にじゅうご
40
少女は待っていた。
ゲテナ統一帝国のカーテン・ウォールから、飛び石のように設けられた築城教会堂である。
教会堂は城壁でぐるりと囲まれ、その背後を守るのは、三本杉の大木だ。小さな森を作る広葉樹が差し伸ばした枝は緑を生い茂らせ、落葉で濡れた黒い地面を覆う。
砂岩製の教会堂の扉口から身廊へ入ると、中は静謐さを湛えて鳴りを静めていた。柱の陰に、闇は払えずに留まり、奥へ奥へと空間がその腕で引き込む。真っ直ぐな主廊は突き当りの至聖所へ抜け、交差する天井のアーチが天上へと高く意識を飛翔させる。
錯覚させる奥行と、吸い込まれるような高さの天井アーチ。
しんしんと静かな空間で、少女――七子は待っていた。
ジャムジャムアンフとの取引を果たすために。
未来を変えるために。
冬の制服姿の少女は、変わらず控える騎士とともに、『彼女』を待っていた。少女と騎士の二人は、大人と子供の大きく開いた身長差で、どこかでこぼこだ。もう一人、いや一匹。子だぬきはエリアスの肩口で大人しくしている。
正面の扉が開いた。逆光で、二つに割れた頭巾が悪魔のようにそのシルエットを長く伸ばして揺れる。空気中に、きらきらと光の粒のような埃が舞った。
「殊勝な心がけだね」
道化師の少女は一歩、長く伸びる赤い絨毯に尖った靴で踏み出す。りぃん、と鈴が鳴った。
「僕を待っていたの? ねえ、僕、何だか頭がおかしくなりそうなんだ――君と一緒になれば、もっと頭がすっきりする気がするよ」
道化師ナディアはまた一歩、前に歩く。ぼたり、とその右腕が落ちた。彼女は青のクラウンメイクを施した目を見開き、「あれ?」と言った。
「腕、落っこちちゃった」
どうして――と不思議そうに首を傾げ、自分の腕と肘先に交互の視線をやる。血は出ていない。
境界を越え続ける魔神の宿命。彼らの存在は魂のあり方そのものだ。自分を保てない者は、精神崩壊の先に、肉体の消滅が待っている。何も考えない泥人形が、自分というものについて考えを及ぼした先にあったのは、自己崩壊の道だった。
ナディアはまた一歩踏み出した。
ごとり。
今度は左足がひざ下から外れる。ナディアは姿勢を崩して顔面から緋毛氈に倒れた。
「おかしいな」
意味が分からない、と事の重大性を自覚できないような平淡な声音。
七子は怖いと思うより、胸が痛くて涙が出てきた。ナディアがかろうじて顔面を上げ、無邪気に笑う。
「ねえ、歩けないんだ。こっち来てよ。僕、ひとりは嫌なんだ。僕、誰なの? 頭がおかしくなりそう。だって、初めてじゃないんだ。僕の中に、たくさん僕がいるんだ。怖いよ。嫌だよ。私、もう嫌だよ。皆嫌い。大嫌い。お願い。一緒にいて。怖いよ――おかあさん」
あれ? とナディアは虚空に視線を彷徨わせる。おかあさん、とその響き自体の正体が分からぬように、不安そうに七子を見る。
そう、道化師であったナディアは、ひとりのおぼつかない無力な少女へと変容していた。最初、剣を抜こうとしていたエリアスが、僅かに動揺するけはいがする。七子はかえって心が静かに落ち着くのを感じた。
ナディアの方へ歩こうとした七子に、エリアスが声をかけようとする。しかし、結局彼は止めなかった。七子は小さくうなずいてみせ、ゆっくり、一歩一歩踏み出して行く。
倒れるナディアの横に膝をつき、そっと少女の頭に手を添わせた。
「あなたは、私じゃないけれど」
でも、と七子の頬を一粒の涙が滑り落ちて、赤い絨毯へと吸い込まれる。
「きっと、私なんだね」
矛盾する答え。それが七子の得た答えだ。
誰かに馬鹿にされる。
誰かに小突かれる。
誰かに無視される。
誰かに笑われる。
いつか、自分で自分を守る努力すら放棄した七子は、酷い目に合う。
苦しくて、辛くて、誰にも助けてと言えなくて。
たくさん逃げ道はあったはずなのに、何も見えなくて。
世界から自分を消してしまう。
もし、あの時、叫んでいたら。
嫌だって、声を上げていたら。
誰かを殴るのは嫌だ。
誰かを傷つけるのは嫌だ。
でも、拳を握って、自分を鼓舞すればよかった。手は、誰かを傷つけるだけじゃない。伸ばすことはできたはずだ。
今なら、きっとできる。
人は、本来なら防衛機能を持っている。自分の心を守るために、幼い無邪気さに退行したナディアは、自分を守れなかった七子の出した一つの答えだったのかもしれない。
一度七子は、ナディアを拒絶した。誰かを傷つけ、全てを壊したいほどに憎む自分を認めることはできなかった。
ナディアは歪んだ自分自身の鏡像だ。彼女は本体ではない。彼女は七子の影だ。
人は、影ではない。しかし、影は常に人へ付き従う。自分の影を自分から切り離すことはできない。影に自分が呑まれぬように。しかし共にある自分のパートナーとして上手に付き合っていくしかないのに、そんなものは存在しないと抑圧し続け、目を逸らした。
(誰も恨んでない。そんなの、きっと、嘘だった――)
ナディアの言うとおりだった。本当は、七子は嫌だった。悲しかった。他人が恐ろしかった。それ以上に、自分が嫌で嫌で仕方なかった。だから消したのだ。このままだったら、消してしまっていたのだ。
七子はそっと、ガラス細工に触れるように、ナディアの白い手を握る。
「ごめんね。ずっとずっと、いないことにしてごめんね。本当は、あなたは、私の中にいたんだね。きっと、いたんだね」
誰かを傷つけてもいいと思う負の感情。その攻撃性を七子は嫌った。
でも、と少女は思う。
闘う心。
己自身と闘う心を、七子はずっとどこかへ置き去りにしてきた。
「ここに、いたんだね」
握った手のひらが、弱弱しい力で握り返される。ナディアは本当に不思議そうだった。
「僕は……私は、いてもいい?」
七子は頷く。手を握りしめ、何度も、頷いた。
「うん。一緒に、行こう」
かつて、影は七子にそう言った。今度は、七子が、その影に言う。影は主体ではない。その影を連れて、七子は歩けるはずだ。ナディアは、少し考え、ぎゅっと七子の手を握った。
「僕の、中に。私が、たくさんいるよ。受け入れると、とっても痛いよ」
七子は首を振る。
「怖いけど、大丈夫。お母さんや、お父さんが、大変なの。私が、戻らないと、絶対、嫌な未来が来るから。そんなの、嫌だから。怖いけど、我慢できるよ。それに、もう、ひとりじゃない、もの」
ナディアは大きく目を見開き、苦しげに喘いだ。
「――おかあさん、怒ってない?」
恐る恐る、上目づかいにナディアは問う。彼女は、自分で自分の命を絶った七子の欠片が言わせたのかもしれなかった。
「怒って、ないよ。お母さん、あなたのこと、怒ってないよ」
ただ苦しくて、悲しくて、間違えてしまう。その未来を、もう七子は知ってしまっていた。
ナディアは、七子の解答に、酷く、酷く安心したようだった。さらさらと彼女は光の粒になって消えて行く。
「おとうさん、おかあさん。えりあすさん。ごめんなさい」
朦朧としたように、ナディアは呟き、最後に言った。
「わたし、うちに、かえっても、いいのか……な……」
おかあさん、おうちに入れてくれるかな。
不安。
恐怖。
酷い記憶の断片たち。
叱られた子供が、狭い木のうろに隠れて、膝を抱え込み、親が迎えに来るのを待っているかのように。
たくさんの感情が、つないだ手のひらから、七子の中に流れ込んでくる。
七子は、渾身の力で手を握り込み、何度も何度も頷いた。
「大丈夫。一緒に、帰ろうね。お父さんと、お母さんのところに、一緒に帰ろう」
ナディアはもう何も言わなかった。さあっと青い釉薬が溶けるように、彼女は消えてなくなった。
いいや、七子の中に帰ってきたのだ。七子は、握りしめ続けた手を己の胸に押し当てる。
俯いた少女の頬は青ざめ、涙が行く筋も流れ落ちて止まらない。自分自身の命をいらぬと投げ捨てた七子の記憶が彼女を苛む。
戸惑うように背後に立つエリアスが、無言のまま外套で少女を包んだ。
握りしめる七子の手のひらの中に、硬い感触がかえってくる。
そっと開いた手のひらの中に小さな鍵があった。
――いせかいでまおうになるほうほう
――さいしゅうしょうのかぎ




