狂戦士さんと死線
にじり寄るように距離を詰める。額から垂れた汗が地面に落ちる。無意識に恐怖しているのだろうか、フレンジはしっかりと効いているはずだが、ここまでの大物は初めてだ。無理もない。
しかしこのままでは駄目だ。私は緊張から溜まっていた唾を飲み込むと、改めて息を整える。
後の先を取る。アレだけの巨体だといつものように斬りかかっては、浅く入った時に致命的だ。
何よりあの巨体ではスケルトンの槍の様に当たりに行くわけにも行かない。
一撃でミンチになりかねない。出来る限り避け、カウンターを狙いたい。
……我ながら慎重な行動だったが、後から考えれば、これは果たして、相手への侮りだったのだろうか。受けるのは無理だから避けよう、などと。
――解答は敵の先制だった。二足で立っていた低めの姿勢から、しっかりと地面に足を着ける。
瞬間、一足で一気に剣の間合いまで迫られた。
――早い!?
一気に開かれた熊の口が血の混じったよだれを撒き散らしつつこちらに迫る。フレンジでもかけていなければ、身体が死んだと錯覚しかねない光景だった。
巨体に惑わされた! 熊といえばその大きさからは予想もつかぬ足の速さが有名だったではないか!
とはいえ、最初から回避体勢をとっていてよかった。すぐさま間合いから離れるべく、後ろ足に力を入れ後方に勢い良く距離を取る。
そこから一拍置いて、私が立っていたところに爪が打ち込まれる。予想を遥かに上回る速度だ。
地面を容易く砕く轟音と凄まじい土煙が巻き上がる。震源を見ていなければ地震かと思いかねぬ振動が周囲に響き渡った。
「ぐっ!?」
全身を叩く土煙からマントで目や鼻を守りつつ、着地先ですぐさま迎撃体勢を取る。だが、あの速度を見た以上、ぼんやりと佇んでなどいられない。当たれば死ぬ以上回避がベストだが、さぞや精神を削ることだろう。
互いに睨み合う。だが先ほどとは違い、向こうは不敵に佇んでいるが、こっちは正直追い込まれている。
四足で地にしっかりと足をつけられている以上、いつ先ほどと同じ速度で飛びかかってくるか分からない。
現状ならまだ回避すること自体はできる。
魔法を使えば多少は差が縮まるだろうか。だが、寝ていた間にプールしていた血液は全て地面に返してしまったので、こいつから奪うか、もしくは自前のものを使うしか無い。少し膝を曲げ、姿勢を下げる。
「ブラッドレイ」
敵へと向けた指先から閃光の様に高速で硬貨した血液が細く打ち込まれる。血液の量少なめで一番高い威力になるのはこの魔法だ。昔調子に乗って連射してクラっと来た所で襲われて死にかけたが、二度とそんな失敗はおかさない。
目を狙った一撃を熊は、間に割り入れた右前足で防ごうとする。おそらく、少し表面の毛を削る程度で蹴散らされるだろう。
だが、それでいい。ダメージに関しては最初から期待していない。一瞬気を逸らしてくれればいい。視界を一瞬奪えたなら上々の結果だ。
その結果を確認すると共に、出来る限りの速度で敵の懐に切り込むべく、溜め込んだ足の力を解放する。
「はああああああああ!!」
相手の拳程ではないが、地面に罅を入れる程度の力の反動で飛び出しつつ、大きく剣を肩越しに振りかぶる。
肩口目掛け剣を振るった。捻りも加えた一撃。が、わずかに剣先が肉にめり込み、それ以上は進まない。
敵の追撃を避けるべく、すぐさま飛び退く。
悪くない。少なくとも毛皮に通じず剣先が滑るほどではなく、刃は肉まで通った。剣の先端から滴る血がその証拠だ。
とはいえ、これでは魔法を使う量には全然足りない。
いっその事アークの半身が近くにあったら申し訳ないが血を拝借したのだが、奴が知ってか知らずか戦闘前に遠くに投げ捨てている。
どうやら今の一撃が気に障ったらしい。格下相手に傷つけられたのが屈辱だったか。あからさまに不機嫌になった魔物は、特に溜めも無しに真っ直ぐに特攻してくる。
……とはいえ、これが一番まずい!
状況は単純で、このまま敵のペースで攻撃され続ければそのうち私が耐え切れなくなる。
敵は四足での突撃の勢いをそのままに直前で立ち上がる。その勢いのまま振るわれる前足を振るう。
連撃、右の爪、左の爪。大きく大気を抉るように交互に振るわれる。避けられるものは避け、難しい物は剣を盾に衝撃を少しでも減らす。
とはいえ直接剣でガードするのはできるだけ避けたい。頑丈さが違うためどうなるかは分からないが、ムーアの槍のように剣がダメになってしまえば、最早勝ち目はない。
回避しているというのに、風圧だけで皮膚が鑢のように削られる錯覚を覚える。現在は恐怖をほとんど感じていないからいいが、フレンジが解けたら全て放り出して逃げ出したくなるだろうな。
だが、私もやられてばかりではいられない。敵の攻撃をタイミングを読みつつ、一撃を入れる隙を探る。
とてつもなく堅い外皮だが、急所に入れられれば大きく切り裂くことも不可能ではない。
だが次の行動、熊は私へではなく、両前足を地面へと思い切り叩きつけ、跳躍を行う。
巨体の突進と共に、その鋸と見紛うばかりの牙が生えそろった大口を大きく開く。
そのまま一息に食いちぎらんとばかりに前に迫ってくる。
そう、危険なのは爪だけではない。こんな鋼でも容易く噛み砕きそうな牙で噛みつかれれば、人間など一溜まりもない。
体勢を崩して避けることも困難だ。例え避けても身体に轢き潰されかねない。
――肉ばかり食べていたのか、ひどく臭うな。
あまりに現実離れした光景に、そんな悠長な考えさえ浮かぶ。ギチギチと音のなりそうな程密集した牙は、至近距離まで迫ると、まるで冥府の入り口のようだ。
とは言え、そんな簡単に喰われてやる訳にはいかない。即座に持ち手を替える。利き腕はまずい。左の手の握力の許す限り柄をしっかりと握り、切っ先を口の中に狙いを定めると、喉奥へと狙いを定める。これはピンチでありチャンスだ。
流石にそれは危険と断じたのか、口を閉めつつも体ごと逸らそうとしてくる。
それを許しはしない。おそらくここで手傷を与えておかなければ、何度でも似たような状況に追い込まれる。私は熊へとあえて突っ込むと
「舐めるなよ! 畜生が!」
剣ごと左腕を全力で口の中に押し込んだ。
「ぐぼぉぉぉぉぉおぉ!」
血のあぶくを吐きながら叫び声を上げて堪らず下がる熊。どうやら、初めて痛手を負わせることに成功したようだ。
私の愛剣は魔物の口内を大きく傷つけた。とは言え、やはり利き腕と逆では押し込みが足りなかった。
多量の鮮血が地面を染め上げていく。それは熊の口の中から溢れでた鮮血であり、上下の牙に食いつかれた私の左腕から滴る鮮血でもあった。
……痛いな、涙が出そうだ。いや、出てるかも。
ずたずたの左腕はしばらく動かせそうにない。骨にもかなり罅が入ったようだ。右で無いだけましだな。
幸い再生が得意な魔法と元々持っている謎の再生力の合わせ技によって、私なら罅程度ならすぐに直せる。動かせるまで治すには時間がかかりそうだが。
とはいえ、完全に食いちぎられるよりも早く抜け出せたのは運が良かった。フレンジ中でも激痛を感じるほどのダメージを受けて、剣をなんとしてでも落とさなかった自分を褒めたい。
だが、両腕が健在の時でもなんとかしのいでいた連撃を片手で受けきれるはずもない――。多少なりとも動きが鈍っているといいが。
怒り狂った熊は最早なりふり構わずこちらを殺しに来るだろう。先ほどまでどちらかというとこちらを食ってやろうという意思が見えていたが、ここからは殺意が優先されるだろう。
それを証明するかの如く、熊は大きく咆哮する。そして両前足を大きく地面に叩きつけた。
また振動でも利用する気か、と訝しむ。そんな私を――地面から生えた巨大な土塊でできた二つの拳が襲った。
な……!? 魔法……!?
しまった、先ほどの咆哮だ! 魔物や怪物の使う魔法は人間には理解できないが、咆哮や特定の行動を魔法に必要な動作とすることができると効いたことがある。
ここまで使う気配の無かったそれに、思わず反応が遅れる。必死に回避するが、くっ、負傷の分反応が鈍い!
間に合わず剣を盾にする。が、片手で盾にするには咄嗟では握りが甘かったのか、剣を大きく飛ばされ、私自身も同じ方向に殴り飛ばされる。 倒れ伏す。慌てて起き上がろうとした私の顔の直ぐ両横に、巨大な質量が落ちてくる。――突如、世界に影が刺した。
絶望的だ。思わず身体が震える。
マウントポジション……に近いか。ここから一人では逃れようもない。武器は手の届く範囲に無い。
まんまと罠にかかった相手をどう調理しようかと考えているのだろうか、熊は舌なめずりでもしそうな顔で私を見ている。
まずい、どうにもならん、死ぬ――!