じゅうろく
短いのですが、きりが悪いのがきりがよいので、F2の続きです。
「瑞樹優花は――?」
そう尋ねた滝彦に、礼津が何か返そうとした時だ。喫茶店の扉が開く。ジャケットにネイビーのシャツを着た男が入店すると、礼津に気が付いて「やあ」と片手を上げた。先ほどの引きずる雰囲気を取り払うよう、礼津は立ち上がり、頭を下げる。
「長谷部先輩、お疲れ様っす」
「遅くなって悪いねえ」
眠そうな糸目を更に細めて、長谷部と呼ばれた男は礼津達がいる席まで歩いて来ると、七子がどきどきしながら座っているはた目には空席をじっと見据えた。
「んー、僕、この席、座らない方がいいね」
「……長谷部先輩、相変わらずっすか」
「はっはっはっ、木島君は相変わらず面白いねえ。辻境君も変わらず仏頂面だ」
椅子を引いて腰を下ろす長谷部に、滝彦は表情を変えることもなく、静かに会釈してみせる。
「あ、店員さん、僕もホットコーヒーください。さて、木島君。僕はまた『2014.10.1干渉問題』について、辻境君に話を披露すればいいのかな?」
「うっす。すみません、できれば『アレ』生で聞かせてやってほしいんです。で、お呼び立てしてしまいました」
「ああうん、いいよいいよ。僕、勤め先は泰正新聞社だし。一番近い場所にいて重役出勤遅刻したけどね。あ、でも、一応ここだけの話にしておいてくれよ。電波法に触れるんで」
滝彦が無言で長谷部を見つめ、七子も話の展開が分からず、おろおろと集まった面々を見回す。
「長谷部先輩。悪いんですけど、この滝彦さん、先週の俺と同じ状態なんです。『2014.10.1干渉問題』について、そっからレクチャーしたってもええですか」
「おやおや、君たち揃いも揃って……」
長谷部は眠たげな目で、空席の七子の顔辺りを見つめ、「なるほどなるほど」と呟いた。七子は見えないはずなのに、見えているのではないかと、妙な汗が出てくる。
「『2014.10.1干渉問題』は、2014年10月1日に、大規模な無線干渉が起こったって話だよ。けっこう大騒ぎになったんだけどねえ。釈迦に説法かもしれないけれど、簡単に説明させてもらおうか。僕らは無線媒体を身近に通信手段で使ってるよね。テレビ放送にラジオ、携帯電話に、パトカー、船舶、飛行機や軍用航空無線、気象衛星から地球観測衛星、なんでもござれだ。アマチュア無線なんて、日本の小学生が南オーストリアにまで無線を飛ばしてアローって通信できるんだから、無線の長距離能力は大したものさ」
七子はびっくりして、いつの間にか涙が止まってしまう。アマチュア無線というのは耳にしたことがあるが、日本から海外まで学生が通信することもできるなんて、全く少女は知らなかったのだ。
「無線通信は、狭い道路に無数の通信がひしめきあっていると考えるといいよ。利用できる道路を周波数って言うんだけどね、この周波数も無限じゃないから、皆で仲良く棲み分けましょうってことで、法律で周波数帯を割り当てている。一台しか通れない同じ周波数道路に二台の車が走るとぶつかるよね。もう一台は妨害する干渉源になってしまう。無線は基本使用されていない空きチャンネルを使用するわけなんだけど、この2014年10月1日に、強い広帯域の干渉信号が入ったんだ」
長谷部は、滝彦に説明しているというより、まるで子供相手に説明しているような口調だ。
「お正月に携帯電話をかけると、中々つながらないよね。皆悪意はないんだけど、利用者が多いと干渉の障害が起こって、通信が悪化してしまう。2014年10月1日、午後十七時前後、ほんの僅かな時間。きっと十秒にも満たない。多くの携帯電話がつながらなくなった」
こつこつ、と長谷部は人差し指でリズムを取るように机を叩く。
「テレビやラジオ、電話などの通信にノイズが走り、テレビ放送は二重状態になり、人によっては変な声を受信した」
こつ、と音が止まる。七子は声が出なくなる。怖い。この話は、怖い話だ、と頭がしびれるとともに、心臓が何者かの手でつかまれたようにどくどくと鼓動の音がする。
「声、というのは語弊があるだろう」
長谷部は真っ直ぐに七子の目を見ていた。
「自分で聞いてみるべきだ」
彼はそう言って、ごそごそと自らの鞄を探ると、一台の広域受信ハンディレシーバーと附属のイヤホンを取り出した。
「世の中には、航空機無線を趣味に聞く人もいるんだよね。で、最近のレシーバーは便利になって、強い電波を拾うと自動で録音してくれる優れものもある。もともとレシーバーには羽田や関空なんかの航空無線が登録されていて、勝手に周波数を合わせてくれるんだけど、これはたまたまALLスキャンをかけていたものだ」
聞いてみるといい、と滝彦に長谷部は片手サイズの黒いハンディレシーバーとイヤホンを差し出した。
「あ、ちなみに電波法で『何人も法律に別段の定めがある場合を除くほか、特定の相手方に対して行われる無線通信を傍受してその存在若しくは内容を漏らし、又はこれを窃用してはならない』って秘密の保護が定められているから、よろしく頼むよ。まあ、これはちょっと特定の相手方ではないというか、グレーかなと思うんだけどねえ」
滝彦はイヤホンを耳に当て、ハンディレシーバーを操作し――わずかに目を見開いて固まった。
「あ、あの――」
七子がおそるおそる声をかけると、彼はイヤホンを外し、礼津と長谷部の目を気にすることもなく、
「君に聞く覚悟があるのなら」
と告げた。
七子は怖かった。しかし、少女はたぬきを抱きしめていた手を緩め、頷いた。そっと自ら身を寄せ、空中に掲げられたイヤホンに耳を傾ける。
「――」
それは。
七子を凍り付かせ、目の前に赤い紗のカーテンを引くような音。
滝彦が地を這うような低音で告げた。
「何かが、発狂する瞬間の音だ」
悲鳴か。
それとも絶叫なのか。
「それから」
長谷部はファイルを取り出す。
「テレビやパソコンに走ったスノーノイズやゴーストなんだけれどね、モンタージュみたいに咄嗟の記憶を描きだしたこんな画像が出回ってる」
花びらをガラスの底に沈めたテーブルに、その鉛筆で描いたような絵は広げられた。
今度こそ、七子は衝撃に口元を抑えることとなる。
「――暗黒の海」
長谷部が七子の頭の中を覗いたかのように言った。
「そう題名をつけたくなるような絵だ。ほら、そして、ここに。女の子がいる。制服を着た女の子だ」
冬服の――続く言葉を、七子は正確に聞き取れただろうか。
それは、七子の姿をしていた。