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ろく

本作はフィクションであり、特定の思想、人物、団体、国を誹謗中傷、批判する意図は全くありません。作中設定であることをご留意願います。物語のエッセンスとして服用ください。



21


 ティフ神聖国の王都の造りは、古式にのっとっている。

 宮殿の背後に禁足地があり、これはその名の通り、王族の狩場であって、臣民は入ることができない。

 また、宮殿正面にはまろやかな半円形で広場を隣接しており、大路が王都を南北に貫いている。

 大官貴顕の王都における邸宅――彼らは本来領地があり、領主として本宅は封ぜられた自領に館マナー・ハウス、城キャッスル等を持つ――が北区の一等地に並び、次に高級官僚住宅街、隣接して高級花街、王室御用達とされるような高級店舗、金融や技能職関係の商業街区、と次第にグレードが下がって、南へ行くほど貧しくなり、貧民街は東西に走るオールド・リバーの向こう側に押し込められた形となっている。

 つまり、王宮、と言うとき、それは王都の北端を指し、更にその併設する庁舎を含む。

 この王宮の外周を、物理的城壁が覆う。

 城壁は二重構造の宮門で内と外を区切り、五種の近衛兵連隊ロイヤル・ガーズが、衛兵として交代で警護することとなっていた。

 なお、王宮内もまた仕切られ、王族の居住域である内廷と庁舎の並ぶ外廷は厳格に区切られている。

 一方、宮門より外は、王都を警護する憲兵隊の領域だ。

 憲兵は、宮門より外に庁舎を持ち、王都の安寧を維持する。

 しかし、実際のところは、王都の外郭門から、王宮の宮門におけるまでの『防波堤』として臣民を一定数確保し、生産者及び消費者として据え置くことがその役務であった。 

 本質的には、決して『臣民を守る』構造をしていない。

 究極に守られるべきは、王族であるという当世の『常識』のためだ。

 臣民が君主に主権を委託したのではなく、『神』という上位存在によって、君主はそうあるべくして王権を授けられた――これが根幹にあり、民の為に王があるのではなく、王の為に民がある。

 これをおかしい、と言ってしまえるのは、七子が生きる現代の発想である。

 更に、この思想を生み出し改良し続けて来た先人達による発明の領域だ。

 つまり、主義、思想とは、一種の発明だ。

 少々強引だが、生魚を食さない文化圏の人にとって、生魚を食すということ自体、発想の転換、気づきであり、同時に信じられないような非常識である。

 あるいは、偶像を崇めない文化圏の人が、偶像崇拝文化圏における偶像を壊して回る『親切』を行った場合、それはどのように解釈されるだろうか。

 受け入れる土壌ができていない状態で、天動説ではなく、地動説を民衆に説いた場合、拍手喝さいよりも、むしろ人々は素朴で単純な世界の崩壊に恐怖するだろう。

 主張した者は、石をぶつけられ、憎悪される。民衆を混乱と恐怖に彼らを突き落とすからだ。何より、脅かされた既得権益者は牙を剥く。

 文化上、その発想自体がなかったわけで、発想がなかったところに新たな発想を持ってくると、必ず『異質』に対する嫌悪、反発、迎合、摩擦が生じる。

 その発明は早すぎた――

 理解出来ない。

 ゆえに、敵である。

 叩き潰してよい。

 叩き潰すべきだ。

 この流れは、歴史に散見されるものだ。

 権力者に有利な構造を指差して、『不適切だ。民のことを考えなさい』と言うためには、主義と主義が闘争する火付けの後、それなりに血を流す覚悟がいるのである。

 既得権益者は必死で抵抗するし、新たに利益を得る層は、自らの『正義』に応じて、どこまでもえげつなく振舞うことが出来る。

 パラダイムシフトが起こる時、『大義名分』の名の元、古い思想に『虐げられて来た者達』は、今度は自らが悪夢のような加害者と化すのだ。

 宗教問題の一例を挙げると、精霊信教徒がルーラー教徒を拷問したのは数世紀前の話であるし、逆襲にルーラー教徒が精霊神教徒を大量処刑したのは半世紀少し前のことだ。

 更に、公開処刑に熱狂したのは民衆であり、喜び勇んで見物に押しかけた。

 処刑されたのは、彼らにとって富裕層であったためだ。

 当世、自らより豊かな者は、妬みを買い、彼らが罰を受けることは、民衆にとってなんともいえない愉しみであった。

 親切な隣人が、いかに善良な殺人者と化すかは、前王の発布した『暗黒法ブラック・アクト』による、平民の平民による魔女告発が高らかに証明している。

 教会による異端狩りよりも、平民同士の私刑紛いの告発の乱発は、私有財産の権利を侵し、生産性を凄まじい勢いで低下させた。

 暗黒時代と呼ばれる前王治世である。

 この文字通り『暗黒法』は、国家を一気に疲弊させ、女王がその混乱を立て直すまでには相当な努力と一進一退の苦節の時が必要であった。

 ティフの歴史を紐解くと、このような血生臭い闘争から、民衆の暴徒化まで、枚挙に暇がない。

 アビゲイル女王の冷徹な王権護持は、彼女の幼少時の『暴動』や『自らの暗殺未遂』などの記憶が、それを強固に支えている。

 この女王は、信用して任せてしまうが、その民衆の『理性』を決して信頼してはいなかったのである。

 これは区別なの、というのが彼女の言い分である。

 能力を信用しても、理性を信頼してはいけない。

 理性は常に、揺らぐものだからだ。

 これを引っぺがされた人間がどこまで残虐になれるかを、彼女は身をもって知っている――


「だからねえ、困っちゃうのよねえ」


 優雅にティー・カップに口をつけて、香気を楽しみながら茶を飲むと、アビゲイル女王は言った。


「魔神とその眷属をね、証人として大陸会議に参考人招致するのって、やっぱりまずいかしら」

「まずいに決まってんだろ、このもうろくババ!」


 声を荒げたのは、ソファーの背もたれ部分に腰掛けて、足首を掴んだまま全身毛を逆立てた猫状態の守護聖霊であった。


「お前なあっ、昔っから非常識が服着て歩いてるような女だったけど、ここまでぶわっかとは思わなかったぜ。頭わいてんの? ねえ、わいてんの?」

「どうしようかしら。色々下から耳に入るけれど、直接会ってみたいのよねえ。せっかく青い人のご紹介ですし。でも、あの人もどうかと思うわよねえ。赤い人に寝首を掻かれるとか、それってどうなの? 危機感ゼロなのかしら? お馬鹿さんなのかしら」

「おい」

「どうなのかしら。それに、うちにもなにかしら、すごーく怒って、駄目ーって言う人がいるし、でもねえ」

「お前さ、聞けよ。俺の話、頼むから聞いてくれよ」

「反発されるだろうし、下手すると内が魔神に迎合していると言い出しかねないお隣の若者やお隣の若者やお隣の若造もいそうだし、あんまりメリットないのだけれど、今のままでもジリ貧ですものねえ」

「ジリ貧とか、どこで覚えた」

「魔神も自由に闊歩しちゃってくれるじゃない? あれって、力は全くないか、人間と同じくらいに薄めてしまったから入れたのかしらね。でも、誘惑するだけなら口で事足りるし、本当に厄介よねえ、私の網だとすり抜けちゃうわけだし」

「おいって」

「そもそも、あの若造がね、本当にもう、こう、ぐちゃ! ってしてやりたい気分に駆られることもあるのよ。でももう、私もそう若くないし」

「……」

「やっぱりうちの若者に任せちゃおうかしら。でもねえ、でもねえ、やっぱり会ってみたいわ。会いましょう。決めた」

「頼むから俺の話聞いてください」


 アビゲイル女王は、ソーサーを卓に戻した。

 初めて気がついた、という顔をして、頭を僅かに傾けた。


「あら、どうして泣いているの?」

「俺は、お前が俺がどうして泣いているのか分かっていてそういう台詞吐くところがすげーしんどい」

「繊細なのねえ」


 困ったようにとぼける女王は、白いレェスの手袋をはめた指先で己の頬に触れる。

 カップの中に広がる波紋に視線を落とした。


「ねえ。魔神とは何なのかしらねえ」

「――」

「どうにも、一貫して一貫性がないのよねえ……私が魔神なら、こんな手ぬるいことはしないのよ? 手加減しているわけじゃないけれど、奇妙に『縛り』を設けて、戦局を調節されている感じね。最初に火蓋を切って落として、後は何というのかしら……長期化を望んでいるような」

「知らねえよ。とりあえず短期決戦でぶっつぶせよ」

「そうしたいのは山々だけれど。そうねえ、ふり幅は短期では上下するけれど、もっと長期的に見ないと駄目かもしれないわね」


 女王は老いを感じさせぬ所作ですっくと立ち上がった。

 白地に金と銀で繊細に模様を描いたドレスの裾を翻し、窓際へと歩いて行く。

 宮殿から、正面広場、そして王都を貫く大路の左右に街並みが見える。

 輝やかしく富み栄え、汚泥と貧困にひしめく営み。

 彼女達が連綿と守り、破壊し、打ち立て直し続けたもの。

 守護聖霊が何を懸念しているのか知っているが、彼女はまた同時に知っていた。

 この都が炎と燃えても、国は消えない。彼女が死んでも、国は滅びない。

 領域、人民、統治権が三位一体にある限り。

 だから、本当は、何も憂うことはないのだ。

 彼女もまた歯車のひとつに過ぎず、歯車は代用が利くのだから。

 そして、三位一体にあるべきどれかを奪おうとするものには、その主権を駆使して、徹底的に妨害し、潰す。

 潰すこともバランスを崩壊させる害悪であるなら、間に横たわる障害を除去し、再び天秤を元に戻さねばならない。

 大陸の均衡装置は、人や国の姿を借りて、芽吹こうとするものを刈り取るだろう。 

 それでもならぬ時は――時代が求め、変わることを余儀なくされているということだ。

 その時はその時ね、と彼女は侍従を呼んだ。




 

 足元に冷気が這い寄る。

 身体の片方は少し冷えるが、もう半分は熱源にくっついて、温かいなと七子は思った。 

 何だろう、と思って目を開けた七子は、固い胸板の感触に驚き、巻きつく腕に混乱し、更に上を見て絶句した。

 馬車の座席だ。

 座ったまま、二人で毛布を分け合う形で、エリアスの腕の中に巻き込まれるようにして暖を取っていたのである。


(う)


 と七子は目を見開く。


(うあ)


 すると、元々目が覚めていたのか、ぱちり、とエリアスが目を開けた。


「おはようございます」


 全く揺るがない、いつものエリアスである。

 七子は「お、おはよう、ございます……」と蚊のなくような声で挨拶した。

 エリアスの腕が外れ、彼は淡々とした口調を崩さずに、七子の調子を確認した。 


「身体は、痛くないですか」

「は、はい。大丈夫です」


 グレンが、半眼で窓の外を見ながら「うぜー」と非常にやる気のない声音でコメントを入れた。

 靄を透かす光の加減から、まだ早朝だった。

 七子はぎくしゃくと座り直し、毛布を丁寧に畳んで、心頭滅却に努めた。

 何故こんなに顔面に血が集まってくるのか。

 人に触られるのは苦手だけれど、凄く安心して、全然気づかなかった。

 エリアスに対して、七子は「いい人」だと好意を抱いているが、エリアスはどうだろうか。  

 それを思うと、自然と七子の気持ちは下降する。

 しかし、少女にもその気持ちを、表面化すべきではない、という判断は出来た。

 誰も得をしないし、ただ覚えていて、気をつけて、調子に乗らないようにしなければ。

 そう七子は己に言い聞かせて、毛布を綺麗に四つに畳んだ。

 トランクを開き、詰めなおそうとして、他の荷物を確認する。


「あ」


 思わず、間抜けな声が出た。


「――何か?」


 狭い座席のこと、エリアスに顔を寄せられ、


(ち、近い)


 とまたもや七子は内心仰け反ったが、その距離は嫌なものではなかった。

 どちらかと言えば、七子は他人と物理的にも精神的にも距離を置いていないと安心できない孤独愛好体質だが、何故かエリアスは大丈夫なのだ。

 どきっとするけれど、自分がここにいることで、他人を不快にさせるのではないかという強迫観念のように追い詰まっていく、あの疲労感はない。

 七子はそれが――とても貴重で、大切で、嬉しくて、少し胸が痛むように思えた。


「えっと、あの、マリアさんから頂いた巻物、です」


 七子は手にとって、紐を解いてみた。

 例の日本語文書である。


「エリアスさん、読め、ますか?」


 少し首を傾けて尋ねると、エリアスは「いえ、私には」と申し訳なさそうに答える。

 七子は少し慌てたが、グレンもまた「俺にも読めんわ」とひらひら手を振ったので、空気が弛緩するのを感じた。グレンは意外と気遣いが出来る男で、細やかな気配りを忘れず、絶妙なタイミングでムードメーカー的に振舞う。

 彼にとって、『顧客』にそれなりの品質を持つサービス提供をすることは、造作もないことであった。

 肩を撫で下ろしていると、子だぬきがいつの間にか座席を這い上がり、巻物を開く七子の膝の上に乗り上げて、ずぼっと顔を出した。


「ん!」


 何か達成感を得たものか、巻物と七子の腹の間で満足げである。

 硬直した七子は、心の中で、子だぬきを力の限りぎゅっとした。実際しなかったのは、誤って『きゅっ』と絞めてしまいかねなかったからだ。

 エリアスが横で嘆息していたので、七子は余りはしゃいじゃ駄目だと何度も脳内に唱えることとなった。

 ようやく平常心をどうにか取り戻した少女は、「不思議ですね」と呟いた。


「これを、神代文字、と言うのに、読める方は少ない、んでしょうか」


 疑問に答えたのはグレンである。


「そいつは、この世界の謎の一つなのさ」

「え?」


 疑問符を浮かべた彼女に、グレンは猫背気味、両膝を開いた姿勢でへらへらと説明した。


「『語族』ってもんがあるが、その神代文字、つまり《神代語》ってのは、祖語がないんだな」

「えっと、『語族』や《祖語》って、なんでしょうか」

「あー、『語族』は、共通の祖となる言語――つまり《祖語》から発展してきた大きな言語のグループのことだな。ゲテナ語だと、この語族の中に東ゲテナ語派、西ゲテナ語派、って更に下層の区分に分かれてくる。ティフ語族もいくつか語派があるな」

「――はい」


 七子が思い浮かべたのは、フォルダである。

 フォルダには、『ゲテナ語族』という名称がついている。これを開くと、ツリー状に階層を閲覧でき、中には東ゲテナ語派、西ゲテナ語派というファイルが入っているということだろうか。

 他に、フォルダは『ティフ語族』や『○○語族』など同階層に並んでいて、各フォルダを開くと、やはり語派というファイルが出てくるのだろう。


「それぞれの語族にゃ、遡って行くと、元になった言語ってのがある。ところが、その《神代語》は、系統が全く不明なんだわ」

「――系統が、不明?」

「要するに、仲間外れの言語だな。他にグループがない。系統も遡れず、その子々孫々の系譜も作っちゃいない」


 グレンはおしまいとばかりに肩を竦める。

 孤立した言語――七子は改めて巻物に視線を落とした。

 日本語だ。

 『カルマ門』を思い出す。

 あれも異様な建築様式だった。

 凄くちぐはぐで、この世界に連続性を持たない。

 前後に文化を発展させていないのだ。


(何だろう。何だか)


 怖いな、と七子は今更に不気味な何かを感じて、ぶるっと震えた。

 何かの大きな作為が働き、この先に大きな《口》が七子を呑み込もうと待ち構えているかのように思えたのだ。

 しかし、七子の恐怖を知ってか知らずか、気づくと少女は毎朝エリアスの腕の中で目を覚まし、あたふたしながら少しずつ強張った表情が解れて行った。

 エリアスは直接に慰めの言葉をかけるわけでも、察して確かめることもしないけれど、必要なことを必要な分だけ行う。 

 駅馬車は何度か経由の門番小屋で馬をつなぎかえ、予定通りティフ神聖国の王都へ辿り着いた。

 七子は、下車する際、喧騒にぼんやりたまま、先導するグレンの背中を追いかけたが、すぐに足を止めた。


「ちょっとだけ、待ってください」


 と駅馬車の方に引き返したのだ。

 御者と車掌の元に走ってゆき、寒さ以外の理由で紅潮する頬のまま、がばりと頭を下げた。


「お世話になりました。ありがとうございました」


 二人は顔を見合わせた。

 礼を言ったことで、少し笑われてしまった。

 しかし、かつての七子の恐れた的外れな行動に対する失笑ではなく、彼らは帽子のツバを持ち上げ、


「どういたしまして」

「王都を楽しんで行きなさい」


 という温かな笑いで返した。





22


 王都に到着してからは、トントンに話は進んだ。というより、事前手配、段取りは、七子の想像を遥かに超えるレベルで緻密であった。

 グレンが先導した中継ぎ場所の国教会にはすでに迎えが来ており、彼らは馬車に乗り、王宮へと案内される。


(きゅ、宮殿、だ)


 七子はきょろきょろしないだけで精一杯だった。

 壮麗な尖塔アーチに飾りアーチは視線が上に吸い込まれることによって、見る者の意識を天上へと高く誘う。その曲面を成す交差した穹窿ヴォールトは高さと奥行きを巨大に錯覚させ、複雑な模様を透かす欄間のような窓飾り《トレーサリー》が連なり、側廊の外壁である控え壁から屋根をまたいで主廊には飛び梁が渡してある。

 俗に言われるのは、ティフ人は、長さに熱意を捧げ、ゲテナ人は高さと幅に熱意を燃やし、トエ人は装飾過多であり、ノール人は陰気で薄暗いのは自分のせいではないと言い、クシャナの人はどこでも寝られるから家を建てない。なお、ポラン人は他人の家に間借りする。

 因みに、穹窿の高さを追求する余り、大胆にそびえ立つものを作り上げた結果、崩壊したと言うのは、ゲテナ人であり、ティフ人は「野心が高過ぎるのも、身を滅ぼすという典型例と言うわけですな」と嫌味を言ったところ、小規模な小競り合いに発展したと言うから、口は災いの門である。

 そんな、この大陸の『穹窿の闘争』における歴史を知らない七子は、素直にただ感心し、圧倒されるばかりであった。

 彼らは正規の客人として玄関ホールを抜け、ハーミッツヒル地方の川床から運ばせたという十二本の緑円柱を配した控えの間を通り過ぎ――ることもなく、実は西塔にある礼拝堂から長回廊ロング・ギャラリーを歩いていた。西棟には、金色の額縁をした肖像画を赤い壁紙の壁面に飾る長回廊の他、無数の客室や客間が配されている。


「こちらでお待ち下さい」


 その客間の一室で、七子達はしばし待機することとなった。

 七子は毛穴が全身開くように体温調節が出来なくなっていた。

 掌に汗をかいている。

 彼女は、『視線』を感じてた。

 この客間は、密閉空間ではない、と思った。


(見られてる)


 観察されている。


(危険か、そうではないか?)


 エリアスは座ることもなく、腕を組んで静かに待機しているし、グレンはどっかりとソファに腰掛けて脚を組み、とてもリラックスしているようだ。

 七子も見習いたかったが、彼らはこの『視線』に気がついているのだろうか。


(気づいてない、わけがない)


 だから、エリアスは座らない。

 だから、グレンは泰然としている。

 子だぬきは――ソファの下が気に入ったらしく、もぐりこんで、短い両手を前に出していた。

 小さな子どもは、狭い空間が好きだ。洗濯籠、クローゼットの中、ベッドの下。

 子だぬきも同じようなものなのかもしれない。

 少しだけ、七子は緊張が和らいだ。

 しばらくして、また別の迎えが来る。

 今度こそ、彼らは女王の私室へと案内された。


 私室、と言っても応接室のようなものである。

 大きな窓からは、遮光カーテンがひらとはためき、重厚なマントルピースと優雅な卓や赤い布張りの椅子が何脚も配置されており、壁紙は爽やかで上品なライムグリーンであった。

 そこには、喫茶中の老齢の小さな女性がいた。

 彼女の傍には、鷹のように鋭い目つきをした片マントの男性が控え、何故か金色の髪をした十歳前後の子どもが少し離れて不機嫌そうにソファで胡坐をかいている。

 カップを卓に音もなく戻すと、老齢の女性――アビゲイル女王は「あら」と言った。


「こんにちは」


 普通に挨拶され、面食らった七子は思わずきょろきょろと左右に目を走らせたが、救いの手はない。

 グレンはいつの間にやら洗練された所作で胸に手を当ててお辞儀しており、逆にエリアスは微動だにしないでいる。


(ど、どっち? どっちが正しいの!?)


 パニックに陥った七子に出来たのは、


「こ、こん、にちは……」


 震える足で挨拶し返すことだけだった。


「声、ちっちぇー」


 ソファの方からぼそっと聞こえた子どもの声に、七子は「すみません」と言ったつもりだったが、実際その言葉は喉元で掻き消えた。


「こら、苛めちゃ駄目よ。まあ、座ってちょうだいな。非公式なものですからね、別に構いやしないのよ」


 ティフ神聖国の女王、アビゲイル。

 事前に少しだけ彼女のことを「春の女王」だと聞いていたが、七子はむしろ竦みあがった。

 その穏やかに見える笑顔がともて恐ろしかったからである。

 空気は読めるけれど、全く迎合できない七子は、臆病者の勘で、今ちょうど自分が分水嶺に立たされていると感じていた。

 見定められており、位置と距離を測られている。

 その上、示威行為として、微笑しながらも、その空気は間違いなく威圧するものだった。


「あらあら、嫌だわ。魔神のお嬢さん、私のことが怖いかしら?」


 困ったように眉を八の字に下げた女王は、その侍従に椅子を引かせて、七子を座らせると、全く座ろうとしないエリアスと、あくまで案内人として振舞うグレンのことは、そのような立ち位置と考えることにしたようだ。


「あら、まあ、変わった獣人だこと? クッキー差し上げても?」

「いる!」


 あわわ、と慌てた七子とは別に、子だぬきは、ぴょんぴょんテーブル下で飛び上がって、女王が少しかがんでお菓子を上げると、


「ありがと」


 とそのまま、エリアスのところに持って行った。

 エリアスは無言で頷いた。

 食べ始めた。


「――まあ」


 女王はとても感心したようだ。七子は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。

 色々と。


「ずいぶん肝の据わった獣人ねえ」


 七子は、事前にエリアスと相談したとおりに振舞うよう心がけ――半ばくじけつつ、「はい」と返事した。

 つまり、どちらが上、下、というのは、明確にさせない。

 アビゲイル女王は人の世界の国における国家元首であり、七子は魔神である。

 礼を失することは厳禁だが、自らへりくだる必要はないし、そうしてはいけない、ということだった。

 それは、向こうも分かっているはずだ、とエリアスは言っていた。

 究極に言うと、女王と七子は対等なのである。

 片方はとてつもなく頼りなくはあるが。


「そうねえ、じゃあ、これから少し難しい話をしようかしら。私はもう実を言うと半分目的は果たしてしまったのだけれどね」

「え、あの」

「会うこと自体が目的だったのよ。自分の目で見ないと分からないもの。そうねえ、あなた達、やはり少し違うわね。生まれたばかりと人づてに聞いたけれど、そうなのかしら?」

「はい。でも、少し、違います」


 七子は、年齢で女王を立てることは問題ないと聞いていたので、そのように振舞うこととした。


「私は、この世界には、少しだけ前に生まれたのかもしれません。でも、その前にも、別の世界で十五年間、生きてきた記憶が、あります」


 七子は、自己紹介と自分が生きていた場所に戻りたいこと、そのためには異界へ続く扉のあるという大迷宮の最下層まで辿り着かねばならないこと、自分だけでどうにか出来るとは思っていないこと、可能なら協力を仰ぎたいし、自分が協力するのを惜しまないということを、たどたどしく説明した。

 すでに、十階層におけるネコノカ族の保護と彼らによる技術協力で、拠点を築きつつあるので、協同したいと具体の話も盛り込む。

 エリアスのことは、打ち合わせどおり、自らの眷属としたことも話した。

 これは、事前に、「いくら隠蔽しても、あの化け物ばーさんにはすぐばれっから、自分で先に宣言しておいた方がポイント高い」というグレンの差し金である。

 女王は口を挟まなかった。

 彼女には不思議なところがあって、人から話を聞きだすのがとても上手い。

 この人なら、自分の話を聞いてくれるのではないか、と思わせる天性の才能があった。

 いや、それは、その波乱に満ちた人生のもたらした技能であったかもしれない。

 話し終えた七子に、女王は一言礼を言い、


「少々、私も見通しを改める部分があったわねえ。実に、貴重なお話だったわ」


 どきっと七子は内心汗をかく。

 じゃあ、これでおしまい、では困るのだ。

 しかし、アビゲイル女王は、冷めた七子のお茶を変えさせると、喫茶を勧めた。


「大迷宮の復活。初撃は、門の出現地はどこもそれなりの被害をこうむったわね。特に、古き魔神の調略、ザール崩し。本当にあっという間だった。その後、積極攻勢がまるで嘘のような不自然かつ不気味な停滞。よって、警告は警告とならなかったのよ。私達は今、敵を内部に飼っているの。怠惰と妥協と安寧がいつまでも続くという根拠のない集団心理と、楽観視、肥大した自我は大迷宮の《攻略》ではなく、『維持』、『管理』を可能だと判断したの」


 はっきり言って、と女王は肩を竦めた。


「ゲテナ統一帝国は、大迷宮の永続的資源搾取を目標としている。分からないでもないわ。分かるけれど、私は反対なの。でも、賛成している国も少なくない。彼らは、魔神ごと、掌握できると踏んでいるのよ。あなた達を、上手く扱えると自信を持っているの。実際、どうかしら?」


 七子は見据えられて、背筋が伸び上がった。

 女王が、とても怖かった。


「今、あなたは私の結界内で、異物としては判断されていない。それは、貴女が上手に力を抑えて、『隠蔽』しているからね。これは私の網が大き過ぎるという悩みでもあるわ。ああ、もし魔神として元に戻ろうとすれば、それなりに痛いのを覚悟してちょうだいね。王都にいる間は、お願いするわ」


 はい、と七子は頷く。


「ありがとう。そうね、魔神とは――何なのかしら、大迷宮に放り込まれた者、神であった者、そして新たに生まれる魔神。大迷宮の復活とともに、数を増減させているのは、確認できているの。私は何て言うのかしら、大迷宮は、魔神の誕生と育成を担うものなのではないかと、そんな風に思えて仕方ないのよ。そして、古参の魔神は、それを承知している。だから、長期化を望んでいるのではないかと、そう操っているのではないかと邪推してしまうのね」


 彼らの目的は、長くに《外界》と接触して、魔神を誕生させ、呼び込み、時に育成すらすること、それ自体が目的ではないのか。

 そう、アビゲイル女王は語ったのだった。


「え、あの、私、でも」


 七子は右も左も分からなくて、アビゲイル女王の見解を聞かされても、そうだとも違うとも言いかねた。汗ばかり噴き出て、視線が定まらなくなってくる。すでに緊張し過ぎて、どこか螺子が一本飛んでしまっているように、具合がおかしいのだ。


「混乱させてしまったわね。正直言って、あなたは魔神と言うには、まだ正確には《それ》ではない、と思うわ。つまり、古き魔神達に参列するまでに至っていない。最下層まで到達するということは、『それ』になる、ということかもしれないわ。少なくとも――過去の英雄達は、『還って来なかった者達』がいるの。あまり、知られていないというより、時の為政者はそれを隠したのね。流布させるには、よろしくない物語ですもの。そうね、『彼ら』は新たなフロンティアである異界の扉を開けたのかしら? それとも」


 彼ら自身が魔神となったのかしら?


 そう、告げたアビゲイルに、七子は全身総毛立った。

 思わず。

 思わず、エリアスを振り返る。

 少女の目は限界まで見開かれていた。

 何かが、七子の中で当てはまって行く。

 金色の炎に落城するザール。

 牛頭の化け物。

 魔神を愛してしまったと顔面を覆ったローザリンデ姫。

 彼女を腕に抱いて、背を向ける魔神ジャムジャムアンフ。


 そして、その背に喉も裂けよと、咆哮のような絶叫を覆いかぶせた『たった一人生き残った騎士』。


 何なのだろう。

 何、これは、と七子は顔面から血の気を引いて行く。

 浚われたお姫様。

 浚った魔神。

 彼女を救い出すと決意する騎士。

 彼は英雄だ。

 勇者だ。


 これは、英雄譚だ。


(本当は、英雄譚、だった、んだ)


 歪んでしまったけれど、本当の姿は、そうあるべきだったのではないか。

 強烈に、七子はそんな印象を焼き付けられ、全身から汗が流れるのを感じた。

 その後、どんな風に話が進んだのか、少々記憶が定かでない。

 いくつか重要な打ち合わせをグレンやエリアスも交えて行い、非公式にして非常識な人の世の君主と魔神の会談は、一旦幕を閉じる。


 大陸会議は、要人を各国の大使館や王宮の客室に迎え、三日後に迫っていた。





23


「外部の世界。それが、大迷宮の奥にあるものだと言うのかしら」


 老いた女王は呟き、


「――半分、正解」


 狡猾な魔神は左の手の甲に頬を乗せたまま、密かに応じて、賞賛の拍手を送った。








 七子達には、客室が用意された。

 ここからここまで、という限定空間ではあったが、自由に出歩いても良いと言われ、七子は面食らい、借りてきた猫のように大人しくしていた。

 好きにしてよい、と人が言う時、どんな意図があるのか少女には分からないのだ。

 例えると、自由工作などは最も彼女の苦手な分野であった。

 グレンは野暮用だと言って、多分色々仕事の話をしに出て行ったし、エリアスも何か気にかかることがあるようで、七子の予定を尋ね、部屋を出るつもりはないと言うと、「少し外します」と出て行った。

 そういうわけで、少女は子だぬきと一緒にちょこん、と椅子に座っている。

 もちろん子だぬきは大人しくしているわけがなくて、部屋の対角線から対角線まで走ってスライディングする一人運動会をした後、床の上で「死体のふり」をしていた。

 それにも飽きると、七子の足元にとことこやって来て、


「あのね、ぼく、おんも、出る」


 と少女のスカートの裾を引いた。

 外に出たい、と言うのだ。

 七子は正直困ってしまって、「エリアスさん、帰ってきてからでも、いい?」と腰を屈めて聞いた。

 子だぬきは小首を傾げたが、こく、と頷いた。

 未練たらたらに窓の方を見ているので、七子は早くエリアスさん、帰って来ないかな、と思った。

 子だぬきと一緒に「せっせっせ」と手遊びをしながら時間を潰していると、扉を叩かれた。

 びくっとした七子は、次に「どうぞ」と応じる。

 エリアスではない。

 たっぷりしたくるぶし丈のスカートにまっさらな揃いのスカーフとエプロン。ぴったりしたボディスに幅広のリネン、白蝶貝のカフス。

 王宮の女官達である。

 お召し物を、と言われて、だらだらと汗を流しながら「い、いいです」と攻防を繰り広げる羽目になった七子は、ハッと背後を振り向き、絶句した。

 子だぬきがいなくなっていた。

 窓は――開いていた。


(ど、どうやって)


 あのちっちゃな子だぬきが、と七子は驚愕し、「ごめんなさい」と断って、女官達の間から抜け出した。

 まるで風に浚われたリボンがするりと彼女達の手を逃れるように身を翻す。

 女官達は一瞬呆然とした。


「あ、お待ち下さい」


 背中に追いすがる声に再度謝罪し、七子は小走りに骨董品回廊アンティーク・パッセージを南に抜けた。

 行き止まり、休憩通路ロビー前の階段の手すりにつかまると、一階へ駆け下りる。


(落下、してたら、どうしよう)


 泣きたかった。

 自分が目を離したせいだ。

 七子達は、三階の客間にいた。

 勢いあまって、落下したのだとしたら、無事だろうか。

 頭が回らず、もし回ったとしても、人に様子を見に頼むことも出来なかっただろう。

 すれ違う人々に奇異の目を向けられながら、息を切らして七子が外に飛び出した時、


「――」


 七子は、息をするのすら忘れた。

 限界まで見開かれた目は、その動揺する心を映し出して不安定に激しく揺れる。

 庭の木々が揺れ、白い花房がぽとりと落下した。

 言葉に詰まった七子の目の前、同い年くらいの少女が振り返る。その繊細にうっすら透けてはふんわり重ね合わせる生地のドレスは、まるで彼女を妖精のように錯覚させた。

 その腕に、子だぬきを抱いている。

 七子の姿を認めて、驚きに、同じく目を丸くした彼女は、桜桃のような唇から漏らした。


「篠原さん」


 心臓が、大きく鼓動を打つ。まるで、見えない手で掴まれるような惨めさが七子を押し潰す。

 あの日の朝の光景が七子の脳裏に蘇った。 

 回し読みされたノート。

 嘲笑。

 ――篠原さんって。

 ――だよね。

 ――あの、かえ、して、くだ、さい。

 消え入りそうな声で頼み、聞こえないふりをされて、それから、もう一度ノートを見て、噴出す。


「うっそ、篠原さんも、こっち、来てたんだ。私だけじゃ、なかったんだあ」


 気の抜けたような声で、妖精のような装いの少女――瑞樹優花は肩から力を抜いた。

 白昼夢は遠ざかり、現実が舞い戻ってくる。

 ようやく、事態に頭が追いついて来て、七子は、ぎこちなく笑みを作ろうとし、返事した。


「う、うん。わ、わ、私も、び、びっくり、びっくり、した。瑞樹さん、も、どうし、てここ、ここに?」


 舌が痺れ、上手く話せなかった。

 何度もどもってしまう。 

 七子の視線は、段々下に下がり、優花の顔を真っ直ぐに見られなくなっていた。

 知らず知らず、七子は掌をきつく握り込んで、爪が柔らかい内側に食い込んだ。


「わかんないよ。気づいたら、この世界にいたの。本当にびっくりだよー。あ、私ゲテナ統一帝国っていう国の皇帝の所に現れちゃったんだよ! 最初わけ分かんなくて、大変だったよー。あ、皆とってもいい人でねっ」


 う、うん、と七子は相槌を打つ。

 優花は話している内に段々興奮してきたようで、話があっちに行ったりこっちに行ったりしながら、自分だけが古代文字をすらすら読めること、人を癒し、魔を封じる特別な力があるらしいこと、教会から神子認定されてしまったことなどを話した。

 七子は半ば圧倒されながら、うん、う、うんと頭を縦に振り続ける。

 古代文字について少し反応し、それよりも優花の腕の中でぬいぐるみよろしくぎゅうぎゅう抱き締められている子だぬきに、ちらちらと視線を奪われた。


「皆大好き」


 そう宣言した優花は、はきはきとしていて、顔面も輝き、何の迷いもないようだ。

 七子は、息を止めた。

 優花は何て眩しいのだろう。『大好き』。七子は、自分の中に言葉を捜して、どうやってもそれが舌先まで到達して言葉にならないことを認めた。口にするには、重過ぎて、難しくて、自分はどうしてこんなに駄目なのだろうと苦しくなる。優花のように、素直な気持ちで口にすることが出来たら、むしろ、エリアスと出会ったのが彼女だったら。

 こんな風にはならなかったのではないか。

 自分のせいで、色んなものが、悪い方向へ転がっているんじゃないか。

 七子がいなければ、もっと簡単に、皆がもっとずっと良い方向に――


「だから、私に出来ることを、皆の助けになるなら、何でもしたいって思ってるの。あれ、聞いてる? 篠原さん? 篠原さん!」

「え、は、はい」

「もー、人の話はちゃんと聞こうよ」

「ご、ごめ」


 謝ろうとした七子を遮って、優花は口を開いた。


「篠原さんって、人が話している時、他に意識向けることあるよね。ちょっと失礼かもだよ」

「――ご、ごめん、なさい」


 全く言われるとおりだと七子は小さくなった。

 確かに、七子は人といても、どこか心あらずな部分がある。

 他人と話して楽しいと思うより、その他人を不快にさせてしまわないだろうかと怯える余り、かえって意図とは真逆に息が詰まってしまう。

 ただ、今回七子は、三つ別のことを考えていた。

 子だぬきのこと。

 自分のこと。

 最後に、他者の存在。


(瑞樹さんが、大事に保護されているなら、どうして一人でここに?)


 それは七子もなのだが、二人は立場が違う。


「あ、いいよ、ごめんね。こっちこそ言い過ぎちゃった。私、皆が大好きで、皆のこと無視されてみたいに感じちゃって。ごめんね」

「う、ううん」


 慌てて七子は首を振る。


「良かった。興奮して、べらべら自分のことばっかり喋っちゃて、ごめんね。まさか、篠原さんにこっちで会うとは思ってみなかったから、本当にびっくりしちゃったの。会えて嬉しい!」


 飛びつかれ、尻もちをついた七子と優花の間で、子だぬきが「きゅ」と小さな悲鳴を上げた。


「み、瑞樹さん、どいてっ、たぬきさん、挟まれてるから」

「あ、やだ、ごめん!」


 急いで身を放した優花の腕の中で、子だぬきはぐったりしている。


「きゃ、どうしよう。あ、私、とっても優秀な魔術師の人知ってるから、連れてくよ」

「だ、ま、待って。たぬきさん、は。保護者、いる、から」

「え?」


 聞こえなかったのだろうか。

 七子は汗をかく。

 舌が上手く動かない。

 人に意見を言う時って、どうしたっけ、と七子はぐるぐると眩暈を覚える。

 どうしてこんなに駄目なんだろう。

 どうしてこんなに。

 自分がいるから、いけない。

 自分のせいで、人が嫌な思いをする。

 エリアスさんの人生を。

 もし瑞樹さんだったなら。

 私がいない方が上手く行く。

 分かっているのに。

 分かっていたのに。


「もう一回、お願い?」

「――さん」


 のろのろと七子は視線を上げた。

 喉に粘性の何かが絡みつく。


「早く、うちに帰れる方法、見つけないといけない、ね」


 七子は前後の関係もなく、全然違うことを口にした。

 突然の話題転換。

 支離滅裂に千切れ飛ぶ思考に、嵐の海に漕ぎ出した一艘の小船のように翻弄される。

 優花は、きょとん、としたようだ。


「えっと、急に何?」

「う、うん。私、早くうちに帰りたくて。瑞樹さんも、きっとおうちの人、心配してるよね。早く、うちに帰らなきゃ」


 言いながら、七子は自分は何て嫌な子だろうと思った。

 何故なら、意図せずして口にしたこの台詞は、見事に両刃の剣だった。父と母がどれだけ心配しているだろうかと思うだけで、七子自身吐き気がするほど苦しくなったのだ。

 そんな当たり前のこと、わざわざ口にして、どれほど優花も辛くなるだろう。

 七子は無理やり雰囲気を明るくしようと必死にぎくしゃくとした笑みを作った。

 謝罪を再び吐露しようとし、


「――篠原さんて」


 ごう、と風が吹いた。


「つまんない」


 七子は、作りかけの不恰好な笑顔のまま、立ちすくんだ。指先が凍傷にかかったように痺れて行く。

 動悸がする。

 緩慢に空気の停滞する世界で、心臓の音だけが大きく聞こえる。


「さっきも言ったでしょ。この世界、大変なんだよ。自分ひとりだけ良かったらいいの? 篠原さんてそういう人? 何か、幻滅」


 優花は、子だぬきを抱きしめたまま、はあっと嘆息した。


「力を持った人は、力のない人を助けてあげなきゃいけなんだよ。そういうの、高貴なる者の義務って言うんだって。別に私、高貴じゃないけれど、大好きな人たちを助けたいって思うから。だから、私、逃げないよ」


 たくさんの人が、私を助けてくれたから、と優花は言う。


「すっごく怪しいのに、私のこと、受け入れて、神子様って呼んでくれるの。何にも出来ないって思ったけど、自分に出来ることがあるなら、ちょっとでも皆の助けになれるならって思う。篠原さんだって、きっと色んな人の助けがあって、今ここにいるんだよね? ここ、王宮だもん。その人たちに申しわけないと思わないの? 自分のことしか考えてないし」


 そんなんだから、と優花は言う。


「友達、出来ないんだよ。篠原さん、つまんないもん。一緒にいても楽しくない。そういう考えの人と、上手くやっていけないよ。自分のことだけしか考えない人は、気づいたら一人ぼっちになってるよ? 篠原さん、現実ではそうだったでしょ? だから、私」


 ――私、先生に頼まれて、友達になってあげようと思って、


 ――だけど、篠原さん、趣味暗いし。


 ――何かオタクみたいだし。


 ――最初、ちょっと引いた。


 ――でも、絵は綺麗で、才能あるなって思って。


 ――他の子に紹介してあげたの。


 ――皆見直して、一目置くんじゃないかって。


 ――人は一人で立ってるんじゃなくて。


 ――関係が大切なんだよ。


 ――引きこもってるから。


 ――篠原さんは、友達できないの。


 ――もっとオープンにならなきゃ。


 ――篠原さん、自分が何て言われてるか知ってる?


  



 ――つまんない。


 ――一緒にいて楽しくない。


 ――根暗。






 ――ほら、あの子。


 ――ちょ、気づかれるって。






 ――篠原、ちょっと用事あるんだけど。


 ――へい、ターッチ!


 ――篠原菌


 ――きたねー


 ――篠原、ちょっと用事あるんだけど。


 ――篠原、ちょっと用事あるんだけど。


 ――


 ―


 ―


 ――すっきりー


 ――ばらしたら、    からねー


 ――言えるわけないじゃん


 ――篠原だし


 ――マジうける





















 いつの間にか、優花の姿はもうなかった。

 七子は、短くない間ただぼんやりと突っ立っていたようだ。

 子だぬきもいない。

 地面に染みがいくつも出来ている。

 断続的に染みは増える。

 何だろう、と思う。


(何だろう、あれ、あれ?)


 私、と七子はしゃがみ込んだ。頭を両腕に抱え込む。涙が次から次に盛り上がっては零れ落ちる。


(変われると、思ったの)


 この世界でなら、そんな風に一瞬でも夢見てしまった。


「かわいそうに」


 背後に、誰かが立つけはいがする。

 しゃがみ込んだ七子の足元に、捩じくれた二本の悪魔の角を持つ男の影が重なる。

 男は、そっと七子の肩に手を置いた。


「とてつもない《自責》の念。君は、もう少し自分を解放するべきじゃないかな?」


 労わるように、優しく、絡みつく蛇のように、誘惑に満ち満ちて。


「君はとても《不完全》だ。自己憐憫と自己卑下の果ての全否定。その仮面を剥ぎ取るがいい。本当の君はそこにいる。そうだ、君の嘆きと憎悪。果てしのない憎悪。慎ましくもおぞましい。さあ、今こそ解放したまえ」


 振り向いた七子は、男の顔を見て、何かを言おうとし、そして――澱んだ赤い闇の中に包まれた。






 音楽室の向こうにまで足を伸ばして、何かのけはいを探っていたエリアスは、足を止めた。

 彼の溶解していない方の顔だけなく、その顔面全てが歪む。


「しまった」


 こちらは、こけおどしだったのか、と手の内に赤い宝石を握り潰す。

 ちくちくとエリアスの感覚を刺すように、ほんの僅か、不快なけはいがあり、探し当てたのはこの物体だった。

 人の視線に過敏な状態になっている七子を連れて歩くのは躊躇われ、置いて来たのが裏目に出た。

 元々なんでも一人で解決してしまおうとする性分のエリアスである。

 七子も、自ら「着いて行きたい」と言うような甘え上手な性格ではない。

 どちらかと言うと、二人は互いに遠慮し合っていた。片方は複雑な胸中と相反するように保護しようとし、片方は迷惑をかけないようにと言葉を呑み込んだ。

 主従で全く連携の取れていなかったそれが、今更ここに来て、大きく歪ひずみ、最悪の結果へと事態を転がそうとしていた。










24


 クラウンメイクの少女――魔界の道化師トリックスターナディアは、王宮の尖塔に座って、頬杖をついていた。

 下界を見下ろし、冷めた目をしている。

 彼女の二つに裂けた頭巾やチュチュのようなスカートは、風に煽られることもなく、その視界を妨げない。

 白いタイツ姿で胡坐をかいた状態で座り込んでいたナディアは、ふと下界のある様子に興味を示した。


「あれー? 何か、とっても懐かしいけはい」


 ぺろりと赤い唇を舐める。それから、彼らの『会話』を拾うと、


「あーあ、勝手なこと言ってるよ」


 と目を眇めた。

 そうしてゆっくり猫のように背伸びをし、次の瞬間には姿を消していた。











 七子を、赤い闇が包む。

 少女は、「止めて」と呟いた。

 思い出させないで、と彼女は震える。

 そうしないと、そうでないと、


 ――とても、怖いことになる。


 そのことを、彼女は『思い出していた』。

 少女の背後から、何か黒々として、大きくて、蠢く異物がその触手を伸ばす。

 怪物だ。

 怪物は、その怪物は――




「やっ」


 五指を揃えた片手を上げて、クラウンメイクに白いチュチュを着た少女が七子に挨拶した。

 顔面を覆っていた七子は、はっと面を上げた。

 黄金の焔と燃え盛るザール城に、七子がかつて見かけた道化師姿の少女だった。


「僕は、ナディア。君、ジャムジャムの野郎に捕まっちゃったね! 君、今術中ってやつだよ、数日中に羽化すると思うけど、あいつのいいようにされちゃうよー。ね、僕が助けてあげようか?」


 今、隙間から『同期』して侵入したんだよーと言いながら、ナディアと名乗った道化師は、くるくると七子の周囲をまるで体重を感じさせないステップで回る。

 そして、七子の背中に飛びついて肩口から腕を回した。


「あいつのいうとおりにするのはしゃくだろうけどさ、君、いっぺん爆発しちゃった方がいいよ! すっきりするよー! 蹂躙っていうのー? 君を苛めた奴を、全部ミンチにしちゃうのさ! すっごく楽しいよ!」


 きゃはは! と軽やかな笑い声を上げて、再びナディアは虚空にトンボを切った。

 あ、と思った時にはまた近づき、その化粧した顔をずいと寄せる。


「ね、一緒に大暴れしようよ! 絶対楽しいから!」

「――て」


 七子は後じさり、か細い声で搾り出すようにうめいた。


「え、なになにー? 聞こえないよー」

「――めて」


 七子は、止めて! と耳を塞いだ。

 何て恐ろしいことを言うのだろう。

 耳を貸してはいけない。

 そう七子は両手で耳を押さえる。


「えーっ、何言ってるのさ? 君、仕返ししないの? どういうつもり? 誰も恨んでないって言うつもりかい? 聖女さまのつもり? 嘘つきだー!」


 腹を抱えてけらけらと笑うナディアに、七子は見えない拳を叩きつけられたように、一歩、また一歩とふらついて下がる。

 ナディアは追い討ちをかける。


「君は恨んでいる。君は憎んでいる。君は、君をあざ笑った奴らを、心の底から憎悪した」

「恨んで、ない」


 そんなこと、ない。

 七子は、ただ消えたかっただけだ。

 誰の目からも逃れ、誰の視界にも入りたくなかった。

 消したかったのは彼らではない。

 ――自分だ。

 自分自身だった。

 そもそも、何故、この道化師は、七子のことを『知り尽くしている』かのように言うのだ。


「嘘つき!」


 道化師ナディアは七子を糾弾して、踏み込んだ。


「君は、奴らを頭の中で殺した。一度や二度じゃない。何度も何度も殺した」

「止めて」

「君を仲間外れにした奴。君を笑った奴。君を脅した奴。君に――酷いことをした奴」

「止めて」

「許せるの? ねえ、本当に許せるの? 嘘だ。許しちゃいない。君は、あいつらを殺したかった。もしその力があったら、それが許される状況だったら、確実に殺していた。ね、そうだろ。そうしちゃえよ!」


 七子は震えながら自分を両腕で抱きしめた。

 がんがんと頭が痛い。目の前は赤く染まって行く。


「できないよ。そんなことできない」

「できるよ。できるってば! だって、僕が」


 道化師ナディアは七子を細い両腕で包み込む。

 額をつき合わせて、優しい声で囁いた。


「だって、僕は、『やってしまった君』だもの」


 今度こそ、七子は、「止めて」と絶望した。

 ナディアに抱きしめられ、七子の中にかつてあった光景が流れ込んで来た。

 これは、誰の記憶だろう。

 昔、あったこと。

 これから、あるかもしれないこと。

 コインを投げてごらん。

 何度も何度も投げてごらん。

 表かな?

 裏かな?

 確率は五十パーセント。

 では、コインを確かめてみよう。

 ああ、表だった。

 じゃあ、このコインは表が百パーセントに確定したのかな?

 いいえ、確率は五十パーセントのままだ。

 つまりね、観測した結果と、確率は別物だ。

 結果の世界は、数学の世界の投影に過ぎない。

 常に、そこには確率分布の世界があって、そこから結果がスクリーンに観測されるのさ。

 世界は二つあるんだよ。

 結果の世界と。

 ――確率の世界。

 そこでは、君は生きているし、死んでもいるんだ。生死は『重ね合わせ』の状態で常に存在している。蓋を開けてみないと、分からないよね。 

 一緒に、蓋を開けてみようよ。

 その時、君は、生きているかな? それとも――死んでいるのかしら。










 ざあざあと雨が降っている。

 絹糸のような雨。

 七子は納屋の簡易な地下の貯蔵庫に隠れていた。吐く息は白く、凍えている。息苦しさに咳き込みたくなるが、懸命にこらえた。

 傍には、エリアスもいる。

 外は騒がしかった。


「…たか?」

「いや、こっちにはいねえ」

「畜生、どこに行きやがった」


 怒声が飛び交い、皆怒り狂っている。

 まるで、血眼に誰かを探しているようだ。

 湿った空気の中、エリアスはじっと外の様子を伺っていたが、膝をつき、七子に言う。


「このまま、ここに隠れていてください」


 七子は言う。何かを言ったつもりで、声は出ない。

 身体中が瘧おこりにかかったように震えている。

 全部自分のせいだ、と少女は知っていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい、エリアスさん」


 鉄面皮なエリアスは、この時も表情を変えることもなかったが、いいえ、と頭を僅かに振った。


「最期の時は、人として終えることが出来る。貴女に、感謝しています」


 そう、ここにいるエリアスは『人』だった。

 七子もまた、『人』だ。

 少女は、全ての力を放棄した。

 あまりにもおぞましいものだったからだ。

 多くの人々を、勘気で、簡単に殺めてしまった。

 七子は頭を抱えた。罪人は自分だ。何の言い逃れもできないし、してはいけない。

 でも、怖い。怖くて怖くて仕方ない。

 自分の命が惜しいのだ。こんな風になっても、手放せないのだ。

 その事実こそが、七子を痛めつけ続ける。


「グレンに。待ち合わせ場所は、覚えていますね?」


 少女は頷いた。でも、そのためには、ここをやり過ごさなければいけない。


「エリアスさん、行かないで、ください。私、わた」


 私が、表に一人で、出て行きます、と言うことがどうしても出来なかった。

 多くの憎悪が向けられている。

 のこのこと出て行けば、どんな結果になるか、分かりきっていた。

 殺されるだろう。

 しかし、ただで殺されるとは、到底思えなかった。

 その恐怖が、七子の舌を麻痺させていた。

 外では、「おい、いたか?」「こっちにゃいねえ」「あの糞アマ娘、見つけたらタダじゃおかねえ」「うちのかみさんは」「許せねえ」「こっちは確認した」「向こう見てくれ」と次第に声が近づいて来る。

 はっきりと青ざめた七子に、エリアスは少しだけ強張った表情を緩めると、


「大丈夫です。また、合流しましょう」


 そう言って、立ち上がった。

 七子は、動けなかった。

 視界が涙で濡れている。

 ぼやけて、何も見えない。

 エリアスが、行ってしまう。

 そう思った瞬間、弾かれるように七子は立ち上がり、エリアスに背後からぶつかった。


「行かないで、行かないで!」


 涙でぐちゃぐちゃだった。

 行ったら、おしまいだ。

 エリアスは、もう、普通の人なのだ。

 殺されてしまう!

 そう思うのに、七子には、もう力がないのだ。

 七子が自分の『魔』を忌避し、上重ねに優花に封印されてしまった。

 もはや、願ったところで、どうにもならない。


「……」


 腰元に抱きつかれ、駄々っ子のように行くなと言う七子に、エリアスは無言で身体をひねると、


「           」


 聞こえなかった。

 もう一度、と言いかけた七子を、大きな腕が抱きしめる。

 頭上から、覆いかぶさるように強く抱きしめられ、七子は絶句した。

 エリアスもまた、震えていたからだ。

 ぼろぼろと少女の涙腺から、大きな涙の雫が零れ落ちた。

 引き止める言葉は簡単だ。

 その言葉は、エリアスの心を折るだろう。

 震えて、恐怖する心に追い討ちをかけるだけだ。

 七子は言葉を封じられた。

 最期に、エリアスは背骨が折れそうなほど七子を抱きしめる。

 迷いを断ち切るように突き放した。

 彼は背を向け、短い梯子を上がっていく。

 天井の蓋は閉じられ、地下には一切の光が射さなくなった。

 怒号が外から聞こえる。

 やがて人のけはいは遠ざかり――うずくまって、声も出さずに嗚咽する七子だけが取り残された。


 強張った身体が動き出す。

 逃げなくちゃ、彼が命がけで作ってくれた好機を無駄にしてはいけない、と少女は思う。

 でも、その機会は永遠に訪れない。

 地下に外からの光が入り込む。

 天井の蓋が外される。

 そして、大きな目の子どもが、びっくりしたように七子と目を合わせた。

 七子は時間が止まったように凍りつく。

 小さな子どもだ。

 そして、子どもは最初の驚愕が去ると、すうっと息を呑んだ。

 絶叫する。


「ここだよ! ここにいたー!!!!!!!」


 少女は引きずり出される。 

 歓喜と憎悪の目、罵倒の限りを尽くして責められ、小突かれ、石をぶつけられる。

 その少女の前に、細長い何かに突き刺したボール大のものが――

 七子は目を見開き、気がつくと悲鳴を上げている。

 誰かが言う。


「ちったあ、俺達の気持ちが分かったか、この化け物。こいつみたいに、楽に死ねると思うなよ」


 全くそのとおりだ。

 逆に、では、彼は、苦しまずに死ねたのかと、そのことだけが少女にとっての救いだった。


 この、楽に死ぬことのできなかった七子の遺体は、現実の世界に還りつく。

 彼女が最初に着て来た制服をまとい、顔の判別がつかないほどに全身損壊させられた遺体は、司法解剖されることとなる。

 優花はこの世界に留まり、行方不明のまま――この『物語』は幕を閉じる。











「ねっ、酷いもんだろ? 僕も忘れていたよ。君を見て、思い出したんだ。これはね、やっちゃったことを、後悔しちゃった君。僕は後悔しなかった君。どっちがいい? 簡単だよね」

「……」


 七子は、時系列に混乱し、同時に恐ろしいことに気づいて、口元を覆う。

 俯く七子に、ナディアはその頭を何度も撫でながら、小さく呟いた。


「君はさ、学校であったこと、あんな風になったこと。『あの日』を境に、どんどん加速して、これからあんな風になること、一番、お父さんとお母さんに知られたくなかったんだよね」


 七子の肩が強張る。

 不思議なことだが、人は、自分の生死よりも、『恥』を恐れることがある。

 『恥』を他人に知られるくらいなら、自らを消してしまった方がいい、とすら思いつめてしまう。

 最悪の決断をする前に、何故助けを求めなかったと言うのは、この手の人間にとっては酷な指摘だろう。

 前提としてそれは、助けを求めなければならない状況に自分があるのだと認めることから始まる。

 ぎりぎりのところで必死に立っている人間にとって、「助けてと訴えなさい」と親切顔に言われることは、むしろ血の気が下がる局面となり得る。

 自分の窮状を他者に知られているという新たな『恥』を自覚し、いっそう追い詰められてしまう。

 彼らにとって、救助を必要としている現状を口にするということは、「私は恥ずかしい人間です」と告白を強要されるにも等しいのだ。

 彼らは、認めたくないし、知られたくない。

 本当に恥ずかしいのは、そのような思考回路を強いた側であると冷静であれば理解できるだろう。

 しかし、視野を狭められた彼らは、誰よりも自分自身を責め、否定しており、そんな自分を誰にも知られたくない。負の思考のスパイラルに陥っているのだ。

 ここから抜け出すには、ほとんど『生まれ変わる』ほどの思い切りとエネルギーを消費する必要があるだろう。つまり、とても困難を極める。これをひとりで為し得る人は滅多にいない。誰かの助けが必要だ。

 しかし、彼らは「助けて」とは言えない――


「知られるくらいなら、『物語』の中で殺された方がマシだ。お父さんとお母さんにだけは、絶対、絶対、知られたくなかった――そうなんだよね」


 顔を長い髪で覆う七子は、長い沈黙の末、小さく頷いた。 

 誰にも、知られたくなかった。

 そう思われたくなかった。

 父と母にだけは。

 学校で、自分が階級ヒエラルキーの最下層にいて、嘲笑され、馬鹿にされ、――ていたことを、絶対に、知られたくなかった。 

 全部自分の至らなさのせいだ。

 七子が悪いのだ。

 無様で、惨めな自分を、両親にだけは、知られたくなかった。 


「大丈夫だよ。一緒に、いこ」


 ナディアは、七子の手をつかむ。そっと二人の少女は手をつないだ。 


 ――さあ、サーカスが始まるよ。

 ――一緒に楽しもう。


 道化師の少女はにっこりと笑った。















25


 七子がティフの王宮より姿を消して後――

 『カルマ門』の出現したウェールズ公領ベント州都カーディフ及び周辺都市陥落の知らせが、断続的にティフ神聖王国の王宮へと届き、宮廷内は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。

 余りにも、異常なスピードだった。

 この時期に、と宮廷人の多くは絶句した。 

 大陸会議で、諸国から重要人物が集まって来ている。

 引き上げた者もいれば、成り行きを見守ろうと逗留した者も少なくない。

 もし、彼らに何かあれば、ティフの国際的地位は失墜するだろう。

 今後の発言力は地に落ちることとなる。

 何よりも、この防衛線は死守せねばならない。

 評定会議の専門委員会は、戦時体制に女王を頂点とする戦時評議会を設置した。

 軍の総帥は、伝統的に陸軍元帥である君主アビゲイル女王。

 報告が次々と入ってくる。


「戦場は国内。敵は数に任せて正面から我が軍の防御を突破し、ベント州都、ロカ、イダル要塞を落として、防衛線の後方まで視野に入れた連続的な攻撃を仕掛けています」

「複数の都市を同時目標で攻撃しているわ。やってくれるじゃない。その後動きは?」

「恐らく、大きくは二軍団に分かれるかと。第一軍団が押し寄せて突破口を開き、第二軍団が各目標を設定して、波状攻撃を続けます。敵は包囲殲滅作戦を強いているようです。最終目標は王都かと」

「よろしい。こちらも出し惜しみはしないわ。波状攻撃、多重攻撃、ならば――こう」


 アビゲイルは地図上に象牙彫りの駒を指す。

 敵の波状に押し寄せる動きは、それぞれ赤い線で描かれている。

 『カルマ門』から包囲するように樹形図となって線は王都に向かう。

 しかし、これは彼らの領域だ。


「サーブル州及びネイビー州総監に下達、側面から敵を叩きなさい」


 真っ直ぐ伸びる矢印に、側面から青い矢印が襲い掛かる。


「オロフ要塞は、ふむ、これはルートに当たっているわね、このまま――ルカ砦から二個師団応援に向かわせなさい――連携して、敵の侵攻速度を徹底的に遅らせるのよ。簡単に奥まで進ませないわ」


 女王は顔を上げる。


「遅延戦闘で敵の体力を削り、こちらが蹂躙してやりなさい。初期防衛で損害を受けたこれらの都市は奪還作戦を――後方は民兵は老人だろうが子どもだろうが志願者を募って防衛線を構築するのよ。座して待てば火力に押し負けるわ」


 この敵空軍の支援は厄介ね、と敵の飛行部隊にアビゲイルは片方の眉を吊り上げる。

 飛行能力を持つ『魔』は、対空戦に不慣れなティフ側にとって厄介の種であった。


「嫌な連携ね。こちらも制空権を取らないと――我が国は飛竜騎兵は貧弱なのよねえ。仕方ないわね。国教会首長として、大主教に命じるわ」


 評定会議のメンバーである大主教に、アビゲイル女王は告げた。


「精霊を戦力投入しなさい。この地点には地精霊アース・エレメンタルによる防衛線を――召喚天使サモン・エンジェル級の聖職者を招集――『精霊網』を構築します」


 矢継ぎ速に指示を飛ばした後、女王は玉座に深く腰掛け、瞑想することとなる。

 自らいわゆる地雷型防御網である『精霊網』の要として、守護聖霊とリンクした女王が生体部品の役目を果たすためだ。

 次々に国内の竜脈と呼ばれるエネルギーラインを通して、彼女の思考回路は防御網を敷いて行く。

 これに乗じる形で、国教会の聖職者達が支援し、完璧な『精霊網』を構築する。 

 女王は、肘かけに両指を這わせ、目を見開いた。


「さあ、来るがいい」





 敵の第一軍団ルートに当たるオロフ要塞。

 初戦は押されていたが、地精霊の召喚により、敵の四個師団相当の『魔』は勢いを押し返されつつあった。

 地精霊はのっぺらぼうの巨人であり、大地が急に隆起したかと思うと、その巨体を露にした。


「おおっ」


 オロフ要塞の兵士達から、歓声とともに、「女王陛下万歳!」と唱和が起こる。

 『精霊網』が構築され、起動したに違いない。

 地精霊は目と口と思しきあたりにはぽっかりと穴が開いている。

 人の形に似ているが、何の感情も読み取れない泥人形だ。

 しかし、この威力は凄まじい。

 豪腕で『魔』を薙ぎ払う。

 まるで昆虫に戯れかかる幼児のような無邪気で無造作で、ぞっとするような遠慮のない攻撃だ。


(味方で良かった)


 とは、誰しもが胸中に思う安堵だった。

 地精霊とは、二、三体もいれば、攻城戦において勝敗をひっくり返しうる戦術兵器であった。

 しかし、敵もまた巨人兵が数体確認されており、これにぶつけている状況だ。


「ルカ砦からも応援が来る。今しばらくもちこたえてくれ」 


 オロフ要塞の司令官であるアベル・オカー少将は檄を飛ばした。

 この要塞には、一個師団相当が常駐しており、一個騎兵連隊、三個歩兵連隊、その他通信兵、砲兵、工兵の大中小隊で構成されている。要塞に、飛空科兵はいない。敵に飛空部隊と巧みな連携を取られた場合、こちらには為す術がない。

 風精霊ウィンド・エレメンタルは、戦闘には余り向いていないので、期待できないが、ルカ砦からの応援には、召喚天使級の聖職者達が同行しているはずだった。この天使というのは、翼持つ神の兵とされるとおり、空中での戦闘に舌を巻く存在だ。


(間に合うか)


 敵の数は圧倒的だ。

 突破戦力に兵を集中して来ている。

 波状攻撃で、第一線で退けても、次が、そのまた次が連続的に尖った縦長隊形でぶつかって来る。

 最悪、要塞は放棄しなければならないことを彼は理解していた。

 少なくとも、城都市でなかっただけマシというものだ。

 護るべき国民はいないのだから。


「おおおっ」


 再び上がる歓声。 

 地精霊が、敵の巨人と組み合い、大地に引きずり倒して馬乗りとなる。

 味方の士気は高い。

 しかし。


「なっ!?」


 地精霊が、ぴたりと動きを止めた。

 その空ろな目と口に当たる穴が、悲しげに歪むかに見えた瞬間。

 泥で出来た身体に、皹が走る。


「!?」


 息を呑む彼らの前で、皹は蜘蛛の巣状に凄まじい勢いで全身に至り、乾燥した泥人形が崩れ去るかのようにぼろぼろと落下した。


「何が、そんな馬鹿な」


 誰もが信じらずに言葉を失う。

 何が起こったのか。

 一体、何が。

 『精霊網』は一度構築すれば、守護聖霊―女王―聖職者のピラミッドを構成し、竜脈からエネルギーを汲み上げ、無尽蔵にそれが尽きるまで解除されない絶対無敵の防御のはずだった。

 ただし、この中のどれかが、欠けることがなければ、だ。

 取替えの聞かないファクターに、聖職者達は入らない。彼らは無数にいて、あくまで代替のきく部品に過ぎない。

 ならば。


「――女王陛下の御身に!?」


 何かがあったのか、とアベル少将は王都の方角を振り返った。


 





 ティフ神聖国王都、聖霊の間。

 幼児姿の守護聖霊は、串刺しになって床に倒れ伏している。

 衝撃が逆流した女王は心臓を押さえ、苦悶に脂汗を大量に流していた。


「……まさか」


 女王はただその気力を振り絞って、発声した。


「退けたと思っていたわ――誘惑に、勝てなかったのね」


 守護聖霊を槍で串刺しにして縫い止め、無感動に眺めていた男は、肩越しにゆっくりと女王の無様な姿を鑑賞した。


「貴女は、私の、一体何を見ていたのでしょう」


 男は無価値な石ころでも見るような冷然とした眼差しで女王を見る。


「そして、我々は、一体何に護られていたのか。このような、汚らわしい化け物などに」


 槍を、ぐりぐりと捻じり、守護聖霊は幼い身体を痙攣させた。


「止めて、ちょうだい」

「残念ながら、消滅まではいたらぬでしょうね。一時弱体化させられるとはしても――まあいい。この状態では、次代の王は継承できない。それで十分です」

「――こんなことをして、なんになると言うの」


 何になる、と問われ、彼は驚いたようにその目を見張った。

 むしろ、憐れみすら浮かんでいただろう。


「神の子である人が、何故このような汚らわしい存在を、まるでそれこそ神のように崇め、その守護を願うのです。まして、何故この存在が王を王たる資質と定める試金石とされるのですか。国教会の首長は王だ。これはいい。しかし、その王を化け物が決める。おぞましい。私には耐えられない」

「馬鹿なことを」

「残念ながら、私の賛同者は少なくありません。精霊神教など、邪神の教え。崇めるべき神を邪教で覆い隠し、このような化け物を聖なる者と誤認識させる。私は国を清浄化させるために行った」


 女王はぽたぽたと大粒の汗を床に零しながら、肩を震わせた。


「おためごかしは止しなさい、ハロルド」


 名前を呼ばれ、女王の甥にして、皇太子エドワードの従兄弟であるウェールズ公ハロルドは、鷹のような鋭い目を眇めた。 

 彼の配下、賛同者は、その影響力が大きい軍部のみならず、女王の公私が営まれる宮中において、その私生活を支える宮内卿をも巻き込んでいる。

 この空間はいまや、彼が支配していた。

 しかし、死にかけの老女の覇気に気圧され、ハロルドは僅かに後方へ下がろうとする自分に気づき、表情を歪めた。 


「この崇高な理念を、貴女に理解してもらおうとは思っておりませんよ」

「ふふ。男の子は大義名分が大好きねえ」


 女王は笑う。

 何、とハロルドは不快を滲ませた。


「正当に評価されない、そんな不満がいつも見え隠れしていたわよ。私が平民を重用したのがそんなに許せなかったかしら? 私の秘書長官は、平民出身だけれど、事実上宰相的地位にあるわねえ。いいこと、宮廷官僚は私の手足。信が置けるから臣たりえるの。貴方は、違ったわねえ」


 はらり、と女王の頭髪が汗ばんだ額に落ちかかり、張り付く。


「ハロルドちゃん、これほど恵まれながらまだ足りないと人の玩具まで取り上げていたわね。決まって大人の目のないところで、悪癖は治らず――貴方の小さい頃からの思い上がりを、もっと叱ってあげればよかったわね。今からでもお尻を叩いてあげましょうか」

「挑発しようとしても無駄ですよ」

「そう、じゃあ崇高な使命に酔っているハロルド坊や、貴方、その『目』は誰と取引したのかしら?」

「――」

「貴方を選んでくれない守護聖霊を見ることが出来るなんて、どうしたの? 不思議よね、魔神のお嬢さんも守護聖霊は見えて、声も聞こえていたようよ。ああ、そう、貴方」

「――黙れ」


 ハロルドは槍から手を放す。


「魔神と取引を」


 この老女は頬をはられ、無理やり口を利けないようにされた。

 憎悪の目で、ハロルドは女王を頭上から見下す。  


「我々は神の子だ。化け物に支配されるのではなく、化け物を支配する。それが正しい在り方だ。貴女は特等席で見ているといい。もうすぐ元皇太子を、女王殺しの謀反人として引きずり出して差し上げよう」


 証人は、山といるのだから――と、ハロルドは膝をつき、クーデター宣言を女王に囁いた。 

 女王は俯き、項垂れ、ぐらぐらとする奥歯を舌先でつつく。

 ハロルドはこの弱った姿に満足げだ。協力者達にエドワードを連れて来る手はずについて確認している。

 アビゲイルは表情を見せないまま、気を失いかけたかに装い、しかしその目は力を失っていない。


(老いには勝てないわねえ。私も耄碌しちゃったわ……エドワードは飛び込んできたらパニックになって、いいようにされちゃうわねえ。謀反人扱いで各国の使者の前で名実ともに政権交代劇を演じて、下手したら魔神側と密約を交わしたハロルドが英雄になっちゃうって筋書きかしら。それとも、本気で国を徹底的に『浄化』させる気?――国益天秤にかけてマイナス収支じゃない。男のプライドってだから嫌なのよねえ。でもねえ、そうは行かないわよ)


 雫が落ちる。汗と血だ。


(老いては去るのみ。錆付いた頭で、布石は打った。後は希望たちよ)


 私にお前達の希望を、どうか見せてちょうだい、と老女は目をつぶった。

 体力の限界はそこまで来ていた。























 どこかで、魔神の少女の心臓は、どくん、と大きく鼓動した。

 彼女は胎児のように丸まり、細い足の指先揃え、両腕で包んでいる。

 長い髪が彼女の裸体を覆い隠していた。


(――だ、れ?)


 目覚めの時は、近い。





→-2


 大学生兼家庭教師の木島礼津きじまれつは、突然押しかけた従兄弟の滝彦の言葉に、ぽかんとアホ面を晒した。

 ふらふらと定まらない足取りで歩いて来て、すとんと腰を下ろす。手慰みに、床上のビーズクッションを抱き込んでもぎゅもぎゅとした。


「は? お前、何言っちゃってんの? 馬鹿なの? 死のう」

「お前が死ね。それと、そのジャージ、いい加減廃棄しろよ」


 礼津は自分の下腹を見下ろした。紺色の伸縮性のあるポリエステルは、着心地抜群だ。『Ⅲ-A 木島』と白い布地もほつれることなく胸部と腹部の中間に縫い付けたままである。膝の辺りは、球技の授業で体育館と激しく摩擦した結果、生地が溶解して穴が空いているが、「大丈夫、まだ着られる!」と礼津は爽やかに宣言している。そこには、一片の迷いもない。


「いや、これはめっちゃ着心地最高やし。俺のジャージ力は五十万」


 したり顔で身振り手振り説明しようとした礼津は、座布団を投げつけられて文字通り閉口した。

 家庭教師先の瑞樹有がこれを見れば、「れっちゃんって……」と冷たい目で見られること請け合いである。

 礼津は座布団をどけると、「前座はここまでにして」と彼なりに割とまじめな顔を作ってみせた。


「ホンマわけ分からんのやけど、伏見のばーさまに相談しよかと思ってたとこやで。そもそも、お前もタイムリーやったな。いつからストーカーしとった」

「死んでくれ。何なら金払ってもいいぞ。朝から電話何度もかけたと言っただろうが。巻き戻しなら、午前八時半前後に起こってるんだよ」

「――巻き戻し。ホンマか。いや、それはちょっと、にわかにはですね」


 信じがたい、と礼津は視線を泳がせたが、テレビもスマートフォンも、つきっぱなしのノートパソコンでカレンダーを確認しても、今日の日付は過去のものだった。


「巻き戻しと言うべきかは分からんが」


 ふてぶてしい態度の滝彦もまた声のトーンを落とした。


「俺もお前も初回じゃない。『篠原七子』が死ぬ、その死が世間において認知される、その直接的または間接的原因に触れるタイミングで、スタート地点の日付に戻る。お前も一度は経験済み、を覚えているんだろうが」

「……あれやな、がばーっと、おえっ、思い出すだけで気持ち悪いわ。めっちゃ捕食されたで」


 頭からぱっくりやられた記憶に、礼津は頭部を撫ぜて確かめながら顔色を悪くする。


「何や、自動書記ゆーか、勝手にページが増えるホラーな黒い本を有君ちで見つけてな、その、俺持って帰ったんやけど、そのな」


 歯切れの悪い礼津に、滝彦はばっさりと切り捨てた。


「あれが感染源だろう。前回の世界で読んだ奴は、漏れなく次回にご招待されてる」

「……は? あ、前回って、その条件やと、お前前回あれ読んでたんか? え、いつどのタイミング……って、優花ちゃんか?」

「俺のご招待コースは、瑞樹優花からの泣き落とし呼び出し相談か、お前経由の泣き落とし呼び出し相談で、毎回毎回毎回毎回巻き込まれてるんだよ。俺は多分全部参加賞貰えるはずだ。お前本当に死ねよ」

「俺何回死ねって言われるん!? 何で俺そんな目で見られるん!? 有君も時々そんな目で見るし、優花ちゃんもなんていうか何このきもい人みたいな目で見ることあるし、俺そんなに駄目? 駄目なんか!?」

「駄目だろ実際。気持ち悪いから近寄らんでくれ。それで、ほぼ強制全参加の俺から、経緯説明させてもらうんで、少し黙ろうか」


 礼津は肩を落としたが、実際説明してもらわねばどうにもならない。

 静聴させていただきます、と姿勢を正した。


「初期は、感染源持ってきた瑞樹優花が原因だと思って彼女を本に食わせないようガードした。これは割と上手く行ってたと思うんだが、ほぼ三ヶ月後にまたスタート地点に戻された。つまり、瑞樹優花はあくまで運び屋に過ぎないってことだ。必ずしも本に食われるわけじゃないが、彼女の場合は、ケースが特殊で、二択。本を読んだ場合は、本の中の登場人物になる。読んでない場合は、こちらの世界に残る」

「……やっぱ、優花ちゃん、あの本の挿絵の……」


 急に挿絵の中に現れた優花の特徴を備えた女の子の姿を思い出し、礼津はぞっとした。

 あれは、優花本人だったのだ。


「何が原因か分からなくて、三ヶ月目にしていきなり巻き戻った際は、流石に発狂しそうだったよ、実際」


 心情を吐露する従兄弟は、その時のことを思い出したのか、気分が悪そうに嘆息した。


「俺は篠原七子の死については、あまり注目してなかったんだ。だが、実際、記憶を保持している連中が引っ掻き回さない、ほぼ原型となる世界においては、かなり胸糞悪い結末だった」


 礼津は、滝彦の『世界』と言う言い回しに礼津は先ほどから引っかかりを覚える。

 しかし、まずは全部聞いてからだと続きを促した。


「新聞持ってこれりゃ一番良かったんだがな。条件として、優花が無事で、スタート地点から約三ヶ月後の世界。篠原七子は『自殺』する」

「――へ?」


 言葉にならず、礼津はかなり間抜けな相槌となった。


「口にするのも虫唾が走るが、同級生に長期間暴行されている。死後発覚した。スタート地点より前から性的なからかいと称した嫌がらせを受けていたらしいが、急速に悪化するのは――『今日』だ」


 礼津は今度こそ顔面から血の気を引いた。


「『今日』が、彼女の『分岐点うんめいのひ』なんだ。この日をしくじると、篠原七子は自殺に追い込まれるか、本に食われて死ぬか、どちらかだ」


 礼津は、しばらく言葉を失った。ようやく口を開いた時、


「――本に食われて、死ぬ、ってのは、俺、見たわ。有君には言えんかったんやけど、あの本、俺持って帰った後、凄い勢いでページ増えてな、ラストまで行ってしまったんやわ。あれな、子どもには見せられんで。ホンマ怖いの通り越して、吐くか思ったわ」


 拳を揃えて膝に置き、礼津は搾り出すような声で言う。


「あんな、子どもの落書きみたいな絵やけどな。ホンマ、狂気感じたで。まともな神経で描ける絵ちゃう。自動筆記言うんか知らんけど、見えない手がな、クレヨンで、気ぃ狂ったみたいに凄い勢いでぐちゃぐちゃに塗り潰して行くんや。もうな、何言うか、もう、ホンマ、なんちゅーか、凄い。憎悪や。憎悪感じた。篠原七子を殺す、いう狂気なんか? 痛めつけて、殺して、辱めて、徹底的にすり潰そういう明確な意思やった。あの女の子、俺知り合いでもなんでもないけど、こんなんないわ。本の中ではあんな酷い目おうて、現実の世界では、やっぱり酷い目おうて、ほんで、誰にも相談できんと死ぬんか。そらないわ」


 正直言って、あの結末は、礼津にとっても衝撃的なものだった。

 彼はホラーやミステリー小説、サスペンス、何でも嗜む。

 しかし、あれは、違う。

 エンターテイメントではない。読み手を愉しませようとするものではない。

 真っ白な紙をクレヨン一本で塗り込めて行く、執拗なまでの狂気と憎悪。

 その底なし沼を覗くような感覚が、礼津をぞっと身震いさせた。

 それを悟ってか、滝彦は淡々と忠告する。


「――あんまり感情移入しない方がいいだろ。実際、今回のお前には面識もないわけだしな」

「あ。ああ……そうかもしらんなって、お前何で前回、俺がヘルプしたのに電話切ったんや、今みたいに事情説明してくれれば良かったやろ」

「で、何が出来ると?」

「な、何がて、何でも出来るやろ。多分、その」

「あの条件、タイミングで動いたこともある。で、篠原七子、瑞樹兄妹、篠原七子の同級生複数、大量に死亡した。死に方はまともじゃなかった。もう一回やれってのは、俺のメンタル的に無理だな」

「――な、何やそのバッドエンド」

「詳しく話したくない。とにかく、現時点から動き出すのが一番マシな筈だ。多分、山岡中学校の田所とかいう女性教諭に連絡を取れると思う。ただし、俺もお前も接点がない。だから、瑞樹有に、お前から連絡しろ」

「へ、あ?」

「起きながら寝るな。いいか。山岡中学校の教師に連絡を取る。接点がないから、怪しまれるだろ。私立公立問わず昨今の小中学校の不審者対応は厳しいぞ。いきなりゲームオーバーしたくなかったら、きりきり動け」

「お、おう」


 あ、そうか、と礼津は理解した。

 有は山岡中学校の卒業生で、身内が現役生だ。


「アポ取って、包囲網作る。今回はもう手段を選ばない。身内も巻き込む」

「み、身内?」

「――ご両親だよ」


 スマートフォンの電話機能を呼び起こしていた礼津は、つるりと精密機械を床に落としそうになって慌てた。


「う、へ。おまっ、本気? 頭おっかしい思われるで。無理無理、無理ゲっす。何無理それ」

「手段選ばないって言ったろうが」


 滝彦の目は完全に据わっている。


「いいか。頭がおかしいのはお前の役目だ。残念力で乗り切れ」


 何その女子力の仲間みたいな言い方して酷いこと言いやがるなと礼津はジャージ力で乗り切ることにした。

 通話ボタンを押すと、驚きの速さで応答口に有が出た。


「あ、有くん、授業中やなかったか? え、あれ? あ、ホンマ、電話くれとったな。履歴がアホほど電話かけてきた奴で下いっとって気づかんくてすまんかった。今、家? え? あ、そ、そーなん。うお、はい。すみません。寝てました。ごめんなさい。住所教えろ? 俺アホ? 許して。俺が悪いんか? 俺駄目な奴なんか?」


 次第に猫背になり、涙目になって平身低頭する礼津に、滝彦はなんとも言えない微妙な視線を向けた。

 礼津は謝罪七割説明三割で話をしている。 


「はい、はい。よろしくお願いします。はい、了解です。山岡中学校の近くの『シャガール』で待ち合わせ。はい。すぐ向かいます」


 どちらが上で下なのか分からない対応で礼津は電話を切った。

 憔悴した顔で滝彦に告げる。


「有君も記憶保持。本一緒に読んだんやったわ。ずっと俺に電話くれとったみたいやけど、俺――寝とった」

「そうだな」

「有くん、めっちゃ凄い剣幕やった。田所先生いう学年主任にアポ取ってくれるそうや。山岡中学校の近くにな、『シャガール』いう喫茶店があるんで、そこに今すぐ来ないと殺すと、あの有くんが俺に言いよったああああ!」


 だーっと涙を流す礼津を無視して、「行くぞ」と滝彦は立ち上がった。

 その背中に礼津は手早く外出着に着替えながら、声をかける。


「行きしなでええけど」


 靴を履きながら「ああ」と応じた従兄弟に、礼津は語調を低くして尋ねた。


「『世界』て表現したん、タイムパラドックスの矛盾のためか?」


 タイムパラドックスとは、親殺しなどが代表に上げられる時間遡行の矛盾である。

 時間旅行者が、過去の世界で自らの両親を殺害した場合、そもそも加害者が生まれないという大きな矛盾を抱えることになるのは明瞭であろう。

 これを解決するための方策が、時間軸が分岐し、並行して別の時空、宇宙が生まれるとするパラレルワールドの存在だ。

 玄関を開けた従兄弟は「――並行世界とは見ていない」と答えた。


「多分。これは皆勤賞かもしれない俺が勝手に感じていることだが――俺達は、『読者』として、用意されたんだろう」


 メイビーでありながら、はっきりと確信した声で付け加える。

 滝彦が具体に何回トライアンドエラーをしたのか分からないが、確かめないのが礼津の出来る配慮だった。

 そろそろ気が狂ってもおかしくない状況にあるかもしれない、とは思う。

 だが、聞かねば折れることもない、その機会は与えない。

 彼らは両肩を並べ、ある少女の最も確率の高い運命を捻じ曲げるために、歩き出した。









→―3


 木島礼津と従兄弟の滝彦は、近くの屋外コインパーキングに駐車したメタリックシルバーの普通自動車に乗車した。

 木島は分家筋であるが、滝彦は本家筋の跡取りだ。

 祖母の運転手を仰せつかっている滝彦は、その外出時に時間を切り売りするだけで、大学生の身分で燃費も維持費も気にせずに家の車を自由に使わせてもらっているのだった。

 一方礼津と言えば、大学の先輩から「いるか?」と聞かれて二つ返事で「くださいください」と応じた原付がもっぱら彼の足である。

 従兄弟の優遇ぶりには、「全然うらやましくなんかないわ」と言い捨てたが、周囲からの失笑を誘うお粗末なポーカーフェイスでの台詞だった。

 助手席に乗り込んだ礼津はシートベルトを締めながら、


「ほんで、ちょっと確認しと来たいやけどな」


 声をかける。すでにシートベルトを装着していた滝彦は「ああ」と応じ、クラッチペダルを踏んでエンジンをかけると、周囲の安全確認をしてギアをローに入れた。


「記憶の引継ぎやけど、俺思ったんやけどな」


 礼津は言葉を切った。

 半クラッチでエンジンの回転音が変わる。ウインカーを点灯させ、車体はゆっくりと動き出した。


「前回からしか俺も有君も記憶が引き継がれてないんて、何やおかしな話やろ」

「――そうか?」


 路上へと滑り出した車体、運転する従兄弟は当然ながら余所見などせず集中している。


「初回やないはずやろ。記憶引継ぎに必要な条件が、『黒い本』との接触、読書体験て言うたな。? お前はいわゆる格ゲーのハメ技状態で、何しても巻き込まれルートやったか? だったら、誰かさんのループが止まるまでは俺も付き合うと思う。したら、何で俺とお前で回数に差が生じてるんやろ?」


 疑問符でありながら、礼津は自身で回答を出した。


「俺は前々回以前の記憶が途絶してる。何でか考えてみたんやけどな。お前の話したくない言うバッドエンドのせいとちゃうか? もしかして、死亡したんは、篠原七子に瑞樹兄妹、同級生他、俺もか?」

「――」

「俺な、あの自動書記でパニックになってお前に電話したタイミング、何も知らん状態いう条件で、『優花ちゃんが本に引きずり込まれるかもしらん』て事情聞いてたら、訳分からんなりに優花ちゃんガードしたと思うんやな。うん。どう考えてもそうしてた。で、当然有君に協力仰ぐわ。つまり、その俺と有君によるガードは失敗する――それを体験済みっちゅーわけか?」


 運転席から溜息が聞こえた。


「――まあ、大体合ってるな」

「そうか。つまり、死亡した場合は、記憶の次回持越しはなしと考えてええか?」

「そのようだな。俺自身については分からんが、少なくとも他人については、死亡時次の世界では記憶を引き継いでいない」

「あんまりええ死に方やなかったって言ってたな」

「ああ。オーバーキルってやつだよ。邪魔するなってメッセージを感じたね」


 従兄弟は無表情ではあるが、言葉の端々に怒気が滲んでいた。


「ほんなら、お前よく一人で優花ちゃんのガード成功したな。隔離できたこともあったんやろ?」

「それはな。そもそも本と接触させなかった。これから行く『シャガール』に昼休み、瑞樹優花を呼び出したからな」


 信号が赤に変わり、車は減速して停車した。


「――なら、今回は何でそうせんのや」


 礼津の声は少し低くなった。返答如何では――という雰囲気である。


「優花ちゃんだけでも、助けることができたんとちゃうんか」

「それだけどな。お前もすでに了解していると思うが、その場合、篠原七子を見捨てることになる」

「現実は現実で、俺らが篠原七子に接触して、どうにかできんか? 優花ちゃんの安全が確保できた上で、現実の篠原七子をフォローする。それが一番ええ方法やと思う」

「――俺も同じ結論を出したんだが、な」


 信号は青に点灯した。


「篠原七子を追い詰めるだけだった」


 車体が発進する。


「篠原七子を殺したようなもんだな」


 礼津は息を呑んだ。

 従兄弟の横顔は険しかった。


「実を言うと、俺だけじゃなくて、学校内に協力者も仰いでみはしたんだがな――駄目だった」


 言葉少なではあるが、その声には苦渋と無念が滲んでいた。

 助けるということは、暴き立てることにもつながる。

 周囲が救済しようと奔走する動きも、無理やりスポットライトの当たる舞台に引きずり出され、恥部を公開されるのと同じように感じられたのかもしれない。

 伝え聞く少女の性格を聞くに、それはほとんど拷問とも言える苦痛だっただろう。

 最も知られたくない人間に、最も知られたくないことを知られてしまったなら……危うい精神状態で、耐えられるだろうか。

 少女を助けようと手を伸ばし、それがかえって、ぎりぎりの崖っぷちにいた彼女を海へ突き落とす結果へとつながってしまったのだ。


「――まさか、協力者言うんは」


 ああ、と滝彦は頷いた。


「山岡中学校の学年主任、田所先生だ。彼女とは以前の世界で共闘したことがある。結果は見ての通りだがな」


 彼女は信頼出来る、と付け加える。


「ただし、今回は、田所先生は記憶引継ぎはない筈だ。つまり、説得して、こっちに引きずり込む必要がある」

「……それ、無理ゲーとちゃうか」


 こんな荒唐無稽な話を、何の物証もない状態で、誰が信じるだろうか。少なくとも、現在彼らの手元には『あの本』はないわけだ。

 滝彦は答えずに、車を狭い路地に入れる。


「礼津。お前、『あの本』は篠原七子を執拗に殺そうとしていると言ったけどな」


 少し走行して、三台分の駐車場に車体を停めると、滝彦は頭を巡らした。急に別の話を振られて、礼津は目を白黒させた。


「お、おう。言うたけど何や」

「俺は篠原七子の死を何度も見てきて、こう思う。篠原七子が『あの本』に食われるのは、逆に緊急避難じゃないかと」

「――は?」

「避けがたい運命を回避させるイレギュラー要素なんだよ。巻き戻しに篠原七子が関わっているなら、これは、本来の筋ってやつだ。しかし、どうやっても篠原七子の死は回避できない。巻き戻しも止まらない。何故か」


 滝彦は問う。


「『あの本』は篠原七子に何かをさせたがっているんじゃないか? つまり、これまでの結果に満足していない。あれが『本』の形態を取っている以上、正しい『物語』を紡いでいないからじゃないのか。あるべきラストを迎えていないからじゃないか。そんな風に思えて仕方ない」

「ま、待ってくれんか。じゃあ、あれか。逆っちゅーことか。篠原七子が尽く死亡するのは、『本』にとって不本意な結末や。だから、『リテイク』――やり直しをさせられている? あれ、待てよ。何か矛盾しとらんか」


 礼津は焦ったように前半言い、最後に尻の座りの悪さを感じて頭を抱えた。


「殺意と生かそうとする意志と、混在しとるやんけ。一体――そもそも、『本』である以上――あ」


 礼津は口元を抑えた。

 何か言おうとした彼は、外から窓ガラスを叩かれて、面を上げる。


「おおっ、有くん!」


 泣きそうな顔で、瑞樹有が車の中を覗き込んでいた。



26


 ティフ神聖国の宮城。

 ウェールズ公ハロルドによるクーデターは粛々と押し進みつつあった。

 表向きは、皇太子エドワードが乱心の末、女王を弑逆したというシナリオである。

 発作的に凶行に走ったもので――というのが、エドワードの普段における卑屈な振る舞いによって補強され、この無能な皇太子による母殺しは、人心を震撼させた。

 エドワードの凶刃は、駆けつけたウェールズ公ハロルドにも向かい、公は負傷。

 更には、聖霊の間において行われたこの禍は、女王を頂点に展開される≪精霊網≫の崩壊のみでは終わらなかった。

 王位の交替に伴う守護聖霊の継承も、空中に浮いた形となったのだ。

 これは、守護聖霊が皇太子エドワードを拒絶したと解された。

 事ここに至り、宮城は大混乱に陥った。

 軍事体制に移行し、戒厳令が敷かれたが、凶行を大声で触れ回った者がいたことは、シナリオの内であった。

 女王崩御に伴う≪精霊網≫決壊、皇太子の乱心に伴う守護聖霊の凍結。

 エドワードの第一子、王位継承権第二位のヴィクトリア姫に、守護聖霊は本来引き継がれるはずであったが、その片鱗もない。

 守護聖霊は、皇太子エドワードの直系血筋を呪い、お見捨てされたのだ――と大官貴顕は顔色を失う。

 すなわち、守護聖霊に王家が見放されるということは、その臣民もまた庇護を失ったということである。

 王家の血筋が天孫のごとく尊ばれるのは、守護聖霊と能よく通じ、契約をかわすことができるためだ。

 この現人神あらひとがみとしての権能を喪えば、その血は無為のものとなり果て、喪失を許した王家自体へ憎悪を駆り立てることとなる。

 皇太子エドワードへと向かう『正当な』怒りは、不安な状況も加味して、国家の利益を損失させた大罪人への対応へと容易に流れたのであった。

 この一見穴だらけにも見えるクーデターは、『大陸中の目が注がれ、縦深防御に徹する中、要である守護聖霊を害して、活動を停止させる』という国家の血肉を断つにも等しい盲点によって成功した。

 外交・国防両面において、これほどの暴挙を為そうとは、通常考えついたとしても実行まではできない愚挙である。

 女王に瑕疵があるとすれば、甥が『この時点』で国家を顧みぬ暴挙に及ぶとまでは、想像の翼をはためかせることもなかった点であろう。彼女はその思考を防衛に集中させていた――この対価はおよそ信じられぬほどに相応しからぬ死神の鎌となって、老体の女王を襲うことになる。

 凶行の現場、生血なまち滴る宝剣を引っさげ、ウェールズ公ハロルドは、血の気の引いた顔で立ち尽くす皇太子に言った。


「気が狂ったともでお思いでしょうな」


 その目は氷塊を浮かべたかのように冷ややかで、何者の言葉も受けつけぬ決意に満ちていた。破滅に向かって坂道を転げ走るようなひた向きで迷いのない瞳である。覗き込んだ先が地獄でも後悔しない。

 その術中に嵌められた皇太子は恐れ戦き、ようやく口にした。


「何故」


 そう、何故、と。

 彼には分からなかった。

 何でも持っているハロルドが、何故このような愚かな行いをしたのか。

 簒奪など、馬鹿げたことだ。

 ウェールズ公は、次代の人だ。

 次の王であるエドワードを輔弼し、これからの国政の中心を担っていくべき人物であった。

 エドワード自身は、王位を継いだところで、大功ある臣下を冷遇するほどの闘争心もない。

 彼を遠ざけるつもりもなく、それは周知だったはずだ。

 こんなことをする必要はなかった。

 どうも定まらぬな、とエドワードは思う。

 そうして彼は自分が足元から崩れ落ちて、床に四つんばいに這うと、吐瀉していることに気づいた。

 涙と鼻水が止まらない。


(母上。母上――)


 視界は涙に決壊した。

 ぐじゃぐじゃに歪む光景に、彼は背中を丸め、ひたすらに泣き続けた。

 この偉大な人がもうおらぬ、と認めることは、何よりも彼を打ちのめし、立っていることさえおぼつかなくさせる。

 全ては悪い夢だと彼は信じたかった。

 自分では駄目だ。

 何も出来ない。

 そう嘆く彼の背に、まるで汚物でも見るような視線が突き刺さる。


「皇太子殿下は乱心である。孔雀塔ピーコック・タワーにお連れして差し上げよ」


 孔雀塔は、要塞兼監獄塔である。

 すなわち、皇太子幽閉であった。

 後世に、ウェールズ公の行いは、どのように評価されるであろうか。

 魔の進軍は破竹の勢いとなり、王都へ津波のごとく押し寄せつつある。

 果たして、彼は狂人か、あるいは救国の英雄か。

 ハロルドは女王を切り捨てた剣を少し不思議そうに眺める。

 これほど簡単に事が為された、それ自体納得がいかぬというように目を眇めた。

 軍靴を鳴らして倒れ伏す女王の足元に近づくと、膝折れる。

 しかし女王に触れることはしなかった。

 やがてハロルドは立ち上がると、外套を翻し、彼の戦場へと足早に向かうのだった。





 ウェールズ公領に出現した『カルマ門』より、魔の大軍は波状攻撃を続けている。

 女王崩御は伏せられていたが、『精霊網』が崩壊に凶事を悟った人々は多い。

 山岳地帯から主要な砦を制圧され、国土の七割以上平地となる地理上、王都まで自然の要害はほとんどない状況であった。

 最高司令官であるハロルドは、王都最終防衛線として、レジーナ川を指す。

 第一軍がまずは水際で防衛し、呼応して諸侯の野戦軍により背面から挟撃することとした。

 この作戦は、士気や精度の如何を問わず、成功するはずであった。

 ウェールズ公と魔神ジャムジャムアンフの密約である。

 『精霊網』など必要ない。

 救国の英雄となるシナリオは、すでに書き下ろされ、後は役者を舞台に押し上げ、開幕を今か今かと待つばかりであり――ついに火蓋を切って落とした。


「――はずなんだけれどな」


 ひひひ、と黄金の甲冑に身を鎧う魔神が笑い、空中に浮かぶ彼の周りにはごおごおと燃え盛る二つの車輪が回転している。


「密約って壊すためにありますの」


 彼の隣に浮遊する煉瓦色のドレスに身を包んだ砂色の髪の淑女は、奇妙に傾いた細面のまま、そっとそのスカートを持ち上げた。

 その裾は、あたかもインクが空気中に溶けるかのように、いくつもいくつも繊維を解いて、糸を引きながら垂れ落ちて行く。

 この地上へと落下する不浄の雫は、布陣する王国軍に、酸鼻な惨禍をもたらした。


「はっはっはっはあっ! いぃいいいいい気持ちぃいいいいいいいいいい!!」


 ちょこんと頭に王冠を被り、傾いた彼女は、げたげたと指差して笑った。

 降り注ぐ丸い玉は、地上に達すると、雷撃となって人々を黒焦げにし、


「よっくバーベキューされてるぅうううううううううう!!」


 と、誠に指摘どおりの結果となった。


「おいおい、最初っからはしゃぐんじゃねえよ」


 黄金の魔神は肩を竦めてみせる。


「俺っちも漏らしちまうだろ。ひひひ、お馬鹿な僕ちゃんが結界解除してくれて本当にありがたいねえ。愉しませてくれよお、こっちは溜まってんだからよおぉおお!」


 彼の青と赤に塗りたくられた車輪は、隙間から捩じれた馬首を突き出し、脚をはみ出し、異形の馬となって走り出した。

 まるで二頭立ての馬車となって、地上を蹂躙する背後から、この車輪を男が犬をリードするかのように操る。

 ピカソのゲルニカに描かれたがごとき巨大な狂馬は、人体を咀嚼し、踏み潰し、大地を赤に染め上げた。


「話が違う」


 と、幕僚本部でウェールズ公は漏らしたかもしれない。

 しかし、彼の密約はジャムジャムアンフとのものであり、例え条約がかわされようとも、その他の魔神が批准するものではない。

 これが、彼らの言い分である。


「娑婆の空気さいっこおおおおおおぉおおおおおお!!!」


 黄金の魔神が股座を濡らさんばかりに絶叫し、煉瓦色の魔神がますます狂笑する。


「はい、ここで新人さんの登場でえっす!」


 手綱を引くよう仰け反ったまま黄金の魔神が言うと、恐慌状態に陥った兵士達は、空中を指差した。


「あれは――何だ」


 何だ、と問うて、誰も回答を期待したわけではないだろう。

 しかし、何だ、と尋ねるよりなかった。

 空中に黒い染みが生じた。

 これは蕾であろう。

 そして、蕾は花開く。

 新たに魔神をこの地上に産み落とすために。

 花弁がもげ落ち、レジーナ川に触れると、その不浄に耐えかねたように、水面がじゅっと蒸発した。

 ずるり、と白い腕かいなが、零れ落ちる。

 黒い頭髪が現れ、俯きがちに一人の女が姿を現す。

 女は、重力に従い、地面に落下した。

 無様にべちゃりと落ちて、固唾を呑んで動けぬ人々の前、のろのろと起き上がる。 

 布陣する軍勢に向かって横顔を見せる形で前傾する彼女は、長い棒を片腕に抱いている。

 その棒を両腕で持ち直し、大地に突き刺した。

 鍵を回すように回転させる。

 重さに耐えかねてか、緩慢な動きだ。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 しかし確実に。


「地獄の門が開いちゃう」


 音符がつきそうな明るい声で、黄金の魔神は、馬を駆る。

 生まれたばかりの赤子のような魔神は、懸命に棒を回し――


 かちり、と音がした。


 女の顔に、少女のような無垢の笑みがのぼりかけ、


「――ッ!?」


 放たれた矢のごとき黒騎士に弾き飛ばされる。

 軍勢から飛び出したこの騎士は、隠されてしまった少女のけはいが、再び現実に現れるまでひたすらに時を待っていた。

 エリアス・グリムである。

 彼は女――七子のなれの果てに、正気に返れなどといった無粋な言葉はかけなかった。

 ただザール王国の正統な剣術をもって、得物を構える。

 問答無用であった。


「旦那、ダメージ諸刃の剣じゃね?」


 望遠鏡片手に傍観と決め込んだ不良団員グレンが、冷静に考察した結果そう呟いたのだが、これは割に正しい言だった。

 眷属であるエリアスが七子を傷つけると、そのダメージは彼にも返って来る。

 七子が滅びる時、エリアスもまた滅びの時を迎えることとなるだろう。

 弾き飛ばされた七子は、まだ物心もつかないように、ぼうっとした面持ちでエリアスを見たが、かくん、と首を傾げた。

 無邪気といえば無邪気な顔である。

 何も考えない。

 思考することを放棄した者だけが得る笑みだ。

 真っ白であるがために、このようになっている。

 これを生きているとは到底言えないだろう。 

 二人の魔神は面白い見世物が始まったとにやにや観戦している。 

 エリアスにとっては好機であろう。

 奇妙な空白地帯となったレジーナ河岸において、魔神とその眷属はほぼ同時に飛び出した。

 七子の手元で、棒はばらり、と無数に解けた。

 糸束は天女の比礼のごとく分割され、黒い触手となってエリアスを襲う。

 次々と猛スピードで襲いかかるそれをかいくぐり、目にもとまらぬ速さで、僅かの間に何十合と得物が渡り合う。

 火花が飛び散り、ほとんどアクロバティックな動きで、二人は回転し、打ち合い、殺し合った。

 稲妻のごとき速さで走り抜け、硬質化した黒い刃がさっと一突きしたかと思えば、これをエリアスの剣が払う。

 彼が勢い鋭く打ち込めば、暴風が生じて、水面は高々と反対の河岸に打ち寄せた。

 巻き込まれた兵士が水中に投げ出されるが、構っている余裕はない。

 七子の攻撃はますます激しさを増し、エリアスではしのぎきれなくなっていた。

 いくつかの攻撃はエリアスの急所を外しながらも、貫通してしまっている。

 エリアスを丈夫な玩具の代わりにいたぶりながら、七子は特にどうと思うこともなかった。

 心が凍り付いてしまっている。

 何も感じない。

 始めから、こうすればよかったのだとさえ彼女は思っていた。

 あの道化師の少女と手をつないだ時、二人は溶け合った。

 私達は一つだ。

 気に入らない者は全部壊してしまえばいい。

 酷いことをする奴を、許さない。

 あいつらを。




(――本当に?)




 小さな棘のように刺さる何か。

 しかし無視する。

 破壊衝動のままに振舞うことは、本当に楽だから。

 何も考えないことで、自分の身を守れるのだから。

 駄目な自分のことなんか知らない。

 声を上げられない自分なんか大嫌い。

 消えてしまいたい。 

 消えたい。

 消して。


(私なんか、いらない。どこにもいらない)


 自分を消せないなら、周囲を消せばいい。

 七子は小さくなって、誰からも見えないようになりたかったのに。

 そうしようとしていたのに、放っておいてくれれば良かったのに。

 わざわざ引きずり出して、嘲笑され、からかわれ、見えない場所で小突かれ、口にしたくもないことをされた。

 止めてくださいという言葉は、冗談が通じない、空気が読めないと、周囲をしらけさせてしまう。


 ――つまらない。


 ――一緒にいて楽しくない。


 ――そんなんだから。


 ――篠原さんは友達が出来ないんだよ。


 いい気になっていた。 

 この世界で変われるかもしれないと浮かれていたのだ。

 でも、現実の前には、それも粉々に砕けた。

 優花に何も言えなかった。それが本当の七子だ。

 恥ずかしくて、七子は自分の存在が恥ずかしくて、ただ本当に恥ずかしくて。

 吃音が再発し、少女は小さくなって、自分を消してしまうことにした。 

 魔神という外皮の中に、真珠貝に包まれた石ころのように隠れる。


(必要ない。いらない。私がいない方が、いい)


 それが、少女の結論だった。

 すると、呼応するように、同じような色の声が届く。


 ――いらない。私は必要ない。


(誰?)


 同じ色をした魂の声に、七子は耳を傾ける。

 そう、傾けたのだ。


「いらっしゃい」


 凛とした女性の声がした。

 七子の手を、誰かが掴んだ。


(あっ)


 エリアスと戦う魔神の身体から、劣等感に苛まれる少女の魂の欠片は、無理やり引きずり出されて、空間を跳躍した。

 不思議な感覚だ。

 孔雀の塔と呼ばれる監獄塔の最上階に、七子は手をしっかりと握られたまま出現したのだ。

 テレビを見ながら料理をするように、同時に二つのことを並行して行うような感覚で、七子は戦闘しながらも同時にここにいるという状態だった。

 そのためか、少女のけはいは本当に希薄だ。

 採光窓は、政治犯等を逃さないために高い位置に小さく取られている。

 全体に薄暗く、陰気な雰囲気の石壁が狭まってくるようで、幽体でありながら息苦しさを感じるほどだ。

 七子は唖然とした面持ちで見上げる。

 彼女を連行したのは、半透明のアビゲイル女王だった。

 厳しい顔つきで、七子の手を握り締める反対の手で指差す。

 寝台に突っ伏し、嘆くこの男は――幽閉された皇太子エドワードである。


「貴女の力を貸してちょうだい。死者と生者をつなぐその力で、王に最後の言葉を伝えたいの」


 刻まれた皺奥に、見開かれた目には濡れるような煌きがある。

 七子は悟った。

 死者だ。

 アビゲイル女王はこの世の者ではなかった。

 戸惑いながら、七子は女王に促されて、エドワードに触れた。

 彼は雷打たれたかのように振り返り、硬直した。七子の姿は見えぬようで、女王だけを注視している。


「は、母上――」


 生きておられたのですね、と滂沱の涙を流しそうになった彼に、ぴしゃりと女王は言った。


「生きてませんよ。死んでます」


 妙な応答だが、女王は「最後の言葉だから」とつないだ。

 威厳などなく、まるで本当に小さくなってしまった女王は、がらがらと音の鳴る喉で言う。


「しゃんとしなさい、エドワード」


 彼女の頬を涙が滑り落ちる。


「もう、守ってあげられません」


 喉に木枯らしを飼っているかのように不明瞭さを増す声で女王は言う。


「もう、お前を、守ってあげられません」

「――母、上」


 中腰にエドワードが立ち上がった。

 そっとその手を女王に向かって伸ばす。

 しかし、触れることができない。

 絶句する。

 エドワードは目を見開き、手を見つめ、女王を見る。

 女王の死に様の気持ちが、彼に伝わってくる。




 ――不思議なのよ。

 喧噪が全て遠ざかり、モノクロームの世界に。

 ――確かに、見えたの。

 ――モノクロの中に、赤い、光が。

 気がつくと、勝手に体は斜めに傾いでいた。 

 ゆっくりと、ゆっくりと、何もかもまるで飴細工のように時が間延びした。

 驚いたまま、目を見開いた我が子の顔が思い出される。

 ――いえ、これは現実? ハロルド、連れてきてしまったのね。 

 ――熱い。

 血の塊が臓腑を焼いた。

 吐き出す。 

 ――私、死んでしまうのかしら。

 ――それもいい――

 ――ようやく、解放されるのね。

 国の行く末を案じて死ぬわけにはいかないと思う傍ら、どこか嬉しくすらあった。

 そして、我が子の顔。

 国家から解放される最後の瞬間は、凝縮するように我が子のことで胸が締め付けられる。

 ――私の、子供。

 ――エドワード。

 ざあっと全ての色と音が巻き戻った。

 叫んでいる。

 ――私死ぬの。

 ――あの子は、どうなるの。

 絶叫したかった。

 ――私が死んだら、どうなるの。

 ――周りは、敵ばかりなのよ。

 ――辛い時代が来るわ。もうその最中よ。地獄じゃない。

 ――私は。

 ――この子を一人残して行くのか。

 ――私が死んだ後、どうなるのか。

 ごほ、と血が咽もとに込み上げ、吐血した。

 ――いったい、誰が――!!!!!

 視界が滲む。熱い涙が溢れて、

 ――ああ、あの子の顔が。

 ――もう、顔が見えない。この子の、顔が、見えない。

 ――いったい、誰が、助けてくれるの?

 ――いったい、誰が、この子を愛してくれるの?

 ――自分を愛せぬとあの子は言う。

 ――己を愛せぬ子を、誰が愛してくれようか。

 ――私には、分かる。私と言う盾、私と言う名目の庇護を失い、自らを不要のものとして追い込んでいくこの子がどんな道を辿るのか。

 ――あの子を残して行くの?

 ――助けて。

 ――この子は――自分をいらぬと言うの。

 ――親として、どれほど、自分が不甲斐なく、悲しかったか。

 ――エドワードが悪いのではない。

 ――我が子を救えぬ親の咎だ。

 ――もう、涙で何も見えない。この子の顔が、

 ――もう、私は何も、出来ない。

 ――これから、一体どうなるの。

 ――一人、のこしていくだなんて。

 ――残して、いけない。

 ――もう、声が、出ない。

 ――お願い。

 熱い涙が溢れた。

 血を吐く絶叫だったのに、声は掠れて、どっと溢れ出した涙に視界が歪む。

 ――伝えたい言葉があるのに。声が、声が、出ない。

 ――声が、もう、出ない。

 ――神さま、お願い。

 ――この子の道を照らして。

 ――どうか、この子に自分を許す術を教えて切れなかった私を罰してください。

 ――だから。お願いよ。残していけないの。

 ――あなた――



 女王の末期は、様々な思いが去来し、事切れる瞬間まで、エドワード皇太子を案じていた。

 公人であろうとした彼女は、最後の最後で、そうあることが出来なかった。 

 親として勤めを果たせなかったと、悔いてばかりだ。

 女王ではない。

 アビゲイルは、その偉大な仮面を剥いで、泣きじゃくりながら我が子に訴えた。


「もう守ってあげられないの。お願いよ。最後のお願いよ。どうか、自分をいらぬと言わないで。あなたを許してあげて」


 くしゃくしゃに顔面を歪める。


「あなたが、あなたを守ってあげて。もう、お母さん、守れないから、後生よ、エドワード」


 この小さくなってしまった母親を、エドワードは呆然と見つめ、その触れることも出来ぬ肩に手を回した。

 壊れやすい硝子の細工を手に包み込むようにして、女王を抱きしめる。

 触れ合うことの出来ない親子は最後の逢瀬を静かに過ごした。

 エドワードの腕の中で、女王はほろほろと解けて行く。

 そして、最早、どこにもいなくなった。

 アビゲイルは、最後、私人として去った。

 これを非難することもできただろう。

 しかし。


 握り締めた拳を開き、顔を上げたエドワードは。


「――申し訳、ありませんでした。母上」


 男の顔をしている。

 私人として去った女王は、次代の王にその魂を継いだ。

 公人として最大の勤めを果たしたのである。


「ったくよお」


 おっせーんだよ、と不満げな子どもの声に、エドワードは「すまなかった」と謝り、振り返った。


「反撃すっぞ」


 ふて腐れたようなそれに、エドワード王は力強く頷いた。





27


 瑞兆ずいちょう、というものがある。

 良きことの前触れを指す。

 国教会首長抜きで、『精霊網』 再編に心血を注いでいた大主教一派が、まずそれを察知した。

 彼らのいる王都サークル大聖堂は、八十ものステンドグラス窓を持つ、全国教会の要である。

 その構造は初期バシリカ方式を継ぐ十字形プランの建築だ。

 内陣の真正面には、目も眩む縦長のステンドグラス『天上の窓』を配している。

 垂直に聳え立つガラス窓は、縦仕切りによって細長い条に分割され、色ガラスやグリザイユが淡い色から濃い色へと変幻する様は、霊験かつ恍惚の天上世界へと見る者を誘うものであった。

 暗い聖堂内に、ステンドグラスの色ガラスを通して外の光が射し込むと、薔薇窓は床の上にもエメラルドに、ルビー、サファイヤ、トパーズの宝石のように煌く神秘の文様を映し出す。


「――おお」


 多くの聖職者達はどよめいた。

 パネルに描かれた 『聖告』から『降誕』、『復活』まで一連の神の御業を告げる天使達は、その姿を変えていた。

 一人の優美な天使がその手に王冠を持ち、また一人の人間にそれを授けている光景へと変じていたのである。

 さながら、それはこう表現すべきであった。


『キング・エドワードの戴冠』


 と。

 ステンドグラスの絵がこのように変じたのは、まさに瑞兆の一端であった。

 これは各教区教会においても、同様の瑞兆が確認され、人々は王の誕生を知ることとなる。

 大主教は察して膝まづき、すぐさまこの国教会の首長を出迎えるために、手配を回し、改めて女王の冥福を祈った。





 ティフの宮城、皇太子宮。


「ふざけるではない! 私わたくしを誰だと思っている!? 私は皇太子妃ぞ!」


 喚きたてているのは皇太子妃マリアである。現在、皇太子妃及び第一子ヴィクトリア姫もまた軟禁状態にあった。

 マリアはよくある名前であり、女が偽名を名乗る時はマリアと名乗ることが多いほどだが、その中でも気の強さでは折り紙つきである。

 彼女の豪奢なドレスの裾影には、指しゃぶりの癖の抜けないヴィクトリア姫が隠れ、母親の剣幕に縮こまっていた。

 これを押し止めるのは、ウェールズ公ハロルドが手を回した侍従武官達である。彼らは、皇太子妃マリアの護衛ではない。君主の継承第一順位に繰り上がり、皇太女からすぐにも即位せんとするヴィクトリア姫を保護下に置くために配置されていた。

 幼帝、幼君の即位は、政務に適さないことから、必ずその補佐者を必要とする。

 これは容易に政治の実権を第三者に握られてしまう構造だ。

 幼君を操らんとする奸臣の専横を警戒し、皇太子妃マリアもまた幼い姫を決して手放すまいと毛を逆立ていている状態であった。

 しかし、ここに飛び込んで来た宮内府の官僚が、全てをひっくり返すこととなる。


「教会から報告が! 瑞兆です! 新王が立たれました!」


 全員がヴィクトリア姫を振り返ったが、姫は怯えて指を吸い、うろうろと視線を彷徨わせた。

 皇太子妃は、剣幕を収め、そっと膝をついて姫の指を押さえると、手巾でよだれを拭う。

 彼女はすまして言った。


「ふん、だから言ったであろ」


 いまだ飲み込めぬ彼らに、皇太子妃は鬼のように柳眉を逆立て、痛罵つうばを浴びせた。


「お前達、何をしておる。新王が立たれたと聞いたであろ!? 良いか、ヴィクトリアではない! エドワード王じゃ! 逆臣が誰か分かったであろう!? 疾とく、ウェールズ公を捕縛せよ! ええい、まだ分からぬか、国家危急の際、陛下をお出迎えし、聖霊の間の準備を整えい!!」


 はっと雷鳴打たれたかのように、ばらばらと動き出す侍従武官たちを尻目に、彼女は我が子の顔を拭ってやりながら、嘆息した。


「本当に遅い。さ、ヴィクトリア。お母様たちも参りますよ」


 ヴィクトリア姫は、ぽかん、と大きなサファイアの瞳で、母を見上げる。


「どこへ参るの?」

「陛下をお助けするのですよ。姫もよく見ておきなさい。お父様のお姿を。この国の行方を――」


 分からぬなりに、この幼い姫は一生懸命に考えて、こっくりと頷いた。





 誰にも聖霊は見えない。

 幼いヴィクトリア姫には、何かいるけはいが感じられ、今日ほどはっきりとそのお姿が見えたのは初めてであった。

 父エドワードの帰還。

 母である皇太子妃がこれを出迎え、ドレスの裾を持って、丁重に出迎える。

 市松模様の大理石ホール、左右に並ぶ家臣団もまた礼を取り、新王の歩みに、彼らは自然と頭が垂れるのを感じた。

 聖霊は誰にも見えない。

 ただ王が代わる時、君臣は瑞兆を目にすることになる。

 しかし、誰もが理解した。

 エドワード王。

 彼が、王であると

 皇太子妃――いや、王妃マリアが頭を上げ、王にこう挨拶した。


「お帰りなさいませ、陛下」


 エドワード王は、厳しい顔つきから少し夢覚めたように、柔らかさを取り戻して、こう返した。


「ただいま、君」


 指をしゃぶるまいとしていたヴィクトリア姫の心に、ぱっと薔薇色の喜びが満ちた。

 父の力強くも優しい顔。

 母の険が取れた柔和な顔。

 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 幼い姫の心は温かく満たされて行く。


「聖霊の間に向かう」


 王の言葉に、人々は早急に動き出した。

 捕縛されたウェールズ公ハロルドの処遇は、最早処刑執行にエドワードが署名する以外ない。

 エドワードにとって、母を殺したハロルドを処断することは、復讐以上に、自らの従兄弟を死地へ追いやる辛く耐え難い苦痛である。

 しかし、これを情に流され許せば、国家の法は瓦解するであろう。

 このことを明確に指示した上で、まずは国防を優先せざるを得ない状況下、足早にエドワードは聖霊の間へと向かった。

 後を追うたヴィクトリア姫を、侍従が止めようとしたが、エドワードはこれを許した。


「姫も来るがいい。王家の務めを、その身で知ることだ」


 幼い姫は父とともに聖霊の間に入る。

 静謐な空気の中、エドワード王が玉座に腰かけ、その膝元に姫はちょこんと座った。

 王は目を瞑る。

 無風の室内に風を感じていた。

 多くの人々のけはいも。

 無数の指先が彼の肩に滑り落ちて来る。

 頑張れよ、と彼らはエドワードに声をかけていく。

 子孫よ、頑張れよ、と。

 きっとエドワードの肩を叩いていくその中に、母のそれもあったはずだ。

 エドワードは目を開いた。


「――これより、『精霊網』の再構築に入る」


 反撃の時間である。

 幼いヴィクトリア姫は驚きに大きな目を零してしまわんばかりに父の顔を見上げ、それから聖霊の間を見渡した。


(聖霊さま、燃えてる。綺麗)


 この幼い姫の目には、聖霊は火と見えた。

 赤々と燃え上がる生命のかがり火。

 金の火の粉を撒き散らし、闇の中に暖を灯して、世界を照らすもの。

 やがて、炎が燐と吹き零され、つる首をもたげる何かが翼を広げる。


「きれい。おとうさま、火の鳥だよ」


 指差して姫は頬を真っ赤にした。

 尾羽が長く伸びて床を払い、くるりと回転すると白い軌跡を描く。

 大きく翼を広げた不死鳥フェニックスが、ごう、と燃え盛り、姿を消した。

 あとには、きらきらと煌く炎の羽が、天井から舞い落ちてくる。


「あっ」


 手をさし伸ばし、消えちゃった、と泣きそうな姫に、父であるエドワードはその頭を撫でる。


「消えたのじゃない。みんなを助けに行ってくれたんだよ。さあ、姫も力を貸しておくれ」

「うん」


 頷いた姫は、それから首を傾げた。


「あの、お姉ちゃんは?」


 彼女が再度指差す先に、所在なげに立ち尽くす七子がいた。

 このかすかで、今にも消えそうなほど気薄な存在は、言い当てられて、びくり、と肩を揺らした。

 不安げに惑う瞳が、指しゃぶりを止めた姫と視線を合わすこともできずに俯く。その手は、自らのスカートを固く握り締め、皺ができているのにも気づいていない。

 ヴィクトリア姫は、才覚で言うと、その巫覡シャーマンとしての資質は、父を凌ぐものであった。

 娘が言い当て、見つけ出したことで、エドワードにも初めて、この『よく分からぬ薄い存在』の形を視認することができるようになる。

 古来より、怪異や神霊は、その存在を『当てる』また『暴く』ことで、不明瞭のヴェールを剥ぎ取られ、正体を現したり、神性や魔性を失ったりする。

 『名当て』はその際たるものであろう。

 『名』すなわち『存在』を当てられたものは、その本質を露にされてしまうのである。


「そうか、君か……」


 エドワードは目を細めた。


「ありがとう。母の最期の言葉を聞かせてくれて」

「――ッ」


 弾かれたように面を上げた七子の目は、涙に滲んでいる。

 少女は、もうどうしたらよいのか、分からなかった。

 エリアスと戦い始めて、一時間ほどすでに経過しているだろうか。

 この七子と魔神である七子、二人を結ぶ糸は次第に細く長くなって行き、テレビの映像が次第にフェードアウトしていくように遠ざかりつつある。

 もう戻れないかもしれない、とすら少女は恐怖していた。

 自分の方が存在として、とても弱い、と七子は身を持って感じざるを得なかった。

 あちらが本体とすれば、このまま幽霊として彷徨い、氷山から削った小さな氷粒が溶け消えてしまうように消失してしまうのだろうか。

 消えてしまいたいのに、それが怖い。

 矛盾を孕んで、ただ怯え立ち竦むだけだ。

 エドワードの視線がじっと七子に注がれている。


「――何故だろう、君は、私に似ている気がするね」


 うろたえるのと同時に、それは七子もまた感じるものだった。

 消えてしまいたい、とその声が聞こえてきた時に、七子は彼に引き寄せられ、その瞬間を狙ったように女王によって引きずり出されたのである。

 エドワードは責めるでもなく、励ますでもなく、静かな口調で問いかけた。


「君は、戻らないのかい?」


 七子は顔面を歪めた。


「戻れない――私、もう、消えてしまいたいの」

「うん、分かるよ。よく分かる」


 年齢も立場も出自も異なる相手だが、頷かれ、七子は説明もなく、ただ叩き付けた。


「向こうでも駄目だった。こっちでも、何も言えなかった。言えないの。怖いんです。私の言葉で、誰かが、嫌な思いをするのが。誰かに不快に思われるのが怖い。どうしようもなく怖いの。それなら、消えてしまった方がいい!」


 自分とよく似ている――しかし、決定的に違ってしまった鏡像に向かって、少女は血を吐かんばかりに吐露し、顔面を覆う。


「私、いない方がいい! エリアスさんにもいっぱい迷惑かけた! 今かけてる! 私、私、」


 でも、嫌われたくない、と七子は崩れ落ちた。

 話すのが怖い。

 本当は話したい。

 消えたい。

 本当は消えたくない。

 嫌われたくない。

 本当は好きになって欲しい。

 全部逆だ。

 逆なのだ。

 どれも手を伸ばすのが怖い。

 怖くて怖くて仕方ない。

 だって、手を振り払われたらどうしたらいい。

 宙に伸ばした手を払われたら、そのまま彷徨う手はどこに置いたらいい。

 その姿が注目を集めてしまったら、もう七子は耐えられない。

 少女は、惨めな自分を見ないで欲しかった。

 誰にも見られたくない。

 誰にも――父や母や、エリアスにだけは。

 彼女が、自分を好きになって欲しい人々にだけは。

 いい格好をしたいのではない。

 プラスの評価なんて、そもそも高望みだ。

 ただ、失望されたくない。かわいそうだと思われたくない。

 このちっぽけなプライド。


「どうしてだろうか、君の気持ちが私にはよく分かるんだ。いや、誰だって、大好きな人からは自分のいやな部分は隠したいものだよ。私も失望を恐れた。失敗する前に、失敗を恐れた。それなら何もしない方がいいとさえ思っていた。自分を消してしまいたかった」


 半ば独白するエドワードに、娘のヴィクトリアがぎゅっとしがみつく。その頭を撫ぜながら、エドワードは「大丈夫だよ」と微笑んだ。

 今、エドワードと七子は決定的に違う。

 何が違うのか、二人は何を違えたのか。

 エドワードは、彼の恩人に語りかける。


「だがね。消えてしまいたいと願うその姿が、私を愛してくれる人々に何より苦痛を与えていた」


 どきっと七子は胸を抑えた。何かが引っかかる。いや、女王がエドワードに残した言葉から、ずっと七子の胸をドンドンと叩く何かがある。


「知っているのに、私は知らないふりをしていたかもしれない。君もきっと。どうか、君。失敗を恐れるなよ。どうか、私であった君。顔を上げて、目を開きなさい。君が背負うているのは君自身だ。それ以外の何者でもない。大人になれば、もっと多くを背負うていかねばならぬ。私はいい大人なのに、それが怖かった。だから、多くの人に助けてもらうよ。伸ばせば、手を握ってくれる人がいる」


 ヴィクトリア姫が、父の手指をしっかりと握っている。ここにいない王妃マリアも、その役目を果たしながら、もう片方の手にきっと指先はつながっているはずだった。


「九十九人私の手を振り払ったとて、一人この手を握ってくれる人がいる。ならば、二人目もいるはずだ。三人目も四人目も――私はもう恐れぬよ。君よ、君が目を開かねば、相手もまた伸ばした手を、君に届けられぬよ。そしてその人たちを、悲しませるな。取り返しがつかなくなる前に」


 行ってくるといい、と。

 背中を押した。

 躊躇い、七子は無理だと思う。 

 しかし、鏡像は失敗を恐れるなと言うのだ。

 七子にも、手を握ってくれる人がいるはずだと。

 その人たちを、七子が悲しませるなと。

 そんな人、いるはずがない。

 いるはずが。


「……お、とうさん。おかあ、さん」


 ――エリアスさん。

 少女は心臓の辺りを強く強く手で握り締める。

 アビゲイル女王は泣いていた。

 あれほど立派で恐ろしい人が、小さくなって泣いていた。

 何が辛いと、それは自分を愛せぬ我が子が辛いと泣きじゃくっていた。

 自分を許してあげて、自分を守ってあげてと、彼女は最期に訴え、光の中に消えたのだ。

 七子は父と母に惨めな自分を見せたくなった。

 知られたくなかった。

 だけど、七子のしていることは。


「――私」


 少女は俯く。

 長い髪がその表情を覆い隠す。


「――私」


 両手の指を傷つくほどに握る。


「私、行ってきます」


 その面を上げた時、それは決して美しいものではない。

 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔。

 しかし、美しさとは何であろうか。

 本当に大切なものとは、どんな色と形をしているのか。

 分からなかった少女は、見えない何かを確かに得ていた。

 きっとまた惑い、傷つき、何度も取りこぼしてしまうことになる何か。

 けれど、何度でも蘇る何か。

 空中を舞う不死鳥の羽が、少女の肩に触れると、燃え上がり、まるで翼のように彼女を包んだ。


「ああっ」


 ヴィクトリア姫が素っ頓狂な声を出して、三度目指差す。


「天使みたい!」


 このどこか奇矯なところのある姫が言ったとおり、翼は大きく羽ばたいて、次の瞬間には七子は姿を消していた。



28


 ティフ神聖王国レジーナ河川域戦。

 王都を攻撃する敵軍の後背から突く諸侯野戦軍の第一波は、大規模な騎兵師団である。

 これは、師団本部に四騎兵連隊、弓兵連隊、支援連隊で構成される。

 師団は、先に上流域を通過し、おって王国第一軍と呼応する形で、敵軍を挟撃するはずであった。

 しかしながら、渡河して後、第三の魔神ハートの女王率いる敵の小規模遊軍に足止めを余儀なくされていた。

 この女魔神は、薄っぺらなカードから上半身の突き出した異形の姿である。彼女の空間を断絶された下半身がどのようになっているのかは、誰にも伺い知れるものではなかった。

 カードが反転することによって、『彼女』が『彼』になることもまた容易であったが、女魔神はそのままに微笑を口元に刻んだ。


「ほほほ。無粋な真似は駄目よ」


 ハートの女王がその黄金の錫杖をふるうと、大地が泡立ち、一部液状化した。

 また、逆に一部は隆起し、大地から巨大な盾が無数に突き出したかのように進軍を妨げた。

 たちまち先頭の馬が棹立ちとなり、恐慌にいななく。 

 戦場でも動じないように訓練された軍馬であっても、魔神のでたらめな力の前には、繊細な子馬のように戦くよりなかった。

 これがもし強靭な軍馬でなければ、口元から泡を吹き出して、大地に転倒していただろう。

 騎士は、馬を己の資産とみなすため、愛馬として慈しむものではないが、落馬自体は何よりも恥辱とされ、彼らは必死に手綱を取った。


「弓兵隊、前へ!」


 すかさず、司令官となるオイエン少将が指揮剣を指した。

 弓兵隊は、イチイ材に芯を仕込んだロングボウを構え、弦を最大限引くと同時に、開いた右膝でぐっと沈んだ。


「放て!」


 こん、と軽い音がする。

 弦の音である。

 射手が反動で、押し出すようにして前に弾む。

 ひょう、と風切る音が鋭く鳴った。

 聖職者による『祝福』を受けた弓兵隊が、矢を一斉に放ったのだ。

 全身をバネのようにして曲射された弓の飛距離は、軽く三百メートルを凌駕する。 

 矢はしなり、連射に次ぐ連射で雨あられとなって女魔神を襲う。

 しかし、見えない壁に阻まれ、虹色の油膜のような波紋が空中に描かれると、地上に矢羽がきりきり舞して落下した。


「いかん、魔神相手では、飛距離が長過ぎる」


 とりわけ立派な馬鎧を着せた軍馬に騎乗するオイエン少将は、舌打ち交じりに言い捨てた。

 ティフの弓兵隊は、長期間の訓練により、恐るべき精度と仕上がっていたが、その威力はあくまで対人戦におけるものだ。

 魔神相手には、無力であることを悟った少将の言に、師団参謀が尋ねる。


「しかし、これ以上は障害のため近づけません。幸い、敵は連隊規模。交戦に予備兵を残し、本隊は迂回しますか」


 敵を前に、転進は通常考えられない悪手である。これこそ、後背を敵に突かせることとなるだろう。

 一瞬、オイエン少将の脳裏に、いくつか戦の常道である戦術が浮かぶ。


(いや、相手は魔神だ。人の世の戦が通じるとは限らんか。奴らは補給すらしておらん。兵站を必要としないなど、あまりにもでたらめ過ぎる)


 補給線を側面から叩くといった戦術すら取れないのだ。

 まともではない敵軍相手に、まともな戦は出来ない。 


(しかし、あの女魔神――これ以上仕掛けるけはいはない。ふむ……戦意ありは、配下の者のみ、か。目的は我らの足止めか? ならば、ここは膠着――仕方あるまい。兵を分けるか)


 王都防衛線の水際、悪手だなんだと言っておられぬとオイエンは決断をした。


「それも止むをえんか。予備兵を残し、本隊を離脱させる――指揮はハウスマン大佐」

「はっ、身命を賭しても」


 このやり取りは、対人間であれば聞こえるはずもない距離であったが、魔神は常識枠の内にない。

 ハートの女王は、「あらあら、どうしようかしら」と顎先にほっそりとした指を当てた。

 同時に気づく。


「ほほほ。厄介な者が来てしまったようね。あまり時間稼ぎにならなかったけれど、一応足止めはしましたよ」


 王都の方角から、凄まじい勢いで、赤い何かが近づいて来る。

 夕日の色をした何かは、空中において、無数に分裂した。

 流星群かと見まごう姿で、国中へ流れ落ちて行く。

 赤い炎の塊の一つが、レジーナ河川に達した時、それは大きな二つの翼を持ち、羽ばたく鳥の姿をしていた。

 天を焦がさんばかりに高く鳴くと、美しい尾羽を彗星の尾のように引いて、魔神率いる敵軍めがけて突っ込んで行く。

 ティフ側からは、歓声が上がった。

 隆起した大地も、その不自然な地形をぼろぼろと崩壊させて行く。赤い女魔神はすでにその姿を消していた。

 残った低位の魔たちが、おぞましい咆哮を上げる。


(――やはり)


 女魔神が消えたのを見て取ると、オイエン少将は彼の騎馬団に突出を命じた。

 ハウスマン大佐がこれを指揮し、同時に本隊は離脱する。

 突出した騎馬団は敵陣に突っ込み、すぐに返す馬首で本隊に敗走してくる。

 あっさり敗走したハウスマン大佐たちに追撃する形で、低位の魔は群がったが、いつの間にか彼らは長く伸び切っていた。

 その様子を確認すると、オイエン少将は直ちに本隊へ命じた。


「転進!」


 先に離脱した本隊騎馬団は、鮮やかに方向を変えると、整然と左右に分かれて疾走する。

 いつの間にか、ハウスマン大佐の騎馬団を追撃していた敵軍を、押し包むように囲んでいた。

 ハウスマン大佐が吊り上げた形の敵軍を、方向転換した本隊が包囲したのである。


「包囲殲滅せよ!」


 短時間で敵軍を下したオイエン少将は指揮剣を振りかざし、


「勝利は我らにありッ、第一軍と合流するぞ! 敵軍本隊を挟撃する! 遅れるな!」


 彼の師団を鼓舞した。

 同時に、彼の心中は冷徹なまでに自らの天分を悟って呟く。


(低位の魔であれば、人の世の戦術もまた有効であるが……どうにも魔神は別格だ。対抗するには、王家と聖霊と教会、三位一体の結界以外にあるまい)


 国中に散った流星群は、魔神の力を抑制する結界を再構築させるだろう。

 それまで、時間を稼がねばならない。王都防衛戦は、我らの手にかかっているぞ、と彼は馬首を巡らせた。






 オイエン少将達同様、火の鳥は国中で目撃され、当然第一軍においても、その顕現は真っ先に確認された。

 兵士は、熱狂的に歓呼し、士気を上げた。

 この無数に分かたれた聖霊の化身は、神道における本社の祭神を他所に分かつ分霊と似た仕組みだ。

 これを勧請するのが、王家の者の役目である。

 分割されても、聖霊の力は損なわれるものではなく、本体と同じ働きをする。

 すなわち、本体の寸分違わぬコピーであった。

 この最中に、七子は引きずり戻されるのではなく、自らの意思で舞い戻る。


(私の、からだ――!)


 幽体とも言うべきかすかな存在は、糸を手繰り寄せて自ら飛び込んだ。

 すると、融合していたナディアの意識にぶつかる。


 ――あれ、戻ってきたんだね? どこ行ってたの? 


 迎え入れるナディアはのんきな言葉をかけ、勢いを失ってたじろぎかけた七子に、明るい声音で更に告げた。 


 ――はやく、皆殺しちゃおうよ!


 七子の時間は、一瞬空白とも言える思考の停止を招いた。


 ――皆、いらないよね。一緒に、やっつけちゃおう!


 その場違いに明るい、何のてらいもない思念は、悩むことを止めたもう一人の七子の末路であった。

 思考することを放棄した人間が、どれほどに楽になれるのか。

 嫌なことがあれば、稚気のままに叩き壊してしまえばいい。

 自分を取り巻く人間関係などわずらわしい。

 全て忘れてしまえばいい。

 ただ面白おかしくあればいいのだ。

 目も耳も塞いでしまえ、そうすれば自由になれる。

 甘い誘惑そのものがナディアである。

 だから、七子は小さく呟いた。


(ごめんね。手を取ってくれて、嬉しかったよ)


 何? とナディアが懸念の思念を放った。

 七子は胸が締め付けられるように痛んだ。

 しかし、七子はもう怯懦の内に、悩まぬ己へ寄り添うことを止めなければならないと感じていた。

 それは――消極的な逃避に過ぎないと、少女は言葉にならぬままに認めたのである。


(ごめんなさい、あなたを、私は受け入れられない)


 遠慮がちに告げる。


 ――は?


 ナディアは初めて、七子に対して不快を示した。

 七子は顔を上げる。


(もう、決めたの)


 そこには相変わらずの怯えとともに確固たる意思が宿っている。


 ――冗談でしょ?


 ナディアが言う。

 しかし、七子の意思が固いのを見て取り、本気だと悟ると半狂乱になった。


 ――止めろ。止めてッ、僕を、追い出さないでっ


 無邪気の化身とも言うべきナディアは、いっそ驚くほどの狂態を見せた。

 これは七子にとって驚くべきことであったが、それでも決意を翻すには至らない。

 悲痛な声に七子は泣きそうになりながら、三度謝った。


(ごめんなさい。私は、私にしかなれないから。だから、私ががんばるから。駄目だけど、私が、私を)


 私であることを止めない――そう、少女は訴えて、ナディアをはっきりと拒絶した。

 その瞬間。

 ナディアの絶叫とともに、七子は目を覚ました。

 現実世界が奔流となって押し寄せてくる。

 最初は、音。

 次に光。

 そして。


「――エリアスさん」


 間近に、エリアスが目を見開く。覆いかぶさる形に彼を追い詰めていた七子の髪が、ぱらぱらと彼の顔にかかった。

 その周囲には、無数の硬質化した触手が、エリアスを避ける形に大地を深く抉っていた。

 間一髪であった。

 ナディアが彼の大叔父おおおじであるベアー・グリムを殺傷したように、同じことを七子が行おうとしたのだ。

 エリアスの泥と血に塗れた顔。

 その半分は秀麗であり、またその半分は無残なまでに溶解している。 

 しかし、全体としていつものように無表情であった。

 まるで何事もなかったかのようだ。

 両手を地面についたまま、指先がぶるぶると震えてくる。

 七子の頬を涙が滑り落ちた。

 ゆっくりと尻もちをつくように上からどくと、何か言おうとした七子は、その機会を失う。

 融合から弾き飛ばされ、現界したナディアがよろよろと立ち上がって喚いた。


「酷いッ、酷い酷い酷い!!」


 繰り返し叫んで、きっと七子を睨んだ。


「僕は君なんだぞ! 僕は、僕はっ! どうして拒否するの!? 僕達は二人で一人なんだよ! 僕は君で君は僕だ。『僕達』は『私』なんだ!!!」

「あ……」


 狼狽するように立ち上がった七子は恐れ、気持ち一歩、二歩、後退した。

 思わず、よろめきながら立ち上がったエリアスを見てしまう。そして恐怖する。

 止めて、と思うのに、今度こそ何も言えない。止める権利などない。

 七子の怯えを察してか、満身創痍ながら、エリアスが彼女をかばう様に前に出たのを、ナディアは顔面を歪めて嘲った。


「ばっかみたい、ばかばかばーっか! 君の血縁のおじーちゃん、僕が殺したよ! 知ってた、僕、その子の分身なんだよ!? ううん、

彼女が僕の分身なんだ。僕達は同じ人物なんだ! 分かったら、そこをどけよおぉおお!!」


 エリアスはしばし沈黙した。

 この永遠にも等しい沈黙の時間、七子はがくがくと身体が震えて止まらなかった。


(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)


 やがて、エリアスは口を開いた。


「お前は、ナナオではない」


 はあっ!? と語尾を跳ね上げたナディアを無視して、エリアスは背後の七子に言う。


「あなたは、あの魔神ではない」


 それ以上エリアスは無駄口を叩かなかった。

 これで全部だとばかり、口を閉ざしてしまう。

 決定的に言葉が足りていないが、ここにそれをまともに指摘する人物は揃っていなかった。


「馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿ッ、同一人物なのっ。時間軸が――あっ」


 ナディアは小さな子どものように罵倒し、何か言いかけて声を上げた。


「――いいよ。もういい。馬鹿。知らない。うるさいなっ、もう、行くよ。行くったら、ばかーっ」


 誰かにしきりと通信を仕掛けられているらしく、最後支離滅裂に罵りながらナディアは空中に鮮やかなトンボを切って掻き消えた。

 まるで初めからそこに存在しなかったかのように、あっという間の出来事である。

 ちりりん、とナディアの二つ裂きの頭巾に縫われた鈴の音だけが、彼女がいた痕跡を示すものであった。

 それを皮切りに、戦場の喧騒が舞い戻ってきた。敵味方乱闘となっており、ぽっかりと開いていた空白地帯にも切り結ぶ兵達が押し寄せる。ティフ側が優勢だ。敵軍を挟撃する形で、援軍が到着したようだった。

 七子たちは激しい戦闘のため、主戦場からは少し外れた位置に着地していた。

 身の置き所もなく立ち尽くしていた七子は、合戦の怒号や悲鳴が耳に届くたびますます青ざめながら、どうにかエリアスの側まで近寄ると、


「ご、ごめんなさい」


 萎縮して頭を下げた。


「ご、ごめ、ごめんなさい」


 頭が、上げられなかった。

 涙も止まらない。

 謝罪が、自己満足であると分かっていても、言わずにはおれなかった。

 許してもらいたいのではない。

 許しを請いたいのではない。

 他に言葉が見つからなかった。

 他の言語は全て無意味で、たった一つ口にできるのがその言葉だったのだ。

 頭上に突き刺さるような視線を感じた。

 全身が痙攣している。

 ぱきり、と音がした。

 小枝か何かを踏む音だ。

 気がつくと、七子はエリアスの腕の内にいた。

 目を見開く七子の頭をエリアスは胸に押し付けるようにして、ぶっきらぼうに言い捨てた。


「謝る必要はありません」

「でも、私」

「私は」


 この言葉足らずな騎士は、遮る形でこう言った。


「人の気持ちを汲むのが苦手です」


 はっと七子は身体を硬くした。


「慰めも上手ではない。それでも」


 エリアスは言葉を切る。


「言ってくれなければ、私には分からない」


 何もできない、と彼は喉の奥からうめくような声を出した。

 無力に苛まれているのは、彼自身であるかのように、遠慮も加減も忘れて腕に力を入れる。


「――あなたは。我慢し過ぎなのです」


 怒ったような口調で吐き捨てる。


「子どもは、もっと我がままでよい」


 我慢し過ぎる子どもを叱責する傍ら、自分の葛藤を断ち切るもののようでもあった。

 その込められた思いに、俯いた七子の頬を涙が滑り落ちて行く。

 エリアスの言葉は、不器用さの極致だ。

 慰めが上手ではないと告白した彼は、言葉ではなく、身体ごと七子の八つ当たりを受け入れたのだ。 

 彼なりの受け止め方だった。  

 憎むべき相手に、これほどの受容を発揮するお人よしはこの世にどれだけいるだろう。

 七子は、おずおずと、自らエリアスの腕に触れた。騎士は再びうめく。


「言って、ください」


 エリアスの鼻先が、七子の頭上に埋められた感触がする。

 七子は、騎士の孤独と後悔の源泉を理解できる気がした。

 彼はずっと後悔し続けている。 

 そのことを七子は知っていた。

 そんな場合ではない、と思うが、喉が痛くて、どうしようもない。

 ひしゃげた音が漏れる。

 七子は、声を上げて泣いた。

 戦場に生じた奇跡のような間隙に、彼女の騎士へ全身寄りかかって、力の限り、泣いた。

 まるで、生まれたばかりの赤ん坊のように、大声で泣き声を上げる。

 こらえる必要はないと、我慢する必要はないと。

 もっと我がままを言っても良いと。

 抱きしめられたまま言い聞かせられたことで、箍が外れた。

 ありのままに受け入れられるということは、どれほど得がたいことだろうか。

 エリアスの保護者としての性分、善良さ、損な性格、それらが複合しての結果だ。

 だから、このように言ってくれたし、受け止めてくれた。

 七子は漠然と理解していたが、それでも。

 それでも、人は、こんなにも誰かに理解されたい。

 七子は、苦しみごと理解され、苦しみごと理解したかった。

 例え叶わぬとしても、彼女自身がそうしたかった――


 




 



 



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