にじゅうはち
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生木の裂けるような音とともに、運命が分かれ道を指す。
有の魂は次の瞬間には無数の紙へと姿を変え、霧散した。
ある断片世界では、帰ろうとする家庭教師の礼津に、
『れっちゃん』
と、呼び止める。
『忘れ物』
一瞬、礼津はぎょっとしたように目をしばたかせた。
対面のローテーブルの向こうで礼津が、ぎこちなく受け取ろうと手を伸ばす。
立ち上がった有は、礼津に向かって、黒い本を差し出す。黒一色に塗りつぶされた本は、装丁として異様に見えた。
ある断片世界では、滝彦にその本を渡す。
ある断片世界では、山岡中学校の図書館にその本を滑り込ませる。
図書館の外には、三本の杉が、窓の外に見える。
ほんの僅かな運命のずれを得るために、有の無数に分かたれたページは、ひとつ、ひとつ、気の遠くなるような布石を敷いて行く。
それは役立つだろうか。
役立たないかもしれない。
ほんの一瞬、介入しては消えて行く。
子だぬきがちょこんと脚を揃えて座り、分かれ行く道の先を静かに見つめた。
暗黒の海が押し寄せる。救命センターの医師も看護婦も、誰も気づかない。その海水は瑞樹有の魂を押し上げ、彼の願いは確かに運命を変えた。
同時刻、クランクションの音で、固まっていた瑞樹優花は誰かに背中を押されるようにして側溝へ転げる。
優花は見ただろうか。
砕ける有の魂を。
分かれ差す道の行方を。
光が見える。
海に、有が。
優花は、何度思っただろう。何度、自分のために願っただろう。
時を戻して。お願い。もう一度、時を戻して。
あの日をなかったことにしたい。
何故こうなってしまったのか。
篠原さんが自殺したから?
違う。もっともっと前に。
『素敵な、絵本だね』
ペールピンクのクッションに座り、篠原七子の自室に広げられた創作ノートの数々は、夢と希望と少女らしい繊細さ臆病さに満ちていた。
あれを壊したのは、いつだったのか。
あの世界が砕けたのは。
ぐしゃぐしゃに塗り潰した。篠原七子は、自分で絵本を塗り潰してしまった。
でも――最初に、真っ赤なクレヨンで、あの世界を塗り潰したのは。
(おに、ちゃん――篠原、さん)
暑い夏の日だった。
2010年7月13日。
優花が、篠原七子のノートをクラスメイト達に回し読みさせた。
あの時の七子の顔を、優花は覚えているだろうか。
どもりながら、がくがくと震えながら、返してくださいと消え入りそうな声で懇願しては失笑を買っていた。
意地悪をして、聞こえないふりをした女子生徒。
わざわざ読み上げてみせた男子生徒。
一緒に笑った優花。
どうして、あんなことができただろう。
あれから――篠原七子には何が起こっただろう。
想像は容易かったのに、想像するのは困難だった。優花は、想像しようともしなかった。
『篠原さん、暑いのに黒のストッキング履いてる。わざとらしいよね』
仲のよいグループの女子が不快そうに鼻を鳴らす。
篠原七子は、まだ熱気が抜けないのに、長袖の合服を着ていた。素肌を見せたくないとばかりに長袖にストッキングで、いつも顔を伏せていた。どこにも居場所がない。誰も見ないでほしいとばかりに小さくなっていたのが優花には理解不能だった。どうして、と考えを及ばせることを優花は放棄していた。
やがて、2010年の10月1日が来る。冬服の衣替えの日だ。
篠原七子は、三年目のこの日、冬服に袖を通すことはなかった。
彼女は、この日。
自殺した。
赤いクレヨン。
篠原七子は自分で自分を塗り潰した。
優花はその手を後押しした。悪意のドミノ倒しは、最初は小さなことだったかもしれない。次第に加速し、一番最後に篠原七子の背中を押してしまった。最初に、そのドミノ倒しの一番目の牌を倒したのは、自分だ。
どうして――少しでも、気持ちを添わせられなかったのだろう。
有が、どうしてあんな顔をしていたのか。
想像することもできずに、ここまで来てしまう。
何年も優花は引きこもって、その間ずっと自分がかわいそうで仕方なかった。
かわいそうで仕方ない自分が、有を殺した。殺してしまう。
優花はもしかすると、白い大きな眼玉のような光の中で見たかもしれない。
色のない海岸に、冬服の少女がいる。
彼女の手元にノートが一冊。
少女は一心不乱にノートに赤いクレヨンで描きこんでいる。その手に、今も優花は手を添えているのだ――
――消して。全部、消して。
少女たちはそう言いながら、互いの姿も見えずに描き続ける。
それは『共著』だった。
永遠に繰り返す。
きっと、誰かが止めない限りは。
この呪いを解かない限りは。
彼女たちには、見えない。聞こえない。
しかし、その声はずっと彼女たちを呼んでいる。
――れ。
――がんばれ。
優花。死んでは、いけない。
どうか、僕の駄目な妹を。
母さんを。
父さんを。
助けて。
どうか――
「分かり、ました」
少女の一人は、目を覚ます。
七子は、最終章を開き、確かに願いを受け取った。過去を、未来を、つなげるためのそれを。
たくさんの声が聞こえる。
この世界で出会った人々。
七子は、一人ひとり思い出しては、語りかける。
大迷宮のヴァレンタイン・タウンで、踊りを教えてくれたミーシャさん。タリアさん。レナさん。ちっとも怖くありませんでした。
負けるんじゃないよ、がんばるんだよって、たくさんたくさん心配してくれました。お別れがつらくて仕方ありませんでした。
キャサリンさん。最初とっても怖かったけれど、一人前に扱ってくれました。失敗も成功も私自身がその責任を取るべきものだと。
グレンさん。悪そうなことを言うけれど、わざとしているみたいでした。何故か一緒にいて緊張しませんでした。もっといろんな話をしたかった。
マリアさん。
女王様。
魔神の皆さん。
子だぬきさん。
エリアスさん。
言葉にできません。
お父さん。
お母さん。
――瑞樹さん。
そして、私自身へ。
――許さない。
――許せない。
――辛い。
――苦しい。
同時に、それもまた聞こえる。
許せない七子だ。
許せない優花だ。
引きずられるようにして憎悪にのた打ち回るロン・バーの魂だ。
七子の正面に、平面でありながら、どこまでも引き込もうとする泥が蠢いている。あれはクレヨンだ。己を何度も塗り潰してしまうため、狂ったように描かれ続ける。
(あれは、私だ――私の、中に、いた、怪物)
怪物は。その魔物は、七子の中にいた。もしかしたら、優花の中にもいたのかもしれない。誰しもの中にも。ナディアが橋渡し役だというのなら、あれはきっと本体である七子自身だ。
自分自身にも見捨てられた、辛くて苦しくて憎悪する自分自身なのだ。
七子は五指を広げ、押さえつけようとし、気づく。
誰かの手が添えられている。この人を、七子は知らない。しかし、知っている。
(瑞樹、さんの、お兄、さん?)
別の手が添えられる。
たくさんの手。
たくさんの言葉。
七子は両手を空高く掲げる。
無数の淡い光が、深海の底から浮遊するかのように昇って行く。
光で出来た何かが頭上でぐんぐんと大きく育って行く。
それは、一本の長い、長い、槍のような形に引き絞られる。
七子は指さしている。
最後に、背後から、エリアスの手が添えられた。
七子は、しっかりと頷く。
おなかの底から、全ての世界へ届けと叫ぶ。
清め、払い、受け入れ、呑み干し、やがて帰ってくる。
許せない。消して。憎い。そう悲鳴を上げていた泥は、光の槍に貫かれ、砕け散った。
その中に、無数の人々の声と姿が見える。
――ロン。馬鹿ね。本当に馬鹿。
――おい、お仕置きだ。謝っても謝り足りねえぞ、こんバカ息子が。
――首根っこつかんでくから、ついてこい。
――もっと後に来ればよかったんだよ。
――みんな、同じところに行くんだから。
泥と一体化した少年は驚いたように振り返り、ぽかんと口を開ける。次の瞬間には、身体をくの字に折り曲げて、顔面をぐちゃぐちゃにした。
皆、どこにいたんだよ。どこにいたんだよう、と子供かえりしながら泣く彼を、かつての村人たちはこづいたり、肩を叩いたり、こちらに向かって謝罪したりと忙しくしながら消えて行った。
――優花。
――目を覚ませ。
――戻ってこい。
――母さんが泣いてる。
――父さんはふけたぞ。
――この馬鹿。
小さくなって、だけど、だけど、とぐずる少女に、二十歳前後の青年が頭を手加減なしに叩いて怒声を上げた。
――しゃんとしろ、優花! もう、お前しか、いないんだぞ。
だけど、お兄ちゃん。お兄ちゃんが。どうしてお兄ちゃんが、私のために――と鼻をすする彼女に、青年は再度頭を叩いて、やっぱりこちらを向いて頭を下げる。青年に習い、怯えた目をしてこちらを向いた少女は、七子の姿を認めたのか、ざあっと青ざめた。
篠原さん、とその口元が信じられぬものを見たかのように呟き、膝折れようとしたのを、七子の中から誰かが抜け出し走って行く。
ナディアだ。
ナディアは一歩走るごと、道化師の装束が解けて、小さな子供時代の七子の姿へと縮んで行き、少女――優花の元へ辿りついた時は、すっかり幼児へと戻っていた。
――どうして泣いてるの。
分からない、とおどおど優花は応える。
――おうちにかえろ。おかあさん、まってるよ。
幼児は優花の服の裾を引っ張った。
――おかあさん、まってるよ。
どうしてかえらないの、と首を傾げる。優花は黙り込み、再び七子を見やった。そのまま、優花はぺこりと頭を下げた。幼児は七子に向かって手を振る。
――ばいばい。
元気いっぱいに大きく手を振り、弾むような足取りで光の向こうへ消えて行く。足元を、子だぬきが一緒になって、だっと駆け抜ける。まるで、こっちだよ、と案内するかのように。彼らは笑いながら帰って行く。
――おかあさん、おとうさん、ただいまっ
光の中で、幼児はもっともっと小さくなって、誰かのおなかに抱きついていた。
七子は声も出せずに、ただ頬に涙が流れるに任せる。
今度は、七子の番だ。
扉は、ここにあった。
最初から、あったのだ。
「――エリアス、さん」
見上げると、エリアスはじっと七子を見下ろしていた。目が合う。もう、七子は、誰かと目を合わせることは怖くなかった。
誰よりも、エリアスとは。
この人の、不器用な優しさは、何度も何度も七子を助けてくれた。胸が痛くなるほどに、苦しいほどに、助けれてくれた。
何か言いたいのに、何も言えない。
エリアスは、七子の頭を撫でようとしたのだろうか。空中に手をつきかねるようにして、少し苦しそうに顔を歪めた。
彼もまた何かを言おうとしたのだろう。しかし、七子と同じように、言葉にならなかったようだ。
お互いに今更距離を測りかね、立ち尽くし、苦しさで震える七子に、エリアスは迷うようにして外套で包む。大きな手が、ぎこちなく七子の背中を引き寄せた。
「――ありがとう」
声がくぐもっている。喉が痛くなり、七子もまたそっとエリアスの胸に頭を寄せた。かつて、走る馬車の中、互いに途方に暮れながら頭を預けたように。
その大きな手が、震えているのに気づいた瞬間。
七子はどっと涙が流れた。
苦しい。
吐息は熱をもち、涙が止まらない。
心臓が痛い。
顔が見たい。
酷い顔をしているという躊躇は一瞬で、面を上げた七子は、
「また、会え、ます、か」
そうつっかえながら尋ねた。
エリアスは答えようと口を開き、その言葉を聞こうとして――
――七子は、教室にいた。




