりが悪かったが、会社に早く出社して、部屋の掃除をした。相変わらず一番は佐伯室長だ。

「長い間すいませんでした」

「う、またがんばってくれよ」

 僕の顔を見てちょっと驚いたようだったがそう言っただけだ。

「おはようございます。また並木さんは悪い遊びをしてきましたね」

 安達チーフはそう言って笑った。チーフがこんな冗談を言うなんて久しぶりだ。次々にみんな出社してきた。

「おはよう」

 椿山さんは穏やかな笑顔で挨拶してくれた。

「なーみちゃん、志穂リンから聞いたよ~ん。あんまり若い子泣かしたら俺みたいに飛ばされちゃうよ~ん」

「大隅さん。どこに飛ばされるんですか、これ以上」

 菅野さんがまぜっかえす。

「そりゃ、資料室とか、社史編集室とか」

 大場さんが悪乗りする。なぜか、僕のバンソウコだらけの顔のことも、包帯をした腕のことも、首やわき腹のコルセットのことも聞いてこない。微妙な薄い膜があるようでもどかしい。僕に気を使ってくれているのだろうか。

「うぉっほん。並木君、ちょっと」

「はい」

 佐伯室長の前に立った。なんだか少し緊張する。この空気はなんなんだろう。

「朝いちで研究開発室へ行ってくれ」

「例のせんべいの件ですか」

「う、まあ、そうだが」

「並木さん、胸を張って行ってきなさい」

「そうだ、がんばって来いよ」

「なーみちゃん、女には気をつけろよ。出世に響くから」

 みんな口々に言葉をかけてくれる。

「リュック忘れてるぞ」

 最後に椿山さんにリュックを持たされて部屋を出た。なんだか釈然としない。セミの声を聞きながら木々が茂る小道を歩いた。三棟ある工場棟の一番正門に近い棟に向かった。久しぶりの研究開発室。六年通って通い慣れているはずの扉の前で、思いがけず緊張して、心臓がどきどきした。深呼吸を三回して思い切って扉を開いた。

「失礼します。おはようございます」

 元気よく挨拶をして笑顔を作って部屋に入った。

「やあ、並木君、元気そうだなあ」

 末永室長が満面の笑みで迎えてくれた。こんな格好で元気そうだはないだろうとちょっとおかしかった。いつか、お客様相談室行きを言い渡された会議室に招き入れられた。まだ三ヶ月ほどしか経ってないのに、ずいぶん昔のことのように思える。最近は暑いねとか、昨日、工場長とゴルフに行ってきてねと言う雑談をしている間に、研究室の女性がグラス入りのアイスコーヒーを持ってきた。研究室の女性がこんなことをするのも、今まで見たことがない。

「ところで、せんべいを見せてもらったよ」

「味は、いけると思うんですが。何しろかき餅でやったものですから、こちらでちゃんとしたせんべいに味付けしたらどうなるかなと思いまして」

「これだよ。かなりいいものだな、この醤油は」

 出されたせんべいをかじってみる。確かに自分のうちで作ったものとは比べ物にならないほど、いい食感のせんべいだ。味も上品で思っていた通りに仕上がっている。食べ終わった余韻もよく、さらにもう一枚口に入れたくなるような感じだ。

「並木君」

 末永室長は満面の笑みでこちらに乗り出す。

「はい」

「こっちに戻ってこんか」

 突然のことで声が出なかった。あの日ここで受けたショック。恐る恐るお客様相談課という新しい部屋に入っていったときの緊張感。心臓が飛び出しそうになった初めての電話。そして、暖かい歓迎会。一瞬にして短かったけどいろいろなことがっあた、この三ヶ月くらいのことが頭の中に現われては消えた。そうか、みんなこの話を知っていたんだ。それで今日は優しかったんだ。椿山さんなんかリュックまで持たしてくれて、あの部屋にもう顔を出さないでいいように気をまわしてくれて。佐伯室長の暖かい指導、安達チーフの優しい話し方、大隅係長の豪快さ、菅野さんの奔放さ、大場さんのひょうきんさ、そして椿山さん。僕は涙が出そうになった。

「末永室長」

 声が震えた。

並木をこんなところに置いておくのは会社の大損だ、大隅係長がそう言ってくれた。きっとサンプルを持ってここへ来てたとき、そんな話もしてくれたのだろう。

「何だ」

 何の疑いもない笑みでそう答える。

 でも僕はー。ぎりっと奥歯を噛み締めた。あふれそうになる涙をなんとかめのふちで食い止めた。

「僕、いまさらこちらには戻れませんよ。あっちのみんなにあまりにもよくしてもらいましたから」

 ちょっとのけぞったような、驚いた表情を浮かべた。

「もう少し時間をかけて考えていいんだぞ」

「いえ、ここにもう僕のいる場所はありませんよ。それに、僕がここに戻ったら、今度は誰が出るんですか、あそこに」

「それは、おまえ」

 室長はばつが悪そうにアイスコーヒーの氷をストローでもてあそんでいる。

「僕、あそこの仲間が好きです」

「俺はおまえの知識や発想は認めていたよ。しかたなかったんだ、無理やり人員削減を言い渡されて」

「分かっています。あの時はどうしようかと思っていましたが、今はいい仲間に囲まれて幸せです。仕事は大変だけどお客さまの本音を聞ける今の仕事は、何かがあるような気がするんです。」

「分かった。このせんべいはお客様相談課で相談して仕上げてくれ。改良点を言ってくれれば、その通りの試作を作る」

 末永室長は力強くそう言ってくれた。

「はい」

「営業や、宣伝などにも事情を話して打ち合わせをしに行かせるから」

「ありがとうございます。みんな喜びます」

「並木、おまえ変わったな。なんだかすごく生き生きしているぞ」

 ドアをあけて出るときにそう声をかけられた。それが少し嬉しかった。


「ただいま戻りました」

 大きな声で挨拶してドアを開けると、みんなの視線が集まった。このちょっと緊張感のある雰囲気、みんなの顔。部屋の中に流れる、心地よい緩やかな連帯感。やっぱり僕はここにいるほうがいい。

「おい、おい」

 佐伯室長が困った顔をした。

「なーみちゃん。がっはは。また飛ばされたか」

「ちょっと、ちょっと大隅さん」

 あわてて菅野さんが大隅係長の袖を引っ張る。

「例のせんべい、ここで相談して商品化してくれといわれまして、戻ってまいりました」

「ばかだなあ。うまくやればいいんだよ」

 椿山さんはそういうわりになんだか嬉しそうな顔をしてくれた。

「う、じゃあこの商品は何が何でもヒットするように作ろう」

「このせんべい、お客様相談から生まれた、新本当においしいせんべいと言うキャッチフレーズはどうでしょうねえ」

「安達チーフ、なかなかセンスありますなあ」

「お客様の声が生んだ本当においしいせんべい」

「皆様の意見を生かした本当においしいせんべい」

 次々に意見が出る。部屋の空気も躍動感で満たされている。商品が完成したら商品を持って百倉さんに報告に行こう。喜んでくれるだろうか。成田さんや田辺社長には後で連絡して経緯を話しとかなければ。数量の確保や価格交渉など、商品化するまでにはまだ難問が山のように出てくるだろう。でもこの仲間とならきっと乗り切れる。尾台さん。そうだ、あの人の家に訪問して大きなヒントを得たんだ。新本当においしいせんべいを持っていって食べてもらおう。おいしいと言ってくれるだろうか。

「研究開発室の末永室長はほかに何か言っていたか」

 大隅係長の声で我に返った。

「はい。今度、営業や宣伝の人もここに来て商品化に協力してくれるらしいです」

「営業は任せとけ。俺がケツたたいて絶対メインで売るようにしてやるから」

 伝説の大隅部長がそういうのだから、きっとうまくいく。

「皆さんでせんべいの改良点や、キャッチコピーや何でもいいですから気がついたことがあったら意見を出してください。佐伯室長とりまとめをお願いします」

「う、みんなでやろう」

研究開発室が作ってくれた試作のせんべいを出すと、みんなが次々に手を出す。

「このまえのも美味しかったですが、こうしてせんべいに味付けするとまた一段とおいしいですね」

「第二弾は七味まぶすか」

「あっ、いいですねえ」

「僕、今度、出張に行かせてもらって思ったんですけど、これを商品化できたら今度は味噌味のせんべいに挑戦してみたいんですよ」

「へっ?みそ」

 大場さんが素っ頓狂な声を出す。

「そうなんです。もともとは、江戸時代、峠や宿場町の茶屋などで休憩するときに、お茶と団子を出していたんです。団子はみたらしや甘辛いしょうゆ味、それから五平餅のように味噌や他の物をつけて焼いた物、安倍川餅などのようにあんこをつけたり、中に入れたりしたものなど工夫してありました」

「そう言えば、団子や餅などのお土産は各地にありますねえ」

「うん、種類も多いな」

「さすがに大隅係長は女性におみやげを買ったからよくご存知ですよね」

「大場、ひがむな、ひがむな」

「そういう団子が売れ残ると、当時のことだから捨てたりしないんです。硬くなってしまいますので次の日には売れないんですけど、持って帰って自分たちで食べるんですよ」

「冷蔵庫もラップもなかったからなあ」

「でも、売れ残りだし、硬くなっているのならあまりうまくないだろうね」

 いつのまにかみんなの視線が集中しているのを感じて、ちょっとどぎまぎした。みんなが僕の話を真剣に聞いてくれるなんてことは、ここに来るまでなかった。心地いい緊張を感じ、そっと息を吸い込んで話を続けた。

「そうなんですよ、椿山さん。うまくないんで、ある人が暖めなおすために火であぶってみたんです。そうしたらしょうゆが焼ける香ばしい匂いと、あのぱりっとした食感になったんです」

「う、それがせんべいか」

「そうなんですよ。それがあまりにうまかったので、店に並べたらそれが飛ぶように売れたと言うことです」

「そうなんですか、じゃあ餅を作っていたところではその噂を聞いてみんな焼いてみたでしょうね」

「そうなんですよ安達チーフ。だから味噌をつけたものも焼いていたはずなんです」

「それを作ってみると言うのか。じゃあ、味噌探しか今度は」

 菅野さんがやる気満々で身を乗り出してくる。

「菅野さんはどこかご存知ありませんか」

「いや、そういうことは詳しくないけど気をつけて探してみるよ」

「ありがとうございます。たとえば味噌味の食べ物、ラーメンや鍋や酒のつまみでせんべいに合いそうな味噌の味でものでもいいんです。そうじゃなければ、おいしい味噌味の食べ物でもかまいませんから、気がついたらメモしておいて教えてください」 

「ようし、おもしろくなってきたな」

「将来の夢もいいけど、とりあえずこれを商品にしようぜ。こいつは売れること間違いなしだから」

「大隅さん、この前言ったこと忘れていませんよね」

「なんだよ、菅野」

「こう見えても凄腕営業マンといわれていたとか大見得切ってましたよね。売るほうはお願いしますよ。滑ったら大隅さんの責任ですからね」

「それは任せておけ。菅野よ、いい営業はな、売れるものと滑るものの鼻が利くからいい営業なんだよ」

 どんと胸をたたいて請け負ってくれた。

「ちょっと待ってくださいよ、大隅係長。じゃあ、売れるものを持って歩いて、売れそうにないものはどうするんです」

「いい質問だ、椿。それは人に押し付けるのよ。売れないものに時間をかけてるだけ無駄だからな。がっはっは」

「じゃ、売れそうもないお菓子が残っちゃうでしょ」

「おお?意外と正義感があるようなことを言うな大場にしちゃあ。でも世の中うまくできててよ、売れないものを無理やり売ってどんなもんだいと威張りたいやつもいるのよ。だから、そういうのはそいつに任せるの」

「で、大隅さんはこのせんべいを売るのですね」

「そうです。今はここの所属だからおおっぴらには歩けませんが、こう見えても俺が顔を出せば、メインの売り場に積んでくれるスーパーや小売店はまだまだ多いですからね」

「う、じゃあ大隅係長はしばらく外回り」

 みんながせんべいのサンプルを囲んで盛り上がっている。それが嬉しかった。ここが僕の居場所だ、改めてそう思った。


一四


金曜日の夜、つばめから電話があった。

「まっくん、おかげさまで無事店を閉めれたわ」

「そう、疲れただろ」

「ちょっとね」

 体も疲れただろうが、それまでいろいろあって精神的にも疲れただろうな。僕たちはしばらく受話器を握ったまま何も話しをしなかった。うぶな恋人同士のように、話をしなくてもラインでつながっているだけで、心地よかった。

「ねえ、つばめ。明日は休みなんだけど一緒にどこか行かないか」

「うん、いいよ」

「僕さ、暑いんだけど行ってみたいところがあるんだ」

「どこ?あたしはどこでもいいよ」

「あのさ、小学校のときに遠足に行った山なんだ」

「あっ、それいい。行ってみたい、あたしも」

「じゃあ、明日、西武池袋線の池袋駅で。急行の一番前に九時でいいかな」

「いいよ。じゃあ明日ね」

 つばめの明るい声がぷつんと切れて、機械音がなっている。


 土曜日の朝、すごく早く目がさめてしまった。用意をしてご飯を食べる。腕の包帯も取れて、肋骨と首以外はほとんど痛みはなくなっていた。顔も内出血のため黒くなっていたが、それも黄色くなったり小さくなってきていた。帰ってきたときは服を着るのにも、洗濯するのにもあっちこっちが痛かったが、もう普通の生活をするのには何の支障もない。ちーちゃんと太郎左衛門たちにご飯を上げたらもうすることがなくなってしまった。しばらくテレビなどを見ていたが、どうにも早く行きたくなってしまって部屋を出た。コンビニによったり、池袋の地下にある王様のアイデアのショーウィンドーを見たりと、あっちこっちと寄り道をしながらできるだけゆっくり来たが、それでも約束の九時に二〇分も早く着いてしまった。

「まったく、子供の遠足じゃないんだから」

 どうにもコントロールできない自分の感情に苦笑をしながら、ゆっくりとホームの一番前まで歩いていく。

「まっくーん」

 周りを気にしない大きく元気な声が聞こえてはっと顔をあげると、笑顔のつばめがちぎれんばかりに手を振っている。白いTシャツにブルーのジーンズが夏の強い日を浴びて眩しかった。僕は思わず駆け出した。

「ちょっと早すぎると思ったんだけど、ばかみたいに早く目がさめちゃって」

「あたしもだよ。遠足の日っていつも暗いうちから布団の中で目がパッチリ開いちゃうんだ、昔から」

「じゃあ、いっしょか」

「うん、いっしょ」

 二人で笑った。手をつないでまだすいている車両の一番前に乗り込んで、並んで座った。外はそろそろ暑くなりかけていたが、車両の中は程よく冷房が効いていて、乾燥した空気が気持ちいい。

急行に一時間も揺られていると、住宅街は駅の周りで途切れ、山の緑がが急に近くなってくる。駅で止まると熱気とともにセミのにぎやかな声が車内に流れ込んできた。風も熱いものの心なしか少し乾燥しているようにも思える。やがて目的の駅につき、小学校のとき何度か来た懐かしい町に降り立った。さすがに駅前のアスファルトは溶けるような厚さだ。汗が噴出し、背中を伝って流れ落ちる。

「せっかく遊びに来たのに、ちょっと暑かったね。映画でも行けばよかったかなあ」

「あたしは平気よ。夏は好きだし、あの山の上はきっと気持ちいいよ」

「そうだね」

 つばめは僕の手を取って勢いよく歩き出した。やがて回りが木々で覆われるような山みちに入ると、太陽の光もさえぎられ、急に温度が二、三度下がったようだ。杉の木の香りだろうか。とても心地よい香りが道にあふれている。

「わっ、きれい。まっくん、これ見て」

 つばめが指差した先には、琥珀色に輝く小さな宝石のような粒が落ちていた。なんだろうと思って触ってみると、飴を溶かしたような感触があり、べたべたする。匂いをかぐと回りの気の匂いがした。

「ああ、これは杉の木の樹液みたいだね。べとべとするけど、いい匂いがする」

 そう言うとつばめも躊躇なく琥珀色の粒を指にすくって、匂いを嗅いでいる。

「ほんと、いい匂い。気持ちが落ち着くような香りね」

 再び手をつないで歩き出す。鳥とセミの声に囲まれて急な坂を登っていく。

「あのげっ、げっって言うのは何の声なの」

「ああ、あれは仏法僧だと思うよ。紺色っぽい色でなかなかかわいい鳥だよ」

「へえ、その鳥、ブッポウソウって鳴くからその名前がついたって聞いたことあるけど」

「それは違う鳥だったらしいよ」

「あの、きよーっ、きよーって言うのはなあに」

「あれはね、ホトトギス」

「まっくん、よく知ってるねえ。尊敬しちゃう」

「鳥は、いろんな鳴き方するから、難しいよ。僕は、分からないときの方が多いんだ」

 やがて急な坂道が少し緩み、気持ちのよい尾根に出た。もう一息だ。リュックから水筒を出して、冷たいお茶をつばめに飲ませ、自分も一口飲む。

「ああ、生き返るよね。汗かいた後、冷たいの飲むと」

「そう言えば、遠足っていつも春だったからね」

「そう、そう、秋はバスで行って、春は歩きだったよね」

 再び歩き出す。僕はあのころのことを思い出していた。そう、背の順で二列になって登っていて、つばめはあの時も僕の少し前を歩いていた。他の子が上り坂で重そうに足を運んでいるのに、つばめはまるで雲の上を歩いているように見えた。多分そのときつばめのことを始めてまぶしく感じたのだろう。だからあの時、お弁当の時間につばめが北側の斜面に歩いて行ったのがすぐに分かったんだ。つばめ、僕はあの瞬間きっと君に恋したんだ。それが初恋だった。今まで自分の気持ちと記憶にふたをするように生きてきたから、長い間そんなことにも気がつかなかったんだ。そっと横を見ると相変わらず少し上を向いて軽やかな表情で歩いている。尾根で木が切れているところでは爽やかな風が吹いていて、つばめの髪の毛が涼しげに揺れる。

 やがて山頂に到着した。山頂を越えて南側の面は開けており、ベンチや展望台などがある。あのころとほとんど変わってなかった。この展望台の上や屋根のついたベンチを、友達が競って場所の取り合いをしていた。昔の事をちょっと思い出しながらしばらく景色を眺めていたが、僕はつばめの手を引いてもと来た道へ戻っていった。やはり僕たちの思い出の場所は、二人でお弁当を食べたこっち側だ。それほど見通しのよくない北側の斜面に並んで座った。木々の間から今登ってきた細い尾根が、その向うに砂粒のようにきらきら光る僕たちの住んでいた街が見え隠れしている。

「このあたりだったかな」

「うん、あたし、ここに座ったよ」

 つばめはあたりを見回して、確信したようにそう言った。そして大きな木を背にして腰をおろした。あの日、机の替わりにして弁当箱を置いていた切り株もそのまま残っている。

「まっくん最近すごく変わったね。なんだか明るくなったよ」

「そうかなあ。つばめがいろいろ変えてくれたからじゃないか」

「それもあるかもしれないけど。うん。なんだか自分に自信があるような感じと言うか、力強くて今のまっくん好きだな、あたし」

 突然好きと言われて顔が一気に火照る。

「今の職場で仲間ができたせいかもしれないな。みんながそれぞれに個性的で、それをみんなが受け入れている。本当にいい人たちでね。今度新しい商品をみんなで相談して作ることになったんだ」

「へえ、すごいね。あたしに一番に食べさせてね」

「うん。僕、お客様相談室のほうがそういう新しい商品をいっぱい作れそうな気がするんだよ」

「仲間がいるからね」

「うん。そして飾りやお世辞のないお客様の声を直接聞ける場所だから」

「強烈な本音よね、クレームのときの言葉って。あたしたちもよくあるけど」

 ふーっと涼しい風が木々の間を縫って渡ってきた。

「そう言えば」

「えっ、なあに」

「いや、いいんだ」

 僕は考えていた。つばめと仲良くなるきっかけができたのはこっちの北側の面だった。中学のとき、優しくしてくれた保健の天野先生がいた保健室も校舎の北側の部屋だった。そして、お客さま相談室に行かされたときも、暗い気持ちで北側の一番奥のはずれににある建物に向かった。今回のたまり醤油を紹介してもらった百倉さんの家も駅から北に歩いて行く。僕は北に行くといいことがあるみたいだ。そして今日もあの日と同じように北側の斜面に座っている。

「へんなの、まっくん」

クスリと笑うとリュックからけっこうおおきな弁当箱を二つ出して開いてくれた。驚いたことに中味は刻みねぎの入ったそうめんだった。保冷剤を入れていたのか、入れ物自身か冷たく冷えている。どうするのかと思っていると、水筒を取り出し弁当箱のそうめんの上にトクトクトクとかけていく。一口食べてみると薄めのすごく冷えた麺つゆがたっぷりとかかっていて驚くほどうまい。

「うまいね、これ」

「うん、暑いときはいつもこれなんだ、あたしは」

「本当にこれはうまい。汗かいて登ってきた後には、この冷えたそうめんがどんなご馳走よりうまいよ。やはりその時々に応じた物と味というのは大切だね」

「ふふふ、そう言ってくれると、重いのに持って上がってきたかいがあるよ」 

「あのときさ、つばめが気になってこっちについてきたんだけど、ここまで来ると恥ずかしくて隣りに座る勇気、なかったよ」

「あたし、まっくんがきたことは知ってたけど。あのとき、イチゴくれたでしょ。すごく嬉しかったよ。あたし一人でも別に寂しくないと思ってたけど、人に何かをしてもらうのってとっても嬉しいものだなって始めて知ったような気がするよ、あの時」

「うん」

「だから、今の仕事が楽しいの。人に何かしてあげて喜ばれるのが」

「ねえ、これ、覚えてるかい」

 僕はピンク色のビニールの袋に入ったキティーのチョコレートをリュックのポケットから出してきた。

「あっ、それ」

「僕も嬉しかったよ、つばめがこれくれたとき。だから僕もお菓子を作る今の仕事しているのかな」

「まっくん……」

 ちょっと遅すぎたけどやっと気がついたんだ。つばめは僕にとって大切な人だって。もっと頼りになる男になるからさ、いつまでも僕のそばにいて欲しい。

「ねえ、つばめ、僕と結婚してくれないか」 

                                       了   




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