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18
大迷宮、第五階層は、なだらかな平地と丘の世界だった。
七子たちは、《怒れる星傭兵団》のキャサリンの「ちょっとアタシの上司に会ってくれない?」という申し出に乗ることとしたのである。
キャサリンが提案した際、エリアスを見上げると、彼は少し考え、「あなたが、よい、と言うのなら」と伏し目がちに選択を委ねた。
七子は、膝上に拳を握って、躊躇い、結論を出した。
つまり、承服したのだ。
人は、人との関係を失って、一人で生きていくことはできない――そう七子は痛感させられていた。
どんなに強い力を手に入れても、七子は永遠にネコノカ族を守ることなんてできない。
瞬発力と持続力は別物である。
持続するためには、努力が必要だった。
だから、誰かと手を携え、話し合って、少しでも良い方向に手探りで中道を探していくしかないのだと、少女は答えを出したのだ。
彼らは、キャサリンの持つ貴重な《転送石》を用いて、一気に第五階のゲテナ統一帝国植民地ヴァレンタイン・タウン へと転移することとなった。
これは、驚くべきことに、大迷宮内に築かれた町だ。
三角形の城壁を築き、その周囲には葡萄畑と田園風景が広がっている。
町の背後にはゆるやかな傾斜の丘が、女性的な丸みを帯びて控え、段々畑にオレンジが実っていた。
女たちは籠を携え、宝石のようなオレンジを摘み取り、男たちは町を拠点に大迷宮に繰り出して行く。
パン工房からは一筋の煙が偽物とは思えぬ晴天に吸い込まれて行き、鐘の音が昼の時間を知らせていた。
《転送石》が砕け散るとともに、七子達は、この奇妙に平和な迷宮タウンの門前に姿を現した。
エリアスは特に混乱することもなく、背中と首の辺りに子だぬきをぶら下げて転移し、キャサリンとグレンは慣れた風にドン、トン、とそれぞれ異な音を立てて門前に降り立つ。カシギは集落の混乱が冷めやらぬ今、ついてきたい風ではあったが留め置いた。
何とかしますから――とは言えず、口ごもった七子に代わり、説得したのはグレンであった。
この男は口から先に生まれてきたとしか思えぬ弁舌で、ネコノカ族の若者をうまく丸め込んでしまったのである。
一人の人間の意志を曲げさせる、というのは中々容易いことではない。
七子は心からグレンを凄いと思ったが、それは羨ましいという気持ちと半々だった。
どうしたら、自分の気持ちを上手に伝えられるのだろうか。
どうしたら、自分の言葉に自信が持てるようになるのだろうか。
瞬発力と持続力は違う。
前者を後者につなげるためには、多くの労力を払う必要がある。
現実で、七子はその努力を放棄して来た。
少女は思う。
この世界では、誰も以前の七子を知らない。
ノートを惨めに回収した七子のことを、彼らは知らない。
ならば、一からやり直せるだろうか――自分のなりたい自分になれるだろうか。
ふと、七子はエリアスが、じっと砦の門を見つめているのに気づいた。
思わず問うように見上げると、彼も七子の視線に気づいたようである。
「あの?」
僅かに首を傾けた七子に、「――いえ」とエリアスは一言ぴしゃりと跳ね除けた。
七子は再び心が凍りつくような拒絶を突きつけられた気がした。
浮き足立っていたわけではないが、エリアスに対して配慮の気持ちを忘れていたかもしれない。
――人の、町だ。
砦の壁という物理的な線引きではない。
見えない境界線が、無残に引かれている。これまでのやり取りの中で、七子はとりわけエリアスが真面目で、融通が効きにくいが誠実そのものであり、とても信心深い性質たちの人なのではないかと推察していた。
キャサリンやグレンにも信ずる神や主義があるのかもしれないが、彼らは反面器用に見える。適切な距離を保ち、上手な付き合い方を心得ているように思えた。だが、エリアスはとても不器用な信仰の捧げ方をしている。全てかゼロか。そんな風にしかできない。
だから、彼は一人で大迷宮を踏破し続け、限界を迎えたのだろうか。たった一人、血溜まりの中に立ち尽くす。彼の目には、魔神に抱き上げられ、王国に背を向けたローザリンデ姫の名を絶叫したあの日の光景が映り続けている。
大木を背に剣呑な目で七子に剣を向けてはいたが、その時間は止まったままなのではなかったか。
何か言おうとして、七子は言葉を失った。
見かねたわけではないだろうが、キャサリンが手を叩く。
「あれが《ヴァレンタイン・タウン》よ。アンタたち、《往来一礼》も持ってないでしょ?」
「え。えと?」
「旅人の身分証明のことよ。戸籍のある教会で本来発行するんだけど、大迷宮については、帝国が管理しているから、帝国発行ね。不審者はタウンに入れないようにしているのよ。中には地上とつながる《転送門》を設置しているって言ったでしょ。当然、魔が進入すると警報が鳴るわ。中は遠慮してね。ああ、来たわ」
摘み立ての香り高いオレンジをかご一杯にした女たちの集団だった。
ベールを被った一人の女が一群を外れ、こちらに近づいて来る。ルーラー教会の尼僧シスターであった。
「シスター・マリア」
すらりとした体躯にまとう尼僧服は、丈の長い黒のワンピースである。
胸を強調するようにぴったりとしており、質素で禁欲的であるがためにかえって目を惹く。
頭髪はしっかりとベールの下にしまい込んでいるが、随分と若い。
シスター・マリアは、エリアスと七子を交互に見やると、
「ルーラー教会の尼僧、マリアと申します」
と胸に手を当てて、簡単に挨拶した。七子も慌てて頭を下げ、名乗り、エリアスは黙礼した。子だぬきは、懸命にエリアスの肩口からずり落ちないようにもがいている。もはや定位置と子だぬきは勝手に定めたようである。エリアスも抵抗していない。ただ存在を無視しているだけだ。
シスター・マリアは、ゆっくりと微笑をのぼらせた。
「先に連絡をいただいて、お待ちしておりましたよ」
グレンが「どもども」と片手を上げた。M字の額が光っている。先触れに、団員を一名遣いにやる手配をしたのはこの男であった。彼女が事前に聞いていた連絡員であろうかと、七子はシスター・マリアと呼ばれた女性を見上げた。神秘的な青い瞳だ。視線に気づいたのか、聖職者でありながら、どこか色香めいた微笑で返され、七子は思わず赤面してしまう。大人の女の人だ、と妙な威圧感を感じてしまっていた。七子は華やかな人々が苦手であった。
「グレン殿、ありがとうございました。さ、立話もなんでしょう。さ、こちらへ」
「はいはいっと」
軽い返事のグレンに手招きされ、とことこと七子は後を追った。
シスター・マリアが先導となり、一同は砦の外にある田園地帯を突っ切って、農家と思しき簡易な木造建築の小屋の中へと案内された。塵一つない、清潔に手入れの行き届いた小屋で、古紙の香りがする。書き物机には古文書と見える巻物が広げられ、書籍が山積みとなっていた。
農家の家というより、学者の書斎のように見える。
シスター・マリアは背中を向けて、卓の前に立ち止まった。
不意に七子の背筋に、寒気が走る。
最後尾のグレンが扉を閉めると、シスター・マリアが山積みの巻物を前に振り返った。
その顔つきは、異様。陰影が不思議な皺を刻み、半世紀以上も老け込んだかのようだった。
別人に摩り替わった、と錯覚する。
それほどに、人相も、雰囲気も、一瞬にして白から黒へ塗り替えられた。
「珍しき者を連れて来てくれたの」
ぎょっとしたのは七子だ。若い女性の顔立ちでありながら、シスター・マリアが不似合いなしわがれ声を出したためである。
狭い小屋の中、一気に緊張感が高まった。エリアスが密かに腰元に刷いた得物に指先を這わせる。
シスター・マリアは、動じず、老人のように腰を曲げ、手を後ろに組んだ。
コツ、コツ、と思案するように歩き回る彼女の足音がする。次第に七子は強烈な違和感を覚え、何かが酷くそぐわない、ずれているように感じて頭を振った。
「ふむ」
コツ、と音が止まった。
その瞬間。
シスター・マリアは振り向きざま、貫手を七子に向けて放っていた。
指先を揃え、対象を貫通する五本貫手である。正確に腹部を貫こうとしている。
その動きは、まるでスローモーションのようにゆっくりと間延びして見えた。
七子の瞳孔が強く引き絞られる。
(攻撃、されている)
爆発的な憎悪の増殖が七子を襲った。
七子の中にいる、もう一人の七子が午睡から目を覚ます。
エリアスが腰を落とし、剣を抜き払うよりも早く。
七子は半身で上体をやや反らした。
五指揃えて放たれる貫手をやり過ごすと、踏み込んだ足で伸びた腕の側面に入り込む。
反転し、蛇のように自らの手を巻きつけ、腕をねじり上げようとした。
かわされ、苛立ったように無茶な姿勢で片足を跳ね上げる。
力任せに蹴り飛ばそうとしたのだ。
技巧も何も一切なく、七子は相手を破壊しようという考えにとりつかれていた。
しかし、空を切った足首を捕らわれる。
そのまま無理やり半身回転して、勢いもう一方の足を叩き込み、顎を砕こうとし、
「――おー、下着見えてるな」
という他人事といわんばかりのグレンの台詞に、冷水を頭から浴びせられた。
「きゃっ」
七子の悲鳴ではない。キャサリンが十指で両目を覆い、その実指の隙間からばっちり七子を見て「はしたないわっ」と非難していた。
高く頭上にまで掲げた足首を掴まれたまま、七子は、ばっとプリーツスカートを抑えた。
片足中吊り状態である。
何をしようとしていたのか。
脳が思考を放棄し、凍りつく。
ゆっくりと足首を放されると、放心気味に、ぺたんと座り込んだ。スカートは襞折れて床に広がった。
動けない。
七子は正気に返るとともに、羞恥心と後悔と恐怖でぐちゃぐちゃとなり、意味不明なひしゃげた謝罪をして泣き出していた。全ての視界を閉ざしてしまいたいと、長い髪をカーテンのようにして俯き、目頭から熱い涙が零れ落ちた。もちろん、七子が彼らを視界から締め出しただけで、彼らからは丸見えだ。
「おいおい、旦那。もう終わったんだぜ。はい、はい。戦意解除解除」
手を振って、グレンの軽過ぎる制止の言葉に、抜き身の剣をシスター・マリアの首筋に突きつけて彫像のように止まっていたエリアスは、一度だけ生きている証左に瞬いた。
「――次はない」
警告し、次こそは《警告》もしないで切り捨てると言外に告げて、彼はそっと剣を下した。そのまま音もなく鞘に収める。
「案外短気な男だの。それでは女子おなごの扱いも苦労したであろう」
暢気なのは、シスター・マリアもである。彼女はにやり、と若い女性とは思えぬ老獪な笑い方をして、七子の前にしゃがみ込むと、
「ほれ、試すような真似をしてすまなんだの。これで涙を拭きなされよ」
白い手巾を取り出して、頬を拭ってやる。
「生まれたばかりの赤ん坊が大きな力を持っておるというのだからな。こちらも無防備に受け入れるわけにはいかん」
ぐいぐいと少々強い力で拭いながら、彼女は説明した。
「どの程度の悪意に反応するか、止まってくれるか、知らねばならんでな。何しろ、儂らも一枚岩ではないゆえ、想定外の場面で第三勢力に攻撃されるとも限らん。そなたには悪いとは思ったが、いずれ暴発するなら、最初に危険を冒してでも試させてもろうたのよ」
すまなんだ、すまなんだ、と幼子をあやすように背中を叩かれ、七子は泣いている自分が恥ずかしくなってきた。七子の意識としては、中学三年生、十五歳である。もう少し、言いたいことを言って、怒るなり、大人の対応をするなり、やりようはあったはずだ。
だが、下着が見える、と指摘されて、咄嗟に襲ったのは身も焼くような羞恥心と惨めさだった。
そして、恐ろしいことをしようとした自分自身への恐怖以外の何ものでもなかった。
シスター・マリアの急な変貌にも、頭は追いつかずに、ただ混乱するばかりだ。
「ほんに幼いの。魔神とはよう言ったものじゃ。魔の神とは、かようにして生まれるものかの、不思議なことじゃ」
撫で撫でとついでに頭を触られながら、七子は、「え」と面を上げた。涙は止まっている。
「どうかしたか?」
す、と三日月に細めらた目で、頬を寄せられ、七子は近すぎる距離に固まったが、「あ、あの」と疑問のままに尋ねた。
「魔、の? 神なんですか? 魔神って、あの、何なんですか?」
自分が散々周囲から魔神だと呼称され続けて、そいうものかと納得したつもりでいたが、よく考えると全く何も分からないままだ。
エリアスに聞いても、彼は、「ここはどこですか」と尋ねられて「森です」と答える男である。せいぜい「森」に「魔の」ともう少し説明を重ねるくらいだ。
間違ってはいないが、色々間違っているというべきか。
質問の相手には向いていないことを、七子は短い付き合いの中で看破させられていた。
「魔神は魔神の何たるかを知らんものかの。よいぞ、《死霊の騎士》の主はそなたと聞いた。対価とは言わんが、儂も神職の端くれじゃ、人の世の説法でもしてやろう」
まあ、と感激したように声のトーンを上げたのはキャサリンで、「はううっ、御自らのっ、アタシ感激ッ」と指を組み合わせて身を震わせている。
エリアスは何かを悟ってか、僅かの間、瞠目したようだが、すぐに驚きを鉄面皮の下に押し隠した。
「そうじゃの、何も知らんようじゃな。手始めに――」
シスター・マリアはヒールの高いブーツでコツ、コツ、と歩いて、壁にかけられた《盲目の蛇》 の絵を指した。
「これは世界誕生の図じゃ。この世の始まりは、原始の無より発生する。無の風が凝り固まって、一匹の宇宙の蛇が這い出でた。これは蛇形に象徴される宇宙のことじゃな」
絵の背景は黒一色だが、これは《無》 を表しているようだ。
「蛇は混沌の海を這いずり回り、良きものと悪しきものは別れ、太陽、月、星星が生まれ、天地が開闢された。
さて、善きものは、天の使い、人とされ、悪しきものは、邪神に魔と現在は解釈されておる。この魔の棟梁が邪神じゃな。天の使いと人の英雄に駆逐され、穴倉に放り込まれた。この穴倉が大迷宮じゃ。本来これは神と呼ぶべきではないかもしれんが、最古経典に、神意文字にて、神の字を当てられておるでの。魔神と呼ぶが慣わしじゃ。ここは解釈の難しいところでの、唯一神を差し置いて神と呼ぶ矛盾を孕んでおるで、論争は避けられておるな」
神意文字、と赤くなった目のふちで七子は引っかかった。まだ恥ずかしくて、こっそり目元を拭ったが、当然その仕草は見られている。
「神代文字とも、古代文字とも言うの。このように書く」
シスター・マリアは、積み上げられた書籍や巻物の中から、経典を一つ抜き出し、七子の前に広げてみせた。
流麗な書体で書き付けられたそれは、どう見ても《漢字》と《ひらがな》である。
(ここでも、《日本語》――)
一体何の符号なのだろうか。
この世界には、《日本語》がところどころに散りばめられ、存在を訴えている。
「さて、無から蛇が生まれたがために、《始まり》が生じ、同時に《終わり》 もまた生まれた。この双子は常にお互いを追うて追われておる。善と悪はこの二つに従い、両陣営として永遠に互いを駆逐する定めじゃ。対のものゆえ、どちらか失せてはならぬが均衡よ。
さすれば、大迷宮というのは、天秤のようなものかもしれぬな。閉じることはできるが、消滅させることはかなわぬ。
ともあれ、この善悪の戦いのさなかに、十賢者というものが生まれた。彼らは秘法を用いて、一つの町を滅ぼし、その代価として得た《船》に乗り、《終わり》を観測したと言う。
逃れがたい運命に抗い、十賢者は永遠の天秤の定め――この世のルールを破壊せんとした。邪よこしまなる者。定命じょうみょうの輪をはずれし、神に至らんとした法の破壊者よ。彼らは不正に《階きざはし》を登り、神秘に触れ、恐るべき力を手に入れた。これこそ邪神の祖といわれておる」
七子は、非常に抽象的な話だと思ったが、神話というものは得てしてそのような比ゆ寓意に満ちているものだと理解していた。時に、政情に合わせて歪められ、当事者間で事実がそれぞれ反対になりもする。
ただ、魔神は現在の己を指す言葉である以上、正誤問わず無関係ではいられない。
自分に言及されていると思うと、緊張で胸苦しくなって、思わず制服を握り締めた。
「……魔神」
「さよう。すなわち、魔の神。魔神じゃな。しかし、この魔神は、一定数を保って、時代ごとに増減する。誠不思議なものじゃ。時に消滅し、不足を補うように誕生し、大迷宮の復活とともに人の世に災いを撒き散らす。きゃつらの目的は分からぬ。そなたは何を考えておるか、聞いても――分かりそうにないの」
期待を裏切って役に立たない自分に七子はうなだれそうになったが、次の言葉で目を見開いた。
「さて、例えば魔神の一柱を上げて、ジャムジャムアンフというのは、記録でも比較的古い魔神じゃな。決して数ある魔神の中でも、並外れて強いわけではないが、息が長い。奸智に長けており、甘言と悪辣な手口でいくつもの王国を衰退滅亡まで追い込んでおる。きゃつのいやらしいところは、毎回趣向を変えて、人の弱さにつけ込み、内部崩壊を起こさせる手口じゃな。不和の種を撒かせて、育てさせたら随一というきゃつに目をつけられたのが、気の毒というよりないの」
エリアスに向けての言葉だった。
シスター・マリアは、裾を片手で払い、すっくと立ち上がった。
「ザール王国崩し、当事者の口から語って聞かせておくれでないかの。何を餌に、どのような手口で一昼夜にして壊滅せしめたか。同じ轍を踏むわけにはゆかぬでな」
エリアスはしばし無言であった。
「――シスター。あなたが、どういう立場の方か、明言を避けておられるのだろうが、語って聞かせよというのであれば、それなりの誠意を示していただきたい」
睨むようにして要求したエリアスに、「ほ」とシスター・マリアは顔を歪めた。
「若造、言いおるの。確かに、確かに」
しかし、これに顔色を変えたのはキャサリンだ。
「お待ちください」
焦った声に、「よい」とシスター・マリアは手を振って遮る。
「手を組む以上はこちらも誠意を示さねばな。儂はの、以前は《青の枢機卿》と呼ばれておったの」
半ば予想していた風のエリアスであるが、改めて明言されたことで、雷打たれたかのように震えた。
青の枢機卿は、ルーラー教会の高位聖職者だ。
元々真摯に信仰に向き合ってきた彼からすれば、人の輪を外れたためにいっそう心穏やかではいられない場面である。
「何、そう権威ぶるつもりはない。何しろ、半ば死人のようなものでのう。ナナオ殿と言われたか、そなたは何か感じておられたかの?」
急に話を振られて、七子はびくっとした。
しかし、強烈な違和感の正体がつかめたのも同時であった。
「あ、あの。何か、外と中がそぐわない、というか、ずれていて、変な、あ、ご、ごめんなさい」
言葉をうまく選べずに、結局謝罪で閉じてしまう。
「間違ってはおらぬ。儂は、《赤の枢機卿》メシ=アの謀略にはまっての、身体をきゃつの術中に捕らわれ、好き勝手操り人形とされかかってな。この肉体は、精神感応で動かしておった別の器に、緊急避難的に移したものでの。生きておると同時に死んでおるというべきか、まあそのようなものじゃ」
「ああん、猊下ッ、おいたわしいですわっ、でもこんなあけすけに――」
「よいよい。どうせもう半ば積んでおるでの。命はいらぬが、使命は果たさねばならぬ。見てのとおり、キャサリンの血筋は代々儂の家によう仕えてくれておる者でな。《死霊の騎士》も儂の探し物じゃて」
エリアスは額に皺を寄せた。
「なにゆえ、貴方ほどの方が、そのような術を」
言いかけ、エリアスはキャサリンを一瞥した。
「教会もまた、分裂しているというのですか」
しかり、とシスター・マリア、すなわち青の枢機卿マリアは首肯した。
「大迷宮を巡っての。《赤の枢機卿》は帝国の上層部と懇意というより、共謀しておる」
七子は、キャサリンに聞いた話を思い出していた。
大迷宮を休眠させようとする人々と、維持存続させようと考える人々がいる。
前者はキャサリンやシスター・マリア達で、後者は帝国の偉い人や赤の枢機卿という人なのだろうか。
「ゲテナ統一帝国の現皇帝はとっても野心家なのよ」
話を継いだのはキャサリンだ。
「アタシもきゅんきゅんしちゃうけど、それは個人的なオハナシ! 大迷宮は、各国共同で攻略しないと、マンパワー、兵站ともに不足して、とても最下層までは辿りつけないわ。足並みがバラバラ過ぎるの。本来、教会主導で人心を一つにしなければならないのに、赤の枢機卿の野郎、アタシの猊下を汚い手で出し抜きやがった、ふざけやがってよオッ、ぶっ殺してやりたいぜえっ」
筋肉を盛り上げながら怒り、後半キャラクターが変わってしまっているキャサリンの説明に、
「まあ、そういうことじゃ」
と流したシスター・マリアは涼しい顔であった。
「どうにも、あれこれ動きがきな臭い。帝国は、迷宮から地上に露出する毒素については、人柱を立てて中和をもくろんでおる」
「人柱――」
七子は思わず口元を覆った。
「成功するならよいが、果たして思い通りにいくかの。そう簡単に行くなら、先人がとっくに悪手は試しておろうよ。記録には残しがたいゆえ、あまり詳細なものは記されておらんのが裏目に出たのう」
シスター・マリアの考えは、七子と多少違うようである。
手段にの善悪について問題視しているのではなく、リスクが高すぎる、と彼女は忌避しているのだ。
恐らく、人柱ごときでは、抑え切れまい、というのがその結論なのだろう。
魔と対面しても、拒絶せずに、取り込もうとすらする辺り、宗教家としてではなく、政治家としての側面の強い人物のようだ。
「儂はの、この帝国の攻勢というべきか、不自然さは、魔神の折込済みではないかと疑っておる。まあ、それで寝首を掻かれて殺されたようなものじゃし、儂もつめが甘すぎたのう。さて、はて、このようなやり口で有名な魔神がおったが、なんというたか。物忘れが激しくていかんの」
先に例の魔神の名を挙げておきながら、わざとらしい台詞ではあった。
しかし、エリアスは臓腑を引き絞られるような声で、ぽつりとその名を吐き出した。
「――魔神ジャムジャムアンフ」
静かな声だった。
決して大きな声ではない。
しかし、あまりにも。
その塗り込められた思いは、重く、苦しい。
まるで身体の内側で太鼓を叩かれたように、ずん、と響いて、七子は何も言えなくなった。
「かもしれぬ、ということじゃな。きゃつの今回の動きをできるだけ正確に掴んでおきたい。傾向から分析できることもあるじゃろう」
「……」
「話の内容如何で、各国に警告を促したい。大陸会議も控えておる」
エリアスはどこか躊躇うように口を開いた。
「《青の枢機卿》としての肉体を奪われているのでは?」
「はっ。されかかった、じゃ。自由には動けんが、手は打っておるわい。何より、我が一族はの、個人が傑出しとるのではなく、一族全体が群として動く。ネコノカ族については、こちらも手を貸そう。強硬派には、今回の失敗の件でじわじわなぶる様に圧力をかけてくれるわ」
ぐしゃりと若い女の顔で笑う顔は、凄まじく凶悪だ。だが味方であれば頼もしい。
ネコノカ族への執拗な襲撃を避けえる可能性に、ほっと胸を撫で下ろしたのは七子だった。
エリアスはその様子を見て、とつとつと語り始める。
しかし、肩口でばたばたしていた子だぬきが、今度は顔面の方によじ登ろうとして来たので、引き剥がして、片手で再度背中に誘導する姿は、なんともいえないものがあった。
「大陸会議?」
瑞樹優花は、ふわふわのクッションに埋もれ、一つペールピンクのそれをぎゅうっと抱きしめたまま、鸚鵡返しに尋ねた。
ゲテナ統一帝国の宮殿内に、優花は《神子》として部屋を用意されていた。
今日の衣装は、クール系美人の侍女と密かに彼女が思っているヘレナの用意してくれたものだ。
行儀見習いに伯爵家から出仕しているというヘレナのセンスは抜群で、優花は鏡の前で、素敵な衣装にうっとりとしてしまった。
本当にまるでお姫様になったみたいな気分だ。ちょっと恥ずかしい。
最初はわけも分からず大慌てだったが、周囲の人は突然現れた優花にとても親切にしてくれた。
もしかしたら、二度と元の世界には戻れないかもしれないが、この世界で生きていくことを考えて欲しい、と皇帝自らに励まされ、諭されもした。
元の世界も恋しいが、前向きに考えなきゃ、と優花は決意した。
この国の人たちが好きだ。だから、彼らのためにがんばりたい。みんなを助けたいと思う。
例えば、ヘレナは一見冷たそうに見えるが、本当は優しい人だと優花は知っている。
特に、優花に嫉妬して、悪口を言うような宮廷の口さがない貴族の娘たちを許さない。
優花さまの敵は、私の敵ですわ――そう冷ややかに言って、裏で情報収集し、涼しい顔で制裁を加えてまいりました、と一言報告だけする。そんな彼女に、優花も最初は驚いていたが、何だかいい加減そういうものなのだと慣れてしまった。
報告の次の日、貴族の令嬢は怯えて、優花というより、その背後のヘレナを魔王でも見たかのような目で見て、嫌味一つも言えずに逃げ出してしまう。
なにをしたんだろう、と優花としては恐ろしいながら、疑問の尽きないところだが、きっと追求してはいけないことなのだ。
また、貴族の令嬢たちが優花によい気持ちを抱かない理由は、割とはっきりしていて、彼女付きになった騎士たちのせいだろうと察している。
氷の騎士と二つ名されるヘルムート・デュカーという選帝侯家の次男がいる。
彼は、令嬢たちに囲まれていると、いつも煩わしそうで、ますます無愛想になるが、優花の姿を見つけると、普段が嘘のように笑いかけてくるのだ。
これで令嬢たちはますます熱を上げたが、その視線が優花にひたむきに向けられていることに気づくと、悪感情へと発展した。フレーべ公爵家の薔薇姫ゾフィーアを筆頭に、優花に対する嫌がらせが始まったのだ。
ヘレナも流石にフレーべ家の姫相手には手が出せないようだが、「いつか後悔させてあげますわ」と闘志を燃やしているようだ。
そもそも、どうしてヘルムートに気に入られてしまったのか、優花には分からなかった。ただ、彼があまり華やかなことが好きでなく、女性に囲まれるのも苦痛と見えるのに、何故皆気づかないんだろう、と優花としてはむしろ不思議ですらあった。
この間、ヘルムートに背後から抱きつかれ、「他の女はどうでもいい。優花がいればいい」と囁かれた時には、びっくりして、どきどきして、思わず突き飛ばしてしまったが、ちょっとどうかと思うような前半台詞だったので、あなたを好きだと思ってくれる人の気持ちを考えなさいと説教してやろうと思っている。
「ええ、大陸会議ですわ」
優花の髪を複雑に結い上げながら、ヘレナが告げた。
「大陸会議は、主催を大国の持ちまわりですが、今回はティフ神聖国が主催ですわね。ユウカ様には、神子として各国にお披露目されたく、特使として任命されるそうですわ。ああ、もちろん、実務は他の者がやりますから、ご心配無用ですよ」
「ヘレナ、それどこ情報なの? ヘレナって本当に何者?」
「うふふ、ヘレナは侍女ですわ。優花さまの第一の侍女でございます」
第一の、を名乗ったことで、他のコルネリアやビアンカといった優花付きの侍女が「ずるいっ」などと抗議の声を上げたが、ヘレナからブリザードのような何かが放たれ、二人は「えっと、第一は譲るわ」「第二はこのビアンカが」「いーえ、このコルネリアが」と言い争いをはじめた。
「もー、二人ともっ、喧嘩は駄目だよっ」
「はっ、わたくしとしたことがっ、ユウカさま、ごめんなさあい」
「うう、ごめんなさいです」
分かってくれればいいんだよ、と許した優花だが、へレナは「自覚が足りないわ」と少し怒っている。
ただし、優花の髪を編み上げる手つきは流石にその道のベテラン、一切乱れがない。
手を休めることなく、一体どこから仕入れたのという情報を次々に優花に説明する。
「うーん、何か難しそうだけれど、がんばるよっ」
優花は鏡の中に映る侍女たちの姿に、感謝と決意を語った。
「どこの誰とも分からない私に、みんな凄くよくしてくれてる。本当にありがとう」
「そんな、ユウカさま。もったいないお言葉ですわ」
「ううん。だってみんな優しいし、私感謝してるよ。だから自分のできることで、役に立ちたいの。古代文字? とかいうの、翻訳作業ももっとスピードアップするし、魔の封印とかも特訓がんばる。でも、カミラさんは、ちょっと怖いから、先生は別の人がいいなー、なんて、はい。嘘です。がんばります」
ヘレナがにっこり魔王様の微笑をしたので、優花は後半で前言撤回した。
「あ、そうです、ユウカさま。今日の午後の予定ですが、お勉強の後、新しい騎士が配属されますわ」
最後に真珠の花飾りを差し込んで、角度を確かめるとヘレナは満足げに頷いた。
それから、新しい騎士の名前を告げる。
「ユウカさまと対になるような、封魔の力を増幅しあう者を選抜しております。新たな騎士は、ロン・バーといいますわ」
19
「へーいわだねぇい」
切り株に腰かけ、悪姿勢で頬杖を突いたまま、グレンは一言感想を言った。
何を持って平和とするかと言えば、目の前の光景以外何ものがあるであろうか。
大迷宮五階層は、《転送門》を設置するヴァレンタイン・タウンを主軸に、人間が完全に掌握した開放区である。
迷宮内は、自然系階層と人工系階層に大別される。
前者は、地上と見まごう天地、大自然を内包し、後者は迷宮の名に相応しい人工ダンジョンの様相を呈している。
この二つの階層は、交互というよりランダム生成され、大群を一挙に最下層へ送ることを阻む理由でもあった。
人工系階層は通路が狭く、その上トラップの山である。
従って、最少のパーティと呼ばれる精鋭単位による『点』の突破が最も効率的であり、軍隊による大量兵力に任せた『面』の攻略は向いていない。
自然系階層に挟まれたサンドイッチ状の人工系階層を突破後、自然系階層に前哨基地を築き、そこから更に下層攻略を目指す。
基地内には、地上との物資輸送、命綱である《転送門》を設置して、これを死守する。
大迷宮攻略のセオリーであった。
魔を討伐した際得られる《転送石》は、携帯性から非常に利便性がよいが、《入手》は稀だ。その上、一階層上がるだけの《クズ石》が圧倒的に多い。
拠点を築くことなく、人類最大の強みである人海戦術、すなわち無差別に大量兵力投下できないのは、このためであった。
地道に階層攻略し、前哨基地を配置して、細く長く、しかし退路を確保して行くしかないのだ。
だが、今回の攻略は、随分長引くやもしれぬ、と青の枢機卿は懸念して、各方面に間諜を放った。
人の世に蠢く、魔の暗躍を察知してのことだ。
青の枢機卿は、魔による各国の分断を危ぶんでいた。
このような戒めの言葉がある。
――寡かが衆しゅうを破るは邪道。
派手な手柄を得ようとして、少数の兵で大軍に奇襲を仕掛けるという奇策に頼った為に、敗走した某国の将軍を揶揄した故事だ。
この故事は、同時に、敵軍より自軍が常に優位であるように、自ら状況を作れという意味も含んでいる。
衆を分断すれば、いかな衆と言えども、局地において敵軍は寡となり、自軍が衆となる。寡と衆が逆転し、自軍は、寡兵となった敵の元大群を個別に討てばよいのである。
魔側の人類調略は、これに帰結する。
彼らは、自分たちに優位であるように状況を作り上げて来ている。
手始めのザール崩しから、彼らの動きを知ることは、大いに今後の戦略に生きてくるであろうと青の枢機卿は一同に申し渡した。
そして、これを各国への《警告》としたい、とエリアス達に協力を要請したのである。
それで、目の前の平和な光景だ。
「ちょっと、あんたっ! 何だい、その手つきは! まるでなっちゃいないねえっ」
「ふ、ふぁいっ」
「何だい、その気の抜けた返事はっ!? アンタ舐めてんのかい!?」
「ひっ、ち、ちが、すみませ」
「ほらほら、違うって、こうだよ、こうっ! 右手を円の動きで滑らかに掲げるのさ。手首を翻して、次に腰まで持ってくる。アンタそれじゃあ、洗濯物を籠に突っ込むオバサンの手つきだよっ! 全くなっちゃいないねえッ!」
「はいっ」
「オレンジを、こう、優雅に摘み取るのさ! 宝石だよ、宝石! そっと摘み取って、腰元の籠に入れる。この動きを表しているんだよ! 洗濯物をぶち込むんじゃないよおっ」
「は、はいっ」
うん、実に平和だ、とグレンは生温かい目で、魔神の少女と、町の女達による伝統芸の舞踏伝授の光景を見守った。
青の枢機卿の協力者である女達は、決して手を抜かない。
腰周りのどっしりした女達は、厳しいスパルタ方式で、魔神の少女をびしばし叩き、時に小突き回しながら、オレンジ摘みの踊りを仕込んで行く。
青の枢機卿、現シスター・マリアが最初に少女に貫手を仕掛ける等と言う、明らかに失敗時のリスクが大き過ぎる悪手かけを為したのは、このためもあった。
少女が他者からの攻撃に対し、どのような反応を示し、《悪意》がないことを悟ってなお、執拗に攻撃性を発揮するか確認したのである。
もし憎悪に打ち勝てないようであれば、この光景はなかっただろうし、シスター・マリアの戦略も百八十度変わってきたはずだ。
「ちっ、今日はここら辺で勘弁してあげるよっ、いいかい、脳内で復習をたっぷりしておくんだよ。ほら、分かったのかい」
「……は、はあ、は、はい」
「今にも死にそうな返事をするんじゃあないよ、元気をお出しッ」
「はいッ」
飛び上がって返事する七子は、剣幕に怯えてはいるが、泣き出しはしなかった。
慣れとは恐ろしい。
町の女達も、最初は七子に対して、生理的な嫌悪と忌避感、何より恐怖があったようだが、彼女達は、シスター・マリアに絶大の信頼を寄せていた。
また、自分の分野で指導鞭撻するにあたっては、少女の不出来さにそれらも吹っ飛んでしまったらしい。
現在は、大変熱心に指導している。
文字通り、肉体言語で鞭打ちながらだが、少女は意外に耐えていた。
「よおっし、いい返事だよ。果実絞りたてのジュースを作ったから、喉を潤しな。タリア、アンタパイも持ってきてるだろ。少し休憩して、お茶でもしようじゃないか」
「いいよ。ほら、ナナオ。こっち来て、座んな。ぐずぐずするんじゃないよ」
「え、あ、は、はい」
「遠慮するんじゃないよ! もっと自信持って構えな! こづき回すよ!」
「は、はいっ」
「もっと食べなっ! 何だい、アンタこれっぽっちじゃ、小鳥ほどにも食べてないじゃないかい。アタシのパイがまずいってのかい!?」
「お、おいしいれす!」
「じゃあもっと食べな! それじゃあ、立派に赤ちゃんを生めないよ!」
一見苛められているようだが、何やら女達と七子は相性が良いようである。
人格否定ではなく、具体的に何がいけないと助言されているせいかもしれない。
七子は、叱られること自体には、特に異存もなく、時々べそをかきそうになりながら、必死に食らいついていた。
現在、はぐはぐとパイを食べている七子の周りで、ミーシャ、タリア、レナの三人の女達は、ああでもないこうでもないと姦しく話に花を咲かせている。
気性の荒い女達だが、心根は真っ直ぐだ。気に食わない相手には、陰湿な嫌がらせをすることもなく、ただ見向きもしないだけだ。
その意味で、七子は熱心かつ手荒く構い倒されている状態というわけであった。
「それで、アンタの旦那とは実際どうなのさ?」
「へ、はひ?」
「エリアスの旦那だよ! 夜の生活はちゃんとしてるのかい!?」
「退屈させてるんじゃないだろうね、何ならアタシ達が、助言してやるから、きりきり白状しなっ」
「困ってるんだろ、男を満足させるには、若さだけじゃあ、足りないよ」
「え、あの、ちが」
「何、まだ手を出してもらっていないのかい!? アンタそりゃあ、いけないよ」
女達は、七子の話を全く聞いていない。
「いいかい、男を退屈させちゃいけないよ。いいことにならないからね。奴らときたら、暇に明かせて酒を飲むか、賭け事をするか、浮気をするかの三択しかないんだ、野放しにしちゃいけないよ」
「アンタの旦那は今はそうとは見えなくても、段々縄が外れてくるからね。大切なのは、操縦、運転、技術さ!」
おいおいおい、とグレンは汗を掻いた。
何がどうしてこうなった、である。ちなみに、全部耳が痛かった。常習犯でお縄を頂戴しても仕方のない経歴の持ち主、それがグレンである。
七子は青くなったり、赤くなったり、白くなったり、もっと食えと言われてもごもごしたり、いいように遊ばれている。
グレンは馬鹿馬鹿しくなって、草の上に横になった。ぼりぼりと尻を掻く。
監視役も退屈なものだ。
七子が踊りを仕込まれているのは、地上に出るためだった。
人と酷似する姿形の魔神が、魔神であると知られるのは、人に在らざる肉体的特長の他に、その気配が、人のものとは明らかに異なるためだ。
特に神職関係のものから見れば、一目で「邪よこしまな気」が視認・察知されてしまう。
相手の認識を誤作動させ、惑わす《魅了》や《隠蔽》の術は、魔神の得意とするところであるが、七子はさっぱりこれのやり方が分からなかった。
エリアスは、割と簡単に身につけてしまったが、元々騎士として精神修養が出来ていたためだろう。
自然と一体化することが、《隠蔽》の根幹であるということで、七子は舞踏からそれを学んでいる最中であった。
この明らかにやっつけ感が滲み出る精神修養が、「ぎりぎり及第点」と女達に評され、七子が《隠蔽》を身につけるまで、あと数日は第五階層に留め置かれることとなったのだった。
グレンは女達から一転、広葉樹の下で、剣を抱いたまま静かに瞑想しているエリアスに声をかけた。
「旦那ー、好き勝手言われてやすぜ。いいんですかい?」
エリアスは答えない。彼の前に、腹を全開に晒した子だぬきが、死体のように短い四肢を投げ出している。
野生の生き物としてはどうであろうかと言うべき油断しきった姿だ。
出会った当初から、邪険にされているのを見るにつけ、何故エリアスになついているのかとグレンは首を傾げてしまう。
この子だぬきの種族の生息地域についても七子達は尋ねていたが、ネコノカ族を始め、明確に回答を出せた者はいなかった。
お役に立てず……とカシギは死にそうな声を出していたが、七子の方がもっと混乱して謝り倒していた。
グレンは密かに爆笑し、エリアスから喉元に見えない剣を突きつけられるのを感じて、まじめな顔を取り繕わせてもらった。
ともあれ、もう少し、深い階層から彷徨い出たのだとしたら、この種族の成体が強い力を持っているのだろうと推察できるが、子だぬきを見ると何か奥歯に疑問が指し挟まるものがある。
グレンは、ごろん、とエリアスの方に転がった。
「旦那、無口っすねえ。俺は色々と不思議で仕方ないんですけれど、旦那はあの魔神のお嬢ちゃんのこと、うっとうしくて仕方ないことはないんですかねえ」
すい、とエリアスが目を開いて、グレンを見た。何の感情も浮かんでいない目は、まるで人形のようだ。ぞっとするものがあるが、グレンは寝転んで頬杖を突いたまま、へらへらと続けた。
「いやはや、魔神の眷属化ってえのは、恐ろしいもんだね。旦那の経歴を聞くに、ぶっ殺したくてたまらなくても仕方ないと思うんすよ。その人の心の摂理を、無理やり曲げちまうってのか、それとも害することが出来ないという絶対の制約なのか。ネコノカ族は、どうにもあいつら単純細胞だってのは、昔から言われてるんでね。そのせいで絶滅寸前まで狩り尽されたってえくらいだ。絶滅寸前に、命助けられて、ははーってなっちまったのは分かるんですがね」
エリアスは挑発に乗らない。しかし、無視できていない。ゆえに、グレンの舌は止まらない。
「アンタ、人間は、そういうもんじゃないでしょ。助けられたって、許せないもんは許せない。むしろ許せない。ザールと言えば、がちがちのルーラー教国家だ。現ルーラー教は、魔の存在を許しちゃいない。そこで、疑問です。自分が魔になって、未熟な魔神の下僕になるってどんな気持ちー?」
って、思ったんですよねえ、とグレンは上半身を起こし、胡坐を掻いた。
やがて、聞こえたのは嘆息だった。
「挑発して、何か得るところでもあるか」
「いやいや、純粋な疑問で。というか、心を捻じ曲げられるというのは、本当におっそろしいことだと思いまして。現在実体験中の旦那に、当事者ならではのお気持ちを聞いてみようかと」
「……引きずり出そうとの間違いだろう。安心しろ。私は、私のままだ。万一お前が眷属となったところで、その性根が変わることはないだろう」
「そりゃ、どーも」
グレンは応じて、半ば以上に安堵した。
この危険な賭けに乗らされている状況で、これだけは確認しておきたかった。
グレンとしては、強者に尻尾を振っておいしい思いをしたいものであるが、命あっての物だねだ。
まだまだ自分は若いし、腹上死は老後まで取っておきたいものである。
そして、死ぬ瞬間まで、自分が自分であることは、当然の権利として享受されるべきで、剥奪しようとする輩は、この剣にかけてミンチにしてやる心積もりだ。
エリアスの言葉で、万一とやらの事態はなさそうだ、とグレンは胸を撫で下ろしていた。
無論、眷属とされた時点で、発言の自由すらなくなっているのかもしれないが、七子とエリアスの二人を見ていると、どうにもぎくしゃくしていて、その可能性は高くない、というのがグレンの見立てである。
「しかし、するってーと、旦那。アンタは、とんでもないお人よしってことだ」
長生きできませんねえ、と言いかけ、実際彼の国の末路を思うと、あまりにもブラックジョーク過ぎて、グレンは今更ながら言葉を慎んだ。
「おまけに、表舞台に出ることも厭わないと。ティフ行きに、賛同下さるたあ、このグレン、驚きやしたぜ」
七子とエリアスの主従が、最下層を目指して、人と手を結ぶことも吝かではないと言うまでは目論見通りだった。
しかし、ティフ神聖国を次の当番国として開催される、大陸会議で発言することも、状況によっては受諾すると言うのだ。
随分攻勢に討って出たものだなと思う。
「――発言を許されるかどうかは分からない」
確かに。
魔神とその眷族が会議に出席するなど前代未聞だ。
「まあ、そこは俺らの腕の見せ所ってとで」
ご期待下さい、とグレンは応じる。エリアスが口を開いた。
「猊下――シスター・マリア殿は、ティフともパイプをお持ちか」
ルーラー教の枢機卿と、ティフ神聖国の国教会がつながっているというのか。
そうエリアスは尋ねたのだ。
二つは、同じ神を奉じているが、元々ティフ国教会は、ルーラー教会から分裂したもので、そもそもその影響を排除しようという思惑のもとに、ティフ神聖国独自(勝手)に作られたものである。
外国の干渉を許しやすいルーラー教や、土着の扱いづらい精霊神教(主神ルーラー)と違い、その目的誕生の経緯もあって、時のティフ神聖国王の望む王権強化にマッチした制度ではあった。
しかし、どんな優秀なソフトとハードも、あくまで使いどころを押さえてこそだ。
ティフ国教会強制は、王権強化の逆をゆき、大きな反発をもって迎えられた。これは後の国王の権威失墜、暗黒時代の布石でもあった。
この国教会は、俗に『中途半端』と口さがなく指摘されるように、ルーラー教と精霊神教の両方の特徴を備えていた。そのため、相容れぬ両者の均衡役バランサーとしての機能も期待できるはずではあった。しかし、道具は使い手の意図を反映する鏡でしかない。結局は、第三勢力として国内に三つ巴の状況を作り出し、国王の擁護のもと、他方への弾圧を促進させるのみであった。
この宗教弾圧のひとつの形態が『魔女狩り』である。
天秤が傾きすぎれば、崩壊を起こす。ルーラー教の名の下、精霊神教の指導者を三百人余りも処刑し、国民の怨嗟を浴びたのは、前国王によるものだ。
現女王のアビゲイルは、前国王との軋轢のみならず、自身も幾度となくルーラー教勢力に暗殺されかけたこともあって、宗教の恐ろしさをよく知っていた。
そのため、アビゲイル女王の治世においては、ルーラー教と精霊神教の対立が国家を疲弊させることに嫌悪を抱いて、何より『中道』をモットーとしていた。
弾圧は容易いが、その反動は大きい。
『中道化』とは、精霊神教徒であるティフ神聖国において、ルーラー教勢力の反発を避けるための、為政者としての狡猾な智恵の結晶である。
そして、この狡猾さは、青の枢機卿とティフ神聖国女王の間に、一つのパイプを結んだのであった……
「まあ、青の枢機卿猊下も、アビゲイル女王も、似たもん同士なのさ。話も合うんだろ。実際会ったことがあるのかどうかは知らんけどな。だけど、俺は多分、アンタ方は、女王に直に謁見することになると思うぜ」
切羽詰ってるからなあ、とグレンは嘯いた。
後日、七子とエリアス、子だぬき、シスター・マリア達は、連絡を受けて再び十階層に戻ることになる。
帝国側の大迷宮五階層は、帝国領内の《シャダルマル門》と直結しているが、ティフ神聖国の《カルマ門》にはつながっていない。
十階層は、どちらの門ともつながっているため、一度中継地点として戻る必要があった。
彼らは、《転移石》を用いて、ティフ神聖国の《カルマ門》に転移した。
そこから再び移動する
やがて、各国から、大陸会議のために、重要人物が集まることとなるこの国の中枢へ。
その中には、七子のよく知る少女の姿もあった――
20
第五階層のヴァレンタイン・タウンを去る時、タリア、ミーシャ、レナの三人の女達は、餞別にと七子に手渡したものがあった。
白くてふわふわした細長いもので、さきっぽ部分に銀色の留め具が加工されている。
「幸運のお守りだ。兎の足さね」
七子は両手を出して受け取った姿勢のまま、固まった。手触りは大変ふわっとしていた。
ちっちゃい。
「ひゃ、ひゃい」
舌先が凍り付いて、返事は上ずった。いつものことなので、女達は気にも留めず、七子の背中をばしばし叩いて激励した。
「あ、ありがと、ごじゃます」
七子はまだ固まっていた。返事といえば、無様を通り越して周囲の哀愁を誘った。
この子、大丈夫かしら、と女達は、日常の注意から夜の生活まで助言した。
余計に七子の目つきが胡乱なものとなり、最後はうぐうぐ不明瞭な返事となるので、更に女達はあれこれ言う――どうしようもない。
だが、本当の本当にお別れとなると、七子は、両目から、だーっと涙を流した。
まるで滝のように流れ落ちる。本人もびっくりして、止めようと思うのに止まらない。
七子は、両手を揃え、女達に頭を下げた。
「ふ、ふできでじたが、ご、ごじどう、ごべんだつ、の、ほど、ありがと、ごじゃました」
不出来でしたが、ご指導ご鞭撻のほど、ありがとうございました。
そう言いたかったのだが、噛み過ぎて、別の言語となってしまっている。
「――ま、まだ、ぎでも、いいでづかっ」
七子は思い切って聞いた。また来てもいいかと尋ねて、駄目だとか、うっとうしいとか、思われたらどうしようと怖かったが、どうしても聞かずにはおれなかった。
最初は女達の剣幕に戦いたが、身体を動かして思い切り踊ることは、あれこれ考え込むのとは全く違う、新しい発見と驚きに満ちていた。怒られるのも、自分のためで、駄目だしされるのも、次へつなげるためだと七子は理解し、落ち込んでも辛いと思うことはなかった。
自分で自分の人格否定をし続けてきた七子には、本当にこれまでにない未知の経験だったのだ。
何より、急に与えられた不明の力と違い、自分が努力して、小突かれながらも身につけた技能は、地に足が着いていて、とても大切なものだった。
へっぴり腰ではあったけれども。
おかげさまで、《隠蔽》はどうにか形になり、現在の七子の目の色は、元の黒に少し青みがかった色をしている。
心を大きく負の感情で乱さぬように、と何度も厳命された。
女達は互いに顔を見合わせ、七子の頭をぐじゃぐじゃに撫でた。
「当たり前だろ」
「まだまだ教え足りないからね」
頑健な四肢で、順番に抱擁される。頬に熱烈なキスをもらう。せっかく今日の日のために着替えたティフ風の衣装も皺になってしまう。しかし、七子は全く気にならなかった。懸命に嗚咽をこらえる。七子も思わず腕を回して、しがみついていた。
嬉しい。あったかい。お別れが辛い。どうしよう。
そんな気持ちで頭のてっぺんから足の爪先までいっぱいになる。
「さあ、行ってきな!」
「がんばるんだよ」
「泣くんじゃないよ」
エプロンでごしごしと涙を拭かれる。七子はもみくちゃにされながら、
「ふぁいっ、いってきましゅ!」
と最後までしまらない挨拶をした。泣き顔ではあったが、笑顔でもあった。
十階層経由でティフ神聖国の《カルマ門》へと一行――七子、エリアス、子だぬき、グレン――は転送された。十階層まで見送る形となったキャサリンやシスター・マリアとはお別れである。
彼らは彼らでネコノカ族の集落へと打ち合わせに向かった。十階層での拠点作りに協力を仰ぎ、保護対象の実績とする目論見らしく、すでに何度か交渉が持たれていた。
別行動となった一行の内、門衛にグレンが手形を見せ、特に咎められることもなく、彼らは門の外へと出る。
辺りはすでに夕闇が迫っていた。十階層を思い出させる濃い霧が出てきている。
その中で、七子は驚いたまま、自らが出てきた門を振り返った。
四脚門の向唐破風造、東西に脇門があり、古色蒼然とした銅板葺となっている。その上、ご丁寧に注連縄を渡してあった。
まるで、神社の南大門だ。
地上に出て、背後を見ても、向こうの光景は見渡せない。
あちらとこちらを、門で区切ってしまったかのようである。
七子は、異様な光景だ、と思った。
この世界にそぐわない。
漢字やひらがなといい、ネコノカ族の《マヨイガ》といい、この《カルマ門》の建築様式といい、何なのだろうか。
ところどころ、ちぐはぐで、世界の歪ゆがみというのか、アンバランスさがむき出しとなっている。
今更ながら、不気味だ。
大迷宮というものは、昔から出現していたそうだが、ここで七子は初めて、《人為的》なものを感じた。
自然のサイクルではなく、何者かの意思の介在が、世界中にばらまかれている、そんな風に思えたのだ。
「――ナナオ?」
不審そうに呼ばわれて、呆然と門を見上げていた七子は、はっとした。
「は、はい。すみません」
帽子を被り直し、駆け足で一行の後に続く。
七子はびくびくしていたが、いきなり指差されて、「魔神だ!」と指摘されることもなかった。
七子もエリアスも、現在はティフの一般階級が着るような服を着用している。
ぱっと見て、何の不審も抱かれないはずだ。
目の色も、二人ともあつらえたように青みがかった黒へと変じていて、戦意などで感情が荒ぶらねば、大丈夫な筈だとシスター・マリアからは言われていた。
砂利道を歩き、馬車道へとグレンは案内する。
《カルマ門》の出現したウェールズ公領カーディフから、首都までは駅馬車で向かうこととなる。
「ちいっと急いでくれよ。予約の駅馬車が来るまで、時間がないわ」
グレンは一行を急かした。七子は自分のせいだと俯いた。別れ際に時間を消費してしまったため、予定を狂わせてしまったのだ。
定期運行の門番小屋に辿り着くと、もう車輪の音が聞こえてきていた。
ぎりぎり間に合ったようだ。
グレンに言わせると、駅馬車は定時に遅れているそうだ。
彼の手配で、すでに荷物は小屋に運び込まれていた。
見た目はいい加減そうだが、青の枢機卿の私兵であるところの副団長を勤めているだけあって、細々と段取りが行き届いている。
彼を連絡役に、次々とリレーのバトンパスをするようにして、七子達は首都まで向かう予定だ。
馬車のランタンの明かりが、小屋の前で止まった。四頭立ての馬車で、屋根付きだ。
車掌が声をかける。
「はよう、乗ってくれや。濃霧が出て来てるで、足元気をつけてくれよう」
「あんがとよ。ほれ、急いだ急いだ」
グレンもまた七子達を急き立てた。そして彼が車掌に、決して少なくない心づけを渡しているのを七子は見てしまった。
(あっ)
そうか、と七子は遅まきながら、合点する。駅馬車の中は無人だった。屋根の上にも座席が設置されているが、人はいない。
公共の駅馬車であるが、これも含めて、全て『手配済み』なのだ。
予約制であることを差し引いても、きっと、次の駅で他の客を乗車させることはないだろう。
「ナナオ」
エリアスに名を呼ばれ、七子は「あ、はい」と客室に乗り込もうとして、足元を滑らせた。
「――気をつけて」
背後にいたエリアスに肩口を抱きとめられ、すみません、と七子は赤面した。
エリアスは特に気にした風もなかったが、迷惑ばかりかけている、と気持ちが萎縮してしまう。
客室の座席にスカートを巻き込まぬようにして着席しながら、
(あ、ありがとうございます、って言えば良かった)
すみませんじゃなくて、と七子は更に落ち込んだ。
自分の口癖がごめんなさいやすみませんであることに、七子は意識的にそれを変えようと思っていたが、とっさの場面ではどうしても謝罪が口を突いて出る。
最後にグレンが乗り込んで、馬車は扉を閉めると、角笛が鳴る。
馬車はゆっくりと動き出した。子だぬきはグレンの持つバスケットの中に入れられて乗り込んだが、特段気にすることもなく、うつぶせで寝ている。前脚の間に自分の顔を隠して、耳を伏せたまま時々ぴくっと動いていた。
「俺も寝るから、ま、何かあったら起こしてくれよ」
グレンは早々に毛布を確保して、「荷物は好きにしていい」と二人に告げる。
「は、はい」
返事を聞くか聞かないかの内、グレンは腕組みしたまま目を瞑ってしまった。
寝たい時に寝られるのは、強みであろう。
沈黙が客室を覆う。
相変わらずの自分の至らなさについて悶々とする七子に、ふいに影が落ちた。
隣に座ったエリアスが覗き込んでいる。彼はやはり気遣いからか、怪我していない方の顔を七子の方に向ける形で着座していた。
「――冷え込むので、これを」
毛布を手渡され、七子は「す」と言いかけ、飲み込んだ。つっかえつっかえ、ようやく口にする。
「――あ、ありがとう、ございます」
エリアスは目を瞬いた。彼は少し驚いたようだった。
「エ、エリアスさんも、毛布」
「私の分もあります」
はい、と七子は緊張すると同時に安堵した。
視線を感じて、見上げると、エリアスがじっと片方の目で七子を見つめている。
「あの、何か?」
また変なことをしてしまったかと声が上ずったが、エリアスは僅かに沈黙して、
「――少し、変わりましたね」
と言った。
七子は目を見張った。
何か言おうと思った。
でも、言葉が出てこなかった。
じわじわと顔に熱が集まってくる。
エリアスの言葉には、揶揄する響きなど当然ながらない。
ただ、本当にそう思ったから、自然と口を突いて出た、といった風の感想だった。
エリアスに嫌われているとか、恨まれているとか、そういったことを忘れてはいけないとか。
色々な思いが交錯して、最後には、喉元に熱い何かがつっかえた。
エリアスは、何か返事を求めていたわけではないようで、厚手の外套を広げると、七子の両肩にかけた。
不器用ではあるが、面倒見の良い男だ。
言葉よりも、その態度で語りかけてくるような。
(この人は、優しい――)
七子はじわりと熱が身体の内側に広がるのを感じた。目頭もまた熱くなってくる。
シスター・マリアや、グレンの言葉の端々から、ザール王国の人々が、とても信仰熱心であり、特にエリアスは生真面目さから教義に忠実であると察していた。
だから、余計に自分のしたことが、裏づけを得て、より重さを増してくる。
この人を、人ではないものにしてしまった――七子は何度も自分に言い聞かせる。
忘れてはいけない。
絶対に、忘れてはいけない。
人の形をしているけれど、違うものになってしまった。そうさせてしまった。
何がどう異なるのか、すでに七子はいくつか了解してしまっている。
すぐに分かったのは、排泄行為がない。
聞いた話では、年を取らない。
見るものが見れば、人とは異なるけはいだと分かってしまう。
人ではないことで、敵対視される。
狩られる。
七子もエリアスも、人を狩るつもりはなくて、だから一方的に狩られることになるだろう。
自衛は仕方ないと話し合った。
一歩間違えば、たった二人きりで、限界まで逃げ惑っていたかもしれない。
そうならなかったのは、偶然得た幸運のためだ。
戒めて、忘れてはいけない、と七子は再度思った。
疾走する馬車の中、無言となるが、嫌な沈黙ではなかった。それは七子にとって驚くべきことだった。誰かとともにある時、沈黙を恐れていたのに、エリアスとの間にあるそれが怖いものではなくなっていた。
車輪が回る。
馬車の居心地は決してよくないけれど、七子は糸が切れたように、船を漕いだ。
疲労していた。
緩慢に揺れる上体を、大きな手が引き寄せる。
熱だ。
熱い炎に触れる。
嫌ではない。
怖くない。
その炎は優しい。
だからこそ、忘れては、いけない――そう最後に思いながら、七子は意識朦朧と身を預けた。
この地上に寄る辺もなく、途方に暮れて、でも、隠せぬほどに安堵して。
大きな手は、ぎこちない手つきで、七子の頭を撫でた。
それは、以前人間であった彼にとって、思い出を共有するたった一人の同胞を労わるように、同時に自分を慰めるようにするものだった。