プロローグ
この世界は一つの巨大な世界樹の上で成り立っている。
世界樹から延びる枝に大地がつき、それが十の階層を作る。
人が上がることが許されない聖地、第一層から第三層。
人が住む第四層から第七層。
全容は把握されているが、人が住むのに適さない第八層。
半分近くが未開拓な第九層。
そのほとんどが未開拓な第十層。
中央の巨大な幹と幹から延びる枝がそれぞれの階層を支えている。下の階層になればなるほどその面積は広くなり、多種多様な生物が住む。
世界樹の下は雲で隠れ、聖地から流れる水は下の階層を順に流れた後、奈落の底へ消えていく。
そんな限られた世界の物語。
ガランと重たい音を鳴らすベルが揺れる。
開く扉の先は待合室のようで、縦と横に三つずつ等間隔にソファが並び、幾つかの観葉植物も見られる。壁際にはテーブルとイスがいくつかあり、その中央に木製のボードが見える。奥には受付を担当する女性の姿があった。
「どうぞ、ソファに座って、お待ち、くだ、さい?」
受付の女性が何度も何度も口にした言葉には迷いがあった。受付の女性はその客を凝視する。
客は静かにソファに腰かける。
少しだけ他の客と比べて沈む量が多い。それはつまり、その客は重たいことになる。
「あの、お客様。出来れば、兜を外していただけないでしょうか?」
受付の女性はその新しい客にお願いする。
その客を見るのは受付の女性だけではない。他の客たち、物騒な物を持つ男たちもまたその客へ視線を向けていた。そして、少なくともその場にいる誰よりも、その客は物騒である。
全身を鎧で固めた巨体。おそらく、というよりもほぼ確実に男だろう。茶色の錆びたような見た目の鎧に一切の隙間はなく、足のつま先から頭の先まですべてが隠されている。本来視界確保に必要な目元付近の穴、さらには呼吸用の穴さえない。そして背中に背負う巨大な大剣。
そんな客は首を横に振った。
「できないですか?」
受付の女性がそう聞くと、客は小さく頷く。
言葉は一切話さない。そんな意思が強く伝わる。それがさらに不信感へと繋がり、周囲の客はひそひそと会話を始める。
「なんだ、こいつ」
「化け物か」
「なんで言葉を喋らないんだ?」
それに気づきながらも、その客は一切動かず、まるで中は空洞であるかのように静寂にただ前を向いて順番を待つ。
この建物は冒険者組合と呼び、冒険者という職業、未知の土地の開拓や魔獣の討伐を行うこの世界にとってなくてはいけない人たちを管理する組織の建物である。
冒険者組合にとって冒険者はともに働く社員であるが、客でもある。故に扱いは丁寧で、それを求めて冒険者たちは客として訪れるのである。今この場にいる他の客は皆、評価は様々だが冒険者である。
彼らのように、こんな建物に用がある人間は冒険者がほとんどだ。鎧を着ているのだからそう考えないほうが難しい。
受付の女性はここ数年働き始めた新しい社員だが、近辺の冒険者を大方覚えている。しかし、その客は知らなかった。
だから確認しなくてはいけない。
「冒険者でよろしいですか?」
冒険者が基本訪れるこの建物に、冒険者以外が来ることもある。例えばだが、依頼を頼みに来る者。他にあるとすれば、新しく冒険者になりたい者である。
受付の女性は、その客は遠い地で冒険者になった者だと考えた。依頼を頼みに来る者が鎧を着る必要はないし、新しく冒険者になりたい者もそんな恰好で来るとは考えにくい。
だからその考えにたどり着くのは必然と呼べるのだが。
その客は受付の女性に顔を向けると首を横に振った。
そして、部屋の壁にあっては意味がないであろう木製の看板、新規冒険者募集の看板に人差し指を向ける。
「あ、新しい冒険者に、なりたい、のですね」
その意図を理解した受付の女性はさらに深く考えようとして、止めた。
深く考えるのはやめよう。新しい冒険者を歓迎しなくてはいけない。それが自身の仕事である。
例え、表情に出さないように意識しても、深く考えれば自然と表情に怪訝さが出てしまうものだ。目の前の男が、受付の女性の表情が見えているかどうかは分からないが、慢心はよしておこう。
だから、考えない。表情に出さないために。
でも、あとで相談しよう。
そう心の奥底で誓った。
他の冒険者を順に処理を行っていき、訪れたその客の順。先に要件を済ませた冒険者たちは物珍しそうに入口にたむろしていた。
その客がカウンターの元へ来る。
「新しい冒険者になりたいのですよね?」
その客は小さくうなずく。
受付の女性はでは、と話を進める。
「新しい冒険者になりたいのでしたら」
受付の女性はカウンターの下から、一人分一組で別れた書類一式の一番上を手探りに取って、カウンターの上に置いた。
中身は誓約書と、冒険者マニュアルなどである。
「初めに念のため、お名前と性別と年齢と、ほかにご住所と家族構成とか、そういったもろもろをこの紙に箇条書きでお願いできますか?」
受付の女性はまっさらな紙とペンをカウンターの上に新しく置いた。
その客は素直に従い、ペンをとり書き始める。その仮面で書けるのだろうかと疑問だったが、ここまで来れたのだから本当は見えているのだろうと受付の女性は考えていた。それが当たっていたのか、あるいは見ていないが書けるのか、それは分からないが、その客はスラスラと書いていった。
受付の女性は興味津々に覗き込むようにして、その紙に書かれていく文字を見る。名前はノロイ。男性。30 歳。12番街34番地の借家住み。両親は他界、一人暮らし。
普通だ。珍しい名前であることを除けば普通だ。
少しがっかりした様子で、受付の女性は出来上がった紙を受け取る。
「では、はじめにこちらの誓約書に書かれている文章を読んでいただき、自己責任でサインをお願いします。処理後、冒険者について詳しい説明に入らせていただきます」
誓約書の内容は、死傷に関する点と給料に関する点である。
一つ目に、死傷に関する点。冒険者組合は様々なアドバイスを行い、各々のレベルにあった仕事を与えることを約束するが、それは安全を保障するものではなく、仮に死傷したとしてもこちらとしては一切の責任を負わないこと。
二つ目に、給料に関する点。冒険者組合は依頼主との仲介役であり、仲介料として依頼主が提示した依頼料の3割をいただくこと。また依頼内容によって、失う金銭が依頼料を超える場合、申請によって冒険者組合は幾らか保障すること。
大雑把に言えば、そんな内容であった。
その客、ノロイはゆっくりと上から順に読み、納得したのかサインを書く。
そのサインが、先ほど見た名前と同じかを確認した後、受付の女性は処理手続きに入る。
「では、頂戴します。処理に時間がかかりますので、しばらくお待ちください」
受付の女性の言葉を聞き、ノロイは先ほど座っていた椅子へと戻っていく。それを確認した後、受付の女性はその誓約書を持って奥へと行った。
受付の女性はとりあえず相談したかった。
相談することで答えを得られるとは考えにくいが、とにかく相談したかった。受付奥にはこの建物で最も偉い室長の部屋がある。
受付の女性は一切のためらいなく扉を開けて、部屋の中を見る。扉側に縦長のテーブルとそれを囲むソファ二つ。奥に室長の机。壁は棚で埋まっている。そんな部屋である。
こんな小さな町の小さな支社だが、長年勤めている室長は踏ん反り返って、さも偉そうにソファに座り装飾品の手入れをしていた。室長の背中が見える。
こちらに気づいていない。
受付の女性は扉を四回ノックした。
「室長、相談が」
「む、なんだ」
そこでやっとで受付の女性に気づいた室長は振り返り、ただ事でないことを直観すると装飾品をテーブルの上に置いた。
「どうした?」
「新しい冒険者になりたいという男性がいるのですが」
「それがどうした? いつものように、君の権限で承認すれば良い」
「いえ、それが物騒な風貌でして」
「物騒な風貌?」
室長は受付の女性に聞こえるようにため息をつき、両ひざに手を置き、立ち上がった。
「どんな風貌なんだ?」
「こちらです」
受付の女性に着いていき、部屋を出てすぐ、待合室がギリギリ覗ける廊下の角で、室長は来ている冒険者を見る。
確かに一人、異様な冒険者。いや、厳密に言えばまだ冒険者ではないのだが、確かに物騒な風貌が納得できたのだろう、室長は認めたようにふんと鼻息を鳴らした。
「少々、私が話そう」
「お願いします」
「君も隣で話を聞きなさい」
「分かりました」
室長の後をついていき、受付の女性はノロイの元へと歩み寄った。
本来であれば、室長が対応をすることはまずない。それを知っている他の客、冒険者たちはその異常さに気づき、騒ぎ始める。
それを意に介さず、室長は椅子に座るノロイに話しかける。
「初めまして。私はここの室長だ。少々、お話良いかな?」
そこで初めて目の前の室長に気づいたのだろう、ノロイは体をびくっと振るわせて、室長に平な兜を向ける。
小さくうなずく。
「兜を取ってくれないか? 素顔を見たいのだが」
室長の問いかけに、ノロイは首を横に振った。
「なら、なぜ冒険者になりたいかを教えてくれないか?」
室長の問いかけに、再びノロイは首を横に振った。
「なぜ、喋らない。お前は言葉を知らない赤ん坊か?」
室長の問いかけに、さあとノロイは首を傾げた。
「馬鹿にしているのか?」
「いえ、来た時から一切言葉を話せない様子でした。何か事情があるのかもしれません」
受付の女性のフォローで、室長はそうかと歯切れの悪い声を出す。
障害で、声が出ない人がいる以上、ノロイもそういった類の可能性は否定できない。そういった人を室長が非難したことが町に広まれば、室長を非難する声が逆に上がることだろう。
今、大勢の人に見られている。あまり下手なことはできない。
だから室長はそれ以上、声については触れないことにする。
「紙とペンを用意するのは面倒だし、時間がかかる。首を縦に振るか横に振るかして答えてほしい。冒険者になったら、この町を中心として働くつもりか?」
室長の問いかけに、ノロイは首を縦に振った。
「ここは、第七層の端にある町だ。人が住む階層の中で最も第八層に近く、血気盛んな冒険者たちが日夜八層へ降りている。わかるか? この町に住む冒険者は多くの経験を積んだ歴戦の冒険者ばかりだ。そんな冒険者たちの仲間入りできるだけの強さがあんたにあるのか?」
その問いかけにノロイは考える時間なく。
一切の迷いなく、首を縦に振った。
そして、背中に背負った大剣に右手を添える。
「ほう」
室長には、力で示そう、そんな意思を感じた。
「その自信は、その装備からか?」
その室長の問いかけにノロイは首を縦に振った。
「確かに立派な装備だ」
そう言って、室長は受付の女性を見る。
「いいんじゃないか。認めても。この男からは強さと自信を感じる。いくつか問題もあるだろうが、冒険者として立派にやっていけるだろう」
「室長がそう言うのでしたら」
受付の女性は室長の判断に従うことにした。冒険者としての問題は、組合側が補佐すれば良い話である。
ノロイがその装備に似合った実力があれば、この問題を差し引いても冒険者組合にとって大きなメリットになる。
室長はこの件はこれで大丈夫だろう、と部屋へ戻ろうとする。その後を追いかけ、受付の女性はノロイの手続き処理を行おうと、カウンターに戻ろうとする。
その僅かの時間。
そんな光景を見ていたひとりの冒険者がノロイに対して、聞いた。
「なあ、なんでその装備脱がないんだ?」
答えてくれないだろう、とその冒険者は思いながらもそんな質問をした。
そんな質問に。
「実はこの装備、呪いの装備でして。脱ぎたくても脱げないんですよ」
そうはきはきとした声で、照れたように頭を掻きながら、ノロイは答えた。
「お前喋れたのかよ!」
その場にいた全員の声が重なった。