にじゅうなな
――2014年10月1日 瑞樹家
きっと魔が差したのだ。
心の隙間に、それは忍びよったのか。いいや、そいつはいつでもそこにいた――
電子音がする。窓の外は夕焼け空に太陽が空を赤と紫のスケールに染めながら、燃えるように落ちて行く。夕映え色は更に薄暗く、暮色が入り混じる。
逢魔ヶ時――時間の裂け目に魔の闊歩する時刻だ。
電子音がする。
布団を頭から被り、階下から凄まじい音を立てる電話に、優花は身を縮こまらせた。誰も出ない。当然だ、両親は仕事に出ている。兄は――篠原七子の命日で、墓参りに行った。
ぷつりと音が切れ、やがて、しん、と家中の音が消え失せたかのような錯覚。
誰もいない。
外に、出よう。今日こそは、そうだ。今日こそは――自分を消してしまわなければ。
優花はのそのそと緩慢な動きで着替えを済ませ、廊下に出た。
凄まじい電子音。
びくっと身体が竦む。
また電話が鳴っている。今度は途切れない。何度も何度も何度も――ただ事ではない、とようやく優花は気づく。額に汗が滲む。萎えた足で、階段を一段一段慎重に降り、それでも電話は鳴り続ける。
何十回もの逡巡の内に、優花は受話器を取った。無言で様子を伺う。
「優花!? 優花ね!?」
母親のさゆりだった。常に自信満々だった母が、近年めっきり情緒不安定になってしまったのは、自分のせいだと優花は知っている。鳩尾が圧迫されたように押し黙る優花に、さゆりは娘が出ていると確信したらしい。ひぃぃいいーっと絹を裂くような啜り泣きがした。
「有、がっ、有が……ッァ」
何を言っているのか、分からなかった。救急センター? 処置室? 脳は水を吸ったスポンジみたいに、それ以上思考することを拒否していた。
兄は、篠原さんの墓参りに行ったのだ。
その帰りに、兄が、刺された――?
優花は受話器を取り落とした。
電話口でさゆりが何か叫んでいる。
かち、かち、かち、と音が聞こえる。
何だろう、と優花は思う。
がちがちがちがちと音がする。
自分の歯の根が合わない音だとようやく気付いた。
腰が抜け、冷たいフローリングの床にべったりと座り込む。
兄は、篠原さんの墓参りに行ったのだ。
昨晩、扉越しに兄は言った。
『優花。明日は、篠原さんの命日だ。一緒に、お墓参りに行かないか?』
優花は応えなかった。応えなかったのだ。
「お、おに、ちゃん」
這うようにして電話台の前から、玄関へ向かう。靴はどこに置いていたのか、分からなくなった。自分の靴は? もう何年も履いていない。吐きそうだ。助けて。
ぶかぶかの合わない母の靴を勝手に拝借する。扉を開けた。空は血染め色だ。怖い。ここは外だ。よろけながら走り出す。世界中が見ている。橙色に照らす街灯の明かりに、影法師は長く伸びて踊り狂う。ああ、どうやって病院へ行けばいい。そうだ、お金がいる。引き返して、鏡台の引き出しからお金を――
二つの丸い白い眼玉。
優花の最後の記憶だ。
合わない靴でつまづいて転げた。裸足の足が鋭利な何かを踏む。クランクションの音がする。
身体が竦む。逃げなければ――
声がする。
――逃げる必要なんて、ない。
「――優花。本当は、ざまみろって思ってるよ」
瑞樹 ゆう の章
僕は、きっと妹が嫌いだった。
瑞樹有は、「明日篠原七子さんの命日に墓参りに行こうと思うんです」――と言った後、元家庭教師の木島礼津にそう告白した。彼の家庭教師は、携帯電話越し、あっさりと応じた。
『おう、知っとったで』
何をいまさらと言わんばかりの口調に、有は咄嗟に返す言葉を失った。知らず携帯電話を握る手に力が入ると、相手はこう言った。
「アホやな。そんなええお兄ちゃんおるもんか。俺なんか、有君くらいの時は、ようけ嫌いな相手おったで。俺よりできる奴、俺よりかっこいい奴、俺より頭いい奴、怨みはないけどモテるスポーツマン、特に脱童貞の彼女持ちは念入りに死ねって思ってたわ。とりわけ滝彦は筆頭やな。全国の童貞男子高校生の皆、俺に力をください。あいつを殺してくださいって毎晩思ってたし」
からからと笑う。とてもそんな風に見えないのんきな風体の礼津が言うので、有は力が抜けた。
「――俺、僕は……優花の無神経なところが、凄く、嫌でした」
『うん』
「今だって、父さんは、優花を失敗だって言ってて、ぼ、僕に、あんなふうになるなって……そう言われる、のが、すごく、嫌、だった……」
『おう』
「か……さん、は……優花の……ことで……すご、く……まいってる……し……」
喉が痛い。段々声がつまってきて、有は、自分の目と鼻から液体が零れているのに気づく。
「家族……がっ……ばらばらっで……こんなの……ッ」
両親が、世間一般に照らし合わせてもかなり利己的なのを有は知っている。妹が、有の感覚では、好きではない方向に無邪気に無神経なのを知っている。
有はそれが昔から嫌だった。
嫌だったが、それでも、家族だった。
いつか、ひとり立ちしてこの家を離れる日が来るだろう。
だけど、その前に、こんな風にぐちゃぐちゃになってしまうなんて思わなかった。
優花は部屋から出て来ない。薄い扉越しの物理的な紗幕だけではなく、何重にもシャッターを下ろされている。
「優花……何度、ノックしてっ……も、出てッ……こない……何を言って、も……伝わらない……何年も……何年も……甘える、な……ッ」
『おう』
電気スタンドの明りが、白々とデスクに両肘をついた有のうつむき目元に当てた拳を照らす。
どうしたらいい。どうしたら良かったんだ。最初は数日のことと思っていた。一週間、一か月、一年。時が経つほどに、取り戻せなくなる。どんどんハードルが高くなる。少しずつ家の中が崩壊して行く音を、毎日毎晩聞かされる。
いっそ家を出ようかと何度も誘惑が頭をもたげる。駄目だ。自分が家を出たら、この家はもうバランスを取ることが出来ない。
母親の金切声で、鳩尾が痛む。父親は有に念押しする。ああいう風に、俺を失望させるな――どうして、父親が娘を見捨てるんだ。
声を大にして言いたかった。しかし、駄目だ。
何故なら、有は知っている。
(父さん、だって、強くない――)
父親と自分は似ている。きつく引き結んだ薄い唇が青ざめ、高い鼻梁越しに娘の目を見ることが出来ない父の弱さを、有はもう見えてしまう年齢になってしまった。
大人は、両親は、子供が思うほどに強くないのだと。
父も。
母も。
優花も。
決して強くない。
「……優花、に……酷い、ことを……ッ、言って……」
ざまみろ、だなんて。
本当は、思っていた。確かに、有は思っていた。あの妹を、有は憎んでいた。酷い目に合えばいい。こんなに自分を苦しめる元凶を、排除してしまいたい。いっそ死んでくれたならと思ったことは二度や三度じゃない。
優花が自室の鍵をかけ忘れていることがあった。躊躇したが、荒療治だと踏み込んだ部屋の狂気に、有は足が竦んだ――
開かれたノートに、酷い世界が描かれていた。
あれは、優花が描いたのか。
あれを、僕らが描かせてしまったのか。
優花が嫌いだ。死んでしまえばいい。
そう思うのに、有は気が付くと両目から熱い滴が流れて止まらなくなっていた。
こんな、世界に。置いておけないよ。家を出ることが出来ない――
『有くん、限界やったら、一度うち来てみんか』
「――ッ」
『明日な、ちょっと俺は外せん実験があるんやけどな、七時に泰正新聞社の喫茶店で待ち合わせんか? なんぼでも話聞くし、酒は――まだいかんよなあ。二十歳なったら、いくらでも飲ましたるんやけどな、元家庭教師としてはやな』
ありがとう、と有は僅かに笑うことが出来た。家庭教師の礼津にこんなことを相談すること自体間違っていると思う。
しかし、大学の友人にはとても言えなかった。家の恥を晒すというより、これ以上、誰かの傷に直結する当時の事件を知られたくなかった。
話を出来るのは、当時の瑞樹家を知って、第三者の立場を崩さない礼津くらいだ。
迷惑をかけている。
『迷惑かけてるなんて思うなよ』
「だ、けど」
『ええし。こういうのは順番や。俺も他人にはクソほど迷惑かけてな、色々助けてもらって今ここにおるんよ。有くんなんか、俺に比べたら優等生過ぎや。たまには悪口でも吐き出し』
「――ありがとう、れっちゃん」
一番弱いのは、自分だ。有は鼻を啜り、もう一度元家庭教師の礼津に礼を言った。
熱い。
腹が、熱い。
空が赤い。
どうして、と有は思う。
七時に、れっちゃんと約束をしていたんだ。
まだ、優花に謝っていないんだ。
父さん、大丈夫だろうか。あの人は、実はけっこう繊細で、小心者な僕と似ている。
母さん、政治家気取りに働く時は生き生きしていて、息子の僕から見てもどうかと思うよ。だけど、きっと父さんは、そういう母さんの強さに惹かれたんだね。
家の中が、このままなんて嫌だ。
僕が死んだら、みんなどうなるだろう。
優花、きっと立ち直れない。
憎たらしいお前。大嫌いなお前。でも、嫌いになれきれないお前。
もうお前しかいないんだぞ。
父さんと、母さんを、支えてくれ。
あの人たち、本当は強くない。
誰だって、強くなんかない。
声がする。
「大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!? 息、してない。すみません、誰か、誰か救急車、呼んでくださいッ」
「心臓マッサージは!?」
「AED、ありますかっ!?」
「心臓マッサージします、すみません、手伝ってください。私がやりますから、息を吹き込んで」
胸を圧迫される。
どうして?
二重に光景が見える。黒い海が押し寄せる。ああ、ここには、いつかきっと来た。僕はどこへ行くんだろうか。どこへ帰るんだろうか。
僕は。
優花。
道路をふらふら歩いている。おい、それは母さんの靴だ。危ないぞ。こける。
車が。
避けろ。
馬鹿。
――死にたい。
声が聞こえる。
――もう、死んでもいい。
――逃げる必要なんて、ない。
有は。
腹の底から絶叫した。
死んでは駄目だ。
死んでは駄目だ。
優花。
お前は、決して、死んでは、駄目だ。
海が来る。有は音もなくひたひたと押し寄せる海のけはいに叫ぶ。
助けてくれ。
僕の、全てを捧げる。未来はいらない。この運命を、変えてくれ。
少しだけでいい、捻じ曲げてくれ。
不意に、気づく。
小さな影がちょこんと座っている。
「僕は誰よ?」
小さな動物――たぬきはそう言った。愕然とする。何なんだ。小動物はちょこちょこと歩いてきて、有の顔を覗き込んだ。デフォルメされた二頭身の動物は、心臓部が真っ白だ。まるで塗り忘れのように、真っ白なのだ。
有はそっと手を持ち上げた。
「患者容態急変しています!」
いつの間にか、白い眩しい何かに照らされている。ライトだろうか。遠くから声が聞こえる。なぜか、有は意識の網が広がるかのように周囲の様子も、遠くの様子も分かってしまう。
有はその真っ白な心臓部に手をやる。不思議な感覚だ。こんな小さな存在に、頼らねばならないのか。
「僕の、命をあげる。行って、優花を助けてやってくれ。お願いだよ」
首を傾げた彼は、有の言葉を真剣に受け止めたのか、
「いたいのよ?」
と尋ねた。有は分かって頷いた。
ああ、海が来るよ。みんなここから来て、ここに帰るんだ。みんな、同じところに行くんだ。
暗黒の海。魂の海。記憶の海。可能性の海。
普遍的無意識世界。
全ての源。
死にゆく者のさだめか、有は知る。知ってしまう。
自分はもう帰れないかもしれない。でも、一つも惜しくない。
未来を変える代償に、この身一つで済むのなら、安いものだ。無力な有は、何かの取引をしたのかもしれない。
それは悪魔との取引だったのかもしれない。
未来を捻じ曲げる代償に、彼は無声の絶叫をした。
運命が生木が裂けるように音を立てて別れて行く。
優花。死んでは、いけない。
どうか、僕の駄目な妹を。
母さんを。
父さんを。
助けて。
どうか――