1-4.酷遇
虫の声がする、風の音がする、草木が揺れ、葉の擦る音がする。
地上に光がない分、空は眩しい程に照っていた。
いつからか、長い事この街には人が住んでいない。
バルコニーの手摺が月明かりを反射して静かに光っている。
その少し奥に目を遣ると、手摺に肘をかけて月を眺める女性の横顔があった。
美しく、後からお茶を持ってやって来たクロウは少しの間見蕩れてしまっている様だった。
「……月が似合うな、シャムは」
クロウの本音とも分からない一言に、シャムは言葉だけで返す。
「月はの……恐怖に対抗する象徴として憧れを抱かされる、ワシは怖い、常に怖いのじゃ、……それだけに月が恋しい」
その声は僅かに揺れていた、水面に風が触れたような僅かな揺蕩。
「俺は、お前にとっての月か……?」
クロウは訊いて目を逸らした、逸らして何を見ていたのかは分からない。
シャムは変わらぬ態度で、変わらぬ表情で、変わらぬ声音で答える。
「……月に、なってくれ得るのか?」
シャムは問いかけて、直ぐに言葉を紡いだ、弱々しく。
「いや、そうではない、ワシは望まぬ、グルもコッコもリンだってそうする様に、ワシもお主に依存し、利用するだけじゃ」
シャムは手摺から体を離してクロウに笑いかける。
クロウはまた目を逸らした。
「そうか」
その時風は止んでいて、二人を取り巻く空気が、混じり合うことは無かった。
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バルコニーには円卓があり、クロウは椅子を引いてシャムに座るよう促す。
シャムが座ると二つのティーカップにお茶を注ぐ。
風の動かない卓上にハーブの香りが漂う。
シャムはお茶を一口飲んで、話し始める。
「ウィステリアの事じゃ、聞いておきたくての」
ウィステリアの願いは受け入れ、彼女を藤国民の元へ連れて行く予定だ。
それには俺とコッコとリンが同行し、グルとシャムは別の仕事があるため断った。
「なんだ?そういえば気に入ったと言ってたな、あれは本心か」
「ああ、ウィステリアはいい、ワシは虚弱で愚かな人間が大好きじゃ、自分より格下を見て安心する、それがワシの本質なのじゃ」
シャムは落ち着いている、初めてする話ではなかった、クロウもいつもの様に返答をする。
「それは生物の本質だ、恐怖心を前に大人でいられる者はない、表現するか否かの問題だ」
「また、虚言か、お主の本心は何処にあるのか、ワシには到底及ばぬ領域なのかの」
「そうだな考えるだけ無駄だろう」
シャムはまた一口お茶を含んでため息を漏らす。
「ウィステリアの救助は桜の女王に頼まれたのじゃな?」
「そうだ、アレは彼の女王にとって必要な駒らしいな」
「お主はウィステリアの事が気に入らぬか?」
シャムの手は僅かに震えていた。
クロウはそれを見て、深いため息を吐いた。
「少し踏み込んできたくらいで俺がお前を害する事はないよ、言いたい事は言う、訊きたい事は訊く、それが対等な関係というものだ、俺はお前らの上に立っているつもりは無い」
シャムは弱々しく返す。
「それは理解しているつもりじゃ、されど何時かお主の気分を損ねるのではないかと、どうしても怖気付いてしまうのじゃ」
「俺には寧ろその思考が癇に障るんだけどな」
クロウがティーカップに手を伸ばすと、シャムの肩は過剰に反応した。
お茶を一口飲むと、ティーカップを置いてクロウは問う。
「お前はさ、人間を何とする?何を以て人間とする?」
「何を以て人間とする、であるか…」
シャムは暫く考えて答える。
「ワシは、言語を用いて思考を巡らせる事が可能な生き物と思っとる」
「なるほどな……これは飽くまで主観であり先ず人間という言葉に何を意味させるかから議論すべき問題だが、お前の考え方も間違ってはいないと思う」
シャムはホッとため息を吐いた。
「だが、仮に人間という言葉を、自分と同等の存在で尊重すべき対象、と定義した場合に俺はある一定の基準値を超えた知力を以て独自に思考し、生物的欲求を制御出来る者であると考えている」
「それはつまり、種族としては人間であろうと、性質としては人間と認められぬ個体が存在すると言う事かの?」
「そうだ、種族としての人間を基準値として、同等の知力を持つものを人間として扱う場合に、人間のどの時点での知力を基準値とするかも曖昧だ」
「例えば動物の中には人間の赤子程度の知力を持つものもいる、然しそれは高度な言語を理解してはいない、それは人間とする事が出来ないと俺は思う、では人間も赤子であればまだ、人間ではないという事になるのか」
「であればどの時点を測定して基準値を定めるのか、年齢でもない、経験でもない、学でもない、それは独自に思考し己で己を納得させる事が可能な知力、俺はそれを人間と言いたい」
シャムは、冷や汗をかいていた。
勘違いをしていた、立場として対等と言ってくれていた、同種でなくともせめて尊重すべき対象として見られていると期待していたのだ。
クロウはお茶を置いて、真顔で言い切った。
「俺は、お前らも、ウィステリアも、人間として認めてはいないんだよ」
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また風は止んで、虫の声も疎らになっていた。
「朝、出発する、シャムはもう出るのか?」
「そうじゃな、そろそろ行くとしようかの」
シャムは徐に腰を上げて屋内へと歩む。
数歩進んで立ち止まり、振り返ることなく語る。
「ワシにとってお主は人間じゃ、それは今も変わらぬ、ただ今の話を聞いてワシは己を何者なのかと疑っている」
クロウは月を眺めながら半身に聞いていた。
「ワシはお主に人間として、認めて欲しくなったよ」
シャムは屋内へと消えていった。
クロウはティーカップを持って、月へと掲げた。
月はティーカップに収まらなかった、それは目と距離の問題だが、クロウは調節をしようとはしなかった。




