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 エリアスの悲痛な咆哮を聞いた時、七子は胸が苦しくなった。

 これほど悲しい、寂しい、狂おしい叫び声を、彼女は知らなかった。

 焼け爛れた顔面のエリアスはどうっと倒れ、無力な自分に涙している。

 その砕けた手甲の覆う指先が、もがくように大理石の床を掻いた。

 遠ざかる魔神の背中を、彼は追いかけることができない。

 もはや動けないのだ。

 

(エリアスさん)


 七子は彼に近寄ろうとして、ぎくりと足を止めた。

 倒れ伏したエリアスの周囲に青白い燐光がいくつも浮かび上がる。

 王冠を被った男性。

 首のない女性。

 胸に穴の空いた騎士。

 手足をもがれた者。

 青い炎となった彼らがエリアスを見下ろしている。

 無残に引き裂かれた王旗を掲げ、彼らは円陣に取り巻く。

 死者だ。

 死者たちの魂が、エリアスをじっと見下ろしているのだ。

 ただただ、その無念をエリアスに訴えている。

 無言の死者たちの姿。

 七子はぞっとした。

 そして悲しかった。

 その七子の隣に、いつの間にか、青い燐に包まれた一人の老人が立っていた。

 ぎょっとした七子に、大柄な老人は皺の刻まれた目じりをすまなさそうに垂れ下げてみせた。

 七子は彼に見覚えがあった。

 ベアー元帥。

 エリアスがそう呼んでいた武人である。


『我らの記憶を――』


 ベアー元帥は頭を左右に振った。


『このような光景を見せて済まぬことをした』


 本当に申し訳なさそうに言うベアーに、七子は咄嗟に大きく首を横に振ってみせた。


「私……私、大丈夫です。でも、勝手にエリアスさんの」


 少女は葛藤をうまく言葉にすることができなかった。

 人の記憶。

 それは、許可もなしに覗いてよいものだったのか。この記憶は、人々の最期の光景であると同時に、今を生きるエリアスの記憶であったはずだ。これらの出来事は、彼の人生に深い爪あとを残したに違いなく、穿たれた穴からまだ生々しい血を流してすらいるかもしれない。

 第三者の七子が、無遠慮に暴いて覗き見してもよいはずもなかった。

 例え死者たちが望んだのだとしても、生者であるエリアスは、果たして許容できるだろうか。

 何よりも、七子はエリアスから、人であること、それ自体を奪ってしまった。

 この光景を見た後では、その事実は何よりも七子にとって重たくのしかかる。

 後ろめたさを七子は感じて、深謝することもできず唇を噛むしかなかった。

 ベアー元帥の霊は、七子の懊悩する姿を見て、ふとその厳しい相好を崩した。


『気を病んでおるのかな』

「――はい。エリアスさん、きっと、魔をとても憎んでいますよね。私、彼の大切な記憶を覗き見しました。知らずに、彼を人でないものにしてしまいました」


 七子は泣きそうになる。しかし、泣いて後悔することは、エリアスにとって最大の侮辱なのではないかと彼女は考えた。自分のしたことは、無自覚であったとしても、謝って許されることではない。泣いて謝る行為は、相手のためではなく、自分で自分を許すものでしかないのだと、七子は思ったのである。

 同時に、エリアスにもっと嫌われてしまうだろうと、少女は余計に辛くなった。


『エリアスはの』


 ベアー元帥は切り出した。


『ワシの兄の孫での』


 驚き、七子はベアー元帥を見上げる。確か、どちらも姓は「グリム」と言っていたような気がする。彼らは血縁だったのだ。


『はは、ワシは種無しでの。子も孫もおらん。ただ武芸一筋に生きてきての。エリアスは騎士になると言うて、小さい頃からワシのことを尊敬してくれてのう』


 目尻が下がり、ベアー元帥は顔をほころばせていた。


『ワシはの、あれが可愛くてならん。ワシは年寄りで、いつ死んでも良かった。しかしの。この棺桶に半分足を突っ込んでおった老人の、たった一つの心残りがあやつでの』


 細めた目には、いっぱいの愛情と悲しみが浮かんでいた。

 七子は胸を突かれた。

 

(悲しい。とても悲しい)


 この老人は、もう生きていないのだ。これほど深い愛情をエリアスに注いでいるこの人は、もう死んでしまっているのだ。


『年を取るということは、頑固になり、あるいは丸くなり、そして死に一歩一歩近づくということじゃ。よき死に方とは、よき生き方。死という切っても切れぬ友人と、ただうまくつきあう方法を模索していくということじゃよ。ワシはこれでも満足しておっての。だからこそ、若い者が突然命を奪われるというのは、本当に惨いことじゃと思う』


 ベアー元帥はエリアスを取り囲む死者たちをすかし見た。


『エリアスは、憑りつかれておるのよ。死者たちの無念に。己自身の慙愧の念に。自ら望んで憑りつかれておる。奴は死霊の騎士じゃ』


 再びベアー元帥は七子に視線を戻した。


『だからの、気に病むでない。あのままでは、生きながらにして我らの同類だったのよ。そしてそのまま誠我らの一員となるところであった。どうか、礼を言わせておくれ。ワシの、孫の命を助けてくれて、ありがとう。感謝しておる』


 違う――と七子は否定した。


「私、違います。違うんです」


 ベアー元帥は黙って彼女の言葉を待っていてくれた。


「私、そんなつもりじゃなかった。それに、私、帰りたいんです。うちに、帰りたいの。エリアスさんの責任も取れないのに、無責任なまま、私、ただ帰りたいんです。でも、それをエリアスさんに言えない。卑怯なんです」


 泣くまい、と決意したにも拘らず、七子の目には涙が盛り上がって、頬を滑り落ちていった。


「だから、違うの」


 耐え切れず、面を伏せてしまった七子に、ベアー元帥は外套を払い、そっと膝をついて、


『それでよいのじゃよ。気にするでない。生きているということが肝要で、生きている限りはやり直せる。君のそんなつもりじゃなかったというのは、そのことに何の関係もない。ただ生きておる。それでいいじゃないかね』


 七子の硬くスカートの裾を握り締める指の上から、大きな手を触れてみせた。

 

(ああ)


 七子は理解した。

 冷たい。

 とても冷たかった。まるで冷気の塊のようだ。

 死者の手だ。


「私……エリアスさんと話してみます。私がどうしたいのか。エリアスさんがどうしたいのか」


 老人は皺くちゃの顔でにっこりと笑い、頷いてみせた。やがてその姿は、空中にインクを滲ませるように溶け出し、淡い白の光の中に消えて行く。

 同時に、周囲の光景も炎に包まれ、端から崩れ落ちる。

 その石造りの部屋は、いつの間にか暗い針葉樹へ覆われた森へ。

 転がる死体は、川辺の巨石へ。

 赤々と、かがり火を焚いたように、黒の帳に輝けるザール城。

 金粉が空気中に舞う。爆発にあわせて、影が踊り狂った。


 壊滅。

 一夜にして、壊滅だ。


 七子はしっかりと目に焼きつけた。

 やがて、死者の記憶が見せたそれらが完全に遠ざかった時、彼女は静かに立ち上がった。

 森は深く、冷気に押し包まれている。

 七子の前に立つエリアスは、緊張に強張っていた肩を撫で下ろし、ゆっくりと少女の方を振り返った。


「彼らは去りました。もう、大丈夫です」


 七子はエリアスの顔を真っ直ぐに見つめ、「エリアスさん」と呼んだ。

 エリアスは、少し驚いた風だった。


「何でしょうか」

「私、エリアスさんに言いたいことがあります」


 エリアスは目をしばたかせ、「明日ではいけませんか」と言った。


「身体の疲れがあるでしょう」


 七子は首を横に振る。


「いえ、今、言わないと」


 決意が固いと知ったのか、エリアスはとりあえず腰を落ち着けるよう提案した。


「――はい」


 硬い声で七子は承諾し、二人は焚き火の傍に戻って座る。格子状に組んだ太い薪の間に、天然樹脂を含んだ針葉樹を焚いて、火を絶やさぬようにしている。

 張り詰めた表情で何か言おうとした七子は、「くしゅ」とくしゃみをした。エリアスは見かねてか、ぼろ布となった外套を七子にかけた。


「あの、駄目です。エリアスさんは怪我しているから。エリアスさんが使ってください」


 七子は慌てて外套を脱ごうとするが、上からエリアスは押さえつけた。


「駄目です。貴女が使ってください。私は平気です」


 もう治りました、と彼は言う。七子はそんなわけない、と思ったが、はっとする。

 魔となる。

 それが、彼に治癒をもたらしたのかもしれない。

 何を言ったらいいのか分からなかった。悩んだ末、七子は折衷案とした。


「じゃあ、エリアスさんも。マント、半分こしましょう」


 エリアスは無表情に輪をかけて重苦しい無言となった。

 七子は何かまずいことを言ったかと、自分の発言で周囲をしらけさせてしまうトラウマを思い出して苦しくなった。

 すると、エリアスは黙って外套を広げ、身を寄せ合って二人で肩に羽織った。その時、彼は自分の元のままの顔の方が七子の側になるように座った。自分の顔が醜く、少女に嫌悪と恐怖を抱かせるであろうからと。

 七子はエリアスの屈折には気づかなかった。

 その時彼女は、エリアスが外套を一緒に分け合ってくれたことに、折れた、というより、気を使ってくれた、と感じていた。

 それでも少女は嬉しくて、唇を綻ばせた。

 七子の様子を見て、エリアスは口を開いた。


「ナナオ。貴女がもし先ほど彼らの記憶を見たのだとしたら。愉快な光景ではなかったでしょう。私のせいです。申し訳ないことをした」


 沈鬱な表情と声だ。

 彼の祖父同然であるベアー元帥も同じように謝罪したが、方向性がまったく違う。

 エリアスは自責の念にずぶずぶと沈み込んでいくような顔つきをしている。

 恐ろしく真面目な性質たちなのだろう。

 慌てて七子は手を左右に振った。


「あの、違います。逆です。私、また勝手に。エリアスさんの大切な記憶を盗み見てしまいました。ごめんなさい。謝るのは私の方です」


 エリアスは少し沈黙し、


「いえ」


 少女を一瞥した。


「少し」


 言いかけて、そのまま黙り込んでしまう。七子が待っても何も言わない。彼自身僅かに戸惑っているようだった。

 焚き火が、ぱちりと弾けた。


「あの、エリアスさん」

「はい」

「私、エリアスさんに言わないといけないことがあるんです」


 七子は緊張していた。自分の望みを口にするということ。

 罪悪感と無責任。

 二つがのしかかり、七子の口を重くさせる。

 しかし、言わなければ、と七子は思う。

 そうしなければ、はじまらないからだ。

 はじまろうとしないこと。

 それもきっといけないことなのだと、七子は感じていた。

 ぎゅうっと七子は抱えた膝の上からスカートの襞を握り締める。


「私。私、勝手だけれど、うちに帰りたいです。私、この世界の人間じゃないから。元の世界に帰りたいです」


 どう、と風が吹き、焚き火の炎が強く燃え上がる。

 七子はエリアスの顔を見ることができなかった。

 代わりに、炎を凝視して、そのことを卑怯だと思った。


「だけど、エリアスさん。私は帰りたいけれど、エリアスさん。あなたのことも教えてください。エリアスさんは、やりかけのことがありますか」


 エリアスは押し黙っている。

 怖い――沈黙されることが、七子には恐ろしい。

 元の世界にいた頃から、ずっとそうだ。自分の発言で、誰かを沈黙させてしまうことが、彼女には本当に恐ろしかった。

 しかし、七子は続けた。


「すぐには、無理だけれど。何にも分からなくて、エリアスさんに頼らなくちゃいけなくて、申し訳ないです。人に戻す方法は分からないけれど、この世界の様子が分かったら、きっとエリアスさんを解放します。だけど、もう少しだけ、一緒にいさせてください。ご迷惑、おかけしますけれど、お願いします」


 精一杯だった。伝えるだけで、七子は精一杯で、冷気は刺すようだというのに、汗が出てきた。

 家族以外に、こんなに自分の気持ちを伝えたのは初めてだった。

 否定されることが怖くて仕方ない。

 だから、本当は黙って流されている方が楽だった。

 何も言わなければ、風に向かっていくこともない。

 ただじっとして、時々暴風に吹かれるのは不運と諦めればよい。

 自分で考えて、発言して、行動するということは、その責任を全て取らなければならないということだ。

 自ら差し出したものを、否定されるのは、何もしないで否定されるよりもずっとずっと辛い。

 

(私は、ナマケモノだったんだ)


 七子は思う。

 哺乳動物のナマケモノのライフサイクルは、極端にエネルギーを消費しないことで知られている。

 彼らは、緩慢な動きとなる代わりに、基礎代謝量を低く抑えるという生存戦略を選択した。

 逆に、猫科のチーターは狩猟豹の異名で知られるとおり、狩りのために大きくエネルギーを消費する。

 その全力疾走は時速七〇キロから百キロにも達するが、トップスピードは四百メートルも保たない。

 疾走に莫大なエネルギーを消費するためだ。

 もし狩りに失敗すれば、このエネルギーは無為に失われてしまう。

 繰り返す失敗の後に待ち受けるのは、無能な個体の淘汰の末の『死』だ。

 しかし、狩りに成功すれば、消費したエネルギーを上回る獲物を手に入れることができる。

 ハイリスクハイリターンなのだ。

 七子はこれまで、ナマケモノだった。

 決して動物のナマケモノは悪くない。

 その生き方は、一つの究極の生存の形だ。

 対して、七子自身はどうだろうか。

 彼女は、自分でそれを選んだのか。

 選んだのではない。

 選ばないことで、リスクから逃れ続けてきたのだ。

 何かを選んだり、決断したり、実行することは、何もしないよりも苦しくて辛くて大変なことだから。

 何もしないことは、何かを選んだり、決断したり、実行するよりも、ずっと楽だから。

 

(凄く、怖い)


 自分で選んで、考えて、誰かの人生に影響を与えることを口にする。

 それは、とても怖いことだ。

 

(中途半端だ)


 七子は、エリアスの顔を見ることができなかった。

 焚き火が爆ぜる。


「……私は」


 エリアスが呟き、彼と七子の影が、大きな山と小さな山、凸凹な一つとなって揺れる。

 

「私は、未熟なので」


 彼はとつとつと抑揚のない声で続けた。


「貴女に。八つ当たりをしました」


 七子は耳を疑った。思わず顔を上げると、エリアスは苦渋に満ちて額に皺を寄せ、唇を真一紋に結んでいた。彼にとって、七子のしたことは、確かに許せぬことだった。だが彼は、何も知らない幼き者への自分の対応が、決して褒められたことではないと理解していたのだった。子供が知らずに罪を犯したとして、本気になってそれを恨むことは、滑稽で愚かなことだ。だが、加害者の責の軽重はともかく、罪の結果は無慈悲に変わらない。エリアスはもう人ではない。魔だった。罪だけを憎む。それはあまりにも難しい。罪ではなく、人を憎まずにはいられないのだ。目の前にその対象があればこそ、回避することは難事であろう。その眉間の皺は、彼の苦悩を語っていた。彼は脇に積んでいた針葉樹の枝を炎にくべる。


「大人が。大人だとは思わないことです。私は未熟者だ」


 すみません、と彼は目を伏せた。

 七子はと胸を突かれた。


(私、また)


 何も考えていなかった、と七子はたちまち羞恥に襲われた。

 何を見てきたのだろう。

 彼の苦悩の一端を垣間見て来たというのに、七子は自分のことばかり考えていた。

 

「ご、ごめんなさい。わた、私、自分のこと、ばっかり」


 言いかけて、七子は口をつぐむ。

 謝罪することで、余計に相手に負荷をかけるだけだと気づいたためだ。

 

(どうしよう。どうしよう)


 パニック状態になり、自分の足のつま先を見つめて再びエリアスの顔が見られなくなった七子に、


「明日」


 とエリアスはぽつりと言った。


「明日、階層を下りましょう。大迷宮の一番奥下にも、扉があると言われています」


 え、と七子は視線を上げる。エリアスは淡々とした声で続けた。


「嘘か誠か、伝説の類で分かりませんが。異界へ続く扉だと。言われています」


 今度こそ七子は息を呑む。


「元からそのつもりでした。行きましょう」


 エリアスの言葉に、七子は膝を胸に強く抱き寄せた。


(エリアスさんは)


 ずっと、大人だ。

 そう、七子は思った。

 元からそのつもりだったと。

 それは、七子が彼に最初自分は別の世界で生きていたのだと説明した時から、彼はそのように考えてくれていたのだ。

 自分が苦しい時に、他人の言葉の意を汲んで、実行に移そうとする人を、大人と言わずになんというのだろうか。

 炎が滲んで見え、七子は奥歯を食いしばった。

 泣いてはいけない。


「エリアスさん、ありがとう」


 エリアスは自らの望みは口にしなかった。七子の望みを叶えることしか言わなかった。

 今は、それがエリアスの答えなのだ。


(エリアスさんが、望みを言えるように)


 そんな風に変わろう。

 彼が望みを口にできるように、しっかりしよう。

 頼りなげな少女は炎の温かな色を見つめながら、やがて身体の力を抜き、睡魔に引きずられるよう眠りに落ちていった。

 エリアスは焚き火の番をしながら、そっと外套を少女にかけ直した。

 その目は暗い情動を抑え切れず、自責の念に揺れながら――

 いつの間にか、彼を、無数の亡霊が取り囲み、物言わずじっと見下ろしている。

 彼らは、彷徨い、エリアスとともにある。

 エリアスには、彼らの目が「無念を果たしてくれ」と言っているように感じられた。

 彼は、死霊の騎士だった――



 





―1


 

 その日、夜九時前、瑞樹家では、優花の一歳違いの兄のゆうが、家庭教師に雇用されているK大学法学部生の木島礼津きじまれつに勉強を教わっていた。


「れっちゃん、これ、分かんない」


 有は真面目な性格で、気を反らすこともなく、問題を解いている。ところどころで質問を挟み、説明を聞くと鼻先に少し皺を寄せて、解法を自分で考えているようだ。


(手ぇかからん生徒やな)


 生徒が優秀なため、礼津は割りと手持ち無沙汰である。 

 その上、瑞樹家では、家庭教師の彼に、母親の瑞樹夫人が毎度はりきって喫茶や高級な茶菓子を用意し、「先生、先生」と持ち上げ、下にも置かぬもてなしをする。一大学生でしかない礼津には、少々尻の座りが悪いほどだ。

 この瑞樹夫人はいつも小奇麗にしており、外に働きに出ているけはいもない。

 一戸建て、庭付き、犬小屋あり。界隈では、田門地区といえば、割に裕福な家の多い土地柄だと言われる。

 K大学に入学した県外組地方出身の礼津は、大学の掲示板で家庭教師を募集していた際に、先輩から「田門はセレブが多いよ。教育環境もいいから、生徒も大体大人しくて真面目で優秀、手がかからんな」とざっくり印象を教えてもらった。


(ほんまやで)


 ありがたい話である。しかし、生徒の家族――妹に礼津は手を焼かされていた。

 優花である。


「ねえ、れっちゃん、今度滝彦君連れて来てよ」


 黒いガラス材のローテーブルの角を挟んで、優花が身を乗り出しておねだりしてくる。滝彦というのは、礼津の従兄弟だ。彼も、一族の男子の多くがK大学に進学した流れで、同大学生である。一緒にいるところを、たまたまこの少女と行き会って、後から「あの人誰!?」と猛烈に追及されたのが発端だった。

 どう対応したものかと礼津は悩み、無難な台詞を選択することにした。


「優花ちゃん、お兄ちゃんの勉強邪魔したらいかんやろ」

「ごめんなさーい。でも滝彦君に会いたいの。お願いっ、一生のお願い! 滝彦君すっごくかっこいいんだもん!」


 そうか? とは礼津は聞かない。一度これをやって、彼は失敗した。

 閉口する勢いで、「滝彦君のどこがかっこいいのか」を静聴しなければならなくなるからである。

 十代前半の女子でも、優花のような社交的タイプ――彼女たちは、総じて同年代の男の子の「がきっぽさ」に不満を持っており、年上の男性に憧れを持つ傾向があるようだ。

 従兄弟の滝彦は、その意味で、優花の理想とする年上の男性像として、ずっぽり鋳型にはまってしまったようである。


(普段会わんから、かえって理想アイドル化しやすいんやろなあ)


 どこから熱意が沸いてくるのか、優花の追求は激しく、そろそろ礼津もかわしきれなくなっている。

 彼にとって、中学生の女の子は、理解不能の思考回路を持った珍種の生物としか思えなかった。


「――優花。邪魔だから、あっち行ってろよ」


 しびれを切らした兄の有が、シャーペンの芯を神経質にかちかちと押し出しながら言う。


「ごめんなさあい。だってだって、れっちゃんしか伝手がないんだもん。なのにれっちゃんちっとも聞いてくれないし」


(そら、相手中学生はな)


 ははは、と礼津はしらじらしい笑いでお茶を濁した。


「あ、優花ちゃん、そのケーキ、シブーストな。甘いもん苦手やから、食べてもいいで」

「えっ、ほんと? やった、ありがとう!」


 大人しくしていてください、とほろ苦いカラメルのかかったケーキを勧めると、彼女は早速ミントンのフォークを手に、にこにことご機嫌になった。

 

「それじゃ、どうぞ召し上がってください。ほんでもって、有君は勉強進めよな」

「――はあ。元からそのつもりだし」


 嘆息する兄に、妹の方は砂糖を焦がしたケーキのカラメル層をぱりぱりと剥がし、慎重にさっくり割って、一口食べると、


「おいしいよー」


 ご満悦の様子だ。まったく噛み合わない兄妹に、礼津としては苦笑いするしかない。

 時計の針はもう九時半を回っている。今日は有の生徒会活動の都合で少し開始時間が遅れ、こんな時間になってしまった。

 そろそろラストの小テストでも、と書類ポケットファイルの透明ケースからペーパーを取り出そうとした時だ。

 コンコン、とためらいがちなノックがして、「――お勉強中、ごめんなさい」と断り、綺麗に化粧した瑞樹夫人が顔を出した。夜半であるが、これからデパートにでも出かけるようなきちんとした格好をしている。


「優花。やっぱりここだったのね」


 娘の姿に夫人は少々ご立腹の様子だ。娘はぺろ、と憎めない調子で舌を出して肩を竦めている。


「また勝手にお兄ちゃんのところに入り込んで。まあ、先生にお出ししたケーキまで」


 段々夫人の顔が険しくなるにつれ、慌てたのは礼津である。


「あ、ケーキは僕が勧めましたので、すみません」

「あら、こちらこそすみません。かえってお気を使っていただいて」


 ぺこぺこと互いに頭を下げ、らちが明かないので、「どうかされましたか」と礼津は口火を切った。


「ああ。優花にちょっと用がありまして。優花。学校の先生からお電話なの」

「え? 何で? 弓ちゃん先生?」

「これ。先生に向かってそんな呼び方をしては駄目よ」

「はあい。えっと、担任の桃丘先生?」

「そうよ。同級生のええと、何だったかしら……ああそう、篠原さん。篠原さんという子のことで、聞きたいことがあるんですって」


 言いながら夫人は顔を曇らせた。


「篠原さん、まだおうちに帰宅していないようなのよ。父兄の方から学校に問い合わせがあってね、今交友関係に当たって情報収集しているようなの。優花。貴女、何も関係ないわよね?」


 念を押すような言い方だな、と他人事ながら礼津は空で思った。


(ハイソ=トラブル回避の嗅覚優れているやろか)


 どうでもいいことを考えながら、礼津は優花の方を見やる。

 ぺたんとラグの上に座った優花は、ちょっと小首を傾げてから口を開いた。


「私、知らない。あんまり篠原さんとは仲良くないし」


 夫人はあからさまにほっと安堵の表情を浮かべた。「そう、そうよね」と頷く。


「とりあえず、いらっしゃい。お電話保留にしてあるの。急いでちょうだい」


 もう、先生もね、優花と篠原さんが一番仲良かったからなんておっしゃるから――と夫人はぶつぶつ言いながら娘を階下に急かした。あまり担任教師を待たせて、心証を悪くするのを恐れたのかもしれない。

 二人の声が遠ざかり、急に静まり返った部屋に、兄の有が、かち、かち、とノック式シャープペンシルを弄る音がした。

 礼津が視線を戻すと、有は非常に冷めた目で母親と妹の去った扉の向こう側を透かすように見ている。


「あー、有君、どうかしたか?」


 有は目を伏せた。この少し気難しいところのある高校生は、「別に」と言いかけ、不意に顔を上げる。


「名前、聞いたことあるな、と思ってさ」

「はあ?」

「この間、優花が自作絵本のノートを篠原って子に借りたって言って、家で見せびらかしてたんだよ」


 それはまた、と礼津は言葉に困る。

 

「自作絵本だろ? よっぽど心許してなきゃ、そんなもん人に預けたりしないと思うけどな。ま、そういうこと」

「はあ、そりゃまたなあ」


 無意識に顎に手をやって、礼津は間抜けな返答をした。

 一方は心を預けていて、一方は特に仲がよいと思っていない。そのような互いに比重の違う関係というのは、えてしてよくあるものだ。

 片方が非社交的で、もう片方が社交的であるケースなどに多いだろう。

 

(篠原いう子が、優花ちゃんのことを一番仲ええ思っていても、優花ちゃん友達多いからなあ。大勢の中の一人で、大勢のうちにも入らんくらいの認識やったかもしらんな。親御さんは知らんのやろなあ)


 篠原という女子生徒の親が、娘の一番仲のよい友達と思って教師に交友関係で名を挙げたのが優花だったのだろう。昨今は個人情報の関係で、父兄から電話番号を集めて、緊急連絡網一覧を配布するということも難しいと聞く。携帯メールを登録して、学校側から一斉送信で済ませてしまうことが多いというから、個人的に親交がなければ、父兄同士で自宅の電話番号は関知していないのだろう。自宅に固定電話を置かない家もあるというくらいだ。

 篠原という子の親は、娘の交友関係の電話番号が分からず、担任に連絡し、担任から瑞樹家に電話連絡が来たのかもしれない。

 

(しかし、そういう内向的な子やったら)


「相手、真面目な子やろな。夜遊びもせんような子。ご両親、心配して学校や交友関係当たってるんやろな」


 特に会話を広げようと礼津も考えたわけではなかったが、消化しきれずについ口にしてしまう。

 有も同じだったのかもしれない。シャープペンをくるりと回転させながら、接ぎ穂を拾った。


「真面目――もし家出じゃなかったら大事になるよな」

「事件性か?」


 うん、と頷いた有の顔色は少し悪い。兄の有の方が妹よりもよほど繊細なところがあって、普段礼津はにやにやしてしまうのであるが、今回ばかりは流してしまうこともしづらかった。


「多分、学校側も情報収集したら、親御さんには行方不明者届を管轄警察に出すよう勧める思うで」

「警察沙汰になったら、大掛かりに捜索するのかな」


 いや、と礼津は頭をかいた。


「あんまり期待できんよ。日本では年間約十万人行方不明者出ているわけやし、それも警察に届出がある分だけでの話やしな。内1万八千人やったかな、そのくらいは十代未満言うから、自発的な家出やいうことになったらデータ登録して、気ぃつけて街頭補導や職質してくれるくらいやろなあ。警察は積極的に捜査はしてくれんよ。自殺の恐れや事件に巻き込まれている可能性があるて判断された場合は、捜索してくれるんやけど、行方不明者は基本自力人探し言うくらいやしな」


 詳しいことは知らんけどな、と付け加える。

 平成22年4月1日付けで、「家出人」は、「行方不明者」と呼び名を改められた。

 この旧家出人は、特別家出人と一般家出人との二種類がある。

 特別家出人は、当人に家出の意思がなく、何かしらの外部の要因により行方不明となったと考えられる場合や、家出人に何らかの事故・事件性、生命に危険が及ぶ可能性がある場合に適用される。

 特別家出人と判断されれば、その早急性から、警察の積極的な捜査・捜索が望める。

 しかし、一般家出人――警察が自己意思により家出したと判断した場合、事件性が薄いと見られ、基本的に警察が積極的に捜査を行うことはない。むしろ、その捜索は家族等に委ねられることとなる。

 

「まあ、プチ家出ではよ見つかったらええな」

「……そう思うよ」


 会話は途切れ、礼津は小テストをローテーブルに置いた。


「これ、最後な」


 静かに時間が過ぎ、時計の針の動く音と、かりかりとペンを走らせる音だけが響く。

 時間内に有は終わらせ、「解けたよ」とテストを提出した。

 礼津は採点し、


(ほんま優秀なこっちゃ)


 と内心舌を巻く。家庭教師冥利に尽きるというより、自分自身の存在意義に疑問を投げたくなるような満点だ。

 正直、有には家庭教師などいらないと、家庭教師が思っている状態である。


「よっしゃ、今日はしまいや。お疲れさんでした」

「はい。ありがとうございました」


 ぺこり、と有は頭を下げた。

 礼津は教材を全部鞄に入れると、


(優花ちゃん、帰ってこんかったな。下でお母さんと団欒してるんやろか)


 などと思いながら部屋を出かけ、


「れっちゃん」


 有に呼び止められた。


「忘れ物」


 一瞬、礼津はぎょっとして目をしばたかせた。

 対面のローテーブルの向こう、立ち上がった有は、礼津に向かって、黒い本を差し出している。黒一色に塗りつぶされた本は、装丁として異様に見えた。

 あまりにも、この部屋にも、有自身にも、そぐわない。浮き上がってしまっている。


「あー? これ俺のちゃうで」


 本を差し出したまま、有は珍しく面食らったようだ。力なく手を下ろす。


「そうなのか? 俺のでもないけど」


 二人は少し沈黙し、「ほな誰の?」「優花のか?」「ありえん」と互いに困惑した。


「優花ちゃん、確か手ぶらやったで」

 

 最初、いきなりタックルされたので、礼津は優花が部屋に入って来た時、両手が空だったのをよく覚えていた。


「それは間違いない。だから、俺、れっちゃんの鞄の中から出てきたもんだと」

「いやー、俺ちゃうで。どっから出てきたんやろ」


 何か不気味やな――と礼津は真っ黒な装丁の本を見つめた。

 

「ええわ。有君のとちゃうんやろ? 優花ちゃん、きいてみよ。貸してや」


 有は少しためらったようだが、すっと本を差し出した。

 礼津は受け取り、ぎくりと強張った。

 本は、人肌のしっとりとした手触りだった。


「ちょっと、中身ごめん」


 違和感が、警鐘を鳴らしていた。

 しかし、礼津は「ちょっと」と言って、中身をさっと確認させてもらうことにした。表紙を開く。


「……何やこれ」


 礼津はざっと己の顔面から血の気が引く音を聞いた。 




 舞台は再び異世界に戻り、地上へと移る。

 ゲテナ統一帝国。

 大陸の中元で覇を唱え、東にティフ神聖国、西にトエ連合国、北にノール王国及びポラン公国、南にクシャナ王国及びココ諸国連合と国境を接する大国である。

 もともと東西分裂していたのを、纏め上げたのが現在の若き皇帝ヴァレンタインだ。

 周辺国家は大陸統一の野心を隠そうともしないヴァレンタイン帝を大いに警戒している。

 さて、この広大なゲテナ帝国内にも、大迷宮の門が出現していた。

 《シャマルダル門》という。

 ヴァレンタイン帝は、門の出現に対して、電光石火に兵を派遣し、魔の地上への『沸き』を見事に抑制した。

 第一階層はすでに彼らの領域である。

 無論、門の出現場所は不確定なことから、当初、不幸にして民間から大きな犠牲を出した。

 しかし、同じく門の生成されたザール王国が壊滅したのに比べれば、帝国の上層にとっては、ごく僅かな『誤差』の範囲内であった。

 現在この門周辺は、迷宮都市として機能し、正規兵が迷宮への入出を管理する一方、民間からも『潜行者』を募り、攻略を進めているところだ。攻略階層に応じて支払われる報奨金や成果報酬は、真面目に働くのが「あほらしくなる」ほどだ。

 僅か一〇日ほどの『潜り』で一年分の稼ぎを弾き出したなど、この種の噂は枚挙に暇がない。儲け話を聞いて、我こそはと旗揚げする者も多いという。

 チップは己の命であり、ハイリスクハイリターンというわけである。

 この噂は、大迷宮への攻略に忌避感を持たれぬよう、帝国が故意にばらまいたものだが、全てが虚構というわけではない。

 嘘の中の真、真の中の嘘であり、誰かが容易く命を失う一方で、一部大金を稼ぐ者も存在した。

 要するに、悪いところは小さな声で、よいところは大きな声で宣伝というわけだ。

 たゆまぬキャンペーン活動が功を奏してか、飴に群がる蟻のように、迷宮都市へ人民がどっとなだれ込み、あとも切らさぬ様である。

 群れ集う蟻の一匹に、《怒れる星傭兵団》の副団長、グレン・タキストンという男がいる。

 やや後退気味Mの字の前髪を持つ彼は、昨晩散々花街でお楽しみだった。

 楽しみ過ぎて、現在ガンガンと痛む頭を抑えながら宿への道を急いでいた。


「やべえ、団長にどやされる」


 朝帰りのことを不潔だなんだと色々言われるに違いない。  


「う」


 グレンの顔色が下から上に青黒く変わった。


「おぇえええええ」


 まだ準備中の青果露天商の脇でしゃがみ込み、盛大に吐しゃする。

 朝の散歩中の犬は、駄目な大人を汚物のように見ると、後ろ足で砂をかけてさっさと去って行く。

 また、露天の店主は露骨に顔をしかめて瞼をぴくぴくさせている。

 しかし、年配の店主は大きな嘆息一つして、文句を言うのを諦め、黙々と作業に従事することに決めたようだ。無言で橙を親の敵か何かのようにきゅっきゅきゅっきゅと布で磨きまくっている。

 何しろ、グレンの名はこの迷宮都市においては「なかなかに有名」である。帝国の選定公家の食客である《西方の風騎士団》のオルガ・ミューレンや《青い月団》のイライアス・ブラックのような綺羅星には大分劣るものの、住人たちからは「ああ、あの」といやそうに道を譲られる程度には名と顔を知られているのだ。

 人はそれを『素行不良』というが、グレンをはじめ《怒れる星傭兵団》に他者の目を気にするような細やかな神経の持ち主はいない。

 いや、約一名いるにはいるが、世間の目ではなく、美的なそれを追求しているのであって、気配りや繊細さとは縁のないメンバーばかりである。


「ふーっ、すっきりしたぜ。実に爽やかだねえ」


 ごきごきと首と肩を鳴らしながら、にやつく笑みでグレンは立ち上がった。

 空が青い。快晴だ。

 人様のうちの前で気持ちよくリバースした後の空の青さは突き抜けており、空気のうまさは肺腑に染み渡るようだ。 

 今日もすばらしい一日を送ることができるだろう。何しろ自分は絵に描いたような善人だ。

 そうグレンは確信していた。

 お国が民を騙して命を投げ出せと扇動するのに、自ら気持ちよく参加してやっているのだから、これを善人といわずして何と呼称するのか。

 これが彼の言い分である。

 さあ、今日も一日素敵に無敵に労働しよう、とずいぶん軽くなった足取りで歩き出した時、


「なんでだよ!?」


 頭にキン、と来る少年の怒声が彼の歩みを止めた。


「どうしてだめなんだよ!? 納得いかない!」


 田舎から出てきたばかりです、といわんばかりの野暮ったい身なりをした金髪の少年だ。彼は『潜行者プレイヤー』受付の役人に食ってかかっている。


「いや、君ね。人ヒューマンの男子の場合の規定身長に足りてないんだよ。年齢も十四歳じゃあ、ぎりぎりだしなあ。国も将来の働き手である若者を無為に死なすわけにはいかんからね、潜ってすぐに死亡しそうな子供は潜行を許可しないんだ。迷宮にも縛りがあるんだよ。な、もう少し育ってから再挑戦してくれ」


 慰めるように説得する役人に、少年はますますいきりたった。


「待てない。今すぐ俺は潜りたいんだ! 畜生、俺の両親も幼馴染も奴らに殺されたんだぞ! 敵を取りたいんだよ! やっと怪我が治って……絶対に大迷宮に潜るって決めていたんだ……それなのに……それなのに、潜れないなんてどういうことなんだよ!?」


 詰め寄る少年の気炎に、役人はたじたじとなっている。

 グレンは無精ひげの生えた顎をぼりぼりかきながら、素早く脳内の算盤を弾いていた。

 やがて、にかっと清々しいまでの笑みを浮かべる。頬の肉が高く盛り上がり、口元は下唇がやや上唇を舐める形で三日月に弧を描く。

 グレンは剣帯を一撫でして、機嫌よく踊るような足取りで彼らの方へと向かった。

 少年は変わらず喚いている。

 憤りのあまり背後の不振な気配にも気づかぬ少年の肩に、左腕を巻きつけた。


「っな」


 いきなりのことにぎょっとして振り返った少年に、右人差し指を「ち、ち、ち」と振ってみせた。

 グレンの眉毛は悩ましげな八の字に寄せられ、


「僕ぅ、なにをそんなに怒ってるのかなあ? お兄さんに話してごらんよ。力になれるかもしれないよ?」

 

 親切そうなそぶりで助力を申し出た。

 だが、少年の方も胡散臭さを嗅ぎ付けて警戒心が天元突破したのか、


「は? なんだよおっさん」


 ものの見事に一刀両断である。


「おいおい、礼儀ってもんを知らないのかい? 俺のことはグレンさん、もしくはお兄さんと呼びなさい」

「うるさいな。邪魔しないでくれよ。こっちは今大切なところなんだ」

「やれやれ、人の話を聞かない僕ちゃんだなあ」


 グレンは肩を竦めてみせる。


「僕ちゃんは迷宮に潜りたいんだろ? だけど門前払いってわけだ? ん? グレンお兄さんなら、なんとかしてあげられるのになあ」

 

 少年は如何わしいものを見るように睨んだが、その瞳が僅かに揺らぐ。


「本当かよ?」


 行き詰まりを感じていたのか、語調はたよりなさげに弱まる。

 しめた、とグレンが思ったかどうかは定かではない。

 この男が内心舌なめずりをしていたところで、その表情はあくまで曇りなき笑顔である。


「おうともさ。うちの傭兵団は、いつでも団員を募集中! あったかくってハートフル。大家族みたいな気のいい連中ばかりさ。牽引する経験豊かな兄貴がいれば、一緒に迷宮に潜れるよ?」

「……すぐに潜れるのか?」

「もっちろんだよ! お兄さん、嘘つかない! な、お役人さん、そうですよねえ?」


 置いてきぼりにされて、急に話を振られた青年役人は「まあ、そうだが……」と帳面をめくる。


「グレン……《怒れる星傭兵団》のグレン・タキストンだな。確かに牽引者として、功績は十分だが……」


 歯に引っかかるものいいの役人を「そおら!」とグレンは大音声で遮った。


「お役人さんもそういってるし? いやあ、僕ちゃん、すごく幸運だよ! 素敵な仲間にめぐりあえるなんて、君、さいっこうについてるよ! うん、じゃあ、これから一緒にお兄さんたちが根城にしている宿に行こうか!」


 有無を言わせぬ勢いで、善は急げと少年の背中を押すグレンに、役人が後ろから声をかける。


「待て。少し考え直せ。そいつは」


 言いかけた役人に、少年は肩越しに振り返って、叫んだ。


「俺は……俺はどうしても迷宮に潜りたい。迷宮の魔に殺された親父やおふくろ、セシリアの敵を取りたいんだ! そのためなら……!」


 悪魔にでも魂を売ってみせるってかあ、とグレンは内心台詞を継いでみせた。

 この男、熱血や仲間意識とはまったく無縁である。

 利用し、利用されるのはWINWINなお友達。でも、できれば一方的にしゃぶりつくしたいの。ずうっとしゃぶりつくしたいな!――それが彼のモットーだ。

 悪名高き《怒れる星傭兵団》。 

 仁義に厚い武侠の徒からは、蛇蝎のように嫌われる迷宮都市の汚物の代名詞だ。

 彼ら自身は、「自分のこと? だあいすき!」とまったく意に介していないのではあるが、その実力だけは折り紙つきなことから、排除されずに居場所を確保しつつあるのが現状だった。

 

「待て」


 再度制止する声がかかる。

 決して大きな声ではない。

 しかし、凛と空気を奮わせる、『力』ある声。

 白地に赤のラインの走る衣装の女が立っている。所々に十字が衣装され、赤い肩外套からは、金の組紐が垂れ下がる。その髪は白金プラチナで、透き通るかのように細く、陽光にさざめき、人々は目を奪われる。

 麗人でありながら、その腰には不似合いな剣が吊るされていた。


「おや、こいつは《西方なんとか》のオルガ・ミューレンさん! 本日はよいお日柄で!」

「黙れ」


 挨拶されたオルガは、氷塊を浮かべたかのような眼差しを寄越した。


「悪名高き輩に挨拶などされたくもない。貴様、あいも変わらず、右も左もわからぬ若年者狩りに精を出しているようだな」

「おいおい、人聞きの悪いことをいいなさんな。俺は、迷える若者を導いてやろうかな? なんて親切心で助力を申し出ただけだがねえ。坊やも納得しているようですし? 外野に文句は言われたくないですし?」


 不真面目な返答でグレンは左右に肩を鳴らした。

 ゆらゆらと定まらぬ姿勢だが、もし一秒後に戦闘開始してもまったく違和感を覚えず、スムーズに移行できただろう。

 彼は時に剃刀に例えられることもある。スイッチのオンオフはこの男にとって実に容易いことだった。

 一方、オルガはグレンを無視して、少年に直接語りかけた。


「少年よ。君がついていこうとしている男は、この迷宮都市のダニだ。寄生虫だ。確かに明日にも迷宮に潜ることはできるだろう。しかし、襤褸雑巾のように使い尽くされて消耗品となるだけだぞ」

「……それでも。それでも俺は迷宮に潜らなきゃいけないんだ!」


 ふむ、とオルガは顎に指を当てた。


「君はどうにも焦燥のあまり、手段と目的を取り違えてしまっているようだな」

「なんだと?」


 少年の語調が跳ね上がる。


「実際そうだろう。迷宮潜行が手段、復讐成就が目的ではないのか? 潜って死にたいならそこのダニについていきたまえ。しかし、潜り続けて生き延び、復讐を遂げたいというのなら、その男についていくことは遠回りどころかゲームオーバーというやつだ。それもわからんなら、今すぐに死ね」


 ひゅん、と音が風を切った。

 少年は目を見開き、己の前髪がぱらぱらと地面に落ちて行くのを呆然と見ていた。

 オルガと少年の距離は、一〇メートルほどである。

 遠回りに人垣ができていたが、彼らの内、オルガの剣の軌跡を目で追うことができた者はほとんど皆無であった。

 グレンは、もちろん、僅かに状態を反らして、嫌がらせのような『それ』を避けてみせた。

 

「私は今、君を頭から股間まで真っ二つにしようと思えば簡単にできたぞ。いいかね、今自分が何をされたのか分からなかったというのなら、迷宮に潜りたいと駄々をこねる前に、少しは動体視力を鍛え、ミジンコのような現在の能力を僅かでも研磨することだ。そこの男はそこまで親切ではない。いきなり素人を迷宮にぶち込んで、炭鉱のカナリアの代理とするだろう。あるいは無防備に放置して、大物を引き寄せる餌にするだろうな」


 あったりぃ、とグレンは心中に拍手喝さいする。

 クズにはクズの使い方ってのがある、適材適所だよ、というのが彼の言い分である。

 

「……ちくしょう」


 少年はがくり、とひざ折れた。憎くてならぬ、とその瞳は濡れている。オルガはゆっくりと彼に近づき、声をかけた。


「君が強さを求めるなら。私について来い。いまさらだが、私はオルガ・ミューレン。《西方の風騎士団》の団長だ」


 はっと少年は顔を上げた。その面は驚きに彩られ、虚を突かれたようにぽかんと間抜けに口を開けている。


「お、俺は……ロン・バー」

「ふむ。よろしくロン」


 白い手袋に包まれたオルガのほっそりした手が差し出されるのを、膝折れた少年ロンはおそるおそる握り返した。


「って、目の前で勧誘横どりされたんですけど」


 はっはあ、とグレンは天を仰いで笑う。僕、切れちゃおうかなあ、とその指を危険に剣帯へと這わせた時だ。

 オルガは口元に妖艶な笑みを刻み、「ただとは言わぬ」と片方の眉を上げた。


「ティフ神聖国のカルマ門。第四階層で、故ザール王国のジャムジャムアンフ門の第四階層とつながっていたと聞く」


 駄賃代わりに、駄犬に情報をくれてやろうと、オルガは尖った顎を逸らしている。


「いや、それすでに知ってますし」


 グレンは半眼のまま、剣の柄から手を離さない。大迷宮は蟻の巣状となっている。各五門の入り口から潜行しても、同一階層にたどり着くとは限らない。


「ならば、追加情報だ」

 

 オルガは更に骨付き肉を投げ入れる。


「ザール王国の死霊の群が第四階層飛んで第十階層で目撃されたそうだ」

「……最前線だな。で、どこだ?」

「ふふ。我らが《シャマルダル門》の十階層だ」


 その意味するところは、重要である。

 

「これでティフ神聖国の《カルマ門》、ゲテナ統一帝国の《シャマルダル門》の層がつながった」

「そいつはそいつは」


 大袈裟に驚いてみせるグレンに、オルガは全く反応せず続けた。


「ティフ側は神聖魔法の使い手が多いためか、まだ十階層までは攻略できていないが、一つのめどとなる。攻略拠点は、第十階層に『本物の迷宮都市』が築かれる可能性が高い」

「ザールの死霊の皆さん、死んだ後ながら、実にいいお仕事しますねえ。どんだけマーキングしてるんだか」

 

 割と本気でグレンは感心した。


「さって、前から噂されているが、ご一行引き連れて迷宮下っている最前線の潜行者《死霊の騎士》っつうのは存在するのかね?」

「死霊は土地か者に縛られる。彼らを牽引している何かがいるはずだ」


 二人は無言で視線を交わし、グレンは両手をだらんと下ろした。戦意解除の明示である。


「ま、誠意ってのは受け取ったかな。僕ちゃん、そこの痴女に童貞奪われそうになったら、お兄さんを頼んな。いい花柳街を紹介してやるからな。何せ、我ら《怒れる星傭兵団》の門戸は童貞非童貞差別せずに開かれているからよ」


 オルガが抜剣する前に、グレンは左手で腰をかきながら、背中越しに右手を上げて根城の宿《奮えるほどに筋肉が好き亭》へと歩き始めた。

 


(たった一人で、大迷宮の最前線を攻略し続ける騎士、ねえ)


 選定公の後ろ盾を持つオルガ・ミューレンの情報は硬い。

 ある筋からすでに入手済みの《死霊の騎士》の情報であったが、より信憑性と確実性が高まった。

 この存在自体亡霊のような騎士が、噂ではなく現実味を帯びて、情勢を動かそうとしている。 


(第十階層が架け橋か。お国は常備兵を出し惜しみなさって各国皆様足並み揃わねえし、ティフの神聖なる女王様は苛々してるって聞いたが、きゃほうと大陸会議を招集しなさるかね)


 さてはて、とグレンは両手をこすりあわせ、のんびり歩く。


(さっきの坊やの死相は面白そうだったんだがねえ。あいつは当たりだ。物語の主役ってやつだな。きっと色々引き寄せなさるぜ。ラック値が高いってやつだな、うん。《死霊の騎士》といい、十階層のリンクといい、こいつは転機だ。うちの大将に相談するべえ)


 グレンは「副団長のお帰りだぜえ」と常宿の扉を開いた。

 彼らは、ハイエナは働き者なんですよ? と主張し、《西方の風騎士団》の攻略日程に合わせて、第十階層へと潜行することになる。


 第十階層、魔の森。


 ちょうど、七子が出現し、エリアスと出会った階層であった。



 




 深閑とする第十階層、魔の森。

 この針葉樹の森を、死霊の群が練り歩き、冷気のような溜息を吐き散らしたのは昨晩のことであった。

 七子が彼らの怒りと嘆きの記憶を見た翌日。

 少女は、不意に瞼の裏が明るい、と感じた。


(――朝)


 頬を何かに押し付けていた七子は、不思議にすっきりと目が覚めた。

 ぱちり、と目を開く。横向きで丸まった姿勢になっているらしい。

 一瞬、ここはどこだろうと混乱した。

 土の匂いがする。目の前の草は朝露にしっとり濡れていて、


(草――? 地面?)


 違和感を覚え、僅かに身じろぎした。

 彼女はそうとまだ自覚していないが、スカートは折れ曲がり、プリーツの襞が太ももの下に巻き込まれてしまっている。あとでがっかりするだろうが、今はそれどころではなかった。

 地面に直接寝ているわけではない。

 硬い地面には、外套が敷かれ、七子はいつの間にかその上に寝ていたようだ。

 あ、と七子は一気に青ざめた。

 誰の外套か。

 エリアス以外にその持ち主はいないだろう。

 慌てて跳ね起きる。周囲を見回すと、昨日の川辺だった。竈の火はもう落ちている。振り返ると、朝靄に覆われた針葉樹は真っ直ぐに立ち並び、底知れぬ暗がりの奥へ奥へと七子を差し招き吸い込むかのようだった。彼女は恐ろしくなって慌てて水面に視線を移した。

 森は、不気味で、暗くて、寒々しい。暗過ぎる。

 あまり覗き込むと、魂を取ってしまわれるかもしれない。

 そんな妄想が少女の内に沸き起こる。思考に囚われまいと、七子は頭を振った。

 身動きすると、余計に布地の上に座っているのだと居心地が悪くなる。

 上半身を起こしてなお、肌を覆うストッキング越しにも敷布の感触は柔らかだ。

 唇に歯を立てて、泣きそうに顔を歪める。


(私、役立たずなだけじゃない。エリアスさんの、マント、取るなんて)


 つきつきと胸に何かが刺さる。後悔ではない。申し訳なさでもない。

 七子は何よりも、自分が存在するだけで、誰かに迷惑をかけることがとても怖かった。

 自分が、生きて、息をしている。

 発言をする。

 その結果が、誰かにとっての不快につながるのではないか。

 生じるそれを思うだけで、七子は消えてしまいたくなる。

 少女の望みは、ただ一つ。

 誰も自分を見ないで欲しい。誰かに迷惑をかけたくない。

 小さく小さくなって、息を潜めているのに、いつも少女は、そこにいるだけで誰かに溜息を吐かれてしまう。

 昨晩、彼女は僅かに前進したかもしれない。

 しかし、一晩立つと、その勇気は、熱に浮かされたあくまで一過性のものだったのだと七子に自覚の冷水を浴びせた。勢いだけだから、すぐ鍍金メッキを剥がされる。ベアー元帥のかけてくれた魔法は解けて、元の自分になってしまったのだと彼女は落ち込む。

 人は簡単に変わることなどできない。

 

(エリアスさん)


 不安そうに七子は周囲を見回した。エリアスの姿が、ない。

 ぶわっと、焦燥が七子の胸を重く圧迫した。

 

(嫌だ。怖い。どうしよう)


 見捨てられたのかもしれない、と七子は小さくなる。

 動くことも怖かった。

 うつむいて、ちっちゃくなって、周囲を見なければ、怖いものは見えなくなる。

 

(だめ)


 そんなの、だめだ、と少女は無理やり舵を切り替え、ぎくしゃくと動き出した。

 どうしようもない。これは現実なのだ。

 彼女は理解していたのである。

 若木ゆえの脆さと柔軟性が、逃避は許さぬ、と哀れな子羊を追い立てる。

 七子はお尻の下に敷いてあった外套から慎重に降りた。

 はじめてそこで、スカートに皺ができているのに気づいた。

 制服のまま寝てしまった経験のない七子は、襞に走るくっきりした無数の折れ線に愕然とし、意気消沈してしまう。


「ううん」

 

 外套の方が大事だ、と彼女はスカートのことは頭の隅に追いやることにした。

 土ぼこりを落とし、きちんと布の端と端を持って、皴を伸ばす。

 線をあわせながら、丁寧に折りたたんでいく。不器用ではあるが、一生懸命にやる。

 これもまた一種の逃避ではあるが、何かをしていれば、心は落ち着いていく。


(お礼、言わなきゃ)


 たたんだ外套を大事そうにぎゅっと胸に押し抱いて、彼女は改めて小動物のように周りを見回した。

 茂みが揺れているのが視界に入り、ぎくりとする。

 葉陰に茶色い物体が動いている。

 

「え?」


 ささっ、と物体は茂みに隠れた。しかし、警戒しながら頭を出す。そしてまた引っ込める。

 本物の動物だった。小さい。

 七子は目を見開き、油を差し忘れたかのようにぎこちない動きでしゃがみ込んだ。

 生き物と目を合わせようとしたのだ。


「あ、あのね」


 どうして声をかけようなどと思ったのか。

 

(だって、まるで)


 七子は思う。


(たぬきみたい)


 しかも、二頭身のデフォルメされたような子だぬきだ。

 七子はぬいぐるみが大好きだ。ファンシーな生き物を愛しており、自らノートに描き出して空想に浸るほどだ。

 そんな嗜好の彼女だから、不安も恐怖も、驚愕と興奮で吹き飛び、思わず声をかけてしまったのである。


「こ、怖くないよ。大丈夫だよ」


 前傾し、宥めるように言うと、しばらく沈黙が辺りを覆う。

 七子は手のひらに汗をかいていた。

 彼女には、元の世界でも、自動車の下に隠れた猫を見つけると、不審者よろしくその場にしゃがみ込む悪癖があった。

 膝を抱えて根気よく生き物が這い出してくるのを待つのだ。しかし、たいていは失敗する。

 近づいてくる人のけはいに、びくっとして、うろたえ、挙動不審になる。人に見られる前に、彼女自身の方が先に退散してしまうのだ。

 だが、今回は誰もいない。来るとも思えない。

 だから七子は待った。茂みの間に、焦げ茶色の塊が動いているのを、熱心に目で追う。

 すると、とうとう生き物は葉陰から再び顔を出した。

 ひょこ、と黒い隈取がのぞくと、


「ぼくね」


 生き物――たぬきが口を開く。

 少女は悲鳴を押し殺した。怖かったのではない。一昼夜とうてい信じられぬことが立て続けに起こる中で、初めて本当にどきどきわくわくする出来事との遭遇だ。

 彼女は静かに興奮していた。

 たぬきの邪魔をしてはいけない。エリアスの外套をぎゅうぎゅうと抱きしめ、少女は息を潜めて静聴する。

 子だぬきは七子を悪い人ではないと思ったのか、少し大胆に身を乗り出し、こう言った。

 

「あのね。ぼくね、おかあさんがまいごなの」


 色々と彼のお母さんとやらには言い分のありそうな台詞だ。

 しかし、盲目状態の七子はこくこくと頷いた。子だぬきは、ちょこんと首を傾げると、とてとてと歩いて来る。二足歩行だ。七子は呼吸困難に陥った。

 目の前で子だぬきは止まり、再度首を傾げた。


「ぼくのね、おかあさんみた?」


 その真っ黒で円らな瞳が、七子を上目遣いにじぃっと見上げた瞬間、少女は「あぅ」と意味のないうめきを漏らした。


「え、えっとね、たぬきのお母さんかな?」


 子だぬきは、大きな真っ黒の目を差し向け、ぬいぐるみそのものの前脚――さきっぽだけ黒い手――をもじもじすり合わせた。


「うっとね、ぼく。ぼく、たぬき?」


 わあああああ! 

 と、七子は顔面を覆った。実際は、エリアスの外套に顔面を押し付けた。

 そんな少女の背後に、影が落ちる。

 戸惑い気味に、影はこう尋ねた。


「すみません、私の外套に何か……?」


 臭いますでしょうか、と困惑したように、エリアスがいつの間にか立っていたのである。

 七子は「ひゃぃいい!?」と素っ頓狂な声を上げて、


「ごめんなしゃい、ごめんなしゃい!!」


 舌を噛みながら謝罪した。

 

「……」


 やはりエリアスは、まったく身の置き所がないと立ち尽くしていた。顔面ばかりは、他に表情を取り繕う術を知らぬからか、とりあえず無表情で気難しげである。

 二足歩行の子だぬきは、ぽかあーんと二人の主従を見上げ、「ぼく、たぬきなの?」と存在の定義について自問自答し、くしくしと自らの鼻舌を前脚でこすった。

 眉をひそめたエリアスは、無害と見て色々となかったことにしたようだ。


「申し訳ない、目が覚めるまでにはと思ったのですが」

「え、いえ、あのっ、私こそ。あの、ごめ、いえ、その。ありがとうございました」


 ようやく落ち着いて、七子は外套をエリアスに返そうと差し出した。

 エリアスは少し沈黙し、「――いえ」と受け取ろうとしない。

 七子は困った。

 差し出した両手が拒否されているようだ。

 どうしよう、と少女の両腕が自重以上に折れる心に引きずられて下がっていく。

 エリアスは気づかぬ風で、子だぬきに視線をやった。その赤い目は無機物でも見るような色で、子だぬきは怯えてすくみあがっている。全身の毛が逆立ち、ゴルゴンに睨まれ石化したみたいにびしっと固まった。

 エリアスのほとんど皆無に近かった関心は、更に針を振れた。もはやその針は水平線すれすれ、ゼロに近くなる。

 彼はこのような生き物を知っていたし、七子に危害を加える前に排除することができると結論したのである。

 もともと、彼は少女を無為に置き去りにしたのではなく、周囲をうろつく不浄の輩を始末しに出ていたのだが、そのことを説明するような器用さはまったく持っていなかった。

 それに、彼にはもっと気にかかることがあった。


「――何か」


 口ごもる。

 この違和感を少女に伝えるか否か、是とすることができなかった。

 彼自身にも不明の感覚だったのだ。

 不意に彼は見えない糸に引かれるよう空を見上げた。

 釣られて、七子も天を仰ぐ。

 ざ、ざん!

 と針葉樹が揺れた。

 違う。

 大きな物体が、森を飛び越えて空中に駆け上がったのだ。

 エリアスは無言のままに剣帯に手をかける。

 大地が鳴動した。

 同時に、主従二人の目は、瞳孔をきつく引き絞る。

 知らず、七子は恐るべき動体視力で物体を静止写真として捉えていた。

 巨大な何か。

 人型をした角の生えた何かだ。

 その巨体は手足が異様なほどに長い。

 その長い手足で四つんばいに走っている。

 森奥から駆けて来ると、渡河せんと空中に飛び出したのだ。

 七子の目は、はっきりと姿を捉えていた。

 その巨体は鬼のようである。

 額に三本の不恰好な角が生えている。

 そして。

 ぼこぼこと背骨らしきものが膨れ上がった背中に、人を乗せている。

 人は、銀色の髪にチョコレート色の肌。とても若い。

 背中に乗ったその人物は、確かに七子を見た。冷静そうな少年だ。着物を少しアレンジしたような不思議な服装をしており、胸当てをした弓道衣がもっとも近いだろう。ただし、あぶみにかける足はブーツで覆われている。

 目が合った、と七子が思った瞬間、時が動き出した。

 

 ざうんっ、


 と音がして、次々に同じ《鬼》が飛び出す。

 五体。その背中には、同じく銀髪チョコレート色の肌の人々が騎乗している。

 そう、彼らは《鬼》に騎乗しているのだ。

 彼らはどこかに向かっている。

 

(焦っている――?)


 七子が感じたのは確かな焦燥だ。

 何かが起こっている。

 思考が辿り着くと、風に乗って七子は炎と血の香りが運ばれてくるのに気づいた。

 何か、とてつもないことが起きている。

 エリアスが七子を見た。彼の未知数に跳ね上がった嗅覚も、同じく異変を嗅ぎ取っていたのである。

 ついで、子だぬきは、エリアスの視線を逃れるよう、そうっと七子の後ろに移動した。

 エリアスはもちろん注意を払っていたが、無視して七子に尋ねた。


 ――どうしますか、と。


 


 

 





 《鬼》 が走る。

 手足は異様に長い。

 眼窩は抉れており、赤々と炎が揺れている。

 人か。

 一瞬判断のつかないでたらめで奇妙なフォルムの巨体。

 肌色は様々だ。

 先頭の《鬼》は黒い。

 その他、灰色や鉄錆た鈍色の皮膚をした者が続く。

 モルタルを何度も塗り重ねたかのような岩肌の下、筋肉と骨の形が浮いて見える。

 猫背に走る姿は、一見して、猫科肉食獣に似ている。 

 疾走する四肢の動きにあわせ、肩甲骨まで骨盤まで、胸椎が滑らかに上下した。

 素晴らしい柔軟性とスタミナを備えたこの生き物。

 巨大な偽人――《鬼》。

 彼らはこの大迷宮において、飼いならされた種族だ。

 駆ける。

 一体が先導し、その後ろから五体の《鬼》が追う。

 

「急げ」


 先導する《鬼》に騎乗した銀髪の少年が、食いしばる歯の隙間から漏らした。その肌は茶褐色だ。髪は飾り紐で一つに縛り、額に布を巻いている。背中には矢筒を背負い、肩から胸元を覆う射籠手には、彼らの家紋が各自刺繍されていた。

 少年のそれは、あたかも流水に吹きこぼされ行く勾玉のような柄だ。

 七子が弓道着のように感じたその格好は、流鏑馬やぶさめの衣装に近似しているかもしれない。

 最も高貴な家紋を背負う彼は、第十階層以降に分布するネコノカ族の若長である。

 地上においては、彼ら自身の肉体が秘薬や強力な道具の材料となることから乱獲され、地上を捨て去り、棲家を大迷宮に移住した一族だ。寿命は長く長く生きれば千年もの齢に達する。しかし、これほどに生きる一族はいない。寿命をまっとうする前に、殺されてしまうのだ。

 人間にとっては数世代前の出来事も、つい昨日のように彼らは悪夢を覚えていた。


 だん!


 と音がして、追いすがる二本角の《鬼》が横に併走した。

 騎乗するのは、少年によく似た面差しの少女だ。前髪を一文に切り揃え、尖った耳にぶら下がる銀色の耳飾は精一杯のおしゃれだろうか、風圧を受けて無残に踊り狂っている。

 その頬を涙の筋が流れ、色が白ければ青ざめて見えただろう。


「カシギ兄さま」


 気の強そうな杏仁型の両目が、絶望と怒りで塗り潰されている。


「また、人間どもが。また」


 言葉を失い、少女はうめいた。優れた感応の力が、同族の悲鳴を拾い、少女の心を粉々にする。死に瀕した同族の断末魔の声は、距離を遠くしても、最期鮮やかに少女の内側に響いて木霊するのだ。そして唐突に、ぷつり、と消える。

 また一つ、声が届いて、消失した。


「――間に合わない」


 みんな、死んでしまう。

 そう呟いて、力失ったよう薄い上体を反らした少女に、少年――カシギは叱咤する。


「ルリ。あきらめるな。間に合わぬことはない」


 ぐい、と朱色の手綱を引いた。進路をやや西へ切り替える。道は険しいが、距離は近い。彼らは精鋭だ。むしろ、ネコノカ族の戦力全てと言ってもよい。

 

(狙い済ましたように、《植え付け》の儀式の日を狙って来た――)


 精鋭たる彼らは、村の共同体の祭司でもある。

 どうしても、村を離れて儀式を行わねばならなかった。

 その隙を突くように、人間どもは彼らの共同体を襲撃したのだ。


(悪夢のネコノカ狩――再現させてはならぬ)


「急げ。もっと速く。もっと高く」


 飛べ、と額に意識を集中させる。《鬼》 は応えて、長い手足をぐっと縮めると、一気に跳躍した。

 虐殺された最大の理由は、その布地の裏にある。

 しかし、同時に最大戦力ともなりうる――若長であるカシギには、冷たい計算もあった。日の一切射さぬ洞窟で秘伝の外科手術を行い、一族の幼体を安置してきている。彼らは遠く未来に目覚めるだろう。

 

(《植え付け》の儀式が終了した今、最悪全滅は免れる。しからば、思い残すことはない! 命、燃やし尽くしてみせよう!)


「皆、いま少し、がんばってくれ!」


 おう、と騎乗の戦士たちは応えた。皆若い。成体はほとんど狩り尽くされてしまったためだ。カシギ自身、長男ではない。彼は五男であった。上四人の兄は、死んだ。人間に殺されたのだ。元は大家族であったカシギの家も、今や生き残っている肉親は妹のルリだけである。だから、今や村は一つの家族だ。

 間に合え、と彼らは先を急ぐ。

 追走する少女ルリの瞳だけが暗く、「私たちが何をしたというの」と憎悪の炎に燃え上がっていた。






 一方、ネコノカ族の村である。猫の額ほどの土地に、細々と畑を耕し、掘っ立て小屋のような木造家屋が身を寄せ合っている小さな村。決して豊かではない。慎ましく暮らしてる印象だ。

 その集落のあちこちから炎の手が上がっている。

 襲撃者達は、帝国首都大司教の肝入りであるコジモ司祭が陣頭指揮をとっていた。

 共同で、《西方の風騎士団》も参加している亜人の大討伐である。

 《西方の風騎士団》は集落までの戦力温存のための護衛であり、彼らを雇う選帝侯の政治的理由で参加していた。

 護衛という理由で参加しているとはいえ、《西方の風騎士団》 のメンバーは現在動いていない。苦々しい顔をした者さえいる。一人だけ嬉々として虐殺に加わっている年若い構成員もいるが、多くの者は、決してこれを気持ちよくは思っていなかった。

 ほとんどこの虐殺は教会の独壇場にあった。


「ほう。腰抜けの《西方の風騎士団》にあっては、中々に信心深い信徒がいるようですね。彼に祝福あれ。ルーラー」

 

 指揮官である壮年のコジモ司祭は、感心したように呟いた。

 彼のつるつるにそり上げた頭には半円球のベレー帽が被せられ、秘蹟を受けた印に金のルーラーマークがあちこちに刺繍されている。

 ルーラーとは法と秩序の神であり、全知全能神を指す。その真の名前は秘匿されており、便宜上の呼びかけに使われる言葉がルーラーだ。

 教会においては、他に現れる神々は、ルーラーの異相に過ぎず、虚構に惑わされやすい民衆が奉じる詭弁であるとされる。帝国が国教としたことから、ルーラー教は土着の多神教を駆逐し始め、その勢いは破竹のごとく留まるところを知らずにいた。

 この悪魔として堕とされてしまった神々の逃げ込んだ先が大迷宮とも言われている。地上にいることを許されず、地下へ神々は追いやられてしまったというわけだ。

 ゆえに、唯一絶対神教。

 コジモ司祭は、子供の頃から熱心な信徒であり、やがて「神の啓示を受けたのだ」と本格的信仰の道を目指して、教会の門戸を叩いた。

 異教徒狩りで数々の功績を挙げ、いずれは司教にと待望されている男だ。

 教区内では穏やかで敬虔な人柄から、多くの信徒たちに慕われている人格者でもあった。


「それにしても」


 コジモ司祭はゆっくりと周囲を見回す。


「こんなところに巣を作っているとは、いただけない。亜人どもは全て浄化なさい」


 彼の白い司祭服は返り血で染まっていた。いたって彼の表情は冷静だ。

 司祭は慈悲深い。

 隣人を愛し、敵を許せと教えてきた。

 教えに従い、質素な生活を送る。

 しかし、彼はこう言うだろう。

 亜人? ネコノカ族? きゃつらは人ではない。ゴミ。ゴミ。ゴミ。汚物は浄化し、綺麗な世界を取り戻さねばならぬ。

 目じりは垂れ、口元は微笑を湛えている。

 慈悲を垂れるべき相手は選別されるのだ。

 人でない者や異教徒には、鉄槌をくれてやればよいのである。

 目の前に引きずり出された亜人――ネコノカ族の少女の目は、恐怖ではなく怒りと憎しみで燃え上がっている。


「許さない。許さない許さない許さない! お前らなんか、若長がいれば!」


 罵声は続かなかった。彼女を拘束していた教会付きの神聖騎士が地面に少女の顔を引き倒したからである。コジモ司祭は特に心を動かされた様子もなく、


「串刺しがよろしい」


 とにこやかに言う。

 コジモの引き連れた神聖騎士たちが、長槍を構え、四方八方から少女を突き刺した。

 両手を後ろでに組んだコジモの頬に、ぴしゃ、と血が跳ねる。


「ふうむ」


 彼は手布を取り出して、頬を拭った。そのまま再び後ろ手に指を組むと、天上を見上げる。


「汚らわしきは亜人なり。異教徒なり」


 彼は額の上にルーラーマークを切った。


「死後も無限の炎にやかれることでしか罪を償うことはできぬ」


 事務的に騎士の一人が少女の額の布を剥ぎ取ると、大きな宝石が現れた。額に直接埋め込まれているこの石の価値は、地上では普通の宝石とは比べ物にならない。


「せめて、その額の石をえぐりなさい。汚物でも、教会に利益をもたらすことができる。唯一の浄化です」


 ふと、彼の心に後悔が走る。

 あまりにも、簡単に浄化し過ぎてしまった。次はもっと苦しめなければ――我が天上の主よ、お許しください、と深い懺悔の気持ちにコジモ司祭は沈んで行った。



「ひえ~、おっそろしいねえ」


 その様子を、遠くから見守っているのは、《怒れる星傭兵団》の副団長グレンであった。彼は器用に木に登り、帝都の眼鏡職人に特注で作らせた遠眼鏡で戦況――一方的な虐殺を観察していた。

 彼ら、《怒れる星傭兵団》は遠巻きに陣を張り、教会主導のネコノカ族集落襲撃が終わるまで待機していたのだ。

 ダーティーさにおいては、彼らもどっこいどっこいであるが、教会の連中のそれときたら、グレンたちとは一線を画す異様さがあると彼は感じている。

 彼の祖母は言っていた。


『地震、雷、火事、親父、どれも気をつけんしゃい。それ以上に坊主だけは怒らせるな』


 その意味は、この光景を見ていると「へい、おっしゃるとおりで」と平伏したくなる。宗教的情熱は平凡な農民を死兵に変え、穏やかな坊主を鬼人と化してしまう。

 邪魔をして異教徒認定されてはたまらぬと、グレンたちは距離を取っていた。

 襲撃後のおこぼれに預かろうという算段である。

 文字通り、何もかも焼き尽して草一本残らないかもしれないが、その時は他のターゲットに寄生し、それも駄目なら普通に働くだけだ。しかしグレンは思っていた。働いたら負けである、と。


「はあっ、体がうずくわ!!」


 幹の反対側で野太い声がした。

 やたらけばけばしく宝石で装飾された遠眼鏡で様子を見ていた団長が、自分の身体を抱きしめて叫んだのだ。上半身を捩ったりするから、振動がこっちの枝まで伝わってくる。


「血が滾るのよ!!!」


 何やら恐ろしいことを言っているが、グレンは聞かなかったことにした。


「団長、待機っすよ、待機。コジモ司祭は過激タカ派の異端審問官経験者と聞いてますからね。《西方の風騎士団》ですらドン引いちまっているあのお楽しみの最中に殴り込んでみなさいよ。血の雨どばどばの明るい未来が待ってますよ」

「あんっ、分かってるわよ、グレンちゃんのイケズ!」


 スキンヘッドの団長に流し目で罵られ、ぞわぞわぞわっとグレンの二の腕に何かが走り抜けていった。

 この筋肉の塊のような自称戦乙女のキャサリン団長ならば、コジモ司祭と同じ禿頭同士というわけではないが、かなりいい勝負をするだろう。

 しかし、君子は危うきに近寄らないのである。

 肩をすくめたグレンは、再び遠眼鏡を目に当てた。


「お、援軍のご到着ってか」


 甚振られていたネコノカ族の目に、希望が宿る。喝采を上げているようだ。

 どうやら、待望の主戦力が帰還したらしい。

 しかし、グレンとしては顎を掻きながら、首を傾げざるを得ない。


「おいおい、たったの六体かよ? 大丈夫なのかね」


 あとに続く者はなく、六体とそれに騎乗する六人で全てのようだ。

 《鬼》に騎乗したネコノカ族の若者たちは、一瞬村の有様に呆然としたのか、不自然に動きを止めた。


「ま、お手並み拝見と決め込みますか」


 グレンは完全に観戦モードに入ることとした。

《鬼》が、咆哮する。

 戦いの火蓋は切って落とされた。




 ネコノカ族の若長、カシギは呆然としていた。

 村から黒煙が上がっている。

 最後、ますます速度を上げて、集落の垣根を飛び越えた時、目の前に地獄が顕現した。

 ぶすぶすと煙を上げ、弾けているのは何か。

 あの転がっている物体は?

 あれは?

 それは?

 何だ?

 

(我々の――同胞だ)


 目の前が真っ赤に染まった。


「きっさまらぁ!!!!!」


 吼えたのはカシギではない。妹のルリだ。

 目の前で、額の布を剥ぎ取られ、石を抉り取られているのは、ルリと仲の良かったササメだった。

 止める間もなく、ルリの騎乗する《鬼》 が跳躍した。

 

 ずぅん、


 と音を立てて、少女を取り囲んでいた騎士の一団の真ん中に降り立つ。

 ルリは獣のように前傾していた。

 宣言する。


「――殺す」


 《鬼》 が咆哮した。

 ざん、とその野太い腕が騎士達を薙ぎ払う。ばきぼきと嫌な音を立てて数名の騎士が吹き飛ばされ、家屋や樹木に突っ込んで行った。

 その膂力は伊達ではない。

 通常の人間なら、容易く引きちぎることができる。

 しかし、この第十階層にまで降りてきた人間たちが、普通であるはずがなかった。


「筋力増強呪文」

「増強呪文」

「増強呪文」

「更に増強呪文」

「――勇気、凛々である」


 最後に、コジモ司祭が告げた。


「じゅうっりんせよ! 神の使徒よ!!」


 血の気が引いたのはカシギの方だった。

 彼は勘違いしていたかもしれない。

 人の狂気。

 信仰。

 その恐ろしさを、見誤っていたかもしれない。

 戦うべきではない。

 逃げるべきだ。

 そう考えを切り替えた時には、もう遅かった。

 悲鳴を上げたのはルリの方だった。


「きゃ、ひぃ」


 ルリの身体から四方八方何かが飛び出している。

 カシギは目を塞ぎたかった。

 身体が重い。

 動かない。

 無力だ。

 彼は無力なのだ。

 勇者にでもなれると思ったのか。

 帰還すれば、何か一矢でも報いれると思い上がっていたのか。

 彼は間違えた。

 彼は見捨てるべきだった。

 一人でも多く生き残らせるために、仲間を見捨てる決断をすればよかったのだ。

 それが、村の長の役目ではなかったのか。

 辛くても、苦しくても、一時の義憤に駆られて、将来ある五人の仲間たちをここに連れてくるべきではなかった。


「――ルリぃっ!」


 時は動き出す。

 増強呪文で恐るべき力を手にした騎士達が、こちらに槍先を向けた。

 もはや逃げられない。

 唯一の機会は彼自身が握り潰してしまった。

 あとは、戦うしかない。


(すまない。みんな、すまない――あんちゃんたち、ごめんよ。俺、みんなを守れなかったよ)


 カシギは心中に詫びて、自らを奮い立たせるために咆哮した。





 そして、叩き潰される。

 圧倒的に。

 無慈悲に。

 なんの甲斐もなく。

 踏み潰され。

 甚振られ。

 瀕死となる。






 

(――ルリ……あんちゃん……)



 両親を殺され、頼もしい兄たちを失い、幼体ばかりの村を一身に背負わされることになった。重圧に潰されそうになりながら、必死に生きてきた。弱音なんて、誰にも言えなかった。まっすぐ前を向いて、強がるしかなかった。

 カシギは地面に倒れ伏し、ずたずたに引き裂かれた相棒の《鬼》に手を這わせた。筋肉が断裂し、中の赤い肉が弾け、骨が覗いて見える。


(ごめんな。ごめんなあ、コウメ。痛かったろ、ごめんなあ)


 彼自身満身創痍でありながら、まだ息があるのは、簡単に殺してしまってはいけないと思い直したコジモ司祭の指示である。

 徹底的に甚振れ、と彼は命令していた。

 それが亜人にとっての救いなのである。

 その頬を幾筋も涙が伝う。


「あの、そいつ、俺に殺らせてください」


 段々音が遠くなって行く中、はっきりと通る若々しい少年の声がした。


「ほう、君は?」

「《西方の風騎士団》所属の、ロンです。若輩者ですが、皆さんの戦いぶりに胸が熱くなって、俺、本当に感動しています! 俺にもお手伝い、させてください!!」

「はっはっは、君は本当に熱心だな。うん、その首に下げているのはルーラー印だな。うんうん、実に好ましい青年だ。よろしい、君に譲ろう。さあ、思う存分このゴミを浄化しなさい」

「はいっ」


 声は明るく承諾した。

 次第に視界が暗くなって行く。

 

(……みんな……ごめん……)


 




 

 

 その時、ようやく。

 そう、ようやく。

 七子とエリアスはネコノカ族の村に到着した。

 少女は、《鬼》 を目撃した時、エリアスに問われた。


 ――どうしますか?


 問われ、彼女は、選択することを選択した。

 自分で決めたのだ。

 何かの予感が少女をこの場に連れて来た。


 ――あとを、追います。


 彼女は決めた。

 そうして来た。

 彼女は再び、問われることになる。

 

 ――どうしますか? 

 ――あなたは、どうしますか?

 ――あなたは、どうしたいですか?























 …

 ……

 ――ねえ、どうするの?

 ――教えてよぉ……あっはは! あ――――――――――っはははははははは!!








 


 

 



 



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