にじゅういち
36
ロン・バーの魂を確保した『戦車』は、踊るように上機嫌な足取りで『大迷宮』へと転移する。逆向きの樹系図のように張り巡らされた『大迷宮』を一気に最下層まで下った。砂色のドレスを着た『塔』は、焦点の合っていない目で、熱心に『るつぼ』を覗き込んでいる。
「お前、まーだ継続中だったのかよ」
「あげひ」
まともな返事もできない。あれは未来の自分だ。そう『戦車』は笑いながら、遠慮も呵責もなくロンの身体を『るつぼ』のコールタールの中に投げ込んだ。
「希釈してない原液100%ー!」
のんきな物言いだが、かたずを飲んで見守る。ロンの魂は『戦車』のひも付きだ。無軌道なエネルギーにある程度指向性をもたせることができるはずだと彼は促す。
「おい、全部壊せよ。次の世界なんて許さねえ。次はない。これで終わりだ。何もかも飲み尽くせ。お前の憎悪は、実にるつぼと相性がいい。全部を壊したい欲望のとおり、泥と一体化しちまいな。そら、手始めに――この俺だ!」
その叫びに反応するように、コールタール状の泥が競り上がり、『戦車』と『塔』の魔神を飲み込んだ。恐ろしいほどの静寂の後に、泥の海はうねりだす。それ自体が生き物であるかのように、膨張し、伸縮し、あきらかに質量保存の法則を無視して一気に膨れ上がった。
泥の海はまず最下層を全てさらい、次々と恐るべき速さで上の階層を目指し流れ込ん行く。泥の海から泡立ちのように『魔』が生じる。それはもはや生き物の体をなしていない。影のような存在だ。彼らは誰からも忘れられ、姿そのものを失ったかのように黙々と地上を目指す。海が世界を覆い尽くす頃には、影を影と思うものもいなくなっているだろう。
もう二度と、異界の岸部に辿り着くものは誰もいない。もしそこに誰か一人立っているとしたら、それは『始まり』に違いないと――泥に飲み込まれた『戦車』はかろうじて思考する。自身が薄れて行くにつれ、攻撃性の塊であるロンの意識が増大して行く。単純な欲求であるがために、複雑な思考の『戦車』では抑えきれない。正義感と憎悪と悲しみで矯正不能なほどに歪み切ってしまった魂。この原始的な衝動の咆哮に、魂の老人が勝てるとは到底思えなかった。想定内だ。しかし、やはり俺はこの競り合いに負けるのか。『戦車』は自身の魂の疲労を感じ、泥の濁流に意識を溶かした。
地上の各『大迷宮の門』から高濃度の瘴気が溢れ出した。知らせを受けた各国は、瘴気のみならず、瘴気が更に濃縮され液体相を得たと思われる『泥の海』に警戒態勢を高めるが、遅きに失していた。『大迷宮』内の植民都市は泥に飲み込まれ、何とか転送石で脱出した避難民の受け入れでも帝都は混乱している。『西方の風騎士団』の自称会計担当ルーアンは、王都の騎士団詰所で怒声を上げていた。
「泥に触れるな! とにかく、バリケードを作ってくれ! 神聖魔法と精霊魔法は有効だ。障壁を作って防御してくれ!」
指令所となった一室で、小型の発受信機を片手に、方々に指示を飛ばす。「国は何をしているんだ!」などと罵声が飛び交っているが、ルーアンはすでに帝都の警備網が動き出している情報をキャッチしていた。自分達は、その隙間を埋めるように動けばいい。扉を蹴飛ばす勢いで、『西方の風騎士団』のメンバーであるマルコ・コキアスが息を切らして駆け込んでくる。
「おい、うちの団長様はどこだ!?」
青筋立てて怒鳴り散らすマルコに、ルーアンは冷ややかな視線を向ける。
「いない人を探すより、今いる人で対処してください。ところで、持ち場を離れないでください副団長」
「ああん? それより、やべえ。泥に接触した奴が、ものの数秒で『異形』化したぞ」
「高濃度過ぎますね。そもそも瘴気に長期間晒された場合、環境が悪化し、疾病病魔が流行り、最終的に『異形』となるというのは、あれに我々の情報を書き換え、情報そのものを損傷させる働きがあるからだと考えられるのですが」
「話がなげえ! なんか対処法ねえか!?」
途中をぶった切ったマルコに、ルーアンは思わず自身の眼鏡を指先でくい、と押し上げた。
「泥に触るなって言ってるでしょうが」
「無理だろ、あれどんどん増えてるんだぜ。バリケードも質量でなぎ倒すか上から流れ込んでくる。意思もってるみてーに回り込んでくるし、坊さんも法力切れ、魔術師も魔力切れ起こしてらあ」
「もう諦めましょう」
「いきなり諦めるなー!」
雄叫び、足を踏み鳴らすマルコに、「冗談ですよ」と背後を振り返る。裏口から上がってきたのだろう、肉感的な肢体を惜しげもなく晒した踊り子衣装のリリアーナ・ロッソがけだるげに姿を見せていた。
「リリアーナさん、筋肉達磨さんと連携が取れそうですか」
「筋肉達磨ってあんたね、彼は乙女よ」
リリアーナがそう言って、通信専用の鏡の差し込み口に、預かった指先ほどの平たい鍵を差した。ルーアンは複雑そうな顔で、広域チャンネルから目的の周波数を拾う。暗号化した通信を、この鍵が自動で翻訳してくれるのだ。
「激しく疑問をていしたいところですが、時間がありません。ちまちま各個撃破していては非効率の極みです。教会の非主流派の力を借りましょう。主流派は国と連携するでしょうから、我々は隙間をサポートします」
チャンネルがつながり、画面いっぱいに濃厚過ぎる顔つきの男が現れる。
「きゃはっ、あたしよ、あたし! 町のエンジェル、その二つ名は『怒れる星』、キャサリン・アングリスタよ、よろしくねっ。今をときめいて参上!」
ルーアンは心の動揺をおさめるため、もう一度眼鏡を指で押し上げた。座りがどうにも悪い。何度もくいくいくいと押し上げる。流し目をされたマルコは動揺のあまり、「へげうおあ!」と奇声を上げて鏡面から距離を取った。一方、キャサリンとリリアーナは普通に挨拶している。
「リリアーナちゃん、いいお仕事してくれるわ!」
「やっほー、キャサリンちゃん、そっちどうお?」
リリアーナが横から覗き込んで手を上げ、緩慢な口調であいさつする。キャサリンと名乗った大男はテンションが上がったようだ。
「泥がいっぱいよ! あたし泥パックはあまり好きじゃないのよ! おらあ!」
何故か意味不明のポージングをした後、画面いっぱいに自分の大胸筋を見せつけた。今度は下がり、上半身を映し出す。
「うちのマッスルたちが陣を今構築中だから、広域にバリケード築けるはずよん! AブロックからD、とんでF、とんでHはあたしたちに任せてねん! 青の枢機卿様の法力舐めたらあかんでえ! 他のブロックは任せたからね! 泥撃退じゃあ!」
更に己の筋肉を見せ強るようにポージングしたキャサリンの背後で、頭がM字に禿げ上がった男が同じく小型受信機であちこちに指示を飛ばしている姿が映る。
「幸運を祈るわ!」
キャサリンが口元に二本指を当てて、投げキッスをよこそうとした瞬間、M字男が「あ、画像の乱れが。法則が乱れる」と抑揚のない声で呟き、本当に画面は砂模様に通信切断してしまった。
「ナイスサポート」
誰ともなく呟いた言葉に、室内は微妙な沈黙が流れた。
「どういうことよぉっ!?」
『怒れる星傭兵団』の本拠地で、団長キャサリン・アングリスタは通信の切れた画面の砂嵐模様に不満の矯声を上げた。取り扱い注意の通信鏡面をがくがくと揺さぶっている。
「分かったわ。これは新たなプレイかしら!?」
「いやもう団長そういうのはいいんで。着々実行中ですけど、ちぃっとばかし、今回のかけは分が悪ぃですぜ?」
M字に禿げ上がった頭を撫で上げながら、副団長を拝命しているグレンはちらりと寡黙な黒神の男に視線を投げかける。男は顔の半分を髪で隠しており、場の醜態にも一切目をくれない。ティフ神聖国で乱闘になった際、何とか傭兵団が確保したエリアス・グリムだった。彼はじっと沈黙し、部屋の隅で剣を抱いたまま動くこともなく目を閉じている。まるで意識の網を広げて、少しでも何かが引っ掛かればすぐに対処できるように――このあんちゃんはどうも扱いずれえ、とグレンは自分の尻をぼりぼり掻いた。
視線を戻すと、キャサリンは「猊下を舐めてんのか」と言わんばかりの形相であった。しかし、同じく瞑想モードに入っていた当の本人である青の枢機卿猊下マリアが口を開く。
「うむ、M字禿げの言うとおりじゃ」
さりげなく酷いことを言われたグレンは「このアマいつか俺の息子でひぃひぃ言わしちゃる」という思いを臓腑の奥に沈めて営業スマイルを向けた。同時に、万一キャサリンに感づかれたら自分がひぃひぃどころかひぎぃ言わされてしまうと、笑顔もひきつる。一番の仮想敵はなぜか身内の団長様なのであった。グレンの胸の内など見抜いているであろう尼僧服姿のマリアは膝上に十指を組むと、淡々と言った。
「儂もはっきり言って、永遠に泥を抑えきることはできんぞ。帝国も同じであろう」
「ああん、そんな猊下、猊下のお力で救われた者も多いのですよ」
迷宮の十階層のヴァレンタイン・タウンの民が多く脱出できたのは、枢機卿であるマリアの法力によるところが大きい。迫りくる泥の津波を、法力を駆使して一時せき止めてみせた。その時間稼ぎが多くの人々の命を救ったのである。彼女の働きは一個人の枠を超えていた。
「そう心配顔されると儂も辛いの。対処療法では、根本的解決にはならんでな。泥が湧き出した原因を止めれば何とかなるやもしれんのじゃが」
青い瞳を憂いに染めて、青の枢機卿マリアが思案げに呟いた時だ。今まで微動だにせずにいたエリアスが、はっと面を上げ音もなく立ち上がった。
「エリアスさん!」
世界が軋む。エリアスは迷いもなく空中に現れた少女を抱きとめた。本来彼は少女程度の重さで倒れ込むことはなかっただろう。しかし、慣性のままに背後に腰を下ろし、膝の間に少女を抱え込むようにして抱きしめた。
「――」
何か言おうとしたのだろう。何故、どうして、今までどうしていた。無事で良かった。怪我はないか。心は大丈夫か。しかしこの不器用な騎士は、かけるべき言葉を持たないようだった。少女もまた何も言うことができず――いや、彼女は顔を上げて、見違えるほどにはっきりとエリアスの目を見つめた。
「エリアスさん、心配かけてごめんなさい」
騎士は緩慢に首を振る。
「私こそ、不甲斐ない騎士で申し訳ありません」
腕の中で、今度は七子がめいっぱい首を振った。
「違います! 私がいけなかったんです。でも、あの、本当は、もっと言いたいことがあって、ありがとうございました。エリアスさんのおかげで、私、大丈夫です!」
エリアスは瞠目したのだろう。なぜか、ちょっと目を離した隙に、保護していた子供が大きくなって帰ってきた気持ちであったに違いない。そんな七子の胸の下から、ずぼっと短い両腕が突出し、子だぬきが顔をのぞかせた。
「ぼく、まもった!」
勝利宣言と思しき雄叫びに、思わず沈黙した二人は、同時に噴き出した。子だぬきは器用に這い出して、エリアスの肩口を定位置と定めたのかよじのぼり落ち着く。
「ぼくの」
いわゆる野生動物のテリトリーに認定されていたのかと、エリアスは初めて気づいたのかもしれない。不満というより、不可解といった目の見開き方をして、嘆息した。子だぬきは更によじよじとエリアスの頭に上ろうとして短い四肢をつっぱったが、エリアスは肩口に片手で誘導した。それでも子だぬきは満足そうだ。
「爆発すればいいのに」
グレンは呟き、尻の肉を青の枢機卿に捩じりあげられて悲鳴を飲み込んだ。
「あにするんすか」
「馬鹿者。おぬしと一緒にするでない。あれこそ無償の愛の形ではないか」
「俺はロリペド野郎だと思います」
「ふぅ」
と青の枢機卿は哀れなものを見る目でグレンを一瞥し、大きな溜息を吐いた。
「人はの、自分の物差しでしか人を計れぬのじゃな」
「何で俺をあからさまに見て、溜息つきで言いますかねっ」
「神よ、無知なるものに気づきの知を与えたまえ」
絶対このアマ犯す、とグレンが決心を固めたところで、エリアスが少女を放し、背後に庇った。ほぼ同時に、青の枢機卿、キャサリン、グレンと彼らは己の獲物に手をやる。
闖入者は七子だけではなかった。そもそもなぜ急に少女が現れたのか、先ほどから彼らは軽口をたたきながらも警戒を怠っていなかったのだ。
「――ジャムジャムアンフ」
地を這うような低音で、エリアスがその名を口にする。青白い何かが騎士の身体を取り巻くかのように、空間の一点に向けられる。
白い指先が、皺のないシーツに縦の直線を描くように引き裂く。捻じれたS字の角を二本持つ悪魔の風貌をした魔神が、
「タイミングを悩んでいたんだ」
と朗らかに挨拶してみせた。エリアスの指先に白い筋が浮かぶのを見て、少女が咄嗟に手を重ねる。驚いた風の騎士に、七子は「ごめんなさい」と謝った。
「少しだけ、話を聞いてください。この泥を止められるかもしれないんです」
37
話は少し遡る。七子は、『鳥かご』の中に目を覚ました時、肌の泡立つような危機感に咄嗟に飛び起きた。何か恐ろしいものに囲まれている。それが沸いて来る。逃げなければ――子だぬきの姿を探し、丸まって隅っこで寝ている姿に彼を膝元で抱きしめた。何かは七子を目指してやってくると、少女は本能的にゆりかごのような『鳥かご』を内部から押し上げた。あっさりと装置は棺のように蓋をあける。感触が軽さは、外部から蓋をあける補助が加わったためだ。
七子は息を呑んだ。外界の空気に晒された瞬間、見覚えのありすぎる顔が覗き込んでいた。銀糸から突き出すS字の角は悪魔のようだ。
魔神ジャムジャムアンフである。
どうして、何故、と混乱が少女の内部を荒れ狂い、落ち着けと理性が警鐘を鳴らす。
しかし、七子は違和感を覚え、すぐに気がついた。
常に余裕の笑みを浮かべていた魔神ジャムジャムアンフは、どこか苦笑めいたものを浮かべ、かすかに焦燥感を背負っていたからである。片手で蓋を開けたジャムジャムアンフは少女に問いかけた。
「君は、答えを得たかい?」
何の、と説明もない。しかし、七子は具体性を欠いたその質問に、力強くうなずいていた。
「はい」
彼は敵だ。エリアスに酷いことをした存在だ。その一部始終を、七子はリアルな幻という形で、エリアスに無断の覗き見をしてしまった経緯がある。
(だけど、私が怒るのは、彼を恨んだり嫌ったりするのは、本当は、エリアスさんのためじゃ、ない気がする……)
それは、自分のためのような気がするのだ。エリアスの苦痛を、思うことはいい。しかし、それを自分の怒りなのだと錯覚してしまうことは、何かが違うように少女は思い、戸惑いを押しやる。ぴりぴりと肌を刺す危機感は、魔神の話を聞けと訴えている。
少女の心の動きを察したものか、魔神ジャムジャムアンフは今度こそ本当に苦笑した。
「『戦車』が暴走してね、僕の片割れは今抑えに精一杯なんだ。多少長くなるが、流れを変えるには、君に理解してもらうことが必要だ。簡単に説明するから、話を聞いてもらえるかい?」
「――はい」
七子は『鳥かご』から這い出し、そっと寝ている子だぬきを抱き上げると、長身の魔神の白い相貌を見上げた。目を逸らすことを少女はしなかった。
「気づいていると思うが、今『大迷宮』の最下層に封じていた破壊のエネルギーが地上を目指して上がって来ている」
「破壊の、エネルギー?」
「君の知識では、タナトスというのかな? 自己破壊衝動だね」
「……やっぱり、私、なんですか」
七子は俯きそうになり、必死に視線を上げる。
「正直僕にも分からない。君が僕たちの創造神だとは思いたくないんだがね」
「創造神?」
この世界を自分が作ったというのか。いくらなんでもむちゃくちゃ過ぎると七子は青ざめる。
「いや、僕たちの理解する限りでは、一個人が世界を作るということはない。たまたま、もともと存在する世界を、個人が『読み取る』ことはままあるようだが」
「読み取る?」
鸚鵡返しにならざるを得ない七子は、少しは自分で考えようとしたが、あまりにも話が想像の限界を超えていた。
「例えば君が自分で話を作ったつもりでも、実はそうじゃない。無意識が世界の境界を越えて、他の世界のできごとを夢見るように知ってしまい、それを物語という形に転写してしまったということだよ。我々の無意識というのは、実はそれほどかっちり境界を引いているものではないのだろうと思う。無意識の大海を、僕たちは時に渡り、異界の岸部に辿りつくことこともあるのだろう」
七子には難しくて、よく分からなかった。分からないなりに、必死に噛み砕く。
「あの、じゃあ、未来の私が、もともと存在するこの世界を夢見て、『物語』として書いてしまったということですか?」
「未来というのは少々違うのだが……君は『最初の階層』に行っただろう?」
七子は首を傾げかけ、『暗黒の海』を通り抜け、滝彦という青年と出会ったあの世界に思い当たる。
「はい」
「あれは、現在の君の延長にある未来ではないというのは理解できるかい?」
少し考え、確かに、と頷く。今ここにいる七子自身は、もうあの未来には辿り着けない。何故なら、七子はあの未来を知ってしまった以上、絶対に同じ轍は踏まないと決めたからだ。そもそも、本に食べられるだなんてこと事態道は外れてしまっているのではないか?
すると、ややこしいが、あれは未来であると同時に、過去でもあると言える。時間軸上は未来にあたるのに、すでに起こってしまったことだ。しかし、その過去の失敗を見た今の七子が、今度は自分の未来を変えようとしている。だから、未来であると同時に過去なのである。
「えっと、あの、平行世界、というものですか? 未来の違う世界がたくさんあるって、世界観を聞いたことが、あります。横並びに違う選択によって歴史が少しずつ変わった世界があるって」
つたないSFの基礎知識を掘り起こして尋ねると、魔神は再び頭を振った。
「平行世界ではないだろう。むしろ、階層構造だと考えた方が整合性がつく」
「階層?」
「『大迷宮』の逆樹形図のような構造を思い浮かべるといいだろう。最初は最下層から全て発している」
どういうことなのか、咄嗟に七子には分かりかねた。平行世界だと言われた方が、少女にはまだ理解しやすかっただろう。
「最初は最下層――『ファースト階層』から形成された。この階層から、次々と小部屋のように泡沫の世界が構造の一部が転写されていった。あくまで、僕たちの世界は、大本の世界の複写に過ぎない。いや、その『断片』でしかないと言うべきかもしれない」
何故なら、と魔神は少女の頭を見下ろす。
「僕たちの世界は、元々『未来』などというものが存在しない。『過去』すら、ある時間まで遡ると存在しなくなる。大本の情報の『断片』でしかないのだろうというのが、我々魔神――最初に時間軸観測に成功した観測者の結論なんだよ」
七子は、ぽかん、と口を開けそうになった。難しい。あまりにも難しい上に、意味がよく分からない。しかし、自分の知るものとすりあわせて、理解しようと頭を回転させる。
もし七子達の世界で言うなら、本来宇宙のビッグバンから現在まである歴史が、西暦百年から二千年までしか現実に存在しなかったということだろうか?
「我々は、これを『断片化世界』と呼んだ。僅か千年未満の世界の歴史しかないのに、僕らはもっと以前からこの世界が存在しているかのように『錯覚』していた」
。自分が五分前に世界に誕生したのに、一五年間生きていると『錯覚』している。そんな状態だろうか。七子は、はっとする。それは、この世界における自分の状態と一緒だ。エリアスは初めて出会った時、七子が誕生したばかりの高位の魔であると感じると言っていた。
しかし、七子自身は自分は十五年間生きて来たという記憶があり、そのことを疑いようもなかった。この世界の人々も、同じ状態なのだろうか?
七子自身は知らなかったが、思考実験に『世界五分前仮説』というものがある。
――「世界は実は五分前に始まったのかもしれない」
非実在の過去を、「覚えている」状態で世界が発生したのだとして、それを誰も反証できないとするものだ。
しかし、この魔神たちは、その反駁に成功してしまったのだ。
「複写と言ったが、正確には断片の複製と考えている。君の世界には、DNAという生物の情報の大本になるものについて発見されているそうだね」
「あ、はい」
「このDNAは二重らせん構造と聞いているが、同じようなものだよ。DNAの一部、断片の複製を繰り返しているんだ。二重らせんの互いの鋳型が、君の世界と僕たちの世界だ。君のいる世界も、僕のいるこの世界も、全て『ファースト階層』――いや、もっと大きな何か――大海から情報を転写された断片なのだろう」
少女はただただ絶句していた。あまりにも夢想的で、たちまち「はい」とは頷きかねた。
「すまないね、話が難しく感じるだろうか。君の世界の知識にあわせて、大分噛み砕いているつもりなのだが――」
「い、いえ。がんばります。あの、DNA……みたいな……何か世界の情報の大本みたいなものって……『暗黒の海』、なんですか?」
魔神は、口元に手をやり、しばし思案したようだ。
「ふむ、君にはそのように『視えた』のか。あれは、人類にはほとんど『海』として認識されるようだな。仮説のサンプルが増えたよ。礼を言わせてもらおう」
「あ、え、はい」
「ともかくだ。可視化した際に、『暗黒の海』と認識される何かから――僕たちの世界は派生したという仮説を立てている。未来も過去もある『ファースト階層』と違い、僕らの世界は一段下に劣る『断片化世界』だ。しかも、これはその切れ端をキャップで保護されていない。DNAもまたそうだが、保護されていなければ、これは勝手に自壊してしまう」
布端のほつれた部分のようなものかな、と七子は考えた。折り返して縫い、しっかり補強しなければ、ほつれはどんどんほどけていってしまう。もっともろいものだったら? 端をきちんとキャップで保護していないから、端っこからどんどん壊れて行ってしまう。
「あ、あの。じゃあ、今いる世界も、『断片化世界』なんですか」
「そうだね」
「――自壊って、自ら壊れるってことです、よね?」
「そのとおりだ」
「それが、今?」
ジャムジャムアンフは「よくわかりましたね」と言わんばかりに七子に触れることもなく、空中に頭を軽く撫でるように褒めた。
「『断片化世界』という名称が目くらましだが、生物の構造上、この『自壊』は理に適っている。不必要なものは分解されるのが定めだ。しかし、そこに暮らしている僕たちはどうかね? 指をくわえて黙ってみているわけにはいかなかった。崩壊を止め、未来を創る。失敗すれば、次の『断片化世界』にかき集めたエネルギーで跳躍して、何度も繰り返して来たのが僕たち魔神だよ。何が自壊の『引き金』となるのか、手探りの試行錯誤が始まり、手段は全く選ばなかった。褒められるようなことは一つもしてこなかったね」
あっさりと言う魔神は全く悪びれない顔をしていた。ここで後悔しているとアピールしても、彼が選ばなかった手段とやらに踏みつけにされた者たちはひとつも浮かばれはしないだろう。ジャムジャムアンフは実に堂々としている。
「今回、その僕たちの同胞の一人が、いい加減切れてしまったようでね。ロン・バーという神子ユウカ付きの騎士。ん、彼を君は知っているようだな」
「え?」
「覚えていないかもしれないが、君が第十階層で吹き飛ばした騎士の一人だ」
「……」
七子は愕然とし、自らのプリーツスカートをぎゅっと握った。
「このロン・バーは、『大迷宮』の顕現によって生じた『魔』によって故郷を失っている。その憎悪と絶望がどうにもうまい具合に歪んで、破壊エネルギーと同質の性質を得てしまったようだ。同胞の『戦車』はこの魂を破壊エネルギーを封じた『るつぼ』に投げ込み、自らも同化してしまった」
「なんで、そんなこと」
「僕も全く同感だ。『戦車』はどうやら破壊エネルギーに特定の指向性を与え、どうにかこの断片化世界のこれ以上の発生を丸ごと封じたいと考えていた節がある。彼は自分が自分であることに強烈な自負をもっていたからね。自分が永遠に複製されていく恐怖に終焉を打ちたかったのかもしれない」
自分が自分であること――七子は不思議に胸にその言葉が響いた。
「あの、じゃあ、どうにかして、止めないと」
「その通りだ。さて、ここで取引だよ」
にっこりと笑う魔神はどこまでも悪魔そのものだった。
泥の中に、ロン・バーは全能感に浸りながら意識を溶かしていた。頭がすっきりとしている。全部壊せ。これは正当な権利だ。壊せ。破壊せよ。許すな。殴られたから殴るのだ。殺されたから殺すのだ。俺は間違ってない。
――消して。
彼の中に『声』が響く。
――お願い。全て消して。
誰の『声』なのか。醜い肉塊と成り果て、無限増殖していくロンには分からない。ただ、その『声』はロンにとって、とても懐かしいものだった。まるで自分自身であるかのように。
――消えたい。消して。死にたい。もう死んでしまいたい。私なんかいらない。必要ない。
ロンはぶれる。自分が消えたいわけではない。だが、自分は消えてしまいたかったのだと知る。一緒に消えてしまいたかった。
――ごめんなさい。お父さん。お母さん。 ――ごめんなさい――
――私を見ないで。
――見ないで。
――許して。
――許されない。
――どうして。私が全部悪いから。私のせいだ。
――私なんて、死んだ方が、いい。
――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
『――駄目だ』
死んじゃ、駄目だ、と別の『声』が聞こえた気がした。
あと5話前後で完結すると思います。長くても10話くらいでしょう。




