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春は北からやて来る  作者: 石倉栄治
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うまくいかない人生、仕事  生きにくさを感じているすべての人に送る応援歌

数ある投稿の中から閲覧いただき、ありがとうございます。

仕事も人付き合いも苦手な20代の並木。

周りの人の助けを得ながら、自分の生き方を見つけていくまでの

長編小説です。

最後までよろしくお願いします。

春は北からやって来る


                            石倉栄治




 

 キーヨ、キーヨ。頭上で鳥の大きな声がする。見上げると青々と茂った桜の木の葉っぱが揺れて、灰色の鳥が見え隠れしている。この前まで枯れ木のようだった枝一面に花が咲き、その後出てきた葉っぱは日に日に色が濃くなり風に揺れ、鳥と遊びざわざわと音を立てている。降り注ぐ太陽の強い日差しを浴びて、まだ若い葉っぱ同士が喜んではしゃいでいるようだ。僕は近所の神社に散歩に来ていた。木の幹をぽんぽんとたたくとまた歩き出す。五月の連休が終わって三週間ほどたっていた。そろそろ六月の声を聞こうというこの季節が僕は好きだ。植物や動物が強い日差しとさらさらとした空気の中で一番うれしそうに見えるからだ。石でできた長い階段を上りきった。正面に拝殿があるがそこには向かわず、その脇から神社の外に出て隣接している市民公園に入ってゆく。散髪に行くのが面倒で長く伸びてしまった髪が風にゆれる。ゆっくりと木々の間にうねる散歩道を歩いてゆく。時々チョウチョや鳥を見上げて立ち止まる。

「ああいい休日だな」

 ぼそりと独り言を言ってみる。菓子メーカーとしては国内二番目の売上げの東証一部上場企業、東京製菓に就職して五年、二七歳になっていた。今は商品開発部、研究開発室で新商品の味や香りの研究をしている。人と話すのは苦手だ。だから一日大きな自分の机に向かって、指示されたターゲットの年齢層向けのしょうゆ味やソース味の香りや味を作り、同じ商品開発部にある商品開発室に提案していく今の仕事は気にいっている。一口にしょうゆ味といっても年齢層によって好みの味は微妙に違っている。たとえば若い人向けには甘辛くして濃い味にする、またはそこに洋風の香辛料を加える。年配向けにはあまり濃い味にしない。また塩味が効いていた方が受ける。香辛料はあまり使わない、などベースになるノウハウはあるものの、微妙な味や香り、食感の違いで売れ行きはぐんと違ってしまう。市場調査などのマーケッティングと過去の商品売上げをベースにしたノウハウ、そして感性がたよりの仕事である。

 一時間半ほど弛緩してしまいそうな陽気と晩春の雰囲気を散歩で楽しんだ後、アパートの前に戻ってきた。二階建て、1DKのぼろアパート。さびの浮いた鉄の階段をぼこぼこと音を立てて上り、合板でできた薄いドアを開ける。入ったところが台所。

「ただいま」

そう言って熱帯魚の水槽に近寄るとカラフルな魚たちが寄ってくる。少し大きな黒い魚が太郎左衛門で、みんなのボスだ。一つまみしたえさを、丁寧に全部の魚が食べれるようにばら撒いてやる。太郎左衛門が一番に口をぱくつかせるが、まわにに沈んでいく粒に他のカラフルな小さい魚たちも近寄って食べている。ひれを小さく動かして、喜んでいるようにも見える。生き物は昔から好きだった。ぼくの姿が見えるととても喜んでよってきてくれる。

「かえったよ」

引き戸を開けると六畳の間で文鳥のちーちゃんがケージの中でさえずっている。僕を見つけるとケージを忙しく動き回り、出してくださいとアピールをする。ふたを開けて部屋に放してやるとばたばたと羽ばたき、電灯の周りを大きく一回りしてぼくの肩の上にとまる。肩に乗せたまま風呂のお湯を入れに向かう。一人で暮らすには十分快適な空間だ。風呂の湯がたまるまでの間。ちーちゃんを肩にとまらせたままPCを立ち上げネットにつなぐ。インターネットも好きなことの一つだ。人と話すことは苦手だがネットだと十分考えてから自分の言葉を書ける。第一相手が見えないし、相手もこちらが見えないので、緊張しないですむ。Gパンにみどり色のTシャツを着ていても色が変だといわれることも、あなたは臭いと言われることもない。そして何より趣味が合う人との話は楽しい。まず熱帯魚の愛好家が作ったページを開き、掲示板に書き込む。『今日の太郎左衛門は笑っている。最近仲のいいグッピーの彼女が自分について泳いでくれるのがよほど嬉しいのだろう』

次に文鳥好きのおばさんが作っているのホームページをひらく。ピーちゃんのでかアルバムと言うとコーナーには、かわいい仕草で写っている鳥の写真もいっぱい貼ってあり楽しい。鳥ばか掲示板というBBSにもゲストが多くにぎやかだ。『ちーちゃんに出してくれとせがまれ、出すと今度はおなかがすいたよとせがまれ、せっかくの休日だというのにゆっくりネットサーフィンしてる暇もありません。今も頭にとまり早く、早くと髪の毛をつついて催促されてます(笑)』

 その他にもこのページの管理人さんが主催している文鳥の愛好者によるメーリングリストにも参加していて、そこには時々ショートショートくらいの長さの物語を載せたりしている。これをやっていると時間を忘れ、ストレスの解消にもなる。残念ながら平日はなかなか長い時間できないが、休日にはよくパソコンの前に座り、ちーちゃんと話をしながらネットをすることが多い。


月曜日の出勤はいつも憂鬱だ。おまけに昨日とは打って変わり、今日は朝から雨粒が見えるほどのしっかりとした雨が降っていて、電車の中がやたら蒸し暑い。走り梅雨だろうか。満員電車も気のせいかいつもより混んでいる気がする。混んでいる電車だと担いだリュックが後ろの人の邪魔になるので、手で持たなければいけない。たいしたものは入っていない。本やちょっとした飲み物、気が向けば途中で買った昼のための弁当。それから前のポケットには社員証。だけどリュックは両手があくので通勤のときに本を読んだりするのが便利で、学生のときから使っている。特に学生生活の後半に買ったこの若葉色のリュックは、値段が一万五千円と高かったがとても気に入っている。オレンジ色のマチの部分、濃緑色の大きなポケットと配色もなかなかいい。登山用に作られていて、重いものを入れても大丈夫なようにしっかりとした造りになっている。しかも雨が降って濡れても中に水がしみこまない素材でできている。ポケットも結構多く、使いやすいように配置されている。そのお気に入りのリュックも今は下でぬれたかさにこすられ、足でけられている。約一時間の通勤の果てに会社にたどり着くとへとへとになった。社員証を首にかけ部屋に入り、タイムカードを押す。

「おはようございます」

 少しうつむき加減で口の中で小さな挨拶をする。ぼくはこの瞬間が苦手でいつも緊張してしまう。返事は返ってこない。ロッカーにかばんを入れ白衣を羽織、自分の席に向かう。

「並木君、ちょっと」

 一番奥の席の末永室長が、ぼくの名前を呼び立ち上がって会議室のほうに歩いてゆく。会議室に入ると末長室長は向うの安っぽいパイプ椅子をガラガラと引いて足を組んで座った。それからドアを閉めるように言って僕を向かいに座らせた。

「今度六月の定期人事異動で君も移動になります」

「あの…」

 ぼくの言葉をさえぎるように手をあげて言葉を続けた。

「営業部、お客様相談室でぜひ君を欲しいということだったので」

 ぼくは一瞬、何を言われたのか分からなかった。営業?お客様?

「あの、商品開発室ではないのですか」

「並木君、技術者といっても会社の中ではチームワークで動いているんだよ。大学の研究者ならいざ知らず、あまり孤立してしまうのはちょっとどうかな。幸い今度の部署はいろいろな人と接することができるようだし、そのあたりのことも勉強してまた戻ってくればいい。私たちは待っているから」

 そう言うと室長は立ち上がって部屋を出て行った。この部屋は何回も打ち合わせで使っていたが、一人残された殺風景な会議室が今日はすごく広く感じた。それにエアコンが効きすぎて寒い。六月の移動、お客様相談室。少し置いて衝撃波がどーんとぼくの胸を突き飛ばした。人と話すのが苦手だったので大学の理学部を卒業するとき大学院に行くか就するか迷った。担当教授が東京製菓の研究開発課に入れると言って紹介してくれたので、教授の推薦を受け入社したのだ。ほんとは大学に研究者として残りたかった。それなのに、いまさらどうしろというのだ。お客様相談室というと商品事故などに対し、客からの苦情を処理するところだろう。そんな仕事、僕にできるはずない。これは会社をやめさせるための嫌がらせか。そうだ、いつか聞いたことがある。不景気で人員を整理したいとき、ターゲットの人間を草むしりや僻地の倉庫、苦情処理係などに移動させ苛め抜いて辞めさせるということを。いろいろな会社でそういうことが行われているらしい。でも、なぜ僕なんだ。何も悪いことはしてないじゃないか。商品開発部から要求される味を作り、サンプルとして出し、それがヒット商品になったことも何度かある。それなのになんで僕なんだ。しかし、そんなことを室長に面と向かって言えるほど僕は度胸も勇気もない。僕には人から嫌われる要素が性格の中にあるのだろうか。またあのころの繰り返しじゃないか。いっそ今、辞めてしまおうか。頭が真っ白になってゆき、何も手につかなかった。

 昼休み。気がついたらトイレの洗面台の水を出しっぱなしにし、ボーっと手をその水の流れにさらしながら突っ立っていた。鏡に映る僕の顔は紙のように白く、弛緩していてまったく生気がなかった。何やってんだろう、こんなところで。誰かに見られたかなあ。昼休みのがらんとした廊下を歩いた。体に力が入らない。研究室の部屋までの廊下が、ゆがんで細長く見えた。うつむきながらとぼとぼと歩いた。ふわふわと雲の上を歩いているようでまるで夢の中にいるようだ。どうしよう、どうしようと思うばかりで、思考がまったく前に進まない。部屋の前のドアを開けて誰もいない部屋に入った。時計を見ると昼休みは一五分ほど過ぎていた。みんなは食堂にでもお昼を食べに行っているのだろう。僕は一五分もトイレで手を水に浸していたのか。

「何で私なんですか」

 ふと気づくさっきまでいた会議室のドアが少し開いていてそこから声が漏れてきている。無意識にそちらに吸い寄せられた。

「上からの命令でね。研究開発室も商品開発室も例外なく、全社的にリストラをせよと言われているんだよ。うちも不景気のあおりで結構やばいんだよ。もうこれ以上、銀行から融資を受けるなら天下りの役員を受け入れなければいかんらしい。三期連続の赤字、二期連続の無配ではな。役員で済めばいいが、そうなるといずれ社長も銀行からということになるだろう。常務会ではかなり危機感を持っているらしい」

「だから、何で私が」

 どうやら末永室長と森本課長らしい。

「君の将来を考えたら、こんな傾きかけた会社にしがみついているのは時間の無駄だろう。できるだけ早く見切りをつけて、別の新しいフィールドで目いっぱい君の才能を活かした方がいいと思うよ」

「そんなおためごかしは聞きたくないですね」

「じゃ、はっきり言おう。商品のほうもうちも三人分の経費削減を言い渡された。君に泣いてもらえばあと一人の削減で済むんだよ。それだけ管理職は給料が高いということだ。森本君はこの部屋の中で一つの系統の指揮をとっているが、物を作り出しているわけではないだろ、もともと事務系なんだから」

「だからって」

「経費削減を言い渡されたとき、はっきり言って並木と君はすぐに私の頭に浮かんだんだ。技術者を三人も辞めさせるわけにはいかないからね。並木はそれなりに優秀だが協調性というものがまったくない。チームとしては機能しない人間だ。そろそろ中堅になるので給料もそれなりに上がってきているしな。」

「なんとか残れませんか」

「君も並木もある意味ではすごく優秀でもある。事務系にもかかわらず理系の集団をまとめていた君も、自分の分野には特に執着してものすごく深く掘り下げていっていた並木もな。残りたいなら君も相談室に行くか」

「いまさらあんな姥捨て山に行ける訳ないじゃないですか。外人部隊のなかにプロパーを入れて、ていのいい退職勧奨室じゃないですか、我々生え抜きの東京製菓の人間にとっては。陰であそこの送られるやつのことを呼んでいるか、ご存知ですか」

「さあな」

「ガス室送りって行ってますよ、みんな。あそこに放り込まれたら生きては出てこれない。kれまでもいろいろな部署から何十人も送られているでしょう。誰が生き残っているんです。元の部署に復帰した人間は皆無でしょう」

「君は管理職なんだからごねても無理だ。並木は組合員でいきなり首というわけにいかんからワンクッション置くだけだ。第二の人生の健闘を祈るよ」

「人の首切って、あんただけ出世するつもりですか」

「まあ、それもかかっているんだよ。本来なら今期に昇進だと工場長の長内常務にゴルフのときに言われてたんだが、不景気のあおりでね。会社がスリムになって軌道に乗れば俺にもまたチャンスが回ってくるよ。あっはっは」

「それがおまえの本心だろう」

「おまえか。ふん、本心が出たなあ、森本よ。並木は寝癖がついたままよれよれの服で出社したり、自分の殻に閉じこもっていて付き合いにくい人間だが、技術者としては俺も認めていた。お前は総務から回ってきたときから気に入らなかったな。この前辞めた近藤常務の甥かなんか知らんが、理系でもないのにここは無理だろう。分相応に総務で励んでればよかったんだよ」

 がたっと音がして動く気配がしたので慌てて廊下に出て階段を駆け下りた。心臓がどきどきしている。立ち聞きして顔を合わすことほどばつの悪いことはない。僕だけじゃないのか。森本課長も辞めさせられるのか。ああでもどうしよう。僕に人との対応をする仕事なんてできるはずない。まして苦情処理など絶対無理だ。姥捨て山、退職勧奨室、ガス室送り。立ち聞きした会話の中でそんな単語が頭の中で渦巻いている。ふと気がつくと水が目の中に流れ込んでくる。ザーっという音が蘇ると同時に急に周りの景色が目に入ってきた。気がついたら駅へと向かう道を傘も差さずに歩いていた。頭からだらだらと流れ落ちてくる雨が目に入る。めがねに雨粒がびっしりついて景色がゆがんで見える。上着から、雨が滴たり、びっしょりと濡れたズボンは腿に張り付いて気持ちが悪い。靴の中にも水が入り、歩くたびにぐちゃ、ぐちゃと音を立てる。前から来る人がきみ悪そうによけて通る。僕は立ち止まって上を見上げた。雨が降ってくる。大きな粒の雨が降ってくる。それが眼の中に入り、流れては落ちる。流れ落ちる雨が何でこんなに温かいのだろう。


翌日はどうしても起きる気がせず、会社を休んだ。ご飯も食べる気になれず、外にも出なかった。夕方、冷蔵庫から納豆と卵を出してきてご飯にかけて流し込んだ。普段は自分でご飯を作るので、外に買いに出ないでも二、三日分の食料は買い置きがある。頭の芯でざーっとテレビの雑音のような音がしていて何もできなかった。わずかに熱帯魚たちに話し掛けたり、文鳥のちーちゃんがそばに寄ってくるのを相手に遊んだりしているとき、霧が晴れてゆくような気がして、わずかに救われた。

 その翌日も会社に電話を入れて休んだ。もう会社に行く気持ちが切れかけていた。昼前になり、思いついて街の中にあるハローワークに行った。中に入ると多くの人であふれていた。列に並んで登録手続きをした。まだ会社をやめているわけではないのでPCでの求人の検索だけに登録した。いっぱい並んでいるPCは満席で、そこでも順番待ち。三〇分ほどしてようやく順番が回ってきた。PCの画面の横には並んでいる人のため、このPCは三〇分経つとチャイムが鳴り動かなくなりますので席をお譲りくださいと書いてある。はじめについてきてPCの準備をしてくれた係りの人が説明してくれた。

「たくさんの会社が表示されると絞り込みにくいので条件はきつめに入力したほうがいいですよ」

「きつめにというと」

「そうですね、今お勤めの会社と同じ条件で入力してみて、それから少しずつ緩めていくとかですね」

「はあ」

言われたとおり給料や休日、通勤エリアなど今の会社と同じ条件で入力してみたが、該当するものはありませんでしたと出てしまった。少しずつ条件をゆるくしていったがヒットするものはなかった。思い切ってほかの条件はそのままで給料だけ条件をはずしたら、五〇〇件も出てきた。ただし技術職は見つからなかった。最初の三ページほどを見てみたが、どれも驚くほど給料が安い。アパートの部屋代や食費などを引いたらいくらも残らないような感じだった。再就職難しさを改めて思い知らされた。早々にハローワークを退散して駅で就職情報誌を手に入れ帰ってきた。これにも自分に合うと思われる仕事はまったくなく途方にくれてしまった。情報誌を開いたまま放心していてはっと気がついたら日が暮れていて部屋の中は暗くなっていた。電気をつけてごろんと仰向けになった。やっぱりどうせ気に入らない仕事をするんだったら、今のところにしがみついていたほうが条件面では断然いいようだ。がまんするしかないのか。でもどこまで我慢できるだろうか。

どうすればいいんだろうね、ちーちゃん。

電灯に文鳥のちーちゃんがとまり、あっちこっちつついて遊んでいる。ほこりをついばんでは下に落としてくる。天井のしみにちーちゃんの影が重なった。

 


 

 思い出したくもない時代のことが溢れ出してくる。小学校のころから目が悪くなりめがねをかけていた。体が大きくならず運動も苦手だった。勉強もあまり好きではなかったが、どういうわけか理科はものすごくいい点が取れた。何もしないでも自然に先生が言っていることが頭に入ってきたし、暇があると図書館でいろいろな図鑑を眺めていた。中学一年生の一学期、期末テストのとき、理科で難しい問題が出て学年で僕だけができた。先生も誰もできることは期待してなく、こんな問題もあると生徒をびっくりさせようと思ったらしい。もちろんそのテストは一人だけ百点だった。

「並木博士。次から君が授業をしてくれ」

 先生はテストを返すときそう言った。クラスで博士、博士の大合唱が起き、それがきっかけだった。休憩時間、小学校の時の友達の藤谷君が教壇の横に立った。

「並木博士、授業をお願いします」

 大きな声でそういわれ僕はうつむいた。

「先生、もったいぶってないでさあ、さあ」

 体の大きな中西君たち二、三人が寄ってきて脇を抱えて教壇に連れて行かれた。

「や、やめてくれ」

 僕の抵抗などないに等しい。抱え上げられ足が地面から離れたときの屈辱感は経験したものでないとわからないだろう。自分がいかに力がなく役立たずなのかをクラス全員の前でさらされているような気分だった。クラスが奇妙な笑いに包まれて、それに気をよくしたそいつらはますます調子に乗った。僕を黒板の前に立たせ、チョークを無理やり持たせ、SEXと書かせた。ちょっとしらっとした空気がクラスに流れたが、そこでチャイムが鳴り立ち尽くす僕を残しみんな席についた。国語の先生が入ってきて黒板を一瞥して、君は英語が得意かと言ったのでまたクラスが爆笑の渦に包まれた。涙が出て僕は教室の隅にうずくまったけど、先生はそのまま授業をはじめてしまった。


「ひゅー、ひゅー」

「雅実ちゃんてエッチ」

 翌朝、教室の扉をあけるとすでに登校していた生徒がいっせいに奇声をあげた。黒板を見ると雅実はSEXが好きですと黒板いっぱいに書かれている。無視して自分の机に来たら机にも大きくSEXと書かれている。僕は黙って消しゴムでそれを消した。誰も黒板の文字を消してくれない。そのうちホームルームの時間になり担任の林先生が来た。

「これを書いた者、手をあげなさい」

 誰も声を出さない。

「並木、君は知っているのか」

 僕はうつむいた。

「こんな下らんことするやつは、人間のくずだ。クラスの中にいるなら反省しなさい」

 そう言って先生は黒板消しですみから丁寧に消して行った。二〇分のホームルームのが終わるまでずっと無言で、まるで手についた汚いものをぬぐうように何度も何度も消し続けた。最初はざわついていた教室の中が次第に静かになっていった。最後の五分は先生が動かしている黒板消しの音だけが、やけに教室の中に大きく響いていた。ホームルームが終わっるとまた何人か集まってきた。

「お前さ、いい子ぶってないでなんで自分が書きましたって言わないんだよ」

「おかげで、クラスのみんなが疑われて迷惑したんだぞ」

「あやまれよ」

 小学校のとき仲のよかった藤谷君まで後ろから遠慮がちにそんなことを言った。

「あーやまれ、あーやまれ」

 周りでみんながはやし立てる。四人くらいで無理やり床に座らせられて、手を持って床に付かされ、土下座の格好で頭を押さえつけられた。

「博士、お勉強だけが生きがいですか」

 みんな何言ってるんだ。僕は成績なんかよくないじゃないか。みんなと同じじゃないか。おまけに体育は苦手だし。助けてくれよ、許してくれよ。だけど言葉は出てこない。ただ、ただ床に顔を伏せて泣くだけだった。

 

 夏休みは僕にとって天国だ。いやな思いをせずに一日一人でいられる。気が向けば外に出た。小さいころからよく行っていた小高い丘にでかけた。そこでバッタやセミをずっと見ていた。座るのに疲れると草の上に仰向けに寝転がる。空は青く、高く、そして鳶が気持ちよさそうに輪を描きながら飛んでいた。今度生まれてくるときはとんびがいいなあ。あいつら気持ちよさそうだもんな。そんなことを考えていると手にもぞもぞと触れるものがある。起き上がってそこを見ると、茶色のおけらが手と地面の間に入ろうとして、大きく力強い手でかいているところだった。くすぐったくて気持ちいい。手にとってこの不思議な虫をしばらく見ていた。小さくてかわいい目。赤色っぽい大きな手を一生懸命かいて指の間に入り込んでいく。そっと柔らかそうな土の上に置いてやった。悪いやつらにつかまるなよ。そう声をかけるとおけらは草と土の間に消えて行った。少し丘を降りたところに神社がある。そこの境内の裏は砂地になっていて、縁側の下にはあり地獄が何匹も住んでいる。きれいな円錐形の穴の中心にその主が息を潜めている。そしてその横をありが歩いている。僕はわざとありを落とすようなことはしない。じっと見ている。するとあまりに端を歩きすぎたありが、足を踏みはずすようにずるっと滑り落ちた。途中で止まって何とか這い上がろうとしているが、砂が滑り同じところでもがいている。その砂が底に落ちると、気配を察したその巣の主はぱっぱと数粒の砂をありに向けて跳ね上げ、ありを底まで落とす。そしてくわがたのくわのような口ではさみ砂の中に引きずり込んでいった。あんなグロテスクで強そうなあり地獄だが、やがて羽化すると信じられないような姿に変身する。いかにも薄幸の美人という感じのはかなげなカゲロウになり、そしてすぐに死んでしまう。そうした自然の中の変化を見ているといつも時間を忘れるほど楽しかった。ずっとこうしていかった。

 

しかし、そんな幸せな時間は長くは続かない。飛ぶように夏休みが終わると、また憂鬱な学校が始まってしまった。一ヶ月の休みがあったので、みんな僕のことを忘れていてくれと願った。

「博士、お久しぶり」

 廊下でどーんと背中をたたいて追い越された。だめだ、誰も忘れてやくれはしない。教室に入ると数人に取り囲まれた。

「久しぶりに会ったのに嬉しそうじゃないじゃん」

 ヘッドロックというプロレスの技。頭を脇に抱えられ、ひねりあげられた。

「痛いよ、太田君」

「おい、おい、太田君だって。お前博士に好かれてんじゃねえの」

「おえー、やめてくれー」

 そう言うと頭をぱっと話して汚いものをぬぐうようなしぐさをした。ずれてしまっためがねを直しながら僕は自分の席に座った。

「おい、そこ博士が歩いた後だぜ」

「うへ、気持ちわりー」

 いつのまにか僕は汚いばい菌のようになってしまった。僕が触ったり持ったりしたものをみんなが大げさに避けるようになる。だから僕は極力動かないようにした。でも体育の時間はそうはいかない。ボールを投げる。鉄棒につかまる。僕は仕方なくやってるのに、みんなはその後を触りたがらない。

「こら、中西、なにやっとるか。そこの鉄棒でやれ」

「でも」

「なーかにし、なーかにし」

 みんなにはやされて体の大きな中西君は周りを睨む。しかし先生にせかされて仕方なく鉄棒を汚そうにつまむ。

「お前、まじめにやらんと体育の点は1だぞ」

 先生に怒られてようやくちゃんと握った。

 体育の時間が終わると中西君たち六人に体育館の倉庫に連れて行かれた。僕を取り囲む人数がだんだん増えてくる。

「お前、汚いから体育の時間休め」

「でも」

「みんな迷惑してんだよ。やたらボールや鉄棒をべたべた触りやがって」

「ほんと、おえー」

「きもいんだよ」

 回りから次々に訳のわからない言葉を投げつけられる。僕は何も考えないようにして、ただただ下を向いていた。

「こいつ、なんとか言えよ」

「わっ、泣いてやがる。きもー」

 後ろの人にどーんと背中をけられた。僕は思わずマットの上に両手をついた。

「ばい菌やろうは巻いちまおうぜ」

 中西君の声を合図にわっと六人に抑えられマットに巻かれた。巻かれているときは少し暗く、程よい圧迫感もありむしろほっとした。この中にいれば痛くない。巻き終わったのかぐるぐる回っていた動きが止まった。

「うりゃー」

 声とともに僕の背中が重くなった。

「おい、おい、ニードロップはまずいんじゃないの」

「やべ、チャイムが鳴ってるよ。次の授業始まるぞ」

 太田君の声がして足音が遠ざかり、やがて静かになった。マットの中は暖かく、居心地がよかった。 僕は声をあげて泣いた。誰にも聞こえない。安心して声を上げられた。その声が悲しくてまた涙が出る。とめどなく泣ける。そして何で泣いているのか分からなくなって、気がついたら眠っていた。

どれくらい時間がたっただろう、ガラガラと体育準備室のドアの開く音がした。

「おい、雅実」

 押し殺した声で小学校のとき友達だった今江君の声がした。

「何でお前出てこないんだよ。先生たちが並木はどこへ言ったと騒ぎ出しているんだぞ」

「だって、今江君、一人では出られないよ」

 そう言うと今江君はマットを解いてくれた。マットから出たときなんだか不安になった。

「一緒に来るな。ちょっと経ってから教室に戻れ。いいな」

 今江君はちょっと悲しそうな目でそう言うと走って戻って行った。昼休みが終わって午後からの一時間が過ぎていた。

「おい、並木。おまえ、どこにいたんだ」

担任の林先生と、六時間目の社会の先生が教室で待っていた。みんなの視線が痛いほど突き刺さる。僕はうつむいた。

「おなかが痛いんです」

 口の中でつぶやいた。

「トイレに行っていたのか」

「はい…」

「二時間も?」

「にーちじかん、にーちじかん」

 教室で拍手に乗ってはやす合唱。

「静かにせんか。並木。体調が悪いのなら保健室に行ってこい」

 そう言って保健室に行かされた。授業が始まっていて誰も歩いていない廊下をゆっくりと歩く。静まり返った廊下は妙に気持ちよかった。  

いじめられているといっても徐々にエスカレートしてくるので最初はそれほど苦痛ではなかった。急に自分のことでみんなが騒ぎ始め、それまでほとんどいないような存在だった僕は、快感とまでは言わないが、いろいろと言われることがそんなにいやではなかった。エスカレートしていったときもその瞬間瞬間は、悲しいとかいやだとか言うよりはみんなの前でいろいろなことを言ったりされたりすることが恥ずかしいと思うくらいで、正直に言えば何がなんだかわからないうちに今日まできた。でも、今日、授業に出ないで一人でいるとすごく気が楽だということに気がついた。実験室や音楽室がある、校舎の北側の一階に保健室はある。ガラガラと遠慮がちに引き戸を開ける。中はスチールの硬そうなベッド。大きめの事務机。椅子に座っていた白衣の先生が上体だけひねって僕のほうを見た。

「先生、頭が痛いんです」

 保健室の天野先生は髪が半分白くなった、ちょっと恰幅のいい女の先生だ。

「君、一年生ね、お名前は」

 先生はバッジの色を見てそう言った。

「並木雅実です」

「並木君ね。じゃ、そこに横になって」

 先生は僕をベッドに寝かせると、窓のカーテンを引きベッドの回りのカーテンも引き寝かせてくれた。誰もいない空間がこんなに居心地がいいとは思わなかった。僕はすぐに眠りに引き込まれた。

 

保健室はすごく居心地がよかった。うるさく言われないし、みんなにたたかれたり、無理やり何かをさせられたりしない。もうみんなの中に入っていくのがいやになった。それで毎日、保健室に行くようになった。学校に来て二時間くらい授業を受けると翌日も、その次の日も保健室に行った。

「並木君、あんた教室に行きたくないの」

 一週間ほど経った日、天野先生は聞いてきた。

「あの、本当に頭が痛くて」

「ここにいたければいてもいいのよ。でも授業がわからなくなるでしょ。ベッドの中でもいいから授業に合わせて教科書を読んだら?」

「でも、荷物が教室だから」

「あしたから朝、ここにかばんを置いていきなさい」

 天野先生はそう言うとまた机に向かって何か書き始めた。先生は訳を聞くでもなく、がんばれと言うわけでもなく、淡々と僕に必要なことだけを言ってくれるだけだ。でもこの人と話していると僕は気分が落ち着く。翌日からここが僕の教室になった。

「分からないことがあれば声をかけてね」

 その日から仕切りのカーテンは開けられたままになった。僕はベッドに座り教科書を開いた。

「並木君はどの教科が好きなの」

「僕、理科が好きです。生物を見ていると飽きないんです」

「そう、私も理科は好きだったな」

 先生は遠くを見るような目で微笑んだ。

「それで保健の先生に?」

「そうね、先生は看護婦さんだったのよ。ふふふ、患者さんに好かれる若くて美人の看護婦さん。今じゃ、おばあちゃん目前だけどね」

「そんなことないです。今でもとっても優しくて、僕ここ好きです」

「あら、ありがとう。君くらいね、そう言ってくれるのは。今は看護師というけど、私は看護婦さんと呼ばれるほうが好き。そのほうが暖かくて優しく聞こえるから。本当は医者になりたかったんだけど英語があまりできなかったから、少しテストが簡単だった看護婦の学校に行ったの。だけど中学生の英語くらいならまだ分かるから何でも聞いてね」

 実際、先生は正看護師の免許を持っていて、僕が聞く数学や英語の問題はすぐに、わかりやすく答えてくれた。僕は理科以外の勉強もおもしろくなり一生懸命やるようになった。先生は教え方が上手で、興味がもてるように解説をしてくれたり質問してくれたりした。   


冬休み、正月の朝。お母さんが郵便受けから年賀状を取ってきた。いつもうちにはあまり多くの年賀状がこない。

「あんたにきてるわ」

お母さんが一枚だけ年賀状を手渡してくれた。僕にくることはないと思っていたのでとても驚いた。保健の天野先生からだった。嬉しかった。僕は裏返して大切に一文字一文字ゆっくり味わいながら読んだ。小さい字でいっぱい書かれている言葉が宝石のように輝いて見える。いまどきの子のように細いペンでいろんな色を使って書かれていた。先生は今、青森の田舎に帰っていて雪に埋もれているらしい。地吹雪といって下に積もった雪が強風で飛ばされて前が見えないほどになるらしい。季節は厳しいが食べ物は冬のほうがおいしく感じるし、悪いことばかりではないとも書いていた。そして最後に三学期も気軽に保健室にきてもいいと書かれていた。先生がいる青森の真っ白で前も見えないほどの吹雪の様子や、荒れる港から大きな魚が水揚げされる様子を想像しながら、なんとも暖かい気持ちになった。こんな小さな紙片のこれだけの文字で、これほど幸せな気分になれるんだなあ。先生ありがとう。もちろんその日のうちに時間をかけて丁寧な文字で書いた返事を出した。勉強がおもしろくなりかけていること。もう宿題はお正月前に終わっていて、大晦日前に、かなり難しい問題集を理科と数学の分を買ってきて明日からやるのを楽しみにしていることなどを書いた。

三学期は先生が持ち込んでくれた机で勉強するようになった。ひとつやりかたを教えてもらうとどんどん分かるようになった。それを先生がほめてくれる。それが嬉しくて自分で買った問題集も持ってきてやるようになった。でも相変わらず教室にはいけなかった。それでも先生はそのことについては何も言わなかった。

 

二年生になってクラス替えがあり僕はクラスに少しずつ出られるようになったが、三年になるとまた中心になっていじめていた中西君と同じクラスになってしまった。一年のときとは比べ物にならないくらい陰湿な嫌がらせと暴力。悔しくて何度も泣いた。こんなやつに負けるもんかと意地になって教室に行っていた。二年の時には少しみんなの中にいる楽しさが分かり始めていただけに、今度は余計につらかった。五月の連休が終わるころどうしても耐えられなくなり、再び保健室に逃げ込んだ。

 

三年の六月、梅雨に入ったころだった。昨日から降り出した雨は上がっていたが、帰るころにはまた細かい雨が降り出していた。いつものように保健室から出たぼくは、裏門から学校を出た。三年になったときからみんなを避けるように遠回りして帰っていた。いつのまにか顔が見えないように傘を前に倒して歩く癖がついていた。見通しの悪い狭い道に入ったところだった。

「やあ、博士じゃないですか」

 突然前で声がした。傘で前が見えなかったけど声の主は分かった。中西君だ。三年になり体が大きくなり、ちょっとたたかれただけでもとても体にこたえる。傘の下から見えている足は三人いるようだ。僕は踵を返した。しかしその先にも足が見えた。知らない間に後ろからもついて来ていたのだ。

「おや、どこに行くんですか」

「いい傘持ってるじゃないですか。僕傘忘れちゃったんだよね。貸してくれないかな」

 いつも中西君にくっついて歩いている浅井君に傘を取り上げられた。

「お前、俺たちのクラスのくせになんで教室に来ないんだよ」

「俺たち学級会でいつもいじめについて言われてうっとうしいんですよね」

「おい、聞いてんのかよ」

 中西君に胸倉をつかまれ体が浮き上がった。

「てめえ、うっとうしんだよ。教室こねえんなら、学校に来るんじゃねえ」

 太田君の声が後ろからして髪の毛をつかまれた。中西君がどんと突き飛ばしたので僕は後ろの太田君のほうによろめき、もつれて一緒に倒れた。下は雨で濡れていて体が濡れた。

「つめてえ、なにすんだよ」

 太田君は立ち上がってすごい形相で僕をつかみあげた。びりびりと音がしてワイシャツが破れ、ボタンがとんだ。そのボタンが太田君の目に当たった。

「このやろう」

 がーんと顔の横に衝撃があって気がついたら地面に転がっていた。

「ふざけんなよ、このばい菌やろう」

 背中をどーんと蹴られ、それから何人かでけられた。僕は頭を抱え嵐が過ぎ去るのを待った。痛くなんかない。でも濡れた地面で体が濡れて気持ちが悪い。

「てめえら、何やってんだ」

 頭の上で大きな声がした。女の声だった。

「な、なんだ、てめえ」

 太田君の声がした。僕は声のほうを見上げた。くるぶしまである長いスカート、尻まで隠れる長いブレザー。うちの中学の制服だが改造してすごい形になっている。臙脂のネクタイは胸まで下ろし、ブラウスは第二ボタンまで開いていた。顔は見ないでもわかった。籠井つばめだ。

「お、おい」

 中西君が悲鳴のような声を出した。ノート一冊くらいしか入りそうにないくらいに薄く改造したかばんからかばんから出した手が、銀色にぎらりと光る。それはゴムのグリップがついた大きなナイフだ。

「おめえら、うじうじ、うじうじと寄ってたかって一人をいじめやがって。見ていてべどが出るんだよ。今度やってたら殺すぞ」

 ナイフを前にむけたままグイッと一歩前に進んだ。

「わ、わー」

 みんなは変な悲鳴を上げて逃げ出した。その情けない声や姿がおかしくてくすっと笑ってしまった。つばめも少し笑った。

「ありがとう」

「お前もちょっとはやり返したらいいじゃねえか」

 つばめはあのころと同じように、小さい『っ』を言うとき、舌を前歯で軽く噛んでからそう言った。それはつばめの昔からのくせだっだ。

「僕には無理だよ」

「まあいいか。あんまりひどいようだったら言ってこいよ。また脅してやるから」

「つばめ」

「なんだよ」

「そんな物持ってるの見つかったら大変だよ。今度は僕、逃げるから。もう助けてくれなくていいよ」

「まっくん強いんだ」

「僕、嬉しかったよ」

「じゃあな」

 にこっと笑った顔が眩しかった。金髪にしていて、ところどころピンクに染めている髪をかき上げて手をあげた。

「じゃあね」

 かかとを踏み潰したスニーカーを突っかけ、ぞろぞろという靴の音が遠ざかる。引きずりそうなスカートととんでもなく長いすそのブレザーの後ろ姿が角に消えた。

僕は骨が折れてへちゃげてしまったお気に入りの傘をたたんで歩き出した。壊れた傘をくるりと回してみた。


籠井つばめ。小学校のときのいじめられっ子。あまりみんなと一緒に遊ぶ子ではなかった。小学校三年くらいまで授業中におしっこを漏らしてしまう子だった。しても黙っているのだが、休み時間に入って床にたまった水溜りに気がついた男の子がからかい始める。みんなではやし立て、汚いといって逃げ回る。女の子たちも自然に避けるようになった。今だからそれは心因性頻尿だったと言うことがわかったが、そのときは誰も、多分先生でも考えつきもしなかっただろう。当時籠井つばめの家では両親が離婚する直前で、喧嘩が絶えなかった。小さかったつばめをかまってやる心の余裕が両親になかった。そのことが原因となり、おしっこを漏らせば誰かがかばってくれると言う心理状態になった。そう言うことを知ったはずっと後になって、たまたま同じようなことが雑誌の記事で出ていたのを読んでからのことだ。

三年生のときは席が隣同士だったが、僕は別につばめが嫌いではなかった。積極的に冗談を言ったりはしないが、朝は『やあ』帰るとき『ばい』とか、消しゴムを借りたときは『ありがとう』とかそういう会話はした。四年生くらいからはおしっこを漏らすということはなくなったが、つばめのそばに寄る子はいなくなっていた。五年生のとき、春の遠足で小さな山に登った。友達と追いかけたり、追いかけられたり、はしゃぎながら息を切らして登った。やがて頂上につき五九七メートルと書いた板の周りに集まってみんなで記念写真をとった。頂上を越えた向こう側は小さな草原で、短い草が春の乾燥した気持ちのよい風に揺れている。。休憩のための屋根付きのベンチと机も二つある。周りの木も南東の方角に刈り払われていて、景色がとてもいい。まだ行ったことのない町が下のほうにきらきらと輝いている。みんなは競ってその明るく日のあたる、景色のきれいな広場で弁当を広げた。ふと見るとつばめが一人で立っている。しばらく何か考えていたが、やがてもと来た道のほうにもどって行き、頂上を越えて北面の日の当たらない方に降りていった。少し間を空けてついていってみると、大きな木の向うに座っている。僕もなんとなく少し離れて北側の斜面のほうに座った。そこは日陰になっていて少し湿った木の匂いがした。つばめは別段寂しそうではなく、すっきりした表情でゆで卵をむいたような白く丸い顔をすっと上げている。前にある切り株を机のようにして、一人で弁当を開き自分たちが住んでいる町のほうを楽しそうに見ていた。僕も弁当を開き食べ始めた。静かな景色の中で、何種類かの鳥の声だけが、聞こえている。斜面の向こう側では叫び声や笑い声が時々聞こえてくる。弁当はすぐに食べ終えた。

「おい、つばめ。これやるよ」

 僕はデザートのイチゴが三個入っていたのをつばめの弁当箱に入れた。つばめはびっくりしたような顔で見上げたが、にっこり笑って「ありがとう」と、はっきりした声で言った。なんかそれが嬉しくて僕は持っ来たお菓子を全部つばめのリュックに押し込んで立ち上がった。

「まっくん」

 つばめは恥ずかしそうにキティーの絵がついたピンクのチョコレートをくれた。つばめの話しかたにはちょっと変なくせがある。詰まる音、小さい『っ』がつくとき舌を細く突き出して前歯でちょっと噛むようにしてから次の音を出すのだ。それが今日は妙にかわいく見える。

そんなことがあってから、学校に戻ってからも時々話しをするようになった。一人でテレビタレントに会いに行ったという秘密を打ち明けられたこともある。以前親と見学に行ったことがあるテレビ局に一人で入り込み、前から好きだったジャニーズのお兄さんがいる楽屋を大胆にも訪ねたということだった。そこで追い返されることなく、グループのお兄さんたちに囲まれて彼らの出番までの時間を過ごしたらしい。お兄さんたちに絶対ここに来たことを誰にも言っちゃだめだといわれたらしい。そんな噂が広まれば子供たちが押し寄せるからだそうだ。記念に何個かそのグループの人の物をもらって来ていた。つばめは絶対誰にも秘密だよといって僕にそのひとつをくれた。目を輝かせてジャニーズのお兄さんの話をするつばめを見ていてちょっとおもしろくなかったが、みんなの前では見せないいい表情をしていた。 

中学に入ってクラスが離れ、あまり会うことがなくなった。つばめは中学に入ってからもしばらくからかわれていたらしいが、夏休みが終わると変身して来た。髪の毛を金色にして長いスカートに大きなブレザー。注意した先生がやくざに脅されたといううわさが流れた。そして誰もからかわなくなった。

 

教室には相変わらず出れなかったが、からかっていた友達は廊下で会っても、向こうが目をそらし、目を合わせることがなくなった。もちろん、帰り道で待ち伏せされることもなくなった。

やがて卒業のときがやってきた。保健室で勉強を続けた僕も、学校に来たりこなかったりのつばめも卒業ができることになった。学校の先生たちも早く送り出したかったに違いない。

卒業式の後、送り出してくれる保健室の天野先生は僕にこう言った。

「並木君、めがねを変えるとイメージかかわると思うけどなあ。今のあなたは自信がなさそうに見えるのよ。今いろいろなめがねが安くで買えるでしょ。そうかコンタクトにしてみたらどう。めがねとると結構いい男なのよね、あなた」

 僕はどきどきした。

「そんなことないです。先生、からかわないでくださいよ」

「ふふふ、この髪もおかっぱが伸びたような感じだし、今風に短くしてジェルか何かでぴぴっと立ててみれば。ゆっくりでいいの。回り道をしてもいい。あなたはできるわ。もう一度やり直してごらん。どこかでみんなに追いつく日がきっとくるよ」

「ありがとう、先生。さようなら」

 めがねに涙が落ちて曇った。

 

結局、高校は通信教育で卒業した。天野先生のおかげで勉強はかなりできるようになっていた。大学を受験して工業系国立大学の、理学部理学科に入った。大学はぜんぜん今までと違う雰囲気で実験に明け暮れる僕を許容してくれる人たちが多かった。ほとんどの人がめがねをかけていて、TシャツにGパン。その上からよれよれの白衣を着て試験管を振り、顕微鏡を覗く。僕だけでなく、ゼミの中のみんながそんな感じだった。学期ごとに打ち上げと称してゼミのみんなで担当教授やスタッフを囲み、実験室で飲み会をする。それが唯一苦手な行事だったくらいだ。それでも部屋の隅でみんなの話にあわせて笑うくらいできるようになった。店でやる二次会は出たり出なかったりだったが、それで仲間はずれにされることはなかった。理科系の学生はそれぞれにユニークで、個性的な人間が多かった。そういう人でなければ今までのトレースはできても、新しい道を切り開くことはできないと言う分野の学問であったためでもあるだろう。だから少しぐらい変っているからと、いちいちいじめという形で修正してみんなと同じにすることの無意味さもわかっている。お互いが、お互いの変った部分、違う部分を認め、受け入れなければ学問の前進はないし同じゼミにいること自体が無意味になってしまう。僕にとってこの四年間は久しぶりに得たとても居心地がいい時間だった。





 僕は移動の当日お客様相談室に出社した。会社の敷地はかなり広い。正門に近い五階建ての事務棟、その後ろにはお菓子を作る長く大きな工場が三棟もある。一週間前まではそこの中の一室で仕事をしていたのだが、今日からはさらにその工場も通り越し、駅から一番遠い、北側の端にある小さな二階建ての建物が仕事場所だった。今日までこんなところにこんな建物があるとさえ知らなかった。一階は敷地の草木の管理を委託している業者の用具のための倉庫。脚立や草刈り機、剪定機などがはいっている。その隣りはその人たちの休憩室や更衣室。狭い階段を上がり二階のお客様相談室とプレートが貼っているドアをあける。中に並んでいる机に何人かが座っていた。

「おはようございます」

 僕は苦手の挨拶をいつものように口の中でして、うつむき加減に部屋に入った。誰からも返事は返ってこない。僕はどこに行けばいいんだろう。僕の机は。

「ええと、並木君ですか」

 一番奥から野太い声が聞こえて顔をあげた。そこにはきちんと短い髪を分けて四角い顔に銀縁のめがねというまじめそうな人がいた。近づくと少し赤黒い顔が顔の油でてかってエネルギッシュに見える人だ。

「はい、今日からこちらに移動になりました」

「私は室長の佐伯。君の席は入り口の近くのその机。ここでの仕事はお客さんの苦情を聞き解決すること」

 電話やメールで寄せられる質問や苦情に対して回答をする。電話で受けた苦情はできる限り丁寧に誠意をもって話を聞く。そしてクレームとなった商品を送ってもらい検討したうえで、クレームになった商品を送ってくれた人にそれと同じ物を二つ送る。ひどい事故商品、たとえば異物が入っていたなどのものに対しては、直接訪問してその商品を受け取りに行く。お詫びセットと呼んでいる当社のお菓子を一種類ずつ入れた箱詰めのセットを手渡しし誠意を見せる。どうしても納得しない場合はひたすら謝る。それでも納得しない客は弁護士と相談する。もちろん事故商品は専門の部署に送り、徹底的に原因の究明をし、改善点が見つかれば必ず改善し、再発防止を徹底する。しかし、客の勘違いや故意に異物を混入したと思われるものもかなりある。できるだけ経費をかけず、当社のイメージも損なわず、そして最悪でも裁判や行政機関、マスコミに持ち込まれたりしないようにするのがここの仕事だと佐伯が簡単に説明してくれた。

「とりあえず今日はみんなの作業の流れを見て覚えてくれ。あしたから早速やってもらうから。みんな今日から配属された並木雅実君だ。いろいろ教えてやってくれ。手前から安達君、大隅君、菅野君、椿山君、大場君、そして私と君。全員で七名。ラッキーセブンだ」

 向こう側の席に座っている人たちの苦笑、失笑が聞こえた。

「研究開発室から来ました並木雅実です。宜しくお願いします」

 小さな声でこう挨拶した。ぱらぱらと拍手が聞こえた。

その後二本の電話があったが問い合わせだったのか何事もなく終わった。メールは一時間に一本くらいの割合で届くが商品の材料に遺伝子組み換えのものは使ってないのかとか、残留農薬のコントロールはどうしているのかとかそう言った質問が大半だった。同じような質問も多く、そういったものはマニュアルになっていてパソコンで検索してそれをメールで送り返す。専門的で分からないことはそれぞれの担当部署に社内メールで聞き回答する。それらはデーターとして蓄積され、次には聞かないでも回答できるようになっている。苦情処理係というとどんなに大変なところかと思ったが、なんとかやっていけそうだ。昼前、プルルルルと電話の着信音が鳴り一本の電話が入った。どうやら電話は席に座っている順番にとっていくようだ。安達、大隈が取っていたので次は菅野が取った。菅野は三五歳くらい。全体的に長めの髪の毛を軽く横に流している。受話器を耳にあてる前に耳の横の長い髪の毛をかき上げてから受話器をあてた。

「ありがとうございます。東京製菓お客様相談室、菅野でございます」「いえ、決してそのようなことはございません」

 一瞬にして室内が緊張したのが分かった。誰も自分の仕事をしているふりをしているが、耳は菅野のほうに集中しているようなピーンと張り詰めた空気が流れた。

「はい、はい」「まことに申し訳ございません。できましたらその商品をお送りいただきまして……」「お客様を疑うなんてとんでもございません。原因を追求しまして改善点を探す参考にさせていただきたいのでございます」「はい、はい。もちろん送料は着払いで結構でございます」「申し訳ありませんでした」

 最後、菅野は立ち上がって誰もいない空間に向かって深々と頭を下げながら受話器を置いた。誰もが溜めていた息を気付かれないようにそっと吐いたかのように空気がふっと緩んだ。

「室長、個別包装しているパリセンで中身が入ってないものがひとつあったそうです。とりあえずあけてないので現物を送るそうです」

「う、じゃ工場にそれを回してパリセンを二つ送っといてくれ」

「電話を受けるとその結果を室長に報告するんだ。その電話に対する担当は最後まで変わらないから、ひどいのに当たらないことを祈ってろよ」

 前の席の大場さんが教えてくれた。この部屋では一番若い方だと思うが、それでも三〇歳は過ぎているだろう。そんなこといったってどうやって話をしたらいいのかわかもらない。パリセンとは甘辛く味付けした一口サイズのせんべいで、昔からある東京製菓の人気商品のひとつだ。 

映画『千と千尋の神隠し』のオルゴールがスピーカーから流れて昼休みになった。みんな社員食堂に行くのだろう。ぞろぞろと部屋を出て行った。僕はリュックを開けてコンビニで買ってきた弁当を出した。社員食堂のほうができたてのものが食べることができ、種類も豊富で安いのだが、人が多いところは苦手だし、研究開発室の仲間に会うのもいやだったので、朝来るときに買ってきた。

「君は生え抜きだろ。何でここに流れてきたんだ」

 ふと顔をあげると佐伯室長が家から持ってきた弁当を開いていた。

「なんででしょう。わかりません」

 本当になんでこんなところに転属させられたのか分からない。僕の一番苦手な分野の人と話す、しかも交渉する部署に。

「私は五年前にこの会社に入ったんだ。これでも大手の会社の人事部長をやっていたんだぜ。上の命令で社員をずいぶんリストラした。つらい仕事だったよ、無理やり辞めさせるんだからね。優秀な人ほどさっさと辞めちゃう。会社に金を儲けさせてない人ほど残りたがる。結局みんな自分を知っていたということかな。どうしても辞めないでしがみついている人は、辞めたくなるような部署に回して、給料も下げて。やっとスリムになりこれから会社が立ち直れると思ったら、君、辞めてくれって言われたよ。ま、しがみつけないよね。自分がみんなにやってきたことだから」

 佐伯室長は意気込んで僕に聞かせるような感じではなく、ずいぶん昔の他人の人生について語るようにあさりと、そう自己紹介をしてくれた。

「僕は人と話すのが苦手なんです。だから前の部署では自分勝手にやってチームワークを乱していると思われたのかもしれません」

「ここに回されるとね、生え抜きの人は長くても半年くらいで辞めるよ。プライドを傷つけられるからだろうね。残っているのは大隅君くらいだろう。彼はもう二年になるよ」

「すごいですね」

「今、再就職は大変だよ。君も彼を見習って、我慢してここでもいいから東京製菓に残ったほうがいいよ」

「そうでしょうか」

「私は、ここに来るまで大変だったよ。リストラされたなんて家族に言えやしない。それまで女房にも子供にもえらそうに言って、家では殿様のように振舞っていたからね。弁当をこうして作ってもらって、毎日同じ時間に家を出るんだ」

 佐伯は自分の机の上に開いている弁当を指差して微笑んで見せた。

「ハローワーク、人材バンク、情報誌。毎日、何社も自分で探したり紹介されたところに行って面接をするんだ。行ってみると若い面接担当者はばかにしたような態度で面接をするんだ。私のような年頃の男がいっぱいくるんで面倒なんだろうね。あるとき言われたよ。求人広告を出したらあなたで二〇〇人目です。これに時間ばかり取られて自分の仕事ができないから、毎日残業して自分の仕事の分を取り戻すんですよ。まったく、もういいかげんにしてくれないかな。こっちだって自分の仕事ができなければリストラされる身なんだからとね。一部上場企業で人事部長をやっていたので、再就職はそんなに時間がかからずに決まるだろうと思っていたが、そこで間違いに気付いたよ。一人の募集に二〇〇人じゃ、くじに当たるようなもんだ。面接でぼろぼろに言われて、寒い風に吹かれながら公園で弁当を食べるんだ。惨めになるよ、実際」

 その話をしているときはちょっとつらさを思い出したのか、胃液が逆流したときのような苦い顔をした。

「それでこの会社に来たんですか。でも、この会社それほど入りやすかったですか」

「そうじゃないよ。二〇〇人も来るなら二〇〇回面接受ければ一回はくじに当たるだろうと自分を励まし、面接を受け続けたんだがさすがに五〇回もするともう気持ちが萎えてね。人事や総務の仕事はあきらめて営業などの面接も受け始めたんだよ。そして最後にここのクレーム処理の仕事にありついたというわけ」

「大変ですね、再就職って」

「だから、君もつらいと思うけど少し我慢してここにいた方がいいよ」

「ご忠告はありがたいですが、僕にはできそうもないです。僕は独身ですからどこか町工場でもいいような気がします」

「まあ、好きにするさ。あしたからは君も電話を受けてくれ。想像以上にストレスがあるから、他の人たちの負担を少しでも軽くしてくれ。ややこしいところに当たったら、私もついていって指導してあげるから」

「そうします。宜しくお願いします」

 僕は話を聞いていっぺんに食欲がなくなった。弁当を半分残し、対応の仕方のマニュアルを読み始めた。あしたから本当にできるだろか。だめなら辞めたらいい。僕は養わなければならない家族があるわけではないし、今の給料を当てにしたローンがあるわけではない。家賃と食べるものと魚と文鳥のちーちゃんが生きていけるだけ稼げばいいんだから。

 

 翌朝かなり緊張しながら出勤した。埼玉の郊外にあるこの工場は駅からはそれほど離れていない。しかし、事務所が広大な敷地の一番北の端にあるため敷地の中に入ってからかなり歩く。僕はいつも少し早めに出社することにしている。みんながいる部屋に入っていくのが苦手だからだ。とぼとぼとまだ人影まばらな工場の脇を歩く。今朝は肩に担いだリュックがうまく背中でおちつかず、何回も担ぎなおしている。まもなく梅雨に入る季節、工場の脇に植えられた、緑の濃くなってきた木の中から小鳥の声が盛んに聞こえる。ああ、この声はめじろだなあ。縄張りに入ってきた仲間を追い出そうとしているんだろう、カチカチとくちばしを鳴らした後、声高にキュー、キューと鳴いている。歩いていくほどになんだか暗い雰囲気になってくる。自分の気持ちのせいもあるだろうが、それだけでなく、北の方角に向かって歩いているのと、その方向には周辺地域に配慮して木が多く植えられていて実際暗く見えるのだ。僕は歩を進めるごとに憂鬱になってくる。ここから引き返して帰ってしまおうか。いつのまにか思い出したくもない中学時代のことを思い出していた。昔いじめられていたときに中学校に通っている朝も、このような重い気持ちで通っていた。しかしあの時と違ってここには優しい天野先生もいなければ保健室もない。

 どうすればいいんだよ、ちーちゃん。

「おはようございます」

 小さな声でうつむいたまま挨拶をして中に入った。

「おはよう」

 元気な声が返ってきた。少し驚いて顔を上げたら笑顔の佐伯室長がいた。

「逃げずにきたな。今日からがんばってみろ。別にミスしてもいいし、対応がわかなくなっても気にするな。どうにもならなくなったら、あとはわたしがホローする。もちろん部屋のみんなだって最後には協力するよ」

 僕は黙ってうなずいた。逃げずにという言葉にちょっとむっとしたが、佐伯室長が言う

ようにここにくるまでにかなり迷っていたのは事実だ。考えてみれば逃げたすだけの勇気と決断力がなかっただけかもしれない。僕は入り口に近い自分の席に座り対応マニュアルを読み始めた。事故になった商品を手にとってもらったお礼を言う。お客様の気持ちを静める努力をする。相手が感情的になっているのに巻き込まれない。事故になった商品を送ってもらう。お客様にたくさんしゃべらす。お客様の意見を否定しない。その間に過去にそのような事例がなかったかPCで検索する。事故原因がわかっている場合でも、断定せずに○○と思われますというような言い方で言う……

 そうしているうちに次々とみんな出社してきた。そろそろ始業の時間だ。どきどきと心臓の音が高くなってくる。始業のベルがリリリンと鳴った。聞きなれているはずなのにビクッと跳ね上がりそうになった。始業と終業はこの品のないベルが鳴る。何で昼休みのようなオルゴールの音を流さないんだと、いつも不思議に思う。いつか寝ているやつを起こすためだと、本気か冗談か分からないようなことを言っていた人がいた。

 PCを立ち上げメールをチェックしてみる。地域限定発売のかにせんべいの買える地域についての質問がメールで届いていた。それに対して室長が信越地方として具体的に各県名を書き添えて返信していた。部屋ではみんな話しをしたり、コーヒーを飲んだり雑誌を読んだりしてリラックスしているようにみえる。しかし次に電話を受ける順番に当たっている人は自然に無口になりがちだ。やはりみんなも緊張しているのだろう。今日は大場さんから電話を受ける。大場さんは盛んにコーヒーを飲んだり雑誌を忙しくめくったりしているが、はたから見ていても読んでいるようには見えない。僕まで緊張してくる。


プルルルル


部屋が一瞬静まり返る。手が伸びるときの衣擦れの音がはっきり聞こえた。大場さんが深呼吸を一つして受話器を取った。

「はい、東京製菓、お客様相談室、大場でございます」

「毎度ありがとうございます」

「はい、はい。一応、今回は少しだけの変更でしたので。改めてお客様のご意見を社内に上げまして検討させていただきます。これからもどうぞ宜しくお願いいたします」

 受話器を置いた大場はにっこりと笑い室長に報告に行く。

「パリセンの味を少し変えたみたいだけど、この味もなかなかいいということです。でもこういう味の変更は消費者に知らせたほうがいいのではないかというご意見でした」

「う、わかりました。広報に上げときます。検討結果は広報室長の名で書類をもらっておきます。今のお客様の名前をPCにいれておいて、次にかかって来たらそのご報告をするように。また住所がわかれば広報室長印の入った書類を送ります」

「はい、わかりました」

 大場はほっとした顔に戻り、そしてぐったりと椅子に背中を預けて目をつぶった。次は僕の番だ。どうしよう。逃げ出したいような何をしていいのかわからないような感じでじっと座っているのが苦痛だ。脂汗が出てめがねがずれる。僕は立ち上がった。でも何をしていいか分からず、また座った。

「並木君、落ち着けといっても無理だろうが深呼吸をしなさい。そして、電話がかかってきたときのシミュレーションを頭の中でやってみてごらん」

 佐伯室長が言ってくれてはっと気がついた。電話がかかってきたらどう対応すればいいのかぜんぜん頭に入ってなかった。まず受話器を取り『ありがとうございます。東京製菓、お客様相談室、並木でございます』か。それから名前をまず聞く。お客様が興奮していても『失礼ですが、お客様のお名前を承れませんでしょうか』と聞く。その間にディスプレーに出ている相手の電話番号をPCに打ち込む。以前その相手から電話があった場合その内容などが検索できるようになっているのだ。

 そんなことをしているうちにオルゴールがスピーカーから流れ昼休みになった。僕はとても食事などのどに通るわけはなく、部屋の隅に置いてある応接セットに座り、頭を抱えて目をつむっていた。

 あっという間に昼休みが終わり、みんなが帰ってきた。席に戻りPCをスタンバイさせ準備をした。いつもはみんなおしゃべりをしたり、コーヒーを入れに立ったりしてがさがさ音が立っている部屋の中が、シーンとしている。みんな僕を注目している。それとも僕の緊張が部屋に伝染したのか。心臓が走った後のように速くなっている。どれくらい時間が経ったのだろう。頭が痛くなってきた。

 

 プルルルルル


 どくんと大きく心臓が跳ねた。

「ゆっくり、落ち着いて」

 遠くで佐伯室長の声がしているが、考える機能を失った頭はただの音にしか聞こえない。

「はい、東京製菓です」

 し、しまった。ありがとうございますと言うんだった。

「あのなあ、娘があんたんとこのマーチチョコレート買ったんだけど、ぼろぼろに割れてたぞ。どうなってんだ」

「申し訳ございません。あのー、えっと」

 なんだっけ、なんだっけ。息が苦しい。回りが急に暗くなり、机の上のキーボードに置いている手の周りだけが白っぽく見えている。

(検索、名前、相手、お前)

 隣の椿山さんがメモ用紙を滑らせてきた。そ、そうだった。検索。マーチチョコレートをクリック。『中味の破損。原因、輸送中の落下、過積載。小売店側のミス。店頭でのいたずら。謝罪→代替製品の郵送』とでてきた。

「あの、原因はいろいろ考えられると思うんですが、その、すいませんでした。ええと、すぐに割れてない商品を送らせて頂きますので、ご住所を教えていただけないでしょうか」

「いろいろ考えられるってなんだ。こっちが悪いってのか」

「いえ、決してそうのようなことでなく、流通過程でとか、小売店の店頭でとか、破損が起きた場所のことです。すぐ新しい商品を送ります」

「すぐったって、今食いたいって言ってんだよ、娘は」

「はい、ええと」

(今日中にお届けいたします)

 またメモが滑ってきた。少し物が見えるようになって呼吸が楽になってきた。

「今日中にお届けいたします。申し訳ありませんでした」

「ちぇっ、しょうがねえな」

 相手は住所と名前を言って受話器を置いた。僕はその場に崩れ落ちた。気が付いたら回りにみんなが集まり、拍手をしてくれていた。床にへたり込んでいた僕を誰かが手を伸ばして起こしてくれた。

「これから頼みますよ、並木さん」

 安達チーフが頭をぽんぽんとたたいてソファーのほうに行って座った。

「お前ね、相手だってからかい半分、何かもらえたらラッキーって気持ちで電話してきてんだ。くそまじめにやることないんだよ。がはは」

 大隅係長は豪快に笑いながら席に戻っていく。椿山さんがコーヒーを机の上に置いてくれた。僕は席に座ったが、力が抜けてもう立ち上がれなかった。

「今の対応のまずかったところをメモしといたから、後で見て次から修正してくれ」

 佐伯室長からのメモにはすごくいっぱいの項目がメモしてあった。

 

 夕方まで放心状態は続いていた。極度の緊張からは開放されたが、頭の中でキーンと言う音が鳴りつづけ、頭がぼんやりと痛い。

「おーい、みんな、今日は並木君の歓迎会をやろう」

 突然佐伯室長から声がかかった。

「賛成。ぱっと行きましょう」

 真っ先に椿山さんが手をあげた。

「おお、いいですねえ。久しぶりに肉、行きますか、肉」

 安達チーフが応じる。ええっと思っているまにみんなもうその気になって帰る用意をし始めている。まいったなあ。

「なーみちゃん、今日の都合はどうよ。まあ、おまえさんの都合が悪くても、みんなは行くんだがな。がっはは」

 大隅係長が笑った。

「そういうこと。でもどうせなら歓迎会の主賓がいた方が盛り上がる」

 と菅野さん。

「だからみんなが盛り上がるために出てくれるとありがたいんだがな」

椿山さんが優しい目で誘ってくれる。いつもこんなにみんなに誘われることは、今までなかった。つぎつぎに声をかけられて目を白黒させていると、

「初めて電話を受けた日に歓迎会をするんですよ、ここでは。でもそれは口実で、みんな君を肴にストレス発散する会なんだけどね、実際」

 ちょっととぼけた調子で大場が笑った。

「ま、最初くらい付き合ってみんなの肴になりなさいよ」

 安達チーフはふちナシのめがねの下で目がたれている。半分白髪になった油気のない髪の毛は多く、背が高かった。この人よく見ると学校の先生のような雰囲気の人だ。やさしく話されるとその気になってしまう説得力がある。結局、誘われるままに大宮まで行った。いつも行く店らしく、何も言わないでもみんなぞろぞろと韓国調の朱と黄色の色調に塗られた入り口の、明梨と言う店に入った。注文の仕方に驚いた。佐伯室長はいきなり四人前ずつ全部持ってきてよと言って、ビールも七つの大ジョッキを頼む。みんなも何も言わないでそれぞれの相手と話をしていてる。いつものことなのだろう。そんなにたくさん食べられるのだろうか。

「ここは会社の経費。何にも心配しないで死ぬほど食っていいんだぞ」

 佐伯室長が言った。

「次はすしに行きましょうや。なーみちゃん次はおおとろ食い放題だぞ。」

 大隈は僕の肩をパンパンたたきながら言った。なんだか心地いい痛さだ。ビールで乾杯した後はみんなすごい勢いで食べ、飲み、そしてしゃべった。僕はその風景を呆然と眺めていた。でも思ったより居心地は悪くなかった。人と話すことが苦手で大勢の人と一緒になるところは避けてきたが、今はそれほど心の負担がない。食べなれないピンク色でやわらかい肉が、甘いタレに漬け込まれている。それをさっと焼くと自分の小皿にはピリッと辛いタレが入れられていて、それにつけて食べると驚くほどうまい。話の輪には入れないが、楽しい雰囲気にいつもは飲まないビールも、いつのまにか二杯目を飲み始めていた。みんなもペースが早く、早くも四杯のジョッキをあけた佐伯室長。ウーロンハイに切り替えてお茶を飲むように五杯もあけてしまった大隈係長。みんなそれぞれ好みの酒に切り替えてウィスキーのボトルまで空いている。みんな会社にいるときと顔がまったく違っていた。学生のようにはしゃぎ、飲み、笑った。顔も一〇歳以上若く見える。佐伯室長が次々に注文して持ってこさせた肉の入った大きな皿が、すぐきれいにあいていく。二時間もするとみんな酔っ払い、もう食えませんよ。馬鹿やろう、俺の肉が食えねえかと無理やり口に肉を押し込んでいる状態だ。

「う、みんな、そろそろお開き。二次会へは各自でどうぞ」

 佐伯室長が閉会を告げる。

「大隅さん、風俗行きましょう、風俗」

 パーマがかかった長い髪をかき上げながら菅野さんが叫んだ。

「だめですよ、菅野さん。係長はこれのところです、これから」

 大場さんが小指を立てる。

「ああ、また受付の志穂ちゃんですか」

「馬鹿やろう、今日は美加ちゃんのところだ。がっはっは」

「ほどほどにしといた方がいいですよ」

「前ら、何が楽しくて生きてるのよ。俺はこれでここに飛ばされました。がっはは」

 大隅係長が小指を立てて屈託なく笑った。

「懲りないですねえ、大隅係長」

 先生のような安達チーフがやさしく微笑んだ。

「じゃ、われられだけで行きましょうよ、風俗」

 大場が言った。

「お前と行くと長いからなあ」

「何いってるんすか。菅野さんのはしごにはかないませんて」

「え、菅野さんは風俗のはしごをするんですか。すごい体力ですね」

 店を出たみんなはそれぞれに分かれて散らばっていった。

「並木君、よかったらそこらでもう少し飲んでいかんか」

 振り返ると支払いを終わった佐伯が後ろから声をかけてきた。

「えっ、ええ」

「う、じゃ、そこいこ。チーフもどうです」

「じゃ、ちょっとだけ」

 二人は肩を並べて地下に降りていく。少しがやがやとした居酒屋だった。

「ここは私が出そう」

「いや、並木君の歓迎会だし、室長、二人で割り勘にしましょう」

「う、そうだな」

 佐伯室長が勝手につまみを注文して飲み物はビールで言いかと僕に聞き、安達チーフは、私はダブルで二つとウィスキーを注文した。

「どうだ、やっていけそうか」

「いや、ちょっと。今日一日でもうぐったりで」

「そのうちそこそこには慣れますよ。外から見ていると難しいように感じるかもしれませんが、一定のルールというか方程式があって、それを理解すれば誰でもできる仕事ですよ。ストレスが多くて大変ですけど」

「方程式ですか」

「並木君は人と話すのが苦手かい。いや、いいんだ、みんな多かれ少なかれ何か問題を抱えてここに来ている。特に東京製菓から配置転換でくる人はね。いや、一概に君たちが悪いというわけでなく、一種のいじめみたいなもんだから、ここへの配置転換は」

「ふふふ、大隅君、驚いたでしょ。あの人の言ってた女性関係、あれはほとんど本当のことなんですよ」

「私はこれで、ここに飛ばされましたとか言ってたが、あの人は暗くなくていいよ。だまされたとか女の人が悪口を言うのを聞いたことがないらね、彼の場合」

「大隈さんだけでなく、皆さんよく食べて、よく飲んでよく話すんでちょっとびっくりしちゃって」

「日ごろストレスのある職種だからね、ここは。ストレスの出口をいつも、いつも求めているんだよ」

「経費も結構使えるし、もらってみるとボーナスの多さにびっくりしますよ。みんなお金は持っているし、それを使ってそれぞれのやり方で上手に、ストレスと付き合っているようですよ」

「ちょっと分かるような気がします」

「酒もよく飲む、タバコもコーヒーも量が多くなる。女性を求めるようになる」

「ストレスが多いと危機感を感じて、本能的に子孫を残すために性欲が増進するそうですよ室長」

「じゃ、我々はストレスを感じてないってことかな、チーフ」

「いや、我々はこっちのほうで」

 安達がからになったウィスキーグラス二つを掲げて微笑んだ。

「すいませーん。ダブルで二つ」

 そう言っているうちにもつまみもみるみるなくなっていく。二人ともいい年のはずなのにすごい食欲だ。

「あの、僕、こういうこと苦手で」

「う?」

「その、みんなと一緒に何かやったり、どこかに出かけたり。でも、今日、みんなと来てみてなんか違うんです。僕がいてもいい場所かな、居心地が悪くないかなって」

「う、そうか、そうか、そうか」

 佐伯室長は目を細めた。

「チーフは元高校の教師だったんだよ。チーフの話し方や対応の仕方を見て勉強させてもらいなさい。とてもうまく対応するから。先生やってからみんなの前で話すのは苦になるほうではなかったでしょ」

「そうですが、それはこっちが教える立場だったからで、ここではこっちのほうが弱い立場ですからね。やはりやりにくいですよ」

「でもチーフの話し方はソフトで人当たりがいいですよ。ぼくもそういう話し方ができれば、もう少しみんなに好かれるんでしょうけど。室長がおっしゃったように勉強させてもらいます」

「私も最初からこんな話し方ではなかったんだ。教師をやっていて自然にこんな感じになったんだよ。少しゆっくり話すようにしてごらん。それだけで違ってくるから」

「はい」

「教師というのもストレスの多い仕事でね」

「こっちから見てるとそうは見えないんだけどな」

 佐伯室長は鮎の塩焼きと格闘していた手を休めて言った。

「辞めてみて、教師の仕事は仕事としてはまだましなほうだということに気がつきましたよ。でもやっている時は、難しい仕事をしているといつも思っていました。どうしようもない陰湿な子供や、チンピラみたいな子供を相手にして何もできない自分が本当にいやになりましてね。何かやるとすぐ暴力教師と騒がれるし、おとなしくしているとやられたい放題だし。ストレスたまるんですよ、ああ見えても」

「チーフの奥さんはすごくきれいなんだよ、並木君」

「そうなんですか」

「ふふふ、ちょっと歳が離れていますが」

「へえ、いいですねえ。話し方が上手だから」

「並木君も言うね。まるで安達チーフがだましたみたいに聞こえたな」

 ニヤニヤ笑いながら佐伯室長が行った。

「あっ、いえ、決っしてそんな……」

「こら、こら。大人をあんまりからかうんじゃないよ」 

「あはは。並木君もここでしばらくがんばっていい奥さん見つけなきゃな」

「僕は仕事も女性もちょっと自信はないですよ」

「あなただけが不幸な状況というのではないですよ。みんな自分にはちょっと無理かなとか、今日は逃げたいなとか思いながらここにきているんです。だからみんな君とそれほど違うこと考えているわけではないと思いますよ」

「どんなことやっていても結局そう感じるんじゃないかな、仕事なんて。ここほどそれをストレートに感じないにしてもさ。ただ、ここでの仕事はそれほどいろいろな人が生き残れるわけじゃない。東京製菓から配置転換になった人で歓迎会をしたのは君で四人目だ。挨拶をして翌日からこなくなった人とか、でも、それはいいほうか。ほとんどは人員補充の連絡が総務からははいるんだけど、こっちに来る前に顔さえ見ることなく退職する人が多いよ。だからここは案外、並木君に合ってる職種かもしれないな。はっはは」

「それはないと思いますけど」

 僕もおかしくなってつられて笑った。何年ぶりだろう、人とこうして笑ったのは。


 翌朝、起きたら割れるように頭が痛かった。こんなこと初めてだった。朝、目がさめたら背広を着たまま布団を抱いて寝ていた。気持ち悪い。昨夜はじめてふらふらになるまで飲んだ。酔うことがこんなに気持ちいいものだとは思わなかった。気持ち悪かったがなんとか起き上がって、よれよれの背広のまま歯磨きだけをして、昨日帰ったときに放り出してあったリュックを持ち出かけた。きっと髪の毛も立って、あっちこっち向いているだろう。でも、僕は昔からそんなことには余り頓着しなかった。

「おはようございます」

 いつもより少し大きい声。自分の声が頭に響く。部屋には佐伯室長、安達チーフと椿山さんが来ていた。

「並木君、今日はもう少し小さい声でいいよ、挨拶は」

 佐伯室長が頭を抱えて言った。安達チーフも心なしか少し顔色が青い。それがなんだかおかしくて笑ってしまった。椿山さんは普通の顔をしている。それから次々にみんなやってきたが、みんなすっきりした顔をしている。

「室長、また飲みすぎですか。もう年を考えないで飲むから。我々みたいに女に走れば翌朝もすっきり、朝から全開でいけるのに」

「大隅係長、我々って係長と一緒にしないでくださいよ」

「何言ってやがる、菅ちゃんは昨日三軒は行ったんだろう。俺の三発とどれくらい違うのか説明してよ」

「大隅さんにかかっちゃ、かないませんよ、菅野さん。ちゃんとお見通しなんだから」

「あのね、大場君。君と僕は同じところに行ったでしょ。お互い二軒で帰ったよね」

「でも、二軒目は二回延長でしょ、出てこないから先に帰っちゃいましたけど」

 大場さんがちびまる子の花輪君みたいに手を開いて肩をすくめている。

 

プルルルル


 一瞬みんなが凍りついた。

「ああ、これがなけりゃ天国なんですがねえ、ここも」

 そういいながら安達チーフは受話器を取り上げた。みんな話しを止めてそれぞれの方法で時間を過ごし始める。僕も昨日のミスしたところを安達チーフのやり取りをトレースしながら復習してみる。やさしい教師のようなソフトタッチのやり取りで、流れるように話している。何のよどみもない。さすがだ。

「室長、中の包装が破れて中味が出ている事故です。カシューナッツチョコです」

「う、報告書を書いておいてくれ。報告はあげておく」

 昼前にもう一件電話がなった。

「ありがとうございます。東京製菓、大隈でございます」

 大隈係長は野太い声を少し高めに変えて、日ごろとはまったく違う丁寧な話し方に変わっている。何かカチッとスイッチが入ったような、そんな変わり方だった。PCを検索し、忙しくキーボードをたたきてきぱきと対応している。

「いえ、決してそういうことではありません。よろしければ、これからお詫びにお伺いさせていただけませんでしょうか」「ええ、ええ。こちら埼玉県の蓮田ですので一時間もあればそちらの駅に着けます。お宅まででも一時間半もあればお伺いできると思いますので。そうさせてください。ハイ、ハイ、分かりました」

 大隈係長が受話器を静かに置いた。

「室長、これから行ってきます。ポップキャンディーが三つとも粉々に割れていたそうです。でも、そんなこと買ったときに分からんもんかなあ」

「う、がんばってきてください。報告書はあとであげてください。関係部署には第一報を入れときます」

「室長、俺、今日はこれで直帰」

 大隈係長はぺろっと舌を出してちょっと甘えたポーズを作る。なんかかわいい。

「飲みすぎないでくださいよ、明日もありますから」

「分かってますって」

「大隈係長、今から行っても美加ちゃんはまだ会社ですよ」

「馬鹿だねえ、菅ちゃん。今日は志穂リンのところ。たまに機嫌取っとかないとむくれるからさ」

 そう言うと革のかばんとお詫びセットを持って出かけて行った。

「志穂さん、今日は休みか、大場」

「知りませんよそんなこと。もうすぐ昼休みだから受付、覗いて来たらいいじゃないですか、菅野さん」

 受付にはその日担当の女性社員の名前が机の上に載っている。

「ああ、皆さん。総務に電話で確かめたら浅田志穂さんは本日、有給休暇を取っているそうです」

 高らかに佐伯室長が告げた。

「何であの脂ぎった中年のおじさんがもてるんですか。顔も大きし、体つきだって横にばかり大きいし、目がぎょろっとしていて怖そうだし。僕には理解できません」

 抗議するように菅野さんが叫ぶ。

「まあ、まあ、菅野さん。菅野さんにも加奈ちゃんがいるじゃないですか」

「何いってる。だったら大場にだって愛ちゃんがいるじゃないか」

「レベルの低い話をしていますねえ」

 椿山さんが穏やかに笑った。

「椿山さん、空手ばかりやって禁欲生活しているうちにじじいになっちゃいますよ。気がついたら、誰も相手をしてくれなくなりますから」

「女は一人いればいいのよ、大場君」

「えっ、椿山さん、彼女いるんすか」

「まあな」

 ふっふふと余裕の笑いを残して部屋を出て行った。時計を見るともうすぐ昼休みだった。



プルルルル

 

目の前の電話が着信音。落ち着いて、深呼吸をしてと自分に言い聞かせて受話器を静かに上げた。

「ありがとうございます、東京製菓、並木でございます」

「ちょっと、あんたんとこの青海苔せんべいを買ったんだけどな、髪の毛が入ってたんだよ」

「ええと、それはまことに申し訳ございませんでした」PCに入力。個別包装の中か外かという項目が出てきた。「ええと、それは個別包装の中でしょうか、外でしょうか」

「あんたな、外だったらたいしたことないと言いたいのか」

「いえ、決してそんなつもりじゃ、あの、その」

となりからメモ用紙。(それぞれ原因が違うから、関係部署に連絡する都合上)

「あの、髪の毛が入っていた場所によってそれぞれ原因が違うもので、関連部署に連絡する都合がございますので」

「外だよ、外。あんたんとこ、こんな商品出してて平気なのか」

「いえ、すぐ関係部署に…」

「そんなこと勝手にやりやがれ。こっちはどうしてくれんだよ」

(一度お伺いさせていただいて、お詫びをさせていただけませんでしょうか)

「一度お伺いさせていただいて、お詫びをさせていただけないでしょうか」

「来てもらってもどうなるものでもないだろ」

「いえ、ぜひ。お願いします」

 住所を聞いて受話器を置いた。

「あ、あの、室長」

 まだ足が震えている。

「う、じゃ、一緒に出かけよう。お詫びセット持って」

「はい」

「それから次からは、そこに行き着く大体の時間を相手に告げ、そのとき在宅かどうかを聞いておくこと」

「はい」

 すぐにでかけた。梅雨に入り、外は細い雨が降っている。電車に乗っている間も心臓はどくどくして、体中が熱を持っているようにだるい。佐伯室長はこれから相手先に行って話す手順を教えてくれる。

「とりあえず君がやってみろ。手におえないようになったら私が助けてやる。なあに、失敗してもいいんだ。気楽に行け」

 今日に限って乗り継ぎがめちゃめちゃいいように感じる。待ち時間が全然なく葛飾区のお花茶屋というこんな気持ちの日には不釣合いな名前の駅に降りた。そこから立て込んだ住宅街の細い道を少し北のほうに歩き、水戸街道に近いところにその住所に当たる家はあった。すすけた二階建ての小さな家。両隣は軒を接しておりほとんど隙間はなかった。表札を見ると百倉と電話で告げられた名前があった。足ががくがくする。室長に促されて震える手でインターフォンを押した。玄関ドアをあけると狭いたたきに靴がいっぱいで中に入る隙間がない。室長が後ろから押して僕を無理やり中に押し込んだ。

「あの、東京製菓の並木と申します。このたびはまことに申し訳ございませんでした」

「あんたの電話、ありゃなんだ。言い訳ばっかりで、何考えてんだ」

 僕はもうすでに頭の中が真っ白で思考能力は停止状態だった。

「いえ、あの。状況が分かりませんでしたもので。工場のほうにも報告しなければいけないものですから」

「そんなこと聞いてんじゃねえよ」

「それでですね、外に髪の毛が混入する原因としましては、製品が一応できましてから包装をしてて、その後にですね……」

「馬鹿野郎。いいかげんにしろ」

 はっとして目を上げた。僕はそのとき初めて電話の主、百倉の顔を見たような気がした。その男は目玉を剥き、薄い髪の毛の中まで赤黒く染まった鬼のような形相をして見下ろしていた。

「ひい~」

 僕はしりもちをつき後ろにずり下がろうとした。しかし二歩くらい後ろにずり下がると、何かに当たってそれ以上どうしても動けなくなってしまった。見上げると室長が最敬礼で頭を下げていた。

「百倉さま。お怒りはごもっともでございます。このたびお買い上げいただいた青海苔せんべいに髪の毛が混入しており、大変不愉快な思いをさせ申し訳ありませんでした。この通り、我々、東京製菓一同反省いたしております。今後お客様にこのような不愉快な思いを二度とさせないよう、衛生管理には徹底させていただきます」

「最初からそういえばいいじゃないか。なんだこいつ」

「百倉さま、まことに申し訳ございません。こいつは研究室のほうからこの月曜日に転属になったばかりでして、今日が初めてのお客様訪問なのでございます。失礼は重々承知しております。あとで教育しなおしておきますので勘弁してやってください」

「初めてなのか」

 何か考えるような目で百倉が僕を見下ろした。

「さようでございます」

「最近流行のリストラか」

「いえ、いえ百倉さま。並木はまだリストラされたわけではございません。ここでがんばるつもりです。ですからこいつを育てると思って今日のところは勘弁してやってください」

 ふーっと息を吐き出した百倉は急に目から力が抜けた。

「そうかい、まあがんばりなよ」

「ありがとうございます」

 頭の上で室長が最敬礼をした。僕も慌てて正座しなおし頭を下げた。

「ご指摘いただいた点を改善いたしまして、必ずよりよい物にいたします。今後とも当社の商品をよろしくお願いいたします」

佐伯室長はそう言うとお詫びセットを百倉に渡して玄関を出た。表に出たところで外の壁に背中をつきへたり込んでしまった。足の震えは不思議に止まっていた。

「まあ、初めてにしちゃ、上出来だな。次はもっとうまくやれよ」

 あんなにへましたのに室長は何も言わない。教育しなおすって言ってたのに。僕は涙が出そうになった。ないてはいけないと思い慌てて上を向いた。

「さて、何かうまいものでも食いにいこう。腹減っただろう」

「そう言えば少し」

 うん、うんとうなずき先に立って歩き出した。

「なあ、並木君。人は謝る、非を認めるということを嫌がるよな」

「えっ、ええ」

「自分がミスして髪の毛が入ったわけじゃない。やったのは工場で話をしながら仕事をしているおばちゃんだ。何で俺が頭を下げなければいけない」

「あの、そんなつもりじゃ」

「百倉さまはいっぱい並んでいる中から東京製菓の商品を手に取ってくださった。買ってくれなければ、クレームもないわけだから。まずそれに感謝しなきゃいけないよ」

「はい」

「そして、それなのに不愉快な思いをさせてしまったことに対する謝罪の気持ち。心の底から湧きあがってくる、申し訳ないという気持ちをあそこで現さなければ」

「は、はい」

 佐伯室長は諭すようにゆっくりと話す。本当にその通りだ。僕がやったのは言い訳だった。どこかで僕がやったんじゃない、何で僕がという気持ちがあったのかもしれない。ほほに暖かいものを感じた。気がつかないうちに涙が流れていた。

「感謝や謝罪というのは相手の信頼を勝ち取る最大のチャンスなんだ。クレームと言う形ではあるが、お客様と直接話す機会ができたわけだ。相手の心をそこでつかむことができれば、今まで以上に東京製菓の、そして君自身のファンが増えるんだよ。丁寧に、言葉をつくして、何回も相手に自分の感謝と謝罪の気持ちを伝えるようにしてごらん」

「はい」

「そして、私はお客様に心が通じ納得していただいた後で、最後に必ず同じ言葉を言い、玄関を出るようにしているんだ」

「ご指摘いただいた点を必ず改善してよりよい商品を作ります。今後とも当社の商品をよろしくお願いします」

「まあ、そういう意味のことだ。並木君にだってできるようになる。まずはお客様の気持ちを理解しようとすること。そしてそれに誠意で答えようとすることから始めよう」

「すいませんでした」

「う、いいんだ。えらそうに言っているが、わたしもこの会社に入ってから勉強したことが多いんだよ。そのうちできるようになる」

佐伯室長はそう言うとぽんぽんと肩をたたいてくれた。気持ちがふっと晴れていく。少しだけだけど、僕にもこの仕事ができそうな気がしてきた。上野の駅前でうなぎをご馳走してもらい、直帰しなさいとまだ三時すぎなのに帰ることを許してくれた。アパートのドアをあけるといつもと変わらず熱帯魚の太郎左衛門たちが迎えてくれる。六畳の間ではちーちゃんが嬉しそうにケージの中で跳ね回って歓迎してくれる。みんなにただいまと言ってまわった。そして久しぶりにネットの掲示板に書き込みをした。反応が早い。みんな久しぶり、どうしてたのって歓迎してくれる。僕のショートショートを楽しみにしてくれてる人からもいっぱい返事があった。ネットの上では僕は人気者なのかなあ。ちょっと嬉しかった。


 翌朝出勤して部屋のドアを開けた。パチパチパチ。大きな拍手の音。驚いて目を上げたらみんなもう席についていて拍手で迎えてくれた。

「えー、みなさんどうしたのですか」

「何言ってんだよ。初クレーム処理おめでとう」

 大場さんが言ってくれた。

「で、どうでしたか」

「緊張しただろう。俺も初めてのときはがらにもなく緊張したからな」

「どんな人だったの」

 みんなてんでに話し掛けてくる。僕は佐伯室長を見たが、昨日のことは何も話してないようでニコニコしている。

「あの、あの」

 僕はうつむいて言葉が出ない。どうしようか、格好つけても室長はみんな知ってるんだし。僕は思い切って顔をあげた。

「えっと、僕、思考停止状態になってしまって。玄関のドアあけたとたん真っ白になってしまって。気がついたら佐伯室長に押されて玄関の中に入れられていて」

「室長、後ろに仁王立ちして絶対に逃がさないぞって勢いだっただろ」

 菅野さんが笑う。

「えっ、ええ。それで突然相手の人に怒鳴られ腰抜けて、しりもちついちゃったんです。そのとき初めて相手の顔をみたんですがそれはもう、赤鬼みたいな形相で」

「いやー、最初はみんなそう見えるよね。僕も逃げ出そうとして室長に首つかまれて、猫状態だったからね」

 大場さん自分の背広の襟をつかんで捨て猫のような格好をしてみせる。みんな爆笑した。

「僕も逃げ出そうと思ったんです。でも腰が抜けてて、こうやって後ろに這って逃げようと思ったら動かないんですよ」

 僕も床にしりもちをついた格好をして、後ろに手をつき、めがねを斜めにずらした。みんなやんや、やんやの喝采と大爆笑。

「慌てて上を見上げたら足があって、その上に最敬礼した佐伯室長の顔があったんですよ。それで少し気持ちが落ち着いたような気がして」

「並木君、あれ、落ち着いたって感じじゃなかったよ」

 室長が言って、それでみんなまた腹を抱えて大笑いした。

「でも、なーみちゃん、なんとか乗り切ってきたんだ。よかったじゃねえか」

「う、大隅係長の言うようにいいほうだな、ここに配属されてくる人の中では」

「まさか。からかわないでくださいよ」

「う、並木君、なかなかなものだったよ」

 菅野さんが腕を組み難しそうな顔を作り、佐伯室長の口調をまねて言う。部屋の中が笑いに包まれる。

「ようこそ、東京製菓、お客様相談室へ。君も今日から僕らの仲間だ」

 自衛隊か何かのポスターに書いてあるものを読む調子で大場さんが言った。

「慣れれば、うまくできるようになる。毎回が勉強だ」

椿山さんはゆったりとした笑顔で言ってくれる。なんだかくすぐったかった。逃げる勇気も決断もつかず、ただ優柔不断にここまで来てしまっただけだ。

「これから少しずつ勉強して我々の仲間になってくださいよ、並木さん」

 安達チーフもうなずきながら目を細めてくれた。そしてまた新しい一日が始まる。


 休日になった。最近は休日でも暗く気が晴れないときが多かったが、今朝は久しぶりにゆっくりと眠れた。最近、いつも何度となく目がさめる。夜中、ときに二時間くらい目がさえて眠れなくなってしまうこともあったが、昨夜は一度も目がさめなかった。よく眠れたと思って目をあけるとちーちゃんが早く遊んでくれとケージの中で跳ね回っている。

ちーちゃん、どうやら最初の難関は通過できたみたいだよ

 ちーちゃんと太郎左衛門たちに朝ごはんをあげて自分も冷凍庫に入れてある食パンを焼いた。冷凍庫に入れているとカビが付きにくく日持ちがする。ピーナツバターをトーストに塗る。インスタントコーヒーに牛乳と砂糖をたっぷり入れて甘いコーヒーを作った。一人で食べる朝ごはんがこんなにうまいと思ったのは久しぶりだ。片づけをしてちーちゃんを部屋に放す。例のごとく部屋を二周ほど飛んで肩にとまった。PCのスイッチをいれ、いつも行くHPに行き掲示板に書き込みをする。鳥ばか掲示板はメーリングリストの主催者がやっている掲示板で、写真も多く、ML仲間だけでなく鳥が好きな人が集う掲示板だ。このホームページの管理人さんはなんと六〇を過ぎたおばちゃんだ。五〇を過ぎてからパソコンを教室でパソコンを習い始めた。一人で自分の趣味の絵や園芸を始め鳥のことなどを豊富な写真とともに楽しい文章でこのホームぺじを作るようになった。とても親切にできていて見やすいので人気がある。僕もちーちゃんの写真を何枚か撮りおもしろい表情のを選び、『いざゆかん』のサブジェクトとこれから飼い主さんのために狩りをしに行ってまいりますbyちーちゃんとコメントをつけ送信した。それからメールをチェックしてMLを読む。ここには鳥のことに詳しい人、飼育歴が長い人もいて、いろいろな情報がメールで流れてくる。与えるえさの種類と鳥の健康に関するレポート。誰かが病気になった鳥のことで質問する、それに対応する方法。評判のいい病院、悪い病院など、閉鎖された空間での仲間同士のやり取りなのでかなりシビアな情報も入ってくる。僕は日常のレポートとショート、ショートの投稿専門だ。それを楽しみにしてくれている人も結構多い。ちーちゃんを遊ばせながら思いつくままにキーボードをたたく。

『ただいま、ちーちゃん』

ただいまと部屋をあけると、今日も元気にケージの中で飛び跳ねて僕を迎えてくれるちーちゃん。

ち「お帰りなさーい。ねえ、ねえ、まあさん出してください」

ま「ちょっと待っててよ。先に用事をしてからね」

ち「いいでしょ、いいでしょ。ねえねえ出してください」

 ちーちゃんはケージの中でばたばたと飛び跳ねてアピールを続けている。上のふたを開けてやるとぱっと飛び上がり、電灯を中心に部屋を大きく一回、二回と回り、僕の肩の上に乗った。

ち「ねえまあさん、僕はまあさんの子供なの?それともお友達なの?」

ま「それは大切なお友達だよ」

ち「まあさん。僕おなかすいたな」

ま「君は何が好きなのかな。小松菜?」

ち「違いますよ」

ま「あっ分かりました、これでしょう」

 僕は冷蔵庫からレタスを出してきた。ちーちゃんはそれを避けるように首を伸ばす。

ち「僕が欲しいのはあれですよ、あれ。ねえねえまあさん」

ま「しょうがないなあ。あんまりこんなものばかり食べてると太りすぎて飛べなくなっちゃうぞ」

 僕はちーちゃんの甘えたしぐさに負けてもう一度冷蔵庫を開けた。中からみかんを一房取り出し、皮をとって手のひらに置いた。

ち「これですよ、これ。ああ、これを一日待ってたんだよね。あー、たまりませんな、このうまさ」

 まるでおじさんが一日の終わりにビールを飲んで目を細めているような表情です。もう少しおっとりとかわいく食べれないものでしょうかねえ。

 メールを作って送信ボタンを押す。MLにちょっとした日常を送信して、ちーちゃんを相手にしばらく遊ぶ。手のひらに載せて首やのどをなぜてやる。するといかにも気持ちよさそうに目を閉じ、もっとやってというように首を伸ばす。それに飽きるとちょんと手の上に座り込む。ちーちゃんをもう一つの手のひらで包み込むようにして暖める。するとすぐこくこくと眠り始める。よくこれだけ慣れたものだと感心する。この子の表情を見ていると何をしてもらいたいのかがよく分かる。この子も僕が悲しいとき、疲れているとき、嬉しいとき、楽しいときが分かるようで、そのときそのときでまったく違う反応を示してくれる。だから自然に気持ちも落ちつくし、楽しくなってくる。かけがえのない相棒で、友達だ。そんなことを思っているといつのまにか僕も眠ってしまっていた。



台風が近づいてきて前線が刺激されたのか、昨日は本格的に雨が降っていた。しかし、今日はうって変わってくっきりと遠くが見える、乾燥した快晴だった。ここ数日たいしたクレームもなく部屋の中が平穏な空気で包まれている。クレーム処理といっても、そう毎日毎日がクレームの対応に追われるわけではない。商品に対する質問や新商品の発売時期などの問い合わせが多く、僕も二本くらいそういう電話を受けた。一日の終わりのベルがなると同時に留守番電話システムに切り替え、みんなはさっさと事務所をあとにする。僕も事務所を出て工場横にある植え込みの小道を歩いて駅に向かう。

「おーい、ちょっと待ってろよ」

 後ろから声が追いかけてきた。振り返ると菅野さんが小走りでこっちにやってきた。

「なあ、今日は若い者で飲みに行こうと言っているんだけど、なみちゃんもどう」

「若い者って」

「うん、俺と君と椿と大場」

「ええ、僕はいいですけど」

「あいつら、もう来るから」

 四人そろったところで大宮まで出かけた。駅を出て向かいの二階にある、料理居酒屋の看板が上がっていたところに菅野さんを先頭に入った。

「ここもなかなかうまいんだぜ」

 菅野さんが向かいの席から言った。まだ外は明るく店はすいていた。内装は古民家風のすすをイメージしてか、黒い塗装だった。昔の素朴な傘付きの裸電球が温かみを感じる。落ち着いたいい店だった。掘りごたつ風の座敷に座って菅野さんが適当に頼み出した。

「あと追加で厚揚げ、煮込み」

 向かいの大場さんが言った。

「俺は塩で焼き鳥の盛り合わせを」

 隣で椿山さんが言った。

「なみちゃんは何かない」

「いえ、とりあえず」

 生ビールが来て乾杯をした。

「今日は割り勘だからな。遠慮せずにしっかり食わなきゃ損だぞ、なみちゃん」

 菅野さんがごつんとビールのジョッキをぶつけながら言った。

「おまえ、商品開発室にいたんだろ」

 大場さんは一気に半分ほど飲み干し、げっぷをしながら聞いてくる。

「いえ、研究開発のほうです」

「それ、俺たちにはどう違うのかわからないんだけど」

「商品開発は、どんな商品が売れそうかマーケッティングをして、夏はグレープフルーツ味の飴がいいとか、ちょっと泡が出て清涼感が出る飴を作ろうとか、そういう方向を出すんです。研究開発はそれに対して味や香り、清涼感を出したり刺激を出す物質をいろいろな組み合わせのなから提案たりするんです」

「へえ、じゃあ並木はそんな物が作れるんだ。すごいじゃないか」

 椿山さんは色白の丸い顔に穏やかな笑顔を浮かべて言ってくれた。

「ふーん、なみちゃんは理科系なんだ。椿、お前はここに来る前は事務屋だったんだろ」

「はい、総務でその他雑用って感じの仕事でしたけど」

「なんでやめたのよ」

「まあ、いろいろ」

「お前、いつもそう言うよな。言いにくいことなんだ」

 菅野さんは長い髪を少しうっとうしそうにかき上げた。

「菅野さんもいつも椿山さんにそれを聞きますよね。菅野さんは営業で上司と喧嘩してやめたんでしたっけ」

 椿山さんは別に気分を害した様子もなく穏やかに笑っていたが、大場さんは取り成すように話に加わった。

「喧嘩したんじゃねえ、俺が一方的に殴ってやったのよ」

「そりゃ初耳ですね。殴ったらやばいでしょ、社会人にもなって」

「ところが、そいつ尻餅ついたまま口をパクパクさせて何も言えねえでやんのよ。くたばりやがれってんだ、ほんと」

 細いが背が高い。菅野に殴られるとさぞかし効いただろう。

「大場はなんとなく辞めたってくちだろ」

「いや、おれはあれですよ。その会社でプログラムを相手先に合わせて作る仕事やってたんですよ。始まるのは普通の会社と同じように九時に始まるんですけど、終わりはエンドレスなんです。納期が短く請け負い価格が安いのを売りにしてましたから、給料は安いし、やってもやっても終わらない仕事がどんどんたまってくるんですよ」

「僕の友達にもいます。システムエンジニアって聞こえはいいけど大変な仕事らしいですね。時間も長くて」

「おお、わかってくれる人もいるんだ。うれしいねえ。ある日、今日はいやだなと思って休んだんです。そしたら次の日も行きたくなくなって結局三日と土曜日曜の五連休。週明けて会社に行ったら社長に呼ばれて、新しい募集かけて決まったからもう来なくていいって言われて、こっちもあっそうって感じですよ。どっちも未練もなんもなし」

「ふーん。お前も苦労してたんだ」

「そうなんですよ。俺も苦労してるんすよ」

「こら、こら。自分で言うな、自分で」

 菅野さんがすぐに突っ込んでみんなが笑う。

「おれがこういう話しすると怠けてサボって職、失って、自業自得じゃないかってみんな言うんですけど、ほんと、俺も苦労してるんですよ。あんな仕事やってると本当に神経が擦り切れてくるんですよ。やっと完成して次の仕事にかかってもバグって言って不具合が出てきて、要するにクレームですよ。これはこういう仕事につき物で当たりまえなんですが、それを理解してない素人のクライアントはねちねち文句言うし。新しい仕事の納期があるのに、前の仕事の手直しを文句言われながらやって、それで給料安いし、休みないし。景気が一番悪いときだったんで募集かければすぐ決まったんでしょうね。こっちも辞めてから次の仕事探すの苦労したけど、ここは神経、磨り減ることには変わりないけど、時間も決まっているし、給料もいいし。俺的にはあれですよ、まだましって感じですね」

「しかしな、こんなところに流れてくるなんて、みんなろくな人生歩んでないってことだろ。なあ椿」

「そうなんでしょうね」

 椿山さんは相変わらず丸い顔に穏やかな笑みを浮かべて聞いている。この人を見てるとこっちの気持ちまで落ちついてくるから不思議だな。居心地がいいって言うか、すべてを受け止めてもらえそうな感じだ。

「そうなんでしょうねって、他人事みたいに言うなよ、椿」

「じゃあ話しますが、自分はあれですよ、人を殺しちまって」

 椿山さんの押し殺した低い声に、全員ギョッとして椿山さんのほうに視線を集めた。回りの音が消え、温度が一〇度ほど下がった気がした。事実、足元にスースーと風が流れつま先が冷たくたったような気がして、つま先を暖めるために足を引き上げあぐらをかいた。

「また、また。冗談きついですよ、椿山さん」

 ワンテンポおいて一瞬固まってしまった場を取り繕うように、大場さんが引きつった顔で笑いながら言う。

「なんとなく言いそびれてしまっていましたが、佐伯室長と安達チーフはご存知ですから、菅野先輩がどうしてもと言うなら隠すこともないんですけどね」

「あ、いや。でも、殺したなんてことは」

「自分は事務職と言っていましたが、本当は大手商社に勤めてました。商社って、大きくても、小さくてもやることは同じなんですよ。物をできるだけ安く買って、高く他所に売る。不況が長くなり、大企業はリストラ、中小は倒産が相次ぎました」

 椿山さんが遠くを見るようにして話しはじめたその声は、いつもの穏やかなものと違い硬かった。

「自分は大手自動車メーカーの一次下請け清峰精機に部品を納入する仕事をしていました。購買部に顔を出すと言われることはいつも同じでした。まず、こういう時代だからねと前置きして、あんたのところに利益が五%は多いよ、と始まるんです」

 それでものらりくらりとやっていたが、ある日訪問すると担当課長が言った。昨日はS商事がきて、午後からM物産が来ることになっている。同じものなら安いところから買えと役員会で決定したので、今まで付き合いのなかったところも呼んで、商品と価格の比較を今一度しようということになった。感情のこもらない声だった。部品を作る町工場の大西製作所とは駆け出しのころから付き合っていた。社長、奥さんと大学を出たての息子一人を入れて社員数はやっと二〇人と言う小さな工場だった。そこで作ってもらった部品を清峰精機に納入していた。エンジンの爆発で力を得たピストンの縦の動きを横の動きに変えシャフトを動かすのだが、そのジョイントの部分の部品だった。社長の大西は独立して工場を作ったときから熱心に改良に取り組んだ。エンジンの動きを効率よくシャフトに伝えるために自動車メーカーの意見を聞き、それをもって帰ってきて夜遅くまで試作に取り組んではつぶし改良を加えていった。メーカーからの要求水準は毎年上がって行ったがその積み重ねが実って大西製作所の部品はF―1でも使われるまでになった。

「少しのロスが、レースの極限状態で走るとすごい燃費の差になってくるんですよ」

「燃料をいっぱい使えばそれだけピットインの回数が増えるから不利なんだよな」

「それもあります。それとピットインの回数を同じにしても燃料搭載量を減らすと、重量が軽くなると言う有利な面もあるんです。軽ければそれだけ速いし、タイヤの磨耗にも影響します」

 F―1を転戦しているうちにかなりシビアな改良の要求が出される。耐久性、重量、性能。極限までロスを省き部品を芸術品のように磨き上げていく。そのような夜も休日もない努力の結果、ジョイント部品は世界最高水準のものが完成した。

「自分がその仕事にかかわり始めたのは、部品を一般に転用できないかと言う要求がメーカーから出され始めたころでした」

 椿山さんの声がかすれた。それを戻そうとするかのように少なくなったビールのジョッキを傾けた。

ところがこれを一般の車に転用するために量産するのには、あまりに微妙で精巧すぎてうまく作れない。それでも一般車に転用するので何とか部品の供給をしてくれ、という要請がメーカーからきた。最高水準のF―1仕様の部品を一般車に転用して一〇年間使える耐久性も合わせて注文してきた。

「連日おやじさんはメーカーに打ち合わせの会議でかけ、試作品を持っていってこれならというものをたたき台として作ったんです。二年ほど金型屋と試行錯誤しましたがうまくいきませんでした。結局、普通に削り出した金型からでは要求されるの精度が出ず、おやじさんと息子と自分と三人で、お互いの仕事が終わってから何ヶ月かかけて作りました。ヤスリと磨き粉と最後は刃物を研ぐ革や新聞紙まで使って磨き上げて、金型をまったくの手作りで完成させました」

「機械のことはよく分からないんですけど」

「つまり、メーカーからの要望をその工場オリジナルのアイデアで、部品だけでなく、それを量産する機械の部品も作ったと言うことです」

「そして、その金型で作った部品をメーカーに納入したんだろ」

「それを納入業者である一次下請けの清峰精機に納入するのです。清峰精機は我々の部品を、ピストンやシャフトといっしょに組み立て、半製品にしてメーカーに収めるのです。清峰精機はその部品を他の商社に見せてこれと同じ物が後一〇円安くできないかと聞いてまわったのです」

 椿山さんは毒でも飲むような苦い顔でビールを飲んだ。

「そりゃひどいな」

 S商事は強烈だった。金型さえあれば半額で作りますと提案した。常識はずれの金額だった。

「どうやって作るんです」

 こういう話は技術者の端くれとしてすごく興味を見かれた。

「今では中国で生産してコストを下げるのは珍しくもないけど、ベトナムで作ると言う話だった。ベトナム人というのはアジアの中では器用で、勤勉でまじめな、日本人に似た日本人好みの民族なんだそうだ。細かい作業、精密な製作には向いてる民族なんだよ」

「ちょっと待て。金型さえあればって、おまえそれ」

「清峰精機は言ってきましよ。金型だけ売れと」

「当然拒否ですよね」

 大場さんの悲鳴のような声。

「拒否したら、仕事を切られる。少しでも生き延び、時間を稼いで方向転換するために金型を売ったよ、大西社長は」

「そ、それで」

「仕事はそれっきり入らなかった。不渡りを出す前の日の深夜、社長は首をつって死んだ」

 椿山さんは絞り出すような声でそう言った。

「大手メーカーがそこまで腐っているなんて」

「メーカーじゃない、その下請けだ」

「でも、椿が悪いわけじゃなないよな」

「メーカーと同じ理屈でですか。自分はその金型を買って清峰精機に売った当事者ですよ」

「それで、ここに」

「通夜に行っても入れてもらえませんでした。当然ですよ。雨が降る葬式の日、土下座して出棺を見送りました。その足で会社に辞表を出しました。しばらくぼーっとして何もできませんでした。このままじゃいかんと思い直ししばらくたってから居酒屋でアルバイトをやったんですが、長くは続きませんでした。自分はもうまともな仕事はできませんでした。アルバイトを転々としました。そんなときここの募集を見て思ったんです。ざんげの人生にお似合いの仕事じゃないかってね」

 ふぃーっと菅野さんが長い吐息をついた。しばらくはみんな無口で飲んでいた。

「すまん、椿。いやなことを思い出させちまった」

「いや、いいんです。常に思い出しとかなければ、自分は楽なほうに流されますから。それに、ここの居心地はいいんですよ、案外」

「かわってるな、おまえ」 

 菅野さんはだいぶ酔いが回ってきたような目をしている。

「だけど、そういうことやっていると優秀な底辺の工場が全部だめになって、日本の産業は崩壊します」

「ほう、めずらしくずいぶんはっきり意見を言ったな、なみちゃん」

 椿山さんのやっていた仕事を踏みにじったその会社のことが許せなかった。そして、技術者を金のために平気で切る今の社会のシステムにも、ずっと反感を持っていた。

「日本製品の武器は、そういう細かい工夫の積み重ねです。全部が東大出の大手メーカーで設計しきれるもんじゃないんです。長年の経験、手触り、勘。その道何十年というおやじさんが作り出す細かい工夫は、学校で習う計算式では決して出てこないものすごく微妙ものだと思います。料理で言えば料理の本には出てこない、熟練した板前やコックの微妙な火加減や隠し味のようなものだと思います」

「そうだな」

「そういう大切なものを一時の金のためになくしたら、大量生産のアメリカの産業と何の代わりもなくなってしまいます。そのときは確かに安くすばらしい車ができたはずです。でも今もそうでしょうか。その部品は改良を続けて進化し続けているでしょうか」

「いや、自分がやっていたときのままだといつか聞いたこあるよ」

「一般車ならそれでも今までの貯金があるので何年かはいいでしょうが、F―1などのようなシビアなレースでは無理でしょう。毎年、毎年進化しなければ、現状維持では生き残れない世界だと思います」

「そういや、そうだな。最近F―1で、日本車は優勝してないんじゃないか」

「それどころか、新規参入をした別の日本メーカーのほうが、優勢でしたよ、昨年当たりのレースでは」

「自分は、もうあれ以来車に興味をなくしてしまったから、よくは知らないがそうなのか」

 椿山さんはちょっと残念そうな、悔しそうな顔をしていた。

「おやじさんも上から見て悔しがっているだろうな。でも、並木がそう言ってくれたんでちょっとは救われたよ」

「ほんと、並木がこんなにはっきり意見を言うなんて驚いたよ」

 大場さんが目を剥いてくるくる動かして、大げさに驚いて見せた。それで、少し場が和んだ。

「皆さんの話聞いちゃったんで、ぼくも話します。ぼくは社内のリストラで。僕の部屋は三人分の経費を節減しろと役員から言われたらしいです。それで給料の高い課長と協調性のない僕が」

「ふーん。でもやめる必要ないんだよね、ここでやれば」

「言い渡されたとき、とても僕にできる仕事じゃないって思ったんです。それでも何回かやってみて、この仕事はやっぱり僕にはできないと思いますけど、椿山さんが言うように、ここにいるとみんないい人ばかりでちょっといいんですよね」

「何がいい人ばかりだよ」

「いい人ばかりならこんなところに吹きだまらないって、ねえ椿山さん」

「いい人だからはじき出されたり、汚いやつの中にどっぷりと漬かれなかったりということもあるんじゃないかな」

「けっ」

 吐き出すように菅野さんが言ったが、まんざらでもない顔をしている。

「本当になんだか居心地がいいんですよ、今まで感じたことないほど」

「よっぽどいままでいやなやつに囲まれてたんだな」

「並木は案外この仕事、向いてるのかもしれないな」

「椿山さん、からかわないでくださいよ。室長にもそう言っておだてられたんですよ」

「なみちゃん、ここで辞めたら会社の思う壺だ。ちょっとがんばってみたらどうだい」

 みんなが頼んだ大量のつまみもあらかたなくなり一人二千円と、後は菅野さんのおごりということで店を出た。ちょっとペースが早かったからか、話がシビアになったからか、結構酔っ払っている。外で待っていると会計を済ませて菅野さんが出てきたので四人並んで歩き出した。

「菅野さん例の風俗行きましょう。これから」

「大場君、君も好きだねえ。おい、なみちゃんもどう」

「あの、僕は、あっ」 

菅野さんに呼ばれたので僕は菅野さんのほうを向いた。ドンと体の右半分に衝撃があったと思ったら尻餅をついていた。

「いてえな、兄ちゃん」

 角刈りの大きな男が僕を見下ろしている。ちょっとがらのよくない男が二人、後ろについている。

「すみません。横を見ていたもので」

 立ち上がってその囲みから出ようとした。

「当て逃げはいかんな、リーマン君」

 スキンヘッドに襟をつかまれた。

「はなしてください」

「派手なリュックしょってるな、おまえ」

 もう一人にリュックの肩ひもをつかまれて身動きができなくなった。 

「ちょっと話をしようや」

 髪の毛をハリネズミのように立てた男とスキンヘッドに両脇を抱えられた。ぶつかった体の大きな男があごをしゃくった。それほど怖いとは思わなかった。

「僕が横を見ていたのはよくなかったかもしれないですが、そちらも見えてたらよけてくれればよかったじゃないですか。放してくださいよ」

 僕は体をゆすって逃げようとした。足がハリネズミと絡まって二人で倒れた。

「てめえ、いいかげんにしろ」

 腹に衝撃が来て息が詰まった。

「そのへんで勘弁してもらえませんか」

 見上げるとでかい男の前に椿山さんが立っていた。どっしりとして動きそうもない小山のように見えた。それほど大きくない丸みを帯びた体がすごく大きく見た。

「なんだ、おまえ」

「いえ、この人、後輩なんですよ。この人を連れて行かれるとちょっと困るんですよ」

「ほう、いい度胸だな、兄ちゃん」

 椿山さんはいつもと変わらない穏やかな表情で大きな男の前に立っている。

「ならおまえが変わりに落とし前つけるんだな」

 僕から離れた男たちが椿山さんの両脇を抱えた。すっと動いたと思ったら別の場所に移動し平然と立っている。スキンヘッドたちは唖然としている。

「やろう、なめんなよ」

 ハリネズミは回し蹴りを放った。長い足が音を立てて椿山さんの顔を横から襲う。危ないと思ったその一瞬、椿山さんの体がすっと斜めに向いた。たったそれだけでその鋭い回し蹴りはむなしく宙を蹴った。足が着地した瞬間ハリネズミが間髪をいれず左右の連続のパンチ。椿山さんはまったく動かない。頭の後ろにハリネズミのこぶしが通り抜けていっているように見えた。後ろからスキンヘッドが短い足で蹴り上げた。

「危ない、椿山さん」

 椿山は後ろを見ていたように一歩だけ横に移動して大きな男に頭を下げた。

「勘弁してください。このとおりです」

 目を見開いた大きな男が苦笑をした。

「いい腕だなおめえ。うちに転職しねえか」

「そのせつは」

「けっ、行くぞ」 

 三人が野次馬を蹴散らしながら消えた。

「すみません、僕のために」

「うん」

 椿山さんは穏やかな笑みを浮かべて普通の返事をしただけだった。

「びびったぜ。それにしてもなみちゃんも気をつけなきゃ」

「すみませんでした。いっしょに連れてきてもらったのに、皆さんにいやな思いさせちゃって」

「もういいって。並木が悪いわけじゃないし、なんでもなかったんだから」

「それにしても椿山さんすげえな。俺、空手やってるって知ってたけど、こんなにすげえとは知らなかった」

「なんでもないよ。だって相手は素人なんだから」

「でも、椿よ。相手のパンチがおまえの顔を通り抜けたよな。それに後ろから蹴ってきたのに見ないでよけたろ」

「やめてくださいよ、菅野さんまで。たまたまそういうタイミングになっただけですよ。もういいじゃないですか。風俗いかれるんでしょ」

「おっと、忘れてた。なみちゃんも行くか」

「いえ、ぼくは」

「何だよ、椿も並木もたまには付き合えよ」

「自分たちは酔いが醒めたんで飲みなおしていきますよ。先輩方でゆっくりしてきてください」 

「ちぇ、まあいいか。行くぞ大場」

「今日はありがとうございました」

 僕がした挨拶に軽く手をあげて答えた二人は路地を曲がり裏の道のほうへ消えていった。


「並木、どっかで口直しして行くか」

「ええ、ありがとうございます」

 誘ってもらえて体が浮き上がるほど嬉しかった。この人のそばにいられる、話ができる。それだけのことが何でこんなに嬉しいんだろう、幸せを感じるんだろう。

椿山さんについて煙のもうもうと上がっている小さな焼き鳥屋の暖簾をくぐった。店頭ではすごい勢いで焼き鳥を焼いていてその煙で入り口が煙っていたが、中はそれほどでもなかった。

「いらっしゃい。椿ちゃん久しぶり」

 カウンターの中から角刈りにしてちょっとやくざ映画の主役で出てきそうな、ハンサムな板前さんが声をかけた。

「静さん、ご無沙汰しております」

「何、今日は練習の帰り」

「今日は会社の後輩と」

「ゆっくりして行ってよ」

椿山さんはにっこり笑って手をあげた。

「並木、ビールでいいのか。酎ハイもあるぞ」

「椿山さんと同じ物でいいです」

「じゃあ生二つ。塩焼き、横に洋がらしをつけて。トリ、ハツ、かしら、タン。あとシロはタレでいいや、七色ふって。並木、ここの焼きトンはいけるぞ」

「さっきのところもうまかったですね」

「ああ、トリはあっちもうまいな。こっちは豚がいけるんだ。僕は学生のときからここでバイトしたり飯食いに来たりしてるんだ」

「就職してからもですか」

「前の会社に行ってたときもここに来てたのは、ここに道場があるからなんだ。子供のころからここに通っていてね。高校、大学は学校のクラブでやっていたけど、その間も道場には通ってたから。この街は僕の第二の故郷みたいなものなんだ」

 ビールと焼き鳥が運ばれてきた。

「とりあえず乾杯だ。こうやって塩、コショウで焼いたのにからしをつけて食うとうまいんだよ」

 ジョッキをぶつけてビールを飲んだ。先ほどの出来事でのどが乾いていたのでうまかった。それから洋がらしをつけて、かしらと言うのを食べてみた。大きなさいころのような肉だが、案外柔らかい。じゅっと肉汁が口の中に出てきて、塩コショウそれにピリッとしたからしが効いていて本当においしかった。

「本当にうまいですね、ここの肉も。僕、初めて食べました。これ」

「勉強不足だな。並木は味を作る仕事をしてたんだから」

 そう言って微笑んだ。

「子供のころから通ってたということは、椿山さんの実家はここですか」

「いや、実家は東上線の板橋だけど、ここの道場は本部だからね」

「もしかしてあの実戦空手って言うところですか」

「まあな。だけど、並木もたいしたもんだと思ったよ。三人に囲まれてもほとんどびびってなかっただろ」

「いやあ、もうちびりそうでしたよ」

「そんな感じはなかったな。落ちついていてどうでもいいって投げやりな感じでもなく、冷静だっただろ」

「えっ、ええ」

「こいつ、ほっといても大丈夫だなと思ったんだけど、ついおせっかいしたよ」

「いやあ、助けてもらって本当に感謝しています。ただ椿山さんだから告白しますが、僕は中学のときいじめられっ子だったんですよ」

 あまり暗くならないようにそのころのことを少し話した。

「そうか。大変だったんだ」

「はい。それでやられ慣れてるって言うか、はは、こういう言い方っておかしいですか。ああいう感じになるとすぐ心のシャッターが閉じてしまうんですよ。そうすると何を言われてもあまり気にならいし、不思議と殴られたりしてもあまり痛くないんです」

「そんなもんかな」

「弱くて、意気地なくって、ほんと恥ずかしいですよ」

「それでも並木は結構いいやつだよ。自分で気付いてないだけじゃないか。並木が思ってるほどみんな、おまえを見下したり、ばかにしたり、嫌ったりしてないって。それなのに自分から後ろを向いてしまっているんだよ。もう少し心を開いて、周りをしっかり見てみなよ」

「そうでしょうか」

「前の部署でも並木のことが嫌いでこっちに転属になったわけじゃないと思うぞ。自分で自分のことを追い込んでしまっているように見えるよ。並木が今言った心のシャッターはひとつの武器でもあるけど、傷つかないように自分を違う場所においたままでは人とは付き合えないよ」

「そうですよね。わかっているんですけど。心が弱すぎるとわかっているんですけど」

「そんなことは並木だけではないよ。さっき言ったように俺だってあんなことがあって気持ちが折れちゃって、どんな仕事をやっても続かなかったんだ。昔やっていたこういう所でもバイトでさえ、二週間もするとどうにも我慢ができなくなってきてな」

「働くことがですか」

「働くことというよりなんていうかな、普通に生活していくことが。うまく言えないんだけどそのころはもうだめだなと思ったり、どこまで落ちていくんだろうと地下道で転がっているホームレスを見て怖くなったりしてな」

「今の椿山さんからは想像できませんよ、そんな姿」

「そんなことないって。今の仕事についてからもあまりにも理不尽なクレームで、いやになってしまったことが何度もあるよ。佐伯室長はお客様の気持ちになって、誠意をもってというだろ。それはよく分かるんだ。だけど俺は少なくとも言いがかりのような不正義に対しては、どうしても拒否反応を起こしてしまうんだ」

 椿山さんが珍しく胃の中の物が逆流したときのような苦い顔をしている。

「それは誰でもそうだと思いますが」

「そんなとき、自分が一番の不正義をやっていてよく言うよ、ともう一人の自分が笑っていやがる。そんなときはがっくりと気持ちが折れて、相手との話し合いもこじれてしまうんだよ。どんどん泥沼にはまってこの仕事もだめかもしれないとかな、ぐずぐずと考え込んでしまう訳よ」

 椿山さんの苦悩を聞かされ、こんな人でもそうなのかと少し驚いた。

「やめないでくださいね、椿山さん」

 僕は小さな声になった。いつやめようかと思い続けているのに、それこそ自分のことを棚に上げていい気なもんだと思った。

「わかってる。俺はそんなことじゃあやめられないよ。自分がやったことに対してという気持ちもある。でもそれだけじゃあない。本当にいい人たちなんだ、この部署の人たちは。俺が苦い顔をしているといろいろ気を使ってくれる。それは槍が降って来るように、痛いほどストレートに俺の心の深い部分に入り込んで来るんだよ。痛いんだけど嬉しい。嬉しいんだけど痛い」

「少しわかります」

「そして最後には佐伯室長が助けてくれる。俺はこの仲間といっしょにいたよ」

「はい」

「おい、もっと食え。せいちゃーん、煮込み、から揚げ、肉じゃが。あと生二つ。」

 椿山さんはすごい勢いで食って飲む。

「椿ちゃん、今度メノコ行こうよ」

「そうですね。じゃあ来週せいちゃんが店はねるころ寄りますよ。道場で練習がある日に」

「オーケー」

 どかどかと追加のつまみがきた。

「並木もどう、一緒に行かないか」

「えっ、僕は…」

「ほら、そう言うとこだよ。行くか行かないかは本人の自由だけどさ、メノコってどんなところですかとか一応興味を示してみろよ。菅野さんに誘われても付き合わない人が、せいちゃんに誘われたら二つ返事で了解したよ。メノコって何の店だろうって。みんなおまえに興味を持って、こいつどんなやつなんだろうとか思ってるわけだろ。だから話をするきっかけが欲しいわけじゃない。そういうことなんだよ。もう少し砕けてこっちの側に入ってきても、いい大人が誰もいまさらいじめなんかしないって」

「そうですよね。メノコってどんなところですか」

「ぶっあはっは。だからー」

「あはは、おかしいですよね、こんな取ってつけたような言い方。長く人と話しなんかしたことないから下手なんですよ、しゃべり方。それに、どう話したらいいか分からなくって」

「そう、そう、そうやって話せばいいのよ。ふっふふ、だいぶよくなってきたぞ」

「はあ」

 何がよかったのか分からないけど椿山さんは愉快そうだ。

「メノコってのはすごい安い飲み屋でな、トリスって言う一番安いウィスキーが一杯八〇円とか、さば缶は皿にさばの缶詰を丸ままばさっと移しただけだけど一五〇円とか」

「すごいですね。そこらでコーヒーを飲むより安いんじゃないですか」

「だからかなり飲み食いしても一人千円とかそんなもんかな。すごく古い店で、その雰囲気もいいんだ。金がないときはよく通ってたよ、昔」

「なんか、おもしろそうなところですね」

「だろ、飲み食いして最後に勘定って言うと、二人で千八百円とか言われると感動するぞ。ええ、一人九〇〇円かよって」

「あの、僕も連れて行ってもらえませんか」

「あっはは。それでいいのよ、並木君」

「はあ」

 椿山さんもだいぶ酔っていたが、僕も気持ちよく目がまわっていた。楽しい、幸せだ。こんな時間いつ依頼だろう。


 また新しい週が始まった。季節は梅雨に入り、今日も細かい雨が降っている。雨もまたいいものだ。空気が適度に湿気を帯びていて呼吸が楽な気がする。木々の緑が雨に洗われて鮮やかな色に見える。工場のそばの木が多いところを通りながら、大きく深呼吸をした。お客様相談室の事務所が駅から遠いのも、こういう気持ちで歩くと散歩のようでいいものだな。僕はさしている傘を少しくるくると回しながら事務所に向かって歩いた。

 午後からみんなとソファーでくつろいでいたが、大場さんが電話を受けたので自分の番が回ってきた。何回か電話を受けたり、みんなのを聞いて対応を勉強したりしたので以前より少しだけ落ちついてきた。マグカップに入れたコーヒーと大きな湯のみに入れた緑茶を持って自分の机についた。三時を回ったころ電話が鳴った。以前と違ってみんなもう僕が電話に出てもそれほど気にしていないようで、そういうことでもまた少しリラックスできる気がする。深呼吸を一度して、落ち着いてと口の中で唱えた。

「ありがとうございます、東京製菓、並木でございます」

「あんたの所のキャンディーってプラスチックで作っての?」

 いきなり中年のおばちゃんの強い声がした。

「申し訳ございません。プラスチックがキャンディーにくっついていたのでございますか」

 さっとみんなが緊張したような空気が部屋に流れる。

「ばかにしないでよ。ぺロッティーキャンディーを買って口に入れたらプラスチックでできてるのよ、全部。どうなってんのよ。かんだら歯が折れそうだったわ」

「プラスチックでできていたのでございますか?」

 慌てて検索するが出てこない。席にいた安達チーフがサンプルかもしれませんというメモを滑らせてくれた。

「あの、すぐお伺いさせていただきたいのですが。もしかしたらサンプルが商品の中に混じっていたのかもしれません」

「いいかげんにしなさいよ、こんなもの食べさせて」

 そのおばさんは住所と名前を言って電話をたたききった。

「佐伯室長、プラスチックでできたキャンディーを買ったということです」

「う、私もいっしょに行こう。お詫びセットとペロッティーを一セット持っていこう」

「はい」

 僕はリュックにお詫びセットとキャンディーのセットを入れて立ち上がった。

「今日はこの前より少しうまくやってみろよ」

 大隅係長が言ってくれる。

「よっ、いいリュックが光ってるよ」

 菅野さんの声。

「がんばってきてください」

 安達チーフも穏やかな笑顔で送ってくれた。きっと僕は緊張に顔が青くなって引きつっていたのだろう。実際、心臓のどくどくという音が聞こえていたが、この前ほど頭は真っ白ではなかった。電車に乗り浦和に着く。それほど高くないビルが駅前に並んでいる。雨は相変わらず降り続いていた。傘をさし、駅を出る。狭い二車線道路と、傘をさして行き違いにくい狭い歩道。雨を避けてビルの入り口に入り小さな地図をひらく。出るとき目安をつけたように、この駅前から線路に沿って続く道の二ブロック目が、目的の番地だった。迷うことなく姉川という電話してきたおばさんのマンションを探し当てた。道路沿い。駅から徒歩五分。どっしりとしたレンガ造りの大きなマンションだった。入り口には大理石張りの柱、木製の格子になっている自動ドアが重い音を立てて開いた。中に入ると壁の下側は御影石と青御影石の二色、上は砂岩を張った壁になっている。間接照明が灯り、応接セットまで置いてある。その向うは竹と白い小石を敷き詰めた小さな中庭がガラス越しに見えている。広いホテルのロビーのようなエントランスに圧倒された。扉の横にカメラつきの押しボタン。深呼吸をしてインターフォンを押した。名前を名乗ると返事もなく自動ドアが開いた。エレベーターで七階まで上がった。普通のビルのように建物の中に廊下があり、そこにはなんと臙脂色のじゅうたんが敷いてある。濃緑色のドアに金色のプレート、七○七号室。一番奥の突き当たったところの部屋だった。ここにもカメラ付きのインターフォンがついていて、ボタンを押した。どうぞと低い女の人の声がスピーカーから流れ、ガチャッと自動でドアのカギが開く音がした。今日は自分であけて入るぞと心の中でつぶやき、恐る恐るドアを開いた。入ったところにかなり広めの玄関と上がりがまちがある。僕のボロアパートの一部屋分くらいありそうな広さだ。白いスカート。赤と紺の大胆な模様の派手なブラウス。腰に当てた太い手には頑丈な手錠のようにブレスレッドが三重に巻いてある。指には大きな石が入った指輪が左右に何個もはまっている。見上げると青白い顔の少し太り気味なおばさんが仁王立ちになっている。心臓がどくりと跳ねた。

「このたびは申し訳ありませんでした。これ、私どもの会社の商品で申し訳ないんですが、お受け取りください」

 広いはずの玄関は蒸し暑く湿気がこもり、人が三人も顔をつき合わすとうっとうしい感じがする。その雰囲気が余計相手を不機嫌にさせるのではないか。上がりがまちに持ってきた商品を置いた。

「これ、何よ。こんなものいらないわよ」

「あの、サンプルが、商品に紛れ込んでいたのかもしれません」

「あんた、どんなものか見ないでそんなこと分かるの。ばかにしてるんじゃないの、消費者を」

「いえ、決してそんなことは……。ええと、あの、よろしかったらご購入なさった商品を見せていただけませんか」

「ばかにしてんの、あんた。もういいわよ。帰って」

「申し訳ございません。私の言い方がお気に触ったのでしたら謝ります。このとおりです」

 僕は慌てて最敬礼した。最初にあったほんの少しの余裕はどこかかなたに吹き飛んで、また頭の中が真っ白になってしまった。

「帰りなさいよ!」

 大きな怒鳴り声。

『オカエリ、オカエリ。お父さんお帰り』

 突然、頭の上で場違いに明るい声が聞こえた。からかわれているのかと思い顔をあげるとそこに白いオウムがいた。

『僕あきちゃん。僕あきちゃん』

 その白いオウムはお腹の所の毛が抜け落ちて血も出ていて痛々しい。

「あの、姉川さん。この子、コバタンですよね」

「えっ、ええ」

 この白いオウムはコバタンという種類の三〇センチくらいのオウムだ。頭に少し黄色がかった白色の冠の羽がある。

「この子のお腹の羽、自分でむしったみたいですけど」

「そうなのよ、やめさせようとしてもやめなくて」

 少しめんどくさそうに答えた。

「あきちゃん、あきちゃん。僕なみちゃん。僕なみちゃん」

 僕はそういいながらケージの隙間からそっと手を入れた。

「あっ、その子かむわよ」

「いいんです、ちょっとケージを開けていいですか」

「ええ、いいけど」

「あきちゃん、怖くないよ。なみちゃんはお友達。あきちゃんのことが大好き」 

精一杯の笑顔をつくってケージの前のふたをゆっくり開けて、空手チョップの形で手をゆっくり入れた。

「あきちゃんいい子だねえ。ほうら怖くないよ。僕たちお友達、お友達」

 コバタンは緊張して少しからだの羽を膨らませている。とさかのような冠の羽も逆立っている。僕はゆっくり空手チョップの手を止まり木の少し上の、コバタンの胸のほうへ近づけた。コバタンが足を本能的にすっとあげ僕の手をつかんだ。すっと掬い取るように手を上に上げた。コバタンはもうひとつの足でも僕の手をつかむ。つかんだ指のつめが手に食い込み痛い。その痛さと足の暖かさが気持ちいい。

「あきちゃんはいい子だねえ」

 嬉しくなって顔が自然に緩んでくる。ケージの中でゆっくりコバタンが止まっている腕を上下させた。ぎぇ、ぎぇ、ぎぇッとオウム特有の地鳴きをして少し羽をばたつかせた。

「あんた、すごいね。この子喜んでるわ」

「オウムは本来、人が大好きです。こうやって遊んであげると嬉しいんですよ。姉川さん、あきちゃんはずっとここに置いているんですか」

「そうなのよ。最初応接間に置いたりしてたんだけど、あまりにも鳴き声が大きくてお隣さんから苦情が来て」

「できたらお昼の間だけでも日の当たる部屋に置いてあげてください。紫外線が羽を作る上で大切なんですよ。オウムが地鳴きをするのは朝と夕方、鶏と同じような感じでその時間に鳴くんですよ」

「そうなの。ここじゃ、昼も朝も夕方も同じように薄暗く、かわいそうだなとは思ったんだけど」

「それから、この子が羽を抜くのはストレスからなんだと思います。玄関にいると寂しいんですよ。できれば朝夕少しでいいから出してあげて遊んであげてください。簡単なことでいいんです。あきちゃんおんも出ようかねえ」

 そういいながら手につかまっているコバタンをゆっくりとケージから出してきた。

「はい、エレベーターでしゅよお」

 僕は手を上下にうごかす。

「はい、階段でしゅよお」

 オウムの胸のあたりにもう一つの手を出す。すると足を出して乗り換えてくる。はい、はいと言いながら次々に手を差し出して乗り換えさせる。

「あはは。あきちゃん上手、上手。あっ、痒いところはありませんか」

 首のあたりを掻き掻きしてやると、うちの文鳥のちーちゃんと同じように首を伸ばし羽根を逆立てて気持ちよさそうに目を細めている。

「あれー、あきちゃんはここが凝っていましゅねえ」

 羽の上あたりの筋肉をゆっくりもんでやるとこれも気持ちよさそうだ。

「姉川さん、手に乗せてみてください」

「私は怖いわ。主人には慣れているんだけど」

「すごくかわいいんですよ。ちょっとだけやってみていただけませんか」

「じゃ、ちょっと」

 おずおずと手を出した。

「大丈夫、この子は噛みませんよ。緊張しないで力を抜いて、笑いながら声をかけてあげてください」

「あきちゃん、お母さんのところにくる?」

「あきちゃん、嬉しいねえ。お母さんが手に乗せてくれるって。お母さんもあきちゃんが大好きって言ってるよ」

 そういいながら姉川さんの手に胸を近づけてやるとひょいと言う感じで乗った。

「姉川さんもあきちゃんもいいですよ~。はい、エレベーター。声をかけながらゆっくりやってあげてください」

「あきちゃん、エレベーター」

 しばらく遊んであげていると、姉川さんの表情もすごくやさしくなってきた。栗色のボリュームのある髪。少しふっくらしているが、こうしてやさしい表情をしているとかなりの美人だと気がついた。何種類か遊び方とスキンシップの仕方を教えてあげてケージに戻すときには、もうすっかり姉川さんもあきちゃんも慣れていた。姉川さんは名残惜しそうにオウムをケージに戻してからも、ケージの外からしばらく話し掛けていた。

「こうやって慣れてくれるとかわいいもんね。つかまれると痛いのかと思ったけど、痛がいいというか、結構気持ちいいものね」

「あの足でつかまれてると暖かさが伝わるでしょ。あきちゃんにも姉川さんの手の暖かさが伝わっているんですよ。今の調子で朝と夕方、少しだけでもいいですから遊んであげてください」

「ええ、やってみるわ」

「オウム頭がいい動物なんです。犬なみという人もいます。慣れてくるともっと自分からやって頂戴ってアピールするようになりますよ。それから、ちょっと根気がいりますけど、おしゃべりで会話できるようにしてください。できたときは大げさに喜んであげるんです。だいぶなれたら地鳴きした時はほうっておいて、おしゃべりで呼びかけられたときに反応してあげるんです。それもとっても喜んであげてください。それからいつも必ず反応してあげてください」

「おしゃべりって会話するの?」

「一種の芸ですが、たぶん半分以上意味もわかってやるようになると思います。そしてそれで反応してくれると嬉しくて、朝、夕の大きな声での地鳴きも減ってくると思うんです」

「へえ。そうなの」

「人間の言葉を話しているほうが楽しいことがあるって分かると、そうするようになるみたいです。うまく飼ってあげれば何十年も一緒にいてくれる本当にいい友達になれるんです、オウムは」

「なんだかもう一度最初からやってみようかなって気になってきたわ」

「あきちゃんのためにもぜひお願いします。ストレスがなくなると羽をむしるのもおさまると思います。困ったことがあったら僕に電話をください。名刺に電話番号ありますから」

「ええ、ぜひお願いします」

「それから、キャンディーの件ですが」

「それはもういいわ。口に入れたらプラスチックでびっくりしただけだから。だまされたって言うかちょっとばかにされた気がしたのよ。それより、オウムのこと、また教えてね」

「はい。いつでも。申し訳ありませんでした。ご指摘いただいた点を改善いたしまして、必ずよりよい物にいたします。今後とも当社の商品をよろしくお願いいたします」

 頭をしっかり下げてから玄関を出た。立派なエントランスを抜けマンションを出たとき、雨はすっかり上がっていてきれいな夕焼けが広がっていた。

「並木君、ご苦労さん。できたね」

 佐伯室長がにっこり笑っていってくれた。

「なんだか夢中で。だめですね。この前とあまり進歩ありません。なさけないな。オウムに助けてもらいました」 

「確か最初の謝り方や説明はかなり稚拙だったが、結果的に普通に謝りに行った我々よりも強い信頼関係が築けたんだからいいじゃないか」

「怪我の功名です。最初はそうでもなかったんですが、この前と同じようにもう頭が真っ白になりかけてましたから。」

「そうだね。その冷静だったというのが悪いほうに出てたんじゃないかな。妙に理屈っぽく聞こえてた。自分が言った会話をトレースしてごらん。再現してみて悪かったところは直さないとね」

「はい」

「客にしゃべらせる。客の話に興味を持つ。途中で自分の意見を言わない。客の意見を否定しない。客の体を心配する」

「はい、ちょっと反省してみます」

 歩道の先に雨上がりの夕日に輝く浦和の駅が見えている。走り出したいような気持ちだ。

「それにしても君のオウムに対する知識はすごいな」

「僕もオウム飼いたかったんですよ。すごく高いし、それに声も大きいのでアパートじゃ無理なんですよね。いまは文鳥がいるんですが」

「へえ、そうなんだ。動物は好きなの」

「はい、とても」

「おっ、もう六時か。じゃあ今日は直帰だな。俺はちょっとやっていくから」

 佐伯室長は親指をはじく仕草をして見せた。

「あっ、パチンコですか」

「ああ、この街はパチンコ屋が多くてな、よく出るんだよ」

「へえ、そうなんですか」

「ストレスが多い仕事をしていると、どこかで息抜きをしないともたないからな。並木君も一緒に行ってみるかい」

「いえ、僕はやったことないですから」

「君も何かいい遊びを覚えた方がいいぞ。そうじゃなきゃまいっちまう。じゃあ気をつけて帰れよ」

 佐伯室長はにっこりと笑って手をあげた。

「はい、さようなら」

 今日は出たのが遅かったのでこんな時間になっていた。もう事務所に帰っても誰もいないだろう。

駅で佐伯室長と別れてちょうど滑り込んできた京浜東北線に電車に乗った。電車はすいていて座れた。乗ったとたん気が抜けたのかすぐに眠くなった。すぐに降りなきゃいけないので寝ちゃいけないと思ったのだが、どうにも我慢できなくなって眠ってしまった。心地のよい疲労だった。


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