にじゅうに
F5-Attack
2015年10月5日、篠原七子及び瑞樹有の命日から週明けの月曜日である。
全国でも十指に足りない数の女子刑務所にも朝が訪れた。
その一つに、報復殺人で世間を震撼させた篠原瞳子は入所している。刑務所の寮舎は暗く静寂に包まれ、なめらかな廊下のリノリウムが僅かな光を受けててらてらと光っていた。
六時半。朝の音楽とともに一斉起床。過剰定員のため重ね合った布団を急いで折り畳み布団をしまう。この布団や枕は置き方さえも規則で定めらている。二十分で込み合う洗面所に押し合いへしあい洗顔・歯磨き、身支度を済へませ、その後は正座して刑務官の点検を待つ。
「三室点検」
鋭く呼気を放つような紺色の制服の刑務官の号令に、
「1」
「2」
「3」
「4」
「5」
「6」
「7」
「8」
テンポを切らすことなく、大声で腹の底から声を出し、八番まで点呼を取る。定員過剰により、一室六名のところが、実際は八名の過密状態となっている。布団は満足に敷けず、互いに端を重ねていかなければ全員分入らない。畳一枚分の個人スペースは確保されていないのが現状だ。時にストレスが限界を迎え、いさかいの種になる。
「おはようございます」
全員が正座したま頭を下げ、片手のボードをチェックした刑務官は「よし、休め」と次の部屋の点呼へと移って行く。
七時に朝食。配膳係が均等に食事をよそおう。僅かな楽しみである食事を不公平に配膳すれば、揉め事は避けられないため、慎重に行う必要がある。今日の朝食は、麦飯、佃煮、味噌汁だ。食事中、私語は一切許されていない。おかずのやり取りももちろん厳禁であった。弱者からの巻き上げを防ぐためだ。やり取りが発覚すれば、減点は免れ得ない。刑務官の監視の中、朝食が終わると整列して生産作業の工場や自営作業の洗濯場等別れて移動。全て刑務官の指示で分刻みに動く。
長期受刑者は細やかな作業を要求される伝統工芸品作りの工場へ。日中はほとんど工場での刑務作業に費やす。これは刑法規定の懲役刑の内容である。
また、瞳子は矯正処遇の一環として、これに殺人を犯した受刑者たちのグループワークの改善指導が加わる。
殺人罪を犯した受刑者たちはそれぞれに過去を背負っており、このグループワークで何故自分が殺人に至ったのか、順番に話して行くこととなる。
冷たいパイプ椅子に座り、受刑者たちは円座するかっこうだ。当初、瞳子はこのグループワークで自分の順番が来た時、事実のみ話そうとして、失敗した。目の前にいるのは自分と同じ罪を犯した人々だ。悔いている者もいれば、罪の自覚から指導を受けている者もいる。舌先がもつれ、何故かうまく話せなかった。原色で渦巻くそれを、問われたことをただ答えるのではなく、自ら語るための言葉に昇華することができなかったのだ。
語ることができない。
あの時の青白い絶対零度の狂熱は去った。しかし、決して過去にできない。
だから語れない。
このグループワークは自分の罪と向き合うためのものである。
瞳子は自分の手指をぎゅっと握った。指先は真っ白に血の気を失っていた。
うねるような溶岩は、ある瞬間から凍り付いたままだ。ダンテの『神曲』を思い出す。最も重い罪を背負った者の末路。氷地獄の嘆きの川に沈められ、永遠の氷漬けとなっている。瞳子はそこから抜け出したいとは思わなかった。自ら望んでコキュートスにいる。神を裏切ったサタンもまたそう感じたのであろうか。
地獄のような熱は去り、しかし瞳子は地獄にいまだいる。
それでも日々は過ぎて行く。
規則正しい生活と厳しいルール、刑務作業、改善指導。繰り返す生活の中で、同じ子を持つ受刑者たちが、刑務所の菩薩像の前を整列して通り過ぎる時、念仏を唱える光景を目にした。全員が仏教徒というわけではない。彼女たちは、折を見ては手を合わせ、祈る。離れて暮らす子のことを思い、祈っているのだ。瞳子も手を合わせようとして、指先が震えた。この手が、殺した。七子が喜ぶものか、と瞳子は自嘲した。娘は、決して喜びはしない。瞳子のなしたことを。
月日を数える内に、余暇時間のクラブ活動を提示される。社会復帰のための取組である。
とてもそんな気にはなれないと最初は考えもしなかったが、ある日瞳子は衝撃とともに参加を決意させられた。民間協力者によるコーラスクラブだ。
自分の気が紛れるという部分も否定しない。だが、それ以上に、瞳子は無心から気が付くと娘のことを思って歌っていた。届くだろうか。自分の手は汚れている。娘には届かないかもしれない。そう思う。届いてはいけないとすら思う。感情が凍り付いているのに、どこかがどろりと蠢く。苦しい。歌う。コーラスは素人のものだ。瞳子の頬を涙が伝う。何百枚も重ねられた薄皮のようなものが一枚、剥がれ落ちる。
(七子。どうして、気づいてやれなかっただろう)
苦しかったね。辛かったね。今度は自然と両手を合わせていた。
当時、漫画家である夫の忍は月刊誌から週刊誌へとメイン連載を移し、慣れないスケジュール消化に多忙を極めていた。彼はほとんど缶詰で、ろくに睡眠も取っていなかった。時期は重なるもので、義理の父が相手方過失で交通事故に合い重体となった。義母は若くして他界しており、忍は一人っ子で兄弟がいない。瞳子が手を上げ、献身的に世話をすることとなった。多忙となった夫と、義理の父の世話。自身の仕事。何の不満もなかった。義父は忍に似たおおらかな人格者で、瞳子は彼のことを尊敬し敬っていた。その義父はその当時のことを、血反吐を吐くほどに後悔している。
「すまんことをした。すまんことをしたあ」
何があっても動揺しない義父だった。その彼が声を震わし泣いていた。病床にありながら、耳を真っ赤にして地面に額を擦り付けるように土下座した義父をどうして責められただろうか。責任は瞳子にある。娘の異変に気を配れなかったこの愚かな母親が悪いのに、何故義父が頭を下げる必要があるのか。
許せないのは自分だ。そして。
(どうしても、許せなかった)
娘にあんなことをした中学三年生のクラスメイトたち。何一つ反省していない。あまつさえ、娘を笑い者にしていた。
動画を見た時の脳を揺さぶるような衝撃と鳩尾を抉るような激痛を今でもはっきりと覚えている。噛み砕かんばかりにすり合わせた奥歯の感触すらもまだ健在だ。強烈な眩暈を覚え、口元を抑えて身体全部を使って咆哮のような悲鳴を上げた。もしかすると、それは無声であったかもしれない。何よりも、その後偶然聞いてしまった彼らの暴言が、瞳子から一切の躊躇を奪った。脳が沸騰している。瞳子は修羅になった。彼女は最初から最後まで冷静で正気だったと言える。冷静に、正気のままで、家に帰って凶器をバッグに詰め込んだ。学校を訪問し、校長や教頭、学年主任と建前の会話をして、静かにそのまま真っ直ぐ教室に向かったのだ。
瞳子は彼らに対して、一つも悔いていない。世間からどれほど批判されようと、悔いることができない。一方、彼らの遺族に対して、瞳子は土下座して口に砂利を食んでも足りなかった。当然何をしても足り得ることなどないと知っている。誰よりも、瞳自身が知っているのだ。男子生徒たちの遺族に対して恨みつらみを言えたのは、自分が彼らの命を奪う前までだっただろう。立場は逆転した。今度は瞳子が彼らの憎悪を受けるべきだ。当たり前すぎる因果応報で、しかしそれは決して何も生み出さず、負債の連鎖だけが重く横たわっている。
瞳子は男子生徒らを許すことができない。彼らの遺族は瞳子を許すことができない。この加害者を許し、遺族を慰撫できるのは、死者だけだ。
殴られたから殴り返した。殺されたから殺した。その結果、瞳子はここにいる。そして誰も戻ってこない――
「面会だ」
作業中刑務官に声をかけられ、瞳子は作業帽子をかぶったまま重たげに頭を上げた。夫の忍だ。忙しい中、合間を縫って回数制限まで面会に来てくれる。忍には申し訳ないことをしている。見捨ててくれても全然構わない。怨むこともない。むしろ忍は被害者だろう。瞳子は黙って刑務官の同行で面会室へと向かう。
彼女は受刑者の制限区分では二種、優遇区分では二類に当たる。制限区分に係る受刑成績は優秀と昇進し、優遇区分は四月と十月の半年ごとの受刑態度評価の査定で懲罰降下もなく順当に二類に上がった。前者は面会での刑務官の立ち会い有無や、後者は嗜好品や娯楽品の購入、面会時間や手紙の発信回数等が異なってくる。
瞳子の制限区分及び優遇区分では、面会は刑務官の立ち会いはなしで月五回許され、手紙の発信は月七通までだ。甘味は口にする気になれない。娘はもう二度と口にすることができないのに、そう思うと胸がつまって喉を通らなかった。
だから、最近夫が土産話のつもりか口にする『つくり話』が瞳子は辛くも待ち遠しく感じていた。
この『つくり話』には、何故か自分自身も記憶のない走り書きや手紙のやり取りで加担していて、瞳子は夫から事情を聴いているが未だ半信半疑だ。同室者によると、一週間ほど前、刑務作業を終えて就寝するまでしばらく様子が変だったらしい。その上、何度も念押しするように伝言を頼まれたらしく、聞いても内容はとんちんかんだ。後から自分の奇行を聞くにつけ、人には迷惑をかけるし、精神が分裂してしまったのであろうかと一時恐怖に襲われもしたが、その後記憶の空白はない。一過性のものだったのか。
面会室に辿り着く。遮蔽物を隔てて、眼鏡をかけた夫の忍がいた。元々痩躯であったが、今は更に痩せてしまった。瞳子は夫ともに入室してきた二人の青年に目を見張る。目つきが鋭い背の高い青年と、へらへらと笑顔が強張ったぎこちなさそうなお人よしの顔の青年だ。見知らぬ二人組に対して、戸惑いが顔に出ていたのか、忍が穏やかに口を開いた。
「調子はどうだい」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
「そうか。よかった。庭の紅葉がきれいに赤くなってね、その話をしようかと思っていたんだけれど、今日はちょっと予定が変わってね」
夫が背後を振り返る。青年たちは会釈し、挨拶した。
「瞳子さん、あの別世界の七子の話なんだけれどね」
ずき、と瞳子の胸が痛む。この話を始めたのは記憶のない瞳子だというのに。
「君が最初必死になって僕にあの話をしてくれた時、実を言うと現実から目を背けているようで、歓迎しちゃいけないと思った」
膝に握り込んだ両こぶしを置いた忍は、どこか遠くを見るような目をした。
「だけど、――どこか別の世界で、七子が元気にやっているというのは、僕たちにとってとてつもない慰めだったね」
「――ええ」
そうだ。それは齧ってはいけない禁断の果実のように、瞳子にとって慰めだった。
「半信半疑のまま、君の言うとおり見知らぬ辻境君の実家に連絡してみたよ――」
「無理を言ってごめんなさい」
「いいや。本当に連絡が来ることがあるんだろうかと待ってみて――辻境君から連絡を受けた。彼は、僕らしか知らないはずのあの『つくり話』を承知していたよ」
「――まさか」
あれは瞳子の妄想話のはずだ。息を呑んだ彼女に、
「僕は信じてもいいと思った」
きっぱりと忍は言う。
「いや、そもそも僕はあの『2014.10.1干渉問題』で、さびしい海辺に立つ七子を視たんだ。あれをもっと信じるべきだった。七子をあんなさびしいところに置いてはおけないよ。僕は信じることに決めた。天国じゃない。どこかの世界で僕らの娘はまだ苦しんでいる。僕らは自分の娘を助けることができなかった。これは変わらない。でも、どこかで苦しんでいる七子を助けることができる」
忍は鞄からノートを取り出す。あるページを指さした。その指先を見て、瞳子は、ひゅっと息を呑む。
「何故か、僕はどうしてもこのノートに描き入れることが出来ない」
ノートは最初楽しそうなファンタジーの絵で始まり、次第に恐ろしい狂気のさまを見せつけて展開して行く。七子の当時の精神状態を反映したものだとしたら、あまりにもそれは過酷な内容だった。
「最初、精神的なものかと思っていたが、どうもそうじゃない。本当に絵を描くことができなかった。辻境君から連絡を受けて、僕は本腰入れて色々試してみた。油絵具もアクリルも岩絵の具も水彩も全部弾いてしまう。前よりは描ける。だけど、ストーリーを変えることはできない」
声を発することができない瞳子に、忍は「だけどね」と少年のように笑った。
「君から僕にノートの切れ端を送ってほしいと頼まれて、折り返し郵便で届いた絵。あれに着色したよ。どうしても全部塗りきれなくて、彼らも塗ってくれた」
見せてくれた絵は、デフォルメされた二頭身のかわいらしい動物の絵だ。ずいぶんと立体的にいきいきとして、今にもちょろちょろと動き出しそうに見える。
「ちょっとまだ白いところが残っているけれど、許容範囲内かなあ。瞳子さん、七子は、ぬいぐるみが好きだったよね」
「ええ。ええ――」
瞳子は言葉にならず、ただ頷くしかできなかった。あの子は瞳子と同じように人見知りで、大人の男性とは目も合わせられなかった。同年代の子供たちはもっと苦手だった。萎縮してしまうのだろう。瞳子自身が通ってきた道で、自分の少女時代に瓜二つの娘に申し訳なさを覚えたものだ。忍に似てくれたら、七子も生きやすかっただろう。瞳子が忍と出会えたように、いつか七子の委縮しがちなところも、優しい心も、理解しようと努めてくれる人が現れるはずだと思っていた。しかし、間に合わなかった。七子は周囲に対して身を小さくしたまま、自分で命を絶ってしまった。両親にさえ遠慮して、むしろ両親に絶対知られたくなかったのだと言わんばかりに隠し通した。
だから、瞳子は考えた末に、強くて頼りになる誰かではなく、七子が心を許せる存在を描いた。七子がよく描いていた絵やぬいぐるみを思い出しながら、なんとなく、ひょうきんで、とぼけていて、ちょっと変な子がいいと思った。ああ、つまり忍だ。忍が小さくなった感じ。そうだ、七子は弟を欲しがっていた。願いは叶えられなかったけれど、この子は男の子だ。
「絵が届いた時、君は本当に絵がへたくそだなあと思ったよ」
夫は子供のように笑う。いつも元気づけようとしてくれていたが、こんな風に笑うのはいつ以来だろうか。
「酷いわ」
「曲がりなりにも僕はプロだからねえ。元型の良さを生かしながらも元型止めないレベルでマスコットキャラクター付けしたよ。褒めてくれていいんだよ」
「忍さんたら」
瞳子は口元に違和感に驚く。笑っているのか、自分は。
「ああ、時間がないな。この絵をね、君の前で元のノートに糊付けして戻そうと思ってね。しかし、僕もこの程度で助けになると大言壮語を吐いているね。はは、馬鹿なことをしているかな?」
背後を振り返って尋ねた忍に、目つきの鋭い方の青年――辻境滝彦と名乗った――が緩く頭を横にふり、もう一人の身の置き所のなさそうな木島礼津という青年はぶんぶんと激しくふった。
「それを言いますと、俺達の方がよほど大馬鹿者ですので。最後まで見届けたいという我がままに付き合ってくださって、本当に心から感謝しています」
「それはどっちかっていうと、僕の台詞だなあ」
瞳子は気づいていた。前回の面会から、忍の指が、ぼろぼろになっている。大事な手なのに、爪が剥がれ、まるで何度も何度も何かにこすり付け続けたように、酷い状態だ。
何がこの程度だ、と瞳子は目の前がぼやける。馬鹿げた子供のお遊びだなんて、ちっとも思っていないんじゃないか。辻境という青年から連絡を受けて、真剣に描き込んでみたなんて大嘘だ。瞳子が夢想の話をした時から、彼は一生懸命に娘を助けようとしてくれた。
「瞳子さん」
忍は静かに言った。
「何度も言うけど、君は一人で背負う必要はないよ。罪というなら僕も同罪だ。僕たちは唯一無二の人生のパートナーだ」
「……あな、た」
「二人で荷物を背負うのは当たり前だよ」
その荷物を捨ててもいいのに、と瞳子は必死に俯く。優しすぎる。ああ、そうか。七子は、やっぱり私には似ていないのだ。許せぬ瞳子ではなく、優しい父親に似たのか。でも、殴ってしまってもよかったのだ。そうしてくれていたら、声を上げていてくれたら。いや、全ては自分の咎だ。だけど、もしもう一度。やり直せるなら、娘を絶対に助けてみせるのに。この手で、力いっぱい抱きしめるのに。
ここで忍は、「あ」と間抜けな声を上げた。
片手に握っていた紙片から『絵』だけが、つつっと滑り落ちた。手の内から魚が逃れるように、開いたノートへとぽちゃんと落ちる。
「え!?」
慌てて身を乗り出すようにノートを確認した忍は、どこか放心するように周囲へ報告した。
「いない……」
見開きのノートは白紙だ。舞うように落ちた紙片も白紙だった。描かれた『キャラクター』はどこに消えたのか。
「旅に、出ちゃったなあ」
忍が苦笑するように言った。夫は瞳子に輪をかけて夢想家だ。彼はそっと白紙のページを撫でる。次のページはない。破り取られている。決して弱音を上げない夫は、歯を食いしばって、しばし沈黙の末にこう言った。
「がんばれ」
こらえきれないように震える声で絞り出す。
――僕らの娘を、頼む、と。
「ぼく、まもった!」
遠くにその幼い勝利宣言は聞こえただろうか。




