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じゅうなな

 暗黒の海。

 モノクロームの圧倒的なまでに静謐の世界だ。灰色に沈む空は、真夜中の青から嵐のストーム・ブルーに揺らめき、やがてその濃淡を暗い灰みへと変える。生き物のけはいが微塵も感じられない静かな砂浜。足元に押し寄せる波は恐るべき透明度を備えているのに、なおも黒い。その海岸に、冬服の少女が一人、波に足を浸して立ち尽くしている。

 七子が通り抜けて来た不思議な海岸だった。


「こ、れ……」


 言葉を失い、呆然と絵を見つめる七子。

 更に長谷部はファイルをめくった。


「他にもある。これはアメリカのK州立刑務所の死刑囚が描いた絵だ」


 ぎょっとしたのは、七子だけではなかった。隣の滝彦が鋭く息を呑む音を、少女は聞くこととなる。腕の中で子だぬきが身じろぎするのにも、七子は気づけないほどに、目の前の絵にくぎ付けとなった。


「これも、同じ絵、か……」


 かろうじて滝彦が言う。両者は、技巧の優劣があるとは言え、まったく同じ光景を描いていた。長谷部は頷き、次々とファイルをめくって行く。


「これだけじゃない。そして、この一連の絵は、全て同じ時刻にインスピレーションを受けて、様々な人々が描いた。アメリカの死刑囚からドイツのキンダー・ガーデンの子供たち、精神病院の患者まで、同じ絵が大量に描かれている」

「同じ時刻にインスピレーションを得て? 彼らが同じものを見た可能性は?」

「それは分からないけれど、同じものって何だろうね。各国で同時刻だよ? この死刑囚については、情報弱者だよね。いつでもどこでも自由に情報を手に入れられるわけじゃない。まあ、彼らもテレビの視聴や本の購入、手紙のやり取りはできるからね、信ぴょう性は疑おうと思えばどこまでも疑えるけれど、幼稚園児たちはどうかな」

「――共時性シンクロニシティ


 ぽつり、と呟いた滝彦に、長谷部が「うん」と頷いた。ちらり、と横目で七子のいる辺りをみやると、彼は丁寧に説明する。


「原因と結果のつながり――因果関係が成立して生起するなら因果性があると言えるよね。木島君が僕を呼び出した。これは原因。だから僕は喫茶店に現れた。これは結果だ。原因と結果のつながりで説明できる。僕がここに現れたのは、因果性がある事象だ」


 七子は無意識に頷いた。長谷部は続ける。


「でも、木島君と辻境君が、喫茶店で僕の噂話をしていたら、僕が現れた。この場合はどうだろうか? 何の因果関係も成立していないよね。君たちが僕のイメージをしたから、僕が現れた。ひとことで言うなら、偶然だ。まあ、あるかもしれない。この喫茶店は僕の勤め先の目と鼻の先だからね。でも、もしもっと遠い場所でこんなことが起きたら? 原因と結果のつながりを説明するのが難しいよね。偶然――偶然にしては確率の低いできごとが、たまたまその人のことを想起したら生じた。この時、因果性が働いたのではなく、共時性が作用したというわけだね」


 つまり、今回の事例だ。遠く場所も国境すらも超えて、ましてや年齢性別立場すらも超え、同時多発的に人々は同じイメージをキャッチしたのだ。


「どうして、そんなことが」


 まるで七子の言葉が聞こえたかのように、長谷部は言葉を継ぐ。


「不思議だよね。この偶然のめぐり合わせは、僕たちの心が、深いところではつながっているから起きるんだと説明した学者がいた。人間の無意識の産物は二段階あって、個人的に獲得された無意識とは別に、あたかも人類一般に固有の型、すなわち元型アーキタイプがあるというんだね。んん、難しいかな」


 思わず、七子はこくこく頭を縦に振ってしまう。会話になっている不思議は無視されている。


「そうだな、例えば神話的モチーフは、世界中で共通するものが多くあるよね。時間も空間も隔てているのに、何故か世界中でよく似た神話モチーフを散見できる」


 確かに、日本神話やギリシア神話など、よく似た話が多いと少女は思ったことがある。例えば、死者の黄泉がえりを描く話で、男が死んだ女を取戻しに黄泉の世界へ行くのだが、振り返ってはならぬという禁を破り、男は女を失ってしまうというのだ。


「この学者は、時代や民族や個人の経験を超えた、人類共通の無意識があり、その内容を元型アーキタイプと呼んだんだけれど――この共通の無意識を集合的無意識と名づけたんだね」

「集合的、無意識」

 

 思わず繰り返した七子に、長谷部は頷いた。


「普遍的イメージの元だから、普遍的無意識とも呼ぶね。この共通の無意識層が、人類の精神活動の基盤となっていると考えたんだ。だから、因果関係では説明のつかない複数の事象が同時に生起する。これを、共時性の作用だと説明したんだ。この共時性は、因果関係ではなく、深いところでつながっている僕たちの集合的無意識による何らかの作用だとね」


 七子は、胸をそっと押さえる。


「私たちの、こころが、深いところで、つながっているから――?」


 繰り返してみると、少女にとっては不思議な響きだった。奇妙ですらある。

 自分自身の無意識までは想像できる。しかし、自分の中に、他の人々とつながっている無意識があるというのだ。それはあまりにも想像を超えた考えだった。

 思考に沈みそうになる七子は、「木島君」または「礼津」と呼ばれる青年が「それで」と口を開いたので、はっとする。


「このインスピレーションを得た人ら、おもろいこと言ってますよね。海が、波が来て、通り抜けて行ったとか。ぶれた、とか。テレビ視聴してた人らが、スノーノイズや二重ゴースト状態になった言ってますが、視聴媒体に寄らずインスピ得たいわば感性の鋭い人らは、自分自身が二重になったようなことをコメントしてる」

「そうなんだよねえ。なんていうか、存在がゴーストになったというコメントだよね。僕らもこれは感性的なことで、記事にはできなかったんだけれど」


 長谷部は喉が渇いたのか、コーヒーを飲み干すと言った。


「一部の人はね、具体的な『2014.10.1無線干渉問題』の謎の信号や、よくわからない共時性の作用らしきインスピレーション現象について、神様や宇宙人のメッセージなんじゃないかって騒いでいるね。だけど、まあ、僕個人は――」


 長谷部は暗黒の海の絵を指す。


「もう、これそのものが答えなんじゃないかなって、よくわかんないけど思うんだよねえ」


 そう、とぼけた口調で言った。滝彦が眉根を寄せ、


「この海が、俺たちの深層から競り上がって来て、人々に一時の共通のイメージ白昼夢を見せた、ということですか」

「うーん、まあそうなのかな。海とか波とかって意味深だよね。僕は学生時代、心理学はあんまり突っ込んでやってないから何とも言えないんだけど。民俗学の見地から立つと、例えば、海って異界なんだよね」


 いきなり唐突な話を始める。


「海も山も、極端に言えば、共同体の境を越えると、全て異界なんだ。で、共同体を自己ととらえると、外からやってくるものは、恐ろしいものなんだ」


 ずき、と七子の胸が痛む。自分の外側はすべて異界で。外側には、自分を傷つけるものがたくさんある。


「外からやってくる存在を、『マレビト』と言うけれど、これはよいものも悪いものももたらす。だから丁重に迎えて、富をもたらしてもらって、丁重にこれを返す。取り扱いを間違えてはならないんだね。間違えると、富ではなく、祟りをまき散らすからね。だから、昔から境界ってのは、大切にされたんだよ。境界を見張り、守るものに道祖神を置いたりね。それで、海というのは、異界の中でもとびきりの異界なんだなあ。実際、江戸時代にやってきた黒船なんて、当時の日本人にはおっそろしかっただろうね。海を越えてやってくるものは、狭い共同体の想像を超えた凄い存在である可能性に満ちていた。本当に力を持つ神様や化け物ってことだね」


 そこまで黙って聞いていた滝彦が、口を開いた。


「では、この人々の集合的無意識から浮き上がってきたかもしれない『暗黒の海』。この海を越えてやって来た者は、どういう存在だと思いますか?」

「ははは、辻境君、面白いこと言うねえ。そうだね、海なら、この海から『マレビト』がやってきてもおかしくないよね。じゃあ、この女の子かな。彼女が、僕らにとっての『マレビト』で。ああ、『うつぼ船』っていうのは、これもまた共通するモチーフなのかもしれないね。海から、異界の女がやってきて」

「彼女をまた、海に帰す――」

「うん、おっと、すまない」


 長谷部は断りを入れると、ジャケットの胸ポケットの振動元を取り出し、携帯画面を見て困ったように笑った。


「携帯が鳴ってるな――あ、こりゃ駄目だ。ごめんよ、僕はちょっと新聞社に戻らせてもらうよ」

「あ、はい。お忙しいところ、ありがとうございました」

 

 礼津は席を立つと、深く頭を下げる。


「いやいや、とんでもない。あ、コーヒー代、おいておくね。久々に会えて楽しかったよ」


 長谷部は慌ただしく身の回りのものを鞄に突っ込み、どう考えても多めの紙幣をテーブルに置くと、後輩二人が声をかける前に早足で店を出て行った。

 それを見送って、腰を下ろした礼津が滝彦の方へと顔を向けた。


「――と、いうわけなんや」


 七子は頭がいっぱいいっぱいになっていたが、なんとなく「はい」と応じてしまう。子だぬきはとっくに寝てしまっている。一方滝彦は少々考えるところがあるようだ。


「2014年10月1日は、波乱の日だったようだな」

「ああ。ホンマ大変な日やったわ。有くんは、気の毒なことになってしもたし、世間も大変やった」


 礼津は言葉を切る。


「やけど、やっぱり、あの日大変やったのは、瑞樹さんち一家やと思う。親御さんは、ホンマ気の毒やった。優花ちゃんまで、あんなことになってしもて」


 え、と面を上げた七子に、眉毛を八の字に下げた礼津が言った。


「優花ちゃんは、K大付属病院に今も入院しとる。法要済ませて、お母さんはすぐに病院直行や。これから、見舞行くか?」


 滝彦は伝票を拾うと、椅子にかけていた上着を取る。


「ああ。行こう」


 ただ一人、七子だけは事態について行けなくて、迷子のこどものように呆然とするばかりだった。


 

 


 


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