第7話 不穏
「懲りずにまた来たのか、魔理沙」
いつもと変わらない位置に立ち、いつも通り変わらない仁王立ちの姿勢で腕を組んだポーズの美鈴が、いつもよりも輪をかけて凄んだ様子でこちらに話しかけてくる。普段ならば美鈴がどんな様子であろうと“ノック代わり”にからかうのだが、今は一刻を争う上にそんなからかうような気分ですらない。出来ればなるべく関わらないようにして紅魔館に入りたい…が、そんな私の気持ちを逆行するかのように、今日は美鈴が積極的に話しかけてくる。…何で今日という日に限って、そうなってしまうのだろう。
「私はな、この間の失敗を生かして……」
「…一体、どんなことをしたんだ?」
どうやら美鈴は、自分がお勉強したことを私に見せたいらしい。正直面倒臭いが、無視するよりも適当に聞き流した方が楽だろうと判断し、適当に相槌を打つことにした。
その時に私が出した声は自分ですら驚くほど低く、唸るような声で、あからさまに相手を威嚇しているようだった。…あぁ、こんな声を出したりしたら、私は嫌われてしまうかもしれない。…そうは思っても、いつも通りの明るい声はどうやら博麗神社に置き去りにしてきてしまったようだった。ただ、美鈴は鈍いのか気にしてないのか、特に今までと変わらない様子で続きを話し始める。
「あれだけ鍵があったから魔理沙が追えなかったということを踏まえ、今回は全ての鍵を開けておいたんだ! これで、例え空を飛んで敷地内に入ったとしてもすぐに追うことが出来る!」
「…なら、鍵もかかってないことだし、お邪魔するぜ…?」
目をきらきらと輝かせて熱く語る美鈴を脇目に、私は紅魔館の門を開き、中に入った。正直、おめでたい美鈴に付き合っている時間も精神力も、今の私には残っていない。
しかし、美鈴からしてみれば何の反応も無く私が門を開いたのは想定外の出来事らしい。言うなれば、“隙を突かれた”と言ったところだろうか。そんなことは、私からしてみれば本意ではないのだが、そのせいか美鈴が私の行動に適応したのは私が門をくぐり、紅魔館の庭へ数歩立ち入った時だった。美鈴は鬱陶しく思う程の騒音を立てながら門を開いたかと思うと、私の肩を乱暴に掴み、これ以上私が奥に進むことを拒む。
「誰が勝手に入っ…て……」
声を荒げ、威勢も良かった美鈴の言葉は尻すぼみになり、力強かった目は、見る見る内に畏怖の気が差す。私の肩から手を離し数歩下がった彼女は、心なしか涙目になっている気もする。
…おおよそ、彼女は私に圧倒されてしまったのだろう。鏡で見ている訳ではないから細かくはわからないが、私は日頃から今のような目つきはしていないだろうし、もっと明るい雰囲気を出しているに違いない。それがいつもと違うのだから、ましてや怒っているように見えるのだろうから、彼女から見れば、今の現状は余程の異常事態となっているのだろう。……ただ、今の私は他人を一瞬で涙目にさせるくらい、怖い表情をしているのだろうか…。
「魔理沙様」
私が美鈴から目を離し、改めて紅魔館を目指し歩き始めたところで、紅魔館の扉が静かに開いた。そこから現れたのは咲夜であり、私の名を読んだのも彼女である。だが、その呼び方は嫌に仰々しく、いかにも客を迎えるようなそんな言い方だった。咲夜は日頃でも口調を崩す奴ではないが、ここまで堅い言い方をするのも珍しい気がする。
「お嬢様がお呼びです。ご案内致します。
…それと美鈴、あなたも来なさい」
…どうやらこれが、咲夜の仕事をしている時の態度らしい。仕事をしているというよりは、レミリア直々の命令とあって緊張していると考えた方が自然なのだろうか。それならば、咲夜がそんな態度になるのも頷けるかもしれない。
それにしても、レミリアが私を呼ぶなど、珍しいこともあるものだ。レミリアに用があった私としては好都合と言えば好都合だが、何か裏がありそうな気がしてならない。それに、美鈴まで呼ばれる意味もわからない。彼女は万年門番をしているために、私事以外では滅多なことでは紅魔館に入ることはないらしい。…どうにも、怪しい。
それに、何故咲夜は私が今日ここに来ることを知っていたのだろうか。…いや、レミリアからの指示と言うことは、レミリア自身が私が来ると言うことを知っていた…? パチュリーが私の来る周期を読み、仲の良いレミリアに伝えたのだろうか? …わからないことだらけだ。
長く、広い廊下に三人分の足音が木霊する。赤い絨毯が全面に敷かれているために音量は大分軽減されてはいるものの、それでも会話すらない静かな状況ではその音がやけに大きく聞こえるものだ。
先を歩く咲夜は、背筋も伸びていていつも通りの様子に見える。私はずっと後ろをついて行くだけで咲夜の顔までは見えないが、きっと仕事中の彼女の顔は無表情に違いない。
ちらりと、後ろを歩く美鈴に目を遣る。こちらは咲夜とは違って背筋を曲げ、少ししょんぼりしたような感じで歩いている。…余程私が怖かったのだろうか。それとも、咲夜の態度が冷たいのが嫌なのだろうか。
「こちらです」
立ち止まった咲夜の前には、紅魔館の中でも特に大きい扉があった。木で作られた立派な扉で、凝った装飾が隅々まで施されている。芸術的過ぎてよくわからないが、モチーフは蝙蝠だろうか。
その扉に咲夜がノックをし、私が来たことを伝える。中からは僅かに返事が聞こえ、その声は私たちの入室を促していた。
まず初めに咲夜が扉を開ける。その扉は押し戸だったが、咲夜が中で支えて、私が入室するのを待っているようだった。私はここまで畏まったような雰囲気は好きではないのだが、正式に主が客を出迎える時にはこんなものなのだと自分に言い聞かせ、私は部屋へと入った。
「…遅かったわね」
部屋の中央にある大きな椅子に、明らかに不釣り合いな程小さな少女が、堂々と足を組み頬杖をつきながら私を出迎える。
彼女の名はレミリア・スカーレット。この紅魔館の主である。身長は低く、容姿はあからさまに幼女であるが歴とした吸血鬼であり、口元に見える発達した犬歯が印象的である。あまり話したことはないが非常に勝ち気で、私からしてみればあまり良い印象ではない。
「私に用事とは珍しいな、レミリア」
「あなたこそ私を頼って紅魔館に来るなんて、珍しいわね」
…確か、彼女の能力は運命を操るというもの。果たしてその能力によってどんなことが出来るのかはわからないが、もしかしたら他人の今からやろうとしていることが、レミリアには見えているのかもしれない。だとすれば、私がここに来ることがわかっていたにも合点がいく。つまりは、私の行動はレミリアの知識の範疇だったということか…?
「…レミィ、魔理沙とのお喋りも良いけど、それよりも私までここに呼ぶなんて、一体今から何をするつもりなの?」
そう言ったのは、壁に寄りかかるように立っているパチュリーだ。およそ私が来る前からここにいるのだろうが、目立たない所にいたからか今まで気付かなかった。
「別に。
ただ、なんで魔理沙が何故ここに来たのかを聞こうと思って」
「……ちょっと待て。
私がここに来ることがわかっていたのに、何故来た理由がわからないんだ?」
「私の能力だと、あなたがいつここに来るかまではわかっても、何故来るかまではわからないのよ」
不適な笑みを浮かべるレミリアの言うことは、正直あまり信用は出来ない。だが、彼女の言うことが嘘だと言うことを証明することも私には出来ない。
それに何より、どこまでレミリアが事を理解しているかをこちらが把握していないより、時間はかかってもこちらから説明して同等の情報を共有する方が後々効率が良いだろう。
「………霊夢が、紫に連れ去られたんだ」
その言葉を受けてか、後ろの方で一瞬、息を飲む音が響いた。この部屋にいる顔触れから考えれば、その音の主因は美鈴だとは思うが、何分後ろの出来事故に、断定も出来ない。
「…それで?
一体私に何をして欲しいの?」
張り詰める空気の中、場違いとも取れる余裕めいた声色でレミリアが私の言葉を急かす。その余裕に多少腹も立つが、こちらも背に腹は変えられない現実がある。ここは耐えて、冷静に事を進めるべきだ。
「紫から霊夢を取り返す為に、力を貸して欲しい」
「…で、私は一体、何を協力したら良いのかしら?」
逐一、言い方がいやらしい。まるでこちらの神経を逆撫でしようとするような、そんな言い方だ。
それでも私は深呼吸を繰り返しながら、落ち着いて現状を伝えた。何度か質問はされたが特に語弊や誤解もなく、説明出来たと思う。
「…と言うことで、もしもスペルカード戦になった時の為に、待機しておいて欲しい」
「わかったわ。
紅魔館の主力全員で、補助に回りましょう。もちろん、私も、フランも一緒に」
「………!」
この言葉に驚いたのは、私だけではなかった。美鈴もパチュリーも、あの冷静沈着な咲夜ですら、目を大きく丸く見開きいて言葉を失っていた。
「…あら?
この答えじゃ不満かしら?」
ここに来て、初めてレミリアが不満そうな表情に変わる。どうやら、自分の返答によって全員が固まっていることが気にくわないらしい。
「いや、不満は無いんだが…。
正直、そんな答えが返ってくるとは夢にも思わなかった」
「……レミィ」
私の次に、この膠着状態から脱したのはパチュリーだった。他の者も膠着状態から脱してはいるようなのだが、動き出す前にこのよくわからない状況を何とか掴もうとして必死で、結局固まったままになっているらしい。
「いつもあなたは突飛でおかしなことを言うものだけど、今回もまた、何で協力しようと思ったの?」
パチュリーの言い方はどことなく面倒臭そうで、半ば呆れているようにも取れる。
「魔理沙について行かないと、私…いえ、私たち全員が後悔するからよ。私に見える運命には、そう書いてあるわ」
…運命、か。
もしも今の事態がその一言で片付けられるのなら、どんなに楽なことなのだろう。霊夢が連れ去られることも、レミリアが協力してくれるということも。初めから決まっていたことなのだとしたら、私はこんなに緊張しなくても良かったのだし、そもそも運命として未来のことが解るのなら、霊夢が連れ去られること、いや、幻想郷を揺るがす事変すらも、未然に防ぐことが出来るだろう。もし事変が起こってしまっても、その先の結末すら解るのだから対処法だって自ずと見えてくる。
…ただ、その運命が本当に起こるのかは疑問である。その時に予測した運命とは、誰しもがそのまま何もしなかった時に結果的に達する運命なだけであって、それを回避する術はいくつもあるからだ。…とはいえども、その術がわかるのは運命が起こった後のことであり、その術の全ては後悔に変わるのだが。
「…私は、嫌よ」
その言葉は本当にぽつりと、静かに呟かれた。それでもはっきりと、私の耳にはその意が伝わってくる。
「私は重度の喘息なのよ。聞けば場所は白玉楼って言うし、戦うどころか、戦力にすらならないと思うわ。それに…」
「パチェは、ここから出るのが怖いだけでしょう?」
パチュリーの言葉は余裕を取り戻したらしいレミリアによって遮られた。おまけにそれは図星であるらしく、パチュリーは俯いて押し黙ってしまった。
「大丈夫よ。
あなたがいかに全ての出来事を心配し、憂慮したところで、結果は何も変わらないわ。」
最後に“もう決まってしまった運命なのだから”と付け加え、レミリアは口を閉じた。それからは誰も喋ろうとも動こうともしない。ただひたすらに、時間だけか過ぎていく。それでも、部屋全体の目はただひたすらに、パチュリーの答えに注がれているようだった。
そうなっていることも、少し考えてみれば解ることだ。咲夜は完全で瀟洒なメイドとも呼ばれているし、主人の命令は絶対である。レミリアが協力すると言ったのだから、咲夜は反対することはないだろう。美鈴に関しては、少し可哀想ではあるが選択の余地無しに賛成することは決定しているのだと思う。紅魔館の住人の美鈴に対する態度を見る限り、彼女は反対出来る立場にはいないだろう。フランはレミリアの妹に当たる吸血鬼だが…。フランなら迷うことなくついてくるに違いない。フランは私が時々遊び相手になっているだけに、性格は重々承知しているつもりだ。
それともう一人、図書館に住む小悪魔も入るのかもしれないが、彼女はパチュリーと何らかの契約を交わしているのだろうから、パチュリーの意志に従うことだろう。つまり、反対派として残るのはパチュリーだけとなるのだ。となれば、今のこの状態も納得出来る。
「…パチュリー……」
パチュリーの顔を覗き込むようにしながら、私は彼女の名を呼んでみた。特に何の効果を求めた訳ではないが、もしかしたら少し急かしてしまったかもしれない。
「……あぁ、もう!!
わかったわよ! 行けば良いんでしょ! 行けば!」
…何だか、強制的に誘ってしまったようだが……。私としては心のどこかに引っかかるような結果なのだが、レミリアからしてみればその結果は満足のいくものらしい。今日会ってから一番とも思える笑みを浮かべている。
「なら魔理沙、フランを呼んできて頂戴。あの子は私が行くと嫌がるだろうし、何よりあなたが頼んできたんだから、それくらいは良いでしょう」
「…わかった。呼んでくるぜ」
「お嬢様、お言葉ですが」
私がレミリアの指示に従おうとした時、今までずっと黙っていた咲夜が異を唱えた。話が私にとって良い方に傾いているだけに、ここにきての反論は少し、辛い。
「魔理沙様に協力するまでは、幻想郷を救う事を含め納得することも出来ます。ですが、妹様を連れて行くことは危険すぎます。もしもこちらの意志に従わずに暴れられれば、それだけで幻想郷を揺るがす事変となることは免れないでしょう」
…咲夜らしい意見だ。
確かにフラン…。名をフランドール・スカーレットと言うが、彼女の能力は、あまりに危険すぎる為に咲夜の言うことは最もな意見である。フランの能力は、全ての物を破壊する能力。どんな原理かはわからないが、フランが壊そうと思ったのなら、どんな物でも壊すことが可能だろう。硬い石であろうと巨木であろうと、やろうと思えば幻想郷自体を壊すことも可能かもしれない。
そんな能力故に危険視され、フランはレミリアによってかなりの昔から地下室に幽閉されている。“幽閉”とはいうものの別に牢屋に入れられている訳ではなく、一人で生活するには広すぎる程の部屋に家具も充実しており、かなり豪華な生活をフランは送っている。また、私を含む数人はフランと遊ぶことを許可されており、時々顔を出しては弾幕勝負に勤しんでいる。レミリア曰く、こうしてやらないとフランのストレスが爆発しやすくなり、脱走回数が多くなるらしい。
まぁそんなこんなで、時々私が遊びに行ったり、極稀に脱走もするそうだが、結果的にフランは地下室以外の外の世界を全くと言って良い程知らない。つまり、彼女は物事の限界という常識をあまり持ち合わせていない。となれば暴走されれば、手当たり次第に全ての物を破壊していってもおかしくないのだ。それに、彼女の感情の浮き沈みが激しい性格から考えても、外に出て暴走する可能性は決して低くはないだろう。
「なら咲夜、一つ聞くのだけれど、私やパチュリーや魔理沙がついているのと、がら空きになった紅魔館にフランを一人残すのでは、どちらが危ないのかしら」
…これも、正論だ。フランに脱走という前科があるだけに、地下室に閉じこめられているからと安心する事は出来ない。というよりも、紅魔館に人がいないということにフランが気付けば、間違いなく脱走することだろう。どうやら咲夜もそう言われれば反論することは出来ないらしく、“申し訳ありませんでした”と一言残し、引き下がった。
「…なら、行ってくるぜ」
私はそう言うと、やけに重い扉を引いて開け、部屋の外へと出た。
アリスの家同様、紅魔館も家捜し済みだ。模様替えしていない限り、おおよその場所は把握している。それにフランのいる地下室は結界などの関係から移動することはまず、無い。
迷うこともなく、移動も箒に乗って行った為に、そんなに時間をかけずに地下室に着くことが出来た。鉄で出来た重々しい扉は、いつ来ても圧倒されてしまう。…よくフランは、こんなところで永遠にも近い時間を過ごすものだ。…それも、この地下室の世界しか知らないから出来るのだろうか…
私はノックも疎かに、軋む扉を力一杯押し開けた。フランが幽閉されているといっても、鍵がかかっている訳ではない。だが、吸血鬼はこの扉には触れることが出来ないらしい。触れたらどうなるのかはわからないが、レミリアはおろかあの奔放なフランですら触らないのだから、余程のことがあるのだろう。
「…魔理沙っ!?」
扉が開ききるかどうかのところで、私の腰辺りにフランが飛び込んでくる。姉であるレミリアも背は低いが、フランは更に一回りくらいは小さい。その為に、私に抱きついた場合はどうしても腰辺りにしがみつくような形になるのだ。
「今日も弾幕ごっこ!?」
そう言いながら私の顔を見上げてくるフランの目はとても純粋に見え、ここに来る度に私はこの笑顔に癒されている。だが、今日はこの笑顔に見とれている余裕は無い。早くフランをここから連れ出して、冥界に向かわなければ…
「いや、今日は弾幕ごっこをしに来た訳じゃないんだ。
ちょっとフランに頼みたいことがあってな」
「何!?
魔理沙の頼み事なら、私なんだってするよ?」
フランの笑顔が一層輝きを増し、嬉しさと期待に満ち溢れたような表情へと変わって行く。…確かに、私がここに来るときはいつも弾幕ごっこをしているのだから、彼女にとってこれは未知の領域であり、とても魅力的に映るのだろう。それに、フランは他人と会うことすら規制されているために、もしかしたら頼み事をされること自体が草々無いのかもしれない。それならば、この眩しいまでの笑顔も理解できる気がする。
「フランに頼みたいことはだな…。
今から行く所で、もしも弾幕ごっこが起こったのなら、私の味方になって欲しい」
「え〜?
結局弾幕ごっこするんじゃない」
…確かに。
「いやいやフラン、私なんかとの弾幕ごっこと同じにしてはいけないぜ?
なんといっても、何人もが入り乱れての弾幕ごっこだからな。規模が違うぜ」
私のその言葉でフランの顔から笑顔が消え、眉間に皺を寄せた、小難しい顔へと変化していく。どうやら、私の説明かややこしすぎたらしい。
…まぁ嘘も方便と言うし、少し話題を逸らすか…
「ん〜
なら一つ聞くが、フランは私と一緒に外に行きたくないのか?」
「……外!?」
どうやらフランには、弾幕ごっこという言葉よりも外という単語の方が魅力的らしい。眉間の皺なぞあっと言う間に消えていき、先程と負けず劣らずの眩しすぎる笑顔で私の顔を見上げてくる。
「なら決まりだな。行こうぜ」
私は手で扉を押さえて開いたままにし、フランが通れるようする。こうしてやればフランは外に出ることが出来るのだ。
…だが、フランの顔には若干の陰が差す。笑顔と言えば笑顔だが、何というか…まるで、何か嫌なことを思い出した時のような、そんな苦虫を噛み潰したような表情だ。
「…どうした?」
「……私がここから出たら、お姉様に怒られちゃう」
いつもなら、フランは姉を困らせようと躍起になる。言い直せば、躍起になるのは大概レミリアに構って欲しい時だ。
咲夜やパチュリーから聞いたフランの態度からして、フランはレミリアのことが好きなようである。私が推察するに、例え自分を幽閉している張本人であったとしても、唯一の姉であることには違いない、といった感じだろうか。それなのに、フランの口からそんな言葉が聞けることはない。常日頃から彼女の口から漏れるのは、姉に対する不平不満ばかりである。
だが、フランが話してくれる、自分の昔話に出てくるレミリアは、非の打ち所がない素晴らしい姉であることが多い。それらから考えるに、フランはレミリアに面と向かって“好き”と言うのが恥ずかしいのだろう。
そんなフランにとって、今の状況は本当に未知のものになるのかもしれない。おおよそ、自分が姉に構って欲しいから起こす脱走でもない。かと言って、いくら私が手引きしたとしても、悪いことには違いない。だが外には出たいという思いが葛藤しているのだろう。…この葛藤だけは、説明を怠った私に非がある。
「大丈夫だぜ、フラン。
今回はレミリアの許可も取ってある」
「………本当?」
「あぁ。もしも不安なら、今からレミリアに聞いてみたらいい。
まぁ聞かなくても今日は紅魔館のみんなで外に行くんだから、嫌でもわかるけどな」
その言葉に、フランの瞳に輝きが戻る。…輝きどころではない。まるで本物の星が目の中に入ってしまったのではないかと錯覚してしまうほどに、きらきらとした瞳を私に向けて続けている。
「みんなって…
お姉様も、咲夜も、パチュリーも美鈴も、みんな?」
「そう、みんなだ」
その瞬間、彼女は喜びを体全体で爆発させた。思いっ切り飛び跳ねたかと思えば、再度私の腰にしがみついてくる。
「…初めて、初めてなの!
今までずーっとここで過ごしてきたけど、みんなとお出かけするなんて、本当に初めて! ありがとう、魔理沙!」
…こうして見ると、本当に一人で寂しかったんだろうなぁ、と思う。人間の寿命を遥かに越える時間を一人で過ごして来たであろう彼女にとって、その嬉しさは何物にも代え難いことだろう。…例えそれがどれだけ辛く、楽しくないものであっても彼女から見れば本当に大切で、輝いた時間になるのかもしれない。
「ならフラン、行こうか」
「うん、魔理沙!」
私たちは、すぐにレミリアのいる部屋へと戻った。その頃には既に出発の準備も終わっているようで、特に何かを話すこともなくすぐに私たちは出発した。
出発する前にレミリアはフランに、逆にフランはレミリアに何かを言おうとしたようだが、二人とも言葉にする前に断念したようで、特に会話は起こらなかった。そんな中、仕事中にも関わらず楽しそうに微笑む咲夜が、何とも言えず印象的だった。
レミリアとフランは吸血鬼という理由で、太陽の光を嫌う。その為に咲夜が大きめの日傘を持ち、その陰に二人が入りながら移動することとなるため、速度としては少し遅い。だが、それも仕方がないことと思い直し、私は誘導するように最前を飛んだ。
「…さっきはふざけてしまって、すみませんでした」
美鈴だった。彼女はレミリアたちを守るために傘を差す咲夜の少し前を飛んでいたはずなのだが…。それに、話に主語が無く、一体なんの話なのかが全くわからない。そんな私が首を傾げると、美鈴は身振り手振りしながら必死にそのことを説明する。
どうやら彼女は、門の所での一件を気にしているようだった。私が置かれている立場を知り、例え自分がその時にそれを知らなかったとはいえ、自分の取った態度が不適切だったということを詫びているのだ。
「…いや、私もあの時はかなり気が立っていて…。すまなかった」
「誰でもあんな状況に立たされれば、気は立つものです。
…霊夢さん、無事に助かれば良いですね」
「…あぁ」
その後、美鈴は私に向かって軽く会釈をし、自分が元いた位置へと戻っていった。そのまま咲夜と何かを話していたようだが、私の所までは聞こえてこない。
美鈴は自分のしたことを後悔して私に謝りにきたのだが、私としても、先程のことを謝れて本当に良かったと思う。もしもこのまま謝れずじまいだったら、謝るには遅すぎるし恥ずかしいしで、私は延々と自己嫌悪に陥っていたに違いない。そう考えれば、美鈴が先に謝りにきてくれたことに感謝しなければならないだろう。…もしも私だけならば、結局は自己嫌悪に陥るだけで、自分から謝ると言うことは出来なかっただろうから。
暫く飛ぶ内に、アリスの住む魔法の森の上空に差し掛かった。こちらの戦力はレミリアに加えフランもいることで当初の予定を大幅に越えている。だが、相手が紫であることをを考えれば一人でも味方が多い方が心強い。
「すまないが、アリスに声をかけてくるから少し待っていてくれないか?」
私は風の音に負けないように、声を少し張り上げて今からの行動を伝える。
「わかったわ
待っているのも退屈だから早めにお願いね」
レミリアがそう言ったことを確認し、私は急降下するかのように魔法の森へと入った。
そもそも、この森は私が住居を構えている場所でもあるが為に、ここで私が迷子になることはまず無い。それに、アリスの家はしょっちゅう行っているのだから、目を瞑っていても行けるのでは? とも思ってしまう程だ。
いつも目印にしている、一際背の高い木の脇にある隙間から森に入ると、私は地面すれすれまで降下する。この場所からは既にアリス邸が見えており、後はそれを目指して飛ぶだけだ。途中にまだ若い木が数本ほど生えてはいるものの、避けることは容易い。あっと言う間に私はアリスの家の前にまで移動し、玄関の前に着地した。
二回ほど、少し強めにノックをする。だが、じっとりとした静寂が辺りを支配しているだけで、中からは何の反応もない。
ただ待つことも出来ず、もう一度さっきよりも強めにノックをした。…もしもこれで出なければ諦めてレミリアの所に戻ろう。そう思った矢先、中からくぐもった声が響き、ぱたぱたという足音が聞こえてきた。…良かった。どうにか気付いてもらえた。
「どうしたの?
魔理沙が普通にノックするなんて、風邪でも引いたの?」
中から現れたアリスは、とても不思議そうな表情を浮かべながらそう言った。…確かに、私がノックしかせずにアリスを呼ぶことはまず無い為、そう思われても仕方がないのかもしれない。
「……魔理沙?」
今まで、飽きるほど何度も話してきたはずのアリスなのに、何故か喉が張り付いてしまって声が出ない。ここに来た経緯は多々あるが、ただ“一緒に来てくれ”と一言言うだけなのに、この緊張ぶりはどういったことなのだろう。
だが、少しだけ思い返してみれば、紅魔館での私の落ち着き方の方が異常だった気もする。…気がするなんて程度のことじゃない。仲の良いアリスですら、言い方に戸惑いこんな状態になっているのだ。それが普段は話すことすらないレミリアの前で、あんなにすらすらと説明出来るはずはない。
あの時と今とで違うことといえば…。私が切り出すか相手が切り出すか、ということだろうか。紅魔館では、レミリアが切り出してくれた。色々と癪に障る言い方ではあったものの、もしもレミリアの誘導がなければ、私は紅魔館で今のような状態に陥って、固まってしまっていたに違いない。
しかし、アリスの場合はそれを期待することは出来ない。あれはレミリアの能力があってこそ出来た芸当であり、そんな先を読むような能力を持ち合わせていないアリスが私を誘導してくれるはずもないのだ。つまり、私が言うしか、手が残されていない。
…それに、相手を引っ張っていく性格は、私が演じている性格でもある。その私といつも接しているアリスが、私を誘導してくれるとは、申し訳無いがいささか考えづらい。
「…沙、魔理沙!!」
「………あ、あぁ…
悪い、少し考え事をしてた」
「本当に大丈夫なの?
少し顔色も悪いみたいだけど…」
「…頼みがあるんだ」
最初の言葉が出てしまえば、後は堰を切るように言葉が紡がれていき、特に詰まることもなく説明することが出来た。緊張こそしていたものの、やはり二回目の説明ともなると慣れて来るらしい。紅魔館の時よりも上手く説明出来た気がする。
私の説明を聞いたアリスは暫く俯いたまま考えていたようだったが、やがて顔を上げて私の方に向き直った。
「…なんで、戦うの?」
アリスから返ってきた答えは、私からすれば意外なものだった。私が勝手に想像していたのは、何の迷いもなく付いてくるか、もしくは頑として否定するかのどちらかだった。それがこんな形で聞き返されるとこちらが返答に困ってしまう。そんな私を後目に、アリスは更に言葉を続ける。
「別に霊夢が魔理沙に直接“助けてくれ”って言った訳じゃないんでしょ。確かに霊夢が危ないのは幻想郷の危機だと言うことはわかるけれども、それを魔理沙が解決する理由が見当たらないわ」
「いや…これを知っているのは私だけだから……」
「いえ、知っているのは魔理沙だけじゃないわ」
そう言い切るアリスの目には、迷いの色は見当たらない。この目をしている時のアリスは、自分の意見に絶対の自信を持つ時である。
「このことは八雲藍も西行寺幽々子も知っているはずでしょう。それなのに、その二人が八雲紫を止めていない。親しい関係にあるあの二人が止めたのなら、八雲紫もそこまでの強攻策は取れないでしょう。
それにそもそも、幻想郷を守る大結界にも一枚噛んでいるであろう八雲紫が、自ら幻想郷を危険に晒すようなことはしないはずよ」
…アリスが言いたいことは、わかる。これは私の考えた可能性の一つだが、例え私が白玉楼に行かずとも、紫が霊夢の命を取ることはないと思う。
あの二人は、仲が良い。
日常的に衝突することも多々あるようだが、私が見る限り、紫と霊夢の間にはかなりの信頼が築かれているように感じる。特に紫は、心を許している人間は霊夢しかいないのではないかとも思う程だ。霊夢にしてもそんな紫を鬱陶しく思っているようではあるが、けして追い払ったりはしない。“紫が神社に来た時はお茶をだして、適当にあしらって早めに帰ってもらうのよ”と霊夢が独り言のように言っていたのを、ふと思い出した。
…ただ、もしも紫が霊夢を殺さないとしても、私は白玉楼に行かなければならない気がする。この気持ちを使命感というのかはわからないが、行かなければ必ず後悔すると、心の中の自分が叫んでいるのだ。白玉楼に霊夢を助けに行くことが紫が仕組んだ罠であったとしても、冥界に乗り込むのが私一人であったとしても、私は行かなければならない。
…だから、少し酷い言い方になるのかもしれないが、来る気のないアリスを待つよりも私は一刻も早く冥界に向かいたかった。
「…なら、来てはくれないんだな?」
これが最終確認だ。この質問を肯定したと取れる返答をアリスがしたのならば、私は諦めて白玉楼を目指そう。
「白玉楼に行く意志に、変わりはないのね?」
「…あぁ」
「わかったわ。それなら私も魔理沙に協力する」
まるで、手のひらを返したような答えだった。もちろんその手はこちらにとって良い方向に返されたのだが、それでも今まで否定的だったアリスに意見をひっくり返されると不安に駆られるものだ。
“魔理沙が信じたことならば”
不思議がる私に向かって、彼女ははっきりとそう言った。その目には先程から変わらない確固たる自信を持った光が溢れていた。
紅魔館の面々に、アリス。当初私が予測した最大戦力を従えて私は白玉楼に向かって飛んでいる。面積的にそんなに大きくない幻想郷のことだ。もう数分飛べば冥界へと通じる結界の歪みが見えてくるはずだ。
そう思っていた矢先、私たちを驚かせるものが見えてきた。…普段よりも何倍も大きく開いた結界の歪みである。本来、この結界を弄ることが出来るのは博麗の巫女か、境界を操る紫くらいのものだ。それを考えるだけで、何とも言えぬ感情が私の心を支配し始める。…果たしてこれは紫の罠なのか、それとも霊夢の助けて欲しいという印なのだろうか。
予測通り、結界の歪みまでは数分とかからぬ内に到着した。その空間を仕切るものは特に無いためにそのまま通り抜けようと思ったのだが、私の目の端にある陰が過ぎる。目線を向ければ、それはひっそりと佇む人影だった。その人が気になり、私は箒の進む方向を変えてその人が佇んでいる場所へと向かった。
「どうしたんだ、妖夢。冥界に入る私たちを止めないのか?」
緑のふわりとしたワンピースを纏い、二振りの刀を背負う銀髪の少女。半人半霊である彼女の周りにはいつも等身大にもなる人魂が飛んでいる。そんな身形をした彼女、魂魄妖夢は幽霊管理人である幽々子の従者であり、白玉楼の庭師兼幽々子の剣の指南もしているらしい。非常に真面目な性格で、いつもであれば冥界に無断で入り込む輩を見つければ問答無用で即座に切りかかって来るはずなのだが、何故か今日は様子がおかしい。
「…魔理沙殿は、紫様と幽々子様から霊夢殿を取り返しに来られたのですか?」
今日の妖夢はいつもの覇気溢れる声ではなく、何とも自信のないような弱々しい声をしている。
「あぁ、一応そのつもりだ」
「後ろの方々を見る限り、力ずくになってでも霊夢様を取り戻されるおつもりですか?」
「……出来るだけの準備はしてきたつもりだ」
その私の返事に、妖夢は俯き黙ってしまった。ただ、体を少し揺らしながら口を動かしている様から、何かを言おうとしているのだとわかった。
暫くして言いたいことがまとまったのか、妖夢は顔を上げて私の顔を凝視する。その真っ直ぐに私を見続ける瞳には、若干の涙が溜まっているのが見えた。
「…お願いします。幽々子様を助けて下さい!」
頭を下げられ、そう言われても一体何故それを頼まれているのかがわからない。霊夢はともかく、幽々子を助けろとは一体どういったことなのだろうか…
「紫様が気を失った霊夢様を連れてこられてからすぐのことです。紫様は霊夢様を殺すという提案を幽々子様にされました。
幽々子様はその提案に反対でした。“幻想郷が壊れてしまう”と仰っておられたはずなのに…。それなのに、紫様に耳打ちされてからいきなり意見を変えられて、“白玉楼を貸しても良い”と仰られ、紫様に全面的に協力するとまで仰られました」
妖夢の瞳に溜まった涙は、静かに頬に線を残しながら流れた。言葉には少し嗚咽が交じり始め、頬も徐々に紅色に染まりつつある。
「…幽々子様は、紫様に操られているのだと思います。そうでなければ、幽々子様があんなことを承諾されるとは到底考えられません。
…どうにかならないものかと私も色々と試しましたが、幽々子様は“大丈夫よ”と言われるだけで、まともに取り合ってすら頂けませんでした。
…ですから、どうか……」
「…私に頼むと言うことは、幽々子を傷つけることにもなりかねないんだぜ?」
「……覚悟しております。
私も、…出来るだけの協力は致しますので」
そういう妖夢の表情は今にも泣き出しそうで、細く白い指が握りしめるワンピースには、深い皺が刻まれている。
…主人に従順である妖夢が、主人を危険に晒すようなことを人に頼むのは、かなり辛いものがあっただろう。辛いなんて程度ではない。どれだけ自分を責めても責めきれない程の責任を感じているに違いない。
「…わかった」
その一声だけを妖夢に残し、私は箒に乗った。今の彼女には慰めや励ましの言葉はむしろ逆効果だと思ったからだ。妖夢が断腸の思いで私に頼んだのだ。それ相応の態度で、私は答えなければならないだろう。
再び先頭に戻った私の後ろに、妖夢は静かに割り込んだ。…私に付いてくるということは主人を裏切るということにもなりかねない。それなのに、妖夢はその道を自ら選んだ。主人を助けるためにはこの方法しか残っていないという結論に達した結果なのだろうが、それはあまりにも酷な選択だったに違いない。私はただただ、妖夢にとって良い方向に話が進むことを祈ることしか出来なかった。
…ここまで人も集まったが、果たして、私がやろうとしていることが正しいのかは、わからない。ただ、ここまで来てしまった以上は自分を信じて進むしか残された道はない。
それなのに、何故か今日は自分を信じることが出来なかった。いつもなら、訝しがる自分を押さえつけてでも自分を鼓舞することが出来るのに…。ここまで自信が持てないのは、自分が正しいということを証明する根拠が乏しいからだろうか。それとも、先の予測が全く立たないことに恐れ慄いているのだろうか。…それは多分、誰にもわからない。
冥界にも入り、白玉楼ももう目と鼻の先の距離にまで近づいている。私は全ての出来事に備えて数回深呼吸をし、霞の向こうに僅かに見える白玉楼を睨み直すのだった。






