見えない真実 -invisible-
短い短編小説になります。最後までお読みいただけると幸いです
はじめまして。荒井瞳です。どこまでも突き抜けるような晴天の下、街へ買い物に来ました。服を買いに来たのですが、私の私服を買いに来たのではありません。今日は、こちらの、私の隣で杖をついて歩く祖母の服を買いに来ました。さしずめ、私は祖母の付き添いといったところでしょうか。
付き添いは付き添いでも、私は祖母につきっきりの付き添いです。お友達の付き添いなら、カワイイ洋服を見つけふらっとその場から離れることができますが、私の祖母の場合それはできません。祖母の杖をご覧ください。白杖です。目が全く見えない全盲の証です。
ビルが建ち並び、しかも人通りの多い街で祖母をひとりにするなんてとんでもありません。私がつきっきりで、人や物に当たらないよう気を張り巡らします。
それは、祖母の安全だけでなく他者への配慮も考えてのことです。祖母も目が見えないことで他人に迷惑をかけまいと思っているはずです。それなのに、さっき舌打ちされました。電車から駅に降りようとしたときのことです。ホームとの隙間が気がかりで、祖母をゆっくり下車させていると、後ろの男から舌打ちされました。私はよっぽど、祖母の白杖を男に見せつけてやろうかと思いました。その男は自分のことしか頭にない典型的な自己中だと思いました。たっぷり、もっといっぱい時間をかけ祖母を降ろしてやろうかとも思いました。焦れた男に後ろから突き飛ばされてはたまらないので、結局急ぎ目に降りましたが。
視覚障害に限らず、なんらかの障害を持った相手を邪魔だからと疎んじる人は嫌いです。大嫌いです。同じ人間だと思いたくはないです。障害を持っている方々は、障害を持ちたくて持ったのではありません。それなのに障害を読んで字のごとく害だと認識し許容しないのはどうかとおもいます。人間性を疑います。
ねちねちと、舌打ち男のことを引きずったせいでしょうか。私と祖母は街の知らないところに出てしまったようです。
「迷ったのかえ?」
「うん、ごめんね、おばあちゃん」
祖母と一緒に立ち止まり、私はスマホの地図アプリを開きました。機械音痴の私は地図アプリの扱いに四苦八苦してしまい、つい意識が祖母からそれてしまいました。迂闊でした。
「なんだえっ」
祖母が突然、歩道の点字ブロック上で前に倒れそうになり膝をつきました。
「おばあちゃん!」
私は慌てて祖母の身を起こしました。祖母のすぐ後ろに、キャップ帽を目深にかぶった男がいました。点字ブロックの上でうつむいていましたが、私と祖母を避け無言で立ち去ろうとしたので、私は思いきり男の腕をつかんでやりました。
「待ちなさい!」
男は驚いたのか、体をびくつかせました。立ち止まってくれたものの、頭は下げたままでした。
「予め断っておくけど、私初対面だからって容赦はしないから」
男に向かって右手三本の指を立てて見せました。
「これ、何本に見える?」
私は、このときはまだ怒っていませんでした。むしろ、優しさがにじみ出ていた気がします。
「……三」
男は、やっと顔を上げてくれました。まだまだ幼い顔つきで、私と同じ高校生ぐらいのようでした。なんとなく暗い不景気な顔でしたが、「三」という返事だけは、やや明るかったような気がします。
「そう、これは三本。きみ、目はちゃんと見えるようね」
「……それが?」
「わからない?」
「……わからない」
この男、いえこの少年はふざけているのでしょうか。暗い雰囲気を相変わらず身にまとっているけれど、反省の色は見られませんでした。これはもう直接的に言うべきだと思いました。
「謝れ」
舌打ち男にいらついていたせいもあり、私は穏やかではありませんでした。
「……え」
「だから謝れって言ってるの私は。目が見えるくせに点字ブロックの上歩いて、挙げ句ほんとうに目の見えないおばあちゃんこけさせたんだから。それときみ、下向いてたよね。それだと誰かにぶつかるに決まってるじゃん。そんなのもわかんないの?」
「……なら、大丈夫」
「はあ? 聞こえないんだけど。腹から声出してよ」
この日の私は、いつになくカリカリしていました。
「……点字ブロックの上なら大丈夫。人はみんな避けるから、下向いててもいい」
「ねえ、誰か言い訳しろって言った? 私はきみの見苦しい言い訳とか聞きたくないわけ。そんなんどうでもいいから。私は謝れって言ってるの。ねえ謝ってよ。もしかして、できないの? 最近の子はまともに謝れもしないの? ねえどうなのよ? どうなの、ねえ答えてよ。ていうか答えろよ、ねえ? 答えて!」
自分の口調がおかしくなっていました。確実に私はヒートアップしていました。祖母に外面だけでも申し訳なさを伝えてもらいたかっただけなのに、気づけばこの少年に謝らせることが目的になっていました。
少年の目に、鬼気迫る勢いの私はさぞ恐ろしく映ったことでしょう。
「……そんなに強く言わなくても……!」
そう捨て台詞を吐き、少年は逃げるように私の前から立ち去ろうとしました。
そうはさせないと私は少年の腕をまたつかもうとしました。しかし、なりませんでした。ピシャッと祖母が、白杖でアスファルトの地面を叩いていたからです。これは、祖母が私になにか言いたいときの合図でした。
「おばあちゃん、どうしたの?」
どれだけ鼻息を荒くしていても、祖母の前では必ず猫なで声になるのです。
「瞳ちゃん、自分で分からないのかえ?」
「わかってないのは、さっきの少年だよ。あれだけ謝れって言ったのに、結局謝らなかったし」
「どうして、謝らせたかったのかえ?」
「それは……えっと、もちろん、いきなりおばあちゃんにぶつかって、すぐ逃げようとしたからだよ」
正直に言って、私は少年に謝らせたかった理由を忘れかけていました。
「そうかえ、そうかえ。ばっちゃのために、優しかえーね」
「へへ、そうでしょ。私、おばあちゃんを邪険にする人ぜったい許さない。自分の物差しだけで、ハンデを持つ人を計るなっていっつも思うよ」
「そうかえ、そうかえ。じゃけど瞳ちゃん、瞳ちゃんの物差しは大丈夫かえ?」
「物差し? 定規なら家に何本もあるけど」
いきなりで、私は物差しの意味をはき違えてしまいました。
「人を見る目じゃて。ばっちゃは、顔はよう見えん。じゃけど声はよう聞こえる。さっきのおのこは、下向く言うとった」
「おばあちゃん、下を向いて歩くなんて愚の骨頂だって。そのせいでおばあちゃんにぶつかったし」
「違う」
きっぱりと否定されてしまいました。
「ばっちゃにぶつかったんはどうでもいいことじゃて。あん程度死ぬわけあるまい。そんことよりも、どうして下向くんか考えてみらんと」
祖母は私に、さっきの少年がなぜ下を向いていたのか問うているようでした。
「そんなの」
○○に決まっていると、すぐに答えられると思ったけれど、案外○○の部分が思いつきませんでした。
私の目の前にあの少年の姿はもうありませんでした。しかし、今もどこかを下を向いて歩いているような気がしました。
それは、気分が落ち込んでいるから、嫌なことがあったから、人生上手くいかないから……。様々な理由が思い浮かびました。
いずれにしても、負の要素を抱えているんだろうなと思いました。あんなに暗い顔をした少年が幸せの絶頂にあるはずがないと思いました。
「おばあちゃん」
「なんだえ」
「さっきの男の子のこと、考えてみたんだけど、下を向くのはやっぱり前向きな気持ちになれないからなんじゃないかな。でもその原因までは、本人じゃないから想像しか出来ないよ」
「それでいいんじゃよ」
「え?」
「他人のことも考えることが大事じゃて。どんなにいけ好かん人でも、よく見たら良く見えるもんよ」
よく見たら良く見える……。さっきまでは、祖母にぶつかり謝りもしなかった少年を許せない気持ちで一杯でした。しかし、下を向かざるを得ないなんらかの境遇にある少年を思うと、あんなに強く言う必要はなかったのかなと思いました。
「でも、おばあちゃん。前向きな気持ちになれないからって、謝らなくていい理由にはならないよ。どんな理由でも、ぶつかっておきながら謝らないなんて間違ってるよ」
「そうじゃそうじゃ、瞳ちゃんの言い分は正しい。あのおのこも、悪いところはあるんよ。じゃけどちょっと、ばっちゃのうわごとを聞いてくれんかえ?」
「うん、聞くよ」
「さっきのおのこは、この点字ブロックの上なら大丈夫じゃと言いよった。人が避けて通るけえの、存分に下を向いて歩けると言いよった。あのおのこは、目は見えとるはずっちゅうのに、点字ブロックを歩かんといかんからに。世知辛くなったのお。ばっちゃの話はもう終わったえ」
「…………」
少年は、今日だけでなくいつも下を向いているんだと思いました。変な話だけれど、点字ブロックが必要なほどに。
私が注意したとき、少年は顔を上げてくれていたなと思いました。あれは珍しいことだったのかもしれません。不景気な顔をしていたけれど、私が言ったことへの返事は、なんとなく明るかったのを覚えています。
少年は、誰かと話がしたかっただけなのではないでしょうか。点字ブロックを歩き人を避けるフリをしていただけなのではないでしょうか。本当は。
そう思うと私は少年になんて仕打ちをしてしまったのだろうと、胸が苦しくなります。少年は誰かに相手をしてもらいたくて、それができなくて、やっと私に相手をしてもらったかと思えば、散々なことを言われ心を抉られてしまったのかもしれません。
そんなに強く言わなくても……。
そう言って逃げた少年の目は、多少潤んでいた気がしました。あのとき、少年を思いきり抱きしめてあげられていたら。少年の腕をつかもうとして阻止した祖母を、私は恨みません。あのときの自分に少年を思う気持ちはなく、ただただ責め立てる気持ちで一杯だったからです。
嗚呼、私はどうして、あのときと今でこんなにも考えが違うのだろう。今の気持ちで、少年と接していたら、もっと優しくできていた。優しく少年を諭し、抱きしめていた。
私でよければ、話し相手になるから、もう下は向かないでいいからと言っていた。
もう遅い。少年はもういない。私に見切りをつけ、誰も相手にしてくれない世の中を憂いている。
今も、どこかの点字ブロックを下を向きながら歩いている。
そんなのって、ない、ないよ。
下を向いて歩くなんて愚の骨頂。そう言った私自身が下を向いていた。
……大嫌いだ。
障害を持った人を邪険にする奴より、電車にいた舌打ち男より、なにより、何よりも、私自身が大嫌いだ。
この日から私は点字ブロックの上だけを歩くようになった。下を向いて、誰よりも暗い顔で。
いつかまた、名前も知らない、あの少年に巡り会えるように。
「今度は、私の方からぶつかりに行くから」
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