序 驟雨
基本的に横書きを想定して執筆しております。縦書きで読まれる際はそれを踏まえてお読みいただけると幸いです。
雨の降る夜だった。ひとりの時間をいつものように持て余しながら、驟雨にけぶる下界を眺めている。きらきらと、街の明かり。小高い丘の上にあるこの家の、狭い部屋の中。
岬は今日が、雨を見るだけで終わったことにがっかりしていた。
ここで迎える最後の夏休みの初日、幸先が悪い。
(明日になってもしも晴れたら、どこかへ遊びに行こう)
来年の今頃は、休みだの、学業だのとは一切無縁の生活をしているし、それになじんでしまってもいるだろう。自分がここでこうして、こんな気持ちでいることすら忘れてしまっているかもしれない。
だからこそ、今年の夏は一生忘れない思い出を作りたい。窓を打つ細かい雨粒にぼんやりと焦点を合わせる。ガラスの向こう側、雨のせいで輪郭のぼやけた夜の世界が、ただ静謐に広がる。
「……蛟」
ふと、声が出てしまった。寂しかったせいだ。出てしまった声は、もはや取り消すことができない。事実は瞬時に刻まれ、後戻りは不可能だ。
思った通り、すぐさま大きな気配がうねり、泥の底から響くような声が聞こえた。
「私も、ちょうど呼ばわろうとしていたところだ。岬よ」
蛟ーーミズチーー使獣の一柱が、背後にするりと忍び寄る。
「何かあったの?」
岬は振り向かず尋ねる。蛟は小さく息を吐いた。
「少々、不審なことがあってな」
「いつものことよ。あなたも、疲れてるの?」
「我らの体調など、主には関わりのないことだ」
「……冷たいのね」
蛟の気配がふと揺らぐ。けれど、岬はそれごときの変化で何かを期待したりはしない。
「ともかく、これは主に委ねるべきと判断した」
ごく事務的にそう言い、蛟は岬の掌に軽く丸いものを乗せた。毛の塊と、それに付着したわずかな皮の部分。かさかさに乾いていて、はぎ取られてかなり時間が経っているようだ。
「これは主に託す。あとは、岬自身が好きに決めるがいい」
「蛟。……私は、そんなので呼んだんじゃないのに」
言うだけ言う。変化が訪れないことは知りながら、それでも。
「いつものことだろう。……それも」
岬の反応を待たず、蛟の気配は消えた。
再びひとりきりになった。けれど少しでも会話ができたことだけでも、よしとしなければ。寂しさを埋めるのも、寂しさを生むのも自分だ。自分の中で昇華できなければ、この先もっと苦しむことになる。
来年の今頃、寂しさはどれだけの大きさになっているかと思うと、今から胸が詰まる思いがした。
「それにしても……これは何かしら……?」
両掌で包み込み、しげしげと見つめていると、突然、それは起こった。
ふわふわした感触が薄くなったかと思うと、毛玉から炎が巻き上がったのだ。
火傷をする! ととっさに思い、手を離す。燃えさかる毛玉は、ころころと転がって、机の端で止まった。
炎。……鮮やかな青紫色の揺らめき。
見たことのない炎の色に思わず見とれていると、炎は徐々に小さく弱くなっていく。机が燃えるかも知れないなどとはつゆほども思わなかった。毛玉は、毛玉だけで燃え、消えた。
炎がすっかり消えてしまって、我に返る。燃えたところには焦げも煤もなく、それどころか、小さな白い紙片が現れていた。
「……ずいぶん手の込んだ文使いね……」
独りごちながら、若干呆れながら、手に取った。触っても、熱くない。紙片は厚みがあって、手に取ってみてそれが折りたたまれているものだと気づいた。
岬はおもむろに開き始める。からからと乾いた音を立てながら、紙片は手の中で大きくなる。大きくなるごとに、なぜか指先が震えた。
嫌な予感があった。それが外れるといい、と心から願った。
開き終えると、それは葉書程度の大きさになった。文字が書いてある。やや乱れは見えるものの、読み取るには充分すぎる流麗な筆跡だ。細い毛筆と思われる筆具で、走り書きのような文面。
この筆には覚えがある、と直感した。皮膚に痺れるような衝撃が走る。喉が急速に乾き始める。息が荒くなる。動悸が激しくなり、心臓がすぐ近くでがんがんと鳴る。
やかましくて、煩わしくて、何よりも怖かった。
文面は、ごく短い。
『みさきへ
ひとつきに ふつひおこせよ かとりのうみの とつかにうまる そのあらたまを
ほし しるす』
一行目で自分に宛てた手紙であることは、明らかになった。
二行目は言葉の調子から言えば、和歌の形式だ。けれど歌に明るくはない岬には、その意味が分かりかねる。けれども、ただならぬ雰囲気だけは確かに感じる。
三行目はーー。
ほし。
これがもしも、「星」だとしたら。
「……何か、あったの……?」
岬は眉をひそめて雨天の夜空を振り仰いだ。ひとつとして見えない星。
胸騒ぎどころではない。これは偽りのない『予兆』だった。