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さん





10


 七子達が集落に辿り着く前。

 六体の《鬼》を目撃した直後のことだ。

 七子に、エリアスは問うた。

 どうするのかと、彼は少女に委ねたのだ。

 七子は、追う、と決めた。

 しかし、すぐに、


(どうやって?)


 と彼女は困った。

 しかし、エリアスは「できるでしょう」と請け負った。


「少し、貴方の体力を確認した方がよいと思います。いい機会だ。走りましょう」

 

 簡単に言う彼に、七子の胃は、重い石を落とされたように痛んだ。

 七子は運動が苦手だ。

 体力測定の持久送では、いつも顔を真っ赤にして最後尾、周回遅れでトラックを走る羽目になる。

 先にゴールしたクラスメイトたちはのんびりおしゃべりをし、時に七子が走る姿を見て、くすくすと耳打ちしあっていた。

 七子は恥ずかしかった。

 余計に血が上り、泣きそうになりながらゴールすると、もう次の準備が始まっていて、七子は自分ののろまに絶望したものだ。

 運動は苦手なんです、と自己申告すべきか悩ましい場面だが、エリアスの表情を見るとそれを言い出せる雰囲気ではない。

 できて当たり前――そういったことが七子にはできない。

 人の期待を裏切ることが恐ろしい。

 

(だけど)


 やらなくちゃ、と七子は迷いを振り払った。

 

(追うって決めたんだもの。駄目なら、途中から歩けばいい。やる前から諦めたら、もっとエリアスさんに嫌われてしまう)


 エリアスに嫌われるのが怖いから。

 エリアスにこんなこともできないのかと嘆息されるのが怖いから。

 後ろ向きな理由だが、それだけではない。

 突然、一人きりでこの異世界に放り込まれ、両親の庇護を離れて、決して心からの味方ではない存在と行動をともにしている。

 彼は不本意で付き合っているかもしれないが、七子は彼――エリアスに嫌われたくない、と思った。

 彼に恥ずかしい自分を見せたくないと思った。

 いいところを見せたいのではない。

 諦めたり、駄目だと思い込んだり、何もしない自分を彼の前に晒したくない。

 そう思ったのだ。

 やろうと決めたから、やるんだ。

 前向きな気持ちが僅かに後押ししている。

 何かを決めること。

 選択すること。

 実行すること。

 その責任を取ること。

 どれも七子が尻込みしてやってこなかったことだ。

 

「分かりました。走りましょう」


 七子は頷いた。エリアスもまた僅かに頷き、口を開く。


「私が先行します。徐々に速度を上げます。ついて来られなくなったら呼んでください」

「――はい」

「ぼくは?」


 三番手に上がった子供の声に、七子は気持ちつまづいた。

 たぬきの子供が、七子を真っ黒な瞳で見上げている。彼は円らな瞳で、短い前足を七子に向かって伸ばしてみせた。多分、スカートの裾を、つかもうとしているらしい。届かなくて、爪先立ちになっている。届かないと気づいたのか、残念そうに前足を下ろし、首を傾げた。


「ぼくは?」


 もう一度子だぬきは聞いた。七子は胸を抑えた。苦しい。息がとても苦しい。エリアスはそんな一人と一匹を底の知れない目で無表情に見つめている。

 顔の半分が溶解している彼だが、両眼とも艶を消したような色合いで光がない。

 成人男性の彼には、理解不能の領域であったのだ。

 この男、王国に仕えていた当時から、難事にぶつかると無表情で糊塗する癖があった。

 親しくない女性からはとっつきにくい、怖いなどと倦厭されもした。

 彼は静かに嘆息し、子だぬきの首根っこを押さえ、荷物のように持ち上げた。

 たぬきの尻尾は、ぶらん、ぶらん、と揺れている。

 尻尾は揺れているが、本人は固まっていた。無表情なエリアスが、凍りつく子だぬきをぶら下げている姿は相当にシュールである。


「――私が、連れて行きます」


 それでよろしいですか、と質問を差し向けられ、七子は「え、あの」としどろもどろになったが、子だぬき本人に聞くことにした。


「あの、一緒に行く?」

「ぼく、いく」


 かちんこちんに固まって、それでも子だぬきはすぐに返事する。

 ずいぶん簡単に了承するが、七子は逆に躊躇った。


「あ、でもお母さん、近くで探しているかも」


 ここに置いて行った方がよいかもしれないと語尾が弱くなる。


「いえ、置いて行けば死ぬと思いますが、それでよろしければ置いて行きます」


 エリアスに遮られ、七子は前言撤回した。


「――連れて行ってあげてください」


 ためらいはそれで吹き飛んだ。

 いいとか、悪いとかじゃない、と少女は思う。

 野生動物の保護については、人間が生態系に介入すべきではない等、色々議論があるところだろう。しかし、この人語を喋る子だぬきは、人と同じように扱ってもいいだろうと考えたのだ。

 つまり、迷子は保護して、母親の下に連れて行く。

 本来迷子を見つけた時の対処法としては、下手であろう。連れ去り犯とされてしまうケースである。七子の住む現実の世界であったなら、子供の身体には触れず、店員や警備員を呼んでくればよかった。しかし、ここは違う。

 生と死が、あまりにも近い。

 この子だぬきが、人間の幼児だとしたら、七子は絶対にここに置き去りにできなかっただろう。

 いや、七子は、自分自身をこの子だぬきに重ね合わせていた。

 もし、一人で放り出されたら、彼女は耐えられない。

 この子を置き去りにするということは、七子もまた未来に置き去りにされる暗示であると、無意識に少女は怯え、懸念を取り払おうとしたのだ。


(それに……この子のお母さん、本当に……)


 生きているのかしら、と七子は考えることさえ恐ろしくなった。

 とりあえず、七子はエリアスと相談した。先ほどの《鬼》 に騎乗した彼らがこの階層に詳しいであろうから、追いついて聞いてみようと結論する。このような人語を解する種族は、獣人の一種であろうとエリアスは言う。分布については、やはり現地の人に尋ねるのが一番早い。

 決めると、七子はすっきりした。


「脇は締めて走ってください。腕と脚を同時に動かして。そう、行きます」


 簡単に助言すると、エリアスはあっさりと七子に背を向けて走り出した。

 七子もあとを追う。

 そして彼女は自身の異常にはっきりと気づく。気づかされる。

 ローファーなのに、まるで快適なランニングシューズを履いているかのようだ。

 靴底が大地に接吻する。

 爪先が黒土を蹴る。

 弾む。

 助言通り、脇を閉め、走る方向と平行に腕を振り下ろす。

 体が軽い。

 まったく疲れない。

 それどころか、もっと早く。もっと高く。飛べるはずだ。

 木々にぶつかることもない。

 差し招く針葉樹林が、まるで先導するエリアスと七子のために道を開けて行くかのようだ。

 暗い森が、いやに明るく見える。

 いいや、その目は流れる光景を静止するコマとして捉えている。

 凄い、と七子は思わなかった。

 怖い、と少女は思ったのだ。

 

(何の、代償もなしに)


 こんな力が手に入るはずがないと、七子は怯えた。

 走る。

 弾む。

 跳躍する。

 木々は道を開ける。

 七子は感じた。

 疾走する七子に、何かが併走している。

 見えない何か。

 黒い影だ。

 大きな影だ。

 走る七子の首筋に冷たい汗が流れた。


(でも、悪いものじゃ、ない)


 しっ、しっ、しっ、と音がする。

 ひゅん、と何か弦を弾く音。

 

(あっ)


 七子は気がついた。

 さっき見た《鬼》だ。

 《鬼》たちが、七子に併走している。

 一匹じゃない、左右に、背後に、そして先頭に!

 その背には、青年が乗っている。

 老人が騎乗している。

 年配の女性もいる。

 壮年の男性もいた。

 彼らは、透明な影のように実体がない。

 

(――死んでいる)


 七子はぞっとした。彼らもまた、死者だ。死者は何も語らず、七子の傍を走って行く。

 まるで、道案内するように。

 七子の横を走る《鬼》に乗った青年が、こちらを見た。澄んだ眼差しだ。怒りに満ちて、我を失っている目ではない。ただ、悲しげに、そして強い意志に満ちた瞳。

 似ている、と七子は感じた。

 さきほど見た少年に、よく似ている。他にも、よく似た面差しの青年たちが、もう二人《鬼》 に騎乗している。彼らは、時に枝に飛び移り、ざざん、と揺らしてまた次の枝へ飛ぶ。

 あたかも、大木が突風に吹かれたかのように見えただろう。

 しかし違う。死者が揺らしたのだ。

 併走する青年は顎を引いて、頷いた。

 死者は語らない。

 しかし、七子には、理解できた。


(呼んだのは、彼らだ――)


 彼らが、七子を呼んだのだ。

 予感は、彼らの声なき声によるものだった。

 青年は再び前を向く。

 七子も、もう迷わなかった。



 途中で、異変に気がついたエリアスが、「この先で戦闘が起きています」と足を止めた。

 彼は咄嗟に押し黙り、やがて折り合いをつけたのか、尋ねた。


「――どうしますか」


 エリアスは、七子に選択を委ねる。

 彼が従であるからだ。

 七子はエリアスの態度に、一枚の透明な壁を感じる。俯いてしまいたかったが、少女はそうしなかった。


「……い、行きます」


 なぜ、と自分でも思う。

 怖いことが起こると彼女には分かっている。

 少女を取り囲んだ死者たちが、無言でじっと少女を見つめる重圧に負けたのではない。


(だって、私、行かなくちゃいけないの)


 彼女は感じていた。

 呼ばれている。

 誰かが彼女を呼んでいる。

 もう、こんなに声が大きい。





 ――お願い。


 ――タスケテ


 ――コウメ、イタクナイ。


 ――カシギ、タスケテ。


 ――兄さまを、助けて。


 ――私の命はいらない。


 ――俺の命はいらない。


 ――僕、死んでもいい。


 ――イノチ、イラナイ。


 ――全部上げる。


 ――あげるから !


 ――あたしたちを。


 ――あの人を。


 ――みんなを。


 ――助けて!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 



 それは、額に宝石を頂くネコノカ族の感応テレパスだった。

 その石は、彼らの本体でもある。石は生きている。

 石の発する最期の声だ。

 七子の面からは、すとん、と表情が抜け落ちていた。

 ゆっくりと、少女は口元を拭う。

 まるで、何かを食べたかのように。

 微笑すら湛えて、満足げに拭う。

 エリアスが、恐れるように一歩後退した。そんな自分に気づいて、エリアスは愕然とする。

 何が起こったのか。

 彼自身、検討もつかない。

 いや、そうではない。

 彼は、知っていたのだ。

 知っていて、試した。

 そうなるのではないかと、無意識の彼が、炊きつけたのではないか。

 彼は知りたかった。

 いかにして、このおどおどと臆病で吃音癖のある少女が、彼を喰らい、全てを奪って、魔となしたのか。

 己の身に何が起こったのか。

 彼は知りたかった。

 手っ取り早く、再現しようとしたのではないか?

 それとも、彼自身、魔となったために、この光景を欲したのか。

 あるいは、少女に苦しめとばかり、無意識にこの血なまぐさい場所に連れて来たのか。

 もうあの悪夢の一夜から、彼の道徳は全て憎悪に飲み込まれてしまっていたのか。

 その全てなのか。

 分からなかった。

 ただ分かるのは、今目の前にいる少女が、エリアスを『喰らい尽したもの』であるということ。

 そして、彼女は、再び『食事』をした。

 少女が正気に返った時、どれほど嘆くだろうかと彼は思った。そのことを考えると、ザール王国が壊滅して以来、感じるはずのなかった何かがかすかに悲鳴を上げた。

 ――もしかすると、正気に返らぬかもしれぬ。

 そうすれば、最も幸いかもしれないと、エリアスは退いて、自然と膝を着いていた。

 臣下の礼であった。


 僅かに俯いた七子が笑った。

 一度も染色されていない黒い髪の下、少女の柔らかに翳りを帯びていつも申し訳なさそうにしている瞳が、血の色に染まって行く。


 エリアスを、後悔という汚泥が飲みつくそうとしていた。





-2


 瑞樹有の家庭教師をしている大学生、木島礼津は、開いた本の内容に思わずうめき声を漏らした。


「……何やこれ」


 普段へらへらとしているしまりのない礼津の凍りついた表情に、教え子である有が何事かとローテーブルを移動してくる。ひょい、と彼は隣から覗き込んで、


「うわ。何だこれ。悪趣味だな」


 同意した。

 開いたページ、一面に子供の落書きのような絵があった。

 クレヨンで、ごしごしと乱暴かつみっしりと粘着質に赤色を塗り込めている。

 赤い、口腔だ。がばりとページいっぱいに開かれた口の粘膜や鋭いびっしりと並ぶ歯の迫力は、稚拙であるためにいっそう不快感をかきたてる。


「気持ち悪い」


 有は端的に感想を言った。

 物凄い筆力で描かれたような絵だ。

 異常さに、有は拒否反応を示していた。

 ページを礼津がめくろうとするのを、彼は非難するような眼で見たが、止めなかった。

 絵には、奇妙な引力がある。

 怖いものみたさにも似た好奇心であろうか。

 次、ページを開いて、再び二人は絶句する。


「いや、これはたまらん」


 礼津はお手上げとばかり吐き出した。


「子供向けの絵本みたいな絵やけど、中身グロやで。作者頭おかしんとちゃうか」


 人の悪口はめったなことじゃ言うもんじゃない、と決めている礼津であるが、頭を振って言わずにはいられなかった。


「これ……図書館、かな。女の子が、本に食べられている……」


 口元を抑えながら有が言った。


「頭から、ばっくり、やな。足しか出とらん。ん? これ、ローファーか? 足黒いな。ストッキングか? 黒か……」


 れっちゃん……と有が汚いものでも見るように礼津を見た。


「えっ、何その目。ちゃうわ。そんなんちゃうし! 何誤解してんの? 俺ちゃうよ、ちゃうからな」

「ちゃうちゃううるさいよ」


 ばっさりと切って捨て、有は手元を真剣な目で覗き込む。


「それより……なんか、この絵、どっかで見たことあるような……」

「は? そうなん?」


 有は口元に手を当てたまま考え込むと、不意に本棚の方へと向かった。本棚は人を表すというが、生真面目な彼らしく、漫画の類はほとんどない。ダークブラウンのそれには、辞書や参考書、開いたスペースに趣味のCDなどが品よくディスプレイされている。

 ちなみに、礼津の本棚は、漫画だらけだ。高校生は寮住まいだったが、生活スペースを削ってでも薄型本棚に大量の漫画と小説を収納し、密かに校内貸し本屋を営んでいたくらいである。何しろ、山奥の高校で、隔離されていた。彼らは女子と娯楽に飢えていたのだ。現在も、一人暮らしのアパート住まいの部屋に本は増え続け、床の底が抜けると両親や親戚には呆れられているくらいだ。大家が見たら、飼い犬二匹を「襲え」とけしかけるレベルで洒落にならない量となっていた。

 従兄弟に言わせると、「いつかお前は本棚が倒れてきて、圧死する」そうだ。嫌な予言である。しかし、地震が起きたら、正直やばい、と礼津自身思っている。


「……と、これだ」


 有はお目当てのものを引き出した。重厚な表紙は、暗い濃厚な赤色をしている。古風には蘇芳すおう色とでも言うべきだろうか。金色のカリグラフィで、『KIZUNA~私立山岡中学校~』と箔押ししてあった。

 

「中学校の卒業アルバムだよ」


 有は特A四サイズの薄手な本をローテーブルに置いて広げた。

 めくっていくと、校内のさまざまな場所で、笑顔の中学生達が写真に収められている。

 

「あ、猫耳」


 思わず礼津が指摘したのは、青空の下、男女の区別なく、紙で作成した猫耳をつけた中学生たちだ。運動会の風景だろうか。女子生徒はブルマーを履いていない。青いジャージ姿だ。

 有は無視して次のページを素早くめくった。

 礼津は「ちゃうし、そんなんちゃうし」と一人でぶつぶつ言い訳した。黒い本は、少し離して机の隅に置いてある。ページは開きっぱなしだ。


「あった。これだ」


 有はページをめくる手を止めた。


「れっちゃん、さっきのページ」


 並べて見比べると、一目瞭然であった。


「お? これ、同じ図書館の風景か?」


 内装や床の市松模様、本棚の配置や、窓の位置など、大まかに特徴をとらえると、同じ場所を描いているように見える。


「山中やまちゅう――山岡中学校では、図書館は別館になっていて、少し離れた場所にあるんだ。内装似ている。それにこれ、ほら。窓の外。三本杉って言って、山中のシンボル。見えるよね。間違いないよ」

 

 山岡中学校のことを、地元の子供たちは、『山中』と呼ぶ。有が指差した窓の外に、棒線のような三本の黒い木が立っていた。言われなければ、ただの三本の線としか見えないような絵だが、確かに糸杉に見える、と礼津はまじまじ目を凝らした。

 この三本の木は、それぞれ、『努力の木』『友だちの木』『未来の木』と名づけられている。山岡中学校のシンボルだ。真ん中の木が一番高くて、これが『未来の木』だ。


「この窓の位置から見えるんだ。内装も大雑把だけど、特徴とらえている。これ山中の図書館で間違いないと思う」

「そうか。じゃあ、優花ちゃんが、えーっと山中? の図書館から蔵書借りてきたんで間違いなさそうやな。個人で作ったもん、寄贈されたんやもしらんわ」


 公に発行された本とは思えなかった。個人の同人誌の類であろうか、と礼津は考える。ずいぶん装丁がしっかりしていて、ずっしりと重かったので、金銭は惜しまなかったようだ。


「れっちゃん、次、ページめくって」

「え、はい」


 何故か礼津がめくらされる羽目になる。再び、ページいっぱいにクレヨンで書き殴り、執念で塗りつぶしていったような絵が広がった。


「今度は――森か。なんやろ、白いカバの出てくる原書に出てきそうな森やな」

「れっちゃん、あれはトロールだよ。カバじゃないよ」

「知ってます。言ってみただけやし。北欧の暗くて不気味な森っちゅー感じやな。稚拙なんやけど、何や迫力あるなあ」


 案外、名のある画家かもしらんな、と礼津は思った。

 失礼な話だが、礼津はオランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの『星月夜(The starry night)』を思い出した。色調は、彼の『自画像』の暗い緑だろうか。

 プロテスタントの牧師の息子で、信仰に厚かったというこの画家は、その過剰な信仰心から周囲と決裂し、自らの耳を切り落としたことでも有名である。

 現在の評価とは逆に、生前は絵が一点しか売れなかったともいう。

 真偽のほどが定かではない過激なエピソードに事欠かない画家だが、礼津の印象としては、ゴシップに乗っかって『狂気の画家』であろうか。

 不安だが目が離せない。

 初めてゴッホの絵を見た時に感じた気持ちを礼津は思い出した。

 他に、ピカソの『ゲルニカ』や速水御舟の『炎舞』を見た時、こんな気持ちになったな、と彼は思う。

 両者、技巧は全く逆方向だが、感じたのはひとつだ。

 言葉に尽くせない衝撃。足を止めて見入ってしまう吸引力。かきたてられる不安なまでの魅力だ。

 同じものを、この絵本から感じたのだ。

 人間は不思議なもので、危険なものや不快なもの、不安定なもの、著しくバランスを欠いたものに、惹きつけられることがある。

 極まると、それは美しさと同等となるのだ。

 

(同等というと、少し違うかもしれんが)


 礼津はうまく言葉にすることができず、もどかしかった。


「あ、これ、女の子かな?」


 有の言葉に、礼津は、はっとした。暗い森の中を、小さなぽつんとした人影が歩いている。髪が長く、判別しにくいが黒っぽい制服のような姿だ。


「冒頭の子かいな」


 巨大な森に対して、豆粒のような小ささで、表情も当然わからないが、不安そうにしているように見えた。

 次にページをめくると、もう一人の登場人物が出てきた。


「騎士か?」


 ページをめくろうとして、礼津は「げ」と声を上げた。

 次のページ、クレヨンでぐちゃっと描いたような落書きめいた騎士の首が折れている。


「怖い。グロや。グロやで。しかも何やこれ、修正画像か?」


 ページの半分以上が、黒で塗り潰されている。

 次のページでは元通りだ。しばらく追って行き、それなりにストーリーが展開される中、最後のページは、真っ白だった。


「あれ? 続きないんか?」


 右ページは白紙。

 左ページは、裏表紙に貼り付けてある形だ。

 どちらも何も記載されておらず、奥付部分は白紙だ。普通題名や著者名、出版社名や発行年月が書いてあるページだ。

 そういえば、表紙にタイトルもないし――首をひねって、再度ページを前に戻す。

 その一ページ手前、燃え盛る村と思しき集落手前、騎士と少女の絵が描いてある。彼らは横顔を晒して、集落を見つめている。足元に二頭身の狸っぽいものもいた。


「狸……和むわ。あ、何かみどりのた○きが食べたくなってきた」

「れっちゃん、少し黙ってよ」

 

 教え子の有はとても冷たかった。彼は赤いき○ね派でもある。


「れっちゃん、もっかい、最後の白紙ページ見せて」

「ん、ああ。ええで」


 もう一度最後のページをめくる。

 有は真剣な顔をして指差した。


「ここ」


 右ページの一番下、普通ページ番号であるノンブルが振られているところだ。


「それとここ」


 ノンブルの延長線上、ページ綴じ込み部分に近い場所を指す。


「あ」


 礼津は思わず声を上げた。

 人だった。よく見ると、この物語の女の子だ。彼女は歩いている。

 今度は、ページのノンブルを再度見ると、ぽつん、と染みのように見える。

 それが、目の前でじわ、と大きくなった。まるで、女の子を追いかけるように、姿を大きくした。


「うえっ!?」


 思わず尻をついたまま後ろに下がった礼津は、違和感に気づいた。


「ちょ、有くん、ええか」


 もっかい、前のページな、と彼はページをめくる。


「……」


 二人は絶句した。

 白紙のページが、増えていた。

 違う。

 見えない何かが。

 何者かが。

 

 ざかざかざかざか


 凄まじい勢いで、新たな白紙ページをクレヨンで塗り潰していく。


「――今、描いてる、のか」


 今、この物語は紡がれているのか、と礼津は声を失った。有にいたっては、顔面蒼白で腰が抜けているようだ。悲鳴を上げなかったのは、あまりにも驚愕が過ぎて、反応できなかったためだ。


「あかん、やばい。これマジやばい。有くん、下がり。ちょっと、お兄さんは、専門家に相談します」


 ヘルプ、と礼津は最近機種を変えた黒色のスマートフォンを取り出した。






11


 少女――七子の青ざめた頬を、黒い髪が覆う。

 覗く口元は、弧を描いている。笑っているのだ。

 ひたり、と少女が一歩踏み出した。

 ひたり、ひたり、ひたり、と燃え盛る集落へ向かう。その足元に伸びる影は、ありえないほどに長い。

 影が、長く、長く、炎を受けて、背後へと伸びて行く。

 まるで少女の足元から、墨が零れ落ちて、地面に引きずられるように、影は長く伸びる。

 上空から見れば、少女の足元を基点に、枯れ枝を複雑な模様に広げる黒い大樹がくっきりと見えただろう。

 第十階層、魔の森。ネコノカ族の集落。

 現在、彼らにとっての地獄である。この地獄を作り出したのは、ルーラー教会の司祭及び神聖騎士団だ。

 同時にまた、襲撃者である彼らのとっての地獄が、ひたひたと足音もなく近づき、顕現しようとしていた。





 《西方の風騎士団》のロン少年は、執念深くネコノカ族の少年を甚振っていた。

 コジモ司祭の助言を受けて、生かさず、殺さず、苦しめている。

 これは当然の報いだ、とロンはますます興奮してきて、何度も何度も執拗に手足の末端に剣を突き刺した。


「ふうむ、実に君は見所があるな!」


 再び、感心したようにコジモ司祭は賞賛した。


「世俗に置くには惜しい。もし君に信仰の道を志さんとする気持ちがあれば、教会の門戸を叩きなさい。私が上に推薦しよう」

「はあっ、はあっ、あ、ありがとうございます!」


 息を切らしていたロンは、頬を紅潮させて礼を言った。地面に切っ先を下げた剣からは、赤い雫がぽたぽたと伝っている。

 彼は、ぐいっと己の衣服で汗を拭った。

 その布地は、汗以外の赤い飛沫で濡れていた。





「ちっ」


 様子を遠巻きに見ていた一団で、激しく舌打ちしたのは、《西方の風騎士団》のマルコ・コキアスである。金色の長髪に碧眼、すらりとした長身の優男で通っている彼だが、中身は暑苦しいと団員に散々からかわれることが多い。苛立ちを隠そうともせず、彼は苛々と地面をブーツの爪先で叩いていた。


「ったくよう、あのガキ、とんでもねえ屑じゃねえか。団長もスカを引いてきたもんだぜ」

「仕方ないわよ、あの人、お飾りですもの」


 あっさりと吐いて捨てたのは、気だるそうに赤髪をかきあげた団員のリリアーナ・ロッソであった。踊り子上がりの彼女は、グラマラスな肉体を、黒いレースで縁取られた大胆な衣装で包み込んでいる。スカートには深いスリットが入っており、七子の世界で言えば、ジプシーのような姿であった。そのくびれた腰には、凶悪そうな棘の鞭をぶら下げている。この軽装は、彼女が芸術神(としてのルーラーの一面)の加護を受けているためだ。

 リリアーナは、反対方向にいるすらりとした立ち姿の団長オルガ・ミューレンを一瞥すると、わざとらしく嘆息した。


「強いし、きれいだし、選定公の妾腹のご息女ですし? 言うことも奇麗事。まあ、頭に据え置くにはいいわよねえ。今回の討伐も、団長さまのお手柄で、教会に申請して? 徳をおつみになったら聖女様として堂々表舞台に出るらしいわよ」

「はあ、女こえーよ。女はこえー。お前毒舌過ぎ」

「あたしの舌は、嘘をつけないように悪魔に呪われているのよ」

「そうかよ。って、もう俺我慢の限界だ。あの坊主、ついでにマジ本物坊主ども、ぶっとばしてえ」

「あんたの首が飛ぶわよ」

 

 眠たげに半分伏せられているような目つきのリリアーナは、はっきりと忠告した。


「っけ、分かってらあ。しかしよう、胸糞悪いぜ。俺は、ガキと年寄りだけは、甚振るのは許せねえんだ。ガキがガキ痛めつけてうんこったれかよ。大体年寄りは労わるもんだろ」

「あんた、向いてないわよ」

「っち」


 そっぽを向いたマルコに、黒目を細め、リリアーナはくすくすと笑った。それからふと真顔になる。


「団をまとめて、本当に運営しているのは、根暗陰険眼鏡のルーアン君。団長の威光に隠れて、外部評価は低いのよねえ。本人気にしてないみたいだけど」

「あー、ルーアンは、ガキ入れるのあんまりいい顔してなかったな」

「そうねえ。ルーアン君、人を見る目はあるのよねえ。悪役参謀顔だから人望はないけれど」


 はあ、ほんっと、馬鹿な味方って、馬鹿な敵より厄介だわあ、とリリアーナは緩慢な口調で言う。


「――君たち」


 喋っていた二人に、背中から咎めるようぼそぼそと陰気そうな声がかかった。リリアーナは振り向きざま、


「あらあら、噂をすればなんとやらね」


 むき出しの肩を竦めてみせた。根暗陰険眼鏡呼ばわりされていたルーアンご本人である。深くフードを被っており、ただでさえ悪い顔色が更に陰鬱に見える。実質的に団を動かしているのはこのルーアンだ。どちらかといえば文官気質が見て取れる。三日徹夜したような目の隈が標準装備の見るからに神経質そうな痩せぎすの人物で、大体第一印象で嫌われやすいタイプだ。


「おい、あれどうにかなんねーのか」


 マルコが親指で肩越しに『彼ら』を指差し、青白い顔のルーアンに尋ねる。

 ローブに身を包んだルーアンは、薄い唇をめくり上げ、指先で眼鏡のずれを矯正すると嫌味ったらしく言い捨てた。


「どうにかなるわけないでしょう。団長のお父君トーレス選定公は、教会に恩を売りたくて仕方ないし、教会はこの降魔の幕開けに、『聖女』というパフォーマーがほしくて仕方ない。コジモ司祭は赤の枢機卿派閥ですからね、青の枢機卿への対抗馬として、『聖女』獲得は外せません」

「はあ、貴族と教会内部の派閥争いってか」

「そうですよ」


 何を今更、とルーアンは説明を付け加えた。


「青の枢機卿もまた『聖女』だ『英雄』だと奔走していますからね。この競争に勝ち抜けば、時期教皇の座は間違いありません。あらゆる方面で点数稼ぎをし、足の引っ張り合いをし、蹴落としまくって現在の状態です。今回の襲撃は仕組まれた悲劇で喜劇ってわけですよ」

 

 やられる方にはお気の毒ですが――と早口ではばかる様に言い捨てると、「どっから仕入れるのその情報」と呆れ顔の二人をぎろりと睨んだ。


「大体君たち、仕事中に私語は慎んでくださいよ。いくら手出し無用と御達しがあるとはいえ、格好ってものがあるでしょう」

「いや、お前もさっき散々私語を――睨むなよ。これも情報交換ってやつでなあ」

「ふん、どうだか。愚痴ばかりじゃないんですか」

「へえへえ、副団長様、申し訳ございませんね」

「……私は副団長じゃないです。副団長はマルコ、君でしょうがっ! 新人まで誤解して……私は会計なんだっ、会計担当なんだ!」


 畜生、どいつもこいつも私に全部押し付けやがって!! とルーアンはぼそぼそと小さな声で呪詛している。

 こいつ暗え、とマルコは引きつった笑みで、「まあまあ」と手をふった。

 彼は適当に慰めようとし、そのまま凍りついた。

 はっとリリアーナも同時に振り返り、腰元の鞭に手をやった。

 ルーアンもまたぞろりとした長いローブの下、己の得物を握り締める。


「――何か、来る」




 森の奥から現れたものに、人々は最初、理解が及ばなかった。

 小さな少女だったからだ。

 むしろ、その背後につき従う影のような騎士に、彼らは脅威を感じて、各々の得物に手をやった。強い――そう感じ、誰もかえって動けない。

 しかし、中には『少女』自体の底知れぬ不気味さに警戒をした者たちも、極少数いた。コジモ司祭や一部の神聖騎士、《西方の風騎士団》のオルガ・ミューレン、マルコやリリアーナ、ルーアン達などである。


「――あれは?」


 《西方の風騎士団》会計担当ルーアンが目を細め、現れた二人に注目した。


「まさか」


 黒髪の長身の騎士自身は、ボロボロの板金鎧を着込んでいる。ありえない程に腐食しており、どれほどの惨たらしい戦いをしたのか想像もつかない。その右半分の顔もまた、目を反らしたくなるような酷い溶解した有様だ。左半分が秀麗なだけに、あまりにも無残が際立つ。

 彼が付き従う様子を見せる少女の方にこそ、ルーアンは注目した。

 軍衣サーコートだ。 

 半分千切れたような軍衣で、ちょうど少女にはよい長さとなっている。

 その紋様。


「――ザール王国、か」


 呟いたのはルーアンではない。

 決して大きな声でもなかった。

 しかし、その声は、不思議とルーアンの耳に聞こえた。

 ――尾のない竜の紋章だ。

 ザール王国建国伝説に纏わるこの紋章が、少女のまとう軍衣には意匠されていた。

 大きさからいって、本来騎士のものだろう。

 騎士が少女に貸し与えたのかもしれない、とルーアンは思った。


「亡国ザールの死霊の騎士――実在したのか」


 別の神聖騎士が呟くのを、ルーアンの耳は拾った。

 死霊に憑りつかれた亡国の騎士が、狂ったように階層突破をしている、という噂は以前からあった。

 いわば七子の世界における都市伝説の類で、まともに受け取らぬものもいれば、ある程度信憑性を持って情報を収集しているものもいた。

 ルーアン自身は、あらゆる方面からソースをつかんでいたが、噂の領域を出ないことから半々に考えていたのだ。団長は完全に「階層がつながったということね」と信じていたようだが、ルーアンはまず他人を信用しないので、各国の情報操作も考え疑わしさも念頭に置いていたのである。

 しかし、この凄惨な姿を見ていると、なるほど、と合点のいくところもある。


「おい、兄弟」


 はっ、とルーアンが地面を見ると、呼んでもいない《良き人々《グゥド・ピープル》》がとんがり赤帽子を被り、つま先の反り返った皮の靴を履いた小さな姿を晒していた。彼らは妖精の一種である。


「どうしたんだ」


 ルーアンは敬語を使わず、鋭い声で聞き返した。しかし、《良き人々》はたいてい、自分の言いたいことを言うだけだ。彼らの中には、《警告する人々》と言う、変事にしか現れない者もいる。ルーアンはそういったものとの親和性が抜群に高かった。

 とんがり赤帽子のつばを持ち上げて、鷲鼻の《良き人々》は忠告した。


「兄弟、気をつけな。とうとう蘇りなさったぜ」

「――何がだ」

「忠告したぜ。逃げるんだな。無理なら、攻撃は控えろ」

 

 何、と再度聞き返す間もなく、《良き人々》はすうっと紙を水に溶かすようにして消えた。

 ルーアンはローブの上から、心臓の辺りを握り締めた。

 計算高くてずる賢い連中だ。

 しかし、何の代価もなく、珍しいことに《助言》と《警告》をしていった。

 ルーアンは教会側から「手を出すな」と言われたことを逆手に、団員に堂々と退避命令を始めた。




 一歩歩くごとに、声が聞こえて来る。

 七子は不思議だった。

 自分が自分ではないようだ。

 ――怖くない。

 ――大丈夫。

 ――大丈夫だよ。

 そんな声が、内側から聞こえて来る。

 たくさんの武装した騎士達が、少女を凝視し、その手にある鋭い槍の先を向けていた。

 槍の先に揺らぎが見えるのは、聖別された証であったが、少女が知る由もない。

 ただ、あれに当たると痛いかもしれない、と少しだけ警戒する。

 少女の内側から聞こえて来る声とは別に、もっと切羽つまって悲痛な声がする。

 七子は外套がこすれるのもかまわず、地面に膝をついた。

 そっと手をかざす。


「呼んでいたのは、あなた?」


 体中に槍を突き刺され、地面に転がされていたチョコレート色の肌をした少女だ。

 まだ息がある。

 その生命力は恐るべきものだ。しかし、それが徒となり、まだ彼女を苦しめている。

 触れると、より声は大きく七子の中で反響した。


 ――助けて。私たちを。

 ――私たちを、救って。


 血泡を噴いた少女の目から、つうっと涙が零れ落ちて、大地に落ちた。

 七子は呟いた。


「どうしたらいいのか分からないの」


 だから、あなたが、教えて――と。




 

 その時空気が揺れ、大地に走った衝撃で、何人かが吹き飛ばされた。

 同時に、コジモ司祭が柄頭にルーラー印を頂くメイスを掲げ、叫んだ。


「高位の魔――姿に惑わされるな、魔神だ! 陣を組め! おお、天上の主よ、われらに守護を授けたまえ! 防御増強呪文!」


 すばやく印を切り、補助呪文を発する。

 神聖騎士達もまた、切り替えるとすぐに再度増強呪文を己にかける。

 コジモ司祭は複雑な印を切りながら、いくつもの補助呪文を重ねてかけていった。


「勇気凛々、破壊せよ! 浄化せよ!! 滅して滅して滅するべし!!」


 ルーラー!!! と勇ましい声が唱和する。

 

「ご成敗ッ」


 凄まじい勢いで、神聖騎士たちが槍衾とばかり得物を突き出す。その時、一陣の風が吹いた。少女に付き従う亡国ザール王国の騎士が、脇を擦り抜けて剣を繰り出す。

 がきん、と交差する剣と槍。

 数本の槍先を受けて、エリアスは剣を僅かに下げると、その膂力だけで一気に跳ね上げた。

 彼の魔としての筋力の底上げは、増強呪文で様々に祝福された神聖騎士を遥かに上回る。

 上空からは、花の形に押し下げられていた槍が、ぱっと開いたかのように見えただろう。

 腐食していた鎧に墨が滴り落ち、いつの間にか彼の白銀であった鎧は漆黒に染まる。

 兜すらも形作り、頭の兜飾りは暗い紫色をたなびかせ、彼が回転するつど弧を描く。あまりにも凄まじい力に、押し負けた神聖騎士達が吹き飛ばされる。

 そこには禍々しい一人の黒騎士が剣を振るっていた。


「おのれいっ、ザール王国の騎士よ、貴様魂までも魔に堕としたのか!?」


 笑止、とエリアスは答えない。

 戦いくさと殺し合いは人の性質さがである。

 もっとも人が人を殺す理由たらんとした教会の連中に彼は言われたくなかった。

 そもそも、騎士である以上、祖国を守るために、誰かの命を摘み取ることに最初から彼は同意していた。

 人でないものに身を落とすのは耐え難い。

 しかし、人である内に、人を切ることは、彼の職務だった。

 それが、今、祖国を失い、仕えるべきものが変わったのだ。

 例え本意ではないにしても、彼は根っからの《騎士》であった。

 剣は剣。

 思考するものではない。

 振るうのは主だ。

 彼は振るわれるべき剣だった。




 わなわなと震えていえるのは、《西方の風騎士団》の新人、ロンであった。


「な、なんだよこれ」


 なんなんだよこれ! とロンは絶叫する。

 彼は復讐していたのだ。

 正当なる復讐のために、正義の剣を振るっていた。憧れともいうべき神聖騎士達の容赦ないネコノカ族討伐には、胸をすく思いだった。

 彼は志願した。自分にもお手伝いをさせてください、と挙手し、コジモ司祭からは「見所がある」と両手放しで誉められ、意気揚々と彼らの前で敵に制裁を加えていたのだ。

 これからフィニッシュ、というところで水を差したのは、魔神の少女であり、ザール王国の騎士である。

 信じられなかった。

 ザール王国と言えば、魔に滅ぼされた国ではないか。

 なぜ、その亡国の騎士が、高位の魔である魔神に味方し、守ろうとしているのか。


「――納得、いかない」

 

 いくはずもない、とロンは憎悪する。

 彼は足元のネコノカ族の少年をブーツの爪先で蹴り付けた。

 もはや反応もない。手足は穴だらけで、本来向くはずのない方向にてんでばらばら捻じ曲がっている。損壊に損壊を重ねた行為のためだ。


「くそっ、くそっ、くそくそくそくそくそ!!!!」


 ロンは憎悪の赴くままに、引っさげた剣の向ける先を探した。

 少女だ。

 彼の双眸には、七子が浮き上がって見えた。

 弱そうだ。

 ザール王国の騎士は、神聖騎士たちの相手でいっぱいだ。

 彼は負の感情の捌け口を七子に定めた。


「うおぉおおおおお!!!」


 獣のように咆えたけると、ロンは飛び出した。

 少女――七子が目を見開く。

 呆然としているように見えた。

 しかし、ロンの頭には、殺す、と殺意しか浮かばない。

 

(殺す。殺す。殺す殺すころすころす!!!!!)


 少女は首を傾げた。

 違う。

 す、と目の前に白い指先が伸ばされる。

 五指が開いた。

 彼女の背後に、複雑な紋様を描く円陣が三つ開く。

 真っ黒な虚空が覗く。

 扉か。

 門か。

 開く。

 何かが飛び出した。

 白い光に包まれる大きなものだ。

 人の形をしている。

 それらが駆けて来る。

 ロンの目の前に迫る。

 彼は凄まじい衝撃とともに、吹き飛ばされ、自らの肋骨の折れる音を聞いた。




 














 

「――あ」


 か細い声で悲鳴を上げたのは、憂いに瞳を伏せたローザリンデ姫だった。

 ここは、大迷宮の深き階層、魔神であるジャムジャムアンフ伯爵の居城であった。

 散乱するクッションの間に沈むようにして座っていたローザリンデ姫は、手慰みに竪琴を爪弾いていた。


「どうしたんだい、ローザリンデ」


 聞きつけた魔神ジャムジャムアンフがもの思わしげに、この鳥篭に閉じ込めた寵姫に声をかける。

 

「あ、ジャムジャムアンフ様」


 ローザリンデは細面を上げ、憂わしげな青い瞳で美貌の魔神を見上げると、そっと右の人差し指を左の指で押さえてみせた。


「ああ、いけないね。血が滲んでいる。弦が切れたのかい?」

「――はい」


 奥ゆかしく答え、ローザリンデは再び目を伏せた。その卵型の整った繊細な姫の顔を、極上の絹糸のような金糸が滑り落ちていく。   

 魔神は、姫を傷つけた竪琴を許さなかった。

 

「さあ、貸してごらん」


 取り上げると、紫の炎で一瞬の内に焼き尽くす。灰すら残さない念の入り用だ。


「魔女に新しい楽器を用意させよう。何がいい?」

「ジャムジャムアンフ様のお好きなものを」

「かわいいことを」


 魔神は笑い、控えていた執事に言いつけた。


「僕は、少し用がある。ローザリンデ、帰って来るまでに、練習しておいておくれ」

「はい、ジャムジャムアンフ様」


 姫は頷き、「いってらっしゃいませ」と魔神を見送った。

 ジャムジャムアンフは長い回廊を歩く。ふと、彼は足を止めた。

 風情というものが大切だという魔神自身の考えから、居城内での《跳躍》をよしとしないが、お客はその考えに賛同ではないようだ。


「おやおや、道化師は挨拶もなしかい?」


 空中に魔神が尋ねると、魔界の道化師ナディアが、チェシャ猫のように笑いながら姿を現した。


「やー、悪趣味全開ッだね! 僕には考えられないよー」

「やれやれ、君と僕では趣味が合わないようだ。何、相互理解を深めようとも思わんがね」

「分かってるくせに。込み込みの愛めで方っていうのが、悪趣味って言ってるのさあ。わざと一人だけザールの騎士残したりしてさあ。うわあ、最期悲惨になりそう。僕そういうの好きじゃないんだあ。もっとすっきりやればいいのにさあ」


 ジャムジャムアンフは肩を竦めた。特にコメントする気も起きないようだ。


「ちぇ、まあいいや。宮廷まで《跳ぶ》んだろ。僕もご一緒するよ」


 二人の魔神は、合意して一気に最下層まで《跳躍》した。

 魔神の宮廷。

 いくつもの赤い布が垂れ下がり、空の玉座の周りに、大きな砂時計が設置されている。

 更に、漆黒の空間には、無数の絵画が飾られており、その内のいくつかは空の額縁だけだ。

 

「あらあら、お二人お揃いね」


 気品に溢れた女性の声が響いた。

 声の主の姿は異様であった。

 ぺらりとしたカードの表面から、深い真紅のドレスの女が膝上より突き出している。

 ハート型の巨大な錫杖を持ち、王冠を被った女王の姿だ。背中には、飛び出した秒針のような光背を背負っている。


「おや、ハートの女王。久しいね」

「ほほほ。楽しいお茶会が始まろうとしているようですもの。あなた達も《変異》を感じて?」


 口元を手の甲で覆い、穏やかに笑うハートの女王は、空の筈の額縁にその錫杖を差し向けた。


「御覧なさい」


 額縁だけ浮かぶかに見えたそれは、内側に荒れた大地を描き出した。

 まるで大地から生えた野菜のように転げるしゃれこうべたちが、かちかちと歯を鳴らし出す。


「この絵には、刈り取るべき者が欠けている。でも、そう」


 ハートの女王はくるり、と膝下のカードごと空中にひっくり返った。

 すると、今度は男性が現れる。横顔を晒し、黄金の王笏を手にした威風堂々たる姿だ。

 王は慎重に口を開いた。


「――空位の《死霊の王》。補填されるやもしれぬ」

 

 そうだね、と魔神ジャムジャムアンフも同意した。彼は大仰に芝居がかって手を広げる。


「さあ。今こそかき鳴らせ」


 どこからともなく、オーケストラのティンパニーの震える重々しい打撃音が聞こえて来る。

 怪しからん、運命の調べだ。


「《死霊の王》よ。復活の時だ。運命はやんぬるかな! 冷たき汝の吐息は、車輪を廻す! 言祝いで、我らも血の杯を上げん!」


 ――この悪性の者の誕生に!


 ジャムジャムアンフは祝杯を上げた。









 



12


 ネコノカ族の若過ぎる族長、カシギは、空を見ていた。空ろなガラス玉のような目に、擬似の雲が通過して行く。

 糸の切れたマリオネットのように、捩れた手足がばらばらの方向を向いている。

 彼の手足の感覚は、最早ほぼ消失していた。

 血液の流出とともに痛覚すらも鈍磨して行くのは、唯一の救いであったかもしれない。

 襲撃者により、鋭い痛みが何度も執拗に加えられ、最後にはそれすらも消失した。


(――死ぬのか)


 ぼんやりとした頭でそう思う。


(ごめんよ)


 謝る。

 彼は、彼なりにがんばった。がんばったつもりだった。

 しかし、誰も助けられなかった。

 誰も救えなかった。

 カシギは、彼らの終末の後押しをしてしまったのだ。

 

(ごめ――)


 ほとんど感覚のない、彼の手足に誰かが触れた。

 顔に、手を這わされる。

 優しい。

 カシギは見た。


(あ、あんちゃん――)

 

 幼い頃にかえって、彼は呼んだ。


(あんちゃんたち――!)


 死んだ兄弟たちだ。

 迎えに来てくれたんだね、とカシギは思い、すぐに勘違いに気づかされることになる。

 青白い光に包まれた彼らが、笑ったからだ。

 獰猛に、笑う。

 

「任せろや、カシギ」


 燐光に包まれた二番目の兄キクジンが親指を突き出した。


(え?)


 カシギの頭を混乱が襲う。


「うちの末弟やかわいい妹に手ぇ出しやがって」

「ぎったぎたにしてやんよ」


 三番目の兄アオタケと四番目のフブキがウインクする。


(ええ!?)


 一番目の無口な長兄、ヒノキがぽんぽん、とカシギの頭をたたいた。


「あんちゃんたちに任せろ」


 カシギはわけが分からなかった。

 枯れた筈の涙が両眼より溢れてくる。

 視力も失われているはずなのに、兄たちの姿が、はっきりと目蓋の裏に見える。

 彼らは、光に包まれている。

 背後には、大きなごつごつと背骨の隆起する影があり、兄たちと共に散った《鬼》が控えていた。他にも、たくさんのけはいがある。

 村の皆。

 大人たちが、彼らの子供たちを守りに来てくれたのだ。


「――さあ、お仕置きの時間だ」


 誰が言ったのだろうか。

 カシギは、分からなかった。

 分からないけれど、本当に安心して、そっと目を瞑った。

 彼の兄たちが、来てくれた。

 もう十分だ。

 ふとその彼に誰かが声をかけた。


 ――ねえ、どうしたい?


 彼は、答えた。







 

「ば、ば、馬鹿なあッ!?」


 神聖騎士の一人が、恐慌に後じさった。

 魔神の少女の背後で、複雑な文様を描く円が三つ展開すると同時、空中に門が出現した。

 門がその内側をのぞかせた瞬間、待ちきれぬと光に包まれた死者たちが飛び出したのだ。


「し、死者の召還!?」


 禁術である。 

 《死体繰り》という術もあるにはある。しかし、これには新鮮な遺体が必要だ。

 物質界においては、物質の体を用意してやる必要がある。魂は、物質化しなければ、同じく物質に干渉できない所以だ。

 思いが強ければ、ある程度物質に影響を及ぼすことはできるが、死者とは本来無力なものだ。

 死者の魂が、物質界において非力である、という事実に真っ向から反逆している。

 直接に、冥界から死者を呼び出し、その魂の階梯に応じて、物質界に影響を及ぼすことのできるようにする。

 こんなことは、

 

「ふ、不可能だ!!」


 そう、不可能なはずであった。

 神聖騎士のそれは、半ば悲鳴であった。

 死者の魂が現世に力を振るう。

 理解できない。

 それは神の御業みわざだ。

 正しき魂のみが、来る終末に許され、救い上げられる。

 決して、今、魔神が行ってよい業わざではない。

 神聖騎士である彼の宗教観は、全否定していた。だが、目の前の現実は否定を否定する。

 混乱し、彼は錯乱して槍を無茶苦茶に振り回した。

 最期、迫りくる圧倒的な光に包まれながら、彼は《鬼》の巨大な腕に弾き飛ばされ、木の葉のように空中を舞った。








「ぬ、ぬ、ぬ、おのれいっ」


 コジモ司祭もまた、憤怒で顔をどす黒く染めている。

 彼は「しからば」と、彼の秘術を使用するべく懐のルーラー印を取り出そうとし、動きを止めた。


「ふうむ」


 目を細め、彼は呼吸を落ち着けるべく、瞑想する。

 かっ――と両眼を見開いた時、コジモ司祭は怒りから解き放たれていた。

 元々、対魔神戦を想定しての戦力構成ではない。今回は、軍で言うところの中隊規模の人数で、亜人の浄化を予定していた。

 魔神戦には、最低でも超精鋭を大隊程度揃えたい。

 この対魔神戦においては、一個師団でも足りないと言われるくらいであるが、魔神もまた彼らの配下の軍隊を持っている。

 戦術戦略方面における『不足』であろうとコジモ司祭は理解している。

 どちらにせよ、想定していない事態で、負け戦を強いられているのだ。

 通常の戦とは少々違うが、全体の三割損耗を全滅というくらいである。

 はっきり言って、これ以上消耗するのは、人材という宝を怒りに駆られて更に溝に投げ捨てるような行為だ。

 彼は不本意ながら、撤退を促した。

 すると、地面を這いずるようにして、《西方の風騎士団》のロン少年がやって来た。剣を杖の代わりとし、左手で肋骨の辺りを抑えている。口元には、吐血した跡が見て取れた。これは骨が折れて内臓がやられているな、とコジモ司祭は密かに眉根をひそめる。


「ち、畜生。俺、戦います。まだ、戦える!」


 コジモ司祭はロンの凄まじい執念に感心したが、手早く慰めた。


「損耗が激しい。いったん撤退だ」


 ロンの顔に、さっと影が落ちる。何を言っているんだ、信じられない――とばかり、コジモ司祭を見る目は胡乱であった。


「し、司祭様。何をおっしゃってるんですか。あいつらを、あいつらを全部一匹一匹すり潰して浄化しないと!」

 

 む――とコジモ司祭は一瞬違和感を覚えたが、首を横に振る。


「誠に見上げた信仰心だ。しかし、今は教会の宝である君たちを死なせるわけにはいかん。撤退だ」


 承服しかねると抗議に口を開きかけたロンの腹部に、コジモ司祭は掌底しょうていをめり込ませる。


「撤退だ」


 再度繰り返した。

 元異端審問官であるコジモ司祭の最たる強みは、冷静と情熱の見事な切り替えである。

 《西方の風騎士団》は早々に離脱している。司祭はロンを肩にかつぐと、再度方々に指示する。


「負傷者を確保せよ」 


 彼自身、更に負傷者数名を担ぎ上げ、撤退が間違いなく完了したのを確認すると、教会においても貴重な《転送石》を手の中に握り潰した。


【移送します。地上、《シャマルダル門》】


 彼らは光に包まれ、一瞬後には姿を消していた――

 そのコジモ司祭の胸の内に、瞬きのように浮かび上がり、消えた思い。


(彼、英雄の相たるや。あるいは)


 災いたるや。 

 

 






  ******








 大迷宮より地上、ティフ神聖国。

 《シャマルダル門》が出現したゲテナ統一帝国からみて、東に位置する。

 法力莫大なことで知られる老齢のアビゲイル女王が治める国である。

 国教は、ルーラー教ではなく、独自の教会を持ち、国家の統治者が教会の首長となっている。

 この首長である女王は、現在、玉座に深く腰掛けて思案に暮れていた。

 彼女の背中には、二本の柱の間に王冠の盾を捧げ持つ紋章が大きく掲げられている。

 王配フランツ――女王の配偶者は、若くして病に倒れ、帰らぬ人となった。

 ゆえに、玉座はひとつきりである。

 左右に白い竜の像が、この玉座を守るように長い首を垂れ下げ、沈黙をもって控えていた。更にその外側には、大きな鏡が二対、左右対称に配置され、燭台の炎を映し出す。この光と鏡像の妙により、実際より広間を大きく見せている。玉座へと至る階段には、四匹の獅子が段々に置かれ、じっと睨みを利かせていた。

 彼女の臣下が控えるべき広間には、いまは人影はなく、大扉を守る儀杖兵が槍を交差させているのみだ。

 女王は金色に化粧された肘掛に、少々疲れたように頬杖をついてみせた。

 彼女は常に穏やかで、春の女王と国民に親しまれてもいる。

 しかし、糊付けされた白いレェスの襞襟に包まれたその顔には、はっきりと無数の皺が刻まれていた。

 これは、確実にこの女王が老いに蝕まれていることを言外に物語るものであった。


「ふう」


 老女王の口から、無人の広間に溜息が零れ落ちる。


「男の子って、どうして一度は《僕の考えた大陸統一帝国》を夢見ちゃうのかしらねえ」


 白いドレスに包まれたこの老女王はとぼけた口調で言って、嘆かわしいとばかり再度嘆息した。

 それどころじゃないのにねえ、と女王は同意を求めるように広間を見やった。

 すると、誰もいないはずが、


「ばばあ」


 と憎まれ口を返した者があった。

 老女王が足元の階段に視線を落とすと、獅子の一匹に腰掛けている小さな子供がいる。

 金色の髪に、ふくふくと薔薇色の頬、上等な衣装に身を包んだ子供は、足をぶらぶらとさせながらもう一度言った。


「ばばあ、いっつも同じこと言ってるんじゃねえよ。大体、あの若造にがっつんといっぺんかましてやれって俺は何度も言ってるだろ」


 あの若造――彼ら二人の間では、ある人物のことを指す。

 つまり、ゲテナ統一帝国のヴァレンタイン皇帝のことである。 


「やれやれ、隣国にがっつんしたら、ただでさえ足並みがそろわないのに、大変なことになっちゃうでしょう」


 老女王は提案を一蹴した。


「本当に弱ったわねえ、同時攻略していかないと、降魔の進行に対抗できないわ。私、おばあちゃんでしょう? 《カルマ門》から魔が地上に沸いてこないようにがんばってるけれど、結界の維持も、そろそろ息切れしそうなのよねえ」


 弱ったわあ、と女王はのんびり言う。本来なら、彼女は引退している年なのである。


「エドワードに王位を譲りたいんですけれどねえ。あの子ぜんぜん承知しないじゃない?」

「っけ、あの臆病者か。あいつ、王に向いてねえよ。なにかっちゃあ、『母上、お助けえ!』ってすぐに駆け込んでくるじゃねえか。もういいおっさんがだぜ? 向いてない。俺が断言するね」

「まあ、そんなこと、この国の守護聖霊であるあなたに言われたら、とっても困っちゃうわ」

「守護聖霊だから言ってやってるんだよ! 向いてねーったら向いてねー! あの野心ぼうぼうのハなんとかに譲った方がいいんじゃねえの」

「甥のハロルドのことかしら? あれはねえ、駄目なのよ」


 女王はますます肘をついた左手に頬を重く乗せて目を瞑る。


「ハロルドはねえ、あなたが見えないじゃない? これが致命的なのよねえ」


 気概、才覚、ともに申し分ないのであるが、こればかりはもう壊滅的に才能の領域なのだ。

 守護聖霊が見えなければ、この国の地脈とつながることはできず、《カルマ門》の結界を維持することもできない。 

 王が王たる由縁は、何より国の守護の要としてある以上、どれほどその他才に優れようが、ハロルドは不適格者なのであった。

 その時、大扉が開き、転げるようにして一人の中年の男が入って来た。


「あらあら、噂をすればなんとやらねえ」


 女王が言うと、半泣き状態の男――エドワード皇太子が玉座の下に、ものすごい勢いで滑り込んで来て、


「母上、お助けください!」


 開口一番叫んだ。そして、「ほら、やっぱりよう」と横を向いて吐き捨てる守護聖霊に気づき、「ひぃっ」と皇太子は尻餅をついてあとずさる。


「エドワード。どうかしたのかしら」

「あ、は、母上ッ! 私の履物全てに馬糞が――!」


 老女王は微笑したまま固まった。


「まあ」


 そのまま、獅子の像に座っている守護聖霊に視線を滑らせる。


「被害者と犯人が、私の前に揃っているわ」


 守護聖霊は、小さな両腕を組んで、「っけ! 馬糞ぐらいでがたがた抜かすない!」と犯行を認めた。

 その剣幕に、しくしくとエドワード皇太子は泣き出す。

 

「は、母上。どうか私を廃太子ください。これほどに守護聖霊殿にお見捨てされているのです。わ、私は、王にふさわしくない。王位などほしくない。よほど、従兄弟のハロルドの方がふさわしいと、臣民は皆噂しているではないですか」


 何度目の押し問答であろうか。この音楽と芸術を愛するエドワード皇太子は、多くの家臣から頼りないと侮られ、本人もそれを感じて年々萎縮し、現在はこの有様であった。


「エドワードや。王になる。それはあなたにしかできないことなのよ。自信を持ちなさいな。これほど守護聖霊殿にかまってかまってかまい倒されているではないの」

「違うわ!」


 守護聖霊は立ち上がって抗議したが、女王の耳は聞きたい言葉しか拾わないという特技を遺憾なく発揮していた。

 しかし、エドワードは納得しない。


「しかし、履物全てに馬糞ですぞ!!」

「いいじゃない。私の若い時なんか、馬糞が空から降ってきたのよ」


 女王は懐かしそうに目を眇める。かつて、若い娘であった彼女を馬糞まみれにしたのは、この守護聖霊の仕業であった。

 代替わりに際して、俺はお前を認めない――という先制攻撃だったのだ。

 彼は少々ばつが悪そうに目を反らした。


「いいこと? 通過儀礼なのよ。この子ときたら、王が交代する時、だれかれ文句をつけずにはいられないの。認めさせるには、時間をかけるしかないわ。ね」

「し、しかし。私は、向いておらぬのです。臣の見るあの目、私は、私は――」


 とうとうエドワード皇太子は膝折れて、絨毯に額をこすりつけ、おいおいと泣き出した。

 現在、大迷宮の出現により、人心はいっそう王家にその責務と混迷の打破を求めて寄りかかりつつある。

 この皇太子にかかる重圧は、次第に負荷を増すばかりで、軽くなることはない。

 ストレスが彼を今にも押し潰しそうになっていた。

 老女王は、階きざはしを降りて、息子の背中に手を当てた。そのままそっと撫でさする。


「辛い時代に、ただでさえ重い荷物を上乗せして背負うこととなってしまったわね。申し訳なくも思うのよ。でもね、これは私たち王家の者の責務なの」

 

 それは、エドワード皇太子にも分かっていることだった。駄々をこねても、詮無いことだと、彼自身耐えてきたのだ。

 彼は背中を丸めて、老女王がその背中を撫でさするのを黙って受け入れている。


「私が、兄弟をたくさん生んであげられるとよかったのだけれどねえ。子供が生めなくなってしまってね。やっぱり、血が濃すぎるのがいけないのかしらねえ」


 王家の血統は、国の地脈を受ける器として必要なものである。

 守られるべき血筋であったが、近親婚を重ね過ぎたのか、法力莫大であっても、生物として機能が阻害されるようになってきていた。

 子供が生まれないのである。

 あるいは、その機能を欠いて生まれる。

 幸いながら、エドワード皇太子は、皇太子妃との間に、すでに一子設けている。しかし、一子のみ、とも言える。


「は、母上はっ、母上は悪くありません!!」


 鼻をすすりながらエドワード皇太子が言う。老女王は「ありがとうねえ」と背中を撫でた。


「まあ、皆でがんばりましょう。私、思うのよ。人間、捨てたものじゃないってねえ。何とかなるわよ。エドワードお前もね、一人でどうにかこうにかしようと思わず、味方を作るのよ。私も、そうしようと思っているのよ」


 難しいけれど、そうしないとねえ、と女王は頷く。

 まずは、隣国の『若造』をどうにかしなければならないのである。


「ザール王国の二の舞をするわけにはいかないもの。どうも、お隣の坊やは、自分は特別だと思っているようなのよねえ。私たち、一蓮托生で、世界存亡の危機というのが分かっていないのよ。まずは、対岸の火事を自分のうちの火事と思わないとね。あともうひとつも門が破られて御覧なさい、戦力温存なんて、本当になりふりかまっていられなくなるわ。それにね、時間はやつらの味方よ。決して私たちの味方じゃない。瘴気はいつまでも抑えておけないし、すぐに天災だ飢饉だと立ち行かなくなるわ。さっさと迷宮を休眠期に移行させないと、みいんな共倒れよ」


 エドワードに言い聞かせるようでいて、女王は自分自身にも確認していた。


(ザールの二の舞は、本当にねえ)


 一夜壊滅、とは誇張ではない。

 すでに調査により、いくつかのことが推測され、また判明している。


(結界が破れた――のみならず、汚された。反動で、土地全体が短時間の間、一気に汚染された。それがあの事態を引き起こしたのねえ)


 ――《階梯低落レベル・フォールダウン》。


 国民は、土地の呪いを受けた。一時的にせよ、汚染により、力を失った。比ゆとして、大人が全て子供にされた、と言い換えてもよい。

 当然、湧き出た魔に太刀打ちできるはずもない。

 このようなことは、通常考えられない事態だ。


(でも、ザール王家の者がかかわっているとすれば)


 ありえないことではなかった。

 皇統や王家の者は、国に密接な関係を持つ媒介――ザール王国では泉――を通して、土地と人民を守ることができるとされる。

 その血統は、ひとつの祭司であり、正しく政まつりごとを行うことによって、悪しきことや悪しきものを《内》に入れぬようにするのだ。

 政が正常に機能すれば、国庫に富を蓄え、多少の不作にも耐えうることができる。

 しかし、政が異常に行われれば、国は荒廃する。

 呪術も同じである。


(本来祭る側である王家が、逆の祭祀を行い、地脈を逆流させたとすれば)


 そう女王は彼女の守護聖霊とともに話し合い、推測していた。


(もし、ザール王家に裏切り者が出たのなら、これは魔の側の調略である可能性はとても高いわ。そして、うちにも仕掛けてこないとはとうてい思えないのよねえ。はあ)


 つまり、目の前に、今にも心折れそうな皇太子がいるわけで、彼は呪いの触媒としては誠に最適なのである。

 同時に、守りの要としても最強で、しかも他に替えがない。


(ああ、本当に前途多難ねえ。フランツ、あなたってば、どうして私を置いて先にそちらに行ってしまったのかしら)


 老女王は、何一つ欠けることなく、この国の守護を皇太子に引き継がせねばならない。

 そこまでが彼女の仕事だ。

 

(あなた。この子の心を守ってあげなくちゃいけないわ。がんばるから。だから――)


 ちゃんとできたら、最期、迎えにきてちょうだいね、と老女王は亡き夫に呼びかけ、その願いを心の奥底にしまい込んで表には決して見せなかった。

 彼女は、よき母であり、よき妻であり、よき――女王であった。

 彼女は皇太子を慰めながら、無数に思考を巡らせる。

 次の大陸会議に備え、いくつかの議題を胸中にさざめかせずにはおれない。

 一つは、大迷宮のいずれかに、共同で攻略のための拠点を築いてしまうというものだ。

 大迷宮内は、空間が捩れている。

 例えば、ティフ神聖王国の《カルマ門》から入って第一階層、必ずゲテナ統一帝国の《シャマルダル門》の同階層とつながっているというわけではない。

 迷宮から帰還するための《転送石》は貴重で、無限にストックがあるというわけではないから、どうしても攻略拠点の確保は必須だ。

 各国が戦力確保に先走り過ぎて、その足並みが揃わぬ、というのが現在の頭の痛い問題である。 

 この老女王の元に、第十階層で起こった一連の出来事が報告されるのは、もう少し後日のことだ。







 車輪は廻る。


 空の額縁の中、荒涼たる荒野にしゃれこうべが転がる。

 刈り取るべきものは不在。

 しかし、空位である《死霊の王》は補填の兆しを見せ、いまだ現れぬ《英雄》の出現もまた――


 




13


 これは、夢かしら、と七子は思う。

 何にもない空間だ。真っ暗なのか真っ白なのか、モノトーンで分からない。

 夢じゃないよ、と誰かが言う。


(――だれ?)


 七子は、背後を振り返った。

 

「――ひ」


 彼女は、口元を押さえて後ろへよろける。

 小さな染みだ。

 小さな染みは、見る間に大きさを増した。

 拳大から、赤子の頭ほどの大きさへと変わる。

 暗がりにぶよぶよと蠢いている。

 

 ――ゆめじゃ、ないよ。


 肉塊は、芋虫のようにほんの少し七子の方へ前進した。


 ――ゆめなんかじゃ、ないよ。


「いや」


 七子は首を横に振る。


「いや、来ないで」


 もつれる足で、一歩、二歩、と後退する。

 七子の恐れに呼応するように、塊は更に成長する。


「た、たすけ、お父さん! お母さん!!」


 七子はとすん、と尻餅をついた。

 足が動かない。

 ふと違和感に頭上を見上げ、七子は絶句した。

 取り囲まれている。

 たくさんの影が七子を見下ろしている。その手に長い槍を持っているが、まるで彼らは影絵のようで厚みというものがない。

 騎士だった。七子が、吹き飛ばしてしまった騎士たちだ。彼らは、どうなったのだろうか。

 まさか、死んでしまったのだろうか。

 七子の鳩尾を、鋭い痛みが走る。

 ぼたぼたと汗が零れ落ちた。 

 彼女は震えていた。


(いや。いや。私、わたし――!)


 ごめんなさい、と彼女は頭を抱え込んで縮こまる。

 七子が傷つけた騎士たちは、無言で、じっと見下ろしている。

 その兜の下に、『怨めしい』と淀んで揺らめく相貌を想像すると、七子は激しい慙愧の念に駆られた。

 許して――そんなつもりじゃなかったの、違うの――そう言い訳しようとした七子は、「ひぃっ」と再び悲鳴を上げる。

 肉塊が更に大きくなっている。

 大きな芋虫に、無数の細い手足が生えた。

 突き出しているのは、人間の手足だ。


「あ、あう」


 不気味な巨大芋虫は、鈍重そうに頭をもたげると、七子を『見た』。

 

「――や」


 よたり、と手足を不器用に動かす。地面を這いずってどんどん近づいて来る。


(いや)


 七子はみっともなく両手両足でもがいた。動けない。どうしてもうまく動けない。吐きそうな恐怖で頭がおかしくなりそうだった。


「お父さんっ、おかあさん!――エリアスさん!!」


 人間関係の薄さから他に呼ぶ名前を知らなくて、エリアスの名を呼んだ。

 咄嗟に、はっ、と胸を突かれる思いがする。

 どうして、エリアスに助けを求めるのだ。どうして、厚顔無恥に求めるられるのか。


(私、助けてって、言っちゃいけない)

 

 自分が彼に何をしたのか、知っているのに、どうして助けてと言えるだろう。

 

(――たい。痛いよう)


 胸が痛い。 

 誰かに拒否されるのが怖い。

 誰かに嫌われるのが怖い。

 エリアスに、不本意だと憎まれたままでいることが怖い。

 七子の頬を涙が伝う。


(だって。だって私)


 だって、私、と涙が次々に盛り上がって滑り落ちていく。


(エリアスさんと、友達になりたいの)


 こんなに。

 こんなにこんなに。

 誰かと、心をつなぎたい。

 友達になってほしい。

 対等になりたい。

 恥ずかしい自分でいたくない。

 そう思ったのは、初めてだった。

 今まで、七子は夢の世界に生きてきた。

 辛いことも、悲しいことも、七子が殻の中にそっと蹲っていれば、本当の意味で彼女を傷つけることはできないのだ。

 自分から手を伸ばさなければ、叩き落とされることもない。

 代わりに、誰かとつながる大きな喜びもない。

 それでも、七子にはその世界で、必死に自分が傷つけられないようにいることの方がずっと楽だった。

 だから、誰からも求められない。

 誰も求めない。

 しかし、七子に、必死に呼びかけた者がいた。


『助けて』


 そう、彼らは七子を呼んだ。

 いや、呼ばれたのは七子本人じゃなかったかもしれない。

 誰でも良かったのかもしれない。 

 それでも、真綿に包まれ、扉を閉ざし続けた七子には衝撃的な『魂の叫び』だった。

 七子を激しく揺さぶる声だった。

 そう。

 だから、七子は、行こうと決めたのだ。

 他ならぬ、彼女自身が、決めたのだ。


「大丈夫だよ」


 七子の肩に、ほっそりとした指が触れる。 

 ぎょっとした七子は、同い年くらいの女の子が、七子に向かって微笑んでいるのを見つけた。

 エリアスと見た《鬼》に騎乗していたチョコレート色の肌の少年、彼にそっくりな女の子だ。

 不思議なことに、七子は、彼の名前が分かった。


「カシギ兄さま」


 女の子が言う。同時にたくさんの人々の名前が七子の内側に浮き上がってくる。

 この子の名前は《ルリ》。


「兄さまを助けてくれて、ありがとう」


 少しきつそうな面立ちだが、女の子は本当にうれしそうににっこり微笑む。


「私たちを、助けてくれてありがとう」


 彼女の耳から綺麗な銀色の耳飾りがぶら下がっていて、しゃらん、しゃらん、と涼やかな音を立てた。

 すると、恐れるように、影たちが、一歩後ろに下がった。


「誰も、助けてくれないの。子供たちばかりで、怖かった。辛かった。寂しかった。助けてって、言えないの。だって、私たちがみんなを守らなくちゃいけないから。だけど、ずっと言いたかった」


 女の子――ルリが言う。


「『助けて』――そう言いたかったの。ありがとう、答えてくれて。ありがとう。来てくれて。ありがとう」


 違う。

 七子は口を開けて、否定しようとした。


(違う、違うの)

 

 頭を振る。


(私、そうじゃないの。私、違うの。この力も、私のものじゃないの。違うの!)


 ルリが膝をついて、「ううん」と遮る。まるで、七子の声が聞こえたように首を振った。


「いいの。来てくれた。ありがとう。私、死んでしまったけれど、兄さまが助かったから、それでいい。あなたがどんなつもりでも関係ない。だから、私たち、あなたに」


 あなたに、仕えます――

 そう、少女は臣下の礼を取る。

 彼女を起点に、その後ろに、たくさんの人々が膝をついて、七子に頭を下げる。


「我らを」

「あなたの臣にお加えください」


 漣さざなみのように彼らは次々と頭こうべを垂れて行く。


(止めて)


 七子は両手で口元を覆った。

 

(私じゃない。私の力じゃない――!!)


 涙が溢れ出した。

 こんな紛いものの力で、誰かの信頼を勝ち取っても嬉しくない。

 気づくと、巨大な芋虫は彼らに阻まれている。

 ありがたいと思うのに、息が苦しくて仕方ない。

 誰かから期待されているのに、それが自分の力ではないから、苦しくて仕方ない。

 そんな七子の頭を、ぽん、と誰かが叩く。

 青ざめて涙を流す七子に、ルリの兄カシギそっくりな青年が親指を突き出してウインクした。


「お嬢さん、難しく考えるなよ」


 でも、と七子が言う前に、もう一人別の者が目の前にしゃがみ込んで笑った。


「あんたは、偶然剣を手に入れた。その剣は、強い剣だ。しかし、ただのモノだ」


 今度は、別の老年の男がやって来て声をかける。


「使うか、使わないか。それは、主の決めることだ。剣は勝手に動きやしないぞ」


 中年の女性がやって来て、七子の頭を撫でた。

 

「誰かが苛められている。あんたはそれを見過ごすかい?」


 他にも、たくさん、たくさんの人々が、七子に声をかけていく。


「助けてって、言われたらどうする? 見過ごしたって別にかまいやしないんだ」

「だけど、来てくれただろ?」

「それだけで、十分さ」

「俺たちの」

「私たちの」

「大切なこどもたちを」

「助けにきてくれた」

「ありがとうよ」


 頭を撫でられ、肩を抱かれ、一言ずつ声をかけられ、七子はぐしゃぐしゃに泣いた。

 違うの、違うの、と言いながら、声をかけられるたびに、心の氷が否応なしに溶かされて行く。

 御伽噺『氷の女王』を思い出す。

 冷たく凍ったカイの心を溶かした、ゲルダのあたたかい涙。

 同じだ。

 溶かされていく七子の頑ななそれが、涙となって流れ落ちてくるようだ。

 チョコレート色の肌に銀色の髪を持つ人々は、一言ずつ七子に声をかけては、いつの間にか現れた大きく口を開く扉の向こうに消えて行く。


「また、いつでも呼んでくれ」

「駆けつけるぞ」

「子どもたちの恩人よ、われらは恩を忘れぬぞ!!」


 扉は最後の一人を飲み込むと、ぎぃいいいと音を立てて閉じてしまう。

 七子が視線を上げると、大きな芋虫も姿を消してしまっていた。

 ぐい、と七子は腕で涙を拭った。

 誰かが、七子を呼んでいる。

 

(起きなくちゃ)


 夢の世界から、目を覚まさなくちゃ。

 そう少女は決めて、両手を伸ばした。








 まぶしい。

 光が洪水のように溢れてくる。


「――ナナオ」


 目を開けると、無表情ながら少し眉を顰めたエリアスが七子を見下ろしていた。元の森――いや、暴風の後のようなネコノカ族集落地である。

 

「起きた?」


 子だぬきがぴょこん、と顔を出す。胸が重い――と思ったら、七子の上に子だぬきは乗り上げて、エリアスと七子の間にその顔を突き出したのだった。

 エリアスは無言でたぬきの首根っこをつまみあげた。

 そのまま容赦なく、ぽい、と捨てたので、七子は内心慌てた。子だぬきは、ころん、ころん、と転がって、木にぶつかると、何をされたのか分からなかったのか、「なにした? 今なにした?」とあたりを見回している。横顔を見せるエリアスは非常に冷めた目でその様子を眺めている。この一人と一匹の関係は何なのだろう。


「エ、エリアスさん」


 呂律の回らない舌でどうにか呼びかけると、エリアスは興味関心を失ったように、七子に視線を戻した。


「具合は?」

「え、あの、ふ、普通です」

「そうですか」


 また会話が途切れて沈黙になる。エリアスは僅かに目を伏せた。何も言わない。七子は、彼が内心驚いていることを理解できなかった。

 巨大な力に七子が自分を失わなかったことに、この騎士は驚嘆していたのである。


「あなたが意識を失っている間に、少々厄介ごとがありました」


 前後の説明がまったく足りないエリアスの言葉に、七子は面食らった。 


「え。えと」

「それほど長い時間意識がなかったわけではありません。とりあえず、あなたと話をしたいという者が」


 二人、いや、三人とエリアスは光のない目で告げた。

 その背後に、固い表情をしたネコノカ族の若長カシギと、へらへらとしまりのない顔で笑う《怒れる星傭兵団》のグレン・タキストン及び自称戦乙女キャサリン団長が「はあーい」と手を上げていた。






14


 大迷宮より再び、地上に戻る。

 ゲテナ統一帝国。首都ゲテルナ――ゲテルナ宮殿。

 武器室アーマリー。

 この部屋は琥珀色である。

 大迷宮より引き上げられ、献上された伝説レジェンダリ級の数々の名剣が壁一面に設置されている。

 まずは、月と太陽の獣が左右に守る盾の紋章を中心に、短剣をぐるり二重の円形に飾りつけ、更に四隅に扇型に止め据えた意匠が目を引くだろう。

 あるいは、互いにエックスの形に剣を交差させた文様を四角形に配置させる。

 中には、剣を巧みに合わせて古代文字を中心に、煌く星の形に飾らせてもいた。

 重厚なチェストの上には、太刀掛けが置かれ、二本の妖刀が怪しくも主に手を取られる日を今か今かと待ちかねている。

 光源は、吊るされた金色の繊細な細工の明り取りだ。いかなる仕掛けであろうか、天井に影と光の二重の飴色に輝く文様を描き出し、まるでドームの中にいるように錯覚させる。

 左手の壁には、同じく伝説級の杖が一面に規則正しく収められている。

 ここは、至宝のそれであり、同時にこの主の鑑賞室であり、思索の場でもあった。

 この武器室に、人影が二つ。

 一人はチェストの前に立ち、今ひとりは、臣下の礼を取っている。

 礼を取る者に背を向けた形の男が、太刀置きの妖刀を手に取り、すらり、と白刃を抜いてみせた。


「――素晴らしい」


 男の髪もまた、この刃に負けず劣らず輝く銀色である。腰元まで流れ落ちる銀糸は、痛みというものを知らない直毛であった。

 彼が羽織る外套はどれほどの人の手が必要であったのか、恐るべき執念で繊細な刺繍が為されている。

 刀を鑑賞する男の目は冴え冴えとしたシアン・ブルーだ。凍えるような色合いとは真逆に、内にうねる野心にきらきらと輝きを放っている。

 この男こそ、帝国の支配者、皇帝ヴァレンタインであった。

 齢、二十四歳。

 驚くべき若さである。

 東西に分裂していた帝国を一代で統一した、文字通りの覇者。生まれながらにしての皇帝の中の皇帝。

 ヴァレンタインは白刃を通して、大迷宮を見ていた。

 大迷宮という新たな可能性の場所を……

 皇帝の口元に笑みが上る。彼は、報告を続けよ、と促した。

 背後の黒髪黒髭の壮年の男――トーレス選定公は「御意」と口を開く。


「――スコール商会の報告書でございます。第五階層植民地の件ですが、陛下のお名前をつけた町で、ヴァレンタイン・タウンと。最初は飢えや大迷宮特有の疾病でずいぶん植民者の人口を減らして、更に四百人送りましたが、ほとんど壊滅状態に陥りました。一時はどうなるかと思われましたが、指導者にデラウェア男爵を送り、多少強引な独裁を強いたもののなんとか永続に目途がたったところでございます」

「ふむ。あれはずいぶん勅許状を出したが、何度も植民者が全滅していたな。スコール商会と男爵には存分に労ってやるがよい」

「御意」


 初期の植民地政策にはかなり手こずった。失策であったと言ってもよい。

 《シャマルダル門》出現より、帝国は数度に渡り大迷宮に植民を送ったがことごとく失敗し、彼らは行方不明となった。

 植民者が全て行方不明となったため、帝国内には植民事業を倦厭するムードが広まってしまう。

 国営事業として、第一階層の完全な制覇、植民地開拓が行われるまでは、誰もが二の足を踏む状況だった。

 無論、常に先達が道を切り開くのもまた真理で、この失敗があって何もないところに道しるべができたからこそ、またゲテルナ商人たちは大迷宮に再び投資しようと思ったのだろう。

 第五階層に、永続的植民地を得たことの意味は、多方面に大きい。

 三角形の城壁に囲まれたヴァレンタイン・タウン。

 最初は皆出稼ぎ気分で、伝説級の宝具を求めての植民だった。当初彼らは男性ばかりで、女性を連れてこなかった時点で、そこに『定住』する気が全くなかったことは知れるだろう。

 やがてほとんど全滅寸前に陥るが、数度のてこ入れを経て、この植民は増加の一途を辿る。


「転送門の具合はどうだ?」


 ヴァレンタインは尋ねた。トーレス選定公は頭を下げる。


「第五階層の転送門は強固な守りにて、ご心配には及びませぬ。人の壁、肉の壁、でございますな。タウンの中心である転送門に魔が達した場合には、呪が発動いたしまして、自動的に崩壊いたします」

「ならばよい。さて、あとは――第十階層での動き、見過ごせぬな。ティフの《カマル門》の階層と直結しておるようだが」

「は。そのことにつきまして、ご報告が――」


 トーレス選定公は、第十階層で起こった一連の騒動について端的に報告した。

 ほう、とヴァレンタイン帝は興味深げなそぶりで振り返る。


「魔神と小競り合いが起こった、というのか」

「さようでございます。しかし解せませぬのが」

「こちら側に人死にが出ていない、な」


 くっくと笑いながら、ヴァレンタイン帝は外套を払い、長い脚を組んで椅子に座った。


「噂の《死霊の騎士》を引き連れた幼き魔神は、とんだお人よしか。あるいはこちらへの『敵対しない』というアピールとすれば――」


 その《死霊の騎士》とやらが、相当に切れるか、と彼は呟いた。


「問題は、教会側が死者の召喚――一時的な復活――そのような《奇跡》を黙って見過ごすか、ということだな。ちょうど都合がよい、明日は赤の枢機卿より謁見の予定がある。少々腹の底でも探ってみるか」

「陛下、差し出がましいながら、赤の枢機卿メシ=アにはお気をつけあそばせ」

「ふ、分かっておる。あれの歪んだ博愛精神は一種異常者であろう。はっは、なかなかに涼やかなよい目をしておるぞ、愛と正義とはかくあらん。これぞ狂信者というものはな! 誠、重畳であるわ!!」

「私は、なかなかその境地までには至れませぬが――あの赤の枢機卿を目の前にしておりますと、ぞっと生きた心地がいたしませんな」


 トーレス選定公は首を振った。


「よい。ん、カーミラよ、どうした」


 皇帝の言葉に、トーレス選定公は、ぎょっと背後を振り返った。

 いつの間に――と彼は言葉を押し殺す。

 宮廷筆頭魔道士のカーミラ。

 《鮮血の魔女》、《魂食いの悪魔》とも呼ばれている。

 常に赤いマーメイドドレスを身にまとう、悪夢のように美しい黒髪の美女であった。


「陛下、ご機嫌うるわしゅう」


 宮廷魔道士カーミラは、優雅に腰を折って挨拶した。


「急なおとないであるな。例の呪具の進捗報告か」

「いいえ。あれは精神の永続的なコントロールでございますから、すぐに、というわけにはいきません」


 それよりも、と赤い唇が弧を描く。


「《門》が開きますわ」


 何、と皇帝が聞き返した瞬間だ。


「きゃあっ」


 武器庫にそぐわない、高い少女の声がした。

 けはいもなく控えていた護衛の暗部部隊テンタクルスが飛び出して来て、咄嗟に武器を向けるが、皇帝自身がさっと手をかざす。


「よい」


 興味深そうに、ヴァレンタイン帝は、目の前に《落ちて来た》奇妙な格好――桃色の生地に柄模様の上下を着込んでいる――の少女に声をかける。


「そなた、何者だ?」


 冴え冴えとしたシアン・ブルーの瞳に射抜かれ、「え、え、え?」と少女は混乱しているようだ。その足は、先ほどまで寝台にでもいたかのように、素足である。

 ぺたん、と冷たい石床に直接座り込んだまま、彼女は「何これ? え?」と辺りを見回し、すぐにヴァレンタイン帝へと視線を戻す。


「余は、ゲテナ統一帝国の正統なる支配者ヴァレンタイン一世。娘よ、そなたは?」


 まだ混乱から覚めやらぬ様子であったが、少女はつられて名乗る。


「わ、私は優花ゆうか。瑞樹みずき優花。えっと、ここ、どこ?」


 彼女の目が、壁に飾られた星型に配置される中心の古代文字に止まる。


「《固定》《返却》《守護》? 何これ?」


 ほう、とヴァレンタイン帝の目が細まった。彼は《鮮血の魔女》カーミラを一瞥する。カーミラもまた唇の端を愉悦に吊り上げた。


「娘、いや。ユウカよ。これが読めるのか?」

「え、何? 漢字でしょ? っていうか、日本語? なんで外人が日本語ぺらぺらなの? 漢字読めないんですか?」


 問いかけながら、少女――優花は、次第にぽおっと頬を染めた。

 目の前のヴァレンタインの美貌に、今更ながら気づいて、別の意味でパニックとなってしまったようだ。


「あなた」


 カーミラがドレスの裾をさばいて、しずしずと近寄ると、左手にのせた手鏡を見せた。


「これ、読めるかしら?」


 細工化粧された手鏡に文字が浮かぶ。優花と名乗った少女は、一瞬固まったが、「読めるけど」と不審そうにカーミラを見上げた。


「読んでくれぬか?」


 ヴァレンタインが声をかけると、「え、いいけど」と手鏡を見る。


「古代ローマにおけるファランクスの……とは――え、やだ。これ難しい。めんどうだよ」


 困惑した風に止まった優花に、ヴァレンタイン帝は立ち上がり、少女と目線を合わせてみせた。


「優花よ。そなたは、神の使わされた神子に違いない」

「え?」

「この世界は、今、危機に陥っているのだ」


 皇帝は小さな子供でも分かるように優しく《世界の危機》について説明してみせた。

 巧みに、この少女から情報を収集することも忘れない。

 やがてヴァレンタイン帝は優花を丁重にもてなすよう言いつけると、すぐに何人かの《騎士》の選抜をするようトーレス選定公に命令した。


「見目よい、麗しい者を選べ。草の者――」

「は、こちらに控えておりますれば」

「情報収集、とりわけ古代文字に精通している者をあの娘につけよ」

「御意」


 ヴァレンタイン帝は、両指を膝上に組み、笑いが止まらぬよう肩を震わせた。


「何たる僥倖。やはりこの私に天意がついているとしか思えぬな。カーミラよ、《呪具》の完成を急げ。赤の枢機卿にも私から話を通しておこう」

「承知」


 ぐ、と皇帝は右手の拳を握り、見えない何かを握りつぶす。それは運命フォルトゥナであったやもしれぬ。


「この世は人のもの。神に魔。そのようなものはいらぬわ」


 大迷宮の門を閉ざす?

 休眠期に移行させる?

 馬鹿な!

 皇帝は隣国の愚かで前時代的なアビゲイル女王を嘲笑する。

 目の前に資源の山がある。

 奪っても奪っても奪い尽くし切れぬいわば、新大陸。

 何ゆえ閉ざす?


「いや。神からは免罪符が出ておったな。ははは! 神の威光をしらしめん。大迷宮の魔を滅し、人の地とする。これは天意である――!」


 大義名分の下に、奪い尽くすのは、人の性さがであり、彼は誠の人の皇帝であった。






 



―3



「は? 知らんって、知らんはないやろ、ボケ、アホ、カス、お前それでも血ぃつながった従兄弟か。あ、切りおった」


 ツー、ツー、と無常な電子音が耳元で鳴る。

 瑞樹家の家庭教師の木島礼津は苦い顔で、携帯電話を切った。

 従兄弟の滝彦は、大学に泊まりこんで実験するのに忙しいらしい。


「れっちゃん……」


 ローテーブル越しにやり取りに耳を済ませていた教え子の有が、不安げに瞳を揺らす。


「悪いな。これ、とりあえず預かるわ」


 テーブルの上に開きっぱなしの目の前の黒い本を指差す。ざかざかと描き殴る動きは止まっていた。


「……いいの?」

「ああ、しゃーないやろ。こんなもん、教え子のうちに置いてけるかい」

「……や、やっぱりいいよ。俺、そこまでは」

 

 元々瑞樹家にあったものを、赤の他人である礼津に押し付けるのは気が咎めたらしい。

 礼津は無理やり黒い本を閉じて、さっさと自分の黒いショルダーバッグの中に放り込んだ。


「ちょっと時間も遅いしな、俺もう上がらせてもらうわ。ホンマはな、本家のうちの祖母が詳しいんよ。ただ、もう寝てる思うし、明日朝一で確認してみるわ。有くんは、気にせんとき。明日また連絡さしてもらうと思うけど、一応出てな」

「あ……分かった」


 






 翌朝。

 朝一番で電話をかけてきたのは、有の方だった。

 電話越しにも、彼の声は焦って、顔色を失っていることが分かる。


「れっちゃん……!」


 落ち着け、と礼津が促す前に、有は叫んだ。


「優花が……! 優花がいないんだ……!!」


 うちのどこにも、と言い募る彼に、礼津は嫌な予感で自らのバッグを探った。


「ちょお、待ってな」


 バッグの中を確かめ、黒い本を取り出す。

 礼津は勘違いだったか、と安堵のため息を漏らした。

 もしかして、黒い本は、瑞樹家に憑りついていて、また舞い戻ってしまっているのではないか、などとホラーな妄想が彼の脳裏を掠めたのである。

 何気なく、ぱらぱらと本をめくって、礼津は絶句することになる。 

 また、ページが増えていた。

 そこに。


「……優花、ちゃん?」


 優花としか思えない、本人の特徴をはっきりと捉えた挿絵が描かれていたのである。







 

 





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