イケメンの苦悩
俺はイケメンである。
こう言えば多くの人が、はいはいナルシスト乙、とドン引きする事だろう。その気持ちも分からないではないが、これは揺るがしようのない事実だった。
そこそこ美形の両親から良いところだけを絶妙なバランスで受け継いで生まれた俺は、赤ん坊の頃から天使もかくやと言うほど可愛かった。そこから順調に成長し、美しく整った顔立ちに精悍さも加えられた文句の付けようのないイケメンに成長した。
道を歩けば逆ナン、モデルのスカウトは当たり前、通っている高校には俺のファンクラブなるものが存在し、そのメンバーには他校の生徒も含まれるらしい。告白された人数は意外と少なく二十人弱ほど。それも、ファンクラブのメンバーがお互いを牽制し合い、抜け駆けをしようとする者がいれば事前にその計画を潰しているかららしい。
絵に描いたようなイケメンとは俺の事である。切れ長のはっきりとした二重瞼に、適度に高い鼻、唇は薄めで頬はほっそりとしてる。もちろん肌も肌理細かく、生まれつき明るい色の髪は枝毛一つ見当たらない。ケチを付けられる部分があるというならばぜひ言ってみろと思う。
俺はイケメンだ。いや、イケメンを通り越して美しい。将来はこの顔を生かして芸能界にでも入ってやろうかと考えている。
「正太郎はさー、イケメンの才能ないよね」
あえて俺のイケメンさに疑問を呈すならば名前が少々古風だが、そんなものは俺の魅力を引き立てる為のエッセンスでしかない。
「才能って何だよ。イケメンは結果で才能とは違うだろ」
いつも通り勝手に俺の部屋に侵入し、突然ケチを付けて来た幼馴染の由香里を振り返る。どうせまた、母さんが家に上げてしまったのだろう。止めてくれと言っているのに、母さんはいつも勝手に由香里を家に上げてしまう。
「だってさ、向いてないよ。それだけイケメンならもっと人生楽しく生きればいいじゃん。正太郎が本気出せばいくらでも女の子を侍らせてさ、日替わりでホテル行く事も出来ると思うよ。それも女の金で」
「それ実際にやったらいつか刺されるぞ」
俺はごめんだ。何が悲しくて自ら自身の命を危険に晒さねばならない。
詰まらない由香里の話に付き合いたくなくて、俺はテレビの画面に向き直る。そんな俺に構わず、由香里は勝手に本棚の漫画を手に取り始めた。
「漫画見てもいいけど、ちゃんと元あった場所に返せよ」
「分かってるよ。本当、あんたって性格細かいよね」
おまえが大雑把過ぎるんだ、と返したかったが言っても無駄なので口を噤む。
「もっと要領よくやれば良いじゃん」
「………あのな、俺はどうせならちゃんと付き合いたいの。一人の女の子と真面目に恋愛したい派なの」
「そういうところがさ、イケメン向いてないんだよ。それでまだ爽やかとかなら分かるけど、性格卑屈だし、根暗じゃん。その結果がそれでしょ」
ラグの上で俺の隣に座り込んだ由香里が、テレビを指差す。そこには、俺のお気に入りのゲームのワンシーンが映り込んでいた。長い緑色の髪を大きな三つ編みににしたセーラー服の可愛い女の子。
『ショウくんに会えて、良かった………』
現在高校三年目の秋、物語は終盤に差し掛かろうとしていた。彼女の名前は緑川双葉。真面目だが自分に自信がなく、引っ込み思案の女の子。男の子がちょっぴり苦手な彼女を何度も何度も根気よくデートに誘い、二年の春にようやく好きになってもらう事ができた。ライブハウスやカラオケといった騒がしい所は苦手だが、美術館や動物園に誘えば初め頑なだった彼女が初めての笑顔を見せてくれた。その笑顔の可愛いこと可愛いこと。惚れ直したのは言うまでも無い。
「女子の憧れの相馬正太郎がまさかのギャルゲー好き、なんてファンの子が知ったら失神して倒れるんじゃないの?」
「知るか。俺の心のオアシスを否定するな」
俺はイケメンだった。イケメンは、現実世界で恋愛をする事をけして許されない。芸能人を見ていれば分かるだろう。ちょっと女とデートしただけで、スキャンダルと騒ぎたてられる。俺が恋愛を出来るのは、ギャルゲーの中だけだった。
「もっとさ、本来の自分を女子にもアピールしていけば良いんじゃないの?あんた、男子とは喋るけど女子とは一切関わらないから女子もいつまでも幻想を捨て切れないんじゃない?」
「本来の自分をアピールしようとして、その相手が他の女子から吊るし上げられてもか?というかむしろ、何でおまえは普通に俺と関われるんだ」
「そりゃあ、私が『相馬正太郎ファンクラブ』にとってのお得意様だからよ」
スマホを取り出した由香里は、素早く眉を顰めているであろう俺の写メを撮る。由香里は俺の写真を撮っては、それで小遣い稼ぎをしていた。
「おい、勝手に撮るな。そして売るなら分け前寄越せ」
「は?嫌だし」
「誰のお陰で儲かってると思ってるんだ」
そう言って睨み合えば、ちっと舌打ちして由香里はスマホをしまい込む。金にがめつい女だが、一応納得したのだろう。これだけイケメンな俺が恋愛できないのに、こんな女に彼氏がいるのだから世の中間違っている。
中学に入学した頃は、俺はまだ自分の事を一般人だと思っていた。多少人より容姿を褒められる事は多いような気はしていたが、小学校までは普通に女子とも会話をしていたし、それを周囲から許されていた。
その認識が間違いだったと気付いたのは、中学校一年の秋の事だった。それまでにも何度か告白をされた事はあったが、そのときの相手は当時仲の良かったクラスメートで、初めて女の子と付き合った。始めは幸せだった。まだ十三歳で、恋人らしい事は何も出来なかったけれど『付き合っている』という事実自体がくすぐったかった。
しかし、俺達が付き合っていると徐々に周囲に知れ渡り始めた頃、突然彼女に振られた。俺の知らないところで、ずっと他の女生徒から嫌がらせを受けていたらしい。俺は食い下がったが、彼女はごめんなさいと泣くばかりで結局そのまま別れてしまった。
その次は中学二年生のとき、三年生の先輩と付き合ってみたが、同じく嫌がらせに堪えかねた先輩に振られた。そして、中学三年生のときに後輩と付き合ったときは何とか彼女を守ろうと必死に動いて何度も庇い、嫌がらせをしている女子に文句を言いに行った事もあったのだが、俺が何をしても何を言っても女生徒達は彼女への敵対心を高めるだけだった。結局その後輩ともすぐに別れてしまった。
俺はようやく悟った。俺は、恋愛をしてはいけない、いいや、出来ない人種なのだ。恋愛をしようとしても、一番大事にしたい相手を傷付けるだけだ。何よりもう、三人目の彼女と別れた時点で、現実の女子が怖すぎて恋愛対象として見る事が出来なくなってしまっていた。
それ以来、俺の癒しはゲームの中だけになった。ギャルゲーの女の子はいくら好きになっても誰からも否定されないし、誰の目も憚る事無く毎週デートに出掛ける事が出来る。人並みにある俺の恋愛願望は、全てギャルゲーで昇華されていた。
しかし、高校二年生の秋を迎えた今、俺のその恋愛スタイルが揺らぎつつあった。
由香里が本屋に参考書を買いに行こうとしていたので、優しい俺は代わりに買ってきてあげる事にした。自転車に乗り、高校や自宅、最寄駅からも離れた本屋を目指す。小さめの本屋だが、有名どころはしっかりと抑えているので余程珍しい物を欲しがらない限りは、ここで用が済む。
元々ギャルゲーの攻略本を買う為に目深に帽子を被ってわざわざこんな遠くまで来ていたのだが、あるとき以来、週の半分以上はこちらを訪れるようになった。近所の本屋で制服を着てギャルゲーの攻略本を買えるほど、俺はまだ開き直れていない。
本屋の中で、自分で由香里の参考書を探そうとはせず、きょろきょろと店内を見回す。すると、目当ての人物が見付かった。
店に入る前に乱れた髪は整えた、服装にも特におかしな所はない、はず。覚悟を決めた俺は、勇気を出してある店員さんへ声を掛けた。
「あの……」
「はい。何かお探しでしょうか?」
腰から顎先くらいまで本を重ねて運んでいた店員さんは、にっこりと明るい笑顔で俺を振り返った。まったく重そうな様子を見せないその笑顔に、プロだなあ、と感心する。
年はおそらく俺と同じくらい。この本屋でアルバイトをしているのだろう。小柄で大人しそうな印象の女の子。長い髪を三つ編みにしている。
俺のお気に入りのギャルゲーキャラクターの緑川双葉にどことなく雰囲気が似ていた。もちろん、アニメ絵と現実なので似ていないと言えば似ていないのだが、三つ編みとか控え目な雰囲気とか華奢そうな所が良く似ている。おまけに名札の名前は『皆川』で、名字も少し被っていた。
正直に言おう。無茶苦茶好みだった。文句の付けようがないくらい好みだった。双葉ちゃんと違って人見知りはしなさそうだが、その気さくな笑顔がまた一段と可愛い。
「あの、参考書を探しているんですけど」
参考書のタイトルを伝えれば、皆川さんの顔がパッと華やいだ。
「ああ!それならこちらです。すみません、少し見にくい場所にありまして……」
「いえ、ありがとうございます」
皆川さんに案内され、すぐに目当ての参考書は見付かった。すごいなあ、もしかして全ての本の位置を把握しているのだろうか。頭が良いんだろうな。
見付けてお礼を言えば、皆川さんはにっこりと微笑んだ。
「頑張ってくださいね」
この気遣い……!皆川さん、恐ろしい子!
どう考えても俺の心を打ち抜こうとしているようにしか思えない。何だあの思いやりと優しさと可愛さ。狙ってやっているのではないかと疑いたくなるレベルである。
早鐘を打つ心臓をこっそり抑えながら、俺はできるだだけ平静を装ってレジを済ます。残念ながらレジは皆川さんではなかったが、もしも彼女なら緊張で小銭を出す手が震えてしまったかもしれないので、むしろ助かった。
買った本を自転車の前かごに入れて、一度大きく溜息を吐く。今度は、いつ来ようか。いつ来れば彼女に会えるだろうか。立ち読みだけでは申し訳ないと、読みもしない文学書を見栄を張って買っていたが、それもそろそろ金欠だ。
こんな事を日常的に考えるようになってしまった辺り、俺はきっと皆川さんに恋をしているのだろう。
どうやったら普通に生きられるだろうか、と由香里に相談すれば『イケメンやめれば?』と不可能な返答が返って来た。
由香里曰く、身嗜みをだらしなくするだけでもかなりイケメン度は下がるとの事だった。その為に髪は梳かさず制服は皺だらけにしろと言われたが、俺からすればそんなだらしない格好をして平気な人間の気が知れなかった。部屋の片隅に小さな埃が落ちているだけでも気になるし、本棚は規則正しく並んでいないと気が済まない。ぼさぼさの髪で皺だらけの制服で生活するなんて、普通の生活をする前に神経をやられてしまう。何故俺が、興味も無い女達の為に、そこまで神経を削って生活しなければならないと言うのか。
『俺さ、イケメン滅びろ!って思ってたけど相馬と知り合ってからは、普通で良かったって思うわ』
これは、どこへ行っても女に囲まれ、その割に誰かと付き合う事も許されない俺の生活を見兼ねた男友達の言葉である。ついでに言えば、校内ではファンクラブの女子から常に監視され、盗撮の危機にある。これでもイケメンになりたい奴がいるならおまえちょっと変われ。
毎日恒例の男子校に通えば良かったという後悔をしながら、駅前の薬局に向かう。近辺には馬鹿な俺が通える男子校が存在せず、それならばせめて由香里と同じ学校にいればある程度由香里がフォローしてくれる事を知っていて、今の高校を選択した。由香里は嫌そうな顔をしていたが、俺で金儲けをしているのでお互い様である。
薬局で切れかかっていた掃除用洗剤を購入し、帰宅しようとすれば、駅前の花壇の縁のレンガの上に一台のスマホが放置されているのを見付けた。辺りを見回してみたが、持ち主らしき人物は見当たらず、落し物だろうかと駅員に届ける為にそれを持ち上げる。
「うわっ」
すると、その瞬間スマホが着信を告げた。驚いたもののディスプレイは公衆電話と表示されており、もしかして落とし主からだろうかと深く考えずに通話に切り替える。
『もっ!もしもし!すみません私、ケータイ落としてしまって、あの、そのケータイ私ので、すみません!拾って頂いてありがとうございます!どちらで拾って頂けたんですか?』
焦りきった女性の声が電話越しに聞こえてきた。随分慌てているのか、かなり早口で中々要領を得ない。
「あー…○△駅の東口の花壇の所です」
『ああ!そうだった!一回荷物置いたんだった………すみません、五分でそちらに行けるんですが、お礼をさせて頂きたいので少し待っていて頂けませんか?』
俺はしばし考える。正直面倒だが、ここで俺がスマホを置いて行って、彼女が到着するわずか五分の間に盗難にでも遭えば流石に可哀想だ。スマホなんて個人情報の宝庫であるし。
「別に良いですよ」
そう答えた自分自身を、五分後の俺は神と崇めた。
目が合って固まる俺に、彼女はにこりと笑いかけた。
「もしかして、お客さんが拾ってくれたんですか?」
スマホの落とし主は、何と皆川さんだった。小走りで駆けて来る皆川さんはいつものジーンズに薄手のニットとお店のロゴの入ったエプロン姿では無く、三駅先の女子校のセーラー服を着ていた。思いがけず彼女の通う高校まで判明して、内心歓喜に湧く。しかもどうやら、ただの客でしかない俺の顔を覚えてくれていたようだ。
いつも三つ編みにされていた髪は解いて下ろされており、新鮮な姿がまた一段と可愛い。
「もう、落としたと気付いたときにはどうしようかと思ってしまって………本当に、ありがとうございます」
「あ、いや、全然!見付けてすぐ電話掛かって来たし」
「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
皆川さんは、丁寧に頭を下げて俺に謝罪をする。混乱しきった俺は何とか全く迷惑ではないという旨を必死に説明する。しどろもどろに言い募れば、ようやく皆川さんにも通じたのか彼女は顔を上げてくれた。
「すみません、お礼をさせて欲しいんですが………」
「あの、気にしないで下さい。ちょっとこの後予定あるし」
「そうはいきません。ぜひお礼をさせて下さい」
礼をされるほどの事はしていないし気を使わないで欲しい、と思い予定など無いにもかかわらずそう言って辞退したが、皆川さんは頑として譲らなかった。
その間に彼女は鞄からウサギの頭の形をしたメモ帳を取り出し、素早くそこにメールアドレスを書き込んで俺に差し出す。
「今お忙しいようでしたら、ぜひ、後日ご連絡ください。お客さんのご都合のいいときにお礼をさせて欲しいんです」
皆川さんは躊躇う俺にメモを押し付けて一礼すると、立ち去っていく。か弱い女の子が簡単に男に連絡先を教えてしまっていいのかと思う。思いがけず手に入れてしまった好きな女の子のアドレスに、喜びよりも戸惑いが勝ってしまった俺は、呆然と突っ立ったまま彼女の背を見送った。
女の子は、残り香すら良い香りがするらしい。
立ち去っていく皆川さんからは甘い匂いがした。風に靡く髪からするシャンプーの香りとかだったのだろうか。香水とは違う、仄かな良い香りだった。
「何か最近、おかしくない?」
目の前の大体いつも無臭の由香里とは大違いの女子力である。香りものが嫌いな由香里はシャンプーも出来るだけ香らないものを好む。長さもほとんどショートカットで、由香里から香りがするときと言えば、彼氏の煙草の匂いが染みついているときくらいだった。
「何か妙にご機嫌って言うか」
「は?そんな事ねえし」
しらばっくれながらも、鋭い指摘をされて内心焦る。結局俺は、大いに悩んだものの皆川さんと連絡を取り、ついに明日の放課後に一緒にケーキを食べる事になった。お礼という事で、ご馳走させて欲しいと彼女が言ってくれたのだ。随分律義な彼女の性格に、また好感を抱いた。
皆川さんとのメールのやり取りは一々緊張し、返信が来る度に心臓が大暴れし、一緒にカフェに行く事が決定したときには、幸せすぎて死ぬかと思った。
「別に私は正太郎がどうなろうと良いけどさ、あんたの回りが恐ろしく面倒くさいって事、忘れないようにね」
「………分かってるよ」
全て見透かしたような由香里の言葉に、口では素っ気無く返しながらも不安が過る。
それでも、少しくらい良いだろう、という思いがあった。別に付き合いたい訳じゃない、ただもう少しだけ、皆川さんの事が知りたくて、俺の事を知って欲しい。出来ればその笑顔を見せて欲しい。せめて、一度お茶をするくらい。
会うのは学校じゃない。学校ならともかく、外で女の子にあったところで誰にも気付かれる事はないだろう、と無理矢理自分に言い聞かせた。
一度帰宅して私服に着替えてから、皆川さんと待ち合わせしているカフェに向かった。
駅など目立つ所で待ち合わせをすれば、同じ学校の誰かに目撃されるかもしれない。そう思って現地集合を希望した。帽子を目深にかぶって、なるべく俺だと分からないように気を付ける。
「先日は本当にありがとうございました。このお店、私の一押しなんです。何でも好きなものを頼んで下さいね」
先に着いていた皆川さんは、俺を見付けるとあの可愛い笑顔を見せて、向かいの席を勧めてくれた。俺はガトーショコラと珈琲、彼女は苺のミルクレープと珈琲でまずは注文を済ませる。
途端に訪れるのは沈黙だった。当然だろう、俺と彼女は本屋の客と店員というだけで、それ以上の接点など無い。一頻り、感謝の言葉をもらった後では、話題一つ浮かばなかった。
「あの……私、皆川和葉と言います。いつもありがとうございます」
「あ!俺は相馬正太郎です」
「相馬さん、ですね。同じ年くらいに見えますけど、高校生ですか?」
「はい、二年で。近くの○○高校に通ってます」
「そうなんですね。私も二年生なんです」
思いがけず彼女のフルネームをゲットし、更に彼女がそうして身近な話を振ってくれた事で、学校という話題が出来た。ぎこちないながらもようやく会話らしくなり、安堵する。
皆川さんとの会話は非常に楽しかった。会話の合間合間で質問を入れてくれるので、自然とこちらも返答の幅が広がり、会話が弾む。ケーキと珈琲が運ばれてきても、中間テストが終わったばかりとか、もうすぐ文化祭の用意が始まるだとか、そういった学校関係の話を続ける内に俺の方も肩の力が抜けた。皆川さんとの会話は楽しくて、心地良い。
「皆川さんってすごく律義な人ですね。俺、別に何もしてないのにこんな風にお礼してくれるなんて」
リラックスして思わずそんな言葉を呟けば、彼女は少々目を瞠る。それから不安そうに視線をさ迷わせ、ゆっくりと俯いた。俺は何か変な事を言ってしまっただろうかと焦る。
「あの………」
「す、すみません。本当は下心があって、その………」
俯いたまま、皆川さんは顔を真っ赤にさせて口を開いた。
「相馬さんは、もちろん覚えていないと思うんですけど、私がバイトを始めたばかりの頃に積んであった本を倒してしまった事があって、そのとき相馬さんが本を拾うのを手伝ってくださったんです。そのとき、一冊ビニールが破けて折れてしまってたのを相馬さんが欲しかったからって買ってくださって」
そう言えばそんな事があったような気がする。確か、集めている漫画の新刊で、女の子が心配になるほど悲壮な顔をしていたので、まあいいか、と思いそれも買って帰ったのだ。ただ、その頃はまだ皆川さんの事を認識していなかったので、あの女の子が彼女だったとは気付いていなかった。
「もう本当に私、仕事出来なくて止めようかと思ってたんですけど、相馬さんの優しさに励まされて、もうちょっとだけ頑張ってみようって。それからずっと気になってて………すみません、お礼をさせてもらえる事になって、実はラッキーなんて思ってました」
皆川さんは顔を俯けたまま、視線だけで俺を見上げる。
「ごめんなさい、相馬さんの親切に付け込むような事をして」
「い、いや、そんな………」
上目遣いに居たたまれなくなって視線を逸らす。何だそのけしからん目は、と叫んでしまいたかった。可愛い、可愛過ぎる。思わず三次元の破壊力におののいた。
しかも、皆川さんの言い分では彼女も俺の事を気に留めてくれていたようで………それが嬉しくないはずがなかった。
「謝らないでください、えっと……正直、かなり、嬉しい、です」
「え?」
俺の返答に、彼女が顔を上げて目を丸くさせる。今度は俺の方が赤面して俯く番だった。
カフェの前で別れるとき、皆川さんは中々歩き出さずに俺を見上げた。その視線に緊張して、もう肌寒くなってきたのに妙に身体が熱かった。
「もし、ご迷惑でなければ、またメールしても良いですか?」
「も、もちろん!」
控え目な彼女のお願いに、俺は勢いづいて答えた。皆川さんとの縁がこれで切れず、続いて行く可能性に喜びを隠し切れない。すると、彼女はそんな事で嬉しそうに笑ってくれて、また体温が上がった。
「ありがとうございます」
皆川さんは嬉しそうに破顔して、その場から立ち去って行った。その背を見送って、その場で自身の顔を右手で覆う。
指先が震えるほど幸せだった。皆川さんに気に掛けてもらえていたと分かっただけで、天にも昇る気持だった。彼女ともっと関わりたいと思う。一度くらい、と思っていたが、とても今回だけで満足出来そうも無かった。
俺は思っていたよりもずっと、皆川さんの事を好きになっていたらしい。
気の利いた返事なんて返せないけれど、皆川さんとメールで連絡を取り合えるだけで満たされるようだった。最近分かった事は、皆川さんはウサギが好きで本当は珈琲より紅茶党、理系で意外とスポーツが好きだという事。彼女は俺の詰まらない話にも丁寧に返信をくれた。
そういえば、最近すっかりギャルゲーをしていない。あんなに好きだったのに、今では皆川さんに夢中だ。一日中、スマホの着信が気になって仕方ない。
皆川さんは俺の容姿について一切触れなかった。それもまた、俺にとって気楽な部分でもあった。彼女は俺の内面を見てくれるんじゃないか、なんて青臭い願望が首をもたげる。
しかし、だからこそ俺は油断していた。彼女と関われる事に夢中で他の事への注意が散漫になっていた。
俺は、非常に厄介なイケメンだったのに。
放課後、学校を飛び出した俺は全力疾走をしていた。その事を教えてくれたのは案の定というか、由香里だった。
俺が皆川さんと会い、連絡を取っていた事は、とっくに俺のファンクラブのメンバーの知るところとなっていたらしい。そして今日、ファンクラブの幹部メンバーで皆川さんに『話を付けに』行くらしい。
由香里からの情報で最寄り駅に向かうと、俺が以前皆川さんのスマホを拾った東口の奥まった所で、うちの高校の制服を着た女子の集団を見付けた。血の気が引いてそちらに駆けよれば、怯えた様子の皆川さんがその中心にいた。
「なっにを、やってるんだ……!」
息を切らせながら女子生徒達の人垣に割って入り、皆川さんを背に庇う。小さな声で俺の名前を呼ぶ皆川さんがあまりにか弱くて、こんな目に遭わせてしまった自分自身に腹が立つ。
「どうしたの、相馬君?私達は、相馬君が困ってると思って……」
「俺は何も困って無い!」
全くの後ろめたささえ感じさせず、むしろどこか誇らしげに語る女子達に、ぞっと鳥肌が立つ。ああだから、三次元の女なんか大嫌いになったのだ。正直不気味で逃げ出してしまいたかった。
けれどそんな俺が、好きになってしまったのもまた、三次元の女で。それなら俺は、コントローラーを握って選択肢に頭を悩ませるよりも、どんなにうんざりしてもこの三次元で戦わなければいけないのだ。
「だってその子がずっと相馬君に付き纏っていたのよ。自分がどれだけ迷惑を掛けていたのか、自覚してもらわないと」
随分勝手な事を言われるが、この状況で正論を説いて、怒りを露わにして、目の前の女子達を否定しても意味が無い事は中学の頃で学習済みだった。女子達はいくら俺が望んだ事だと言っても、自分の都合のいいように解釈して結局納得しない。彼女が俺に言わせているのだと更なる言い掛かりを付けて来るだけだ。
俺は知っている。俺は無力で、俺が守るよ、なんていってもそんなものは平和なときだからこそ通じるただの戯れでしか無い。俺には好きな女の子を守る些細な力すら無いのだ。
だから俺は守るなんて言えないし、女子達を脅し付けて火に油を注ぐ事を恐ろしいと思う。その結果、傷付くのはいつだって俺の好きな女の子だ。
だから、何の力も持たない俺は、その場で膝をつく。地面を両手に付けて、そのまま頭を下げた。
「ごめんなさい、彼女じゃなくて、俺が好きなんです。俺の方が死ぬほど好きなんです。勝手に好きでいるだけでいいんです。もう二度と会わないから」
土下座だった。奥まった場所とはいえ、駅という公衆の面前で土下座をする俺を笑いたければ笑えばいい。皆川さんに幻滅されたっていい。何も出来ない俺には、ただただ聞き入れられる事を祈って、懇願する事しかできないから。
「俺の好きな人に、酷い事しないでください」
一瞬、沈黙が落ちた。しかし、すぐに囲んでいた女子達が大慌てで俺を立たせようとする。ごめんね、そんなつもりじゃなかったの、と口々に謝られるがじゃあどんなつもりだったのかと問い詰めたい。
「二度と会わないのは、私が嫌だな」
そんな空気を切り裂くように、あまりにのんびりとした皆川さんの声が響いた。せっかく収まりそうだったのに、何を言い出すのかと彼女を振り返れば、皆川さんは怯えた様子も無く、穏やかに微笑んでいた。
「相馬さん、私、貴方の優しい所がとても好きです。貴方が望んでくれるなら、ずっと一緒にいたいくらい。その為なら私、戦います」
皆川さんは微笑んだ。そして、学生鞄の中から缶珈琲を取り出す。呆然とする周囲などお構いなしで、プルトップを押し上げるとそれを一気に飲み干した。そして空になった缶をこの場にいる全員に見せつける。
「ご覧ください。こちら、スチール缶です」
にこ、といつものあの可愛い笑顔を見せた皆川さんは―――――は?え?目の前で、皆川さんの手の中にあったスチール缶が、べきょ、と潰れる。スチール缶ってあんなに簡単に潰れるものだったっけ?
「気に食わないのならばいくらでもお申し出ください。いくらでもお相手しましょう。ただし、私はその全てに暴力のみで応戦します。相馬さんに嫌がられる以外の理由で私に身を引くよう強制するならば、私は喜んで暴力で解決します」
皆川さんは平然と言いきった。
「私、喧嘩は買う主義ですので」
正直、彼女に惚れ込んでいる俺でも引くくらい恐ろしい笑顔だった。取り囲んでいた女子達は口々に、私は相馬君が迷惑してると思って……などと言い訳にもならないような言葉を残し、蜂の子を散らすのようにこの場から去っていく。
未だ座りこんでいた俺のそばにしゃがみ、彼女は頬を赤く染めながら困ったように笑った。
「えっと、引きました?」
「!」
「すいません、私、猫被ってました。ちょっとでも可愛いと思って欲しくて。でも実は、格闘技経験十年なんです」
恥ずかしそうに皆川さんはそう口にする。正直に言えば、少し引いた。けれどそれは、ちょっと笑顔が怖かったというだけで、彼女自身に幻滅したという訳ではない。
「お……俺は、今もすごく、皆川さんの事を可愛いと思ってます」
すると、皆川さんは顔を真っ赤にして俯いた。その様子を見て、意外な一面を知ってしまったものの、やはり彼女は俺の好きな皆川さんのままだと思った。
「………あの、さっき言ってくれた事は本当ですか?死ぬほど好きって」
今度は俺が真っ赤になって俯く番だった。口を開こうにももごもごと言葉にならず、頷く事くらいしか出来なかった。
「う、嬉しい、です。あの、私、何があっても自分で撃退できるし、結構図太いし、強いし。相馬さんといる為なら大丈夫です。だから………」
「待って」
慌てて皆川さんの言葉を止める。彼女は悲しそうに俺を見上げてきたが、その先を言わせる訳に行かなかった。公衆の面前で土下座するくらいしか彼女を守る術を思いつかない情けない俺だが、せめてそのくらいは自分から言いたかった。
厄介なイケメンで、彼女一人護れない俺だけど、そんな俺にうんざりせずに、彼女が戦ってくれると言うならば。
出来るだけバクバクとうるさい心臓を無視して、不安そうな顔をする彼女をじっと見つめる。
「皆川和葉さん………君が好きです。大好きです。だから俺と、付き合ってくれませんか?」
はい、と答えてくれた彼女の、今にも泣き出しそうな笑顔を、俺はきっと一生忘れないと思う。
「でも、本当に正太郎君ってモテるんだね。びっくりしちゃった」
バイト先に送る為に手を繋いで歩いていれば、屈託のない笑顔で皆が………あ。和葉さん、和葉さん、和葉さん、よし。和葉さんが驚きの声を上げる。
「確かに格好良いもんね」
「和葉さんは、俺の顔好き?」
彼女に好きだと言われるのなら、これまでの人生で非常に悩まされたこの顔も少しだけ好きになれる気がして、そんな事を問い掛ける。
呼び捨てでいいよ、なんて和葉さんは軽やかに口にして、俺の問い掛けもまた、軽やかにぶった切った。
「え?見た目はそこまでかな?純粋な好みだけなら、筋骨隆々な人が好きなの。父も兄もずっと格闘技してたからそれ以上の体格の人にキュンってしやすいんだ」
そのときの俺のショックは筆舌尽くしがたい。何だかんだ俺は自惚れていた。自分の事を揺らぎないイケメンで、心のどこかでこの顔を好まない女なんていないだろうと思っていた。それが、よりによって一番好いて欲しい人に『そこまででもない』と言われたのだ。
「あ、で、でも、好きな人と好みは違うし、私は正太郎君の優しい所を好きになったんだし。だから、えっと………私が好きなのは、正太郎君だけだよ」
俺の悲しみに気付いたのだろう、慌てて言い募って見上げる和葉さんは死ぬほど可愛かった。もう、何もかも許して好きだと叫び出したいくらい可愛かった。恥ずかしくてできないけど。
だから俺は、それ以上彼女に悲しみを悟らせるような事もしたくなくて、好みじゃないと言われた悲しみと中身を好きだと言ってもらえた喜びが混ざり合った、複雑な気持ちを押し込んで笑う。
今晩から筋トレとプロテインを始めよう、と決意しながら。
読んで頂き、ありがとうございます。
何だか、ここまでまともな恋愛を書いたのが初めてな気がします。
短編にしては長いお話かと思いますが、最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。