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いち



 現実と異世界が入り混じるとしたら、どんな奇妙なことが起こるだろうか。

 これは、不思議と恐怖の物語である。

 もしあなたに、一欠けらの好奇心と物見高い勇気があるのなら。

 どうか、彼女の物語に付き合ってやってくれ。


 

 そこは、静かな図書館だった。

 山岡中学校の図書館は、木造造りに赤い瓦を葺いた別館となっており、その利用者もほとんどいない。

 だが、足繁く通う女生徒が一人いた。

 篠原七子。

 ロングヘアーの中学三年生の少女である。

 紺色のセーラー服に、赤いリボンタイ。

 靴は学校指定のローファー、黒い厚手のストッキングをはいている。

 彼女は誰もいない図書館の棚の影に駆け込むと、堰を切ったようにぼろぼろと涙を零した。

 七子は大人しい少女だった。

 人と喋ることもあまり上手ではない。

 というより、会話のテンポというものがまったくつかめず、同級生たちのおしゃべりに入っていくことができなかった。

 勇気を出して一言合いの手を入れると、それは周囲をしらけさせてしまう。

 七子は次第に会話に混ざれなくなり、いつの間にかぽつんと一人でいることが多くなった。

 代わりに、彼女は昼休みになると図書館へ駆け込む。

 図書館の裏手のベンチで弁当を急いで食べ、残りの時間いっぱい読書に費やすのだ。

 本を読んでいる間、七子は探偵と一緒に事件を追い、時には怪盗と一緒に古城に忍び込んで秘密の財宝を解き明かした。

 動物たちとおしゃべりする先生の診察を眺め、空飛ぶ竜にまたがって少年とともに冒険する。

 七子にとって楽しい空想の一時だ。

 しかし、今日はご飯を食べることもせず、本棚の影でぬぐってもぬぐっても溢れてくる涙に声を殺している。

 事の始まりは昨日。

 その日は、修学旅行の班決めで、七子は朝から胃が重かった。

 案の定、班決めで七子はあぶれてしまい、先生が「誰か篠原さんを入れてあげて」とクラス全員にお願いした時、彼女は羞恥でひたすら俯き、じっと自分の膝小僧を見つめていた。


「困ったわねえ」


 担任の桃丘弓枝は明るくて優しいと生徒たちにも評判のいい若手の女教師だ。 

 この人気者の弓枝が、自分をもてあましていると七子は感じ、恥ずかしさのあまり消えてしまいたいと願った。


「先生ー、女子は皆五人班だからー、一人どうしても余っちゃうんですー。篠原さんはー、一人で回りたいそうでーす」


 誰かが挙手して言った。

 七子は赤面し、ますます俯いた。


「篠原さんが混ざるとちょっとねー」

「困るよねー、うちら仲良しグループだし」


 ぽとり、と大粒の涙が膝に零れ落ちる。

 目ざとく気づいた隣の男子生徒が「うわっ」と声を上げた。


「やっべ、篠原泣いてんぞ!」


 教室は騒然となる。場をしらけさせる七子を非難するような視線。視線。視線。

 いや。止めて――と七子は縮こまった。指摘され、暴露されて、彼女は余計に視界がじわじわと涙に侵された。

 

「止めなよ。かわいそうじゃない」


 立ち上がったのは、瑞樹優花だ。


「うちの班に入れてあげようよ」


 彼女は他のグループメンバーを見回した。彼女たちは顔を見合わせ「えー」とブーイングしたが、優花が重ねて「かわいそうだよ」といえば、しぶしぶ了承した。

 優花が「じゃ、決まりー」と言うと、教師の弓絵は心底ほっとした顔を見せた。


「良かったわ、じゃあグループで分かれて、役割分担と自由行動の計画書を作ってね。あとで提出してもらうから、遊ぶばっかりじゃなくて、何故その場所に行くことにしたのか、理由も書いてきちんとしたものを作るのよ」

「はーい」


 早速グループごとに計画を練り始める。


「ほら、篠原さんも混ざって」

「あ、あの。私」

「いいからいいから」


 やや強引ではあったが、椅子に座らされて、七子も計画作りに参加させられる。

 優花の統制は大したもので、七子は少し嫌そうな目で見られたが、特に大きな反発もなく、空気のようにグループの中に混ざることができた。

 じっとしている内に、時間は過ぎ、授業は終わりとなる。

 ちょうど最後の授業だったので、ホームルームが終わると解散だ。


 礼をすると、優花が他の女生徒の誘いを断って、七子の前にやってきた。


「篠原さん、今日は一緒に帰ろうよ」

「えっ」


 七子はぽかんとしてしまう。

 優花が何故自分を誘ったのか、まったく分からなかった。


「私、篠原さんと仲良くなりたいと思ってたんだ。せっかく同じ班になったんだし、修学旅行までにもっと仲良くなれたら当日絶対楽しいし!」

「え、あ、あの」

「だめ?」


 七子は頬が紅潮するのを感じた。

 周囲からの視線が突き刺さる。

 気がつくと、壊れた人形のように首を左右に振っていた。





 帰り道、田万川の土手沿いを歩きながら、先行していた優花がくるっと振り返った。


「ね、実は私、篠原さんにどうしても聞きたいことがあったの!」


 何を話したらと気詰まりにびくびくしていた七子は「へ、あ、な、なに?」と過剰に反応した。


「やだー、篠原さんってばおっかしい!」


 きゃらきゃらと笑う優花に、七子は赤面してしまう。


「あのね、前ちらっと見ちゃったんだ。篠原さんのノート!」


 何のことだろう、と頭が空白となった七子に、優花は好奇心で瞳を輝かせながら迫った。


「ノートに、絵、描いてたよね!」


 七子の顔面から、一瞬で血の気が下がった。たくさんの本を読む内に、自分も書いてみたくなって、こっそりノートにイラストをつけて物語を描いていた。いつも持ち歩いており、決して人前に出すことはなかったが、たまたま開いてしまっていたのを見られたのだろうか。


「凄くかわいい、妖精の女の子と男の子! あとユニコーンとか!? すっごく上手だった! 篠原さん美術部じゃないよね?」


 かろうじて七子は首を縦に振る。


「なんか、物語みたいな絵だったから――もしかして絵本描いてた?」


 七子は顔色が赤くなったり、青くなったり、羞恥心で頭がぐちゃぐちゃだった。


「お願いっ、見せて! 凄く素敵だったから、どうしても見てみたいの!」


 このとおり、お願い! と優花は頭を下げる。

 七子はとても人には見せられないと断ろうとした。

 しかし、


「私、小さい頃の夢は絵本作家だったんだ!」


 優花の言葉に、もしかして同じ趣味で、仲良くなれるかも――と欲が出た。

 か細い声で、了承すると、優花は大喜びだ。

 すぐそこの土手原に七子を引きずり込み、いつも携帯しているノートをすぐさま見せてくれと言う。

 恥ずかしそうに七子はノートを差し出したが、


「すっごーい!!」


 純粋な賞賛の言葉の嵐で、七子は顔面がかっかしてきた。

 優花はひたすらに「凄い」「きれい」「凄い」の繰り返しだ。


「ねえ、もっとみたいよ! これだけ?」

「う、ううん。うちには今まで描いたの何冊かあるから」

「見せて!」


 勢い込んで頼んでくる優花に、七子はためらった末に了承した。

 

「あ、じゃあこれから篠原さんち行ってもいい?」

「えっ」

「やっぱり駄目かな?」

「う、ううん。いいよ! 全然いい!!」


 七子はほっぺが赤くなるのを感じながら、拳を握って了解する。


(クラスメイトをうちに連れて帰るなんて、お母さん、びっくりするだろうな)


 どきどきしてきた七子は、知らず笑顔になっていた。


「やだ、篠原さんてば気負い過ぎ」


 笑われたが、七子は恥ずかしそうに首をすくめ、それでも笑顔を抑え切れなかった。



 七子の母親は、彼女の予想通り、同級生を家に連れてきたことに驚き、本当に嬉しそうに破顔した。

 内気な娘に友達がいないことに気を揉んでいたのだ。

 急な訪問でも、いそいそとして、茶だ菓子だ、果てにはケーキを買ってくると娘よりそわそわしている。


「お母さんたら、もう」


 と七子は恥ずかしかった。

 部屋に招き入れると、優花は歓声を上げた。


「すっごーい。ぬいぐるみがいっぱい! 篠原さん、ぬいぐるみ好きなんだね。かわいいーっ、わ、これ、目が本物みたいっ、かわいい!」


 有名な大手ぬいぐるみ会社のぬいぐるみは、そのつぶらな目から愛好者が多いが、優花は初めて見たようだ。大喜びでなでくり回している。

 チワワをぎゅっとしながら、「おっと、それどころじゃない」と優花は振り返った。


「見せて!」


 あけすけな様子に、七子は自然と笑顔になり、勉強机の一番上の引き出しから、そっと大切にしまっていたノート数冊を取り出した。

 ペールピンクのクッションを床に置いて、お菓子をつまみながら一緒に鑑賞する。

 

「素敵!」


 優花は大絶賛だった。

 七子は嬉しかった。

 自分の書いた作品が褒められたことではない。

 優花が、自分の作品を通して、自分に理解を示してくれたことが本当に嬉しかったのだ。

 しばらくして、優花が残念そうに声を上げた。


「やだ、もうこんな時間」


 はっと掛け時計を見れば、もう遅い時間だった。


「そろそろ帰らなくちゃ。でもどうしよう、もっと見ていたいのに……ねえ、これ借りていっちゃだめかな?」

「――え」


 家に着いてから、初めて七子は硬い声となった。

 このノートは七子の分身のようなものだ。人に見せたのも初めてなら、自分のテリトリーから出すのも初めてだ。

 だが、「お願いっ」と再び両手をあわせて拝み倒す優花に、七子はこの頼みを断ったら、せっかく良好になった関係にヒビが入ってしまうかもしれない――と青ざめた。

 気乗りはしなかったが、七子は了承した。


「やったー、うれしい!」


 万歳する優花に、ゆるゆると七子の緊張も解けてきた。

 こんなに喜んでくれているのだ。

 自分の発言で、優花を喜ばせることができた。

 そのことが、七子自身に喜びをもたらしていた。

 すると、優花の鞄から、無粋な電子音が鳴り響いた。


「やばい! お母さんからだっ、はやく帰らなくちゃ!」


 優花は慌ててノートを彼女の鞄に入れると、「今日はありがとう!」と頭を下げ、七子の母親にも挨拶して辞去していった。

 七子の母は、七子と一緒に彼女を玄関先で見送ると、


「七子。良かったわね」


 と目を細めて娘の頭を撫でた。

 

「――うん」


 七子はくすぐったかった。全身くすぐられているような嬉しさだ。

 二人の様子に、帰宅した父親が「今日は何かいいことあったかな? 何か記念日だったっけ?」と不思議そうにしたが、母娘はそろってくすくすと笑うばかり。

 

「お父さんだけのけものかい」


 ぽりぽりと頬を掻いて悲しそうな父親に、見かねて母親が「実はね」と話す。


「そいつは、良かったね。はは、七子、やったな」


 その日の夕飯は本当に楽しくて、くすぐったいものだった。

 就寝時間、七子はどきどきして中々寝付かれず、何度も寝返りを打った。

 明日が楽しみ。

 そんなことは初めてだ。

 

(明日、瑞樹さんにあったら、何て挨拶しよう)


 はじけそうな喜びと期待、僅かな不安、もっと大きな楽しいという感情。

 七子は気づくとうとうとして、いつの間にか眠りの世界へと誘われていった。


 

 翌日、七子は少し寝坊してしまった。

 結局朝方まで寝付かれず、就寝したのは僅か二時間ほど前だったのだ。

 始業には間に合う時間だが、ぎりぎりとなるだろう。

 慌てて、リボンタイを結ぶ手がもつれる。ストッキングに中々脚を通せない。

 母親は苦笑し、「ご飯はよく噛んで食べるのよ」と声をかけた。 

 小走りになって登校し、下駄箱で一息つく。

 時計を見て、間に合うと判断した七子は、歩調を落とした。

 自分のクラスまで辿りつくと、なんだか教室の中が騒がしい。


(どうしたんだろう)


 がらり、と戸を開けると、何人が七子を見て「あっ」と声を上げた。

 

(え、なに?)


 ものすごく注目されている。

 疑問符でいっぱいになりながら、七子が恐る恐る自分の席につくと、くすくすと笑い声がする。


(なに? なんなの?)


 笑われている。

 七子は、自分が嘲笑の対象になっていると気がついた。

 不安になって周囲を見回すと、優花の机の周りは人だかりが出来ている。


「あ、篠原さん、おっはよー」


 生徒たちに囲まれていた優花は、七子に気づいて、ぶんぶん手を振った。

 七子はほっとし、「お、おはよ」と小さな声で返す。

 優花は手のひらを振って、「こっちこっち」と七子を呼び寄せた。


「え、あの」


 おどおどしながら七子が席を立つと、「はやくう」と呼ばれる。

 七子は恐る恐る人だかりに近づいた。

 ますます視線は突き刺さる。


「ほら、どいてよ」

 

 優花は七子を人の輪に引っ張りいれた。


「じゃーん! 篠原さん作! 妖精の物語!」


 机の上に、七子の絵本ノートが開かれていた。

 七子は硬直した。

 世界から音が遠ざかる。

 耳鳴りがぼわんぼわんとしている。

 どうにか周囲を見回して、見覚えのあるノートが『回し読み』されていることに気づいた。


「未来の大作家! 篠原さんだよ!」


 場違いに明るい優花の声。

 皆が自分を見ている。

 七子は――気がつくと、半笑いになっていた。

 脚ががくがくと震えている。

 でも、涙は出てこない。

 ちっぽけな、とてもちっぽけなプライドが、ここで泣いたら終わりだ、と七子を突き動かす。

 七子は、ぎくしゃくと、ノートをかき集めた。ノートを返してもらうとき、生徒たちは七子をじろじろと見て、最後に間抜けなものを見たようにふき出した。

 どうして、とか、何故、とかいった言葉は熱い塊とともに、七子の喉奥につっかえて出てこなかった。

 善意だ。

 圧倒的な善意が優花を輝かせている。

 七子は、その後昼休みまで自分がどうしたのか分からなかった。

 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室を飛び出し、図書館に駆け込んだ。

 七子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。




 どうして。

 と七子は涙を流した。

(どうして、仲良くなれるなんて、欲をかいたんだろ)

 これは罰だ。

 七子が欲をかいたから、罰が当たったのだ。

 そう七子は自分を責めた。

 大人しく、一人でノートに空想を広げていればよかったのだ。

 褒められて、調子に乗って、だから罰が当たったのだと。

 涙が次から次から溢れ出し、七子の視界は水彩画のように滲んだ。

 彼女は声を必死に押し殺した。

 誰にも泣いているところを見られたくなかったのだ。

 震える手で、七子は書架を触る。

 本。

 たくさんの本。

 この本たちは、決して七子を裏切らない。

 七子を空想の世界に連れて行ってくれる。

(本を、読もう)

 本は七子を癒してくれるはずだ。

 本当は目も鼻も喉も痛くて、本を読める状態ではない。

 だが、七子は本を読もう、と思った。

 空想世界への逃避である。

 しかし、このまま泣き続けることよりも、逃避することで涙を止めようとしたのだ。

 この少女なりの、けっして褒められはしない前向きさの現れだった。

 視界がぼやけたまま、七子は滲むそれに浮かび上がる一冊の黒い背表紙の本に気持ちを引かれた。

 題名は知らない文字だった。

 不思議なことに、知らない文字だというのに、七子はその文字をすらすらと読むことができた。


 その本の背表紙にはこう書いてある。


『異世界で  になる方法』


 おかしな題名だ。肝心なタイトル部分が虫食いになっている。そもそも、こんな本は図書館にあっただろうか。七子はあらかたこの図書館の様子は大体頭に納めていたが、こんな本は見たことがない。生徒のリクエストで新しく入荷される本もほとんどないし、もし入荷されても新刊コーナーにまずは配置されるはずだ。

 七子は僅かに疑問に思ったものの、その時はぼんやりしていたので、深く追求して考えることもなく、本を引き出した。

(あ、れ? なんだか生あったかいような)

 周囲の本にぎゅうぎゅう挟まれて、熱を持つこともあるのだろうか、と七子は首を傾げる。本の表紙はまるで人の皮膚のようにしっとりして滑らかだ。

 その表紙は真っ黒。目を凝らすと、僅かに中心あたり、もっともっと黒い色で一本線が入っているようにも見えたが、目の錯覚だろうか。

 七子はそうっとページを開いた。恐ろしく黄ばんだ紙だ。七子はぱらぱらと中身を見ない主義だ。

 うっかり途中の文章を読んでしまったら、せっかくのびっくり箱が台無しになってしまうかもしれない。

 最初から一ページ一ページ丁寧に読み込んで行くのが、彼女のやり方だった。

 目次はない。何も書かれていない中表紙をめくり、本文最初のページ。


 ――そこのあなた。


 と書いてある。


 ――そこの、他人に笑われて、ショックで涙をしくしく流している哀れなあなた。


 どきっとした。

 本を取り落としそうになり、偶然こんなこともあるのね、と七子は本を持ち直す。


 ――あなたはとびっきりかわいそう! そんな魂があたしは大好き!


 何これ、と七子は読み進めるのをためらった。

 思わず、きょろきょろと周囲を見回す。

 誰かに見られているような気がしたからだ。図書館はしんっ、として、もちろん七子以外に誰もいない。

 七子は再び本のページに視線を戻した。


 ――もしあなたがこの世界から逃げ出したいというのなら。あたしがお手伝いしてあげる。


 こんな導入の仕方もあるのね、と七子は冷静に考える一方で、熱に浮かされたよう真剣に文章を追い始めていた。


 ――勇気がない? ノンノン、気にしちゃだめよ。大丈夫! トライしてみて! きっとあなた、変われるわ! 強いあなたになれる! ちょっぴりの勇気を出すだけで、あなたのなりたいあなたになれるの!


 七子の心臓はどくどくと血液を全身に送り出した。

 気が弱くて、言いたいこともいえず、涙をこらえながら必死にノートを回収した自分を七子は思い出した。

 もし、少しでも七子に勇気があれば、あんな惨めな思いをせずに済んだだろう。


「私、変われるかな?」


 気がつくと、七子の唇はそんな独り言をつむぎだしていた。

 すると、


 ――だーいじょうぶよ! ドーンウォーリー! ビーハピー! ゴーオンナナコ!

 

 本はたちまち七子を励ました。 

 そこで、ようやく七子は異常に気づく。

 本と会話している。

 

(おかしい)


 本能的に七子は本を閉じようとした。しかし、


 ――だめよう。そうはいかないわ。久しぶりのご馳走なの。はーっはっはっはっ! 怯えちゃ嫌よ、さあ、

 

 さあ、と次の文面が浮かび上がった瞬間、七子は本を投げ捨てた。

 本の取り扱いとして、最低の行為だ。

 普段なら、絶対しないだろうが、この時ばかりは七子は恐怖のためにそうせざるを得なかった。

 七子は本の行方も確かめずに、図書館から逃げ出そうとして、


「だーめよう」


 声に愕然とした。

 恐る恐る振り返ると、宙に本が浮かんでいる。

 真っ黒な表紙に、切れ目が入る。

 べろり、と赤い舌が飛び出した。長い長い舌は垂れ下がり、真っ赤な口腔に、ぎざぎざの犬歯のような歯が並んでいる。


「逃がさないわよ。さあ、いらっしゃい」

「――た、たすけて」


 あとじさる七子の口から飛び出したのは、命乞いだった。


「んんー? 異世界に行きたくないのかな? 楽しいわよお」

 

 でもお、と本はげらげら笑う。本だというのに、まるで身をよじって、楽しい見世物をみるかのように笑い転げている。


「断っても、だーめえーっ、ぜったい連れていくぅううううううううう!!」


 ぎゃっはははははははは!


 つんざくような甲高い笑い声とともに、真っ赤な口腔が七子の視界一面に広がる。

 大きな大きな口が、七子を頭から飲み込んだ。


「うぅーーん、でりしゃすぅ!!!」


 満足げな言葉とともに、ぱたり、と本は床上に落下する。

 しん、と図書館は静まり返った。

 まるで最初からだれもいなかったように。

 しかし、俄かに外が騒がしくなる。


「篠原さーん、いるー?」


 優花だった。友達数人と一緒に、七子を探しに来たのだ。

 彼女は図書館をのぞくと、「あれ、いない?」と首を傾げた。

 

「篠原さん、いっつも昼は図書館に行ってるって聞いたけど」 

 

 ちがったのかな? と優花は中に入っていく。


「優花、もう探すの止めようよ」

「そうだよ、ほっとけばいいじゃん」

「だめだよ。仲良くなるんだもん!」


 優花は唇を尖らし、ぷうっと頬を膨らませた。


「ほんとあんた物好きよね」

「いいのー」


 ずんずんと優花は友人を振り切って立ち並ぶ書架の奥へと歩いていく。

 そこで彼女は足を止めた。

 床に落ちた黒い本を見つけたのだ。


「あれ? 床に本……」


 だめじゃない、と優花は本を拾い上げた。中身を確かめようとして、


「優花ー、置いてくよー」

「あ、待ってー!」


 彼女はそのまま本を書架の開いたところに押し込もうとして、それから少し考え直したようにそのまま本を手に貸し出し受付へと向かった。




 ぎゃあ、ぎゃあ、とカラスの鳴く声がする。

 恐ろしい本が、まるで狼のようにぱかりと口をあけて、その真っ赤な口腔が視界いっぱいに広がったのを最後に、七子は気がつくと、暗い森の中に投げ出されていた。

 彼女は不安そうに周囲を見回し、これは悪い夢なんだよね、と自らの問いかけた。

 ふと脚にもぞもぞと違和感があり、ぼんやりと確かめた七子は、瞠目した。

 大きな昆虫が脚を這い登ろうとしている。


「いやっ」


 叩き落として悲鳴を上げると、呼応するように森の奥から獣の咆哮がした。

 七子の背中を冷たい汗が流れ落ちた。

 全身が心臓になってしまったかのように、ずきずきと脈打っている。

 青ざめた頬を涙が滑り落ちた。

 頭上はびっしりと葉が生い茂り、ねじくれた枝が幾重にも樹冠を織り成している。

 薄暗い森の中だ。

 涙が止まらない。

 獣の咆哮は次第に近づいてきているようにも思えた。


(怖い――やだ。どうしよう。どうすればいいの)


 中学生の七子には、その容量を遥かに超えてしまう事態だった。

 

(遭難したら、そこから動かない。動かずに、助けを待てばいいんだよね)

 

 涙をぬぐいながら七子は考える。


(でも、ここ、どこなの? 本当に助けなんてくるの?)


 助けは来ないだろう、と七子の本能は察していた。


(それより、声、近づいてきてる。場所、移動した方が、いいよね?)


 そもそも、わざわざ自分の居場所を知らせながら近づいてくる獣というのは、異常なものであったが、七子の思考はそこまで思い至らない。

 七子は、背後を振り返り振り返り、とぼとぼと暗い影を落とす木々の間を歩き出した。

 しかし、すぐに彼女はどこをどう歩いてきたのか、分からなくなり、途方にくれることになる。


(さっきも、ここ、通ったような)


 そうでないような。

 どうしよう、と再び涙が盛り上がる。

 ただ獣の遠吠と距離を測りながら歩いているような感じだった。

 

「あれ……」


 七子は立ち止まった。

 そういえば、先ほどから獣の声がぱたりと止んだ。

 どうしたのだろう、と彼女は振り返る。

 ただ真っ暗で深い森があぎとを開けているだけだ。

 まるで、お前を早く食べたい、といっているかのようで、七子はぶるっと震えた。

 再び彼女は力なく歩き出し――血まみれの騎士を見つけた。

 七子の驚きは、言葉では尽くせなかった。

 樹木を背に、全身鎧を着込んだ男が、十字の剣を地面に突き刺し、やっとの態で立っている。その剣は、たった今、何かを切り殺したかのように血でぬらぬらと濡れていた。

 騎士だと思ったのは、七子が繰り返し読み込んだ本に出てくる騎士のイメージにぴったりの姿だったからだ。

 ただし、その格好はぼろぼろだった。

 鎧はところどころへこんでおり、左腕はぶらんと垂れ下がっている。

 破壊された板金部分が剥がれ落ち、黒い頭髪には、よく見れば血がべっとりこびりついて固まっていた。

 特に酷いのは顔半分で、すうっと通った鼻筋の反対は、溶かされたかのようにぐちゃぐちゃになっている。その瞼は、奇妙な液体で固まって、開かないようだ。もう半分が秀麗なだけに、酷くアンバランスで気の毒というよりなかった。

 何より、真新しい血が、じわじわと鎧から染み出して地面に伝い落ちていた。

 騎士は七子に鋭い視線を寄越すと、重たげに剣を抜いて正中に構えた。

 もし七子が不用意に動いたら、この騎士は死力を尽くして、七子を排除しようとしただろう。

 

「まさか、女こどもの姿で現れるとは――この階層……魔の森も、中々に気が利いているとみえるな」


 騎士が自嘲気味に言う。


「あの――」


 何か話そうとした七子に、恐ろしい殺気が飛んだ。


「ひっ」


 七子の喉が無様に鳴る。


「魔よ、私を惑わせようとしても無駄だ。疾く、正体を現すがいい」


 正体と言われても、七子は七子であり、他の者にはなれない。

 この人は、何か勘違いしている。

 そう七子は思い、何とか身の潔白を証明しようとしたが、殺気に押されて口を開くことができない。

 七子が極度の緊張で糸が切れてしまえば、彼女は崩れ落ち、それを皮切りに騎士は動いたかもしれない。

 しかし、騎士の体力が尽きる方が早かったのは、互いにとって幸運だったのか。


「っく」


 騎士はよろけ、ずるずると木の幹を背に滑り落ちていった。

 足元に、血だまりができている。

 剣だけは離すまいとして、しかしそれも限界だったのか、その手から零れ落ちる。

 騎士の崩れていない半分の顔には、くっきりと死相が浮かんでいた。素人の七子から見ても、この人はもうすぐ死んでしまうだろう、と分かるほどだった。

 騎士は、何とか頭を上げようとしているが、もはや視線が定まらない。

 意識が混濁してきたのか、七子と視線を合わせることすらできないでいる。

 七子は、恐ろしかった。

 この騎士は、七子に剣を向けた。

 その剣はとうていおもちゃとは思えなかった。あれで切られたり、殴られたりしただけで、七子は簡単に死んでしまうだろう。

 だが、それ以上に、この騎士を放ってどこかに逃げることはできなかった。

 震える足で、七子は騎士に近づいていく。


「あの、大丈夫ですか」


 距離五メートルほどのところで、声をかけた。

 答えはない。

 もう少し近づく。

 血の匂いがする。

 七子はなんだか、


(――おいしそうだな)


 と思った。

 そう思ったことに、驚愕する前に、七子の頭は痺れて行く。


(凄く、強そう。おいしそう。食べたいな)


 異常だった。

 七子の思考は異常に犯されていたが、本人は陶然として、そのことに気づかない。

 そもそも、この暗くて足場の悪い森の中を歩き回って、足の痛みをまったく覚えなかった。

 視界も明瞭で、遠くまで見通せた。

 精神的な混乱以外に、身体の不調をまったく感じなかったこと事体がおかしかった。

 七子はじりじりと騎士に近づいた。鎧は溶解しており、用を成していない。確かめるよう、騎士の首元に指を当てた。

 脈がある。

 ここにかぶりつきたい、と七子の内側を激しい衝動が突き上げた。


 そうして、七子はその衝動に逆らわなかった――




 騎士の絶叫が森に響き渡った。



 七子は、呆然としていた。

 自分は何をしたのだろう、と口元を拭い、真っ赤に染まった手の甲に悲鳴を上げる。


「やだ、やだっ」


 激しくえづいたが、嘔吐されるのは、黄色い液体ばかりだ。

 絶望する七子は、目の前の物言わぬ骸に、これをこうしたのは自分だと理解し、顔面を覆った。


(嘘だ。嘘だ。嘘だ。私じゃない。私がやったんじゃない!)


 木に背を預けたまま、騎士の目からは光が失われている。その首は、不自然な方向へと折れ曲がっていた。

 しかし――ぼきり、と嫌な音がした。

 絶句する七子の前で、騎士の身体がぼきぼきめりめりと嫌な音を立てて、『再生』していく。

 地面に零れ落ち、凝固しようとしていた血は、全てまき戻しのように騎士の身体へと戻り、やがて彼は折れ曲がった首を正常の位置へと戻して、


「――私は」


 声帯を震わせた。彼は己の身体が修復されているのに気がついて、愕然とした表情となる。残念ながら、顔面半分は溶解したままだったため、驚きに引きつれただけだった。

 そのまま確かめるようにゆっくりと立ち上がり、


「――何をした」


 僅かに恐怖がその声には宿っていた。

 七子の口元を見て、騎士はゆっくりと『二度と動くはずのなかった』左腕で、己の首下に触れた。


「ごめんなさい」


 七子は謝罪する。涙声に、謝罪を重ねた。騎士は厳しい形相を解いた。泣きながら謝る七子に、毒気を抜かれたのか。あるいは、全てを悟ったのか。

 騎士はしばらく無言に立ち尽くした。

 何かと対話するようにじっと虚空を睨み、やがて糸が切れたように力を抜く。

 彼はそのまま七子の前で膝を突いた。


「あなたは、私をあなたの眷属としたのだ」


 びくっと七子の肩が揺れた。

 七子は理解していた。

 この男を『食らった』と。

 『食らった』ら、男の何かが流れて来て、七子の中で、彼を仲間にするか否かというような漠然とした問いかけがあった。

 この男は強い。もし、『仲間』にしたら、もっともっと強くなるだろう、と七子の中で、何かが教えた。

 七子は、少し迷い、それを『是』としたのだ。


「私はもはや人ではない」


 男は臣下のように膝をついたまま続ける。


「私はあなたを守らなければいけない。あなたに危害を加えることもできない。だが、私の自我は失われない」


 その目には、滾るような憎悪が宿っている。


「私は、あなたを決して許さないだろう」


 身に受けるべき憎悪だった。

 七子は「――はい」と頷いた。分からないなりに、七子は理解して、はい、と答えたのだ。

 他に、誠意と謝罪の方法を知らなかった。

 だが、その脳裏に、痺れるような冷たい理性が囁く。


(自我の強い生き物は、だめ。危険。眷属にすることは諸刃の剣)


 まるでもう一人の自分がいるようだ。同時に、七子の弱い部分が悲鳴を上げる。


(怖い。怖いよ。何になっちゃったの? 何で? こんなに怖いのに――)


 恐怖が、麻痺してしまっている。

 もっと錯乱してもおかしくない場面で、七子の情動の一部はどこか凍りついてしまったかのようだった。

 ありがたい反面、恐ろしくもある。

 それでも、涙は止まらずに、ぐすっと鼻をすすった。

 騎士は立ち上がり、


「先ほど言ったことを、決して忘れないでください」


 と口調を変えて、何か涙を拭くものを探し、ひとつも清潔な布を持っていないことに気づいたのか、悔しそうに顔を歪めた。


「すみません、何も持っていない」

「い、いいです。私もごめんなさい。何も持っていません」


 途方にくれたように二人は無言となり、再び馬鹿にするようなカラスの鳴き声がした。

 騎士は嘆息した。


「移動しましょう。野営する必要がある」

「は、はい」


 騎士は少し耳を済ませるようにして、あちらか、と歩き出した。

 慌てて七子は騎士の後ろを小走りについていく。騎士は歩幅の違いに気がついて、唇を引き結ぶと、ゆっくりと歩き出した。


「ご、ごめんなさい」


 あの、と七子は今更ながら彼を見上げて尋ねた。


「こ、ここ、どこですか」

「――魔の森です」

「魔の森?」

「魔の森は魔の森です」

「――はい」


 七子は俯いた。騎士は流石に大人気ないと思ったのか、説明を付け加えた。


「魔が出ます」


 あまり説明になっていない。

 拒絶されたと七子は感じ、ますます口を開くことができなくなった。

 騎士は七子の旋毛を見下ろし、嘆息した。


「私は――あまり、説明が上手ではありません」


 だから、故意ではないのだと言外に言うのを察して、七子は「はい」と頷いた。

 会話が続かない――何か話さなければ、と強迫観念に襲われた七子は、勇気を出して口を開いた。


「あの、あなたの名前、なんとなく、分かりました」

 

 唐突な会話運びは、七子の対人スキルの低さのためだった。

 七子なりに、必死のコミュニケーションの糸口に、これしか思い浮かばなかったのだ。

 なんとなく名前が分かったというのは、『食らった』時に、騎士の名前が、七子の中に浮かび上がってきたためだった。

 これを受けて、騎士の方がぴくり、と動く。七子は発言することに必死で、騎士の反応を見過ごした。

 彼女は、身体中の勇気をかき集めて、


「あ、あの――お名前で呼んでも、いいですか」


 汗をかきながら尋ねた。反応を待つ。すると、


「ご随意に」


 返ってきたのは、冷たい声だった。七子は一気に血の気が下がった。


(あ、当たり前だ)


 勝手に名前を読み取られて、いい気分の人はいない。

 騎士の返答は拒絶と諦観だ。

 たった一言に、ちくりと厭味が突き刺さるようで、七子は「あの、嫌ですよね。ごめんなさい。か、勝手に名前、知ってしまって、ごめんなさい。呼びませんので、ご、ごめんなさい」と何度も謝った。

 騎士はあからさまに頭痛を覚えたようだった。

 七子は再び泣きそうになる。


「――エリアス、と呼んでください」

「は、はいっ。あの、私は――」


 名乗ろうとして、立ち止まった男――エリアスが、食い入るように七子を見つめている。

 その目は赤く、瞳孔を引き絞ったかのようになっていた。彼の目は最初赤ではなかったような気がしたが、七子は元の色が何色だったか分からなかった。


「あ、の。私は――七子です」

「――ナナオ」


 いえ、七子です、と訂正しようとして、七子は今更ながら言葉が通じている不思議に思い至った。

 しかし、己が為したこと、エリアスに起きたこと、これらに比べたら瑣末なことのように感じた。


「ナナオ――様」


 不本意げに男は敬称をつける。七子は青ざめ、「あの、ナナオ、でいいです」といった。


「そうですか。では、あなたに新しい眷族ができるまでは、そうしましょう」


 そう言って、エリアスは「行きましょう」と促す。


「ええと」


 七子は口ごもり、エリアスを見上げた。


「あの、眷属って、何ですか」


 エリアスは無言になった。

 何かまずいことを言ったかと、七子はまた「ごめんなさい」と謝る。

 ぽつり、とエリアスが口を開いた。


「どうにも、私たちは、相互理解に努める必要があるようです」


 はい――と七子は頷く。自分のもの知らずが、彼に迷惑をかけている、と七子は己を責めた。


「野営の準備が出来たら、少し、互いの食い違いを埋めるよう話をしましょう。それでよろしいですか」


 よろしいですか、といいながら、拒否を許さぬ雰囲気に、七子は頷くしかなかった。

 だから、彼が「――高位の魔の誕生に、立ち会ったというのか」と呟いても、何も問うことができなかった。

 野営準備が出来てから、といわれたので、質問して嫌な顔をされるのが怖かったのだ。

 

(全然、強くなれてない)


 七子はこっそりと手の甲で涙を拭った。あまりぐずぐずと泣いては、エリアスにうっとおしい、不愉快と思われてしまう。

 すでに彼の憎悪の対象となっていることを素直に七子は受け入れていた。

 元々、誰かに好意を抱かれることなど、頭にない。反面、負の感情を向けられることは、当たり前だと納得できることだった。

 七子が恐れるのは、誰かに不快に思われることではない。それは、仕方のないことだ。

 申し訳ないのは、自分がいることで、誰かを不快にさせてしまうことだった。

 少女は、これ以上、彼にとって不愉快な存在となるまいと嗚咽を懸命に抑えた。

 エリアスがそれに気づいて、苦々しい顔をしていたことなど露知らず。


 この歪いびつな主従の一歩は、かようにちぐはぐなものだった。





 エリアスは、道中で襲ってきた獣を返り討ちに狩った。

 獲物は、兎のようだが、背中に翼が生えている。前歯は異様に長く、これでは不具合ではないかと、七子はあさってな心配をした。


「こ、これ、食べられるんですか」

「食べようと思えば、何でも食べられます」


 エリアスは言い、少し考え直したのか、


「毒がなければ」

 

 と付け加えた。


「そ、そうですね。毒がなければ、食べられますね」


 七子も頷いた。

 エリアスも重々しく頷いた。

 七子は、初めて、ほわん、と和んだ。

 二人の間に何か通い合った瞬間だった。

 彼らは、水辺に野営することとした。

 エリアスはまず、兎もどきの首にナイフを入れてから、脚を縛って、逆さまに木の枝へ吊るした。


「血抜きの処理です」


 じっと見ている七子の視線に、エリアスは一言説明した。


「は、はい」


 七子の返事は、力のないものだった。

 中学生の七子は、スーパーに並んでいる肉が、殺された家畜のものだと知っている。

 初めからあんな風につるんとした桃色の物体が、トレイにつめられて存在していたわけではない。

 屠殺という過程を通して、自分の口に入っているのだと分かっている。

 頭では分かっているが、実際にこうして血抜きの処理から光景を目にすると、あまりにも衝撃的に過ぎた。

 しかし、その衝撃はどこか薄い布越しのそれであり、七子はこの残酷な光景に泣き出さない自分を不気味にも感じていた。

 やはり、何か大事なものが凍り付いてしまったとしか、彼女には思えなかった。

 血抜きをしている間に、エリアスは大きな石を見繕うと、風上に対して背を向けるよう、コの形をしたかまどを作り始めた。

 隙間には小さな石をうまく詰めていく。

 七子は手伝おうとしたが、「けっこうです」と一言で断られる。

 じく、と心臓の下辺りが痛む。


(私、役立たずだ) 


 邪魔をしてはいけないと、七子は「はい」と小さな声で答えて下がった。

 七子が手をつきかねている間に、かまどは完成した。

 次に、エリアスは兎もどきの腹にナイフを入れ、綺麗にその皮を剥いだ。

 まるで洋服のように、あまりにも簡単に皮が剥がれるので、七子はびっくりした。

 綺麗なピンク色。

 もう、ほとんどスーパーに並ぶ肉と変わりない。

 彼はナイフで手際よく捌いて、部位を綺麗に切り分けた。

 兎もどきを捌く時、七子が青ざめたのを見て、エリアスは何かを見通すように目を細めた。


「あまり気持ちのよいものではありません」


 と淡々と言われたが、同時に呆れのようなものを言外に滲ませていた。

 血の気を失ったまま、七子は首を振り、邪魔にならないよう少し離れて、処理を観察した。

 いつ、何時、必要になるか分からないからだ。

 若さゆえの吸収力でもあった。

 エリアスの解体が優れているためか、短時間でさっさと済んでしまい、あまり参考にならなかったが、


(まずは、おなか。ナイフを入れる。足を取る。皮を剥ぐ時は、千切って、上下に上着を脱がせるように)


 と頭にメモをした。

 更に、彼はボロボロの兜を持ってきていた。

 それを鍋代わりとするようだ。

 

「あ、あの。私、水、汲んできます」


 咄嗟に七子は申し出た。エリアスは少し沈黙し、「では、お願いします」と兜を渡した。


「汚れているので、中を少しゆすいでください。水は大体この辺りまで」

「はい」


 エリアスは七子を邪険にせずに、仕事を与えた。七子は嬉しかった。


(私にも、できること、ある)


 人は、自分が役立たずでいることを常に突きつけられていると折れてしまうことがある。

 しかし、小さなことでも仕事を与えられれば、何もしないよりもずっと精神的に安定する。

 今の七子がそうだった。

 七子は水辺を歩き、少し考えて、水のよどんでいない、流水部分で水を汲むことにした。

 だが、ふとその手が止まる。

 

(寄生虫、とか。大丈夫かな。煮沸したら、大丈夫なのかな)


 キャンプに行った時、釣り好きの父親から、川の水を直接飲んではいけないよ、と注意されたことがある。

 どんなに綺麗で透明に見えても、川水や井戸水には、目に見えない細菌や寄生虫がいるのだそうだ。

 

(お父さん、言ってた。寄生虫は、感染したのが終宿主なら、自分が大人になれる大事なうちだから殺さないけれど、大人になれないおうちの中間宿主は殺してしまうことがあるって。寄生虫は、終宿主の糞とか食物の形でばら撒かれる。これを中間宿主である人間が経口摂取したら、病気になるって言ってた。あ、そういえば、泳ぐのも危険だって)


 もし、寄生虫に感染したらどうしよう、と七子は恐ろしくなった。

 病気になっても、救急車は来ないだろう。

 病院があっても、七子が診てもらえるとは到底思えなかった。

 安全性については、まったく分からなかったが、郷に入っては、郷に従えとも言う。

 七子はこの世界について無知だが、エリアスはそうではない。

 何が安全で、何が危険か。七子よりもずっと理解しているはずだ。

 ここはエリアスに従うよりない。

 何より、役立たずではいられない。


(お父さん)


 涙が出そうになって、七子はぐっと奥歯を噛み締めた。腰を下ろそうとしたが、中腰で止まる。


(スカート、濡れちゃう)


 セーラー服のスカートが水に浸りそうだった。

 濡れてもいいが、風邪を引いたら、たちまち困るのは七子自身だ。エリアスにも迷惑はかけられない、と少女は考えた。

 七子は決心し、左右から引っ張って、無理やり固く結んだ。

 白い脚ではなく、黒いストッキングに包まれた太ももが露になる。

 背後で何かあったらと注意をしていたエリアスは、少し非難するような視線を向けていたが、七子は気づかずに、兜を洗い始めた。

 作業に没頭していると、父や母のことが頭に浮かんでくる。


(お父さん、釣り人は何かあると、家族を放って釣りに行く人種だから、釣り人だけとは結婚するなよって言ってたなあ。全然そんなことないのに。お母さん、「僕は、ぜったいに七子が釣り人と結婚するのは許さないんだ!」ってお父さんが言うのに笑ってたなあ)


 少しだけ、笑みの形に唇が綻ぶが、すぐに、ふにゃり、とひしゃげた。

 今は、思い出しても、辛いばかりだ。

 七子は、努めて記憶を追い払うよう、一生懸命兜を洗う。

 塩辛い水を飲み込みながら、兜を洗い終え、水を汲むと、慎重な足取りで零さないように運んで行った。スカートはそのままだ。


「あの、お水、汲んできました」


 すっかり火の準備をしていたエリアスは鍋代わりの兜を受け取ると、橋渡しした木の枝に、兜を吊るした。 

 座ってください、と促され、七子は石の上に腰を下ろす。スカートは元に戻した。

 エリアスは小さく切り分けた兎の肉を入れ、途中摘んだ香草をぱらぱらと入れる。

 最後に大事そうに取り出した竹筒のようなものから、何か白いものを振り撒いた。


「塩です」


 ティクなら、生でも耐えうるのですが、とエリアスは言い、七子の顔を見て、いえ、と口を閉ざした。

 七子は、言うだけ無駄だ、と目の前にシャッターを下ろされたような気がした。

 言葉が通じても、言葉が通じない。

 そんな矛盾したことを、七子は痛感させられた。

 ぐつぐつと兎もどきの肉が煮える間に、エリアスが聞いた。


「何か、分からないことは」


 七子はエリアスを仰ぎ、言葉を見つけることができなかった。

 分からないこと。全部だ。何を聞けばいいのかも分からない。

 ここはどこか、と聞いて、「魔の森です」とすげなく言われたことが、七子を臆病にさせている。

 分からない、といって、そんなことも分からないのか、と思われるのが怖かった。

 見かねてか、エリアスの方が先に質問した。


「では、私から質問させてください。あなたは、生まれたばかりなのですか」

「え?」


 生まれたばかり、とはなんだろう。

 七子は中学三年生だ。赤ん坊ではない。何を聞かれたのか、その意図が彼女には分からなかった。

 二人の間に微妙な空気が流れる。


「あの、私、十五歳です」

「――そうですか」


 会話は途切れた。

 七子は会話が苦手だったし、おそらくこのエリアスは――七子に輪をかけて、会話するのが不得手のようだった。

 話がまったく進まない。


「あの、エリアスさんは何歳ですか」


 尋ねながら、年の数え方は同じなのだろうか、と疑問が七子の頭に浮かんだ。

 もはや、七子は、ここが地球だとは考えていなかった。


「私は――二十一です」


 エリアスは付け足した。


「私のことは、エリアス、でけっこうですが」

「え、と。エリアスさんの方が年上なので……落ち着きませんし」

「そうですか」

 

 再び会話は途切れた。

 

「あ、の。エリアスさん、さっき、眷属って言ってましたけど」

「はい」

「何なんでしょうか。私、エリアスさんを――仲間にした、と感じました。それが眷属ですか」

「そうです」


 エリアスは、鍋の中を木の枝でゆっくりかき回しながら、言葉を継いだ。


「眷属は、高位の魔が作り出すものです」

「コウイノマ」

「人の姿をしている魔です」

「はい」


 魔って、何だろう、と七子は聞きたかったが、エリアスの話に口を挟むことは恐ろしかった。

 また会話が途切れてしまうかもしれない。


「高位の魔は、何もないところから突然生まれてくると言います」

「……はい」

「あるいは、ごく稀に、下位の魔が己より上位の者を食らって、力をつけることもあると言われます」


 弱肉強食がはっきりしているので、あまりないことと思われますが、とエリアスは言葉を切って、七子を射抜くように見た。


「私は、あなたが前者だと思いました」


 違う、とも、そうだ、とも七子は言いかねた。

 七子は、本に食べられた。あの時、死んでしまって、この世界に『コウイノマ』として生まれなおしたのだとしたら。

 つたない言葉で、七子はそのことを伝えた。


「そうですか。私にはそれが前世のことなのか、現世のことなのか判断つきかねますが」

 

 エリアスは途中で拾った大きな木の実を二つに割ってくりぬいた椀に、兎もどきのスープをよそいで、七子に手渡した。


「熱いので、気をつけて」

「あ、はい」


 七子が頷くと、エリアスは付け加えた。


「私は、あなたは誕生したばかりの魔だと思います」


 はっきりと、躊躇もなく、断言する。


「自分で分かりませんか」


 分からないのですか、と責められているように感じ、七子は言葉を失い、俯いた。薄く白濁した椀の中に、自分の泣きそうな顔が映り込んでいる。


「分かりません」


 沈黙が怖い。七子は断罪を待つ罪びとのように、じっとエリアスの言葉を待った。


「――私は、自分が人ではないとはっきり分かります。自分以上に、あなたが人ではないともはっきり理解しています」

「はい」

「ナナオ」


 初めて名前を呼ばれ、七子は顔を上げた。

 真正面に、エリアスの半分整って、半分ぐちゃぐちゃとなった顔がある。

 その目はまっすぐに七子を見ていた。


「お願いがあります」

「はい」

「私以外に、人を眷属としないでください」


 七子はエリアスの強い視線に気おされた。  

 

「私は、何倍も働きましょう。だから、人を眷属とすることは控えて欲しい」


 私は、同胞を私と同じ目に……魔とすることには、耐えられない――とエリアスは静かに言った。

 七子は本当に血の気が下がる気がした。

 禁忌なのだ。

 きっと、エリアスにとっては、耐え難いほどに忌まわしいことだったのだ。

 ようやく七子は理解した。

 七子はたくさんの本を読んできた。

 架空の世界をたくさん渡り歩き、多くの人々の考えに触れた。

 どの物語も、共通して、人も、法も、道徳も、場所によってさまざまに形を変えると教えてくれた。

 牛や豚を食べることを禁忌とする宗教や、「おいでおいで」と手をふるつもりが逆の「あっちへ行け」という意味になってしまう国もある。

 何を強く希求し、何を強く忌避するかは、その土地土地によって違い、またそこに住む人によってもがらりと変わる。

 七子がしてしまったことは、エリアスにとってどれほど忌まわしいことだったのだろうか。

 彼の人生を奪い、全てを失わせる行為だったのではないか。

 あのままでは、彼は死を免れえなかっただろう。

 しかし、魔になる、ということは、死よりも耐え難いことだったのではないか。

 そして、それはおそらく正解だった。

 七子はようやく理解して――「ごめんなさい」と謝ることはできなかった。

 彼女は、今まで何度も謝罪を口にした。

 その行為は、自らのためのものだった。

 自己満足。

 謝ることで、満たされ、気が楽になるのは己自身である。

 だが、本当の謝罪とは、あまりに重く、簡単に口にすることができないのだと、七子は初めて知った。

 重さのあまり、謝ることすらできない。

 罪の重さが、舌をも重くさせる。


「――分かりました。エリアスさん以外に、人を、眷属にはしません」


 エリアスは無表情だったが、雰囲気で、ほっとしたのが分かった。

 

「無理を言いました」

「そんなこと、ないです」

「ありがとうございます」


 お礼を言われるようなことじゃない、と七子は思い、


(ああ。エリアスさんと私は、対等同士にはもう二度となれないんだ)


 と察した。

 エリアスは、年下の七子に丁寧語で喋る。

 それは敬意からではない。

 拒絶であり、壁を作るためのものだ。

 きっちりと、彼は線を引いてきている。

 公私を分ける、と宣言してきているのだ。

 七子は悲しかった。

 心臓をナイフで刺されるような痛みを覚えた。

 

(だけど、仕方ないや)


 諦める。それだけのことをしてしまったのだと、七子は痛みに蓋をした。

 零したミルクは、もう元には戻らないのだ。

 

「スープが冷めてしまいます」

「はい。いただきます」


 膝上に置いて、七子は両手を合わせた。

 エリアスは不思議そうな顔をした。少し考え込み、真似して、両手を合わせた。


「いただきます」


 七子はおかしくて、少しだけ笑ったが、彼女は知らなかった。

 食事の前の祈り。

 エリアスは、この瞬間、自らの信仰を放棄した。放棄せざるを得なかった。

 彼の主人は、目の前の少女であり、彼女を守る以上、魔を滅せよとする神に恭順することはできない。

 七子が犯した罪は、エリアスからこの先の人生を奪い、幕を引くはずだった人としての生を奪い、彼の人とのつながりを奪い、神を奪った。

 彼はもはや、人類の敵であり、彼の一族が彼を見つければ、魔へと堕ちた彼に絶望し、怒り、剣を向けるだろうことは想像に難くなかった。

 そうした全部を象徴する「いただきます」であった。

 知らずに、七子は、両手で木の実の椀を持ち、はふはふとスープをすすった。


(お肉、とろとろして柔らかい。おいしい)


 香草が臭みを消し、僅かな塩は素朴に味を引き立てている。

 現代の化学調味料に慣れきった味覚では、物足りなさを覚えるかもしれない。

 しかし、素材そのものをしっかり味わうことができ、七子の舌にはちょうど良かった。

 七子が食べ終えるのを見計らって、エリアスが提案した。

 

「ナナオ。明日は、階層を降りることを目指して移動しましょう」

「え」


 椀を膝上に下ろし、七子は固まった。


「え、あの。階層って?」


 今更ながら、エリアスは己の説明不足に気がついたようだった。


「ああ、そうか。あなたは何も知らないのでしたね。ここは、森とはいっても、森ではありません」

「え、と」


 理解の及ばぬ七子に、エリアスは告げる。


「ここは、大迷宮。その十階層である魔の森です」


 七子は間抜けに口を開けた。


「え、あの。ここは、外じゃ、ないんですか」

「そうです」

「でも、森とか、川とか」

「迷宮の中です」

「――はい」


 押し通され、七子は口をつぐんだ。

 

「あの。大迷宮って、なんですか」

「大きな迷宮です」


 そのままだ。

 七子の顔が泣きそうに歪んだ。エリアスは考え直したように補足した。

 

「神々が作った、とも、大いなる魔の王が作ったとも、いわれています。いつから存在しているのかは分かりません。この大迷宮は、生きているといわれます」

「生きて?」

「数百年周期で活動期と休眠期が変わるのです」


 今は、活動期です、とエリアスは静かに言った。


「活動期になると、兆しが現れます。ちょうど、昨年の今頃でした。カーフ山脈地のハクロウ砂漠に、巨大な人面相が浮かび上がり、遊牧民がそれを発見して、各国に知らせたのは……」

 

 当時のことを思い出したのか、どこかエリアスは遠い目をしている。


「教皇庁は聖戦に備えよと呼びかけました。降魔は避けられぬ、と。大国も、小国も、皆、大迷宮の復活に備え、短い期間で動き出しました。迷宮から魔が這い出てくるのを、防がねばなりません」

「はい」

「迷宮の入り口は、各国の監視下にあるものでは、五箇所あります。私は、ジャムジャムアンフの門から入ってきました」

「ジャムジャム……」


 ちょっとかわいい、と思ったのが顔に出てしまっていたのか、エリアスが首をふった。


「ジャムジャムアンフです。伯爵級といわれる高位の魔の名前であり、とても『かわいらしい』ものではありません。この魔が最初に這い出てきて、恐ろしい災いを巻きちらしたことから、戒めとして、入り口はそう呼ばれています。ジャムジャムアンフはひとつの小国を壊滅させ、大国をも蹂躙しました」

「は、はい……あ、の――エリアスさんは、どうして大、迷宮に?」

「仕事です」

「……えっと、どんなお仕事ですか」

「ザール王国に仕えていました。迷宮に来たのは、仕事の一環です」

「え、と。ザール王国、ですか」

「はい。もはや何の関係もありません」


 ぴしゃりと言われ、七子は言葉に詰まった。胸の辺りが重い。


(私の、せいだ――)


 人ひとりの人生を奪う、ということの意味を七子は噛み締めた。


(この人に、私だけ、うちに帰りたいって、ぜったい言えない)


 どうして言えるだろう、と七子は俯き、他に話の接ぎ穂を探す。


「……迷宮に、いろんな国の兵が派遣されたのですか」

「そうです。民間からも募り、多くの人々が大迷宮へともぐって行きました」

「民間の人も、ですか」

「見返りもあるのです」

「見返り?」

「――財宝と魔です」


 エリアスの目は七子を突き刺した。


「数百年周期で現れる大迷宮には、深い階層ほどに、財宝が眠っています。魔もまた、殺してしまえば、秘薬や武器防具、護符などさまざまに貴重な材料となります」


 ただ、これらの利益をもっても、被害が有り余る――とエリアスは僅かに苦渋を滲ませて言う。


「我々――いえ、人にできることは、この大迷宮を少しでも早く休眠期へと移行させること」

「あの、休眠期って、人の手で早めることができるのですか?」

「はい。『   』を倒せば」


 七子はよく聞こえなくて、もう一度聞きなおした。


「『   』を倒せば、迷宮は休眠期へと移行します」


 サイレント映画を見ているようだった。しかも、ちぐはぐで虫食いの映画。

 ぱたぱたぱたぱた、と音がする。

 何かが複数、連鎖的にひっくり返っていく音。

 『タイル』のように、景色が、小さな四角に切り取られ、全てひっくり返っていく。

 その『タイル』は、表は森と川辺の絵で、裏は――真っ黒な空間に、赤い落書きのような目。目。目。そして口。口。口。



「――ひっ」


 七子は立ち上がり、慌てて周囲を見回した。

 大きな目が、ゆっくりと交互に瞬きを繰り返している。

 元いた場所の光景と、この異様な空間が入り混じっている。裏返るタイルに、エリアスの姿はところどころ黒く塗り潰されたモザイク模様とされてしまった。彼は椀を手に、微動だにせず、固まってしまっている。

 そう、まるで時が止まってしまったかのようだ。


「はあーい」


 場違いに甲高い声がした。




 聞き覚えのある声。

 森や川辺の景色を、漆黒のタイルがモザイク状に凄まじい勢いで食い荒らして行く。

 たちまち四方の空間は、頭のてっぺんまで漆黒へと侵されてしまった。黒い空間に、ゆっくりと交互に瞬く目。目。目。

 時折、見えないブロックに乗って、目は上下左右へと動いて行く。

 同時に、まるで漆黒の布をはさみでちょきん、と切ったような無数の裂け目が現れた。

 その開閉するさまは、水面に突き出した鯉の口を思わせる。

 そう、それは口だ。

 たくさんの口だった。

 口のひとつが、布の裂け目をむずがる赤ん坊のようにくしゃくしゃと押し寄せて、三日月の形を作った。

 笑っているのだ。

 にやにやと嫌らしい笑みを虚空に浮かべ、口は七子に馴れ馴れしく挨拶した。


「はあい、ご機嫌いかが? あたしよ、あたし」


 不安定な空間に七子は呆然と立ち尽くし、言葉が出てこない。

 

(あの、本だ)


 間違いない、七子をこの世界に連れてきた悪魔のような本と同じ声だ。

 硬直する七子のすぐ右手に浮かぶ唇が、べろり、と長い舌を出した。


「ひっ」


 七子が思わずよろめくと、今度は左の口ががぎざぎざの歯をむき出しにして威嚇する。

 

「きゃあっ」


 無様によろけて、しりもちをついた七子を、無数の口は追い立てる。逃げようとしても、どこにも逃げ場などない。口は七子を取り囲んで、その一つが、やれやれ、とばかりに波打った。肩を竦めるジェスチャーのようである。


「怯えちゃ嫌よ。せっかくご機嫌伺いに来たのに、がっかりな子ねえ」


 溜息を吐く、などという人間臭い仕草をしてみせる口に、七子はもしかしたら話が通じるかもしれないと希望的観測をする。

 彼女はスカートがしわしわになるのも構わず、ぎゅっと両手でつかんだ。

 身体中の勇気をかき集めて『お願い』した。


「お願い、おうちに帰してください。私をおうちに帰して」


 もはやがまんできず、七子の喉から嗚咽が零れ落ち、「おがあざん、おどうざん」と不明瞭に震える声で両親を呼ぶ。 

 しかし、


「おいおい、なーにを言ってるのかなー? おうちに帰りたいぃいい?」


 最初のご機嫌なハイテンションから急転直下、低くなった声に、七子はびくっと肩を揺らした。


「冒険はー、始まったばかりだろー? いきなりおうちに帰るう? おい、七子ッ! てめー舐めてるのか!?」

「ひぃっ」


 激しく恫喝する声に、七子はしりもちを着いたまま跳ね上がる。

 この口の――いや、本の機嫌を損ねてはいけない、とようやく七子は理解した。

 鼻をすすりながらも、必死になって考える。

 考えた結果、涙を拭い、「どうしたら、おうちに帰してもらえますか」、と質問した。

 悪魔的取引。お願いをする代わりに、その条件を尋ねたわけである。

 すると、先ほど激昂していた口を、別の口が横から突進して弾き飛ばした。


「やあん、意地悪言ってごめんなさあい。あたしも、テンション上がっちゃって。許してねえ」


 優しそうな語調に、七子は一筋の光明を気がして、もう一度恐る恐る尋ねた。


「――どうしたら、いいですか」


 口は、七子に同調して「うんうん」と上下に動き、頷く仕草をする。


「そうよね、おうちが恋しいわよね」


 分かるわあ、と唇は頷くように上下し、それから、


「どうしたらいいの? どうすればいいですか?」

 

 耳障りに高い声で、逆に質問した。

 七子の口真似だ――と彼女が気づいた時だ。


「少しは自分で考えろよおおおぉおおおおおお!! 聞けば答えが返ってくるぅ? 小娘、お前舐めきってるなあっ、だーかーらー、ぜええったいおうちには帰さなああああああいぃいいいい!!」


 周囲全ての唇が、「ぎゃははははははは!」と哄笑する。


「そんな」


 絶望の淵に突き落とされ、七子は「う、うぅうううう」と獣のようにうなった。

 酷い、無茶苦茶だ。道理が通らない。好きで来たわけじゃない。

 そう言えたら良かっただろうか。

 しかし、言えるはずもない。

 言ったところで、どうにもならないのだ。『彼ら』の機嫌を損ねるだけの愚行だと、七子は理解して、ただ嗚咽をこらえるしかなかった。

 青ざめた頬を、幾筋も涙が流れ落ちて行く。何度も何度も手の甲で流れ落ちる雫を拭うが、追いつかない。


「うーん、だめよ、だめ。あたしのモットーは、ビーハピーなのよ! 泣いてちゃだめ! もっとエンジョイ! せっかく素敵な眷属を手にいれたんだから、コングラチュレイション! しに来たのに!」

  

 次の瞬間、他の口が歯を鳴らして拍手喝さいとした。

 

「おめでとー! 七子、おめでとー! お前は、『死霊の騎士』を手に入れた!」


 いきなり恫喝され、罵声を浴びせられ、今度はおめでとうと言われる。

 七子はもうわけがわからなくなっていた。


(し、死霊の騎士、って、な、に?)


「そうね、例えて言うと、七子はれべるあっぷした! 七子はあたらしいくえすとを開始したって言ったらいいのかしら? あれ、ゲームしないの? 分からない? 分かる? はっはは、それじゃ、いべんと、行ってみようか!?」


 何、何なの――七子はほとんど恐慌状態で、乾いたその『音』を聞いた。

 ぱたん、とタイルがひとつひっくり返る音。

 その音を皮切りとして、たちまち、タイルはぱたぱたぱたぱた、と凄まじい勢いで元の光景へと裏返っていく。

 森が現れ、川辺が現れ、エリアスの姿が現れる。

 どれほど時間が経ったのか、七子にはとっさに分からなかった。

 ちょうど、最後の陽光が断末魔の悲鳴を上げて消え去り、黄昏から夜へと世界が変わる瞬間。

 迷宮の中だというのに、夜が来るのかと不思議に思う暇もなく、鬱蒼と生い茂る森は、ベールを脱いだ淑女のように、がらりと雰囲気を変えた。

 辺りに溜息にも似た冷気が満ち、女のすすり泣きが、深い針葉樹の森の隙間から聞こえ始める。

 時を止めた氷の彫像と化していたエリアスも、血の通う人形となり、滑らかに動き出す。

 彼は七子を背後に庇うよう左手を広げ、立ち上がった。

 そのまま微動だにせず、警戒のために険しい顔をして、森の奥を睨む。


『おぉおぉぉぉおおおおおおおおお』


 木枯らしよりも身を切るその声に、七子は震え上がった。

 それは、恐ろしく、おぞましく、


(かなしい、声)


 そう、かなしいすすり泣きだ。

 森は、高くまっすぐな幹をした針葉樹が果てしなく続いている。

 その木々の奥に、青白い何かが蠢いている。

 人だ。

 人の形をしている。

 鎧を着ている騎士だ――しかし鎧は壊れている。

 ゆったりした服の廷臣だ――おなかに穴が空いている。

 高い帽子のクラウンから滝のようにヴェールが落ちている女性――顔がない。

 はしゃいで、スキップしている男の子と女の子――身体の左右が無理やり接合された粘土のようにくっついている。

 他にもたくさん、たくさんの。


 死者の行進。


 彼らは、こちらを目指し、どんどん近づいて来る。

 

「エ、エリアスさん――」


 たまりかねて、七子が震える声で呼ぶと、エリアスは「じっとしていてください」と振り返りもせずに、動きを牽制した。


「でも」

「大丈夫です。危害はない」


 きっぱりと言う彼に、七子が何か言いかけた時、


『――ごめんつかまつる』


 と、声をかけられた。

 首無し馬に乗った、やはり首無しの騎士が人馬一体に駆け抜けて行ったのだ。

 彼らは、川に入る前にすぅっと消えた。

 亡霊たちはどんどんとやって来て、七子の脇をすり抜け、川に入ると消えていってしまう。

 

『おおおぉおおおおおぉおおおおお』


 とりわけ大きく木霊する、陰陰と響く声が近づいて来る。七子は恐ろしさに森の奥からやってくる『何か』から目をはなせない。

 次第に嘆きの発生源は輪郭を現しはじめた。立派な髭の男性だ。傾いた王冠を被り、赤地に金の刺繍の入った立派な外套を羽織っている。その眼窩は真っ黒な空洞で、奥にちろちろと蛇の舌のような炎が燃え上がり、何かを捜して彷徨う。


『おぉおおぉおおお、騎士エリアスよ。我が騎士エリアスよぉおおおおお』


 はっ、と七子がエリアスを見上げると、苦行に耐えるかのような厳しくも煩悶する表情を浮かべている。


『いずれにか。騎士エリアスよ。いずれにおるか』


 エリアスは口を開いた。


「王よ、私はここに控えております」

『おお、エリアスよ、エリアス・グリムよ。何故側に控えておらぬ。探したではないか』

「申し訳ございません」

『余は姫を探しておるのだ。ローザリンデはいずこにか。王妃もずっと姫を探しているのに、見つからぬ。王妃よ、見えるか?』


 背後につつましく佇んでいた、ほっそりした女性が左右に身体を揺らした。彼女自身の頭部はなく、代わりにそれを返答としたようだ。彼女は深い緑の長衣に身を包み、金色のベルトを長く垂らしている。両手に何か大切そうに抱えており、七子は思わず口元を抑えた。

 金髪の子供の頭だった。五、六歳ほどの男の子の頭部で、無垢なまなこは、自分に何が起こったのか理解していないように見える。


『クリストフは王妃が抱いておるが、ローザリンデが見当たらぬ。いずこにか、いずこにか』

「――ご安心ください。姫は、私わたくしがお探し申し上げています」

『そうか。そうであったな。騎士エリアスよ、姫を――』


 言いかけて、ぴたり、と王と呼ばれた男性は口をつぐんだ。

 そして、凄まじい怒気の咆哮を上げた。


『おぉおおぉおおおおおおぉおおおおおろぉおおおざりんでぇえええええええええええええ』


 ごお、ごお、と暴風に木々が揺れる。


『エリアスよ、ローザリンデ、あの王家の恥晒し、穢れた王女を余の前に連れて来るのだ! ローザリンでえぇあああああああエええええええええええエああああああああああああおおおおおおおおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』


 王の怒り、嘆き、咆哮に唱和して、すすり泣きが激しくなる。

 騎士たちが、どん、どん、と地面に足を踏み鳴らす。

 

『連れて来い、連れて来るのだ、王命に従え、ろぉおおおおざあありんでえええええええええええええええええええええええええええええええええ!!』


 めらり、と王の外套の端に火が点く。

 いや、頭髪が燃え上がる。

 眼窩の奥から炎が噴出す。

 歯茎が溶け、炎格子となる。

 七子はただ自分の口を押さえ続けた。

 そうしなければ、悲鳴を上げ、彼らに気づかれてしまうと本能的な行動だった。


「――静かに。じっとしていて」


 再びエリアスが七子に声をかける。

 人間味のない冷たい声音ではなく、恐慌を鎮めるように緊張と労りを帯びている。だから、七子は必死にこくこくと頷いた。

 目の前で、王も、王妃も、彼らの騎士たちも、臣下も、きっとその国民も、炎と化す。

 彼らは怒り狂い、突進して来る。

 七子は、立ち上がり、逃げ出そうとしたが、咄嗟にエリアスを見上げた。

 彼は頷く。その潰れていない方の目は、動くな、と言っている。

 エリアスを信じ、七子はその場に留まった。動かない。

 炎となった彼らは七子の身体を通り抜けた。


 その瞬間、七子は見た。

 

 ごぉう、と世界は咆哮する。

 

 燃え上がる。古書の頁ページを端からあぶるように、空間はめらめらと燃え、ぺらり、と薄っぺらいそれが捲られると、七子は確かに熱風を感じた。

 黄金の火の粉が舞う。

 そこは城だった。

 石造りの城だ。

 城は炎に包まれている。

 悲鳴と怒号が飛び交っている。

 まだ五体満足の男や女たちは、城に立て篭もり、必死に応戦している。

 在りし日のザール王国。

 いまは、亡国となりし、ザール王国。

 七子は、彼らの嘆きの記憶の中に見た。

 高位の魔、伯爵ジャムジャムアンフに蹂躙されし、その国の最期を。

 その悪夢の一夜を。



 そこには、まだ半分の顔が溶解していない、かつての騎士・エリアス・グリムがいて、何かを叫んでいる。


 その光景を――




 炎が黄金と照り映える。

 血の、匂い。

 悲鳴が長く長く尾を引く。

 聞こえる、断末魔。

 女の絹を引き裂くような声?

 違う、絶叫。

 七子は呆然と立ち尽くし、通り過ぎる人々の生と死を目に焼き付けていた。


(これは、何?)


 鎧姿の騎士たちが廊下を走って来る。七子が、あ、と思った瞬間、彼らは七子の身体を突き抜けて行った。がしゃがしゃと重い音を立てて、走り去って行く。

 七子は驚き、自分の両手の平を目の前に突き出し、半透明のそれに息を呑んだ。


(私が、幽霊になってしまったの?)


 考える暇もなく、七子は、大きな物音や悲鳴に意識を奪われた。

 闊歩する軍靴ではなく、何か重いものが外の廊下を大量に進行する音がする。

 剣戟に入り混じる、男の吼え猛る声だ。

 成人男性の魂切るような悲鳴など、十五年間生きて来て、初めて聞いた。


(何が、起こっているの?)


 分からないままに、七子は、ぐいっと何かに身体を引き寄せられた。

 

「きゃあっ」


 悲鳴を上げた七子は、見えない腕に猛スピードで引き寄せられ、赤い絨毯を敷いた大きな部屋の中に放り込まれる。周囲を確かめる間もなく、大扉が勢い良く開いた。


「ローザリンデ殿下!」


 先ほど七子の身体を突き抜けていった騎士が、外側から大扉を開けて叫んだのだ。


「殿下、お急ぎください! もはや城内は魔物どもに制圧されました!」


 騎士の声に、七子が背後を振り向くと、青ざめた侍女たちに囲まれて金色の髪をした女性が、長椅子のたくさんのクッションに埋もれるよう座っていた。

 まつげはけぶるようで、その瞳は憂いを帯びて伏せがちであり、ドレスの重さにすら耐えられないような華奢で儚げな姿は、見る者に感銘を与えずにはいられない不安定な美しさを孕んでいる。紅色のクッションからは金の房が垂れており、スカートの襞が絨毯の上に流れ落ちて薄桃色の濃淡を作り出す様は、一枚の絵画のようでもある。

 彼女は、伏目がちであった目をすっと上げた。


「――お父様は? お母様は? クリストフはどうなりましたか?」


 非人間的な美しさをもった彼女が口を開いたこと自体、七子には驚きだった。

 よく見れば、彼女もまた、周囲の侍女たち同様、真っ青な顔をして、その手は強く握り締めるよう膝上に揃えている。

 この美しさと脆さを内包する女性は、生きているのだ、と七子は今更ながら理解して驚いたのである。


「陛下方は、このまま結界維持のために王の間に残られる、と仰せです。殿下方には、民を導き共に避難せよ、と。間もなく竜騎兵連隊長がこちらに」


 騎士は最後まで言葉を続けることはなかった。その頭は石榴のように真っ赤に弾けていた。

 七子は両手で口元を抑え、よろよろとあとじさった。


「ん~? ん~? 何かぶった切っちゃったかな~? ん~?」


 頭の悪そうな、邪悪にしとどに濡れた声音は、二足歩行の牛型モンスターだった。その翠色の鱗に覆われた手には、べっとり血の腐食した剣を携えていた。


「ひ、ひい!」


 侍女が耐え切れず、白目でも剥きそうな引っ繰り返った悲鳴を漏らした。


「あ~ん? あ~? 女がいるぞ~? いち~、に~、いち~、分からないぞお、何人いるんだな~?」


 脳味噌まで筋肉に侵食されているのか、三まで数えられないらしい。


「王女かな~? 道化師トリックスターナディアちゃんがローズだかリリーだか何とかの王女を連れて来いってうるさいんだな~。でもこんなに必要ないんだな~。

 いらないのは殺しちゃうんだな~」


 愚鈍な割には、動きは俊敏だった。

 七子は、悲鳴を上げた。

 力の限り、悲鳴を上げたが、それは侍女の絶叫と重なり、誰が叫んでいるのか彼女には分からなかった。


(何? 何なの? これは何?)

(真っ赤で)

(真っ赤で)

(真っ赤で)

(動けない)


 侍女の足は、鈍重な剣で太ももから切断されていた。

 白い肉と、切り口の赤。噴出す鮮血はまるでシャワーのようだった。


「いやああああああああぁぁああああああああああ!」


 もう一人の侍女の悲鳴だったのかもしれない。

 それとも七子だったのか、と彼女にはまったく分からなかった。

 悪夢は続いていた。

 穢れたモンスターは、切断した白い脚を拾い上げ、うっとりと欲情した目でしげしげと見つめ――


「ひい、ひいっ ひい~~」


  お助け下さい、神さま。

  そこにいらっしゃらないのですか、神さま。


 侍女が神に祈る声が聞こえる。

 やがて、繊細な侍女の心は壊れた。

 侍女は狂ったように笑い出した。

 いや、狂ってしまったのだ。


「おいしいんだな~。今度は、そっちの女の子なんだな~、ナディアちゃんは、金髪っていってたんだな? な? そっちの女の子は金髪じゃないから、食べてもいいんだな?」


 のそり、と動き出した牛頭の化け物に、甲高い侍女の狂笑が重なる。

 その時だ。


「いいわけなかろうが」


 ひやりと心の臓を刺すような低い怒声がして、


「あぱ?」


 と怪物は間抜けな顔をした。 

 不思議そうに己の右肘より先を見て、たくましい腕の先がずり落ちていく光景に首を傾げた。


「お、おでの腕? あで? おでの腕が?」


 混乱する怪物は、ゆっくりと大扉を振り返る。筋肉の束が盛り上がっていく。

 扉の向こうには、二人の男性がいた。

 白い髭の筋骨隆々たる騎士。

 もう一人は、


「――エリアスさん?」


 七子は目を見開いて、彼の顔をまじまじと見つめた。

 その顔は、まだ溶解しておらず、綺麗に整っているが、厳しい表情で怪物を睨んでいる。


(どういうこと? これは、どういうこと? まさか、過去の光景だというの?)


 七子は混乱するままに壁際まで下がり、背中を預けて震えた。


「ふん、汚らわしい怪物めが」


 老人が重たげな重量斧を軽々と片手で扱い、床にどかっと突き刺した。


「罪なき者を殺し、むさぼり喰らった外道。貴様らには死すら生温い。切り刻んで灰燼と帰し、永劫の大焦熱に送り届けてくれる。退官前の老骨の慈悲に感謝するがよいわ!」


 彼が告げると同時に、怪物が意味が分からないなりに馬鹿にされたと感じたのか、凄まじい勢いで咆哮した。


「おでのうでっ、おでのうできったのお前かっ、許さないんだなっ、許さないんだなあああ!」

「ほざけ、化け物めが!」


 老人は大きな斧の柄を脚で蹴りつけ、空中に跳ね上げると、回転させながら横なぎにした。

 風圧が生まれ、牛頭のモンスターは「ふぉうっ」と両腕で顔面をかばおうとした。しかし、右腕がないために、バランスを崩して足をもつれさし、耐えきれずその場に転倒する。うまく立てないのか、無事な左腕で床に手をつきながら、癇癪を爆発させた子供のように喚きたてる。


「風使いなんだなっ!? おで、風使い大嫌いなんだな!」

「おお、奇遇じゃな。ワシも貴様に対して虫唾が走っとるところじゃわい! それ!」


 老人が斧を振り上げると、緑色の残像が走る。


「切り刻め!」


 怪物は絶叫した。サイコロの目のように何十、何百と切り刻まれて「ナディアちゃあああああん」と誰かの名前を呼びながら、無数の肉塊へと変わる。彼であったものは、山積みに床上へ転がった。

 岩のように罅割れた深い皺を顔に刻む老人は、一仕事終えたとばかり、肩を鳴らした。


「やれやれ、老骨にはこたえるわい」

「ベアー閣下、お見事でございます」


 背後に控えていたエリアスが言い、ベアーと呼ばれた老人は斧を肩に担いだ。


「さて、そうも言っておれんの。お次が来よったわい。若人よ、ワシは毒を受けたでの。あまり長くは保たん。おぬしにローザリンデ様を任せたぞ」


 エリアスは頷き、金髪の女性――ローザリンデの元へと駆けつける。


「さ、こちらへ」

「……エリアス」


 ローザリンデは大きな目に涙を浮かべ、彼の手を取った。

 二人は死体を迂回して広間を出て行く。

 七子も慌てて彼らの後を追おうとし、脚がうまく動かないことに気づいた。

 あまりにもショックな光景の連続で、身体が言うことを聞かないのだ。

 

(どうし、よう)


 完全にその顔からは血の気が引いており、衝撃のあまり涙も凍りついて出て来ない。

 ただ、エリアスの後を追わなければ、とそれだけが七子の頭をいっぱいに占めている。

 この世界で初めて出会った人間。そして、七子が意味も分からないままに眷属としてしまった人物。

 彼以外に、何を頼り、指標としたらいいのか七子には分からなかったのだ。

 もしここが彼――彼らの過去の記憶の世界なのだとしたら、現在に戻るには、エリアスの後を追うしかないと七子は本能的に察してもいた。

 なんとか、一歩、踏み出そうとした七子は、ぎくりとそこで足を止めた。


「やあだー。死んじゃってるよお。これやったの君ぃ?」


 かわいらしい、鈴を鳴らすような女の子の声がしたためだ。

 視線を上げた七子は、空中に逆さまになって浮かび、胡坐をかいた女の子を見つけた。

 

(サーカス?)

 

 場違いな格好に、七子は一瞬混乱する。

 少女は、二つに先の分かれた赤い頭巾を被り、その先っぽには鈴を結びつけている。

 真っ白なタイツに、幾重にも重なる白いレースのパニエ、つま先の尖った靴。

 目元は紫とも青ともつかぬ色でクラウンメイクで、髪の毛は一本も出さずに、頭巾の中にしまい込んでいる。

 

「はははっ、おじいちゃん、やるねえ。僕は、ナディア! 魔界の道化師ナディアちゃんだよ! よろしくね! そしてすぐにさよならだ!」


 老人――ベアーはすぐには答えなかった。

 静かに戦斧を構えている。顔色は悪く、先ほど毒を受けたと言うのは本当のようだ。

 無駄に動くことはせず、その盛り上がった筋肉は、確かに緊張を伝えていた。


「ワシは、ザール王国元帥、ベアー・グリム。ナディア殿と言われたか。言動は幼きものじゃが、相当の猛者とお見受けした。死出の旅路に、ぜひとも一手お相手願いたい」

「へへっ、おじいちゃん、かったいねえ。ま、嫌いじゃないよ。ジャムの野郎と違って僕は鬼畜じゃないんだ。戦士に相応しい最期を用意してあげる。さあ、かかっておいでよ!」

「しからば!」


 ベアーが「ぬぅうん」と唸ると、彼の身体を気体のようなものが取り巻いた。


「いさおしよ!!」


 参る! と叫んだ時には、彼は一本の弾丸となって飛び出していた。


「はっはっ、んじゃ、しょうかーん!」


 道化師の少女――ナディアが背後の空間に両腕を突っ込む。肘から先が掻き消え、ず、ず、と何かを引き出して行く。

 それは、二本のナイフだった。禍々しく真っ黒なナイフ。そのナイフが「おぅうぉおおおおううううう」と嘆きの声を発している。ぼこぼこと泡立ち、どう見ても普通のナイフには見えない。

 ベアーが勢い良く重量斧を振り下ろす。

 ありえない光景だった。

 重たげな斧を、ベアーは全体重で振り下ろしているというのに、ナディアはナイフ一本で下から軽く押さえている。

 七子は目を凝らして、悲鳴を飲み込んだ。

 刃には黒い気体がガス状に揺らめき、空気中に骸骨の形を作って、その口でがっちり刃を咥え込んでいたのだ。

 ナディアがにやっと笑う。


「ごめんねえ、おじいちゃん」


 ベアーの動きは素早かった。

 危険を察して、後方に飛びのいたが、ナディアはもう一本のナイフを投擲した。

 ベアーが弾こうとした瞬間、ナイフは無数に分裂し、骸骨を空中に湧き出して、それぞれの口が戦斧を捕らえる。

 とても軽い音がした。

 

「針鼠みたいだねっ」


 ナディアが指を差して笑う。

 ベアーの鎧をナイフが貫通している。

 一本ではない。

 何百本ものナイフが彼を突き刺していた。

 しかし、ベアーは倒れない。


「――無念」


 一言呟き、不動のベアーは、かっと目を見開いまま心臓の動きを止めた。


「あれー? 死んじゃったあ? 人間って脆いんだねっ」


 ナディアはナイフでつんつん、と巨体をつつきながら、


「ま、君はそこそこに強かったよ! 僕らも結界がそのままだったら危なかったかも? ジャムの奴に感謝しなくちゃ? ん?」


 ぴたり、と止まって、ナディアは七子の方を見た。


「あれれ? なんだろ? 誰かいる? 君、だあれ?」


 嘘――と七子が口元を抑えた時だ。

 再び、七子の身体は何かの力に引っ張られた。


「あっ」


 ナディアが声を上げる。

 七子はぐいぐいと引っ張られた。

 

(なんなの!?)

 

 いや、と抵抗することすらできない。

 彼女は、ナディアに見つかってぞっとした。

 しかし、今引っ張られていく先に、もっと恐ろしいものがいると本能が警鐘を鳴らしている。


(いや、そっちに、行きたくない)


 止めて、と叫ぶことすらできない。何度も廊下を折れ、ぶつかりそうになる恐怖に心臓が収縮し、階段を下りて、おそらく地下へと運ばれて行く。

 最後に、七子が投げ出されたのは、たくさんの柱で円形に囲まれた場所だった。

 中心には、こんこんと透明な水が湧き出る泉がある。

 立派な服装の男性と女性、ローブ姿の老女がその泉を覗き込んでいた。少し離れて、護衛の騎士のような人たちもいる。


(あ!)


 七子は気がついて声を上げかけた。


(エリアスさんが、「王」って呼びかけていた人だ。あの緑の服は、王妃様?)


「なんということじゃ」


 ローブ姿の老女が、右手に持つふしくれだった杖をついて、泉をしばらく覗き込むと、額を押さえた。


「信じられませぬ。我が国の加護が一切失われております。ザールの泉が穢されている。なにゆえこの時期に、このようなことが!?」

「導師ホロスよ。加護を、結界を再構築することはできぬか?」

「陛下、これは呪いです。この聖なる泉は、呪いを受けておりますじゃ。分からぬ、何故、何故じゃ。原因が分からねば、呪いを解くことも」


 ホロスと呼ばれたローブ姿の老女は、枯れ枝のような身体を激しく揺さぶり、狂おしげに頭を振った。

 その時だ。


「ああ、ローザリンデ!? よくぞ無事で」


 王妃が感極まったように、口元を覆った。


「お母様! それにクリストフも!」


 転げるようにして王女ローザリンデがドレスの裾を捌ききることもできずに駆け寄る。


「あねうえ!」


 彼女によく似た小さな金髪の男の子が歓声を上げる。


「エリアスよ、よくぞ姫を無事に連れてきてくれました」

 

 王妃は目元を指先で押さえると、取り乱したことを恥じるようすぐに凛と背筋を伸ばす。彼女は確かな威厳と冷静さをまとって、エリアスを労った。


「いえ。もったいないお言葉です」

「エリアスよ、戦況は?」


 王が振り返り、言葉を投げかける。


「側搭の第一次防衛線を抜かれ、近衛は第一から第四、第六連隊まで壊滅状態です。現在第五、第七連隊が応戦中、居住域まで奥深く敵の侵入を許し、防衛を維持できません。ベアー元帥が毒を受け、撤退するも、途中魔と交戦、百合の間にて現在応戦されています。もはや長くは保たぬものかと」

「そうか。大儀であった」


 目を硬く閉じ、王はしばらく何か考えているようだった。


「せめて」


 と彼はうめく。


「結界を再構築できれば、奴らの力も弱まるものを。原因が分からぬ。ホロスよ、何とかして探れはせぬか」

「やっておりますじゃ、王よ。しかし、この哀れな老女には検討もつきませぬじゃ。せめて、せめて何か手がかりがあれば」


 身を捩って苦悩するホロスに、


「手がかりかい」


 と明るい声がした。


「それなら、僕が教えてあげるよ」

 

 エリアスが抜剣した。彼い習い、騎士たちが一斉に剣を抜く。

 かつ、かつ、かつ、と廊下を一人の男が歩いて来る。

 頭には、捩れた黒い角が二本生えており、流れ落ちる銀色の頭髪は腰元までの長さだ。

 血を吸ったような真紅の扇形の襟には金色の複雑な葉脈が走っており、羽織る外套は精緻な装飾で縁取りされていた。

 その肌は死人よりも青白く、目ばかりが鳩血石ピジョン・ブラッドのごとく濡れ輝いている。

 何よりも、その男は悪魔的に美しかった。

 全てを魅了して、膝まかせずにはおれない、恐ろしいまでの魅力。


「やあ、初めまして。僕は魔神ジャムジャムアンフ。大迷宮の番人にして魔界の伯爵と呼ばれているが、諸君にはご存知かな」


 何人かが反応した。

 それは、恐怖ゆえの反射行動だった。

 大迷宮における貴族級の高位の魔は、それぞれ名の知られた者がおり、ジャムジャムアンフはその力、暴力性、残酷な性で書物に記されている。


「おめでとう。ザール王国の諸君」


 魔神ジャムジャムアンフは両腕を芝居がかって広げてみせた。


「君たちは機会を得た。僕は君たちに危害を加える気はまったくないんだ」


 その指先はゆるやかに弧を描いてローザリンデを指す。


「そう、愛しいローザリンデ。君のおかげだ。君が僕たちを引き裂くこの無粋な泉を無力化してくれた。僕たちは忌々しい秩序の神々の干渉を受けることなく、この地上で十全に力を発揮できる」


 ジャムジャムアンフの言葉に、その場にいた全員がローザリンデ姫を振り返った。信じられぬとばかりに目を見開き、各々その眼に僅かな疑惑を宿している。彼らは誰一人として言葉を発することができなかった。

 やがて、定まらぬ足取りで、王が一歩、二歩、娘であるローザリンデの方へと踏み出した。


「まさか……まさか、魔神のでまかせであろう。ローザリンデよ、否定せよ。王命である、直ちに否定するのだ!」

「お父様……」


 ローザリンデ姫は両指を祈りの形に組んだ。


「申し訳ありません、お父様」


 その白い頬を透明な涙が伝い落ちる。

 王は無言で剣を抜いた。

 王妃が悲鳴を上げ、その傍で何も分からない幼いクリストフが恐ろしい雰囲気に泣き出した。

 王は走り出し、剣を振り上げた。

 しかし、その剣をエリアスが防いだ。


「王よ、お待ちください!」

「邪魔立てするな、エリアスよっ、そこをどけい!!」


 血走った目で上段からぎりぎりと剣に全体重を乗せる。

 しかし、エリアスは片方の膝を地面についたまま、両手で己の剣を支え、ローザリンデ姫の前から一歩も動かなかった。


「やれやれ」


 嘆息したのはジャムジャムアンフだ。


「賢くない。美しくないね」


 王がマントを振り払い、「魔ごときが」と視線で殺せたらとばかり睨みつける。

 しかし、ジャムジャムアンフはどこ吹く風に肩を竦めてみせた。


「この国の不幸は、為政者が愚者であることだね」


 一気に殺気立つ騎士たちを尻目に、魔神は流水のごとく喋り続けた。


「いいかい、この国は我々の猛攻を多少の間は防げても、耐えしのぎきることはできない。近々滅ぶはずだった。でも、ローザリンデの勇気がその運命を覆したんだ」


 ジャムジャムアンフは優しげに目を細めて、祈りの形に指を組むローザリンデを見つめる。


「ああ、無駄な争いは、悲しいね。一の犠牲で、九を救う。この国を拠点に僕らは地上に勢力を広げるつもりだが、一度徹底的に叩いて、君たちが服従の意を示してくれれば、これ以上は手出ししないよ。約束しよう。ローザリンデ、君の選択は自らの血を流すことを厭わない、本当に尊く美しいものだよ。愚者にはそれが分からない。君の心が血を流していることを思うと、僕もまた胸が引き裂かれそうだよ。ああ、ローザ、泣いていいんだよ」

「戯言を――」


 長い口上に、聞き苦しい、と王は吐き捨てた。


「悪魔の言葉に耳を貸す。それこそ愚行というものだ。お前たちのやり方は、よくよく人間の側も心得ておる。魔神ジャムジャムアンフよ、貴様の甘言を弄するやり方はな、我らには知れ渡っておるのだ。その禍言まがごとに踊らされる愚者が我がザール王家より出てしまうとは、痛恨の極みじゃ。せめて余の手でもって切り捨ててくれようと思ったが」


 エリアスよ、忠義のあり方を間違えるでない、と王は言う。

 

「臣よ、悪魔の甘言に耳を貸してはならぬ。奴らの邪悪に目を塞いではならぬ。奴らの狡猾さ、歴史が全て証明しておる。王家の恥により、加護は失われた。詫びても詫びきれぬ。しかし、心を折るな。秩序の神々、ルーラーも照覧あれ! 我らの生き様にて、民に再び加護を願わん! 魔を退けよ、我が騎士たちよ!!」


 彼らは剣を高く掲げた。


「ルーラー!」

「いさおしよ!!」


 彼らの身体を次々に湯気のような何かが包む。

 ジャムジャムアンフは口元に指を当てて「やれやれ」と再び肩を竦めた。


「すまないね、ローザリンデ。君を傷つけるのは辛いが、剣を向けられれば、互いにどちらかの死を覚悟しなければならない。僕も本意ではない。君にだけは、分かって欲しい」

「――ジャムジャムアンフ様」


 静かにローザリンデは涙を流し続けていた。

 エリアスはローザリンデに目礼し、彼もまたジャムジャムアンフに剣を向けた。


 そして。



 魔神ジャムジャムアンフは、「ローザリンデ、目を閉じておいで」というと、指を二回、ぱちんと鳴らした。


 一回目、ローザリンデは目を閉じた。

 二回目、







 この世に、地獄が出現した。




 半透明の七子は、それを、見ていた――







 首が床に転がっている。

 胸にぽっかり穴の空いた死体。

 多くのそれは、無念に空中を睨みつけている。

 ジャムジャムアンフがローザリンデを両腕に抱え上げる。


「ローザリンデ、僕の首に腕を回してごらん」

「はい。ジャムジャムアンフさま」

「辛いね、ローザ。すまないね」

「……っさま」


 すすり泣き、ローザリンデは魔神の胸に顔をうずめた。

 その金色の髪を魔神は何度も撫でる。


「さあ、行こう」 


 多くのものいわぬ死体の中、一人の男が剣を杖にして立ち上がる。


「おや」


 ジャムジャムアンフは足を止めた。

 ただ観測することしかできない七子もまた瞠目する。

 エリアスだった。

 彼は今にも倒れそうな酷い状態だ。

 しかし、彼は魔神を、いや、ローザリンデを凝視し、視線をそらさない。


「ローザリンデ様。貴女の望みは。この光景ですか」


 彼は問う。その目から涙が溢れている。


「お答えください。ローザリンデ様。この国はもう滅びます。せめて。せめてその魔を。貴女の手で」


 ローザリンデ姫は顔を上げた。

 その目から宝石のような涙が零れ落ちていた。


「許して。私は、このお方を、お慕いしているのです。誰かを愛する心を、貴方は悪だといいますか?」


 エリアスは、愕然とした表情で、ローザリンデ姫を見つめていた。

 言葉もなく、ただその目を見開き、滂沱の涙が流れ落ちる。

 彼はただ剣を構えた。

 その切っ先は、果たしてローザリンデ姫に向けられていたのか。

 ジャムジャムアンフが三度指を鳴らす。

 エリアスは壁まで吹き飛んだ。

 肋骨が折れたのか、肺に骨が刺さったのか。

 彼は喀血する。


「君は一度ローザリンデを守ってくれた。そのことに報いよう。しかし、今彼女に剣を向けた。そのことにまた報いを受けるがいい」


 ジャムジャムアンフが手をかざすと、みるみるエリアスの半分の顔は焼け爛れていった。彼は決して悲鳴を上げなかった。ふつふつと皮膚が粟立ち、弾けて汁を飛ばす。


「報いて命までは取らぬ。しかし報いて半分罪を背負いたまえ」

 

 魔神は背中を向けた。

 その腕にローザリンデ姫を抱えたまま。

 その去っていく背中に。


「――!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 エリアスは喉も裂けよと咆哮した。

 それは、魔神を呪ってその名を叫んだかもしれない。



 あるいは。



 ローザリンデ姫の名だったかもしれない。





 彼の物語の初めはしめやかに、そして地獄の低音とともに始まった。

 その調べは、各国に波及し、『大陸会議』を発動させる。

 交戦中の国では、ただちに停戦が呼びかけられ、各国は大陸通信網を開いた。

 世界に五つ出現した大迷宮の門。

 休眠期から大迷宮が活動期に移行した証である。

 この出現により、人類は沸き出でる魔に対抗しなければならなくなった。

 防衛と同時に、大迷宮の踏破が『大陸会議』において火急の命題とされるが、足並みを揃えることは困難を極める。

 しかし、人類は戒めの前例をすでに得ていた。

 その端緒は、ザール王国崩しによって、火蓋を切って落とされたのである。


 


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