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なな


→-4


 カフェ『シャガール』。

 画家の名を冠した喫茶店に舞台は立ち戻る。

 店内に流れるのは、ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』だ。


(これ、どっかで聞いたことあるような)


 真夜中のドライブ中に、聞いた覚えのある曲だ――そう木島礼津が心当たりを思い浮かべた時だ。

 ピアノの旋律を中断するように、からん、と入店のベルが鳴る音がした。

 卓を囲んでいた男三人の内、音楽に気を取られていた礼津は、はっと面を上げた。

 厳格な雰囲気を漂わせたひっつめ髪の初老の女性が入店し、店主に案内されてこちらを見る。


(あ、もしかして)


 中腰になりかけた礼津は、ショールを片手にツイードジャケットの女性が、教え子の有に目を留めたのを見て確信した。

 お目当ての人物だ。

 有が立ち上がり、「田所先生、お久しぶりです」とあいさつした。彼は妹の優花と同じく、山岡中学校出身だ。田所は有が山岡中学校に在学していた頃から同校で教鞭を執っている。


「ええ、瑞樹さん。元気にしていましたか」


 田所は目を細めて鷹揚に頷き、近づいて来ると、滝彦を見下ろした。


「初めまして。それとも、お久しぶり、というべきでしょうか」


 どういうことだ、と動揺する礼津に、ふてぶてしく腕を組んでいた滝彦はそれを解いた。

 片手で従兄弟を制すと、


「どうも。貴女が『前回』を持ち越しておられるとは思いませんでした――田所先生」


 きっぱりと返した。

 礼津は驚きで目を見張る。

 やり取りのいきさつが読めなかった。

 一方、田所は、席を勧める滝彦に礼を言って、席に着く。


「まったく。夢じゃないようね。わけが分かりませんが――現実のようですね」

「ええ。俺達にとっては僥倖ですが」


 諦めた風の田所に、滝彦は前置きすることも止めたようだ。直球に尋ねた。


「経緯を伺っても? あなたの知る篠原七子の死亡経緯、それに貴女がどうやって『本』に接触したのかについて教えてください」


 田所は沈黙した。

 しかし、逃れられない老いを刻んだその目はすでに滝彦の問いの意図を『理解』していた。

 ここに集った彼らは一瞬にして、自分達が『何か』に巻き込まれた同志であることを察したのだった。

 それはあえて言えば、『共感』の為せる技だった。

 異常事態に面した者が、互いのまとう戸惑うような恐れるような挑むようなその空気によって同類を嗅ぎ分ける。

 ゆえに、田所は疑問符を返すこともしない。珈琲を注文すると、彼女は額に皺を寄せ、きつく眉間を揉むようにした。


「そう。そうなのね。やっぱり、篠原さん――私は」


 いまだに信じられないのだろう。

 しかしこれは現実なのだと葛藤を押し込めたものか、田所は改まって口を開く。


「私のループする記憶の中で――最初の記憶は、篠原さんの自殺よ」


 びくっと肩を跳ねたのは、優花の兄である有だった。

 しかし、それは意味不明の話題を投げつけられた驚きではない。

 異様なことにも『理解』を及ぼしてしまう。

 理解できてしまうことへの恐怖を示す反応だった。

 滝彦は頷き、礼津に至っても、既知であることを示す苦い顔つきだ。

 田所は再び嘆息した。

 躊躇いのヴェールは一気に取り払われる。

 彼女は口を開いた。


「このことについて、言い訳は一切しません。彼女は我々の、いいえ私の力不足と怠慢で自殺に追いやられました。私の『あるはずのない』記憶では、校内でいじめを通り越した暴行事件が発生していたようです。彼女は遺書を残しませんでした。ですが、生徒達は彼女に何が起きていたのか知っていた――」


 田所は空中にあえぐようにした。


「篠原七子は、自分の恥部を一切知られたくなかったのでしょう。彼女がこのことを『恥』とみなして隠そうとしたことが事態を悪化させたのは違いありませんが、これを責めることはできません。思春期特有の潔癖というにはあまりに酷でしょう。それは、一人の女性として、人間としての尊厳が、知られたくないと彼女に最後まで沈黙を強いたのを私は理解しているつもりです」


 相談してくれていれば、という言葉を田所は言わなかった。ただ表情を厳しくし、続けた。


「しかし、死後それは暴かれ、日の下にさらされることとなりました。その詳細について、知った時、私は生徒への公平性を維持するのに、大変困難を強いられました。はっきり申し上げて、私はこれは悪魔の所業としか思えない。こんなことが、何の疑問もなく、想像力の欠如でもって為されてしまうものなのか。誰も止めずにエスカレートした結果、一人の生徒を追い詰め、彼女が自分で自分の命を断ち切らねばもうどこにも逃げ場がないと思わせてしまい、それを実行させてしまった。悔いても悔いきれぬそれが、私を時間遡行させたのかとも考えましたが」

「違いますね」


 滝彦は冷淡とも言える口調で否定した。


「ええ、そうでしょう」


 二人は問答すらせずに合意に達する。


「はっきり申し上げて、無責任な言い方ですが、私は自分が当事者ではない、と理解しています。つまり」

「レギュラーではない、ということですね」

「ええ。たまたま、舞台に押し上げられることとなったエキストラと考えています。私の記憶の継承は、あまりにも偶然の要素に依存している。私は、偶然異様なものに触れてしまった。篠原七子さんの自殺は、私以外の関係者も知るところです。ですが、私の知る限り、このような異常な記憶の継承は、私の周囲全員に起きていることではないようなのです。私に起きて、彼らに起きなかったこと。私やごく一部の人しか体験していないこと。いったい何が時間遡行のきっかけとなったのか考えました。いいえ、考えるまでもありませんでした。異様な体験を私はしていました。『黒い本』です。それも自動書記ともいうべき、勝手にページが増え、リアルタイムに絵が描きこまれていく本でした。私の身に起きた、人と違うことといったら、これが真っ先に頭に浮かびました。そこでもう一度探したのです。そうしたら、瑞樹優花さんがあの本を所持していたので、一時お預かりしました。あれは――普通の本ではありません。つまり、キーパーソンは篠原七子さん。そしてキーアイテムは、恐らく『黒い異様な自動書記の絵本』。違いますか?」


 滝彦は頷く。


「俺もそう推察しています。あれに接触し、『怪異』によって死亡……篠原七子の『退場』までに途中退場リタイアしなかった者のみ、『次回』へ記憶を継承していると考えています。ところで、俺は過去に遡行すること二回貴女と共闘し、敗れ、その後接触を控えました。俺は自分が動きまわることで、かえって本来の筋を歪め、自分が自体を引っ掻き回して悪化させているのではないかと悩んだ末、しばらく思考を放棄していました」


 彼は少し沈黙し、礼津と有を見やる。


「俺が引っ掻き回したことで、本来死ぬはずのなかった者が、死亡したためです。口にすることも憚るような無残なリタイアでした。それが今から数えて三回前のことです。俺は、後悔し、無気力に陥り、すべてを拒絶して何も干渉しないことにしました。しかし、何もしなければ結局篠原七子は運命の分岐点とも言うべき『Xデイ』を迎え、三か月後には自殺してしまう。これが本来の筋というものだろうか。いやそうではない。巻き戻しが起こる以上、何者かはこれを納得していない、と俺は何かの強烈に焼きつくような意思を感じました。篠原七子が死亡すれば、俺はまた最初からやり直しとなるのです。これはその何かの意思表示であり、メッセージであると。どれほど理不尽であろうと、何者かは納得していないと叫んで、俺たちを巻き戻すのです。俺はこの状況をどうしても打破したい。そして、それは貴女、いや、ここにいる全員の願いでしょう」


 礼津は驚いていた。

 何事も程々にこなしてしまう滝彦だ。あまり熱心に何事かに取り組むということはない。

 従兄弟が熱くなっているところを見るのは久しぶりだ。

 これほど静かながら苛烈になっているのは中学生以来ではないだろうか。


(相当キとるな)


 と礼津はあっけにとられていたのである。

 礼津自身について言えば、実はまだお客様気分が抜けていない。

 どこか事態についていけていないのである。

 何度も無残な旗折れを繰り返して来た滝彦と違い、礼津は従兄弟曰く過去のやり直しの世界で『口にするのも憚るようなリタイア』をしてしまったため、一度記憶をフォーマットされている状態だ。

 切羽詰まった現実感はない。

 滝彦の登場により不明の事態がある程度指向性をもったことで、悠然と構えてさえいられそうだ。

 どうなのか、とは思う。

 しかし、出口のない迷路を彷徨っている絶望感もない。

 やれば、できるはずだ、という気力に充実している。

 礼津に事態をどうこうする力があるとは、彼自身過信していない。

 だが、足りない部分は、皆で補えばいい。

 皆でやれば、何とかなるはずだ。

 そう動けばいい、と彼は確信していた。

 そして、従兄弟も同じ結論に辿り着いたのだ。


「まず、これまでの『世界』で体験したトライ&エラーを整理してお話しします。少なくとも、篠原七子は、現実世界において本来の筋とも言うべき状態におけば、生徒間の嫌がらせや暴行事件に発展し、最終的に『必ず』自殺してしまう。およそ、これから三か月後にです」


 田所は同意を示すように頷いた。


「次に、これを回避するべく、周囲から介入をした場合。これも、いい結果になりません。学校側すなわち田所先生から、そして第三者である俺から、アプローチしたこともあります。ご両親に惨状を訴えたこともありますが――」


 滝彦は言葉を切って、うめくように吐き出した。


「大失敗、むしろ大失態でした。どんなに試みても、篠原七子は自殺してしまいます。事態を悪化させたことしかありません。俺のやり方がまずかったのか。俺は一切接触せずに、ここにいる従兄弟の木島礼津を通してのみ回避を試みたこともありますが、結果は同じでした。最悪の事態を加速させました」


 え、俺? と礼津は思わず挙動不審になったが、誰も彼の様子に注意を払わなかった。

 少し礼津はがっくりした。


「ここで得た俺の結論は――篠原七子は、むしろ『本の中』に緊急避難させた方がよい、ということです」


 はっと礼津は滝彦の顔を見やる。これは、出がけにも彼が口にしていたことだ。


「篠原七子は、本来筋から離れた場合、我々がこの『巻き戻し』に付き合わされることとなったキーアイテムであろう『黒い本』に取り込まれます。信じがたいが、彼女は本の中の登場人物となって、我々がページをめくる都度、ストーリーを進めていくのです。このことはみなさん、ご承知おきでしょうが、よろしいですか」


 ぐるり、と眼光鋭い滝彦が全員の顔を見回すと、彼らはそれぞれに緊張しこわばった面持で頷いた。

 誰も異論はないようだ。

 あるはずもない。

 あの狂気のように塗りつぶされていく本。

 図書室で頭からばっくりと捕食され、黒いストッキングに包まれた足が、もがくように突き出ていた。

 礼津はぶるっと震えた。


(あれは、マジもんや)


 手品ではない。

 本当の本当に狂気そのもの。

 一体誰が、あのようなものを記したのか。

 ふと、礼津の頭に何かが引っ掛かった。

 しかし、滝彦の次の言葉でその引っ掛かりも指の隙間をこぼれ落ちてしまう。


「現実でのあがきが無駄とは思えないし、思いません。しかしながら、やはり篠原七子の『自殺』を回避するには、彼女を一度本の中に緊急避難させてしまった方がいいのでしょう。これはトライ&エラーをしている俺の結論なので、他に意見があれば忌憚なく言ってください」


 何となし互いの顔を見合わせ、口火を切ったのは田所だった。


「いえ、そうですね。何度も繰り返している辻境さんの得た結論であれば、全く意味のないものではないと思います。最善ではないかもしれませんが、一手目としては、無難なのではないでしょうか。少なくとも、今日の篠原さんへの暴行が回避できたとして、明日もあさっても回避できるとは限りません。彼女は――声をあげられるような生徒ではないのです」


 少し苦々しさを含んだような声だった。

 それは、はたして篠原七子に向けたものなのか、自身へと向けたものなのか。

 あるいは両者へか。

 礼津には区別がつかなかった。


「し、しかしやな。優花ちゃんはどないするっちゅーんや。優花ちゃんだけでも助けたらないかんで」


 礼津がこればかりは譲れないと口を挟むと、有も今にも泣き出しそうに顔面をぐしゃりと歪めて、唇を震わせている。

 言葉にならないようだ。


「ああ、そのことか」


 言ったと思うが、と滝彦はどこか冷淡な目つきで答えた。


「悪いが、今回については手遅れだ。道中に言ったと思うが、瑞樹優花の回避は、昼休みに校外に連れ出すことだ。今もう十三時を過ぎているからな。瑞樹優花はとっくに巻き込まれ済だ。あの黒い本を彼女が回収しているだろう」


 がた、と椅子を蹴倒すように立ち上がったのは有だった。


「あんた!」


 つかみかかろうとした有を、慌てて礼津が止める。


「優花を助ける方法、分かってて、あんた!」


 背後から止める礼津を振り払わんばかりに、有は猛り狂っていた。

 一方、礼津は滝彦の周到さに舌を巻く思いだった。

 おかしいと思っていたのだ。

 なぜ、巻き戻しが起きてすぐに滝彦は礼津のアパートを強襲しなかったのか。

 無駄に時間を過ごしたのか。

 違う。

 逆だった。

 礼津達に、対処する時間も情報も与えないように彼はふるまったのだ。

 だから、滝彦は昼になるまで礼津に接触せず、説明もしなかった。

 あるいは、関係者全ての瑞樹優花救助フラグを念入りに潰して回ったのかもしれない。

 最初から、滝彦は決めていたのだ。

 篠原七子も、瑞樹優花も、両者ともに本の中に『緊急避難』させてしまうと。


「言っておくが」


 滝彦は冷ややかに有を見た。

 怒気を発している有の方が、恐れるように気圧される。


「俺は、自分が間違ったことをやったとは微塵も思っちゃいないぜ。あんた兄貴なら知ってるんだろう? 瑞樹優花は、篠原七子の自殺に一役も二役も買ってる。未成年だからって関係ないね。悪意なき悪意だから罪がないとは言わせない。俺はな」


 怒ってるんだ、と滝彦は唇の端を歪める。

 笑っている。

 しかし、これほど恐ろしい笑い方は、他者の心胆を寒からしめるだけだ。


「いい加減うんざりもうんざり、怒ってるんだよ。あ、分かるか。てめーの妹はてめーのケツ自分で拭かせなきゃならんだろう。それだけのことしてんだよ。瑞樹優花も、間違いなくレギュラーだ。何度も繰り返している俺が断言する。彼女は関係者だ。間違いない。彼女を舞台に上がらせようとする何者かの意思を俺ははっきり感じてるんだ。俺はな、何度も間違えた。何度も何度も何度も間違えた。人が死んでるんだよ。間違えば、これからも死ぬ。だからな」


 これで最後だ。


 静かに付け加えた滝彦の目は、青い焔が燃え上がっているかのようだった。


「『登場人物』は過不足なく舞台に上げる。俺は舞台を整える。邪魔はさせない。そしてな、足りない奴らはかき集める。出し惜しみは一切なしだ。わかるな?」


 分からない、と有がかみつくと思った。

 しかし、有は真っ青になった顔で、長い沈黙の末、頷いた。

 礼津は内心驚愕した。

 優花の兄である有にとって、滝彦の言い分は、納得する要素は全くないのではないか。


(こ、これはいわゆる恫喝恐喝の類か!? 気圧されてしもたか、す、すまん、有くん!)


 などと礼津が動揺する中、有はゆっくりと腰を下ろすと、思いつめた表情で言った。


「役者、全部揃えればいいんだね」


 滝彦は頷く。

 二人は何か通じてしまったらしい。


 全員集合ですよ、と礼津の脳裏に幻聴が聞こえた。

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