第8話 再び
目の前には紅魔館とはまた雰囲気の違う、趣のある総木造の白玉楼。博麗神社と似た雰囲気がある気もするが、どちらかと言えばこちらの方が小綺麗だろうか。それに、建物の規模としてはこちらの方が断然大きい。それに従い、見る者への迫力もかなりのものがある。
そんな白玉楼の中、畳敷きの広い客間のような場所に八雲紫と西行寺幽々子は並んで座り、私を見下ろしている。紫に連れ去られた霊夢は気を失っているのか、客間と庭を繋ぐ縁側に寝かされていた。その姿を見る限り霊夢は生きているようではあるし、これといった外傷も見当たらない。それを見て私は、ひとまずの安心を得ることが出来た。
「…さて……」
紫はゆっくりとした流れるような動作で、どこからか扇子を取り出し、開く。だが、その扇子で風を起こす訳でもなく、器用に片手で扇子を閉じてしまった。
「これで邪魔者はいなくなった訳だし、少しお話しましょうか」
その言葉に、私は咄嗟に後ろを振り向く。
…紫の能力は知っていた。いや、知っていたつもりだった。彼女が幻想郷で最強とも言われる程に強いことも知っている。ただ、結局私は紫を甘く見ていた。そして、自分を買い被っていたのかもしれない。弾幕勝負での勝率や今の戦力から油断していたこともあるのだろうし、今思えばこれだけの異変続きで、私の思考がきちんとしているのかどうかすら、怪しいものがある。
先程までは、私の後ろには集まった全員が肩を寄せ合っていた。白玉楼に着いてからというもの、数人が私の後ろで、不安からかそわそわしていたのを何度か確認している。
それが、今では私の背後は何もない。あたかも初めから何も無かったかのように、しんと静まり返っている。考えてみれば、紫は空間ですら操ることが出来るのだ。操れる隙間も生半可なものでは無いだろうから、あの人数くらいなら簡単に隙間送りに出来るのかもしれない。
あくまで噂だが、幻想郷の結界を作り、管理しているのも彼女だと聞く。そんな強大な力を持つ紫の前に何人が集まろうとも、それはただの虫螻のように見えるだけなのだろう。もしかしたら私たちは幻想郷の中にいる限り、どんなことをしようとも紫の掌の上で動き回るものでしかないのかもしれない。
「ちゃんと、答えは準備してきたわよね?」
紫はその場で立ち上がるとこちらに向かって歩き出す。その表情には取って付けたような笑顔が浮かび、ぱっと見ただけならば誰が見ても機嫌が良さそうに映るだろう。だがその背後には、私の答え次第ではどうなるかすらわからないような強大な力が蠢いているような気がしてならない。…あれだけの顔触れが一瞬にして消されたのだ。私だけならば、片手で一捻り、といったところだろう。
紫は霊夢の側を通り、浮いたまま私の所まで近づいてくる。そして、手を伸ばせば触れられる程の距離に止まり、その場にぴたりと静止した。
「…答えは?」
「……幻想郷」
そこまで言ったところで紫は私をひっぱたき、そのせいで私の返答は遮られた。突然のことに、私は足の力が抜けて地べたに座り込んでしまう。それでも左の頬から発せられる痛みは引くこともなく、むしろ段々と酷くなっているようにも感じる。それでも私は紫から目線を外すことが出来ずに、ずっと紫を見つめていた。
紫の形相から、私の答えは紫が求めたものと違うということを悟ることが出来た。鬼面のような、見るだけで畏縮してしまう表情。…もしかしたら、私の答えは絶対に言ってはいけない答えだったのかもしれない。そう決めつける根拠も無いが、紫の表情からはそうとしか考えることしか出来ない。
そんな恐ろしい表情を浮かべる紫にただ一つ、他とは異なる部分があった。…涙である。
紫は泣いていた。嗚咽を上げる訳でも叫び散らしている訳でもないが、静かに、本当に静かに涙が頬を伝い、襟元が微かに滲んでいる。…いつも余裕綽々に、怪しげな笑みを浮かべる紫が泣いているのを、私は初めて見た。その涙は透き通っており、他の生物が流すそれと何ら変わらない。果たして、その涙が示すものは悲しみなのか、怒りなのかそれとも…。そんなことを考えている内に、紫の表情は鬼面ではなくなり、穏やかなものになっていった。それでも唇だけは真一文字に結ばれており、けっして私が許されていないことがわかる。
何もかもが音を出してはならないような張り詰めた沈黙の後、紫はおもむろに唇を開いた。
「……あの子を救えるのはあなただけなのに…!
あなたの口からだけは、そんな言葉を言っては駄目なのに…」
“とん”と、私は紫に押された。膝をついていた上に足に力が入らず、私はされるがままに後ろに倒れる。だが、倒れ込めるはずの地面が私の後ろにはなく、代わりに開かれた紫の境界が大きな口を開いていた。境界の中に延々と落ち続けていく私。遠ざかり、段々と小さくなっていく紫の姿が、何故かとても印象的だった。
境界の奥に落ちていくにつれ、徐々に瞼が重たくなってきた。開けていたからといって何かが見える訳ではないので別に問題はないのだが、それでも不測の事態に備えて、視覚だけでも確保しておきたい。だが無情にも私の瞼は重力に逆らうことは叶わず、完全に視界は潰れてしまった。遮られる視覚。それとは裏腹に、私の脳裏には鮮明な画像が映し出された。
…どうやら、博麗神社のようである。見慣れた境内や賽銭箱が、いつもと同じように佇んでいる。何もかもが私の知る博麗神社と違い無く、自身が今、博麗神社にいるような錯覚さえ覚えてしまう。
ただ、私が知る博麗神社とは違う点が一つだけある。それは、巫女装束に袖を通す少女が、霊夢よりも一回りも二回りも小さいと言うことだった。…ただ、その小さい巫女は、私の知る最も小さい時の霊夢にそっくりだった。
『初めて見る人ね。あなた、お名前は?』
小さい巫女は、私に向かってそう訪ねてきた。だが、私は動くことは出来ない。言葉を発するどころか、金縛りにあったかのように指一本動かすことは出来ない。それなのに、小さい巫女は満足したかのように頷き、再び話し出す。
『ふぅん。あなた、魔理沙って言うのね。
私は霊夢。ここの博麗神社の巫女なの。これからよろしくね、魔理沙』
あどけなさが抜けていない小さな巫女は、その見掛けに反し、はっきりとした口調で話している。その中で、小さな巫女は自らを霊夢だと名乗った。
…確か、そうだった。私が初めて神社に行った時、話しかけてくれたのは霊夢だった。今では微かにしか思い出せない程昔のことだが、何とかそれくらいなら覚えている。
『…ごめんね魔理沙、折角来てくれたのに』
場面が飛んだ。場所こそは変わって無いが、明らかに霊夢の態度が変わっていることから考えると、また別の日に私が博麗神社に訪れた時のことだろうか。だが、相も変わらず私の体は言うことを聞かず、私は動けないままだ。
『今日は里から依頼があって、妖怪退治に行かなくちゃならないの』
そう言うと霊夢は、ふわりと浮き上がって裏にある山へと消えて行った。それなのに数瞬後にはまた、目の前に博麗霊夢がいる。
『魔理沙…あなた、無理してるでしょ』
両手にお茶を持ち、縁側に座る霊夢がそう呟いた。
『魔理沙は魔理沙を演じなくても、どうなったって魔理沙なのよ。もっと素をだしても大丈夫だと思うけれど?』
…これは、私の記憶に眠る霊夢なのだろうか。霊夢が話し終わる度に場面が変わり、別の事柄を霊夢が話している。いつのまにか、私はその脳裏に浮かんでは消えていく映像にのめり込んでいた。
『今日は冥界に用があるの。どうにも結界が緩んでいるらしくて…。…結界の管理も、博麗の巫女の役目だから』
『…あんたねぇ、吹き飛ばすんなら山じゃなくて、自分の家を吹き飛ばしなさいな』
『ごめんね、今日も妖怪退治なの。お茶なら勝手に飲んでもいいから』
『…。何か、嫌な予感がするの。ごめん、お茶の途中だけど、ちょっと見てくるわ』
『紫が言うにはさ、私がちゃんと結界を管理しないと幻想郷がなくなってしまうんだって。自分はただ寝てるだけの癖にさ』
『次に私のお饅頭に手を出したら、結界に閉じこめてやるんだから!』
『…大丈夫よ、これくらいの傷。唾つけときゃ治るわ』
『月の所為かわからないけど、最近妖怪たちが騒がしいの。騒がしい所は叩いて回ってるんだけど…。…気が抜けないわ』
他にも数え切れない程の映像が流れた。終始、私は動くことも話すことも出来なかったが、思考だけは止まることは無かった。
映像は後になればなる程、霊夢が結界や妖怪退治などの、幻想郷に関わる仕事をすることが増え、最後にはほとんどがそれに関するものとなっていた。
…霊夢が、こんなにも幻想郷の為に動いていたとは、夢にも思わなかった。その時その時に聞くだけならば感じなかったが、こうしてまとめて見てみると、いかに霊夢が幻想郷を守ってきたのかがよくわかる。相手が妖怪であれ幽霊あれ、はたまた鬼であれ人であれ、異変を起こす者に一人立ち向かってきた霊夢。いくら幻想郷が狭いとはいえ、その全域で起こる異変の数は、微々たるものまで含めれば相当の数になることだろう。
…また、場面が変わった。今度は霊夢が飛び去ろうとしている訳ではない。だがその表情は暗く、どこかやつれているようにさえ見える。
『ねぇ…
なんで、私は博麗の巫女なの? なんで、異変が起きたら私が解決しなくちゃならないの?』
『……少し前にさ、なんで私が博麗の巫女なのかって言ったことあったじゃない?
…あれ、忘れて頂戴な。いかに私が言い訳しようとも、私が博麗の巫女であることは変わらないんだから。それだったら、むしろ諦めて受け止める方がずっと楽だわ』
その映像が最後だったらしく次の場面が浮かぶことはなかった。映像がなくなり、辺りは闇に閉ざされた。
…どれだけ思いだそうとしても、最後の二つの記憶だけはどうしても思い出すことが出来ない。正確に言えば、他の記憶もはっきりとしたものではないのだが、最後の記憶だけは、絶対に知らないと断言することが出来る。
…けして断言したい訳ではない。だが、断言出来てしまうのだ。……何故なら、私が霊夢に頼られたことがないからだ。
頼られたことがないと言っても、お使いとか宴会の準備とか、そんな野暮用のようなことなら受けたことは何度もある。だが、異変に関することやさっきの映像のようなことを相談されたことは、一度たりともない。
…私の目に映る霊夢は、全てにおいて他の者を凌駕するような存在であり、弱音など吐きもしないような、そんな性格の奴だった。弾幕勝負はもちろん、家事や時には喧嘩の仲裁役などにまで名乗り出る霊夢は、全てにおいて私の目指す目標ともなっているのかもしれない。
弾幕勝負の戦法一つ取っても、私が何か新しい方法を思いつく度に挑んでみてはいるのだが、未だに一度も勝てた試しはない。幾度か追い詰めたことはあったが、その戦法も二度目には通じず、逆に私が追い込まれるのもしばしばだった。…そんな霊夢に、私は憧れすら抱いていたもしれない。
…だが、霊夢は私が思っていた程、強くは無いのだろうか。あの映像を見る限り、霊夢は博麗の巫女であることに疲れている様子だった。“やめたい”とまで言っているのだから、よっぽどのことなのだと思う。それなのに私はそれに気付くどころか、手伝いすらせずに傍観していただけだなんて…最低な奴だ。
……少し前から、私の中にある何かが、やかましく感じる程の大声で何かを叫んでいる。…わかったから。私もやっと、気付くことが出来たから。
霊夢を助ける理由を、“幻想郷を守る為”としてはいけないということに。
私が霊夢を助けることには何の問題もない。だが、理由がそれだと、霊夢は助けられた後に再び幻想郷を守る博麗の巫女の任につかなければならないのだ。それは、霊夢にとって辛いことでしかない。彼女からしてみれば幻想郷を守り、管理して欲しいから助けられた、と解釈してもおかしくないだろう。言い換えれば、霊夢は幻想郷を守る為だけに生かされた存在だと言っていることに他ならない。つまり私が用意した答えは、表向きは霊夢を助けているように見えて、実のところ追い込んでいるだけにすぎない。
それならば、私が用意すべき答えは一体どんなものなのだろう。…そもそも、霊夢を助けることに理由などいるのだろうか。幻想郷云々言わずとも、友達だから、という理由だけで十分なのではないだろうか。
これが見ず知らずの他人ならば私が助ける義理もないし、放っておいても問題はないだろう。自然の摂理で、人間は妖怪に食われるものと決まっているからだ。ただ、それが知人ならば話は別であり、“自分の身を挺してでも助けたい”と思っても不思議ではない。それが自分にとって大事な人ならば、尚更だ。
…もしも、私が霊夢を助けることがもう決まっている運命なのだとしたら。
私がその運命を全うするのには、なんの理由もいらないはずだ。もし、その運命についてくる結果が望ましくないのなら、運命を全うした後で結果を変えてやればいい。今から起こる運命とその結末は、必ずしも同じではないのだ。結末は必ず運命の延長線上にある。それは変えることは出来ない。だが、その延長線を意図して曲げることは出来るはずだ。
なら、紫の投げかけてきた質問に対する答えは、本当に単純なもので良い。その理由がどんなものでさえ、霊夢を助けた後に彼女が辛くなることは決まっていることなのだから。それならば助ける理由なんかより、助けた後の方が余程大事である。だから、助ける理由は“友達だから”くらいが丁度良い。
ふっと、瞼が開くのを感じた。自分で開いた訳ではないが、まるで朝が来て眠りから目覚めたかのように、自然に開いた。
見えたのは、木造の天井だった。見たところかなりの古さのようだが、何故かどこにも傷んだ箇所はなく、どこか真新しさまで感じさせる。
私は部屋の中央に寝かされているようだった。そこまで大きくはない部屋で、戸は障子張りである。箪笥や机などの家具は置かれてはいたが、小物などの生活用品が無いことから、ここは客人用の部屋なのだろうか。
ただ、部屋には私一人きりという訳ではなかった。寝たまま視野を横にずらした際に、視界に飛び込んできたものがあったからだ。
それは壁に縋るようにして座っていた。どこぞやの制服のような出立ちで、長い兎耳が頭部から垂れている。日頃は元気に立っているのだが、今は主人がうなだれているせいか、力なく重力に従っていた。
彼女の名は鈴仙・優曇華院・イナバ。非常に長ったらしく、覚えにくい名前の持ち主である。彼女が住むのは永遠亭と呼ばれる場所で、鈴仙は幻想郷の唯一の医者である、八意永琳の弟子であるはずだ。…彼女がいるということは、ここは永遠亭なのだろうか。
「…鈴仙?」
気持ちよさそうに寝息を立てる鈴仙を起こすのは気が引けたが、こちらの現状を把握するためには起こすしか方法はないだろう。下手に動いて不法侵入扱いされるのも嫌だし、何より体が鉛のように重く、許されるならば極力動きたくはなかった。
「…おーい……」
ぴくりと長い耳が動いたかと思いきや、垂れていた耳が上向き始め、数秒としない内に鈴仙は顔を上げた。
「…ん、あぁ…
やっと、目が覚めたの?」
「やっと?
一体、今はいつなんだ?」
「…さぁ、わからないわ。
私もどうやら寝てたみたいだし。
あなたが起きたら知らせるように師匠に言われているから、ちょっと待ってて」
鈴仙はそう言うなり、すっと立ち上がって部屋を出て行った。
…私は何故こんな所にいるのだろうか。私にある最後の記憶は白玉楼だったはず。それなのに永遠亭らしき所にいるとは、どういうことなのだろうか。紫に隙間に落とされて、ここまで運ばれたのか?
それに、一体私はどれくらいの間寝ていたのだろうか。私自身に寝ていたという感覚はないが、鈴仙の態度から考えても寝ていたとするのが妥当だろう。
そわそわと、永琳が来るのを待つ。このまま部屋を抜け出して冥界に向かっても良いが、出来れば今の状況を把握しておきたい。今がいつで、ここがどこで、私がなぜここにいるのか。それがわかるだけでも、大分行動しやすくなるだろう。
そこまで急がずとも霊夢を助ける時間制限は無い為に、手遅れになるということはないだろう。だが、それでも私は一刻も早く霊夢の所へと戻らなければならない、という焦燥感に襲われていた。
「目覚めたそうね」
障子が開き、永琳が部屋に入ってきた。彼女はいつも通り、紅と紺が格子状に分かれたような独特な服を着て、長い銀髪を三つ編みに束ねている。その手には盆が持たれ、その中央には何か液体の入った小瓶が乗せられていた。
「具合はいかが?」
「特に悪いところもないが…体が重いな」
「なら、これを飲んで行きなさいな。栄養剤だけど、馬鹿に効くから」
永琳は持ってきた小瓶を私に勧めてきた。重い体を何とか奮い立たせ、体勢を持ち上げて小瓶を手にとってみるが…。何とも怪しい。永琳は薬学に詳しく、どんな薬でさえも作ってしまうらしい。それに関する黒い噂も二三耳にするために、どうしても疑ってしまう。そんな私を見兼ねてか、永琳は微笑みながら“毒じゃないわよ”と付け足した。
「………不味い」
「良薬、口に苦し」
どうにでもなれ、と一気に飲み干したが、その薬はあまりにも不味い。苦いわ甘いわでおまけに臭い。いくら良薬と言われても、正直辛いものがある。
ただ、栄養剤で馬鹿に効くと言うのは本当らしい。鉛のように重たかった体が、薬を飲んだ瞬間から、体の中心から手足にかけて、すーっと軽くなっていく。
「あなた、また紫の所に行くんでしょう?」
“診察”と称しておでこやらをぺたぺたと触られながら、そんなことを聞かれる。その言い草からして、永琳は私がここに来るまでに何をしていたのかをどうやら知っているようだった。
「あぁ、そのつもりだ。
…何故、その話を知っているんだ?」
「紫本人から直接聞いたのよ。だって、眠ってるあなたを私の目の前にいきなり隙間から落とすんですもの。そりゃあ、何があったのかくらいは尋ねるわよ」
やはり、紫がここまで運んだのか…。私を思いっきり張り倒した割に、その後の対応はかなり優しい。
「…私がここについてから、どれくらい経ったんだ?」
「そうね。大体半日くらいかしら。今は丁度、日没くらいかしらね」
「…そうか。
この薬とか、お代はいるのか?」
「お代は紫から受け取っているわ。だから大丈夫よ。
それと一つ、紫から伝言があるわ。
“次が最後よ”ですって」
私は永琳に礼を言った後、永遠亭から冥界に向けて飛んだ。ご丁寧にも紫は箒まで届けてくれていたし、永琳の薬のおかげで体も思い通りに動く。沈みゆく夕日を横目に見ながら、私は冥界へと急いだ。
“次が最後”と警告してくれることはありがたいが、その“次”という言葉がいつまで有効なのかはわからないだけに、結局急がなければいけないことに変わりはない。
だが、突如として私の目の前を塞ぐ陰が現れる。
…何故、私はこんな低空を飛んでいたんだろう。もっと高い所を飛んでいたのなら、こいつには会わずに済んだだろうに。
「まりさ! ここをとおりたければ、あたいとだんまくごっこしなさい! もしもあんたがかったら、ここをとおしてやるわ!」
…チルノだ。こいつは氷の妖精で、至る所に出現する。妖精らしく羽が生えていて、頭についている大きなリボンが特徴的だ。仲良しなのか、いつも大妖精と一緒に行動しているが、今日もご多分に漏れず、大妖精はチルノの後ろに隠れるようにしてついて来ていた。
「チルノちゃん、やめなよぉ…
魔理沙になんか、かないっこないよぉ…」
「だいようせいちゃんはだまってて! これはあたいとまりさのたたかいなんだから!
きょうこそまりさにかって、あたいがさいきょうってことをしょうめいしてやるんだから!」
妖精は、基本的に頭が弱い。端的に言うと馬鹿である。大妖精はそんな妖精の中でも常識を持っているのだが、チルノは妖精の中でも取り分けて頭が残念である。私に何度負けようとも今みたいにめげずに挑んでくるし、負けても負けたことを認めようとしない。…良く言えば、絶対的なポジティブ思考の奴である。
このまま、チルノを置き去りにして冥界に向かっても良かった。移動速度は私の方が速いし、例えチルノがスペルカードを発動させたとしても避けきる自信はある。
……だが、私は一つのことが気になってしまった。
“もし、チルノが私と同じ境遇に立たされたなら、どんな答えを導き出すのか”
この異変について、今までに私が相談してきたのは、幻想郷でもかなりの知識を持つ部類に入る人ばかりである。私が悩んできた問いを出したのも、幻想郷の古参である紫だ。そんな奴らが集まって出る答えなんて、大抵底が知れている。
“如何にして自分たちの被害と労力を最低限に抑え、如何にして波紋を立てないようにするか”
その考え方は、間違ってはいない。むしろ、集団で人が共に生活をしていくのならば、必ず必要となる思想である。手足がなくなろうとも本体は生かす。種族を守る為のその思考が、ある種の常識となっていることは否めない。
だが、おおよそチルノはこの常識は有していない。それならば、私が初めに出した答えとは違ったものが返ってくるに違いない。何せ、常識が通用しないのだから。…だからこそ、周りに流されずに、真実を見抜いているのかもしれない
「なぁ、チルノ?」
「なによ?」
「お前の一番大事な人って、誰だ?」
「そりゃあ、だいようせいちゃんよ!
あたりまえじゃない!」
その言葉に、後ろの方にいた大妖精から湯気が上がる。
「ならさ、その大妖精を私が連れ去ったら、どうする?」
私がそう言うと、チルノは勢い良く後ろを振り向いた。だが、すぐに体勢をこちらに戻し、“大妖精ちゃんならそこにいるじゃない”と首を傾げる。
私が“もしもそうなってしまったら、っていう話”と付け加えると、チルノは迷う素振りも見せずに即答した。
“助けるに決まってるじゃない”
と。
「…何で、助けるんだ?」
「ともだちだからにきまってるじゃない。あんた、ばかじゃないの?」
チルノにそう言われた瞬間、私は我慢できずに大声で笑った。納得出来るとか出来ないとか、そんな程度の問題じゃない。妖精ですら解るこの問題に、長い時間をかけて悩み、間違え、そして最終的に妖精と同じ答えに行き着いた自分が、堪らなくおかしかった。
…すまない、霊夢。私は自分に浸りすぎて、現実が見えなかった。幻想郷の異変を解決するのは霊夢しかいない。それが霊夢の仕事であり、霊夢にしか出来ないことなのだから。それを私が代行しようなど、そもそもが間違いだった。
私は、霊夢のことを友達だと思っている。向こうがどう思っているのかはわからないが、アリスやパチュリーとはまた違った、掛け替えのない友達、いや、親友だと思っている。
だから、助ける。今まで通りの関係に戻るとは限らない。もしかしたら、巫女を、言ってしまえば人間を辞めたがっている霊夢からその機会を奪ってしまった私は、霊夢と絶縁のような関係になってしまうかもしれない。それでも、私は助ける。親友として、正しいと思うことをする。きっと、あいつも許してくれるだろう。
もしも霊夢とこのまま関係が続くのならば、助けた後も助けていきたい。霊夢が仕事に疲れたというのなら、全てを変わることは出来なくとも手伝いくらいは私にも出来る。異変は解決出来ずとも、元凶となるものを退治することなら、出来る。結末は同じでも、見方を変えればそれは全く違うことなのだ。
だから、私は今から霊夢を助けにいく。紫に隙間送りにされる前と、やっていることはあまり変わらない。違いといえば、後ろに協力者がいたかどうかくらいだ。
やっていることが同じなのだから、導かれる結果も同じになるかもしれない。それでも、目的は違う。今回は幻想郷の為なんかじゃない。私にとって、この霧雨魔理沙にとって大切な、大切な親友を取り返しに行く。この気持ちだけは、何があってももう、手放さない。
何故か視界がぼやけて、前にいるはずのチルノが鮮明に見えない。私はさっきまで笑っていたはずなのに、いつの間にか笑いも収まっていた。袖で顔を拭うと、黒い色の袖は何かの液体を含み、溶けそうなほど深い漆黒へと変わっている。
「…ありがとうな、チルノ。
今日のところは、お前の勝ちで良いぜ」
少し前に出て、わしわしとチルノの頭を撫でる。氷のように透き通る髪が揺れる度に、ひんやりとした空気が辺りに零れた。
チルノも大妖精も、ぽかんとした表情のまま、私の顔を見つめている。…確かに、私が人前でこんな表情をするのは初めてのことだろうから、そんな顔になるのも不思議ではない。
「…私は馬鹿だからな。
自分の答えが正しいかは、自分一人じゃ決められないんだ」
チルノを撫でていた手を止めて、私は再び前進を始めた。もう、迷うことはない。強い戦力がなくとも、万人が納得する理由が無くとも、私はもう、迷わない。
「どこに…行くの?」
「ちょっとな。親友を助けに行ってくる」
私に出来る最大限の笑みを投げかけて、私は速度を上げた。一度だけ、後ろを振りまいたがチルノがついて来ることは、なかった。