第一話 冒険者エマ 前
エマが冒険者になったのは、なぜ人々はこの世界樹の上で生活しているのか知りたいからだ。
そのためにもこの世界の秘密を、第一層と第十層を知る必要があると考えた。
元々、第六層に住む国民として、何不自由のない生活を過ごしてきた。学校にも通えたし、友達も大勢いた。将来の仕事はある程度自由に決めれる立場でもある。ただそんな生活に疑問があった。
冒険者でもあった学校の先生から、下の階層について少しだけ教えてもらったとき、その疑問は膨れ上がり、それと同時に下の階層への興味が膨れ上がった。
ただまだ、はっきりとその疑問を言葉にはできなかった。
そんな中、学校の先生が死んだ。
昔の仲間に誘われて、第九層へ挑戦し、帰らぬ人となったらしい。正確に言えば死体を確認したわけではないから、行方不明が正しいけども、冒険者にとってそれは死と同等のようなものだ。
エマはそんな学校の先生の死を見て、長年感じていた疑問が何なのか分かった。
ただその疑問は口にしてはいけないものだから、心の奥底にしまうことにした。
その日は魔が差したのだ。
第九層。
まだ三の数字しか与えられていない強いとも弱いともいえない冒険者であるエマはこの階層に来るべきではない。しかし未知を解明したい欲と、偶然見つけた入口で、思わず降りてしまった。
本来、食料の少ない中心部の魔獣のほうが体は小さくなる。現に、人が住む第七層と第六層で共存している魔獣はその傾向がある。
この事実を当てはめれば、そのほとんどが第八層と重なり、日が当たらない第九層に住む魔獣は体が小さいはずだ。
しかし、不思議なことに、第九層はその事実と異なる。第八層よりも恐ろしく巨大な魔獣が多く生息する。第十層はそのほとんどが未開拓だが、おそらく第九層と同じとされている。
第八層に住む魔獣程度ならば、並大抵の人でも勝つことができる。もちろん、いくつか例外はあるが、それでも決して勝てない相手ではない。勝てたからこそ、その全容を開拓できたのだから。
しかし、第九層は別だ。
「っ!」
エマはとっさに口に手を当てた。
目の前で巨大な蛇がうねりをあげた。
エマは知らないが、その巨大な蛇は業火蛇と名付けられている。決して珍しい魔獣ではない。むしろ第九層に降りるにあたって、最初の障害とも呼べるだろう。全長は実に百メートル近くにもなり、真っ赤な鱗と瞳が特徴の魔獣である。
エマは岩陰に隠れるようにして、その業火蛇がどこかへと去っていくのをただひたすらに待つ。呼吸音や服がかすれる音は極力出さないように注意する。
真っ赤な鱗が不気味な光を反射する。
業火蛇の顔が少しだけ見えた。もしも鉢合わせてしまったら並大抵の人は蛇に睨まれた蛙のように固まって動けなくなっただろう。その威圧、恐怖は生き物としての圧倒的な体格の差から生まれる。
人間がネズミに負けることはまずない。数百匹のネズミが相手ならば分からないかもしれないが、一対一で負けることはまずない。それはネズミがあまりにも小さいからだ。
業火蛇と人間には、人間とネズミほどの体格差がある。
人間がネズミにまず負けないように、業火蛇は人間にまず負けない。
しかし、偶然にも、業火蛇が他の蛇と異なることが幸いした。
業火蛇は熱ではなく頼りない視覚と聴覚で獲物を探す部類に入る。もしも熱を探知する器官があればエマは今すぐにでも見つかっていただろう。
しばらくして、業火蛇のしっぽが森の奥へと消えていく。それを見届けたエマは思わず長い深呼吸をした。
「聞いてない。聞いてないよ」
語られることの少ない第九層。その半分が開拓されたと言っても、そのほとんどの情報は世間に出回らない。なぜなら、開拓したのは国が認めた最高峰の冒険者グループであり、その情報は機密情報として扱われているからだ。
だから、ここは普通の冒険者なエマにとって知らない魔獣の住処である。
「帰ろう」
一人で来る場所ではなかった。
後悔の念が強い。
エマが降りてきた階層間の階段、その目印となる滝が近くに見える。世界樹の頂上から流れる川が作った濁った滝。その滝まで行けば、滝を囲むようにして伸びた世界樹の枝を上り、上へあがることができる。
真上に七キロ近く上がることになるけども、帰りと思えば苦ではないはずだ。
そう思いながら、立ち上がった時。
ふいに枝木が折られる音と地面が擦れる重い音がした。
それが、何か巨大な魔獣が歩み寄る音であることに気づいたとき、エマの表情は絶望へと変わった。
その音へと視線を動かす。きっと動かさないほうが幸せなだったと分かっていたけども、エマは反射的に動かしてしまった。
視線の先に見えるのは業火蛇の顔。口からはみ出た舌が、くねくねと喜びを表現している。
先ほどとは違う個体だ。二回りほど小さいが、それでも人にとって巨大であることに変わらない。
人など、業火蛇にとって一飲みするような食料である。
業火蛇がその口を開ける。真っ白な牙がいくつも見える。その奥は、どす黒い腹へとつながる。
「ひっ!」
逃げなくては。
そう思って、すぐに動けるほどエマの心は強くなく。先に来た絶望が、エマの体を硬直させてしまった。
その硬直に逆らえないまま、地面に尻もちをつく。
このまま何もできずに死んでしまうだろう。
このまま。
ギィーッ!
発声器官のない業火蛇は鳴き声を出すことはできない。だからそれは鳴き声ではなくどちらかというと、体が生んだ音である。
しかしエマはそれが業火蛇の悲鳴に聞こえた。
それと同時に、確かに見た。変な鎧を着た人間が業火蛇の顔付近の横腹にその巨大な大剣を振り下ろす光景を。
本来兜に空いているであろう穴が見当たらない。穴らしい穴が見当たらない錆びたような見た目の鎧。腰にいくつかの袋と、手には立派な大剣。
エマはその中身は人ではなく魔獣ではないかと思わず考えるほど、異質な恰好。
業火蛇が痛みから激しく悶える。傷口から大量の血が噴き出す。業火蛇はエマから変な鎧を着た人間へ顔を向けた。その巨大なあごで反撃を試みようとして。
そして止まった。
変な鎧を着た人間は業火蛇に向けて何かジェスチャーをしていたからだ。
手と腕で何か意味を作っている。
エマは意味は分からない。意味がないように見られる。しかし業火蛇はその意味を理解したのか口を閉じた。
「何が起きて」
一人の人間が業火蛇に大剣を振り下ろし傷を負わせた。そして、業火蛇と意思疎通を行い、業火蛇から戦意を喪失させた。
そんな風にしか見えない。
業火蛇は変な鎧を着た人間から逃げるようにして、どこかへと消えていく。
その光景を見届けたのち、変な鎧を着た人間はエマのほうへ歩み寄ってきた。
手を差し伸べてくる。起き上がるのを手伝いたいみたいだ。エマはその好意に甘えて、手を掴み起き上がった。
「ありがとう」
礼を述べると同時にふと思い出す。
冒険者組合の受付嬢をしている友人のリーリアが面白い話をしていたことを。
変な鎧を着た新しい冒険者の話。
確か名前は。
「ノロイさん、だっけ?」
エマがそう聞くと、変な鎧を着た人間、ノロイは大きく頷いて肯定した。
聞いた話では喋らないらしい。喋れないではなく喋らないが正しいと、リーリアが言っていた。というのも、一度だけ声を話したらしい。
その言葉を聞いた限りでは、この変な鎧はどうも呪われているらしく、だから脱ぎたくても脱げないとのこと。
「強いんだね」
エマがそう褒めると、ノロイは照れたように頭の後ろに手をやった。
ノロイはまだ冒険者として日が浅い。昇級試験も受けていないはずだ。だから数字としては最も低い1である。
だからと、数字の高い冒険者よりも弱いとは限らないことをエマは知っている。冒険者になったのが早いか遅いかの違いであり、実力の差は初めからついているものだ。
「本当にありがとう。あなたが来なかったら、多分私の人生は終わってた」
エマは再びそう言って、滝のほうへ視線を送る。
今回一命はとりとめたが、多分一人では生きて上へ戻れないだろう。
だからお願いする必要があった。
「その、お願いがあるのだけども、私にはこの階層はまだ早かったみたい。だから、入口まで護衛をお願いしても大丈夫?」
ノロイは大きく頷く。
「良かった。ありがとう」
安堵がエマの表情に現れる。先ほどまであった絶望はすでに消えていた。生きて町で戻ることができるからだ。
「金貨一枚で大丈夫?」
負傷などが理由で、冒険者が冒険先で出くわした他の冒険者に護衛を依頼することは珍しくない。相場は銀貨三枚ほど。金貨一枚は破格だ。
しかし、ノロイは首を横に振った。
「安い?」
そう聞くも、ノロイは再び首を横に振った。
安いわけではない、ならば高いのだろうか。
「高い?」
そう聞くも呪いはまた首を横に振った。
「いらないの?」
おそるおそる聞くと、ノロイは大きく首を縦に振った。
報酬がいらないなど、聞いたことがない。
法律が適用されない八層からは、人を殺したとしても、見殺しにしたとしても罪に問われない。違法な金銀の要求、あるいは体を要求したりしてもよい。それでもまだ治安が保たれているのは、冒険者の僅かな良心と、名声を得て認められたい人間が多いからだ。
そんな冒険者でも、報酬なしはまずしない。ただよりも怖いものはない。報酬を受け取らないは一見名声を得る上でこれ以上ない行為に見えるが、逆だ。人はそこに不信感を抱く。
だからしない。
しかし、目の前の冒険者はそれを望んでいる。
「本当に?」
エマが聞くと、ノロイはもちろんと言っているように、親指を立てて見せてくる。
「そう、ありがとう」
エマはノロイを見る。
本当にご厚意でしてくれるのだろうか。
それがエマには分からなかった。
少し休憩した後、エマはノロイとともに階層間の入口へと向かう。
決して長くない。短い距離だ。それでも魔獣に遭遇しないとは限らない。だけど、ノロイがすぐ傍にいるため、安心感がある帰り道だった。
巨大な草木の間を抜けて、なるべく音を出さず、隠れるようにして進む。
遠くで巨大な何かが動く音は聞こえるが、何とも遭遇することなく、しばらくして、エマたちは階層間の入口である枝にたどり着いた。
天に螺旋階段のように上る世界樹の枝。巨大な巨大な世界樹の一部分。
「ここまでで大丈夫。ありがとう」
とお礼を言うも、ノロイは首を横に振った。
指を天高くに向ける。
「まだ護衛を続けてくれるの?」
そう聞くと、ノロイは大きく頷く。
ここまでくれば危険はまずない。しかし、エマはご厚意に甘えることにした。
「それじゃあ、お願いします」
エマの言葉にノロイは嬉しそうに頷いた。
エマはノロイが悪い人には見えなかった。むしろ逆で、本当に優しい人なのだろう。先ほどまで疑っていた自分を殴りたい。
ノロイの手を借りながら、エマは世界樹の枝を上る。
そんな中。
「ねぇ」
エマはノロイに聞いた。
「ノロイさんは誰かとパーティーを組むつもりはないの?」
その問いかけにノロイは困ったように首を横に振った。
冒険者とは、エマのように未知の探求を目指してではなく、認められたくてなるものだ。パーティーを組むは、それを助長するものであり、大抵の冒険者はパーティーを組むことが多い。エマのように一人のほうが珍しい。
だから否定したということは、何か別の事情があるのかもしれない。
あるいは冒険者になりたくてなったわけでなく、だから冒険者に疎くて否定したか。
どちらにしても、聞いてみたいことがあった。
「私はね。第十層に行きたい。でも、多分、第十層に行きたい冒険者なんて、この世界に極僅かだと思う。みんな、有名になりたくて、冒険している。だから、もしも私と同じ志を持つ冒険者がいたら、私はその人とパーティーを組みたいと思う」
エマはつづけた。
「ねえ、ノロイさんはどうして冒険者になりたいと思ったの?」
その問いかけに、ノロイは困った様子を見せる。
聞いてはいけないことだったのだろう。そもそもこんなことを聞いても答えてくれないはずだ。今までずっと、ノロイは口を開いていない。エマはそう判断した。
だから、すぐになかったことにしようとすると。
「お恥ずかしながら、この呪いの装備を脱ぐ方法が分かると思いまして」
そうはきはきとした照れた声で、ノロイが答えた。
「喋ったっ!?」
エマはただただ驚愕の表情を浮かべた。