じゅうはち
F3-Attack
K大付属病院の立体駐車場に車を止め、礼津の案内で滝彦と七子は入院棟へと向かうこととなった。総合受付で見舞の手続きを済ませると、七子以外は受付カードを胸から下げる。エレベーターで六階へ上がり、ナースステーションで顔見知りらしい看護婦に礼津はあいさつしている。彼はどうも頻繁に訪れているようだと七子は子だぬきを抱きしめた。
礼津は受付ノートに名前を書くと、「こっちや」と迷いもなくリノリウムの廊下を歩いて、ある病室の前で足を止めた。氏名表示は簡素に『瑞樹』とだけある。扉は、風通しするよう僅かに開いている。
七子はその字を見ると、足が竦むように感じた。
礼津がノックし、「木島です」と声をかけると、室内で人のみじろぐけはいがした。
「どうぞ」
「失礼します」
会釈して入室する礼津に続き、滝彦、七子が足を踏み入れる。優しいクリーム色とホワイトで塗り分けられた病室は、大きな窓からの採光もあって、酷く明るく見えた。
だから、七子はそのギャップにうろたえてしまった。
個室の寝台の傍には、処置中の看護師が一人とスツールに腰掛ける女性一人がいた。スツールに腰掛けた女性は優花の母親だろう。目元の隈はべったりとして化粧でも隠しきれていない。全身から疲労感と苦悩がにじみ出るようで、背中が少し丸まっている。
「木島先生、いつもありがとうございます――まあ、辻境さんも。優花が喜びます。お二人とも、遠慮せずに座ってくださいね」
目尻を下げるように細めた女性――瑞樹夫人は、手入れを欠いたかさついた手で寝台の『彼女』に手を伸ばした。
七子は、知らず、一歩、後ろに下がってしまう。
信じられなかった。鳩尾が重い。目の前の光景が、どうしても現実のものとは思えず、少女は救いを求めるように喘いだ。
「辻境さんの前で、優花、恥ずかしがるかもしれないわね」
夫人は俯きがちに笑う。約30度に傾斜した寝台の上には、経管栄養の管を鼻から挿入している優花が寝ている。ちょうど栄養剤を投入しているところのようだった。自力で経口摂取できないためだ。
七子は見ていられなくて、視線が下を向く。自分の靴のつま先が目に入る。見ていられない。見たくない。こんな優花の姿を見たくない。
(こんな、だなんて)
すぐさま己の考えに七子は唇を噛んだ。気を抜くと涙が零れそうだった。痛ましいと思ったからか。それも確かにある。しかし全てではない。もっと身勝手な理由で、七子は泣きそうになっていた。
七子にとって、優花は良くも悪くも太陽のような存在だった。まぶしくて、近づき過ぎると傷ついてしまう。その太陽の凋落を、七子は一度も思い描いたことがなかった。沈まない太陽。わけもなくそう信じ込んでいたのだ。だから、少女は耐えられなかった。怖かった。絶対の存在が、簡単に指の隙間からすり抜けてしまう。何故なら、それは『絶対ではなかった』からだ。その価値反転の恐怖を、氷が滑落していくかのように感じていた。
道すがら、優花が『意識障害』で入院している、という話は聞いていたのだ。しかし、その話は現実味を欠いていて、実際目にするまでは到底想像も及ばす、今直面しても七子を打ちのめすばかりであった。
「不思議よね、お医者様は、いつ目が覚めてもおかしくないとおっしゃるのよ。でも、目が覚めないの。もう一年になるのね……」
瑞樹夫人はやつれていたが、どこか穏やかな口調で娘の手をなぜている。スツールを引っ張ってきて腰を下ろした礼津は言葉に迷う風であったが、ふと瑞樹夫人の膝元に目を留めた。
「あ、それ……アルバムですか?」
「ええ。優花が元気だったころの。修学旅行の写真なんですよ。有の法要で色々整理していたら出て来て。一時は仕舞い込んでいたんですけれどね、時間を置いたら、見ることができましてね。そうしたら、この子、本当に元気そうで。本当に」
「……修学旅行、大分県に行かれたんですっけ」
「ええ、色々寺社を巡ったみたいですよ。ああ、どうぞ。ご覧になってやってください。娘も喜びます」
礼津はアルバムを受け取り、皮製の表紙の感触を確かめるように撫ぜ、ページをめくった。夫人は、滝彦にも「ぜひ、ご覧になってください」と進める。少し考え込む風体であった滝彦は、身の置き所がなさそうに小さくなっている七子に、視線だけで合図した。
七子は一瞬ためらったが、とにかく情報をかき集めることだという滝彦の方針を理解していたので、子だぬきをそっと床に下ろすと、「何? 何?」ときょろきょろしている彼に、腰をかがめて「しぃっ」とひとさし指を口元に当ててみせた。七子も子だぬきも誰から見えているというわけではないのだが、ここは病室だ。分かったような分からないような首をかしげている彼に、もう一度「静かにしててね」と念を押すと、そろそろと礼津に近寄る。脇から邪魔にならないよう遠慮しがちにアルバムを覗き込んだ。
たくさんの写真が、少女の目に飛び込んでくる。
笑顔。
手をふる生徒たち。
ふざけて変なポーズを決めている。
笑う。
空は秋晴れに青く、場面はあちこちへ飛ぶ。
床に寝転がってうつぶせになる男子生徒。
大きなスポーツバッグを持って、じゃれあいながら道を歩く。
食事の風景。
大きなフェリー。
青い宝石のように零れ落ちる滝の風景。
制服姿の生徒たちは、向けられたカメラにそれぞれの笑顔で応えている。
今の七子には修学旅行を体験した記憶はないけれど、こうしてアルバムがあることは不思議な心持がする。自分の姿を探そうとする発想は全く少女の中にはなく、自然その視線は切り取られた思い出の中の優花の姿を追うことになる。
(たのし、そう)
知らず七子の視線は熱を帯びて行く。
皆、とても楽しそうだ。
混ざりたいとは思わない。遠くから、楽しそうで素敵な絵を見ていたい。そこに自分はいなくてもいい。
(ううん、ほんと、は)
七子は胸元をぎゅっと握った。本当は。
こんな風に笑えたら。
そうしたら、何かは、今と、違っただろうか。
少女はそう思い、めくられるページに優花の姿を探す。
そして。
「――ッ」
目を見開いた七子は、ある写真を食い入るように凝視した。写真の光景に見覚えがある。
――門だ。
四足門、入母屋造、東西脇門を備えた門。
突出した正面には、下へゆるやかな弧を描く注連縄が渡されている。幣をぶら下げた向こうに、花鳥風月をあらわした彫刻が配されているのが見て取れた。経年変化によるものか、けぶるような緑の色は、ろくしょう、あおたけ、とくさ色。てつこんへと変容し、青へと落ちて行く。
七子の異変に気が付いた滝彦が、ページを押さえる。
「何や?」
少女の姿をとらえられない礼津が不審そうに視線を上げるが、滝彦は七子を促した。
「これ、です」
七子は指さす。この門。これは、最近見た。そう、この門を、七子は最近見たのだ。
滝彦は了解したとばかりに、少女の指示した写真を同じく指さした。
「この写真は?」
瑞樹夫人は「あら」と珍しいものを見たように目を瞬かせる。
「それは、柞原八幡宮ですよ。修学旅行の課題学習で同じグループの子たちは一生懸命調べたみたいですよ。ああ、一緒に手製の冊子がはさげてありますから」
裏表紙の内側に、手作りの冊子が差し込まれている。事前の課題学習で、生徒が各グループで立ち寄る先の建造物等歴史について調べた原稿をつづったもののようだ。礼津に小冊子を手渡された滝彦は感心したようにぱらぱらとめくり、あるページで手を止めた。手書きのイラストで『八幡宮マップ』と記載してある。
「旧国幣小社、柞原八幡宮の南大門。別名『日暮門』か」
のぞきこんだ七子は、今度こそ「あっ」と声を飲み込む。几帳面に書き込まれた見取り図や由来など――それは、七子の絵と字だった。少女の困惑を感じ取ったのか、滝彦がどうとでも取れる質問をする。
「この一連の原稿は全部?」
「ええ、優花が率先して作ったそうですよ」
瑞樹夫人の答えに、再度ぱらぱらとめくり、滝彦はもう一度訪ねた。
「全部?」
七子は何とか頷いた。全部、七子の字だった。自分では全く覚えがない。時間軸が未来である以上当たり前だが、自身の字と絵で作られた冊子は見ればみるほど奇妙である。空中を睨み据えるように考え込んだ滝彦は「なるほど」と言い、小冊子を閉じた。
「『実は、ある絵本で、この門を見た覚えがありまして』」
「あら、そうなんですか」
夫人は「そんなこともあるんですね」と応じた。一方、小冊子を返された礼津は、裏表紙に再度挟み込む。
「ええ写真ですね。皆ええ顔してる」
「ありがとう。そう言ってもらえると、本当に嬉しいわ」
夫人は嬉しそうに微笑み、そのまま何か言おうとして言葉が喉につかえた風に手を握り込んだ。
「このアルバムを見ていると、本当に――本当に、どうしてこんなことになったのかと」
上半身は小刻みに震え、握り込んだ指先を凝視するように俯く。
「こんなこと、言っちゃいけないって分かってるんですよ。でもね、どうしても、思わずにいられないんです。篠原さんが、あんなこと、あんな恐ろしい目にうちの娘をあわせて――許せないんです。どうして、教室であんなことができますか。七子さんは、大変な目にあったって思いますよ。うちの娘が同じことされたら。そう思うだけで、篠原さんの心中察することはできます。でもね、いくら復讐だ報復だって、子供たちの目の前であんなことを。うちの娘だって、けがをしたんですよ。優花は、名前のとおり優しい、繊細な子なんです。ショックを受けて。がんばって学校に行ったけれど、あの恐ろしい事件がフラッシュバックしてしまって、がんばっても学校に行けなくなって。恐ろしい体験をさせられて、優花の心はどれだけ傷ついたことでしょう。優花だけじゃありませんよ、目の前でクラスメイトを殺されて、ショックを受けない子なんていませんよ。優花のクラスはめちゃくちゃになりました。中学三年の最後の年を、こんな酷い幕引きにしてしまうなんて、あんまりですよ。篠原さんがあんなことをしなければ、そもそも篠原七子さんが自殺だなんてしでかさなければこんな、有だって、本当にあの子は優しい子で、七子さんの墓参りに行った帰りに、七子さんに暴行していた男子生徒の身内に刺されるなんて酷い。有は関係ないじゃないですか。あの子が何をしましたか。全部悪いのは、篠原さんじゃないですか。そもそもあの奥さんからして変わっておられて、旦那さんは漫画家だとか普通じゃないおうちで、七子さんが学校で問題を起こしたのは家庭環境のせいじゃないですか。何でうちが巻き込まれて、優花も、有も、関係ないのに、関係ないのに」
もう夫人は、目の前の青年二人が彼女の話を聞いているのか聞いていないのかなど、それこそ関係ないようだった。ただ、胸の内につまって臓腑をぐずぐずと腐らせていく呪いの言葉を破裂する前に吐き出さなければならぬとばかり、ひたすらに呟き続ける。
礼津は慣れているらしく、「はい、はい」と親身になって相槌を打っている。彼はこの手の状態になれば、否定しても意味が全くないことを経験則で嫌と言うほど知っていたのだった。
そして七子は、顔色を紙のようにまっしろにして、夫人の呪詛を自ら浴び続けた。
夫人が正道を説いたとしても、身勝手な呪詛をしたとしても、少女はそれを聞かねばならなかった。
何かが捻じ曲げられ、坂道を転げるようにこの酷い未来へ続くこととなったそのきっかけを、もう少女は知らないとは言えなかったのだ。
「わ、たし」
私、と七子は消え入りそうな声で言う。滝彦が立ち上がり、断りを入れて七子を病室の外へと出し、子だぬきを拾って、待合室のソファに座らせた。ナースステーションからも視覚となるそこは、ちょうど無人であった。
「大丈夫か」
「は、はい」
青い顔で座り込む七子に声をかけ、滝彦は自らも隣に腰を下ろした。ついでとばかり、七子にぶら下げた子だぬきを押しやる。
「全部自分が悪いと顔に書いてあるぞ」
「あ、え」
「もう少し楽にしたらどうだ」
「は、はい」
少女はぎくしゃくと手足を伸ばし、「楽になる」を体現しようとしたが、滝彦に思い切り呆れられた雰囲気を醸し出され、余計に体が緊張してしまった。
「俺は説教は苦手なんだが」
「は、はい」
「そう糞まじめに思いつめるな。あの夫人と礼津に腹が立ったなら、俺が代わりに後者のみ殴ってやってもいいぞ」
「ええっ!?」
何でそうなるのか分からず、七子は子だぬきを膝に座らせたまま、器用にも飛び上がった。その七子に、滝彦は淡々と噛んで含めるように言う。
「確かに君は、現在のろくでもない結果の遠因もしくは直接の原因となっているようだ。だが、全部君の責任ではない。ましてや当事者だった大人たちの責任に比べたら、君の負うべき荷物などずいぶん小さなものだろう」
「え、あの」
「腹は立たないのか?」
「あ、あの。……立たない、というか、よく、分からない、です」
滝彦は聞く姿勢だった。七子は昔から人の顔色を伺う子供だったが、今は自分の内側を覗き込むようにぽつぽつと感じたままに吐き出して行く。
「自分が駄目で、人に迷惑かけて、こ、こんな、酷いことになって、て。多分、私、あのままだったら、こうなったんだろうなって、すごく、理解できてしまって。胸が、重くて、お母さんが、なんて、信じられなくて、だけど、瑞樹さん、現実、で。何だか、怖くて、刺す、みたいな、あの、うまく、言えなくて」
支離滅裂に言い、だんだん声は小さくなる。いつも七子は言葉が出てこなくなると、そこで聞く側が不快になってしまうのでないかと怯え、言葉自体を止めてしまう。それでも、少女はうまくまとまらない言葉を必死に絞り出す。
「だけど、私。私、こんな、未来、嫌だって。それだけは、嫌だって、思った、んです。腹が立つ、とは違う、かもしれないけ、ど」
言いながら、自分で腹の底に力を入れて、七子はしっかりと顔を上げた。
「嫌だから。私、こんな未来は嫌だから。私の、せいなら。私が関わっているなら。私で、止めます」
そうできるなら。ううん、そうするのだ、と。
迷う瞳は、必死に滝彦へと宣言した。しばらく無言で少女のつっかえつっかえの話を聞いていた滝彦は、「そうか」と彼も姿勢を楽にした。
「君は、変われたんだな」
感慨深そうに、彼は七子の目を見た。たちまち少女は狼狽えて、挙動不審に視線を彷徨わしそうになる。しかし、宣言した手前、どうにか青年の喉元あたりに焦点を落ち着けた。
「今回で、確かに止まるかもしれない。今の君になら、俺は同志として話すし、お願いしたい。恐らく、このループは」
言いかけた青年の口元が「あ」の母音の形に開いたまま不自然に氷りつく。
ぱたん、と音がした。
ぱたぱたぱたぱたぱた――タイルがひっくり返る音だ。気が付いて、七子は愕然とした。この音を聞いたことがある。エリアスと初めて野営した魔の森の川辺で、世界が裏返ったあの時と同じだ。慌てて立ち上がり、対峙する青年の肩に触れようとして、冷水を浴びせられる。
世界がモザイクに崩壊していく。病院の待合室の光景を、身の毛もよだつ深い黒が虫食い状態に食い荒らしていく。全てのタイルが裏返った時、七子はもうその世界には存在しなくなっていた。