じゅうく
34
ぱたぱたぱたぱたぱたたたたたたた……
何かが景色をランダムな『タイル』によって食い荒らして行く。『タイル』の表は病院の待合室の光景。裏は――黒。
ついに暖色のソファの一部が黒に陥没する。今度は滝彦という青年の肩がごっそり黒面に入れ替わる。顔面が消える。
色彩に満ちた鮮やかなテレビの画面が、サイレント映画に無理やり切り替わって行くかのようだ。
やがて、『タイル』のようなものが連鎖的にひっくり返って行く音が止まる。
世界は色と音を失い、不気味な暗幕に包まれた。一度来たことがある。エリアスと川辺で野営した時、同じ音が聞こえ、景色はタイル状に切り取られた。全てが引っくり返った時、七子はここに立っていたのだ。
無数の口と目が見おろし、あざ笑うこの空間に。
七子は震える膝頭で、必死に立っていた。いつの間にか、腕の中の子だぬきは逃げ出して、足元で「何ここ、ここ何?」とぐるぐる回っている。
「たぬきさん、静かに。じっと、してて、ください」
緊張した面持ちで、七子は子だぬきに言った。ぴた、と止まって、子だぬきは少女を見上げたままの姿勢で固まる。小首を傾げる姿は、事態を理解しているとは到底思えなかった。何かあたらしい遊びの一種と考えているようだが、好都合である。
たちまち七子はすうっと自分の中で何かのレバーが切り替わる音を聞いた。怖い。恐怖は汚泥のように内側にこびりついている。
漫画家である父が昔、手慰みに言っていた。
人間は、正体の分からないものに、恐怖を感じるのだと。
だから、昔の人は、明かりのない闇の中に『魔』を見た。得体の知れぬ、不明という恐怖に「あれは妖怪だ」と何かしら『名づけ』て、形を与えたのだ。
形を与えてしまえば、少しでも「分からない」恐怖は軽減される。目隠しされた状態でも、きっと立ち向かえる。怖いけれど、少しでも立ち向かう勇気を作り出せる。
思い込みも、力になる。
何より、子だぬきを守らなければ――七子は咄嗟に子だぬきの前に出てかばうように立った。
前後上下全てから守れるとは思えない。しかし、気持ちだけでも、前に立った。七子が子だぬきを守っているようでもあり、子だぬきによって七子は奮い立たせられている状態でもあった。
(怖い、けれど――怖くない!)
がちがちと歯を鳴らしながら。
膝頭を震わせながら。
七子はとうせんぼするように、目の前のひときわ大きな口と目に立ち向かう。口は、にぃっと三日月に弧を描き、歯をむき出しにした。
「――ひっ」
七子の身体が下がる。下がろうとして、背後の子だぬきの存在に、そこで留まる。必死に両手を広げ、顎を引いた。
「あ、あなた、は」
無様にとぎれとぎれの声を出し、七子は腹にぐっと力を入れた。
(ひとり、じゃないから。下がっちゃ、ダメ――!)
何よりも、あんな未来は嫌だから。
絶対、嫌だから。
少女は顔を上げる。俯くしか出来なかった彼女は、懸命に顔を上げ、目を合わせた。
「あなたは――『私』、なんですか?」
勇気を振り絞って、その質問をしたとたん、周囲の目が大きく見開き、少女に視線を集中する。あまりの圧迫感に、だらだらと少女の背中を冷たい汗が伝った。
「辻境さん、という人が。言って、いました。この物語は、私を、執拗に、痛めつけて、殺そうとしているって。私が、許せないんだって。私自身を、誰かが、怨んで殺そうとしているというより、私が、私を、殺そうとして、罰しようとして、繰り返しているみたいだって。それを、タナトス――自己破壊衝動じゃないかって、聞きました」
七子は一瞬つま先に足を落とし、再び面を上げる。
「最初、自分で、考えろって。少しは、自分で、考えろって、言われ、ましたよね。私、あの後からずっと考えて……ずっとずっと考えて、今まで、何も考えてなくて、何もしようとしなくて、時間が過ぎれば、それでいいんだって、思ってたって」
そう思って、と七子は喉がつまってくるのを、必死に声を張り上げる。
「もし、未来が。そんな私のせいで、あんな風になったなら。私は、私を、許せ、ないって。お父さんや、お母さんが、どんな思い、したろうって。それだけじゃ、なくて。皆、酷いことになっていて、私」
あんな未来を、引き寄せることになるきっかけが、自分自身だとしたら。
絶対に、そんなのは嫌だ。
「そんなの絶対、嫌、だから。私は、未来を変えます――!」
頬を温かい液体が濡らしている。七子は、それでも、一歩も引かなかった。どうやって変えるのか。何をすればいいのか。自殺から報復事件にいたる流れに自身が関わっていることは理解できても、本にまつわる怪異については、本当に七子自身が招いたことなのか。分からないことは山積みだ。
揺れる瞳でぶるぶると睨みつける少女を無数の目は見おろし、沈黙していたが、やがて見開いたそれが通常の大きさに戻る。
「あんた――」
かけられた声には、当初出会った時の嘲笑じみたそれはなりをひそめていた。しかし、七子は過剰反応して「は、はいっ」と飛び上がってしまう。
「な、何でしょう、か」
「あんた、まだ未経験でしょう」
「は、い?」
「あんた自身は、最初の篠原七子の絶望を未経験でしょう?」
「え……と、う、あ……は、はい」
最初の、というのは、自殺した七子自身のことだろうと少女は頷いた。
「だから、あんたには、資格がない」
「しか、く?」
「だから終わらない」
意味が分からなかった。しかし、何か本質的な話をしていると七子は真剣に聞き入る。
「材料はほとんどあんたの手元に集まってきている。でも、致命的に足りない。永遠に足りない。『原因』ではないあんたには、『呪い』を解くことはできない」
「呪い?」
黒い背景がぐしゃぐしゃと寄り集まって、巨大な口を作ると、七子に噛みついた。
「うるせええええええなああああああ! いちいち鸚鵡返ししてるんじゃねぇえええよ、小娘えええっ」
「ひ」
今度は、別の大きな口が足元に七子を飲み込まんと開いた。真っ黒な口腔はどこまでも深く、ぬるぬるとした舌が飛び出しては喚き散らす。
「お前はよぉおおおおっ、最初っから甘えてるんだよぉおおおおお! 教えて教えて教えて教えて、自分でッ! 考えろッ! このバカ娘があっ!」
「何でこうなったんだよぉおおおッ!? お前のせいだ!」
「てめえのせいだ!」
「考えろ!」
「このバカが!」
「だから一人ぼっちなんだよ、お前はよおっ」
「想像力皆無ってやつだな、ぎゃはははは!」
次々と罵倒され、七子は咄嗟に自分の頭を庇う仕草をしたが、背後の子だぬきを思い出して、はっと手を下ろした。
「う、あ。ア……」
下半身の感覚がおかしい。麻痺したように小刻みに震え続けて、うまく立っていられない。地べたに座り込みたかった。
「う……だ、黙って!」
ください……と尻つぼみに叫ぶ。しかし、大きな口たちは、驚いたように罵倒を止めた。七子は声を荒げてしまった自分自身にとてつもない嫌悪感と驚愕が押し寄せるのを感じた。
(で、でも)
でも、と腰を据える。
「あ、あなた。都合、が悪くなると、私を、脅して、ます、ね?」
「はあっ!?」
「う、うぅ、う、こ、怖く……怖くないもん!」
子供かえりを起こして、半泣き状態で七子は虚空に向かって叫ぶ。
「もん、とかあんた」
呆れたように目がぎょろぎょろと左右に動くが、七子は必死だった。
「め!」
「は? め? とか」
しまいには、子だぬきが「ふしゃあっ」と尻尾と毛を逆立てて、四つん這いに七子の前でふんばっているのを見て、巨大な目と口は戦意を失ったようだ。
「馬鹿馬鹿しいわ。本当に馬鹿馬鹿しい」
力が抜けたのは、七子もだった。
「……たぬきさん、後ろ、下がっててね」
「め! いじめるなー!」
う、うん、と七子はうろたえながら子だぬきを自分の足の後ろへ押しやった。心がほかほかしてくる。頬に血が集まり、本当に怖くなくなってくる。
(エリアスさん、私、大丈夫ですよ)
二人と一匹で、短い旅をした。七子にとって、恐ろしくて、泣き出したくて、うちに帰りたくて、逃げ出したくてたまらなかった。しかし、それ以上に、かけがえのない時間だった。
エリアスはここにはいないが、七子は彼の存在を感じることができた。『過去』に、誰かが手を伸ばしてくれた。その手をしっかりとつかんだ。つかむことができた記憶が、七子がこうして立つことができる『今』につながっている。
「あなたが『私』なら。私、あなたが怖く、ないです。私じゃなくても、もう、泣いたり、しません」
「……」
「考えろ、って言う、なら。考えます。あなたは、『私』みたいだけれど――多分、違う」
はっと、目がその身体があるかのように震えた。
「ナディアが、もう私じゃなかったように。あなたも、私じゃ、ないと思う。でも、私の中にあるもの」
七子は考える。ひたすらに考え、違和感の正体を突き止めようとする。
「あなたは、私を、助けようと、も、してくれました。私、本の中に引きずり込まれなかったら、あの『未来』がやって来た、と思う」
目と口――本は沈黙している。
「あなたは。この物語、は。確かに、私を、殺そうとしている――でも、助けようともしてくれている。あの嫌な未来を。絶対嫌な未来を。あなたも回避しようとしている、の?」
違和感が少女の中でどんどん膨れ上がる。二律背反とも言うべき、矛盾する二つの意思が同時に動いている。
一つは、七子を痛めつけ、殺そうと進行し続け、もう一つは、『未来』を変えようと介入している。
「二つ、の、意思? 別々の、意思?」
呟き、七子は、愕然とした。
「ふた、り?」
「面白い解答ね」
分からないまま、直観的に呟いた七子へ、本は言った。
「あんた、もう、見てきたでしょう。この世界の違和感の源」
「……しゅ、修学旅行の、神社の、門」
「ああぁあああたああああぁありぃいいいいいいいい!」
七子は、やっぱり、と青ざめる。これから『未来』で七子が行く筈だった修学旅行で立ち寄ることとなる柞原八幡宮の日暮門。
この門を、七子は異世界であるはずの大迷宮の門の様式に見ることとなった。
それだけではない。
ネコノカ族達の領域にあったマヨイガ。
不思議な日本語の痕跡。
「全部、私の、経験? これから経験することも?」
「それだけじゃないわ。あんたが気づかないだけで、個人の経験も、民族も、歴史も、全て超えてあの世界は成立しているのよ。そして――」
足元に黒い布地が寄り集まるようにして、高低を作っていく。まるで町並みのように。いや、町並みそのものの風景を作り、今度は端から押し寄せる『波』を形作る何かに押し潰されるようにして崩壊する。
「――壊される」
七子は理解が及ばないままに、声を絞り出した。
「ど、どうして」
「不必要だから」
「不必要って、誰がそんなこと」
「大迷宮」
「え?」
「大迷宮の一番奥底に封じてあるもの」
今更ながら、忘れていた迷宮の最下層の話を持ち出され、七子は混乱した。
「一番底は、異世界――元の世界に、つながっているかもしれないって、聞きました」
「そうね」
「本当、なんですか。でも、私、暗黒の海から、元の世界に」
「一番最初のファースト階層に行ったわね」
「元の、世界じゃ、ない――」
「最下層まで行ってみることね。その目で確かめるのが一番手っ取り早いわ」
「確かめ?」
「時間よ。あんたの身体、無事だといいわねえ」
不吉な言葉を残して、目や口はすうっと閉じると、一本線となって消えた。つなぎ目さえ見えない。
不安げに周囲を見回した七子は、再びタイルが引っくり返り始める音を聞いた。
*****
大迷宮の最下層部分に、二つの人影があった。黄金の甲冑を着込んだ人影の周囲には、ごおごおと燃え盛る二つの車輪が自在に飛び回っている。彼の位階は『戦車』と呼ばれている。
「ふひ、ひひひひひ。みーつけた、みーつけちゃったあ」
『戦車』は喜色に顔面を輝かせ、『るつぼ』を見下ろした。一方、頭を左右にぶらんぶらんと激しく揺らしながら傍らに同じく『るつぼ』を覗き込んでいるのは、華奢な女の魔神だ。彼女は、頭部にちょこんと小さな王冠を被り、煉瓦色のドレスが、るつぼから湧き出すコールタール状のどす黒い何かに浸されるのも気にせず上機嫌に笑っている。
「ですわ。わわわわわわああはひっひいいいひぃにおああpもえまなえ^あ;」m:k」
「『塔』さん、お前、だーいじょうぶー?」
「あげひ」
口端から、だらだらと涎を垂れ流して「ひきげああああああああああああ」と奇声を上げる『塔』は全くの正気には見えなかった。
「お前、そうっとうにやべえなあ。俺も、やべえなあ。もう残り少ないわあ。けど、このまんま消えるのやあだなああ」
『戦車』は「ふへ」と笑うと、躊躇なしに己の腕をるつぼに突っ込んだ。たちまち、コールタールは『戦車』の黄金の甲冑を腐食させ、粘つくようなそれで腕を覆い尽くして溶解させる。
「おっへえええええ、いぃいいい感じぃいいいい。けど、足りねええぇえええええええ」
「あげひあげひぃいいいいいい」
「魂がたりねえええええええぇえええええ。俺、もう、すっかすか。薬づけで骨すっかすか魂なわけよお。こりゃ、新鮮な魂がいるぜえぇえええええええ」
「うぎぃいいいいいいい」
「任せろよ。『恋人たち』は後づめで、うつぼ船動かすのに監視の目外れてっからなあ。俺達ににゃあ、あとがねえのよ。あとが。『次』なんて耐えられねえからな。どうせ消滅するなら、好きにさせてもらうぜえ」
なんたって、俺ら、『創生の神様』ですからあ、と『戦車』はげらげら笑い続けた。
「いきのいーぃ、憎悪満載かつ崇高な使命に酔いまくってる歪んだ魂がいるからよお。ちぃいっと誘惑してくるぜえええええ」
それは楽しげに、何十階層も突き抜けた地上を見通すよう、頭上を見上げて。
追記 7月7日は七子のリアル誕生日です。昨年のこの日、七子は生まれ、初期連載開始しました。読み続けてくださってありがとう。新しい読者の方にも読んでくださってありがとう。




