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にじゅうろく

 掌の中に、柔らかな蝶を包み込むように。

 七子はそうっと両手を開いた。

 

 ――いせかいでまおうになるほうほう


 ――さいしゅうしょうのかぎ

 

 それは、最初から七子の中にあったのかもしれない。あるいは、たくさんの人々が七子に投じた何かがもたらしたのかもしれない。

 そこにあるのに見えない。見えないけれど、確かに存在するもの。

 ぱたん、と音がする。いつか耳にした音だ。ぱたん、ぱたん、ぱたん、ぱた、ぱた、ぱたぱたぱたぱたたたたたたたたた――

 タイルのようなものがひっくり返る音だ。景色が裏表にめくり返され、浸食されていく。七子が見上げると、空中に無数の目と口が浮かんでいる。瞬きすらしないで、彼らは七子を凝視した。

 七子はスカートのすそを払って立ち上がり、無数の目たちと対峙した。エリアスの姿は消失している。しかし、そこにいる、と七子は疑うこともなく感じていた。

 いつだってそうだった。七子はひとりではなかった。ただ、気づかなかっただけ。目も耳も塞いで、じっと蹲って、嵐が通り過ぎるのを待つだけだった。


「ようやく――」


 漆黒の世界に浮かぶ口の一つが言う。


「ようやく、ここまで来た」


 彼らは唱和した。


「選びなさい」

「最終章を開くのか」

「それともこのままこの世界で永遠に暮らす?」

「それも悪くない」

「夢と悪夢に幕をおろすのか」

 

 七子はぎゅっと鍵を握りしめた。どうすればいいのか、少女には分からない。何が正解で、何が間違っているのか。正しい答えなんて、分からない。


(だけど、それは、あたりまえのことだ……)


 みんな、最初から正しい答えを知って動いているわけじゃない。無数の選択の中から、自分にできること、自分がやりたいこと、できないこと、やりたくないこと、たくさんの条件をにらめっこして、最善と思うものを選ぶのだ。それはひょっとしたら間違っているかもしれない。今よりもっと悪くなるかもしれない。だから、七子は何もしなかった。

 

(これ以上、悪くなったらどうしようって、いつも思ってた)


 自分が何かすることで、誰かに迷惑をかけるんじゃないのか。もっと苦しい目に合うことになるのではないか。最低と思っていても、更に底が突き抜けるのじゃないか。


(もっと、悪くなるかもしれない。間違ってるかもしれない。でも――)


 でも、と七子は顔を上げる。足は震え、胸はどきどきと脈打ち、迷いながら、それでも、彼女は選ぶ。


(私は、『未来』を、変えたい――怖くても、間違っていても、それでも、違う『未来』がほしい――)

 

 七子は、両手を高く差し出した。掌の間に、鍵が闇にきらきらと淡い燐光を吹きこぼしながら浮き上がる。


「この物語の、最終章を、開きます」


 宣言した途端に、無数の目と口は、ぴたっと動きを止めた。大きく目を見開き、口はムンクの『叫び』のように開かれ――

 ばりばりばりっと、生木を裂くような音が響き渡る。七子の目の前で、見えざる大きな手が漆黒の世界を無残に左右へと引き裂いた。

 崩壊していく。世界が裏返る。覆い隠していた帳が取り払われ、裏側の世界が姿を現す。

 彼らは絶叫する。ひたすらに絶叫する。


「最終章は開かれた!」


 見えざる怪物の巨大な腕が、向こう側の世界から七子をとらえると、恐るべき速さで引き込んだ。

 最終章は開いた。

 




















――2010年9月23日 大分県 うつほ旅館

 

 修学旅行先の旅館の裏手に少女が二人向かい合っていた。

 片方の瑞樹優花は、顔を真っ青にして、目の前のノートを地面に投げ捨てた。


「何これ、ひっどい!」


 気持ち悪い、と優花は理解できないものを描いた篠原七子から距離を取る。優花にとって、この暗いクラスメイトの創作ノートを一緒に鑑賞することは、最初大好きな弓ちゃん先生の「クラスで浮いているみたいだから、気にかけてあげて」という頼みから始めたことではあっても、次第にとてつもない満足感を与えてくれる仕事となっていた。

 自分より一段も二段も下の存在を気にかけてあげ、優しくしてあげることは、いいことだし、何より気分がとてもよい。よいことをしている達成感を、その都度得られる。

 しかし、今回、修学旅行で七子の荷物からのぞいていた普段見せてもらうノートと違う黒い表紙に、優花は好奇心に駆られた。こっそり見たって、別にいいよね? どうせあとで見せてもらうんだし、篠原さん他に友達もいないから、私しか見てあげる人いないわけだし、と少々うしろめたさもありながら、優花はノートを引っ張り出した。

 開いたノートの内容に、優花は思わず畳の上に放り投げた。

 何これ、と彼女は口元を抑える。理解不能だった。どういう気持ちでこれを描いたのか、優花には想像も及ばなかった。

 気持ち悪い。やっぱり、頭おかしいんだ、篠原さん。

 自分の『仕事』が酷く穢された気がした。理解不能な恐怖をごまかすように、感情は怒りへと塗り潰されていく。

 優花は自分で投げ捨てたノートを、汚いものでもつまむようにして人差し指と親指二本でつまみ、篠原七子を旅館の裏手に呼び出した。

 七子の眼前に、犯人に証拠品を見せるようにノートを突きつける。


「何これ、ひっどい!」


 悪行三昧を暴いてやるとばかり優花は言い捨て、乱暴にノートを地面に投げ捨てる。勢いで、びりびりとページは破れた。

 

「気持ち悪いっ、二人で考えたのに、何でこういうあてつけみたいなことするの?」


 七子はうつむいたまま、じっと自分の靴先を見ている。暖簾に腕押しだ。反応がないのに、優花の怒りは増すばかりだ。同時に、理解できないものに対する薄気味悪さが、怒気で誤魔化せないほどにせりあがってくる。優花の中で天秤が傾き、自分のふるまいが褒められたものではないことに気づいて、思わず周囲を伺う。


「……もう、いいよ。篠原さん、一人で気の毒だなって思って、声かけてみたけど、全然伝わってないよね。私のひとりよがりだったんだね。ごめん、ふりまわして。勝手にノート見たのごめんね。頭かーってなっちゃって。これ、返すね。あと、これ、やっぱりちょっとどうかと思うよ」

 

 七子はうつむいている。優花は気持ちがどんどん冷める自分を感じた。だけど、これだけは言っておこうと思う。


「最後に言わせて。こういうさ、自分の狭い世界に一人で閉じこもってるのってどうかと思う。今まで付き合ってきたけど、本当はちょっと……って思ってたんだよね。篠原さん、もっと回り見たほうがいいよ。もっと自分をオープンにするべき。自分から外に踏み出さなきゃ」

  

 そこまで言うと、優花はくるりと踵を返した。肩越しにちらりと振り返ってみた七子は、やはり無言でうつむいたままだった。


「……篠原さんて、やっぱり変わってる」


 優花は呟き、同じグループの少女たちとの夜のおしゃべり「誰が好き?」という話でどう盛り上がるか、すでに頭がいっぱいになっていた。

 

 

――2010年10月4日 山岡中学校 修学旅行休み明け


 がらり、と教室の扉を開くと、優花は戸惑った。女子生徒たちがしくしくと泣いている。男子生徒たちは気まずそうだ。


「おはよー……みんな、どうしたの……あれ」


 あれ、と優花は立ち止まり、あまりにもそぐわない光景に、まじまじと目を凝らした。篠原七子の席、机上に白い花が花瓶で生けてある。趣味が悪いな、と戸惑いながら周囲を見回す。これじゃ苛めみたいじゃない。何これ――そう思い、違和感で立ち尽くす。友人の一人が優花の制服袖口を引いた。


「篠原さん、自殺したって」


 え、と優花はいい、ぽかんとした。その袖を涙をぬぐいながら、友人が女子たちの輪へ引っ張っていく。みんな泣いている。優花も悲しい気持ちになってきて、一緒になって涙を流した。



――2010年10月4日 葬儀・告別式


 ひそひそと声が流れる。

 

「篠原さん、男子に」

「ああ、でもあれは」

 

 やがて囁きは、笑いに取って変わる。

 


 

――2010年10月4日 瑞樹家 夜


 生徒会の仕事で夜が遅くなった兄の有が、帰るなり、複雑そうな顔で、優花を呼び止めた。 


「今日、篠原さんて子のお葬式だったんだろ」


 冷蔵庫の中に、とっておきのプリンを探していた優花は、振り返って「あ、うん」とうなずいた。


「お兄ちゃん、よく知ってるね」


 有は何か含んだような表情で、僅かに視線を下に落とした。


「優花、お前さ……」

「何?」

「……いや、なんでもない」

 

 吹っ切れたというより、呑み込んだという苦い顔で、有は踵を返し、二階へと上がっていく。何であんな顔で見るのだろう、と優花にはわからなかった。



 


――2010年10月8日 山岡中学校・いじめ暴行報復殺人事件発生


 




 瑞樹 ゆう


     か




 の章


 





 休み明けの月曜日、2010年10月11日に、世界は豹変した。

 自殺した篠原七子の母親は、去る10月8日の金曜日に、男子生徒1名を殺害、1名に重傷を負わせその後死亡させた。この時、複数の生徒に軽傷を負わせ、その中には優花も入っていた。怪我よりも、精神的なショックで優花は貧血を起こし、病院に運び込まれた。

 週明けに「大事をとって休んだら」と言い、玄関口で再度引き止める母親に「大丈夫」と答えて登校し、


「おはよう!」


 空元気に挨拶をして教室の引き戸を開ける。

 そして返ってきたのは――


 目。


 目。


 目。


 冷たい、何の関心も払わない、まるで透明人間を見るような目。

 あれ、と優花は自分の体感時間が人と違うかのような気持ち悪さを覚えた。同じグループの女子を見つけて、駆け寄る。


「おっはよ!」


 先週は、大変だったね、でもがんばろうね、と言いかけて、優花は違和感の正体に気づく。視線が合わない。目を反らされている。

 あれ?

 二度目のあれ? だ。

 優花は、周囲を見回した。目が合わない。再び、扉ががらりと開く。振り返って、「お、おはよう」と少しどもりなが挨拶した。

 挨拶は返ってこなかった。すうっと、無視して彼女は優花の横脇を避けるように通り過ぎ、他のグループ女子に挨拶する。優花の挨拶が聞こえなかったわけじゃない。

 足元が、がらがらと崩れていくような錯覚を覚える。世界が反転する。


「よく、平気だよな」


 ぼそり、と聞こえた声に、思わず、ばっと辺りを見回したが、誰が言ったのか分からない。分からなかった。


「全部、優花のせいじゃん」


 優花がきっかけじゃん、と仲のいちばんよかった女子が吐き捨て、耐えきれなかったのか、すすり泣きが教室に満ちた。誰もが耐えられない。十四、十五歳の少年少女たちは、誰もが耐えられなかったのだ。

 どうしてこうなったのか、生贄を捧げずにはいられなかった。

 クラスで一番地位の低い、篠原七子。

 彼女が自殺した。

 悲しいね、と彼らは泣いてみせた。

 それから、世界は元通り。

 男子生徒たちは「どうだっていい」と笑い、女子生徒たちは「私は悲しい」と集団で泣いてみせる。

 無料動画サイトで流れた少女の「止めて」という悲鳴と、周囲で笑う生徒たちの声。

 やがて、彼らはしっぺ返しを食らう。

 篠原七子の亡霊は、彼らに恐ろしい罰を与えた。

 地獄の光景。クラスで一番人気だったサッカーのうまい少年は脇腹を刺された後、顔や頭を出刃包丁でめった刺しにして殺された。バスケットボールが上手だった彼の親友も、顔や頭をハンマーで執拗に

殴るなどして重傷を負わされた。男子生徒はK大学附属病院へと搬送され、そのまま死亡する。

 亡霊は、両手に断罪の凶器を手にして言う。


『優花さん、七子が寂しがるから』


 のっぺらぼうだ。

 ぐにゃぐにゃと教室の床が平衡感を失っていく。自分はまっすぐに立っているのだろうか。

 土日を挟んで週明けの月曜日。

 瑞樹優花の世界は崩壊した。

 




 どうやって一日を乗りきったのか分からない。

 学校が、怖い。

 翌日から、校門を前に脂汗で優花は一歩も動けなくなる。

 学校が、怖い。

 いつもと変わらないはずの校舎が、怪物のように威圧感を放っている。優花は道路にしゃがみ込んだ。


「優花、起きなさい」


 母親が布団をはごうとする。優花は胎児のように丸まり、全身ぐっしょり汗で濡れて「おなかがいたい」と言った。

 何度も何度もそれを繰り返し、いつしか優花の同級生たちは中学校を卒業した。

 優花は部屋から出ることができないままに。

 部屋に引きこもる娘に、父親は冷ややかな目をして言う。


「あれは失敗だったな」


 兄は、優花が閉じ込もる部屋の扉越しに言う。


「優花、伝わらないと思ったけど――今からでもやり直せるよ。一緒に、手伝うから。出ておいで」


 出ていけない。

 外は怖い。もう何年も時間が経過している。今更外にどうやったら出て行ける。

 みんなの目が怖い。私を見ないで。どうか、私を見ないで――

 テレビが煌々と青白い光を放っている。

 

「裁判員裁判判決で、○○地裁は13日、懲役6年、求刑懲役8年を言い渡しました」


 頭から毛布をかぶって、優花はテレビのアナウンサーの言葉を一言一句聞きもらさないようにする。

 六年後、に、篠原七子の母親が出所する。


『優花さん、七子が寂しがるから』


 止めて、と優花を毛布にきつくくるまる。

 夢を見る。毎夜毎夜夢を見る。篠原七子はうつむいている。優花は、何度も繰り返す。


『篠原さん、気持ち悪い』

『篠原さん、もう少しオープンに心をみんなに開いた方がいいよ』

『自分の世界に閉じこもってないで、ね』


 そして、篠原七子は自殺する。

 絵本の中に描かれたように、自分自身をぐちゃぐちゃに真っ赤なクレヨンで塗り潰してしまう。

 とめどもない涙が優花の頬を伝う。

 地獄はどこにあるの。

 ここにある。

 この世界は狭くて深くてどこにも出口が見えない。

 何年もここにいる。

 時間の感覚がおかしい。

 兄は出ておいでと言う。父親は失敗したと言い、兄にお前は優花のようにならないようにと言っていた。母親は全部篠原さんが悪いと喚き散らしている。


「……ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 毛布の中に蓑虫のように身をちぢこませ、誰に謝っているのか、優花は繰り返しつぶやいた。

 

(私なんて、いない方が、いい。ごめんなさい。私なんて、死んだ方が、いい)


 優花は、机の上に置いてある一冊の本に気づく。そうだ。続きを書かなくちゃ。夢の中で、七子が破れたページを差し出した。続きは、優花が書かなければならない。

 何度でも罰されなければならない。

 何度も。

 何度も。



 幾夜も繰り返し、扉が叩かれる。兄の有だ。


「優花。明日は、篠原さんの命日だ。一緒に、お墓参りに行かないか?」


 優花は答えない。しばらく有がじっと扉の前で立っているけはいを感じた。


「――優花。本当は、ざまみろって思ってるよ」


 あまりにも、低く、うめくような声だった。

 くるまった毛布の中で、優花は、びくり、と身体が凍り付くのを感じた。今のは、誰だ? 兄の有だったのか?

 有は無言で、それ以上何も言わなかった。やがて、きし、きし、と廊下を歩き遠ざかる音がする。

 兄は、なぜあんなことを言ったのか。

 優花は混乱していた。混乱しながら、当たり前だとどこかで思っていた。自分がどれほど無神経だったのか、その結果何を引き起こしたのか。

 最後まで見捨てなかった兄が、ついに自分を見捨てただけだ。

 そう思うと、優花は肩が震えた。


『して』


 声が聞こえる。


『私を、消して』


 ずっと、聞こえていた。ずっとずっと聞こえていた。優花は立ち上がり、長い間考えていた『じぶんをこの世から消す方法』を実行することに決めた。




 


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