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よん



 




―4


「家出じゃないんですか?」


 ぎくり、と山岡中学校三年A組担任の桃丘弓枝ももおかゆみえはマウス操作の手を止めた。

 PCの画面には、生徒達の名簿がスクロール途中で中途半端な位置に停止している。

 職員室である。

 この若い女教師は、どうしてこんなことに――と正直頭が痛く、焦燥と困惑と苛立ちで、デスクの上の指先に視線を落とした。

 うつむき加減に、ふわりと明るい栗色の髪が一房こぼれ落ちる。その爪は、血の気を失っているにも関わらず、うっすら人工着色のピンク色をしていた。


「家出じゃないんですかね」


 どこかうんざりした調子で、他の教員が賛同の声をおっかぶせる。弓枝は縮こまった。こんなの、聞いていない、と言いかった。


 ――これだから若い女教師は。指導力不足。教師としての自覚がねえ。

 ――今年は受験生なのに。担任は男性教員が良かった。


 これまで、面と向かって言われたことはない。しかし、こうした教員同士の侮りや、保護者からの不満などは、日常の陰ひなたに、ちらちらと見えていたものだ。


 ――桃丘先生は、ちゃらちゃらして、学生気分が抜けないから。

 ――生徒達に人気があるのは結構ですけれど、『お友達』ではなく、『教師』として指導していただきたいのですが。


 精神不安から来る幻聴だ。だが、まるきり被害妄想というわけではないだろう。

 若い女性教師は、どうしたって生徒達から注目を集めるし、友達感覚で接して来る子も多い。

 懐かれない上の世代の先生方のやっかみだ。弓枝は今、それが一気に芽吹いて、頭髪や服装のことまであからさまにこちらに向けて当てこすりをされていると感じた。

 言外に関係のないことで指導力不足を責められている。

 私のせいじゃないのに、と弓枝はマウスを握る手に力を入れる。ピンクベージュの口紅を刷いた唇をぎゅっと噛みしめた。


 事の始まりは、受け持ちの生徒である篠原七子の保護者からの電話だった。

 娘が帰って来ない。本来ならもう帰宅している時間なのだが、まさかまだ学校にいるというようなことはないだろうか――そういった主旨の照会である。

 そこからは、緊急対応だ。

 家庭の事情など尋ね、保護者の意向を踏まえて、交友関係等もしらみつぶしに情報収集することとなった。

 その課程で判明したのは、想像以上に篠原七子の交友関係の希薄さである。露出した部分のみで、裏ではどんな人物と付き合っていたかは不明だが、少なくとも校内では驚くほど友人がいない。むしろ皆無と言うべきだろう。

 影の薄い子。

 協調性のない子。

 グループ学習などで、一人余って、手をかけさせられる子。

 弓枝にまとわりついて「ゆみちゃん先生」と甘えてくる生徒達に比べ、印象と言えばそんなものだ。教室でぽつんと浮いて、息を潜めている少女は、調和することもできない出来損ないで、どこか面倒臭い存在だった。下手に関わり合いになりたくないと弓枝に忌避させる何かがあったのだ。

 言ってしまうと、教師も人間だ。トラブルは避けたいし、公正公平にも限界がある。かわいい生徒もいれば、かわいくない生徒もいる。中には印象の薄い、生徒だって――


「――桃丘先生」


 はっと顔を上げた。学年主任の田所眞澄たどころますみが引っ詰め頭に能面のような顔をして、両手を膝上に重ねたまま横に立っている。いつもどおり、ぴんと伸びた背筋は、背中に定規が一本入っているのかと揶揄したくなるほどだ。

 生徒達からは『オニババ』と蛇蝎のように嫌われている年配の女性教員である。

 今年度定年だが、この年でも独身で、着ているものもいたってシンプルモノトーン。夏だろうが冬だろうが二の腕膝上を見せることは一切ない。ワンパターンのタートルネックとツイードジャケットがお決まりコースだ。顔は笑みを忘れたように眉間の皺から口元の小皺まで厳格さで塗り固められている。

 生徒達から敬遠されはしても、決して好かれはしないタイプだ。まるきり女を捨てている。

 弓枝は常々ああはなりたくないものだと反面教師にしていた。


「保護者の方がお見えになりました。行きましょう」


 弓枝は胃の腑がずしり、と重たくなった。ちらり、とPCの画面に視線を戻して煌々とした液晶画面に頭痛を覚えた。再び田所の方を見やる。動きたくない。

 保護者とは、篠原夫妻――及び、瑞樹夫妻である。

 篠原七子は前日の夕方から行方が知れず、瑞樹優花は、今朝方失踪の連絡があった。

 何でうちのクラスばかり、と弓枝は内心歯噛みしながら立ち上がった。


 応接室に全員揃う。

 中学校側には、校長、教頭、学年主任の田所、担任の弓枝。

 保護者側には、篠原夫妻。最後に入ってきたのが瑞樹夫妻である。


「どうも、遅れて申しわけありません」


 瑞樹氏が会釈する。バーバリーのブランドスーツであろうか。油の乗った堂々たる雰囲気で、スーツに着られていない。隣の瑞樹夫人は顔色が真っ青だが、シャネルのハンドバッグを片手に小ぎれいにしている。瑞樹夫妻は保護者顔役であるため、校長や教頭とも面識があり、簡単に挨拶を済ませると、篠原夫妻にも挨拶した。


「瑞樹優花の父で、瑞樹高仁みずきたかひとと申します」


 す、と差し出された名刺に、やや慌てて来客用ソファを立ち上がったのが篠原氏だ。こちらは、スーツに着られている、といった感じでひょろ長い体型だ。


「あ、これはご丁寧にどうも。えーっと、名刺、名刺」


 ごそごそとスーツの内側を探る手も心もとない。どうにかよれよれの名詞ケースを取り出すと、瑞樹氏――高仁におぼつかない手つきで渡した。


「篠原七子の父で、篠原忍と申します。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ」


 受け取った高仁はさっと名詞を一瞥すると、僅かな侮蔑の色を目に浮かべ、「ご職業は漫画家、ですか」と丁寧に読み上げた。瑞樹夫人の方はもっとあからさまに一段下を見るような目で篠原夫妻を見た。

 一方篠原氏――忍は「は、はあ」と頭をかいている。妻同士も、


「瑞樹優花の母、瑞樹さゆりでございます」

「篠原七子の母、篠原瞳子しのはらとうこです。よろしくお願いいたします」


 と挨拶をすませると、校長が立ち上がって、


「皆さん、立ち話もなんですから、どうぞお座りになってください」


 促され、それぞれの夫妻は着席した。

 校長の山口が、ごほ、とわざとらしくせきをする。


「ああ、ええ。このようなことになりまして、非常に遺憾ではありますが」


 言いかけたのを、もどかしげに優花の母親が遮った。


「ご挨拶は結構ですから、本題に。この一件、学校側はどう責任を取ってくださるんですか」


 出鼻をくじかれ、ぽかん、としたのは校長、教頭、何より篠原夫妻であった。


「学校側の管理責任の問題じゃないんですか。うちの娘が自発的に家出することは考えられません。悪い友人に脅されて、無理やりつれまわされている可能性が高いと思います。学校側の指導の問題じゃないんですか!?」


 剣幕というより、政治家のように通る声で弁舌を披露する。今度、瑞樹夫人は、はっきりと篠原夫妻を睨み付けていた。


「おとつい、娘の優花は篠原さんのお宅にお邪魔したそうですが、普段はない交友関係なんです。篠原さん、何かご存知なんじゃありませんか」

「え?」


 表情が強張ったのは、篠原夫人だ。


「え、あの、何を?」


 意図が分からない、という表情の篠原夫人に、瑞樹夫人は、分からないんですか、とばかり口を開く。


「うちの娘を連れ出されたのは、先に家出された七子さんなんじゃないんですか? どういうしつけをされているのか分かりませんが、七子さん、お友達はいないそうじゃないですか。うちの娘の優花が、修学旅行のグループ決めであぶれて孤立していた七子さんを仲間に入れてあげたと聞いておりますの。家出する際に、恩を仇で返す形で、娘の優しさにつけ込んだんじゃないんですか」


 ここで、悠然と瑞樹氏――高仁が「これ、お前」とたしなめる。


「口が過ぎるぞ」

「だってあなた」

「失礼だぞ。謝りなさい」


 振り返り、その後優雅に会釈してみせる夫人の所作まで、一連が打ち合わせ済みの見事な芝居を観るかのようなたしなめ方である。

 篠原夫人の瞳子は、ショック状態のようで、完全にソファの上で両手を握り締め、固まってしまっていた。

 この両夫妻は、レベルが違うのである。

 パフォーマーとしてのやり方を心得ている者と、そうでない者。

 自分の主張を押し通すための先制攻撃が出来る者と、そうでない者。

 

「ええっと」


 ぽりぽりと忍が空気を読まない形で頭を掻いた。


「あの、そろそろ本題始めてもいいですかね」


 息を呑んだのは瑞樹夫人で、目を眇めたのは高仁だ。瞳子が泣きそうな目で夫を見上げる。忍は全く気にしない様子で、


「腹を立てるより義理を立てよというじゃないですか。やらないといけないことからやりましょうよ」


 少なくとも、と忍は笑う。


「うちの娘には、いきなり、他所の子を無理やりやり連れ回して、家出させているんじゃないか、なんて喚くようなしつけはしてませんから」

「は!?」


 顔を真っ赤にして立ち上がりかけた瑞樹夫人の肩を高仁が押さえつけた。


「お前、止めなさい」

「だって、あなた」


 今度のやり取りは、素のようであるが、口端を吊り上げた夫の笑みに、夫人は口を噤む。


「確かに、おっしゃるとおりです。妻の非礼を詫びますよ」

「いや、僕もすみません。とりあえずですね、うちは警察にはすでに連絡させてもらっています」


 校長が口を開きかけるが、学年主任の田所が頷いたのに押される形で、忍は言う。


「優花さんのケースもそうですが、何かの事件に巻き込まれた可能性があります。うちは、事件性がないと一般家出人で受理されてしまいましたが、これだと、ほとんど積極的捜査は期待できません。ご相談したいのは、瑞樹さん方、警察にご一緒できませんか。特別家出人として、家出は当人の意思に寄らず、外部からの原因で生命の危険が及ぶ可能性があり、事件性があると訴えたいんです」


 瑞樹夫人は顔色を変え、夫の高仁の方を何度も見ている。

 高仁は、「なるほど」と十指を膝上に組んだ。


「しかし、大事になりますね」

「無事ならそれで結構です。娘の命には変えられません。七子も、七子から様子を聞いた優花さんも、自分の意思で家出するような浅薄な子じゃない。両親に心配をかけるような行動を自らするような子たちではない。僕はそう信じています」


 応接室をしばらく沈黙が支配した。

 すると、外部から扉をノックする音がした。


「なんだ、こんな時に」


 苛立たしげに教頭が席を立つ。

 扉を開けると、血相を変えた別の教員が教頭に報告した。


「大変です、警察署から連絡が――」


 その内容に、応接室にいた全員が顔色を失った。

 ふら、と卒倒したのは瑞樹夫人で、篠原夫人の瞳子も口元を押さえ、がくがくと震え出す。

 


 現実世界でも、歯車はぎりぎりと動き出していた……






15


 ゲテナ統一帝国より東の国、ティフ神聖国には、評定会議、というものがある。

 というよりも、どこの国にも似たような会議や決裁システムはあった。

 この類の会議では、まず、臣が政務を討議・評定する。

 次に、書記局の官吏によって取りまとめられ、参議、宰相の決裁を受けた後、君主に奏聞された。

 つまり、評定会議とは、事実上の政策決定機関と思っていただきたい。

 会議の内容を元に起草された奏聞書の内容を吟味し、花押印裁可して執行命令するのが王の役目である。

 重要な意思決定はあくまで王が行うというわけだ。不明な点があれば差し戻される。

 無論、強固な王権の確立には、あまり好ましくない構造ではあるだろう。

 君主が臨席しないことで、メンバーによる専横が欲しいままにされやすい脆弱性を孕んでいる。君臣一体に、政治がクリーンである時は、この上もなく合理的であるが、屋台骨が傾いでいる時は、暴走を招き倒壊を加速させる体制である。

 しかし、アビゲイル女王は実に上手く評定会議を使いこなしていた。

 この女王は、適度に手を抜く、というのが神技のように上手い。


「ううん、難しい案件ねえ」


 羽ペンを走らせながらそう言うと、何々男爵に任せたわ、と投げてしまう。

 それは、大体人々にとって首をかしげてしまうような人選であることも多い。

 ところが、恐るべき適材適所で、何やら上手く行く。

 女王の頭の中には、人材という資源リソースの個々の特性から組み合わせによる予想アウトプットまで全て収まっており、問題に直面するとその中から対応させるのにベストな人々を拾ってくるのだ。

 君主は自ら仕事をするのではなく、仕事を振り分けて監督するのが仕事なの、というのが彼女のやり方であった。

 

「若い人にどんどん仕事を振って、任せてしまうの。あと、上手くできたら褒めてあげることねえ」

 

 そして、結果には、私が責任を持つこと。

 気負わずに女王は口にする。

 この責任というのは、言うほどに容易く綺麗なものでもない。

 親しい人に裏切られ、何度か彼女は苦悶ながらに死刑執行命令に署名して来た。

 若い頃は政情不安から、玉座にいながらにして死を覚悟したこともある。

 罵倒され、剣を向けられ、歯向かった者を処断した。

 断末魔の声に耳を浸したこともある。

 呪いの言葉も随分親しくなった。

 次第に肩が重くなり、臓腑は引き絞られもしたが、それが責任を持つということだ。

 これが女王の政治である。

 逆に何から何まで全部自分でやらないと気の済まない性分の人もいる。

 ティフ神聖国の評定会議メンバーとして、筆頭に上げられるウェールズ公ハロルドである。

 アビゲイル女王の第一子にして唯一の直系、エドワード皇太子の従兄弟だ。

 女王の年の離れた末妹がウェールズ公家に嫁下し、生んだ男子で、幼少時から才気煥発で鳴らしており、武勇にも優れて神童の名も誉れ高かった。

 何事も自ら率先して取り組み、額に汗して吸収し、周囲の期待以上の結果を出す。

 彼の評価は天井知らずに高まった。

 一方次の王であるエドワード皇太子と言えば、凡庸を絵に描いたような男だ。

 特に何かの分野に優れているわけでもなく、皇太子である、ということが唯一にして最大の特徴だ。

 彼らは互いに比較された。

 ハロルドは、その存在自体をもって、十歳以上年の離れたエドワード皇太子を脅かし続けた。

 追いすがり、いつの間にか追い越して先を行くハロルドに、エドワードは「凄いね、ハロルドは」と彼が十八歳、ハロルド九歳の折に声をかけたというのだから、推してはかるべしだ。

 しかし、ここで、ハロルド憎し、とならないのがエドワード皇太子である。

 ますます萎縮して、エドワード皇太子は絵画や詩の作成、時に園芸など芸術の世界に逃げ込むようになった。

 このようなエドワードの態度を見て、家臣の心がいっそう離れてゆき、ハロルドへと寄り添うのは避けられない流れであった。

 どうしても、人々は比較してしまう生き物だ。

 大迷宮が復活した不安な時代だからこそ、人は強いものに縋り、助けを求める。

 有能な者には賞賛と希望を向けるだろう。

 そして、無能な者を激しく憎悪するのである。

 時に、無能は有能よりも遥かに厄介であることを人々は知っていたためであろうか。

 臣下からの失望と増大する侮りを、エドワード皇太子は日々感じていた。 


「――皇太子殿下、いかが思われますかな」


 はっと顔を上げたエドワード皇太子は、一瞬自分がどこにいて、何を聞かれているのかわからなくなっていた。

 評定会議の部屋である。

 皇太子は評定会議のメンバーとなるのが慣例だ。

 絨毯はレッドワイン、囲む卓は一枚の御影石から切り出した豪華なもので、つるつると磨き上げた漆黒に輝いている。

 会議メンバーが皆エドワードを見ていた。

 息を呑んで、思わず下を見ると、自分の間抜けに青ざめた――と思われる――顔が映し出されていた。

 まるで、自信のない、見るからに不安そうな、いや人々に不安を抱かせる顔つきだ。


「わ、私は」


 そこまで言って、舌先がもつれた。

 私は何だというのか。そもそも、何を聞かれたのか。何一つ分からない。

 この大事な席で、ぼんやりとしていた。

 そのことを悟った廷臣たちの間に、密かな溜息が零れる。

 繊細なエドワード皇太子は、場の空気を読むことだけは長けていた。

 特に、自身に向けられる失望の空気には、過敏なほどに反応してしまう。


「そ、その、わ、私は」


 心臓がどくどくと血液を全身に送り出し、エドワード皇太子は背中にどっと汗が流れるのを感じた。

 はあっ、と特大の溜息が聞こえた。

 隠す気もない。

 隠そうとする気も起こらない。

 そんな大きな溜息。

 ウェールズ公ハロルドである。

 エドワードの従兄弟だ。とても、とても優秀な従兄弟だった。

 三十代も半ば過ぎ、黒髪を撫で付けた堂々たる美丈夫で、鷹のような目をしている。武人の気風があり、軍部からも支持が異様に厚い。ウェールズ公家の色とされる深い緑色の外套を肩半分に羽織り、御影石の卓の上に両手指を組んで、真っ直ぐにエドワード皇太子を刺すように見ている。


「では、皇太子殿下も異論はないとのこと、陛下には先ほどの内容で奏上しましょう」


 フォローされた。

 いや、見限られたのだ。

 エドワード皇太子は、多くの人々から繰り返し失望され、見限られている。

 それでも、彼は皇太子なのだ。

 惨めだった。

 その立場に相応しい人物が臣に甘んじており、相応しくない自分が据え置かれている。

 逃げ出したい。いっそ死んでしまいたい。

 もうこれ以上誰からも失望されたくない。

 そう思うが、エドワードは誰よりも、母であるアビゲイル女王の失望を恐れていた。

 逃げ出せば、最も失望させたくない人を失望させてしまうだろう。

 しかし、もう限界だ――エドワード皇太子は、ふと自分の指がぶるぶる震えているのに気がついた。

 芋虫のようだ、と思う。

 視線も定まらぬ。

 足元の感覚もない。

 ぐにゃぐにゃとした場所に、一人で座っている。

 もう、駄目だ。

 かろうじて、皇太子は無様な笑みの形を口元に貼り付けて自尊心を必死に守った。

 会議が終わり、散会する中、何人かは残って詳細を打ち合わせている。

 中心にいるのは、皇太子であるエドワードではない。

 資料を持ち寄って、廷臣が相談に向かうのはハロルドの方だ。ハロルドは頷き、鋭い意見を返しているようだ。慌てて廷臣が資料をめくる。

 エドワードに聞かれても困るのだが、惨めさには限りがない。

 皇太子は金彩模様の白い扉を開け、会議室を退出した。

 誰も彼を引き止める者はいなかった。


 

 エドワードは、自分こそ亡霊だ、とさ迷い歩いた。

 ティフの王宮には、薔薇の迷宮がある。

 垣根は人の背よりも高い。

 直線に配置し、ところどころ直角に折れたり、ぐるり円形の道としたり、実に多種多様の道を敷く。

 アーチから覗く庭園は、秘密の場所への入り口と見える。

 真っ直ぐ伸びて自分が小人になったように錯覚させ、訪れる者を飽きさせない。

 休憩所のように十字路の噴水や白木の長椅子を設置している場所もある。

 それらも避けて、深く深くに入り込んで行く。

 改良された四季咲きの薔薇は、年中優雅に芳香を放っていた。

 もはや、誰もここまでは来るまい、というところまで来て、皇太子は地べたに尻をついて座り込んだ。

 頭を両腕で覆う。

 世界から消えてしまうように、自分を消してしまうように。

 女々しい、とエドワードは思う。

 皇太子妃であるマリアからも、同じようなことを言われ、やはり溜息を吐かれる。

 誰も彼もが、皇太子に失意を覚えていた。

 いや、誰よりも、皇太子自身が己に絶望していたのである。


「もう、駄目だ。死にたい。死んでしまいたい」


 誰にも迷惑をかけずにいられるなら、いっそ今ここで死んでしまいたいと皇太子は身体を折り曲げて、前かがみに嗚咽した。

 決して母であるアビゲイル女王には「死にたい」と言うことができない。

 紛れもない本音が皇太子の口を突いて出た時、


「おや、死にたいとは物騒だね」


 涼やかなテノールが、彼の弱音を拾って答えた。

 ぎょっとした皇太子が面を上げる。

 拘束具と思しき奇妙なボディスーツをまとった男が長い脚を組んで、膝上に肘をつき、掌に自らの尖った顎を乗せてこちらを見下ろしていた。

 彼が座っているのは、庭園に設置された椅子ではない。びろうど張りの豪奢な室内用椅子だ。

 まるで自分の王宮にいるかのように泰然と座っている。

 だが、異常なのは何よりも、その容貌だった。

 流れるような銀色の髪に、頭部からは、二本の緩やかにS字を描く二本の黒い角が突き出ている。

 目は、鳩血ピジョン・ブラッドのような赤色。

 はらり、と薔薇の花弁が地面に落ちる。

 

「――ッ魔……魔神!?」


 地べたに座り込んだまま、エドワードは凍りついた。

 どう見ても、低位や中位の魔ではない。エドワードの優れた知覚能力がはっきりと告げている。

 高位の魔――しかも頂点に近い存在。

 二十体前後しかおらず、時代によっては数をもっと少なくしてしまうという魔神だ。

 彼の頭を、何故、どうして、何故、と疑問符が飛び交う。

 国家の中枢に、魔神が現れたことの意味は、あまりにも大きい。

 魔神にとって、侵入が容易いということなのか、偶々間隙を突かれたのか。

 戦力及び警備の大幅な見直しを、早急にはかる必要がある。

 何よりも、今この目の前にいる魔神から逃げなければならない。

 誰かに知らせなければならない。

 分かってはいても、身体はエドワードを裏切る。

 思考停止し、動くことができなかった。

 しかし、これは自分にとっての僥倖ではないか、と皇太子のどこかで無意識にささやく声がある。

 彼は死にたかった。彼は消えたかった。

 それなのに、自らを自らで終わらせる責任を、彼は取ることが出来ない。

 そんな死に方をしてみるがいい、女王の目に浮かぶ失意はどれほどのものだろう。

 死後、どれほどの人々が、彼の不甲斐なさを笑うだろう。

 彼は耐えられない。

 でも、もし、と無意識は言う。

 突然現れた魔神に、殺されたなら?

 死は彼の責任ではない。

 その僅かな期待と喜色が、魔神に見透かされてしまったのかもしれない。

 

「ああ、いい顔をしているね。実にいい」


 魔神は笑う。顎先に手を当てたまま、愉快そうに皇太子を見下ろす。


「敬意に値する優しさだ。絶望だ。悲しみだ」


 何が言いたいのかエドワードには分からなかった。

 しかし、魔神は笑う。


「そう、君は周囲から失望されている。君は期待を裏切り過ぎた」


 指さされ、エドワードはうめいた。

 崩れ落ちてしまいそうだった。

 駄目なのだ、エドワードはもうどうにもならないほど自分自身に見切りをつけてしまっている。


「嘆きたもうな、我が未来の友よ。僕は君のような人種が好きでね。手を貸そうじゃないか」


 何を、と言いかけたエドワードは、言葉すらも失う。

 魔神が立ち上がり、靴の底で薔薇の花弁を踏みしだく。

 その芸術家が丹精込めて造詣したかのような手を差し出した。


「我が手を取りたまえ。君を希代の名君主として上げよう。もはや誰も君を笑いはしない。無能だなんて言わせない。鬱屈は淡雪と消え去る。堂々としていい。小さくなる必要もない。顔を上げたまえ。君は多くの臣民に愛され、君もまた臣民をてらいなく愛することができるようになる。君は君の魂の輝きに相応しい名誉と尊敬を得られる。僕が約束するよ」


 悪魔だ、とエドワードは思った。

 手は真っ直ぐに彼に向かって伸ばされている。

 そう、エドワード自身に伸ばされているのだ。

 

「愚かな王は、国を滅ぼした。僕の手を取りたまえ。全ての国が滅んでも、君が僕の友人である限り、この国は永遠だ。決して手を出さぬと約束しよう。簡単だ。君が決断するだけだ。誰にでも出来ることじゃない。君にしか出来ないことだ」


 再度、悪魔だ、とエドワードはうめいた。

 だが、知っているか。

 悪魔の言葉は甘美に聞こえるということを――

 震える指先で、エドワードは手を、伸ばした。




































 そして。

 思い切り、ばしん、とその手を振り払った。

 魔神は、鳩血色の目を丸く見開く。

 エドワードはがくがくと震えていた。

 彼は凡庸な男だ。

 誰からも期待されず、自分自身ですら期待していない。

 しかし、彼は――


「去れ、悪魔よ。わ、私は、私はティフ神聖国の皇太子だ!! 魔神の甘言には耳を貸さん! き、き、貴様らがザールにしたことを忘れてはおらぬぞ、わた、私は、皇太子なんだ!!」


 誰からも期待されていなくても。

 自分自身ですら期待していなくても。

 彼は、ティフ神聖国の皇太子だ。

 その責任から、どんなに逃れたくとも、逃れられない。逃れてはいけないと、彼はとっくに知っていた。

 皇太子は、素早くルーラー印を切った。これは、ティフ神聖国教会独自の印であり、本来祈祷書を手に行う。

 だが素早く二重、三重に詠唱を重ねる略式文を切る。


「悪魔よ、去れ。『ある方、仰せになる。しかり、私は来る、と。おお、ある方、きたりませ。我らの元にきたりませ。ある方、仰せになる。しかり、私は来る』」


 エドワードの額に大粒の汗が浮かび、目の下にみるみるべっとりと隈が浮かぶ。

 反対に彼の背後には、何か光輝くものが訪れようとしていた。


「三度、勧請する。『ある方、仰せになる。しかり、私はすぐに来る』――!!」


 薔薇園の葉は光のしずくを受けて、きらきらと輝いた。

 ふわり、と絹が石の表面を撫でるように、軽い羽音がする。

 魔神は、一歩後退した。

 そのことに自分自身驚いたように、彼は目を見張る。


「《召還サモン・天使エンジェル》か」


 つぶやいた瞬間、光の形――背中に四つの翼を背負いし者は、大きなバスターソードで悪魔を真っ二つに切り伏せていた。



 



 

 大迷宮の奥、ジャムジャムアンフ伯爵の城で、ぱりん、と血の盃が砕ける。

 

「ふむ、失敗してしまったかな」


 影では役者不足だったか、と魔神は独り言を呟いて、興味を失ったように砕けた盃を炎で燃やした。







 時を前後して、大迷宮十階層。

 

「はあーい」


 と、スキンヘッドの大男《怒れる星傭兵団》の団長キャサリン・アングリスタとへらへらした笑みの副団長グレン・タキストン、二人が七子とエリアスに挨拶し、固い表情でネコノカ族のカシギが後に続く。 

 大迷宮十階層、魔の森にて、彼らはネコノカ族集落地の焼け跡に会することとなった。

 元々、副団長としてグレンは反対であった。

 魔神とかやべーよ、無理無理無理、と彼は言い募ったのだ。

 しかし、キャサリンは、監視の為に登っていた樹上にも関わらず、手を伸ばしてぎゅっとグレンの尻を握った。

 グレンは悲鳴を上げた。危うく落ちそうになったが、根性で踏ん張る。


「おバカさん!」


 キャサリンが雄叫んだ。


「もうあっちはこっちに気づいているわよ。はあッ、いい男だわ! 第一印象は覗き屋で終わらせるなんてイヤ! 自らアタック! だから、これはチャンスね。アタシは、試練をモノにする女よ!」


 誰が何をモノにするってんですかね、とグレンは遠い目になったが、キャサリンはものすごく張り切っている。スキンヘッドの横の揉み上げがいつもよりピンとはねている気がする。顎も天上を向いて、下睫毛も常時より密集しているように思えた。

 こういう時、グレンの対処は一つだ。 

 逆らわない。

 大人になるって、辛いことなのよ、とグレンは眉間を揉んだ。このことに関して、大分以前に彼は色々諦めてしまっていた。諦めると、人間楽になれるものだなあ、と一種悟りの境地である。

 つまり、そういうわけで、安全マージンを取るのがモットーのグレンは魔神の少女と噂の《死霊の騎士》の前に引きずり出され、やぶれかぶれに「はあーい」と挨拶に便乗したのだった。

 彼の心情としては、死ねる状況、だった。

 大体、こいつらの組み合わせがおかしい、とグレンは言いたかった。

 魔神の少女。何故かこの少女が一番ぷるぷるしている。

 《死霊の騎士》。死ぬほど無表情だ。

 あと、たぬき。

 おかしい、とグレンは天上を仰いだ。

 空の青さが、嘔吐した帝都の空よりも身に染みた。


「初めまして、アタシは《怒れる星傭兵団》のキャサリン・アングリスタよ。団名はアタシの家名から取ったものなの、いかしてるでしょ? こっちは、グレン・タキストン。アタシのお尻を守る騎士ってところかしら?」


 ちげーよ、とグレンは言わずに、曖昧に笑った。

 《死霊の騎士》が淀んだ沼底のような赤い目でこちらを見ている。

 何を考えているのか、さっぱりグレンには読めなかった。

 グレンが挨拶する前に、ネコノカ族の少年が進み出て、名乗った。


「私は、ネコノカ族の族長、カシギだ。我が部族を助けていただいたこと、御礼申し上げる」


 右手拳を開いた左掌に打ちつけ、固く握ると、カシギは膝を着いた。


「我らを眷族とされたよし、これより、御身に忠誠を」


 途端に、魔神の少女は、こちらが引くほどびくっと跳ね上がった。


「ち、ちが、ちがい、ます」


 きょどきょどと目を彷徨わせ、泣きそうに顔面を歪めた。しきりに指を組みなおしては視線を合わせない。

 止めて、と全身で叫ぶ声が聞こえるようだ。

 グレンは、へえ、と思った。

 へえ、こいつは――利用しがいがありそうだなあ、とキャサリン団長の慧眼に感心したのだ。

 ただし、《死霊の騎士》から殺気を飛ばされて、お目付け役がいるようだ、と邪心をおさめる。


「あなたに」

 

 とカシギと名乗ったネコノカ族の少年がなだめるような口調で言った。


「我々の命を背負ってもらおうとは思わない。そこまで求めるものでもない。恩義は恩義。命を助けられた。力を貰った。祖霊を招いて、助けとしてくださった。ゆえに、あなたは祭司であり、王なのだ。我らは動けぬし、微力ではあるが、勝手に仕えるゆえ、気にされるな」

 

 魔神の少女は何か言いかけて、言葉が見つからなかったのか、唇を震わせた。

 そして、別のことを聞いた。


「あ、あの。動けないって、またあの人たち、襲ってきたら」


 カシギは頷く。


「集落は別の場所に移す。しかし、幼体――幼き者がいるので、遠くまでは行けない」


 魔神の少女は言葉を呑み込んだ。

 命を瞬間的に助けることと、その命を恒常的に保護することとは、別次元の問題であることに気づかされたのだろう。カシギは、後者までは求めないから、安心しろと言うが、少女は明らかに躊躇っている様子だ。

 魔神の少女は《死霊の騎士》を見上げようとして、思い直したのか、自分の靴のつま先に視線を落とす。また、《死霊の騎士》は、口を出さずに無言で通す気らしい。しかし、少女を一瞥して、またこちらに睨みを利かせる。

 助け舟は出さない、しかし何かしたら許さない、と言外に牽制している。

 その対照的なちぐはぐの仕草に、グレンは二人の関係性の一端を垣間見た気がした。

 

「ああんっ、暗い雰囲気ね!」


 キャサリンが身体を横に揺すった。鎧の胸甲からはみ出す筋肉がはちきれんばかりになっている。


「ちょっといいかしら、お名前を教えてくれない?」

「え、あ、す、すみませっ」

 

 魔神の少女は慌てて頭を下げる。


「わた、わたし、七――」


 あ、と《死霊の騎士》を振り返る。少女は「え、と」とますます視線を挙動不審にきょろきょろさせ、


「な、ナナオと呼んで、ください」


 消え入りそうな小さな声で名乗った。

 

「エリアスです」


 《死霊の騎士》も端的に名乗った。彼はザール王国の騎士であろう。しかし家名を名乗る気はないようだ。

 

「ぼく、たぬき!」


 え、とグレンは固まった。

 恐らく、全員が硬直したに違いない。

 子だぬきが、いつの間にかグレン達に『ナナオ』と名乗った七子の足元に短い足で直立し、元気良く挙手していた。


「そ、いえば。たぬきさんは、お名前、なんていうの?」


 七子がやや中腰に子だぬきと目を合わせるようにして今更尋ねると、「ぼく、たぬき」と再度元気よくはきはきと答える。しかも、前足ぴーんと挙手の形に伸ばして、何か反応を待っているようだ。

 

「たぬきでいいでしょう」


 エリアスが冷めた目で言った。

 

「え、でも、あの」

 

 無言に気圧されたのか、七子は「は、はい」と答えた。

 何なの、こいつら――とグレンは心底思った。


「はいはい、自己紹介も済んだところだし! アタシ、ちょっと色々聞きたいことがあるのよね」


 キャサリンがこれでおしまい、とばかり手を叩く。


「エリアスちゃん、あなたよ、あなた! あなたってばすっごく噂になってるのよ。知ってた?」

 

 エリアスは無表情にキャサリンを見た。頷くことすらしない。

 とはいえ、キャサリンは相手の反応など元々気にしない性分だ。


「《死霊の騎士》――そう呼ばれているわ。亡国の騎士さん。あなたね、今とってもスターダムなのよ。それでね、どうやらあなたはそっちの魔神に眷族にされちゃったみたいだけれど」


 エリアスの殺気が膨れ上がる。七子が、驚いてエリアスを再度振り返ったが、彼は少女の方を見ようともしない。

 

「ああ、別にうちはルーラー教のファン団体は好きじゃないのよ。アタシ、国教会ですもの。うるさくしないから、安心して頂戴。それでね、あなたの目的はきっと敵討ちよね? それともほかに目的があるかもしれないわね。まあ、どちらにせよ、アタシは、あなたからのラブ・メッセージはしっかり受け取ったつもりよ」


 するり、とキャサリンは小指を己の頬に這わせる。美女がやれば様になるが、もはや威嚇行為でしかない。

 だが、エリアスは一歩も引かない。まったく動揺するけはいもない。

 この男、強い――とグレンは戦慄した。


「魔神の子は幼いわね。だから、その行動も幼さから出たものだと判断するわ。人類としてはありがたいことかしら? まあ好きにして頂戴な。だけど、あなた、わざと誰も殺さなかったわねえ。幼い主君に操立てしたのかしら? ううん、違うわね」


 キャサリンは、唇に指を当てると、エリアスに向かって投げキッスをする。

 対するエリアスは無反応だ。

 グレンの方は若干どころか心の距離を十歩ほど広げていた。七子もまた未知との遭遇に硬直している。

 グレンと目が合った。

 二人の間に何か通い合った。


「あなた、いい男ね。無口だわ。体でぶつかってくる感じ、いいわ、好きよ、そういうの、大好きよ!! あなたのメッセージ。アタシのハートに来たわ! 敵対しませんってことね。もしかして、相互扶助もできるかしら?」


 グレンはそろーっと小さく挙手した。


「あー、つまり、そこの御仁は、積極的に人間とやり合うつもりはない、と」


 エリアスは初めて、グレンを認識したようだった。静かに頷く。

 グレンは思わず頭をがりがり掻いた。


「けどよお、厄介だぜ、騎士の旦那よ。そこの魔神のお嬢さんは、ルーラー教会でもタカ派の連中の横っ面はたいて、足蹴にして、もっかい返すバックターンでげしげし踏みしだいていったわけですよ? 分かる? 正面から喧嘩売っちゃったんだよ、おいおい、死者の復活はなあ、まずいだろ。ん、奴ら、上に持ち帰って、顔真っ赤にしてまたやって来るぜ。認めるわけにはいかねえよなあ。神の専売特許を、魔神にひっさらわれちゃあ、ファン団体はお怒りの上、どこまでも潰しにやって来ると僕は思うよお」


 へらりへらりとえげつないことを言うグレンに、七子の顔色は真っ青になる。

 意味が分かったらしい。

 人と視線も合わせることが出来ないが、アホじゃない、とグレンは少し評価を修正する。


「あんたらが救ったネコノカ族も、お先真っ暗だな。ま、念入りにぶっ潰しにやって来られる、と」


 グレンは止めを刺す。

 つまり、キャサリンの意図を汲んで、だ。

 グレンがマイナスな発言をする。そして、キャサリンがそれを拾う。


「アタシたち、協力しあえるんじゃないかしらあ?」


 ね、仲良くしましょうよ、とキャサリンは腰元に手を当てて身体をくねらせてみせた。










16


 七子はどきどきしていた。

 どきどきというより、ずきずきかもしれない。

 自分の胸元に手をやり、制服に皺が出来るほど強くセーラー服を握り締める。

 大迷宮十階層、魔の森、ネコノカ族の集落地跡。

 気がついたら、大人の男性二人に、ネコノカ族の若長というカシギ達に挨拶され、わけも分からないまま自己紹介の流れとなった。

 それだけではない。

 七子は、新たに眷属を増やしてしまった。手に取るように、彼らの命が自分の手元にあることが分かる。

 不思議で不気味な感覚だ。

 七子を頂点にして、奇妙な連なりが下方へと伸びている。

 まるで見えない樹形図のようだ。

 その樹形図の糸は、《扉》の向こうにもつながっている。

 死者たちだ。

 彼らは《扉》の向こうにいて、七子がもし声をかけたら、応えてくれるだろう。

 気のいい人々だった。

 もう死んでしまっているだなんて、本当に信じられないくらい、優しい人々だった。

 いつでも駆けつけるぞ、と約束して、彼らは白い光に包まれ《扉》の向こうに帰って行った。

 呼べば、きっと来てくれる。

 だけど、それは本当にしていいことなのか? とこの少女は胸に余って眉を曇らせた。


(どうしよう、どうしよう)


 再度思考がくるり、と元のところに戻って来る。

 一番の問題は、七子が生き延びさせて『しまった』人々だ。

 新たに眷属にしてしまった人々だ。

 カシギが真顔で「仕える」、などと言うので、恐ろしくなった。

 一体彼らに、どのような精神作用が起きたのか、七子には分からなかった。

 何もしていないのに、酷く過ぎた好意を向けられている。

 それが怖い。

 それが七子には重い。

 逆にエリアスは、はっきり自分を持っていて、一番最初に「不本意だ」と口にした。

 「不本意だが仕えざるを得ない」と自分の意思ではないことをはっきり示し、釘を刺したのだ。

 しかし、この短い付き合いの中でも、彼の言葉と態度は裏腹だ。

 恐らく、彼本来の性質であろうが、不本意と言いながら、その態度は不器用な身振り口ぶりの端々から申し訳ないほどに気を使ってくれているのが分かる。 

 だから、七子は、エリアスにだけは《失望》されたくなかった。

 また、エリアスが特別でなければ、カシギたちはきっと彼ら自身のままなのだと七子は信じたかった。

 誰かの心を、不思議な力で変えてしまうなんて、恐ろし過ぎて、七子には耐えられなかったのだ。

 誰にも見られず、誰も害したくない。

 誰にも迷惑をかけたくない。

 そんな風に息を押し殺して生きてきた七子にとって、誰かの人生を《自分》が加害者となり捻じ曲げてしまうという《事実》は、あまりにも耐え難かった。

 しかし、その願いも空しく、七子の投じた一石は、何重にも波紋を呼び起こそうとしている。

 このままならまた教会側は、その威信にかけて何度もネコノカ族を襲撃するだろうと恐ろしい話を聞かされた。

 死者の復活は神の御技であり、魔神ごときが為してよいものではない。

 教会は、決してそれを認めないだろうと。

 七子はグレンの言葉にさっと青ざめた。

  

(私……の、せ、い?)


 心臓をぎゅうっと見えない手で掴まれたような息苦しさが七子を襲う。

 行動に伴う結果と、その責任。

 よかれと思ってした事が、負のスパイラルを生む。

 そのことも理解した上で、人々は誰もが、自分の選択を決め、行動し、結果を背負っているのだろうか。

 凄く、怖いことだ。 

 みんな、その怖さと直面しているのに、自分は――と七子は唇を噛んだ。

 どれも嫌、怖い、止めて、と怯えて立ち竦んでいる。

 あの《黒い本》に罵られるはずだ。


(ちゃん、と。考え、なくっちゃ)


 七子の行動の結果が、どんな風に作用するのか、《怒れる星傭兵団》の団長キャサリンや副団長のグレンの言葉で、容易に想像が出来た。

 人は、認めがたい事実を前にした時、二つの行動を取る。

 一つは、認める。

 一つは、認めない。

 当たり前の話だが、そのどちらかだ。

 後者の場合、無視するか、見なかったことにするか。

 あるいは、事実そのものを潰してしまうか。

  

(何とか、しないと)


 責任を取らなくちゃ、と七子は胸の塞がる思いだった。

 のろのろと会話を追うと、スキンヘッドに、黒々としたモミアゲはピンと跳ねている大きな男性は、身体をくねらせて、


「仲良くしましょうよ」


 と言った。

 七子は身体が硬直して、何をどう言ったらいいのか分からなかった。

 それに、と彼女は爪先に視線を落とす。

 自分は蚊帳の外だと感じていた。

 いつだって、七子が話の中心になることは考えられない。

 話の輪の中にだって上手に入れない。

 複数人寄ると必ずはじき出されてしまう。

 身の置き所がなくて、小さくなるだけが七子の唯一の防御の盾だ。

 だから、先ほどからキャサリンは七子を見ていなくて、エリアスに話している。

 エリアスは大人だから当たり前かもしれない。

 大人の会話に子供が賢しげに口を出すのは、あんまりよくないと七子にも分かる。

 だけど、私――と七子は外套を両手で胸元に引き寄せた。

 ちりちりと胸の奥で何かが音を立てている。

 不安げに七子が頭を巡らせると、エリアスと目が合った。

 エリアスは七子を見ていた。

 彼自身が生まれ持った色ではない、赤い瞳が、七子を突き刺すように見ている。

 それほど長い時間ではない。

 一瞬と言っても良かっただろう。

 かちり、と何かのピースが七子の中に嵌った。

 七子は理解したのだ。

 エリアスは、もう投げている。

 彼はもう自由ではない。

 最初にそう宣言して、七子だって心のどこかで認めたではないか。

 七子に、彼は選択を委ねたのだ。

 《鬼》を見た時、どうしたい、と尋ねられた。

 七子が追うと決めた。

 やりかけだから、最後までやらなくてはいけない。

 頼りなくて、弱弱しくて、どうしようもなくても。

 七子は、はっきりと、加害者しはいしゃの側だ。

 エリアスから全て奪ったのだから――

 そして、これからも限りなく奪い続ける――そんな予感に七子は寒気だった。


「あ、あの」


 声が引っ繰り返った。外套を握る手の内側に嫌な汗をかいている。ずるり、と今にも滑りそうで、必死に握り直す。

 は? とあからさまにキャサリンは額に皺を寄せた。話の腰を折られた形なのだから当然だ。腰骨に手を当てたまま、辺りを払う威圧感で胸を反らし、


「何かしら、魔神のお嬢さん?」


 値踏みするような目で七子を見た。

 この人、見抜いている、と七子は思う。

 相手を良く見ている。

 未知の力を持った魔神に対し、一見愚考とも思える態度だが、七子相手には正解だろう。

 七子は、優花やキャサリンのようなスターダムな人々に、憧れと劣等感を持っている。

 彼らを前にすると緊張し、気圧されてしまう。

 萎縮してしまうのだ。

 キャサリンは面白そうにエリアスの方を一瞥したが、すぐに七子に視線を戻した。


「黙ってちゃ、分からないわよお?」

「あ、あの。も、目的は、何ですか」


 舌を噛みそうになって、七子は泣きたくなった。

 でも、駄目だ。

 下がったら、下がった分だけ、前に出られる。

 つけ込まれてしまう。

 隙を見せちゃいけない、と頭で分かっているのに、七子の指はぶるぶる震え、声もかすれている。

 言いたいことの十分の一も言えない。

 だから、《あの時》だって、何も言えずに、泣きそうになりながら自作の創作絵本をクラスメイトから回収した。「返してください」と蚊の鳴くような声でお願いし、時々「はあ? 聞こえないけど、何?」と言われて再度台詞を繰り返すしかなかった。がくがくと脚が震えて来て、七子は本当にあの時消えてしまいたかった。

 七子は、もう一度エリアスを振り返ろうとした。彼にバトンタッチしたかった。

 自分じゃ駄目だ。

 余計なことをしてしまった。

 後悔が怒涛のように押し寄せ、何もしなければ良かったと思う。


(エリアスさん)

 

 助けて、と振り返りそうになり、でも、思いとどまった。

 

(顔、見られないよ)


 こんなのじゃ、見られないよ、と七子は熱い塊を飲み下す。

 どの面下げて、といった思いがあった。

 そして、恥ずかしい自分でいたくないと、もう一人の七子が声を上げている。

 ゆっくりと唾を飲み下した。

 

(必要以上に、怖がらない)


 暗示のようなものだ。

 相手を巨大に見過ぎない。

 でも侮らない。

 七子は顔を上げた。

 エリアスがいる。子だぬきもいる。死者たちがかけてくれた優しさは、全部が全部魔法じゃないはずだ。一人じゃない。

 震えは少し止まっていた。


「あの、腹を割って、お話したいです。どうして、安全なところから、わざわざ出てきたんですか?」


 キャサリンの笑みが深まった。


「あら、どういう意味かしら?」


 七子は、外套から手を出し、そっと森の奥深くを指差した。冷気を孕む森は、真っ直ぐな針葉樹林を、灰色の曇天に突き刺している。

 キャサリンたちが、当初樹上からこちらを監視していたことを、七子は察していた。

 

「え、えっと、安全か、分からないけれど、あそこの木……距離があったのに……キャ、キャサリンさん、は。得が、あると、思ったんです、よ、ね? でも、リスクが、見合っていないと思うから。だから、命をかけてもいい、大きな目的が、あるんですよね?」


 ぺらりとした笑みが剥がれ落ち、キャサリンはほんの一瞬素のような表情を見せた。

 口元に人指し指を当て、「うーん」とうなると、


「予定変更しようかしら? 言っておくけれど、アタシ、愚図は嫌いよ!」


 ひっ、と七子は思わず仰け反る。それでも、どうにかその場に留まった。


「オツムの弱い女の子は大っ嫌いよ! でも、まあ、いいわ」


 首を左右に鳴らすと、キャサリンは、「ちょっと腰を落ち着けましょうか」と提案した。

 口を挟まずに問答を聞いていたカシギが、


「ならば、奥屋敷に案内しよう。この状態なので、あまりもてなしもできず、申し訳ないが」

「あーら、いいのよ。アタシは気にしないわ!」

「……そうか」


 カシギは流して、幾人か生き残った一族に指示をすると、「こちらへ」と一行を案内した。

 七子は、集落の様子――直接的に彼らの遺体が気にかかったが、何も言うことが出来なかった。

 自分が何か言うことができるはずもない、とすら思った。

 どうしてずっと前を見るだけでいられないのだろうと七子は気鬱になる。

 すぐに沈んでしまう自分が厭わしい。

 七子は、肩を落としてとぼとぼ歩きそうになるのを、他の人が見たらきっと気分が良くないと、力を入れて顔を上げる。

 その後を、子だぬきに足元をまとわりつかれて邪険にしつつ、エリアスが続く。

 更にその後を、グレン。

 最後尾のグレンは、頭の後ろで両手を組み、のんびりした風でついて行く。

 彼からはよく見えた。

 エリアスが、何か少女に声をかけようとして結局押し黙り、一定の距離を保って歩く姿である。

 この凸凹コンビの大きい方が、どんな仏頂面をしているやら、と笑い出さないように見物するのにグレンはかなりの苦労を強いられた。



「まあ、こんなところに屋敷があったのねえ」


 感心したように額に手を当てて見上げたのはキャサリンだ。植林されたのであろう林を抜けると、橋のような柵立ての入り口があった。

 その先は何も見えない。林が途切れた先、ぽっかりと空間が、ぬるい空の青色から白くかすんで、滲むように広がっている。咄嗟に何もないと思い、引き返したくなる。

 しかし、短い橋を渡ると、急に木造の屋敷が現れた。

 七子は「あ」と驚き、同時に違和感に囚われる。

 その概観は、まるで、東北の日本家屋のようだ。


「《マヨイガ》と言う。あるが見えない。そのようにしてあるので、案内されねば辿りつけぬ」

「便利ねえ」


 流し目でキャサリンがカシギを見やると、「門外不出だ」と彼は戸を開けた。

 一方、七子は「え?」と足を止めた。


(《マヨイガ》、って――『遠野物語』?)


 《マヨイガ》は、《迷い家》とも書く。

 民俗学の開拓者でもある柳田國男が、東北地方の民話を筆記編纂したのが『遠野物語』である。

 この著書の中に、《マヨイガ》は紹介されている。

 《マヨイガ》には様々なパターンがあるが、主な類型としては、山奥深くに迷い込んだ迷い人が、無人の立派な屋敷に辿り着く。屋敷はつい今しがたまで人がいたかのように、食事の準備がされ、囲炉裏にも火がくべてある。

 迷い人は一時休息し、屋敷から汁ものの椀などを持ち帰ると、富貴になれる。あるいは、無欲にも何も持ち帰らなかった迷い人は、後日報いて富貴になれる。

 この屋敷にもう一度訪れようとしても、二度と辿り着くことはできなかった、といった話だ。

 七子は改めて、自分が『言葉を理解している』不思議を考えた。

 自動翻訳されているとしたら、どこまでどのように? ともどかしく思う。

 便利な反面、《マヨイガ》という言葉が翻訳上の当て字なのか、固有の名詞なのか判別がつかないのだ。

 今更だが、字は読めるのだろうか、という疑問も沸いて出た。

 長居したいわけではないが、いずれ確かめねばならないだろう。

 いや、まずは先に子だぬきのことを聞かなければ。

 そう思い、七子はぎくり、と足を止めた。

 戸の入り口、石畳に字が刻んである。


 ――迷い家


 漢字であった。




17


 マヨイガ――迷い家、と刻んである。

 七子はエリアスたちの言葉が分かる。しかし、口元を見ていると、彼の言葉と七子の認識する言葉が乖離している。

 「あなた」と言っているのに、彼の唇は「あ」の母音の形に動いていない。

 このことに気づいたのは、ついさっきである。

 というより、そうなのかな、とようやく思い至ったというのが正確なところだ。

 何故なら、七子は、人の顔を見て話せなかった。

 目を合わせることができないのだ。

 彼女の視線は、口元よりも更に下、下手をすると相手の足元辺りを見ている。

 自分が相手を見なければ、相手も自分を見ていない。そんな一種の呪術的暗示だった。

 もちろん、七子が『相手を見ていないこと』を、相手は見ている。

 家族以外の他人の目を見て話せない。そんな七子への人物評価が、現実ではどんなものだったかは、言わずもがなであろう。

 しかし、この世界に来て、七子は意識して相手の顔を見ようと努めるようになり始めていた。

 間接的には、エリアスが関与しており、直接的には、キャサリンに飲まれまいとしたためだ。

 次第に七子の脳神経細胞は、パチパチと弾けるように目覚め始めた。

 朝露に濡れる野草が、緩慢に頭をもたげ、太陽に向かって花開くように、けなげに、無様に、少しずつ。

 若木は思考し始める。

 不思議な認識阻害が《文字》にも働いていれば、英語も日本語と読めてしまうかもしれない。

 咄嗟に七子はしゃがみ込んで、石畳の字を指でなぞった。溝だ。

 彫りこまれているその形を、点字を確かめるように辿る。

 間違いない。漢字と平仮名だ。《しんにょう》と《米》の形の掘り込みを、七子の指先はゆっくりと書き順どおりに確かめて行く。次は、平仮名の《い》。《うかんむり》。

 やっぱり――と七子は思い、はたと自分に視線が集中しているのに気づいた。

 いきなり人様の家の前で、しゃがみ込んで、石畳の文字をなぞる――変な人そのものだ。

 我にかえって固まってしまった七子の隣に、カシギが片方の膝をついて手元を覗き込んだ。


「何か、気にかかられるか?」


 奇行については無視してくれたカシギに、心遣いよりも、少しだけ緊迫した空気を七子は感じた。


「あ、あの。これ」


 遠慮がちに、石畳の字を指差す。カシギの目がそれを追う。朱色の飾り紐が彼の方を滑り落ちた。七子はもごもごと尋ねた。


「あ、の。これ、読めますか?」


 もっと的確に問いたい。だが、言葉にならない。

 うまく思ったことを伝えられない。

 もどかしい。

 カシギは面を上げ、ゆっくりと頷いた。


「神代文字だ」

「え、と」


 神代、ということは、神話の類に関係のある文字なのであろうか。

 僅かに首を傾げた七子に、カシギが補足した。


「はじまりの文字。神々の文字。古い古い文字で、正確な知識も年月とともに失われてしまった。我々は本来長寿ゆえ、こうしたことを末まで伝えていけるはずなのだが、何度も狩られ、知識も散逸してしまった」


 カシギの言葉に、興味を示したのはキャサリンとグレンで、モデル立ちしたり、腕組みしたりと思い思いの格好で、面白そうにやり取りを見守っている。エリアスは無駄口は嫌う性質なのか、特に求められない限り静観する基本姿勢を崩さない。子だぬきは彼の足元で相変わらずちょろちょろしている。最初かちんこちんに固まっていたのに、何がどう回路の通ったものか、エリアスにまとわりつくのが楽しいようだ。邪険にされてもめげない。転がされても、「何、今の何?」と戻ってくるようなざるの神経だ。

 一方カシギは、肩越しに邪よこしまな視線を感じたのか、すっと立ち上がって切り上げる雰囲気となった。

 ただし、こう付け足した。


「数が多過ぎて、全てを読めるわけではないが、多少なりとは。これは、《マヨイガ》と」


 


 



 中に案内され、「お邪魔します」と小さく断った七子は、驚きに目を見張った。不思議な家だ。

 屋敷と樹木が融合している。頭より上の辺り、廊下と平行に木の枝がうねうねと壁から生えてはもぐり込み、ところどころで桜などの花を咲かせている。

 最後に連れて行かれたのは、大きな座敷のような部屋だった。

 暗い、と思う間もなく、七子は息を呑んだ。

 黒光りする板の床が、一面に張り渡してある。

 まるで漆うるしの椀のような漆黒だ。

 板張りの床は、恐ろしいまでに磨き上げられ、濡れるように光っていた。

 その床に、開け放された庭の景色が映り込んでいる。

 一つ目は、夜の池に映る枝垂れ桜の白い色。

 二つ目は、曇天の空、夏の緑の淡い色。

 三つ目は、明るい昼、紅葉の鮮やかな炎の色。

 四つ目は、白銀に輝く雪化粧の色。

 開け放された雨戸の外、四季が黒い床に映り込んで、それぞれに幾重にも折り重なり、深みを増して滲んでいる。

 磨き上げられた鏡面のような床を媒介として、光と影が絶妙にハレーションを起こしているのだ。

 

「きれい……」


 言葉もない。七子は京都の寺院の床みどりや床もみじをを思い出した。

 

「四季の間だ」


 本物の景色ではないが、とカシギは円座に席を勧めながら説明した。


「仕組みは分からないのだが、恐らく、どこかの景色とつなげてあるのだろう」


 遠慮なく、さっさと腰を下したキャサリンが口を開いた。


「案内されねば見つからないと言っていたけれど、ここに逃げ込めばよかったんじゃない?」


 カシギは最後に胡坐を掻く姿勢で座り、苦笑いした。


「言っただろう。知識も技も失われつつあると。この屋敷は容量が小さくてな、定員は一名。二人以上中に入れば、溢れてしまう」


 そう、とキャサリンはおとなしく引き下がった。

 七子はなんとなく理解した。

 コップだ。

 コップに水を注ぐ。

 ケトルで注ぐ。一人分。二人分。三人分。水は溢れてテーブルを水浸しにしてしまうだろう。

 迷い家は、定員一名ということなのだろう。

 きっと、今は、外から見て、普通に屋敷が見えてしまっているに違いない。

 

「さってと」


 芝居がかって、キャサリンが両手を叩く。


「アタシが仕切っちゃってもいいかしら? 魔神のお嬢さんが言うとおり、腹を割って話しましょ」


 七子はエリアスの横顔を見上げた。エリアスは七子を見ると僅かに顎を引いた。また、二人の間に陣取って短い足を前に出して座った子だぬきもエリアスを見上げており、七子を見ると、同じく顎を引いてみせた。本当に大人の真似をする子供のようだ。七子もそっと相好を崩して頷く。

 このチームは、頼りないながら、七子が代表リーダーだ。


「お互いの……目的を、話した方がいいと思います」


 先に明かした方が、足元を見られて不利かもしれない。 

 だが、七子はあえて先に言うこととした。


「もう、お、分かりだと、思います、けど」

 

 つっかえそうになるが、七子は膝上に握る拳に視線を落とし、一度深呼吸して、落ち着けることにした。

 キャサリンは声も身体も大きくて、怖い。

 でも、怖くない。

 威嚇されたって、全然本気じゃないのが分かる。

 悪意も、そのものが七子に向けられているわけではない。

 七子の知る悪意は、こんなあからさまなものではなくて、もっと陰性のものだ。

 七子には、そちらの方が怖い。

 影も形もなくて、立ち向かっていくこともできないような見えない怪物だからだ。

 大勢の中のひとりぼっち。

 くすくす笑われて、顔を隠して突っ伏す。

 惨めで恥ずかしくて、悲しくて。

 今は、そんな気持ちにはならない。

 だから、大丈夫だ。

 怖くない。

 七子は、真っ直ぐにキャサリンの目を見た。笑みの形に崩れる目は、七子を値踏みしていたが、少女の恐れる悪意は浮かんでいなかった。


「――キャサリンさん。私たちの目的は、まずはこの大迷宮の踏破です。一番下の階層まで潜りたい」


 そこに付随して来る七子とエリアスの目的は、少々違って来るかもしれないが、これはまず一つ、当面の行動指針である。


「まあ」


 キャサリンは隣に腰を下した形のグレンと目を合わせ、にやにやと頷きあった。再び七子に顔を向けると、


「ずいぶん大きく出たわねえ。魔にも、《格》があると言うけれど、弱者が下に潜るのは不可能よ。魔は互いに捕食すると言うわね」


 あなたは大丈夫かしら、と言外に言うものであった。七子は首を振る。彼女は思い出していた。樹木を背に、剣を正中に構えたエリアスの姿だ。その足元に血溜まりができており、彼はぼろくずのようになって、すでに限界に達していた。

 あれが、未来の七子でないとどうして言えようか。

 話を聞く限り、下層に至れば、もっと条件は過酷になると少女は推察していた。


「だけど、キャサリンさんは言いましたよね。協力し合えるかもしれないと」

「そう、言ったわねえ」

「私も、そう感じています」


 発言した七子の背筋は、不思議と真っ直ぐに伸びていた。


「人と、協力すれば、もっとリスクを下げて、下層に潜行できると考えています。協力し合うことで、他に、障害が、出てくるかもしれないけれど、そこは、お互いに話し合えばいい、と思います」


 七子は、自分でもびっくりするくらい、すらすらと思いを言葉にすることが出来た。

 そうして、七子はカシギを見た。彼の両肩に背負われたものを、透かし見るようにした。


「カシギさ、ん。たちも。彼らの一族も、一緒に協力し合えるはずです。その過程で、教会が、彼らに手出しできないように、そうしたいんです」


 カシギたちの了承も得ずに、告げてしまったことで七子は心臓が痛くなったが、こぼれたミルクは元に戻らない。

 あとはどうなるか。

 キャサリンは、ほんの一瞬真顔になる。


「あなた。どうしてアタシにそれを言うのかしら」


 七子は、今度こそきょとんとした。


「え、だって。キャサリンさん、どこかの国の偉い人ですよね?」


 たっぷり十秒、いや二十秒は沈黙が流れる。

 キャサリンの横で、グレンが床に沈んで、痙攣しながら拳を打ち付けていた。

 笑い転げている。


「グレン。ぶっ挿すぞ、ゴラァ」


 地を這う低音で脅しつけたキャサリンに、グレンは腹を押さえたまま起き上がった。指の腹で目元を拭っている。


「ちょ。ちょっと、キタわ。何、この斜め上展開」


 ひぃ、ひぃ、と息が苦しそうだ。

 七子は、他人事ながら、グレンのことが心配になった。

 ここで、初めてエリアスが重い口を開いた。


「あながち間違いでもないだろう。ティフか、あるいは青の枢機卿辺りの子飼いの間者ではないのか」


 あらまあ、とキャサリンは五指を開いて口元を押さえた。


「いやねえ、どうしてそう思ったのかしら?」

「肝が据わり過ぎている。命と使命の軽重を問われて、前者が軽く、後者が重い。つまり、傭兵ではない。軍属の者の考え方だ。国家あるいは階級組織に帰属する者だろう。暗器を隠し持っており、取り扱いに長けている。今回の襲撃者とはつながっていない。我々との接触は、事前に察知することは不可能だっただろう。つまり、監視行為は、襲撃者達と潜在的に敵対しているためだ。わざわざ自分が国教会であると言ったのは、ティフ出身であると伝えるためか、逆の目的ゆえ。性格も作られたものだ。それを何度かこちらに訴えて来た」


 一息で言う。

 

「探し物は見つかったのではないか」


 エリアスは射るような目でキャサリンを見た。


「ああんっ、凄く熱い目! きたわ! すっごく今きてるわ!」


 胸を押さえて、キャサリンはひとしきり悶えると、ぴ、と指を立てた。


「そうよ。アタシの探し物は、《死霊の騎士》よ」


 グレンが、「あー、言っちまったよ」と頭を掻く。キャサリンはすました顔で続けた。


「言ったでしょ、あなた、とってもスターダムだってね。直接、あなたから話を聞きたかったのよ。場合によって、地上に来てもらえないかしら? お偉い方々が、あなたの話を聞きたがってるの。ザール崩し。一体何があったの? 真相を当事者の口から教えてもらいたいのよ」

「聞いてなんとする」

「それは上の方の考えることね。と言いたいところだけれど、それじゃ納得しないわよね。あなたたち、魔神とその眷属だから、人に言いふらすなってお願いするのもなんだけれど、ゲテナ統一帝国が不穏な動きをしているのよねえ。つまり、大迷宮の維持・資源発掘よ。永住目指して殖民じゃんじゃん送ってるのよ、信じられる? 攻略拠点じゃなくて、移民なのよ、移民!」


 いわば大迷宮はフロンティアであろう。

 七子は以前、メリットよりデメリットが大きい、という話を少しエリアスに聞いたことがあるが、具体的に何が問題なのか? 

 疑問符を飛ばす七子を一瞥し、キャサリンは肩を竦めた。


「正気じゃないわ。大迷宮からは瘴気が出ているの。これは、地上に出ると一気に毒素化するわ。高貴な方々は、これを抑えたり、中和することもできるけれど、永遠にってわけじゃないわ。瘴気を抑えつつ、攻略、これがセオリーよ。階層突破しつつ、地上との連絡である転送門を設置して、これを守るための攻略拠点を築き、守る」


 エリアスは無言で頷く。

 特に訂正はないようだ。


「だけど、帝国は一人で別の方向に行っちゃってるのよねえ。瘴気を永続的に抑えるために、色々やらかしちゃってくれているみたいよ。そうね、かなり非人道的なことよ。アタシの上司は、その派閥とは敵対派なの。人はね、欲望のためにならなんだってやるわよ。でも、欲にまみれたアタシたちのご先祖様が、結局欲望をブラッシュアップした結果、大迷宮の休眠期移行を選択し続けて来た、その意味を考えなくちゃいけないわ。アタシたちの手に負えるものじゃないのよ」


 キャサリンは言った。


「《警告する人々》という妖精をご存知? 王や騎士、英雄に助言する存在というのは歴史上にも結構散見されるものよ。目も潰れるほどに美しい神のような存在だったり、吐き気を催すほど醜かったり、色々ね。あなたには酷かもしれないけれど、後者になって欲しいのよ」


 七子は意図を汲んで、はっとエリアスを見た。彼は横顔を晒している。


「歴史に登場して来た《警告する人々》は、もしかすると、みんな、あなたのような存在だったのかもしれないわね」

 

 気の毒そうというより、どこか悲しげなそれを含む声音で、キャサリンは告げたのだった。












 

 





 




 

 



 《西方の風騎士団》の新人、ロン・バーは、陸に打ち上げられた魚が跳ね上がるように、びくっと目を覚ました。

 びっしょりと汗で背中を濡らしている。

 全力疾走した後のように、彼は呼吸を荒げていた。

 粗末な寝台の上だ。薄暗く、人のけはいが薄い。

 高い位置にある明り取りの窓から、息も絶え絶えの日差しが零れ落ち、舞い上がる埃をきらきらと煌かせている。

 時間はゆっくりとしていた。

 ロンは、麻布のシーツを血が滲まんばかりに握り締め、虚空に絶叫しそうになった。

 彼の脳裏を、亡国ザールの騎士と、魔神の少女の姿がめまぐるしく過ぎる。

 何故、と彼は奥歯を砕けんばかりに食いしばった。

 ぎりり、と悲鳴を上げるように歯の隙間から耳障りな音がする。

 何故、どうして、こんな不公平なことが許されるのだろうか。

 どうして、父も母も、幼馴染の少女も、村人も、何の罪も犯していないのに、無残に殺されねばならなかった。

 どうして、あの亡国の騎士は恥知らずにも魔神の少女に仕え、あの弱そうな見かけの魔神は、いとも容易く復讐者であるロンを退けられたのか。

 力だ。

 圧倒的力だ。 

 それがない。

 それが圧倒的に足りない!!

 復讐は正当な権利だ。

 果たされるべき大儀だ。

 果たされずにおくべきか。

 そんなことは許されない。

 許すわけがない。

 

「――す」


 血の雫が唇の端から一筋垂れ落ちる。

 がきり、と嫌な音がした。

 何かが砕ける。

 ロンは目の前の壁を見据えたまま、ぶつぶつと呟き続ける。


「殺す。殺す。殺す殺す殺す殺すころすころすころすころす」


 その目は次第に危険な光を帯びて、思いつめた少年の心をぐちゃぐちゃな線で真っ黒に塗り潰して行く。

 ロンという少年は、一度ばらばらに紐解かれて、今また奇妙に震え続ける線の塊になりつつあった。

 最初真っ白であった彼の心は、憎悪のままに黒いクレヨンで心象風景を描く。

 黒く。

 黒く黒く黒く。

 クレヨンは折れる。

 短くなったクレヨンで、爪の先ほどにちびても、塗り続ける。

 欠片が飛び散り、やがて指をすり潰して血で描く。

 彼は憎悪。

 憎悪の塊になる。

 許さない。

 こんなことは許さない。

 こんな理不尽は許さない。

 許せない。

 そんな彼の手を、そっと両手で押し包む者があった。

 ロンは顔を上げる。

 《西方の風騎士団》の団長、オルガ・ミューレンだった。


「少年よ、思いつめるな」

「――オルガさん」


 吐き出した息は熱かった。喉も焼けよ、とばかりに憎しみが彼を内側から焼く。怒りが爆発しそうに膨れ上がる。


「自分の無力が許せぬか。仇を討てぬ自分が許せぬか」


 ロンは首を縦に振った。

 何度も何度も振った。


「すまない。君の覚悟を見くびっていたな。詫びを入れよう」


 オルガの肩を、プラチナブロンドがさらさらと撫でて、ロンは一瞬甘い匂いに頭が痺れた。女の人だ。ずぐり、と突き上げたのは、覚えのある感覚で、彼は唇を噛んだ。少し頭が冷えて、オルガの背後に立つ人物に気づく。禿頭とくとうの聖職者である。


「コジモ司祭様」


 戦闘時とは違う穏やかながら、どこか悲哀をも漂わせた表情のコジモ司祭が後ろ手に指を組み、オルガの背後に佇んでいた。


「預言が下った」


 その言葉に、オルガがロンの手をぎゅっと握り締め、下から少年の顔を覗き込んだ。


「皇帝の下に異界より神子が降り立った。教会は彼女を神子として認定した。同時に英雄も立つはずだ。君にはその資格があるそうだ。もし君がその資格を試すというならば、私は助力を惜しまないつもりだ。しかし、君次第だ」


 どうする? と問われ、ロンは質問に質問で返した。


「力を、手に入れられますか」


 オルガは静かに、だが力強く頷き、肯定した。





―5 → ―1


 

 葬儀・告別式の会場である。

 


 椅子に座ったまま、篠原瞳子しのはらとうこは呆然としていた。

 彼女の姿は、和装だった。

 黒無地に染抜きの五つ紋付き、黒の丸帯――施主側の正式礼装だ。

 白い足袋に、黒い草履を履き、爪先を揃えて、祭壇向かって右手の席次に座っている。

 遺族側である。

 控えめに薄く刷いた口紅は、血の気を失って、紙のように真っ白となった血色の悪さを全く隠せずにいた。

 喪主や遺族は、弔問客への対応――出迎えや見送りはしないものだ。ただし、声をかけられると、「ご丁寧に、ありがとうございます」と瞳子は機械的に頭を下げた。何度も何度も、頭を下げた。

 耳がぼわんぼわんと鳴っていて、何を言われてもどこか何重もの布越しに聞こえてくるようで、何もかも現実味がなかった。

 夫の忍と、娘の七子が通学していた中学校へ出向いたところまでは覚えている。 

 その後の記憶が曖昧だ。

 瞳子の中では、時間系列が支離滅裂となっていた。

 

 ――の林道で、――山中の制服の――死体遺棄――警察から生徒の確認の電話が――


 ――家出人届が提出されて――該当の篠原七子――


 ――優花ではないんですね!?


 ――お前、止めなさい。


 ――あの……嘘、ですよね。


 ――遺体は、生前――の跡が――


 ――そんな。


 ――自殺や他殺の場合は、検視が必要となりますので――


 ――司法解剖――

 

 ――止めてください。娘の身体をこれ以上――

 

 ――心中、お察しいたします。


 ――犯罪による死亡の疑い――遺族の同意は不要――解剖の拒否は認められないことになっとりまして――


 ――ご遺族の感情は――


 ――瞳子さん――司法解剖ということは、捜査していただけるということなんですね。お願いします、犯人を必ず捕まえてください。


 ――七子に――した奴を――してやりたい――


 殺してやる。

 

「このたびは、ご愁傷様です」


 少し小さめのトーンで声をかけられ、瞳子はのろのろと回らない頭で、黙礼した。よほど親しくなければ、声かけなどしないものだ。この人は誰だっただろう――と疑問が泡沫のようにふと浮かんだが、すぐにそれはぱちんと消える。

 目の前の人物よりも、娘と同じ年頃の子供たちの方が、瞳子には現実のものとして認識できた。

 何かの手違いとしか思えない光景の中、奇妙に彼らの姿が浮き上がって視界に入ってくる。

 特にセーラー服姿の女子生徒たちは、瞳子にとって、胸を突かれるものがあった。

 もはや、娘の七子が制服の袖に手を通すことはないのだ。

 制服姿の子供たちは、山岡中学校の生徒だった。

 学校側の指導によるもので、葬儀・告別式にクラスメイト全員が参列してくれていた。

 瞳子は、七子のお友達は――と視線を彷徨わせた。

 いない。

 おうちに連れてきてくれたのに、と残念に思う。


「あなた」


 優花さんは来てくれないのかしら、と瞳子はぼそぼそと呟いた。

 七子が唯一、自宅に連れてきてくれたのに。

 ふとそこで思い出す。

 先ほど声をかけてくれたのは、優花の父ではなかったか。

 ああ、そうか、と瞳子は、すとん、と腑に落ちた。

 その瞳子の手を、夫の忍が手のひらを重ね、強く握った。

 瞳子は思う。

 七子は帰ってきた。

 でも、優花さんは行方不明のままだ。

 それじゃあ、仕方ないわね、と瞳子は思った。


「――このたびは、お悔やみ申し上げます」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

 

 瞳子は再び頭を下げた。

 やはり、何の現実味もなかった。

 




 



 優花の兄、瑞樹有みずきゆうは、妹に代わって参列していた。

 無宗教ということで、焼香ではなく、献花である。

 妹は行方不明のままだ。

 遺族に一礼をし、葬儀社のスタッフであろうか、スーツの男性から花を受け取って、茎の方を左手に、花の方を右手に捧げ持つ。

 妹と同い年の少女の遺影は、どこか遠慮がちに笑んでいる。

 遺影に一礼し、献花台に花を置いた。

 再び一礼すると、黙祷する。

 遺族側に頭を下げ、席に戻りすがら、有の心は乱れていた。

 その後、挨拶や出棺が終わると、一般会葬者は散会することになる。両親は、その足で再び警察に行くと言っていた。タクシーで自宅にすぐ帰宅するように言われたが、有はおざなりに頷いて、重い足取りで会場を出る。一人で家に篭もっても、気分が重くなるばかりだ。

 両親が何を懸念しているのかは、自分でも分かっていたが、理性と感情はうまく折り合いをつけがたいものだ。

 有は参列者の後を追う形で道を歩き出し――そこで、信じられないような台詞を耳にした。


「マジ、だっりいな」


 はっと面を上げると、山岡中学の生徒の集団だ。篠原七子のクラスメイトであろう。

 会場を出た開放感からか、本人らは声を低めにしているつもりのようだが、少し後ろを歩く有にはよく聞こえた。彼らは固まって歩きながら話している。有は少し躊躇ったが、もう少し距離をつめることとした。

 会話は、はっきりと内容を聞き取れた。


「強制参加めんどくせーよ。義務終了したし、帰り、カラオケ行く奴ー」

「馬鹿、お前不謹慎」

「女子泣いてたけど、篠原の友達っていたっけ?」

「いねーだろ」

「だよな」

「雰囲気だろ、雰囲気」

「女子すげーな。雰囲気で泣けるのか」

「かわいそーってマジ泣きしてたぞ」

「どーでもいいって。なあ、マジと思う? マジ犯られちゃったと思う?」

「篠原じゃしょうがないよなあ」

「本当に他殺? 自殺の間違いじゃね?」

「だけどさ、まずいんじゃね? あれ、トイレのやつが……」

「止めろって、黙っとけよ。お前言ったらぼこるぞ」

「うおっ、マジなんなよ」

「変態に殺されたんだろ、俺ら関係ねーよ」

「そうそう」

「んで、誰か知ってる奴ー? 篠原、林に全裸?」

「ちげーって、制服着てたらしいぞ」

「それで学校通報だろ?」

「変態の仕業です」

「そうそう。俺ら、からかっただけだし。篠原も嫌がってなかったし」

「だよなー」


 どっとここで小さな笑いがわいた。

 何故か、有の背筋を、おぞましいものを見たような、冷や汗が流れた。

 男子中学生たちは、見た目には普通の少年たちだった。

 こぎれいにしていて、皺のない制服で、育ちも良さそうだ。

 しかし、彼らは自分たちが何を話しているのか、分かっているのだろうか?


(篠原七子は、同級生から『性的』な嫌がらせを受けていたのか?)


 話の端々から推察するだけで、そんな邪推をしてしまう自分に、有は気分が悪くなった。

 篠原七子はおとなしい性格だったと聞く。

 この場合、その性格は、どう考えてもいいように作用したとは思えない。

 

(分からないけど、どっちにせよ、葬儀・告別式の後で、言うようなことじゃない)

 

 故人と面識のない自分でも不愉快になる。

 注意してやろうか、と頭の端を義侠心がかすめたが、有は結局夢想するだけにとどめ、口をつぐんだ。

 故人の告別式の後、弔問客が暴力沙汰にでも発展してみろ、遺族はどう思うだろうか。

 有は振り上げかけた拳を収めた。

 妹も同じように言われてみろ、想像するだけで憤懣やる方ない。

 胸がむかむかして、次第に牛歩となった彼の肩を、誰かが叩いた。


「有くん、お疲れ」


 振り返ると、家庭教師のK大生、礼津が、黒いスーツ姿で背後から現れ、隣に並ぶ。


「れっちゃん、参列してたのか?」

「いや、俺なんも故人と接点ないし、とりあえずスーツ着てきたんやけど、うろうろして、入れんかったわ」

「そっか」


 有は前を向いて歩きながら相槌を打った。


「有くん、あんまり引きずられんようにな」

「――れっちゃんも、聞いてたのか」

「聞こえた聞こえた。最近の子ら、恐ろしいなあ」

「自覚のないモンスターだよ」


 吐き捨てるような口調になってしまい、有は自分自身に驚いた。

 嫌な言い方だ。

 上から目線で、自分はどれほどのものかと、自己嫌悪に陥る。

 ばしん! と背中を叩かれ、むっとして顔を上げると、


「気ぃ立っても仕方ない。有くんちも大変な時やからな」


 何か言い返そうとした。

 しかし、有は「――うん」とだけ応じた。それから、意を決して尋ねた。

 

「れっちゃん、あの本、どうなってる?」

「――それがな」


 困ったような口調で、礼津は空を見上げて、頭をかいた。

 その礼津の顔が、一瞬で、消えてなくなった。


 え、と有は硬直する。

 

 首から上が消滅したのだ。

 何、と思うか思わないかの内、有自身もまた、視界を黒と赤の二色に覆われた。

 まるで大きな見えない口に《捕食》されたかのように。









「――ッ!?」


 瑞樹有の家庭教師、K大学生の木島礼津きじまれつは、跳ね起きた。

 ここはどこだ。有は?

 見慣れた光景――部屋の様子に、礼津は状況を認識できず、


「俺のうち?」


 何で? と額を押さえた。

 ラグの上で、気絶するように寝ていたらしい。

 何が起こったのか、頭の整理が追いつかず、路上ではなく、自宅アパートの一室にいる自分に混乱した。

 篠原七子の葬儀・告別式が執り行われ、礼津は会場に入ることもできずに、出てきた有を追ったはずだった。

 四方は本棚、床にも本が積み上げてあり、机の上にはカップうどんの容器が置いてある。

 白昼夢であろうか。 

 枕元に置いているデジタル時計を引き寄せて、大きなアラビア数字が、


 ――12:05


 と点滅しているのを確認する。

 おかしい。

 一度家に帰って、寝過ごしたのか。

 更にその下に点滅している日付に礼津は無言となった。

 日付がおかしい。

 過去の日付だ。

 礼津は、充電中の携帯を拾って、ホームボタンを押した。


 ――12:06


 一分先に進んだ。

 日付は――おかしかった。

 デジタル時計と同じ日付である。


「一緒に壊れたか?」


 何か操作を間違えて、同じように日付設定してしまったかもしれない。

 今度は、本の下に潜り込んでいたリモコンを引っこ抜いて、テレビを点けた。昼ドラで、三角か四角関係らしい男女が壮絶な愛憎劇を繰り広げているようだが、それより日付確認だ。

 礼津は唖然とする。

 

「おい」


 日付は――同じ日を指していた。


 つまり、篠原七子が行方不明になった日でもある。

 礼津は、唾を飲み込んだ。

 時間遡行、などという奇妙奇天烈な言葉が脳裏に浮かぶ。

 

(いやいや、ありえんし)


 そう自分自身に言い聞かせた時だ。


 ガンッ


 とドアが激しく叩かれた。

 ひぃっ、と飛び上がった礼津は、ずりずり尻もちをついたまま下がったが、いや待てよと思い直した。

 ガンガンと激しく苛立たしげに殴打されるドアに、このようなことをする人物が一人だけ心当たりがあった。

 

「おいっ、いつまで客を待たせる気だ、開けろ!」


 やはりそうであった。

 従兄弟の滝彦だ。

 礼津は血の気が引いた数秒前の自分に嘆息し、膝に手をつくと立ち上がった。


「苛々すんなよ。今開けるし、近所迷惑や」


 ドアを開錠すると同時、鋭い目つきの真っ黒な髪をした滝彦が足を差し入れ、


「どんだけ寝ぼけりゃ気が済むんだ。電話くらい出ろ」

 

 大きな図体で、遠慮もなしにずかずかと入り込んでくる。一度こちらがヘルプミーと連絡した際の対応を思うに、この態度はどうであろうかと思わなくもなかったが、礼津は適当に流すこととした。

 

「あー、電話。電話な。入ってたんか? そらすまんな。さっき起きたばかりで、その上タイムスリップしたばっかりや」


 半ば冗談で言ったのだが、滝彦は、どっかりと床に座ると、切れ上がった眦で、視線を鋭くした。


「夢じゃない。篠原七子が死亡したんだろう?」


 お前のいた世界で、と淡々と口にした。

 

 

 


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