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春は北からやて来る  作者: 石倉栄治
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うまくいかない人生、仕事  生きにくさを感じているすべての人への応援歌


電車を下りた足で本屋に向かう。本は昔からよく読んだ。遊ぶ相手がいなかったせいでゲームをしたりしていたが、人が作った物に踊らされているようでどうもおもしろくない。やっている途中は夢中になっているし、おもしいろいように思うのだが、全面クリアしてしまうと達成感よりむしろむなしさを感じた。長くは続かなかった。テレビも心に響かなかった。通信教育を受けていた高校のあるとき、図書館に行ってみた。平日の昼間の図書館はがらんとしていて膨大な本が、全部自分の物になった気がした。たまたま手に取った物はミステリーだったが、導入の部分から主人公と思われる女の子が死んでしまう。どうなるんだと思ったら母親の体は小学生になっていた。女の子と母親が入れ替わってしまったのだ。おもしろくて最後に少し切ないミステリー恋愛小説になっていた。それから本にはまり、小説を手当たりしだい読んだ。歴史小説から、歴史物、旅行記などに範囲が広がっていった。今日は、駅前の大きなこの本屋で、仕事に何か役立つ本を探そうと思って立ち寄ったのだ。たなぼただったけど今日少しうまくできたことで、今の仕事にちょっとだけ興味がわいた。今のような対応の仕方ではすぐに行き詰まってしまうだろう。少しはましに人と接したり話したりできないだろうか。実用書のコーナーで『クレームをチャンスに変えろ』『営業の神様は、必ずお客様をうんと言わせる』という本を見つけ、それから自己啓発のコーナーに回って『人に好かれる技術』『交渉の達人はこうしている』という本を買った。四冊もリュックに入れるとさすがにずっしりとする。

 期待して読み始めるてみたが、驚くようなことが次から次へと書いてあるわけではない。そりゃ、そうしたいよ、できるものならということが多かった。こんなこと出来るのはよほど積極的な性格の人か、絶対に傷つかない鉄のように硬い心をもった人だろうと思えてしかたない。そう言えば大隅係長は営業でいい成績をあげていたらしい。そうだ、あのタイプの人が読めばさらに成績が上がる手引書だなあ。などと思いながら最初の本を読んだ。

 

 七月に入った。相変わらず雨が降っている。そして肌寒い。今年は雨が多く冷夏になるのではないかと思う。季節の天気や温度は菓子の売れ行きや、売れる物の種類に影響する。どれをどれの位の量作るかなど工場の生産計画のほうも大変だろう。明日は土曜日で休日なので帰りに大宮の駅で途中下車した。ちょっと自分の印象を変えてみようと思って駅ビルや周りの商店街をぶらつくつもりだ。この前買った本の中にも出てきたが、人と接する仕事は清潔感のある第一印象を与える、好感が持てるようにするなど見た目も結構重要だと佐伯室長にも言われた。そう言えば中学卒業のときに保健室の天野先生にも髪形やめがねを変えたらと言われたことがある。まず洋服売り場に行ったが、仕事に着る服は限られている。それに僕が見ていてもいらっしゃいませとは義理で言うが、買うように見えないのだろうか、どの店でも店員が寄って来ない。スーツなどは紺でもグレーでも同じじゃないか。どうすれば第一印象が良くなるのかさっぱり分からない。はじめの意気込みは一日水をやらなかった花のように早くもしおれてしまい、うつむきながら駅ビルを出た。どうしようかと思って途方にくれていると、雨で暗くなりかけた駅の向かいに大きなガラス張りの明るい店が目に付いた。僕なんかが用がある店とは思えないが、女性の高級な洋服屋なのか華やかな雰囲気のある店だ。一体何の店なのかだけでも確かめてみたくなった。駅ビルを出てふらふらとそっちのほうに近づいてみた。小降りになった雨の中、ビニール傘をさして店の手前でチラシを配っている若い女の子がいる。もちろん僕になんかチラシを渡さない。女の人に渡しているようだ。店の前には電気工事の人か大工がやっているように腰のベルトにちょっと大きな物入れをつけた若い男が二人立っている。そろいの黒のシャツに、黒のスラックスをはいている。通り過ぎるときに見たら物入れの中には、はさみが四本くらい、櫛が数本、ものをはさむような物が何本か挿してある。横を見た。とても散髪屋には見えないような店だったが、女の人の髪を切る店のようだ。お客はあまり入ってない。高いのだろうか。通り過ぎるときまだ幼く見える女の子と目が合った。やはり黒の襟付きのシャツに黒の膝丈のスカート。にっこり笑ってチラシを手渡してくれた。

「男性の方もどうぞ」

ちょっと舌っ足らずの話し方だ。僕は会釈をして通り過ぎた。そうだ髪形を変えてみよう。そう思うとどうしても今のおしゃれな店でやってみたくなった。回れ右をした。さっきチラシをくれた女の子がさしているビニール傘が近づいてくる。どきどきした。息がつまりそうなくらい緊張してそのまま通り過ぎる。チラッと横目で店の中を見ると広いフロアーに二席くらい髪を切っている人が見えた。明るくフラットな空間、そんな清潔感のある店だと感じた。少し行きすぎてまた戻ってきた。店の明かりがどんどん近づいてくる。心臓がどきどきしてのどが渇く。だめだ、入れない。いくじなし。こんな所に入ったことないんだからしょうがないじゃないか。自分にがっかりしてうつむいた。どこか別の散髪屋で髪形だけでも変えて帰ろう。膨らみかけた風船はあっけなくしぼんでしまった。

「いかがですか」

 驚いて顔を上げるとさっきの女の子が微笑んでいた。短く見える後ろで束ねた髪、少しピンクのふっくらしたほほが幼く見えた。

「あの、いいんですか、僕でも」

 顔が真っ赤になっているのがわかる。背中では大量の汗が流れ落ちている。

「もちろんです。どうぞ」

 女の子のはじけるような笑顔に誘われて明るい店の中に入った。なんだかまぶしくて顔をあげられない。フロアーの中央にあるおしゃれな椅子に座らされた。男の散髪屋にあるようなリクライニングと洗面台つきの機能的で不恰好な椅子ではない。こんなところで髪を切ったあと、どうやって髪を洗うのだろうか。変な心配ばかりが余裕のない心の隙間に広がっていく。さっとカバーをかけるまでその子がやってくれた。宜しくお願いしますとその子が言う声で振り向くと、三〇前くらいの女の人が後ろに立っていた。

「いらっしゃいませ。今日はどのようにいたしましょう」

「ええと、あの……」

「はい」

 僕は頭が真っ白になりな頭が回転しない。落ちつけ、落ちつけ。

「ええと、どうしたらいいでしょうか」

「くっくっく」

 横に置いてある鏡を見ると、女の人は顔を真っ赤にして笑いをこらえている。隣りで心配そうな顔をしてさっきの女の子が立っている。

「あの、いやそうじゃなくって。すいません。僕こういうところ初めてなもんで」

「いえ、失礼しました。お客様がこちらに来られたということは、今までの髪型を変えたいということですよね。それはどんな感じに考えていらっしゃいますか」

 僕は少し落ちついてきた。ふーっと息を吐き出した。なんだかこの人と話をしていると気持ちが落ち着くような気がする。横におかれている長細い大きな鏡をチラッと見ると、きれいな長い髪の女性が僕のすぐ後ろに立っている。

「短くしてちょっと髪の毛が立つような感じのイメージなんですけど」

「ちょっと立ち入ったことをお聞きしますが、お客様はどういう理由でイメージを変えようとしているのでしょうか」

「あの…」

「いえ、お答えしにくければ結構ですが、それによって髪形を考えたらどうかと思ったものですから」

「仕事でお客様にいいイメージを持ってもらいたいんです。今度、移動で苦情とかを聞いたり、不良品が出たときに謝りに行いったりする部署についたものですから」

「へえ、大変なお仕事をなさってるんですね。では第一印象が大切なんですね」

「ええと、さっき言った短い髪形って、朝ニュースに出てくるような若いアナウンサーの爽やかな感じをイメージしたんです」

「大体分かります。ちょっと待ってて下さいね。由紀ちゃん、本とって。四月号がいいわ」

「はい」

 鏡越しに見ていると、先ほど案内してくれた女の子が大きな本を持ってきた。本を開いて見せてくれる。若い男のモデルがポーズを作って写っている。なるほど、髪形を見る本なのかと分かった。

「お客様、これなんかとっても爽やかな感じですよ」 

小さい『っ』。突然鏡に映る女性を見ていてそう思った。黒っぽいブラウスの胸に金色に輝くネームプレートを見た。光が反射してよく見えない。『井』の文字だけがかろうじて見えた。そう言えばすごいきれいな人だけど、むき卵のようなつるっとした顔。自分が知っているのとは少しほほからあごの線がとがっているが、大きく少し上がり気味の眼の形に昔の面影があるかもしれない。僕はゆっくりと深く息を吸って吐き出した。

「あの、お客様?」

「ええと、もしかして籠井さんですか」

 鏡の中の女性は怪訝そうな顔で小首をかしげた。違うんだ。やっぱり言うんじゃなかった。ああ、どうしよう、変なこと言っちゃったよ。その女性の表情が大きく動いた。僕は顔を伏せた。

「あの、」

「あの、すいません」

 その女性と僕の声が重なった。

「もしかしてまっくん?」

「はい、そうです」

「わー、まっくんだ、まっくんだ」

 籠井さんは僕の肩を両手でパンパンとたたいた。

「いや、その、お久しぶりです」

「あはははは。まっくん、ため、ため。敬語おかしいよ」

「あっ、あの。そうだよね」

 顔がかっと熱くなって口ごもった。

「ようし、じゃあ、あたし張り切ってやっちゃう。思いっきりいい男にしてあげるから任せといてね」

 つばめの声が大きかったので店中の注目が集まっているようで顔をあげられない。

「いや、普通でいいよ」

「あはは、いいから、いいから」

つばめは腕まくりをして、ポケットからよく切れそうなはさみを取り出してちょきちょきとやって見せた。

翌日の土曜日、朝一〇時につばめとここの駅で待ち合わせをして、二時間後に店を出たときにはなんだか顔の回りが涼しく、身も心も軽くなったような気がした。千円カットで散髪して二ヶ月以上たって、ぼーっと長かった髪はふんわりとウエーブがかかり、サイドはすっきりと短くなっていた。ガラスに映るたびに姿を映してイメージが変わった自分を見た。なんだか嬉しい。


「おはよう~。まっく~ん」

 改札の向うではじけるような笑顔のつばめが大きな声で呼びながら手を振っている。あいつあんなに明るかったかな。みんながこっちを見てちょっと恥ずかしかったが、嬉しい。

「おはよう。今日は店、いいの」

「うん、十二時から出るから。今日はまっくんのめがねと服を選ぶんだから。まずめがねからね」

「ああ」

 つばめに勢いよく手を引かれるようにして歩き出した。今流行の安い眼鏡屋に入った。全部一万円以内でできるので驚いた。いつの間にこんなにフレームの種類ができて、安くなったのかと思った。種類が多すぎてかえって迷う。これはと思うものをいっぱい選んで並べて、かけてみたがよく分からなくなってきた。

「まっくん、どれしても似合うよ。かっこいいよ。あたしが一つプレゼントするから仕事用と遊び用と二つつくろうよ」

 そう言って選んでくれたのは仕事用にはコッパーといって銅色の上ふちのめがね。レンズの部分は少し丸くなっていてソフトな感じがする。すっきりしたビジネスマンという感じだ。もうひとつ遊び用に選んでくれたのは、紺色の上ふちで横のつるの部分はブルーでちょっと太くメッシュになっている。レンズは角張っていてほんのわずか傾斜をつけ薄い茶色の色が入っているのを選んだ。素材はどちらもアルミらしく重くなくぴったりとフィットしているわりに痛くなかった。

「あはは、これをするといま流行のちょい悪アニキだよ。まっくんかっこいい~」

 つばめは喜んだが、なんだか自分でないようでくすぐったい。こんなおしゃれを考えたこともなかったし、第一、自分の顔をこんなに長い時間見るなんて事、今までなかった。コッパーのほうは七千八百円、紺色のほうは九千八百円。銀色のめがねをはずし、つばめがプレゼントしてくれた紺色のめがねを早速かけた。

「次は洋服ね」

 つばめは僕の腕を取って歩き始めた。隣りからいいにおいがしてくる。これが小学校のとき仲がよく、中学ではいじめっ子を震え上がらせるほど怖かった、あのつばめだと思うと不思議な気がしてくる。腕を組んだまま紳士服売り場まで迷うことなくリードしてくれた。各店はバーゲンをしていて半額になっていた。まず仕事用の服を見ることにした。つばめはこれがいいかとか、これはちょっとへんだとか僕の体に服を近づけいろいろと考えてくれている。つばめに聞くとその服だけでなく中に着るシャツの色やそれに合わせるネクタイの色を考えながら見ているのだそうだ。つばめが選んだのは濃緑色のジャケット、ベージュのスラックス、明るい黄色系のネクタイ。紺色のスーツを持っているというと、それに合わせる薄い色のピンクのワイシャツ。それにブルーとグレーのストライプのネクタイ。それから黒で織りの入ったスーツは私のプレゼントといって選んでくれた。今年は黒がはやっているそうだ。少しスリムなズボンだった。それに合わせるブルー大きなストライプののシャツ。それからピンクのネクタイ。あっという間に時間が過ぎて気が付いたらもうお昼前だった。

「つばめ、ご飯でも食べに行こうよ」

「ごめんね。もうそんなに時間がないよ」

 仕方がないので駅の向かいにあるハンバーガーショップに入った。

「ジャケットは中に普通のシャツを着れば普段着になるよ。靴は茶系の靴がいいわ」

「紺の背広はは黒の靴がいいよね」

「それはどっちでもいいよ。黒のスーツには黒の靴がいいと思うわ」

「さすがに髪を切る仕事をしているだけあってセンスいいよね。何を着ても同じと思っていたスーツがすごく華やかな印象の仕事着になったよ」

「いつもそういうこと気にしててみて。あっ、いまの人の服、素敵だなとか、今の色の組み合わせいいなとか思っていると、自然に自分なりの好みの形や色使いが分かってくると思うの」

「今日は本当にありがとう。一人ではとてもできなかったよ。イメージ変えようと思ったけど何をどうしたらいいか昨日は本当にとほうにくれてたんだよ、つばめの店に行くまで。いろいろ見てもらって助かった」

「あたしだって楽しかったよ、いろいろ見て歩くの」

「あの、今度お礼をしたいんだけど…どうかな」

 僕は思い切って誘ってみた。

「お礼なんていいよ。でもまた、一緒にどっか遊びに行こうね」

「うん」

 これって断られたってことかな。そうだよな、いまのつばめすごくきれいだもんな。誰かと付き合ってるのかもしれない。

「休みが合わないからなあ、まっくんと」

「僕、休み取るよ」

「無理しちゃだめだよ。じゃあね、今度の火曜日はうちが休みだから、まっくんの会社が終わってからご飯でも一緒に食べよ」

「うん。じゃ、火曜日の五時半に」

「ね、たまには池袋か新宿まで出ない?電車で一本だし」

「そうだね」

 僕たちは手を振って分かれた。僕は帰り道歩きながらさっきのことを考えていた。つばめと食事の約束ができたけど、休みは取らなくていいって言われた。それって気を使ってくれてるのか、それともそれ以上の付き合いはしたくないということだろうか。それ以上の付き合いって、僕はつばめとどうしたいんだろう。遊びに行こうといってもどこへいったらいいのか分からない。だいいち、つばめはどんなことが好きなのだろう。食べ物は何が好きなのだろう。好きな人はいるのだろうか。気になり始めるといろんなことが一気に、頭の中で膨れ上がってしまった。でも、食事を一緒にできるだけでもいいじゃないか。僕はいつも思ったことをストレートに言えない。一人でああでもない、こうでもないと考えているだけ。だからみんなに嫌われるんだ。この前の本にも書いてあったよ。この人はと思う人に理解してもらうには自分も努力しなくっちゃいけないって。自分から変わる努力をして自分の感情を表現する。自分の欠点や傷も隠さないでも聞いてもらえばいい。そのときは分かった気がして、ちょっとだけ椿山さんとのふれあいができたような気がしたけど、女の人を相手に実行するのはまだちょっと難しい。第一つばめと僕は小さいころからお互い知っているわけだし……本当につばめの事を知っているんだろうか。何を知っているんだろう。


「おはようございます」

 月曜日の朝。出かけるときに着ていく服の色あわせに戸惑っていつもより遅くなってしまった。ちょっと緊張してお客様相談室のドアをあけた。佐伯室長はいつものように、机で読んでいた新聞からちょっと目をあげた上目遣いのままぽかんとしている。

「ええ、その。並木君です?」

 僕はにっこり微笑んでうなずいた。それから次々みんなが来るたびにみんな驚いて、からかって、のけぞって、口笛を吹いて、そしてみんな肩をたたいて笑いかけてくれた。そう、今日、僕はつばめが選んでくれた中で一番派手な、グリーンのジャケットにベージュのパンツ姿で出勤したのだ。もちろんめがねはコッパーカラーの物に変えてきた。

「なかなかいいですね、並木君。そういう感じのほうがお客様の気持ちもやわらかくなるんじゃないんですか」

 安達チーフは元教師らしい評価だ。

「しかし、大変身だな、なーみちゃん。女でもできたか」

「ない、ない、ありえないよ大隅さん」

「菅野、それはなーみちゃんに失礼だろ」

「でもどうしちゃったんだ、なみちゃん。髪の毛もなんかすごく決まってるじゃん」

「ふふふ、どうしちゃったはないでしょう菅野さん」

 椿山さんは穏やかに微笑んで親指を立ててウインクしてくれた。

「いや~、変ですか。変ですよね、やっぱ。でもちょっと自分を変えてみようかなとか思ちゃいまして。そうしたら何かいいことあるかなって」

 僕は気になっている髪の毛にちょっと手をやって言った。

「ない、ない。そうそういいことなんてあるもんか」

「まあいいじゃないですか菅野君。並木君、なかなかいい感じだぞ。部屋が明るくなったようだ」

「並木、佐伯さんの言うとおりいいセンスだぞ。髪もパーマかけてちょっと茶髪気味だな。それくらいやさしく品がよく見えるようになるなら茶髪やパーマもいいかもな」

「パーマって椿。おまえ、その坊主がちょっと伸びたような頭にかけるのか。パーマかけるって柄じゃないよ」

「菅野さん、パンチパーマですよ、椿山先輩の場合」

「大場、いいのか」

 椿山さんがちょっとすごんだふりをして見せた。

「すみません。勘弁してください」

 大場さんは首をすくめ、手を合わせる。

「あっはっは。しかし、こりゃ、俺の次に女を泣かすようになるだろうな」

「じゃ、大隅さんと同じように君もこれで会社を辞めましたのくちになるのですか」

 小指を立て安達チーフが珍しく冗談を言った。

「まだまだ俺のほうがもてますよ」

「あははは。菅野さんは風俗嬢にでしょ」

「大場君、君と一緒にしてもらいたくないもんだね」

 部屋の空気は柔らくなって流れた。今朝、部屋に入るまではどきどきした。ちょっと恥ずかしいとか、みんなにからかわれるんじゃないかとか、仕事をする格好じゃないと怒られるとか。でも、みんなが喜んでくれたような気がする。僕自身も気持ちがいつもより明るくなったみたいで、よーし今週もがんばるぞという力が湧いてきた。つばめ、ありがとう。僕、もう少しここでがんばってみようと思う。

 

僕は机に向かいこの前読んだ営業の人向けの本を思い出していた。初対面の人と名刺を交換しただけで終わってないか。顧客をあなたのファンににすることができないでいるあなたは何かが足りない。とりあえず時間をとっていただいたことに対するお礼状を出すことからはじめてみようという内容だった。電話や面談よりも自分宛のはがきや手紙というのは嬉しいものだと書いてあったが、僕はそれを読んで中学のときに天野先生が、青森からくれた年賀状を思い出していた。小さな紙片の、小さな文字があんなに嬉しかった。天野先生とは年に一度のことだが、その後も年賀状を交換して近況を伝えあっている。もちろん今でも天野先生のはがきは毎年心待ちにしているし、もらうと嬉しい。

 僕の机の横でことっと音がした。見るとカップに湯気が立っていてコーヒーのいい香りがしてくる。慌てて見上げると椿山さんがにこっと笑い、手のひらでどうぞという仕草をして自分の席に戻っていく。なんてかっこいいだろうこの人。しばらく見とれ慌てて立ち上がってお礼を言った。いつも自分専用のいい豆を買ってきて、日に何度か入れて飲んでいるのを僕にもくれたのだ。カップを近づけるとなんともいい香りがした。一口、口に含むとほろ苦い、それでいて深い味わいがある。あとでちょっとだけ酸味が口の中に残る。なんだか今考えていたことが頭の中スーッと整理されるような感じがした。そうだ、クレームを受けた人の住所がわかっている場合、はがきを出そう。お詫びの言葉、事故が起こった原因、その後の対策などを書いたらいい。工場を直接回ると、その取り組みに特に気をつけているようになっていることもある。それもはがきに書いて送ってみよう。はがきに書き始めると、時候の挨拶から始まって結構書くことが多く、文字が小さくなっていく。そしてすぐに社用箋にして手紙に変えた。電話だけで済んだ先にも住所がわかっている場合は出すことにした。考えてみるとクレームや質問が来るということはうちの商品を買ってくれたからで、一番大切にしなければいけないお客ということではないだろうか。これを失うのと、もう一度うちの商品を買ってくれるようにするのとでは大違いだ。別の本にクレームは迎え撃つようにしろ。前のめりなほど積極的な気持ちで処理しなければならない。クレームのときは信頼を得るための最大のチャンスだからと書いてあった。歓迎会のとき佐伯室長も似たようなことを教えてくれたような気がする。そうなんだよ、この部署はお客様の声に一番近いところにいるんだから大切部署なんだ。決して姥捨て山やガス室なんかじゃない。

 ぽんと肩をたたかれた。驚いて顔をあげると佐伯室長が笑っている。慌てて見回すと部屋には誰もいない。

「昼休みになったよ」

「あっ、ああ。そうなんですか」

「ずいぶん一生懸命やっていたのでね、みんな気を使って静かに出ていったんだよ」

「ええ、ぜんぜん気がつきませんでした」

「私も声をかけようかどうしようかと迷ったんだが、ま、ちょっと息抜きでもしておいで」

「すいません。自分の世界に入っちゃうと周りが見えなくなってしまって」

「いいんだ、いいんだ。自分の仕事さえちゃんとやっていればほかのことはあまり干渉しないのがここのルール。でも飯を食うのを忘れて空腹で倒れられても困るから」

 愉快そうに笑って室長は自分の席に戻って行った。


 翌日はつばめがプレゼントしてくれた黒のスーツとピンクの大きなストライプのシャツ、黄色にグレーのストライプが入ったネクタイをして出勤した。今日は夕方つばめと夕食を食べに行く日だ。朝から体が軽く落ちつかなかった。クレームの電話も苦痛ではなかった。明るい声できびきびと対応できていたと始めて佐伯室長がほめてくれた。分からないことがあればPCで検索して答えればいいということだが、僕はいざ個人宅を訪問したときにそれでは困ると思い、項目ごとに印刷して常に目を通し覚えていくことにした。理科系なので材料などはもちろんだが、機械のラインなどの話も案外すっと頭に入ってくる。しかし、クレームになる原因のほとんどは人為的なミスによるもので、うっかり操作を誤り、帽子をかぶり忘れ、検品をしているときに見逃して、倒してなどのほかに、会社以外の流通段階や小売店段階でという原因も三分の一以上はある。中には消費者の故意によるものと思われるものまである。今までにあったクレームの報告書も膨大だが、すべて目を通すことにした。それが性格なのか、理科系の思考なのか細かいところももれなく徹底的に理解し自分の物にしてから、仕事をしたいという気持ちがどんどん大きくなってくる。受験でもするのかと部屋のみんなにからかわれたが、その人たちの顔には好意的な笑顔が浮かんでいた。それでまたやる気になった。紙に赤で線を引いたりノートにまとめたりという作業に熱中した。もちろんまだまだ人と話をするときは気が重い。精神的にもハードでストレスのたまる仕事には違いない。しかしほんの一ヶ月前のときの気持ちとは雲泥の差だ。


「まっくーん」

 相変わらず元気に手を振るつばめがいた。今日はレースと刺繍で飾りがついた白いブラウス。下は薄いうぐいす色の膝丈のスカートをはいている。僕の知っているつばめとはずいぶんイメージが違う。最もあれからもう十数年が過ぎたし、よく考えたら当時だって僕はつばめの制服姿しか知らない。手を振りながら小走りに近寄ってきたつばめに腕を取られて、池袋に出た。僕たちの育った町は西武池袋線の沿線にある。だからちょっと大きな買い物に家族と来たり、大きな本屋や電気屋を回ったりと、子供のころから結構この街には来ている。大学へ行くようになるとここは乗換駅で、大学のゼミなどのグループでたまに遊びに来た。

「かっこいいよ、今日のまっくん」

「うん、ありがとうね、つばめ。会社でもみんなに評判だった。椿山さんて尊敬できる先輩がいるんだけど」

「うん」

「その人、ものすごい硬派の人なんだけど、その人が僕の髪を見て、俺もそんな感じにしてみようかなって言ったよ。つばめがやってくれたこの髪型に」

「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ」

「つばめが変えてくれたから気持ちまで明るくなった気がするよ。仕事へ行ってもクレームを受けるという暗い雰囲気の部屋が明るくなったような感じだよ」

「そうよね。着る物や化粧などで自分の気持ちやみんなの雰囲気が変わると感じることがあるよ、あたしも」

 改札を抜けると地下道いっぱいに人が流れている。この地下道はいつも人が多いが、帰宅ラッシュの時間と重なっていて息が詰まりそうなくらいの人だ。。階段を上り地上に出る。池袋はサンシャインのある東口がにぎやかだが、今日は西口のほうへ行こうというつばめに従って駅の上に出た。駅前に小さなロータリー。手前は巨大な百貨店。向こう側は小さな店が建ち並ぶ、猥雑な感じのする街が広がっている。商店街にはこの街にある有名な大学の小さな旗が、いたるところにかけられている。紫紺に白の十字。左上に黄色のマーク。祝ご入学と書かれた横断幕も目に付く。西口はこの大学系列の小、中、高校もある。安い飲食街、学生相手のゲームセンター、ちょっと崩れた感じの人が多い何件ものパチンコ屋。そして少し奥に入ると風俗街。

「でも、あの日よくうちの店にはいる気になったね、まっくん」

「いや、何回も行ったり来たり、勇気が出なくって。でも、案内してくれた女の子」

「由紀ちゃんね。安西由紀子。ちょっとかわいいでしょ。まっくんきにいった?」

「そんなんじゃないよ」

 ちょっと大きな声。思ってもみないことを言われあわてた。つばめが隣りでクスリと笑った。

「あの子が始めに声をかけてくれて髪を切ってみる気になったんだけど、どうしてもはいる勇気がなくて店の前を行ったり来たりしたんだよ。三回くらいあの子の前を通ったと思うんだけど、ぜんぜん普通に笑顔でいかがですかって言ってくれたから、勇気を出して入ってみようって思ったんだよ」

「そうなんだ。あの子見てると昔のあたしみたいで楽しいのよ。高校中退してふらっと前の店にきたんだけど」

「へえ、中退して」

「高校ぐらい行っといた方がいいから、昼に四時間、学校に行かせてるの。四年かかるんだけど、卒業してくれるといいな」

 自分の昔のことを思い出しているのだろうか。つばめはちょっと祈るような母親の顔になっていた。

「つばめって店長なのかい」

「うん、あれあたしがつくった店よ」

「えーっ。すっごいなあ。つばめが作ったの、あの店」

「すごくないよ、ぜんぜん。だってほとんど借金だもん」

「でも大きくて明るくて、清潔な感じのいい店だよね」

「うん。そういう店を作りたかったの」

「駅前のいい場所だし、家賃も結構高そうだね」

「普通のビルの一階にテナントではいるよりずいぶん安くしてくれたわ。あそこはもともと住宅兼店舗の商店街だった建物なの。ほかは全部建て替えちゃったらしいけど。だからちょっと古いの」

 確かに二階にある駅の広場から見たとき五、六階建てのビルに囲まれるようにして、あそこだけ陥没したように上の空間が空いていた。

「上も借りているの」

「あそこの二階は住居として使えるようになってるわ」

「へえ、じゃ、つばめはあそこに住んでるの」

「あそこは女の子のための寮みたいにしてる。私は実家から通い」

「昔のあの家」

「うん。まっくんもでしょ」

「僕は就職してから家を出たよ。一人でいるほうが気楽だし」

 歩道が狭いわりに人通りはすごく多い。歩道沿いには大きな家電小売店のビルや、大きな本屋さんなどがあり、人の出入りも激しい。二人で並んで歩くのも歩きにくいような感じで、二人の間を向うから来る人が何回も割って入ってくる。

「でも懐かしいなあ。忙しくてしばらくこの街には来てなかったけど、中学の後半からよく遊びにきてたんだ」

「一人で?」

「そう。あたし悪かったから。あのころ」

「うん」

「あっはっは。あっさり納得しないでよう、まっくん」

「あっ、いや。ごめん」

「ははは。まあ、実際、悪かったよね、あたし」

 丸井の横断歩道を渡って左に少し行き、狭い道に入ってそれを抜けた角の店につばめは僕を案内した。そこは昔の倉のような白い壁に黒い木の枠が外壁になっている店だった。入り口にメニューがスポットライトで照らされている。ガラガラと音を立てて木のドアを引いた。

「ここは洋食の店だよ。ファミレスより高いけど、マスターが時間をかけてソースやスープを手作りで作ってるからとってもおいしいよ。まっくんが気に入ってくれるといいけど」

 木の椅子を引いてつばめと向かい合わせに座った。

「じゃあ、僕はハンバーグ定食」

「あたし、ビーフシチュー」

「ね、つばめはいつから美容師なの」

「あたし、あんなだったから高校まともに行ってないんだよ。遊び歩いて、家にもほとんど帰らなかったんだよ。でもお金ないでしょ。あるときふらふら街を歩いてたら(住み込み、美容師見習募集)って貼り紙が大きな店の前に貼ってあったの」

「へえ」

「ガラス張りで中まで全部見える素敵な店だった。とりあえずこれで寝るとこ確保って軽い感じで、店のドアをあけたんだけどね」

 洋食用の白い帽子と清潔感のある白い前掛けをしたちょっと太り気味のマスター自ら、ワゴンを押して出てきた。料理が熱いプレートに乗っている。紙の前掛けをさせられてマスターがソースをプレートにソースをかけてくれた。じゅーっとソースがプレートで焼けるととてもいい香りがした。

「おいしい、このハンバーグ。でもいつも食べる味とちょっと違う気がするな」

「お客さん、これは牛肉一〇〇%だからだと思いますよ。今度来たときはミデアムを食ってみてください。柔らくてすごくおいしいから」

「はい。ぜひ」

「とってもいい肉使ってるからこんなに焼くのはもったいないんだけど、初めてのお客さんにそれを出すと、中まで焼けてないって必ず言われるんでめんどくさくなっちゃってね。ステーキで中まで焼いたりしないじゃないですか、ほとんどの人は」

「そうですね」

「あれとおんなじなんですよ。周りを焼いて肉汁を閉じ込めてしかもやわらかい。それにこのソースが抜群に合うんですよ」

「うまそうですね。それを食べたくなってきました」

「また早いうちのお越しをお待ちしております」

 マスターはにっこりと笑って一礼して厨房に戻って行った。

「あのマスターを見てるとお店を経営するのにも勉強になるんだよね」

「うん、確かにまたきたくなるような人柄だよね、料理だけでなく」

「まっくん、よかったこのシチューも味見してみてよ。これもとってもおいしいよ」

 スプーンで一さじすくって食べてみた。

「本当だ。いろいろな素材の味がソースに絡まってとってもおいしいね」

「その肉も食べてみて」

「なんだか溶けそうな感じの柔らかさだね」

 つばめは僕を見て笑った。

「何かおかしいこと言っちゃったかな」

「ふふふ。だって、まっくんでなんだか料理評論家みたいな言い方なんだもん」

「変かな。変だよね、男がこんなこと言うの。ついこの前まで味や香り作るのが仕事だったから、会議なんかで味を言葉にしたり言葉を味にしたりしてたんだよ」

「そっか。それでね」

「この味にするにはこれとこれを混ぜて、それからどうしてってすぐ考えちゃうんだよ」

「まっくんのお嫁さんになる人は大変ね。いろいろわかっちゃうから」

「いや、いつもはそんなこと言わないよ」

 あわてて否定するとつばめはふふふと笑った。なんか今日はつばめの言葉に異常に反応しすぎかな。

「よかったらそれ食べて」

「じゃあ、僕のハンバーグをつばめにあげるよ」

「えー、まっくんは男の子なんだからいっぱい食べなきゃだめだよ」

「いいんだよ。半分も残ってないけどこれ」

 ハンバーグの入ったプレートをつばめのほうに差し出した。慌ててマスターが出てくる。「お客様さまそれは違反でございます。違う料理はまた来店したときの楽しみに取って置いてください」

「いいの、いいのマスター。けちけちしないの」

「もう、籠井さんだからしょうがないか」

 首を振りながらまたカウンターのほうへ戻っていく。

「あの人もいい人なんだけどねえ。もうちょっと商売っ気が抜ければ」

 つばめはわざと聞こえるように大きな声で、顔をしかめながら言った。マスターは背中で声を聞きながらえへんと咳払いをした。僕はその掛け合いがおかしくて笑い出してしまった。

「あっはっは。なんだか今日はすごく楽しいよ。つばめはこの店に昔から来てるんだね」

「まあね。中学を卒業してからだからもう一〇年以上になるかなあ。最近はなかなかこれないんだけどね」

「そうなんだ」

 僕がいつまでも中学のときのことを引きずって家に閉じこもっている間、つばめはずいぶん色々なことを経験したんだろう。いつも前向きなつばめらしいな。

「あいかわらず、ハンバーグもおいしいね」

「ごめんね、もう少し暖かいうちにあげればよかったね」

「ふふふ、なんだか恋人同士みたいだね、あたしたち」

「えっ」

 なんだか恥ずかしくなってシチューを食べているふりをしてうつむいた。顔が熱い。デザートとコーヒーを飲み、店を出た。細かい雨が降っていた。僕の安物の傘を差し二人で入った。ふらふらと西口公園まで歩く。石畳のきれいになった公園を歩く。昔は全面土の広い運動場のような感じの公園だったが、今では石やレンガなどを敷き詰めてきれいにしている。できたばかりのときは、近くの大学の学生や会社帰りの若いカップルであふれていたこの公園だが、今夜は雨が降り出したこともあり人影はまばらだ。公園の外ではバスがひっきりなしに到着し、人を吐き出し、そしてまた多くの人を乗せて出てゆく。その向かいには安物の透明のビニール傘を通して、家電量販店のネオンがにじんで見えている。雨の日にこんなに街がきれいに見えるなんて思わなかったな。しばらく噴水の前でライトアップされたてきれいな噴水を見ていた。小さな傘なのでつばめの肩が僕の腕に触れて暖かい。

「でも、よくがんばって美容師になったね。大変なんだろ」

「仕事自体はそんなでもないよ。始めてすぐね、あっ、これって楽しいなと思ったの。掃除したり洗濯したりばっかりだったけど、全部片付いているときはね、来たお客さんを椅子に連れて行って準備をするの」

「ああ、つばめの店であの子がやってくれたみたいにだね」

「うん。そういうことをすると、ああ、あたしも早く髪をきってみたいなって夢が膨らむのよ。あれはなんかわくわくする仕事だったな」

 つばめは懐かしそうに遠くを見る目をしていた。

「仕事は楽しいんだ」

「うん。でもあたし、つっぱってたでしょ、あのころ」

「そうだね。髪の毛の色も違ったよね」

「うん。でもそれはすぐみれる程度に茶色くさせられたの。接客業だからね。でも性格悪かったから、先輩に意地悪されてね」

「つばめは性格悪くないよ」

 ちょっと怒ったような声になってしまった。

「あはは、ありがとうね、まっくん。あたしの味方はまっくんだけだ。でも、意地悪されてもほとんどこたえなかったよ。だって慣れてるもん、そんなこと」

「ああ。そうだね」

 小学校のころの、独りぼっちのつばめの姿を思い出してちょっと暗い気持ちになった。

「あたしたちってさ、学校でいやなことばっかりだったけど、そういう面では、あのころのことが役立ってるよね」

 でもつばめはちっともそんなふうじゃなく、上を見て明るく、力強くそう言った。なんかこの子はいつも前向きだ。小学校の僕たちが話すようになったきっかけになったあの遠足。すっきりとした表情で顔をあげ、日の当たる自分たちの町を眺めていたあの表情が忘れられない。春のぼんやりした暖かさではなく、冬の凛とした明るさだった。南面の日の当たる明るい広場ではみんなの楽しそうな声が聞こえてくる。その斜面とは反対側の日の当たらない北側の斜面の木下に一人で座り、膝の上に小さな弁当箱を開いていた。その姿に惹かれてあの日僕はそのそばに腰を下ろしたのだった。

「つばめはすごね」

「でもちょっと大変だったんだけどね、本当は。女の子だけの世界だから、意地悪もちょっと下にもぐっているような意地悪でね」

「でもそれを乗り越えて、美容師になったんだろ」

「うん、なった」

 つばめは自分に言い聞かせるような感じでそう言った。

「そんなことよりさ、まっくんはいままでどうしてたの」

「僕、なんかかっこ悪いよね」

「なんで、なんで」

「つばめみたいにかっこいい人生じゃないもの。あれからだって」

「ね、きかせて」

 僕は高校にいけなくて通信教育で高校を卒業したこと。勉強は嫌いではなかったので理科系の大学へ行って卒業したこと。今の会社でお菓子の味や香り作りをしていたこと。部署で孤立していた僕を上司が会社を辞めさせようと、今の苦情処理の仕事に回したことなどをちょっと投げやりに話した。

「でもがんばってるじゃない」

「もう、毎日めげそうで」

「だってイメージ変えるって、勇気出してうちに飛び込んで来たんでしょ。今の部署のみんなとはうまく行ってるんでしょ。がんばってるよ。まっくん逃げてないじゃない」

 そういわれてちょっと気持ちが軽くなった。

「そうなんだ。いまの部署の人とはなぜだかうまく話せるんだ。こんなこと始めてなんだよ。仕事はつらいけど、その関係を保ちたいだけで必死に会社に出かけていっているという感じさ」

「まっくん、よかったね。いい仲間ができて」

「うん」

 水溜りににぎやかなネオンが映っている。そして、そのネオンは雨が作る波紋でゆがんで見える。雨が少し強くなってきたようだ。

「つばめ、そろそろ帰ろうか」

 つばめは黙ってうなずいた。



 梅雨が明けた。見上げると空が今まで以上に青く眩しく見えた。工場の横の植え込みでは鳥たちがいろんなおしゃべりをしている。いままでより声も高い。鳥たちも夏を歓迎しているのだろうか。お客様相談室に入り電気をつける。最近一番に部屋に入っている。それから雑巾でみんなの机を拭き、湯を沸かしてお茶を入れた。そのころ佐伯室長が出勤してくる。気が向けば窓を拭いたりドアや桟を拭いたりすることもある。次々にみんなが挨拶をして入ってくるのを迎える時間が好きになっていた。九時前に大隅係長と菅野さんが「やあ、やあ」「うぃーっす」っとばたばたと入ってきて全員そろう。ここにいる人はいいかげんなようでも不思議と遅刻する人は誰もいない。

一〇時ごろノックがあって総務の女の子が入ってきた。ポニーテールで、うちの薄いグリーンの夏の制服がよく似合っている。

「やあ、めずらいね、綾香ちゃん。俺に会いに来たのかい」

ソファーに座ってた大隈係長が満面の笑みで迎える。

「いいえ」

 彼女はわざとつんと上を向いて見せた。

「大隅係長には浅田さんがいらっしゃるでしょ。それにそんなソファーでふんぞり返ってないでちゃんと仕事しないでいいんですか」

「怒った顔もかわいいよ、綾ちゃん。ちょっと僕の横においで、そのかわいいお尻なでであげるから」

「けっこうです。でも浅田さんにふられたら、お尻くらい触らせてあげてもいいですよ」

「ええ~」

 大場さんがのけぞった。

「あの~、こんなエロじじい、どこがいいんですか。催眠術とかにかかってませんかあ」

 菅野さんが続いた。

「いいから、いいから。子供にはわからん女心ってもんもあるのよ」

 大隅係長はまんざらでもなさそうな顔であごをなでている。

「ええと、並木さん」

 いきなり僕の名前を呼ばれてドキッとした。ハイッと言って席を立った。総務の女の子は手を口に当ててクックと笑いをかみ殺している。首筋まで真っ赤だ。

「あのねえ、なーみちゃん。中学生が出欠取ってるわけじゃないんだから」

 あきれたように大隅係長がからかう。女の子はスーッとひとつ深く息を吸って僕のそばに来た。

「会社に手紙が届きましたので持ってきました」

「はあ。あっ、ありがとう」

 女の子はまたクックと笑いながらいいえと言って出て行った。封筒の宛名には大きく東京製菓、並木雅実様と書かれている。あまり上手な字ではない。裏返すと差出人は百倉秀明となっていた。忘れもしない、僕が始めて訪問したお客様だ。あの時はこの人の赤鬼のような形相と大きな怒鳴り声に驚いて尻もちをつき、後ずさりして逃げようとしたっけ。この人には真っ先に手紙でお詫びと、その後の髪の毛が混入しないようにする対策と、工場の中で改善した実際の様子を書き送っておいた。封を開けるとその手紙の礼が書いてあった。筆圧が強く、丁寧で読みやい文字がびっしりと並んでいる。百倉さんは精密機械の工場で働いていたが、リストラの一環の早期退職制度で退職金を多くもらい定年より早くにその会社を辞めた。再就職さきはなかなか見つからなかったが、家の近くの小さな町工場で工員を募集していて、面接を受けたら次の日からきてくれということになったそうだ。居心地もよく運がよかった。しかし、自分も再就職では苦労したから、簡単に会社の思惑通りに辞めたりせず、今の部署でがんばれという励ましまで書いてあった。本当にありがたい。そう言えばこの人の家に行って腰を抜かしたとき、佐伯室長は僕が会社の嫌がらせでこの部署に移らされてまだ間がない。だからうまく対応できなくてすいませんと言って謝ってくれたんだった。手紙には昨年娘さんが結婚した相手が愛知の方で味噌を作る仕事をしているということが書いている。一度連絡をくださいと最後にあった。とりあえず佐伯室長に手紙を見せることにした。佐伯室長はしばらく穏やかな表情で手紙を読んではうなずいていたが、やがて手紙から目を上げるとすぐに電話をしてみなさいと言った。僕は受話器をとった。ちょっと緊張で手のひらに汗をかいている。呼び出し音がなっている。この相手が出るまでの時間が、どうもいつまでたっても苦手だ。

「もしもし、百倉さんでございますか。私、東京製菓の並木でございます。お手紙をいただきありがとうございます」

「ええと、一度あんたに会いたいんだが」

「はい、あの、どういった…」

「うまくいえんので、会ってから話す」

「はあ。私のほうはいつでも結構でございます」

「じゃあ、今日、会社が終わってからうちに来てくれるか」

「あの、うちは五時で終わりますから、そちらには六時過ぎになると思いますが」

「それでいい」

 それだけ言うと一方的に電話が切れている。なんだか要領を得ない電話だった。百倉さんも怒っているようでもないが、ぶっきらぼうだし。どうも電話というやつは相手の表情がわからないので苦手だ。僕はあまり気が進まずちょっと憂鬱な感じだった。

「あの、室長」

「う、まず行ってみなさい。君はもうひとり立ちしている。任せたよ。報告だけ明日してください」

「はあ」

 ちょっとため息交じりで席に戻った。


 会社が終わり百倉さんの家に向かった。途中、電車の中で手紙なんか出すんじゃなかったと後悔しはじめていた。何の用事だろうとか、何かいやな事言われるのかなとかいろいろ考えてしまった。

お花茶屋で電車を下りた。百倉さんの家までの道は覚えていた。駅を出て北の方角へ水戸街道を目指して歩きはじめた。そうだ、前のめりに歩くように、迎え撃つ気持ちを持って当たらなければ。相手はお客様だ。ちょっと怖そうな人だったが、今回は決してクレームというわけではない。なんとかなるだろう。やがて見覚えのある家の前に立った。深呼をしてインターフォンを押す。返事はなくドアが開いた。

「やあ、いらっしゃい。まあ上がって」

思いのほかすっきりした顔の百倉さんの顔がドアの間から出てきた。こんな人だったかな。前のときとイメージが違って少し戸惑った。挨拶をして会社の商品を詰め込んだ大きな袋を手渡した。ちょっと肩透かし気味の気持ちを抱えたまま、後について玄関を入った。そう言えば今日は白っぽいポロシャツと黄色に近いベージュ色のゆったりとしたズボンをはいていて、着るものからもリラックスしているように見える。とはいえ、この前、百倉さんがどんな服を着ていたかは思い出せないのだが。玄関を入ったところにいきなり二階まで続く階段。狭い廊下。そのすぐ脇のドアを開けて招き入れられた。壁はシンプルな白、下はフローリングだろうか、薄いグリーンのシルクの絨毯を敷き詰めている。明るい黄土色の皮製のソファーとガラスの机。壁にはディズニーの仕掛け時計がかわいらしく動いている。窓も大きく明るく開放的な部屋だった。

「そう見回さないでくれ。おれの趣味じゃないんだ。嫁いだやつが子供のころこういうのが好きでな」

 あごで壁掛け時計を指す。

「すいません。明るく素敵なお部屋なんでつい」

 ドアが開いて小柄で上品な和服を着た女性がお盆にビールとグラスを持ってきた。小鉢にはアサリの佃煮などの珍味が何種類か上品に盛り付けてある。

「いらっしゃいませ。この人ったら帰ってくるなり、おい、お客さんが来るから何か用意してくれですもんね。こんな物しかできなくて。今何か用意しますから」

「うるさい。くだらないこと言ってないで早くはずせ」

「はい、はい。ではごゆっくり」

「あっ、奥様、お構いなく」

「まあ、奥様ですって。ほっほほ」

 うるさそうに手を振る百倉を気にするでもなく、楽しげな笑いを残して部屋を出て行った。百倉は僕のグラスにビールをついでくれ、自分のにもつぎ、目の高さにあげ、乾杯の形をしてグイッと飲んだ。

「まったく、口から出てきたような女だから」

「いえ、いえ。明るくていい奥様でございます」

「なあ、並木君。今日はクレームで呼んだんじゃないんだ。もう少しリラックスしろよ」

「はい」

「実はな、俺もあれからずいぶん反省したんだ。自分も工場で物作ってるんだから、完璧にやっていても不良品が出ることくらい分かっているんだ。それをつい娘のことになるとかっとしちまって、まったく大人気なかったよ」

「しかし、せっかくうちの商品をと選んでいただけたのに、不良品だったのですから」

「いやね。嫁いだ娘の下に二人いるんだけど特に末の娘はかわいくてね」

「そうでしょう。皆さんそうおっしゃいます」

「あの時、君も技術者だって言うのを聞いて、余計に心に引っかかっててな」

「おわずらわせして申し訳ありません。技術者って言っても、菓子の味や香りの研究です。いや、でしたか」

「それだって立派な技術よ。他社にない、しかもみんなに受け入れられる物をつくるんだからな。いや、それでな、この前娘むこが出張でこっちに来たとき話していて、こいつは並木君に相談してみようということがあったんだよ」

「僕でお役に立てるかどうか」

 百倉はどうぞと僕に勧めてからつまみの佃煮に箸をつけた。一息ついてから実はとはなし始めた話にやがて引き込まれて行った。その人は愛知の老舗で味噌やしょうゆを作っている会社に勤めている。そこでできる醤油はたまり醤油という高級な物で、これをなんとか広めたとがんばっているという話だった。

「そこから買えって言ってるんじゃないんだ。いい味だし君が味を見たら何かいいアイデアが浮かぶかも知れないと思って。これなんだが」

 そう言って百倉が脇から小さなビンを出してきた。僕は失礼しますと言ってビンのキャップを開け、手のひらに少しとりなめてみた。なんともいい香りのする醤油だった。

「いいせんべいができそうですね、これを使えば」

「そうだろう、そうだろう」

 うん、うんと何度もうなずき嬉しそうな顔をしている。

「これは一般販売用だが、この会社の倉に行けば特別にうまい醤油もあるらしいぞ」

「あの、一度この工場にお伺いしてみたいんですが」

 思わず口をついて出た言葉に僕自身が驚いた。開発をやっていたとき、ちょっとでも新しい味や、おいしい物があると聞くと必ず持ってくるのではなく、現場に出かけていって実際に確かめていた。まだそのときの感覚が残っていたのだろうか。

「あの、もう開発の仕事ではないので、お力になれるかどうか分からないんです」

 あわてて言いたした。

「ぜひ行ってみてくれ。君の会社に売りたいんじゃないんだ。君の参考になればと思って言ってみたんだ」

「ありがとうございます」

 奥さんが入ってきて刺身や手作りの料理が机一杯に並んだ。

「あの、お気を使わないでください。すぐおいとましますので」

「まあ、まあ、そういわずにゆっくりしていってくださいな。こんなに機嫌のいい主人は久しぶりなんですよ」

「いらないこと言ってないで、置いたらそっちに行ってろ」

「はい、はい。ではごゆっくり」

 その夜は思いもしない盛大なもてなしと、先日腰が抜けるほど怒られた相手の好意を受けて尻の下がむずむずしながらも、居心地のいい時間を過ごして遅くなってしまった。

 

 翌日、佐伯室長に朝一番に報告した。

「並木君、行ってらっしゃい。明日にでも」

「あっ、いえ、まだ先方に連絡をしなきゃいけないし、平日に行って皆さんに負担をかけたくありません。自分の仕事はやらせていただきますので週末にでも」

「並木さん、こういうことは早いほうがいいと思います。同じ研究をしているライバルメーカーだってあるでしょう」

「でも、安達チーフ、僕はもう研究開発の仕事をはずれていますし」

「なーみちゃん、何ぐずぐず言ってんのよ。チャンスの女神は前髪を引っつかまなきゃならんのよ。行き過ぎてからつかもうとしても、あの子の後ろははげててつかみそこなうんだ。営業の常識だぜ」

「あの……」

「なみちゃん、相手だって週末は休みだろうよ。おまえに合わせて仕事させる気か。室長、出張扱いですよね、当然」

「菅野さん、たまにはいいこと言いますね」 

「椿よ、俺に喧嘩売ってるのか。買わねえけどよ」

「はっはは。経費はたっぷりいただいていますから、あなたたちの飲み代を削ればグリーン車でも飛行機でも」

「室長、別バラでお願いします」

「現金なやつだな、大場は」

 部屋の中に妙な高揚感がある。僕は意外な展開にちょっと戸惑った。

「あの、自分のお金で行きます。皆さんのお言葉に甘えさせていただけるなら有給で行ってまいりますから」

「な~みちゃん。何びびってんのよ。結果を出せとか、何かを期待してみんなが言ってんじゃねえぞ」

 大隅係長は難しい顔をして腕を組んで言った。

「そうですよ。私たちを気にせずに」

「プレッシャー感じる柄か、おまえ。いつものようにマイペースでいけ」

「菅野先輩、今日は冴えてますねえ。そういうことだ。みんな、応援したいだけだ、おまえのことをな」 

「椿よ、いいとこ持ってくな。なみちゃん、ウィローと安倍川餅、あとゆかりくらいでいいぞ、気を使わないでも」

「ま、菅ちゃんのセンスはそんなもんか。ついでにうなぎくらいは頼む」

 こんな仕事を長くやっていると前向きな話にみんなが飢えていたのかもしれない。僕はみんなの気持ちをありがたく受けることにした。先方にアポをとって早速明日、木曜日に出かけることにした。


 梅雨があけてから暑い日が続いている。朝から暑く、せみも鳴き始めていた。始発のこだまに乗った。のぞみやひかりはもう少し早い時間にもあるが、名古屋のひとつ手前の三河安城で降りるためにこだまに乗ったのだ。こだまは席もゆったりと取っていて乗り心地がとてもいい。車内はすいていてのんびりした空気が流れていた。途中ふと見上げた車窓右手に、ひときわ大きな富士山がくっきり見えた。上のほうに白い雪があり、子供が絵に描くような典型的な姿をしていた。これほどいい富士山はめったに見られない。それを見ながら乗る前に買ったサンドウィッチを食べた。三河安城には九時前についた。乗り換え時間まで少し時間があった。新幹線で座り疲れたので改札を出て少し歩いてみた。新幹線が停まるといっても駅も町も大きくない。改札を抜けると、さすがに新しく新幹線が停まることになって作った駅だからか駅構内は広く明るい。コーナーの一角にある土産物屋はまだあいていないがかなり広そうだ。帰りは部屋のみんなとつばめにここで何か買っていこう。駅を出るとかなり広いローターリー。しかし、バスも車も止まっていなく、客待ちのタクシーも数台。閑散としている雰囲気だ。その向こうにぱらぱらと店が見えるが、歩いている人が少ない。伸びをして体を伸ばしてから駅に戻った。

 東海道線に一五分ほど揺られ、そこから単線のディーゼル電車に乗り換えて三五分ほどローカル電車の旅を楽しんだ。この電車は半島の先端で行き止まりになっていて、こういう路線のことを盲腸線というらしい。そういう路線は雰囲気のいいローカル線が多いらしく、それ専門に訪ね歩くファンもいるらしい。車窓からは夏の元気のいい光をきらきら跳ね返している三河湾が見え隠れしている。確かに旅行に来たらいい旅になりそうな、ゆったりとした景色が車窓の外を流れていく。

一〇時を少し過ぎて小さな駅の改札を出ると、細くて背の高い男の人が立っていた。肩幅が狭いせいで、よりいっそうひょろっとして見える。年は僕より少し上、三〇くらいか、黒ぶちのめがねをかけていてまじめそうに見える。

「失礼ですが、東京製菓の並木さんですか」

「はい、そうです」

 始めましてとお互いに名刺を交換した。まるかわ食品営業企画部、課長成田精一郎となっている。

「お聞きと思いますが、私は百倉の娘むこです」

「はい、そうおっしゃっていました」

 横に赤い文字でまるかわと書いている白いバンに乗せてもらい出発する。古い町並みの細い道を成田は巧みに運転しながら話し掛けてくる。

「東京のほうから来られてたら、ずいぶん田舎なんでびっくりなさったでしょう」

「来る途中の電車からの景色もよかったですが、ここも古い町並みが残っていて、いい雰囲気の町ですよね」

「有名なものは何もないですが昔からここは味噌としょうゆの町で、そのころの建物が今でも残っているんですよ。時々それを目当てにこの町やうちの会社を訪ねてくれる観光客がいます」

「そうでしょうね。僕は埼玉ですけど、川越の町が雰囲気が似ていると思います」

「あの、失礼ですが、並木さんは義父さんとはどう言う」

「あっ、ええ。僕は名刺にもあるように東京製菓のお客様相談室に勤務していまして。お恥ずかしい話しですが、事故の商品が出て、百倉様のところにお詫びに伺ったのです」

「ああ、義父さんは技術者ですから、品質とかに結構うるさそうですものね。あっ、内緒ですよ、僕がこんなこと言ってたなんて。ふっふふ。今はそうでもないんですが、結婚の報告に行ったときえらい剣幕でね、百倉さん。今でも話をしているとちょっと緊張するんですよね」

「僕なんか腰抜かしてしまいまして、這って逃げようとしたんですよ。上司の足がつっかえ棒で逃げおおせられませんでしたが」

「はっはは。愉快だな、あなた。それでどうしました」

 フロントガラス越しに古い町並みの間からきらきら光ってるのは三河湾だろうか。

「ええ、上司がフォローしてくれまして。実はそのとき僕、始めてお客様のところに訪問したんです。それまで研究開発で味や香りの研究をしていましたから、人と接することはどうも苦手で」

「へえ、並木さんも技術者なんだ」

「技術者というのかどうか分かりませんが」

「それで、義父さんと気があったんだ」

「まあそんなところです。この前お伺いしたときすごく歓待してくださって」

 話をしているうちに車は一段と時代を感じさせる町の一角に着き、会社の敷地に滑り込んだ。周りは木の壁を張り巡らしている。意外と広い前庭。アスファルトではなく土のままの敷地だ。建物も一部鉄筋二階建ての棟があるが、その奥に見える大きな建物は木造のようで、昔の倉のようなつくりだった。車を出たとたん塩の香りがほのかにした。海が近いからか、塩を仕込みに使うからか分からなかったが、気持ちの落ちつくいい雰囲気の会社だった。まず事務棟の会議室に案内された。

「ええと、義父さんうちの商品を一通り紹介するように言われてるんですが、それでいいでしょうか」

「ええ、お役に立てないとは思いますが。お手数かけてすいません」

「いや、並木さんに見ていただくだけでいいからといわれてますから」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 会社案内のパンフレットを前に置かれた。創業は江戸時代となっていてその伝統の長さに驚いた。

「この土地は昔から味噌や醤油を作ることが盛んだったんですよ。最盛期には一五〇の味噌、醤油製造会社があったらしいです」

「へえ、町をあげてという感じですね」

「そう、この町の人口が四万人ほどだからそうかもしれません」

「ここへは近鉄も名古屋からきてるんで意外と便利そうですよね」

「そう、この小さな町に四つも駅があるんですよ」

 成田は嬉しそうに胸を張った。

「四つもですか」

「ええ、それに海に近いから港も。それも結構大きな港があるんです。昔、味噌や醤油は重要な軍需物資だったらしいですね」

「ああ、それで」

「後で工場をみていただきますが、味噌も醤油も全部一から自社で作ってます。名古屋近辺は味噌をよく料理の味付けやソースとして使いますし、そちら向けの商品です」

「ああ、それ知ってます。味噌カツとか言ってとんかつやエビフライにもかけるんですよね。名古屋出身の人が大学のときいて、それをかけないとカツを食べた気になれないと嘆いていました。僕はまだ食べたことないんです」

「案外うまいですよ。ぜひ、一度食べてみてください。それから醤油ですが、これはたまり醤油というのを作っています」

 百倉さんの家でなめた香りのいい醤油を思い出していた。

「ええ、この前、味見させていただきました」

「このたまり醤油というのも主に東海地方で製造消費されている醤油の一種です」

 醤油の種類は一般に知られている濃い口醤油や薄口醤油。山口を中心にしたさいしこみ醤油、東海地方の白醤油がある。これらは知識としては知っていた。

「普通醤油は大豆と小麦を半々で作りますが、たまり醤油は大豆のみで製造します。このためタンパク含有量が多くうまみ成分である窒素分が多いので味が濃いのです。しかも当社では天然醸造で、熟成期間を長く取ります。そのためよりまろやかでうまみのあるたまり醤油ができるのです」

「なるほど。醤油というかどうか分かりませんが漁醤というのもありますよね」

「さすが、よくご存知ですね」

「いえ、頭でっかちですいません」

「醤油のルーツには諸説あるようです」

 成田さんが説明してくれたところによると文献に醤油の文字が登場するのは室町時代らしい。それようり数百年前の平安時代には醤油のルーツといわれる『ひしお』が作られていた。醤とは塩蔵発酵食品のことで草びしお、肉びしお、穀びしおに分かれていた。肉びしおの一部が別れて魚醤、穀びしおの一部が別れて醤油になったと考えられているということだ。

「さて、工場のほうに行ってみましょうか」

 そう言うと成田さんは先に立って歩き出した。あまりに背が高いので入り口のところで頭がつかえそうになり、心もちかがみ気味にそこを出て行く。昼近くの外はいちだんと暑く、周りの色が白っぽく見えるほどの日差しの強さになっていた。大きな倉のような建物の重いドアを開き中に入ったとたん、すっと涼しくなった。外から入ってくると少し薄暗く、一瞬、物が見えにくかった。

「味噌や醤油を作る建物は昔からのものですが、通気と断熱がしっかりしたつくりになっているんです」

「あまり涼しいので空気調整機を入れているのかと思いましたよ」

「冬は中に入ると案外暖かく感じますよ。もっとも通気孔などをこまめに調整するんですけど」

むっとするような塩のにおい、大豆が発酵しているのであろうか、味噌のにおい、そして適度な湿気と暑いのとは違う暖かい室温を感じた。ドアをあけて隣りの部屋に入った。そこは天井の高い体育館のような空間で、巨大な機械や入れ物に目が奪われた。

「ここが工場です。低温の倉庫が別の場所にあってそこに大豆を貯蔵しています。その大豆をこの巨大なタンクで洗い、水分を十分吸わせて蒸すのです」

 中空に銀色に鈍く輝く巨大な円柱形の物があり、両脇に大きな歯車がついていてわずかに傾いている。大豆を入れたり、蒸しあがった物を出したりするときに、このタンクを上に向けたり下に向けたりするのだろう。

「蒸しているときはここはすごく暑くなります。あのへそのような所から蒸気を時々抜き調整するのですが、これは重要な作業のひとつです」

「ノウハウ、企業秘密ですね」

「そうですね。うちでは今でもこの作業は職人に任せ彼らの勘に頼っています」

 成田さんについて次の部屋に移る。そこには巨大なプールのような容器がある。

「そして、小指の大きさほどの小さな味噌玉をつくり種麹を表面につけます」

「このプールのような中にそれを入れるのですか」

「そうです。この部屋は温度と湿度を一定に管理しています。麹菌を増やして、表面に黄色い麹菌がきれいに付いたら出来上がりです」

「しかし、手作りというか、お菓子のオートメーション工場とはやはり違い、人の手と時間がかかってますね」

「そうでなければ大手の工場で作る醤油とは差別化できませんから」

 次の部屋に進むと直径二メートルはあるような、大きな杉の桶が広いの部屋土間の上一面に並んでいた。高さは一メートルくらいだろうか。五、六人は入れる風呂のような感じのものだ。部屋の中は味噌の匂いがさらに濃くなった。よく見ると桶の表面にはこぶし大の石が敷き詰められている。

「この桶に麹と三河湾で取れた天然の塩で作った塩水を大体半々に入れます。そしてここに筒が見えるでしょう」

 よく見ると石と同じくらいの直径の筒が覗いている。そこには茶色い液がたまっている。たぶん下のほうまでこの筒は続いているのだろう。

「ええ」

「そこにたまった汁を毎日毎日ひしゃくで上にかけてやるんです」

「とっても手間がかかる作業ですね」

「そうです。約一、二ヶ月で麹が赤くなってきます。さっき長く熟成させるといいましたが、工場で作る醤油の場合、半年くらいで汁を絞り醤油にします。ここの場合一年半から長い物では三年この作業を毎日続けるわけです」

「三倍から六倍。それじゃ、価格競争になりません」

「そう、値段では到底太刀打ちできない。売上げの大部分は固定客のようなものでして、この味でなければだめだというお客様に支えられていると言うのが実情です」

「安定した仕事ということですか」

「いえ、それでもそういうお客様はお年を召した方が多いのです。昔ながらのこの地方の味しかだめだという方です。若い方ほどファーストフードやコンビニ弁当、ファミリーレストランなどのチェーン店の味に慣れています。値段が安いなら工場で作った醤油で十分という方が年々増えてきていまして、我々も同じことをやっていたのでは生き残れない時代です」

「どこも厳しいですね。お菓子だって毎年違う味を開発して市場に出さなければなりません。定番商品の出荷量は安定していますが、それでも少しずつ味は変えているんです。まして、今年爆発的に売れた商品でも、来年にはぱったり売れなくなるというのもあります。それどころか半年という商品寿命のものも珍しくありません。関東と関西でも味は変えなければ売れ行きに影響します」

「並木さんのお話を聞いてると考え方は、我々の手作業に通じるところもありますね」

「だからかな、百倉さんが行ってみろって言ってくれたの」

 成田さんが桶と桶の狭い間を、するすると体を横にしながら進んでゆく。こういうところを歩き慣れてないので、離れないように歩くのが大変だった。 

「ここにあるのがそろそろ完成する最高級三年ものの桶です」

 はりのある自信に満ちた声でそう言うと、ひしゃくを取り下の栓を開けひしゃくに少し汁をとってくれた。

「たまり醤油といっても、普通はこの中の味噌を布に包み汁を絞り、最終的には圧力機で圧力をかけて搾り出すんです。この栓から出る汁はほんのわずかしか取れない貴重な物なんです。ちょっと味を見てください」

 ひしゃくを傾けほんのわずか口に含んだ。

「うーん」

 言葉が出てこなかった。塩辛いとか醤油を飲むというイメージが先行して、身構えたような状態で口に含んだが、それはまったく想像していたような物とは別の味だった。大げさに言えば縄文時代のようなイメージ、太古の味という感じ。ふーっとその味を通していろいろな時代を一瞬で遡り、本当に素朴な昔の生活が頭の中に浮かんだ。原料の大豆は麹の働きを通してその味とその中にあるうまみが引き出され、加えた塩分の角が取れ、芳醇な香りとまろやかさが口の中に残る、そういうものだった。

「これが醤油ですか。僕は今まで何を見ていたんだろう」

「それは仕方のないことです。これを口にできる方はそうたくさんはいませんから」

「たとえば、これでせんべいを作ったらこの味だけで何も工夫しなくても、生産が追いつかなくなるほど売れるでしょう」

 成田さんは少し寂しそうに首を左右に振った。

「値段が合いませんよ。それにそれほどいっぱいは取れない」

「じゃあ、じゃあですよ、たとえばそれを宮内庁献上品にするとか」

「それよりも、これを三年待ちわびていらっしゃる方がいるのです」

「そうでしょうね、これなら」

 ちょっと肩が落ちた。でも頭の中では猛烈に、それこそ煙が出るほどの勢いで思考を巡らしていた。なんとかならないか。これは見逃せない。見逃してはいけない。量が、いや、何か手はある。化学薬品では作れない。何かいい手が……

 肩をぽんぽんとたたかれ、我に返って見上げた。黒ぶちめがねをかけたまじめそうな人の顔が覆い被さっていた。

「わっ」

 自分の声で我に返って、慌ててあたりを見回した。自分は桶の間にしゃがみこんでいたようだ。

「大丈夫ですか。ご気分でも悪いのかと思いまして」

「い、いえ。すいません」

「いや、いいんですけど。頭抱えてしゃがみこみ、うーん、うーんと唸ってましたから」

「おはずかしい。何かを考え始めると周りが見えなくなってしまうんですよ、いつも。この味を何とかしたいと思って。何か方法があるだろう。どうすればこの味を商品化できるのかって。考え出すとその世界にはいちゃうから、周りの人とうまくいかなくて。あの、その、みっともないところ見せてしまいました」

「いや、すごいものですね、技術者って言う人種は。最初驚いて、次にあきれて、そして感激しましたよ。うちの商品にこれほどまでに反応してくれるとは。きっと義父さんもこんな人なんだな」

 成田さんはニコニコして盛んにうなずいている。

「ちょっとこちらに来ていただけますか」

 もう一度大きな桶の間を引き返した。この貯蔵庫の入り口に近いところの隅のほうに、ひとつだけ赤いテープを巻いた桶があった。

「これ半年物なんです。隣もまだ半年の桶が並んでいます。でもこの桶だけ、僕がちょっと実験であるものを入れてみたんです。ちょっと比べてみていただけませんか」

 まず普通の桶から採った半年物の汁を口に含んでみた。これは、これでなかなか濃い味の醤油だなと思った。スーパーで売られている小さなビンに入っている、ちょっと高い醤油の味のようだった。しかし、正直に言ってさっきの味を知ってしまった後ではそれほどの感激はない。期待で膨らんでいた体の空気がシュッと抜けて、少し縮んだような気がした。成田はそんな僕の態度を気にするようすもなく、となりの桶のほうへと回り込んだ。次に赤いテープを巻いているほうの桶からとったひしゃくを受け取り口に含んだ。おやっと思い成田の顔を見た。三年物には及ばないものの角の取れた丸い味がする。うまみも口の中に広がりさっきの半年物を口にしたものとはまったく別の、いい味がする。ただ残念なのは口に含んだときの香りが単調で奥行きにかけることだ。そこをなんとかすれば三年物とまでは行かなくても、かなりいい味に近づけられるのではないだろうか。 

 ふっと顔をあげると成田さんが不安そうに僕のほうを見ている。

「成田さん、これいけます。半年の熟成でこの味が出るならかなりいい商品になること間違いなしです」

 一瞬嬉しそうな顔をしたその笑顔がすっとしぼんだ。

「私も結構いけると思うんです。でもこれはちょっと工夫しているといったでしょう。大豆と食塩だけでなく違う物も入れているのです。社長はそれがだめだというのです。たまりには混ざり物は入れない、それが伝統だ。その伝統を守っているからこそ江戸時代から生き残っているんだと。それも一理あります。でも、僕はもう少し工場生産の醤油に対抗してみたい。三河のある一部分でしか流通していないこのすばらしい味のたまり醤油を、日本中の人に味わってもらいたい。そう思うんです」

「僕にもう少し時間をいただけませんか」

「ええ、それは」

「僕も一生懸命考えます。成田さんも半年という期間だけでなく、より効率のいい方法でたくさんの物が安定した味になるように、さらに考えていただけませんか」

「やってみます。義父さんにも相談してぜひやってみます」

 背の高い成田さんがさらに大きく見えるほど元気にそう言った。僕は三年物と半年物のサンプルをもらい、土産にと商品になっている三本セットの箱詰めたまり醤油ももらって駅まで送ってもらった。これで何かできないか。研究開発の仕事は外れたが、でも何かを作り出したいという強い欲求が海の向こうに見えている夏の入道雲のようにモクモクと湧き上がってくる。気持ちが高揚していていい気持ちだった。帰りに会社のみんなとつばめに持ちきれないほどの土産を買って新幹線に乗った。やはり気持ちがハイになっている。上の棚にそれを上げながら、おいおい、こんなにいっぱい買ってどうするんだよと独り言を言って自分で笑った。



東京に着いたらもう日が暮れかけていた。お土産を渡すためにその足で大宮のつばめの店まで行った。若い子が多いから、休憩のときなんかにお菓子を食べるのではないかと思ったからだ。いや、本当はつばめの顔を見たかっただけかもしれない。店の前に安西由紀子は立ってなかった。店はこの前のときと違ってかなり人が入っていた。カットするほうの椅子はは二つ空いていたが、奥で洗髪をしているお客さんがいるのかもしれない。髪を切っている人が三人、順番待ちでソファーに座っている人が二人。つばめはお客さんの髪を切っていた。今日はあいている店員はいない。由紀子はほうきを持ち、床を掃いている。邪魔になってもいけないので、ちょっと夕食でも食べて時間をずらして行くことにした。  

つばめの店にもっていくものを出して、手にいっぱいの荷物を駅のコインロッカーに預けるとなんだかほっとした気分になった。見知らぬ地へ行き緊張していた神経が、地元に戻ってきて緩んだのかもしれない。それとも単に買いすぎた土産がかさばって大変だったのから開放されて、ほっとしただけか。そんなくだらないことをいろいろ考えながら、身軽になって商店街をゆっくり歩きながら何を食べようかと店を探した。結局、商店街のはずれのとんかつ屋に入った。味噌かつという文字が目に付いたからだ。これも名古屋の方の味だ。出てきた料理を食べたらあれっと思った。味噌というので味噌汁の味噌の味を想像していたが、味噌は甘い味だった。それに唐辛子でも入れているのか、ピリッと辛い。味噌本来の塩味、それから砂糖やみりんの甘さ、そして香辛料。それらの味の組み合わせがいいバランスになっている。菓子などを作るときにも使う単純な手法だが、これはこれで面白い味だと思った。ただ、自分は関東人で味が濃いほうだとは思うが、この味噌カツの味はさらにこってりとして、各味が喧嘩し始めそうなぎりぎりのところでバランスを取っている感じがするほど味が濃い。地域限定ならこれでいいが、全国展開するにはもうひと工夫欲しい。でも最近の子供やティーンエイジャーは毒々しいくらいの味付けでも、刺激を求めて平気で食べる傾向が強い。そういう菓子類ははまれば爆発的に売れる。ただしライフサイクルは短い。今のたまり醤油が日の目を見たらまた成田さんに相談してみよう。多分またとんでもなくうまい三年物の味噌ですとか言うのが出てくるんだろうな。そんなことを考えるとまた嬉しくなってくる。思ったよりも大きくてボリュームのあった料理を食べて、四五〇円という値段に驚きながら店を出てきた。あれでどれくらいの儲けがあるのだろう。駅前の店であんなしっかりした料理を出して、あの値段に出きるんだ。きっとたまり醤油にも何かいい方法があるはずだ。あれに少し何かたしてせんべいなどに付けて焼いたときに、あの三年物のような奥行きのある丸い味と香りが口の中に広がればいいのだ。何をたすか。うまみ、奥行き、味、香り……

 気がついたら駅前の広場のベンチに座っていた。手にした紙コップの底にわずかにコーヒーがゆれている。いつのまにこんなところで考え込んでいたのだろう。外はもう真っ暗だった。時計を見ると八時を過ぎていた。ちょっとゆっくりしすぎた。慌てて階段を降り、通りを渡ってつばめの店まで行った。

「いらっしゃいませ」

入り口で安西由紀子が笑顔で迎えてくれる。若い女の人の髪をつばめが切っている。お客さんはその人だけだった。鏡を通して僕を見てわずかに笑ってくれた。順番を待つためのソファーに座って待つ。白と黒を基調にした店のカラーによく合う、臙脂色をした柔らかな革のソファーだ。座り心地もよく、家具に詳しくない僕でもいいものだということが分かる。この前は余裕がなかったが、改めて店を見回すと男の散髪屋と違いフロアーを贅沢に使っている。黒色のフロアーに白い壁。髪を切る椅子も、座り心地のよさそうな黒い椅子が五席。かがみが前面と移動式のかがみが椅子の後ろに置いてあり、いつもお客が後ろもチェックできるようになっているようだ。それとは別に洗髪のための席が三席。こちらはアイボリーホワイトの洗髪台と同系色の椅子で明るい雰囲気になっている。掃除も行き届いており、壁にはしみ一つない。床にも髪の毛が落ちていない。清潔感のあふれる店だ。有線放送だろうか、優しい音楽が流れている。従業員もきびきびと働いており、無駄話をしたり、だれた態度をお客の前では見せたりしていない。

「いらっしゃいま……」

「何だよ、てめえ。お客に挨拶もできねえのか」

 野太い声に驚いて入り口のほうを見た。肩を怒らせて柄のよくないハリネズミのような髪形の男が入ってきた。続いてスキンヘッド、そして濃紺色にシルバーのストライプの入ったダブルのスーツを着た薄い茶色の色が入っためがねをかけた角刈りの大きな男が入ってきた。こいつら、この前の。三人はこちらに気付く様子はない。二つある待合ソファーの一つのソファーのところまで来て、スーツの男は靴をはいたままソファーの上に足を伸ばして横向きに座った。ポケットから赤いパッケージのタバコを出してくわえた。ハリネズミが慌てて大げさな仕草で火をつけに駆け寄った。スキンヘッドがこっちに近寄ってきて遅れてきたハリネズミとで僕をはさんで座った。

「兄ちゃん、ずいぶんしゃれたところで髪を切るんだな」

 ハリネズミがねめつけながら話し掛けてくる。

「おまえ、また今度来たほうがいいんじゃねえか」

 スキンヘッドはひじでごんごんわき腹をつつきながら顔を近づけてくる。餃子でも食べたのかにんにくくさい。

「いえ、ぼくは」

「ほう、名古屋へ行ってきたのかおめえ」

 スーツの男が土産に持ってきた袋を見ている。ハリネズミは僕の足の間に置いた大きな紙袋を取り上げ、中味を出した。

「おお、このゆかりってかっぱえびせんみたいなやつだよな。ちょっと味見してやるよ」

 いきなり包装紙をバリバリと破り中身を取り出して食べ始めた。

「うめえな、これ。社長もいかがですか」

「おお、一個くれ」

 わざわざ袋を開けて両手で手渡した。

「けっ、こっちはあんこかよ。甘い物見るだけで胸がむかむかするんだよ」

 スキンヘッドは安倍川の箱を開けもせずに靴でぐしゃっと踏みつけた。包装紙が破れて中味がはみ出した。

「ああ、やめてください」

「うぜんだよ、さっさと消えろ」

 ハリネズミが背広の襟を持って僕を立たせようとした。

「あんたたち、いいかげんにしなさいよ」

 後ろからつばめの声。

「気のつええ姉ちゃんは俺の好みだぜ」

 スキンヘッドが真っ赤に上気した顔をつばめに近づける。

「警察呼びますよ」

「ちょっと待ってくれよ。俺たちが何したって言うんだ。ただお話ししてきただけじゃねえか」

「その件ならこの前お断りしました」

 スーツの男がのっそりと立ちあっがて、ニヤニヤ笑いながらつばめにゆっくり近づく。人指し指を軽くまげてつばめのあごの下に持ってゆき、くいっとつばめを上に向かせた。僕は頭が真っ白になっていた。

「やめて下さい」

 気がついたら男とつばめの間に手を広げて立っていた。みぞおちにどすっと衝撃が来た。重たい砂袋でみぞおちをたたかれたようで、一瞬、息ができなくなった。折り曲げた僕の目に男のこぶしが見えた。さらにもう一発。うーっと胃の中の物がせりあがってきたが歯を食いしばって耐えた。つばめの店を汚せない。男は無言のままさらにもう一発。腹を押さえてしゃがみこんだ。

「てめえ、社長に何しやがる」

 ハリネズミの声が頭の上で聞こえた。見上げたとき目の前に足が迫っていた。

「きゃー」

 女の人の悲鳴を遠くで聞いた。

「まっくん、まっくん。大丈夫」

「うん。これくらいなんてことないよ」

 ゆっくりと立ち上がった。目がかすむので、軽く頭を振りながら周りを見回した。三メートルほど飛ばされて尻もちをついたようだ。

「何回、言ったらわかるんだ。あとが残るようなやり方するんじゃねえ、馬鹿野郎」

 スーツの男は正座したハリネズミを蹴りつけている。どさっと派手に横倒しになる。顔が血だらけだ。すいませんと座りなおしたところをまた蹴りつけられている。

「ちょっと。後は他所でやってくださいよ。これ以上ひどいことをすると本当に警察を呼びますよ」

 スーツの男はいぶかしそうにこっちを見た。

「おめえ、えらいふてぶてしいな。女の前で格好をつけてんのか。それとも何にも感じない本当のばかか」

「まあ、どっちでもいいじゃないですか。さあ、出て行って」

 スーツの男がゆっくりと近づいてくる。大きいので薄茶色のめがねで見下ろされている格好になって気味が悪い。額がほとんどくっつくほど男が近づいて来た。その不気味さに耐えられなくなり小さな声で言った。

「あの、この店にどんな話しがあるんです」

「どっかで会ったことあったかな。人のいないところでは、あまりいきがらないほうがいいぜ。俺は止めてもきちがいが俺んところにもいるからな」

ささやくようにそう言うと、名刺を僕の胸ポケットに押し入れ、顔を離した。おい行くぞと顔を振り、二人を従えて出て行った。

「まっくん、大丈夫」

 つばめが駆け寄ってきた。由紀子がタオルをぬらして持ってくる。鏡の中の顔は赤鬼のように血に汚れていた。いつだったか、椿山さんが華麗によけた回し蹴りをまともにくったにしては、鼻血が出ただけですんだのはラッキーだった。緊張が取れたからか、今ごろずきずきと痛くなってきた。涙も鼻水も出ている。格好悪い。ぬれた真っ白なタオルに顔を埋めてしばらくへたり込んでいた。

「皆さん、ご苦労様。今日はもう店を閉めましょう」

 ぼんやりとつばめの声を聞きながら、さっき髪を切っていた女の人はどこへ行ったのだろうかと考えていた。どれくらいそうしていただろ。そろそろ涙も引いたようなのでタオルから顔をあげた。つばめが冷たい水に浸した代えのタオルを持ってきてくれた。

「またつばめに助けられちゃったな。なんか恥ずかしいよ」

「何いってんの。あたしのほうこそ助けてもらって、ごめんね。こんなになっちゃって」

「これくらいなんでもないよ。でも、なんなんだい、あの連中」

「不動産屋と言ってたわ。昔、はやった地上げ屋みたいなものだと思うけど」

「なんでまた」

 つばめはため息をついて話し始めた。

「ここの家賃、周りと比べて結構安かったのよ。それで思い切って店をやることにしたんだけど、ここの持ち主の資金繰りが悪くなって、銀行に担保にしていたこの土地を取り上げられたという話しだったわ」

「でも、借りているわけだから」

「ここの土地、二階建てでしょ。こんな駅前に普通の家を改造したような二階建てはないわよね、考えてみたら。そう言われて改めて見てみたら、周りは五階建て以上でここだけすとんと落ち込んでいるのよ、駅のほうから見ると。隣と後ろ四つくらいの土地をまとめてビルを建て直すという話しなの」

「だから出てけっていうのも、ずいぶん乱暴な話しだよね」

 顔がほてっている。タオルを鼻の上に置き、上を向いた。腫れてきているのが自分でもわかる。目をつぶると店の優しい音楽が耳に流れ込んでくる。これはエンヤだったかな。気持ちが落ち着いてきて、興奮が鎮まってほどよい疲労が入れ替わりに体を包んでくる。このまま眠ってしまいたい。明日行ったらみんなに笑われるだろうな。

「さっきの不動産屋の話しでは、権利金の全額返却と立退き料として家賃三か月分免除するといってきてるの。三ヶ月のうちに探して出て行けって」

「だって、また新しい店を始めるにも改装費用とかかかるし、ここの費用もまだ払っているんだろ」

「そうなの。だから困っちゃって」

 またため息をついた。

「で、今日は、また髪を切に来てくれたの、まっくん」

「いや、今日、名古屋に出張に行ってきたんでお土産を持ってきたんだ」

 ソファーのところにあった、踏みにじられた箱は従業員によってきれいに片付けられていた。いつのまにかみんな帰っていて、電気も半分消えて薄暗くなっていた。

「ちょっと待っててよ」

 膝に手をついて重い体をゆっくり持ち上げた。

「どこに行くの、まっくん」

「すぐもどるから」

 駅のコインロッカーで荷物を取り出し戻ってきた。

「ええと、ゆかりと、安倍川餅と、うなぎパイとウィロー」

「こんなに悪いよ。これ誰かにあげるんでしょ」

「みんなで食べてよ、明日。クレームのほうじゃなくて商品開発の仕事で出張したら、嬉しくなっちゃって、帰りについいっぱい買いすぎてどうしようかと思ってたんだよ。あとは会社のみんなで食べる分と、自分の分でまだほら、こーんなにあるんだ。」

 つばめはくっくと口を押さえて笑っていたが、やがてこらえられなくなり、あははと笑い出した。

「まっくん、それ、買いすぎじゃない?会社って会社の全員に配るんじゃないんだから」

「ははは、そうだよね、やっぱ。自分を入れて七人しかいないのに」

「そうだよ。よく持てたね、これだけ」

「大変だったよ、両手でこうやって持って」

 大げさに両手で持ったポーズを作って、誰もいない店の中で二人笑い転げた。

 


翌日は体が痛くてなかなか起きれなかった。会社に出たら大隈係長と菅野さんよりはちょっと早かったが、ほとんど始業時間直前だった。

「遅くなってすいません。お土産、ここに置いときます」

「う、お帰り」

「並木、なんだその顔」

「おや、出張に行って、けんかでもしてきましたか」

 椿山さんはチラッと顔を見ただけでなにも言わなかった。

「おはよーっす。おい、なーみちゃんまた派手にやられたな」

「うぃーっす。おい、おい。暴力バーかぼったくりの風俗でも行ったのかよ」

「菅野さんて。それ、自分のことでしょ」

「何いってやがる。大場だって一緒だったじゃねえか、昨日は」

 にぎやかに一日が始まった。佐伯室長に昨日の報告をした。

「う、わかった。行ってよかったかい」

「ええ、それはもう。久しぶりに楽しい時間でした。皆さんありがとうございました」

「どんな所でしたか。そこは」

「知多半島のほとんど先端で、とても古い町並みが残っているんです。海も穏やかそうで、のんびりしたいい町です。近くで温泉も出るそうですよ」

「室長。経費で研修旅行、行きましょう。」

 大場が手をあげて提案した。

「たまにはおまえも使えること言うな」

「大隅さん、たまにははないでしょう」

「そう、そう。こいつは遊びのことになると頭が回るんですって」

「あっはっは」

 

 千と千尋の神隠しのオルゴールがなって昼休みになった。みんながぞろぞろと出て行った。佐伯室長はやはり一人で愛妻弁当を広げている。

「おい、椿、行くぞ」

「はい、今、行きます」

 椿山さんと二人で話したかった。まるでそれを察していてくれてるかのように、椿山さんはみんなと少し遅れて部屋を出た。僕はあわてて追いかけた。

「あの、椿山さん」

「ちょっと上にあがろうか」

 上を見る仕草で屋上に誘ってくれた。

「上はちょっと暑いな」

 手すりに寄りかかって目を細めて微笑んだ。屋上には夏の強い日差しが振り注いでまるで暑く熱したフライパンの上にいるような感じだ。

「僕、昨日帰ってきて大宮の駅の近くに行ったんです」

「うん」

「そうしたらこの前の三人組と出会って」

「あいつら、並木を覚えてたのか」

「いえ、そうじゃないんですが」

 簡単に昨日のことを話した。椿山さんはリラックスした様子で向うの木がいっぱい植わってるほうを見ている。

「それで、俺にやつらを追い払えというのか」

「いいえ。あのハリネズミみたいな人、空手か何かやっていますよね」

「まあ、ちょっとやってるな。町道場の初段、二段くらいかな」

「ああいう人にやられたとき、どうすればいいかと思って」

 椿山さんはゆっくりと僕のほうを見た。

「そりゃ、逃げるのが一番だな」

 そう言うとにやっと笑った。僕はうつむいた。

「女の子の前でそんな格好悪いことできませんて言うのか」

「えっ、ええ」

「でも、一日か二日俺が教えても勝てないぜ」

「そうなんですけど。ああいうときただやられるのもと思ったんです。何かいい方法ないかなって。あるわけありませんよね、そんなに都合のいい方法」

「まあ、やつ一人だけなら隙を見せた瞬間に目玉を突くとか、金玉を握りつぶすとか、どうにでもできるが。あとから、あとから湧いてくるからな。ああいうやつらは」

「はあ」

「でも、昨日おまえが経験したの状況なら手がないこともない」

「えっ」

「やられることには変わりないけど、ダメージが少なくなる方法」

「教えてください」

 僕は勢い込んで行った。

「相手の体のどこでもいいからしがみついて離れないことだよ。殴られようが、蹴られようが絶対に離れない。そういう根性は、並木はありそうだから」

「しがみついてですか」

「握力はちょっと鍛えといたほうがいいぞ。鉄棒にぶら下がったり、ゴムマリを握ったりして。それからつかみやすいところを持つ。髪の毛、ベルト、破れにくそうなら服でもズボンでも。手も足も口も使って絶対に離れるな」

「やってみます」

「ボクシングにもダッキングといって相手に抱きつく防御方法があるんだ。でも、そういう状況にならないようにするのがいいんだがな」

「ええ」

「そういうわけにはいかないときもあるよな、男なら」

「がんばってみます」

「ああ、健闘を祈ってるぜ」

 いつものように穏やかな笑みのままそう言ってくれた。この人と話しているとすごく気分が落ち着く。いつまでも話していたい、いつまでもそばにいたいそういう感じがする。  

いつのまにか昼の時間が過ぎてしまっていた。ぞろぞろとみんなが部屋に帰ってくる。

「おい、椿。待ってたんだぞ」

 菅野さんが入ってくるなりそう言った。

「すいません。ちょっとトレーニングしてたら気合が入りすぎてしまって、気がついたら昼、終わってました」

「ばかじゃねえの、こいつ。飯食うの忘れてたなんてよ」

 あきれたように大隅係長が言った。

「はい、これ。並木にも」

 大場さんが菓子パンやおにぎりやカップめんを袋から出して机に並べてくれた。

「おお、悪いね」

「ほんと、空手ばか一代だな」

 部屋の中が笑いに満たされる。椿山さんはみんなに愛されている。

 

プルルルルル


電話のベルで一瞬水をうったように部屋が静かになった。

「ありがとうございます。東京製菓、お客様相談係、並木でございます」

「こんな電話したくなかったんだけどね」

 ちょっと年配の男の人からの電話だった。

「いえ、結構でございます。ご意見をお聞かせください」

「じゃあ、言わせてもらうけど、お宅の本当においしいせんべいってのあるでしょ」

 二、三ヶ月前に発売された新製品だ。少し値段が高めに設定してあるためか、ちょっと苦戦しているようだ。

「ええ、当社の新製品でございます」

「あれ、四五〇円もするんだけど、どこがおいしいの」

「せんべいにしている米は有機栽培で、調味料にいたるまで化学薬品は使っておりません。原材料の味を生かして…」

「いや、お宅の宣伝を聞きたいんじゃなくて、この味でこの値段なんだ。お金返して欲しいよ、まったく」

「あの、貴重なご意見をありがとうございます。できましたらもう少し詳しいお話しをお伺いいたしたいのですが、お宅にお伺いさせていただいてもよろしゅうございますでしょうか」  

「ああ、いいよ。いっとくけど、わし、因縁つけてごねてるわけじゃないよ」

「はい。私もぜひお目にかかってご意見をお伺いしたいのです」

 住所と名前を聞き受話器を静かに置いた。

「おい、おい、なみちゃん。何、いまの電話。あんなのにかかわってたら、体いくつあっても足りないよ」

「そう、そう。ほっときゃいいんだよ」

「はい、でもちょっと行ってきます」

「う、ご苦労さん。本当においしいシリーズ持っていったらいいよ」

「並木さん、がんばってくださいよ」

「はい」

 夏の高い空の下に飛び出して行った。セミがわしゃ、わしゃと鳴いている。見上げると高いところに真っ白な入道雲が湧いていた。

 横浜で京急線に乗り換えて能見台で降りた。すぐ近くに迫った丘。深い緑色の木々からはむっとするほどの夏の暑さが、その香りとともに漂ってくる。そのにおいをかいだとたん汗がどっと噴出したような気がした。急な坂を登り、下りにかかると向うに港が見えた。下り坂の中腹あたりに新しく山を切り開いてできた小さな住宅地があった。そこで尾台の家を探した。その表札はすぐ見つかり一軒の真新しい小さな家の前まで来てインターフォンを押す。通された部屋には程よくクーラーが効いていた。背の小さな、白くなった髪を短く刈り込んだ初老の男。口は意志が強そうにへの字に結び、むっつりとしている。コースターに冷たい麦茶の入ったグラス二つを自ら持ってきて向かいに座った。

「ここはいい場所ですね。見晴らしはいいし、自然の丘がすぐそばにあるし」

 窓の外に目をやれば、緑色の山をくるりと回るようにゆっくりととんびが舞っている。

「いつもはいい風が来るんで、クーラーはほとんど入れないんだけどね」

「じゃあ、窓を開けましょう。僕もそういうの嫌いじゃないんです。会社ではいつもクーラーがかかってますけど」

 男はほーっと意外そうな声を出して立ちあがった。窓を開けてレースのカーテンを引いた。白いレースが風に遊んでいる。

「電話でも話したけど、これが本当においしいのかね」

 男は傍らにあったせんべいの袋をぽんと机の上のほうった。

「おいしいというのは主観でしょうけど、お客様がおいしくないと思われる理由を教えていただけませんか」

「おいしくないとは言ってない。言ってないが。ちょっとこれを食べてみろ」

 みたことない包装のせんべいだった。裏返してみる。ホシノ製菓。そう印刷されていた。一枚、一枚包装されたせんべいのひとつを割って口に入れてみる。醤油の味かちょっと勝っているようには思う。がりがりと噛んで飲み込む。醤油のほのかな香りが口に残ったが、それがちょうどいい。

「おいしいです」

「だろう。あんた裏を見たんだから分かったと思うけど、それは新潟の会社で作っている。向こうでは結構普通に流通しているおかき類だ。値段も三五〇円とけっして高くない」

「そうですね」

「これと、お宅の四五〇円、どう違う。わしはだまされたと思ったよ」

「多分、有機農法の米と天然素材の調味料を使ったためのコストアップ。後は全国展開するための管理費や流通、宣伝コストでしょうか」

「それとおいしさとどう関係ある。あんたのところは本当においしいとうたっている。だったら、全国展開、有機栽培、無農薬、化学調味料なしとかそううたうべきだな」

「おっしゃるとおりです。報告書を必ずあげておきます」

 尾台は苦い顔をしてうなずいた。

「あんたにこんなこといってもしょうがないことは分かっている。一消費者のわしの意見なんかいちいち取り上げていたんじゃ、企業として収集がつかんだろう」

「でも、直接いただけるご意見は、我々企業にとって大変貴重です。必ず商品開発、企画や、研究開発のほうに通しておきますから」

「うん。ところで、新潟のせんべいはあんたの所のものだけでなく、他社のせんべいに比べてもうまいと思う。何でこんなにうまいんだと思う」

「それは調味料でしょう」

 即座に答えた。

「ほう、今まではおどおどしていたけど、この問題にはいやに自信たっぷりだな」

「あっ、すいません。僕もなんでこんなにうまいんだろうって考えてたものですから、つい力が入ってしまいました」

「いや、いいんだが」

「食べたときのどに引っかかるようなしょうゆ臭さのような刺激がないんです。甘いのともちょっと違う。味付けにかなりノウハウがあるんだと思います」

「なるほどな。さすがに菓子を作る会社の人は詳しいな」

「私、最近まで味や香りを開発する部署にいたものですから」

「じゃあ、あんたの所のせんべいをあんたが変えるとしたら、どう変える」

「それはもちろん私は技術者ですので、値段はそのままでコストを引き下げ、味にお金をかけてよりおいしいと思われるものを作りたいです」

「ふーん。具体的に何か考えている」

「考えかけている部分とまだ分からない部分があります」

「それができたらもう一度食べてみたよ、あんたが作ったせんべいを」

「はい、必ずお知らせしますから。ご指摘いただいた点を改善いたしまして、必ずよりよい物にいたします。今後とも当社の商品をよろしくお願いいたします」

「今日はわざわざこんなところまで来てもらって悪かったね」

 尾台さんはにっこり笑って立ち上がった。玄関を出たとき頭の上でとんびがピー、ヨロヨロヨロと鳴いた。

 

僕は大汗が流れ落ちるのもかまわず、急な坂を駆け上がった。息がきれる。急な坂にかかって体だけが前のめりになり足が動かない。それでも必死で足を前に進めた。僕は先ほど裏返したホシノ製菓の包装紙に大変なヒントを発見していた。後味の深さのカギはたぶん魚醤だ。原材料のところに出ていたものの一つにその文字を発見して体が熱くなった。これだ、これだという声が体の内側で駆け回っている。来た電車に飛び乗り途中で乗り換え神田まで出た。この街の古本屋街はよく来ていた。駅を降りたところにどーんと大きなインターネットカフェがある。中に入りアイスコーヒーを一気に飲み干し、お変わりのグラスを持ってPCに向かった。ホームページに出ている魚醤を作っている会社を片っ端からメモした。なんと秋田から日本海沿いに福井まで、そして九州と高知にもある。カフェを出て木陰のベンチに座り、携帯電話を取り出す。とりあえず行きやすい新潟から電話をしてみる。しかし土曜日は休みだったり、担当者が出張だったりしてなかなかいいところがない。五件目の田辺食品。直江津の会社だ。

「もしもし、私、個人的に魚醤に興味を持っているものなのですが、一度おうかがいしてお話しをお聞きしたいのですが」

「えっ、明日。また急だなあ。ええよ、午前中だったら工場におるから」

 田辺と名乗ったその男は二つ返事で了解してくれた。直江津は日本海に面した、信越本線沿線の港町だ。電車を調べてみると、明日こちらを始発の六時半ごろの新幹線で出て、向うには九時半ごろに着く。一〇時ごろに工場に入れればいいほうだ。こういう仕事は朝が早いのだから、これではちょっと遅すぎるかもしれない。今日、仕事が終わってからこっちを出て一泊して、朝一番に工場に行ってみるか。そこまで考えてふと思った。朝一番か、夜行バスはどうだろう。神田の駅まで行き、時刻表を開いてみる。池袋の駅を夜一二時近くに出発して、直江津に朝の五時四五分に着く。それから工場を探して六時半ごろに訪ねてみる。早すぎるようなら時間を聞いて出直せばいい。バスの会社に電話して座席が空いていることを確認して、コンビニでお金を払い切符を買った。最近は商品だけでなく、銀行からお金を引き出したり、振り込んだり、切符から野球のチケット、本の受け取りまで何でもコンビニエンスストアーでできる。本当に便利だ。手土産を一つ買って会社に戻って佐伯室長に報告をした。

「う、それじゃ、報告書をあげといて。これは商品開発、営業企画、商品企画のほうに回しとかなければいけないか」

「はい。それで室長、このせんべいのうまさを調べるために明日、直江津に行ってきたいのですが。もちろんプライベートで行ってきます」

「並木君、休みをどうすごそうと自由だよ。しかし、直江津は遠いな」

「なーみちゃんも熱心だねえ」

「大隅さんも女性にでなく、仕事にこれほど熱心ならここにはこなかったでしょうね」

「俺はこれでいいのよ。おまえらも風俗じゃなく、まともな恋をしてみろ。いいもんだぜ」

「大隅係長がからまともな恋なんてセリフ、聞くとは思いませんでしたね」

「ばかやろう」

 すぐに終業のチャイムが鳴った。午後から外出したため一日が短かった。帰りに飯を食って、部屋に戻り支度をした。一二時までまだ少し時間があった。池袋まで一本だし大宮に行ってみることにした。九時過ぎの駅前。商店街の半分は電気を消している。しかし、決して人通りは少なくなく、千鳥足の酔っ払い以外にも、会社帰りのしゃきっとした人も結構たくさん駅に向かってくる。そういう人は女性が多い気がする。急ぎ足で、遊んでいる人とはスピードが違うのですぐわかる。夜遅くまで開けているつばめの美容院の狙いはいいかもしれない。つまりそういうバリバリ働いている女性がお客になるのだ。

 もちろんつばめの店は元気よく明かりがついている。店も前に男の子と女の子が立っている。向うも顔を覚えてくれてどうもと頭を下げてくれた。店を覗くと、つばめを始め三人が椅子の後ろに立ち忙しそうにはさみを使っていた。お客のいっぱい入った明るいつばめの店を見たら元気が出た。まだ、仕事は当分続くのだろう。『つばめに会いに来たけど、お客さんを相手に忙しそうなつばめを見たら元気がわきました。この前の仕事の続きで、直江津に今夜の夜行バスで行ってきます。仕事がんばってください』僕はメモを書き、店の前にいた安西由紀子に渡して池袋に向かった。俺もできることを精一杯がんばるよ、つばめ。


 ぷしゅーっと音がしてバスは日本海側の小さな町に到着した。バスの扉が開くと乾燥して快適だった車内に、外の湿気ととも塩の香りが入り込んできた。外はすっかり明るくなっている。バスを降り立ったとき海の近くのせいか、子供のころ海水浴に来たようなそういうわくわくする臭いがした。商店街はまださびの浮いたねずみ色のシャッターがすべて下りており、寂れた雰囲気で暗い感じがする。人通りもほとんどない。片側一車線の道には時折、白い四輪駆動の軽トラックが行き交っている。商店街が途切れたところを右に曲がると、コンクリートの狭く短い道があり、その突き当たり右側が田辺水産だった。あまりに簡単に行き当たったので拍子抜けしてしまった。とりあえずその前まで行ってみると引き戸は開け放たれており、中ではおばちゃんたちが元気よくおしゃべりをしながら働いていた。突き当たって左手を見るとそこはもう港だった。隣接して市場のような建物もある。ぶらぶらと港の先端まで歩いて行った。漁から帰ってきたばかりか、結構大きな細長い漁船が五艘ほど停泊している。朝の海の風は少し湿っていたが、涼しくて気持ちよかった。港のある湾をはさんで向の丘の上に朝日が上がっている。そちらのほうからセミの声が聞こえ始めた。

大きく深呼吸をして再び田辺水産の入り口に立った。初めてのところは相変わらず緊張するし苦手だ。時刻は七時を回ったところだ。入り口から中が見える。コンクリートの床、二〇畳くらいの作業場だ。八人ほどのおばちゃんがしゃべりながら作業をしている。理科の実験室にあるような大きなステンレスでできた銀色の机の中央にパイプが渡されている。そこから緩やかなシャワーのように、水が出ている。その作業台では短い包丁で魚が開かれ、中から内臓が出されている。身は編み籠に、内臓は下のバケツに入れられる。その一連の作業はものすごく手際がいい。おしゃべりをして笑いながらも、次々に魚が網の中に放り込まれていく。魚の体液や血液で汚れた作業台は水が流れていて洗い流されていく。

「ごめんください」

 作業をしていたおばちゃんが一瞬静かになり、視線がこちらに集まった。

「おはようございます」

 みんなが口々に挨拶の言葉を口にした。

「社長さーん。お客さんだよー」

「おー、今、行くから」

 建物の中に足を踏み入れた瞬間、むっとするような魚の生臭い匂いに包み込まれた。奥のアルミのドアがあいて、三四、五の想像していたよりずっと若い人が出てきた。短い髪にはパーマがかかっている。顔は四角で大きい。背は高くないが、パワーのありそうながっちりした体つきだ。薄い緑色の作業着に、白い長靴を履いている。

「始めまして。昨日は電話で失礼しました」

 出した名刺を一瞥して僕を作業場の奥の事務室に招きいれてくれた。社長と呼ばれたその人は青いプラスチックのケースに入った名刺を一枚出して、無造作に僕に渡してくれた。田辺水産社長、田辺重徳とあった。田辺社長は僕に椅子を勧め、向かいの相当古そうなソファーにどっかりと座った。

「ええっ。あんた埼玉から来たの。俺はまた、こっちの人だと思ったから。こっちの人が魚醤を一本欲しいからと言うのかと思って。そう、埼玉から。それは遠いところ、よくきたねえ」

「いえ、こちらこそ、ちょっと早すぎたでしょうか」

「こっちは早いのはぜんぜんかまわないよ。昨日こっちに泊まったの」

「いえ、夜行バスで来て、さっき五時半ごろ直江津の駅に着きました」

「夜行バス。そりゃまたご苦労さん。で、うちの魚醤を買うために?」

「それもあるんですが、魚醤の事を少し教えてもらえないかと」

「そう、じゃあ、これを」

 と言って会社案内を一部出してくれた。魚醤の歴史は、たまり醤油のところで成田さんに聞いたのとよく似ていた。ただ、田辺社長は魚醤の歴史をすごく詳しく説明してくれた。それによると、紀元前三世紀にはすでに中国の書物に魚や肉の塩蔵品が、宴会用に出ていたと記されているという話だ。その後、内臓と肉を一緒に漬け込んだ肉醤ししびしおが漢の時代に現れこれが魚醤に発展しらしい。日本では縄文時代から肉醤、魚醤、草醤が平行して使われていた。奈良時代になって穀醤が中国や朝鮮半島から入ってきた。これはまめが主流だった。現在の味噌、醤油の原形だ。

「だから醤油の本家はこっちなのよ」

「やはり大豆のほうが、『クセ』がないからですか」

「その『クセ』に味わいがあると思うだけどよ。ただ、豆は安く、気象の変化にも比較的強いので安定して供給できた。厳しい環境でも作ることができるので供給量も多い。腐りにくいので輸送もしやすかった。そんな関係で、江戸時代には全国に広まったんだ」

 田辺社長はちょっと悔しそうな顔をして言った。

「なるほど。材料が簡単に手に入り、誰にでも作りやすかったんですね」

「だけど魚醤は動物性タンパクを魚自身の酵素で分解して作られるからね、格段に味は深く、奥行きがある。タンパクが分解されグルタミン酸を始めとするアミノ酸や、ペプチドができる。グルタミン酸は昆布だしなどに含まれるうまみの元だからね。これだけ定着してしまった醤油にとって代わるのは難しい。だけど、このうまみ成分が多く含まれている点を強調すれば、もっと多くの人に手にとってもらえると思うんだ」

「だしの元が売っているけど、そういう感じで使えるということですね」

「そう思うんだ。ビタミンやタウリンもたくさん含んでいるから健康にもいい。この長所を何とか生かして、今、漁協や町などに協力してもらって、だしとしても売り出そうと力を入れて始めたところなんだ」

「タウリンて、あの栄養ドリンクで宣伝しているタウリンですか」

「そう、もともとは海藻や魚介類に多く含まれているからね、あれは。何もあんなもん、高い金出して飲まなくても、これを使った料理を毎日食べれば、毎日元気はつらつ、二四時間戦えますよってね。ははは。」

 田辺社長は部屋な隅に積まれている箱の中から茶色の色がついたビンを取り出した。

「これがそうなんだけどよ」

 ビンを傾けて手のひらに少したらした。たまり醤油を体験したばかりなので相当期待して舌でその魚醤をすくった。

「どう」

「正直に言っていいですか」

「おお」

「僕は、少し拍子抜けしました。魚醤というからどんなに魚臭い匂いがするのかなと思ったんです。なんだか塩味の効いただしの元をなめたような感じがします。これでお吸い物を作る主婦には受けるかもしれない。でも、今のだしの元そんなに変わらない。もう少し奥行き、後味、くせがあったほうが他のだしの元と差別化できるかもしれませんね」

「うーん」

 社長は腕を組んで上を向いてしまった。机に置いた僕の名刺を取り上げて眺める。それをポーンと机の上に放り出し、また自分の前まで持ってくる。悪いことを言ったかもしれない。

「あんた、はっきり言うな。魚醤はくせがあるから食べ慣れた人にはたまらない味だけど、一般の人にはそれが受け入れられない原因になっていると、ずっと言われ続けてきた。そこで地元の大学と提携してうまみは残しながら独特の味を削る努力をして、やっとこの商品ができたんだ」 

「ええ、ですから、大量販売ルートに乗せればそこそこ売れるかもしれません。かなり宣伝をしなければいけませんが。ご存知とは思いますが後発メーカーが消費者に自社の製品を認知させようとした場合、前のメーカーの三倍は宣伝費用がかかります。後は都会から来た人向けのみやげ物として売るとか」

「本物の魚醤はこれなんだが、これではちょっと都会のスーパーでは売れないと思うんだ」

 透明のビンにあめ色の液体が揺れている。手のひらにとってなめてみる。醤油の中に濃厚な魚の香りと少しの苦味と塩味。ただし、苦味や塩味は何かオブラートのようなものに丸く包まれているようで決して自己主張していない。

「うーん」

 今度は僕が唸る番だった。悪くない、悪くないんだこれだけだとがちょっときつい。

「なるほど、このままでは都会受けしないかもしれませんね。食べ物は難しいですね」

「そうだねえ」

「でも、僕はこの味のほうが好きです。これの塩分をもう少し薄めて、それこそだしの元のように使えば、いけると思うんですが」

「なるほど、これをだしにねえ。薄めてねえ」

「醤油のように大量に使うというわけにはいきませんが、隠し味としてなら結構受けると思います」

 そう言いながら僕はすでに成田さんが造ったたまり醤油とこの魚醤の組み合わせを頭に描いていた。この味、くせ、香り。たまり醤油とこの魚醤は何対何にするか。どうすれば焼いたときに一番深い味になるのか。

「鍋に入れたりとかは、俺たちもしているんだけど」

「これは安定して作ることができるんでしょうか」

「昔からつくってるからね、これは。大体出来上がるのに二〇日。殺菌処理や瓶詰め、出荷の手間を考えて約一ヶ月かな。ちょっと作ってるところ、見てみるか」

 田辺社長は、そう言って立ち上がった。アルミのドアを押して作業場に入り、その奥のドアをあけた。むっと、より濃厚な生臭さが押し寄せてくる。そんなはずないとは思うが、匂いのせいで酸素が薄くなっているのか息苦しい。口をあけてパクパクと息をする。田辺社長が振り返りふっふふと笑い、まだ先に歩く。

「ここでミンチにした身や内蔵を塩でつけるんだ」

 表の作業台と同じ物が置かれているが、その端っこに銀色のフードのような物が付いた一抱えほどの機械が取り付けてある。これに魚を入れミンチになったものが下から出てくるのだろう。その向うにタンクがいっぱい並んでいる。目がちかちかするような気がする。どうやら匂いの元はそこらしい。

「これが」

 そう言ってタンクのふたを開けたとたんにおいの爆風にあおられて気が遠くなりかけた。

「あっはっは」

遠くで田辺社長の笑い声が聞こえた。

「きょうれつですね、ここ」

 涙目になった目をこすりながら僕はやっとの思いで言葉を搾り出す。

「このタンクで発酵させているだよ」

 呼吸を止めていても目から匂いが入ってきそうな、魚が腐ったような強烈な匂い。必死で目を見開きタンクの中を恐る恐る覗いてみる。黄土色でペースト状のものの表面にオレンジ色の油が浮き、プチプチと泡が沸いている。

「気をつけたほうがいいよ。その汁がついた服はもう着れなくなるからね。女房子供はもちろんだけど、ここのおばちゃんたちだってよけて通るくらい強烈だから」

 声が出せず無言でうなづいた。急いでそこを離れて止めていた息を吐いて吸い込む。また強烈な匂いが襲ってくる。口で浅く呼吸してやっと落ちついた。

「はっはは。あんた、それはちょっと大げさでしょう」

 田辺社長は愉快そうに笑いながらさらに奥に進む。すると不思議にすっと匂いが収まったような気がした。さらに進むと奥に並んだタンクの中から、なんとたまり醤油の倉でかいだような、濃厚な醤油の香りが漂ってくる。タンクのふたを開けたらなんともいえない芳醇で奥行きのある魚の香りが醤油の香りに混じってしてくる。タンクから直接とった汁を手のひらにのせてなめてみると、いい香りが口の中に残った。

 田辺社長について工場を出た。

「あのタンクの汁は、またなんともいえないうまみがありますね」

「まだ加熱してないからね。それにしても、あんた、よく逃げ出さなかったな。」

「もう、気を失いそうでしたよ」

「あっはっは。そんな顔してたわ。だけど、よっぽどこういうのが好きなんだね。そうでなければこっちではなく、向うの出口から出てるもん」

 反対側の入ってきたほうを指差しながら愉快そうに笑った。つられて笑った。気持ちのいい海辺の朝が終わり太陽は中空に浮きコンクリートに光と熱の針を投げつけている。防波堤のすぐ向こうはもう日本海だ。磯の香りがほんのり漂ってくる。そうか、魚醤の香りはこの香りに似ているんだな。

 田辺社長と、もうそろそろ帰り支度をはじめてていた作業場のおばちゃんにお礼を言い、魚醤と、おさかなエキスという新しく売り出そうとしている魚醤を三本ずつ買って、工場を出た。すでに一二時が近い。商店街へ向かって歩く。魚醤を入れてもらった袋の紐が、指に食い込み痛い。焼きトウモロコシのいい匂いがしてくる。突き当たりの店で盛んに煙が上がっている。覗いてみるとイカや魚、トウモロコシなどをフランクフルトのように棒にさして、炭火の周りに立てて焼いている。そう言えば腹が減った。

「おばちゃん、その焼いた魚をください」

「はいよ。三五〇円。旅行でこっちに?」

「まあそんな感じです。埼玉からきました」

話をしながら手際よく醤油をつけて、さらにあぶってから渡してくれた。一口かじるとなんともいえないうまみのある魚だった。

「この魚うまいね」

「魚はただのアジだけどね、いま旬だから。企業秘密だけどね、この魚醤がいい味出してくれるんだよ」

 おばちゃんは首にかけたタオルで汗を拭きながら、田辺水産のお魚エキスの小ビンを振って見せた。僕もにっこり笑ってその大きいビンを出して見せた。

「よく分かってるねえ、お兄ちゃん」

「社長が今度力を入れて売り出すって言ってました。うまく行くといいですね」

「ほんとにね。東京のほうでも宣伝しといてね」

「はーい」

 手を上げて店を離れた。店の向うから、にぎやかな子供たちの声が聞こえてくる。そっちを見ると、狭い道路の先に砂浜が見えた。海水浴場のようだ。僕は海が見るところまで出て、うちあげられた大きな木の幹に腰をかけ魚をかじった。熱く焼けるような砂浜に潮風が気持ちいい。魚を食べ終えて大きく深呼吸をし、海の空気で肺を満たした。


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