じゅうご
F2-Attack
滝彦の運転する車はゲートをくぐると地下へ下って行く。
泰正新聞社本社ビルディングの地下駐車場だ。エレベーターに乗って地上に出ると、その威容は明らかだ。
百メートルを超える高層棟ビルである。左手に消防庁、道路向かって一本先には県内でも五指に入る大手ショッピングセンター、西側を流れる川を挟んで、K大付属病院が構えている。
滝彦は本社ビルに隣接する喫茶店へ向かうので、七子も子だぬきを腕にかかえて後ろを小走りについて行った。彼は金の縁取りをしたガラス扉を開くと、無言で先に七子を入らせる。
「あ、ありがとう、ございます」
ぺこりと七子は頭を下げて急いで中に入る。不審者にされては叶わないと思ったのか、滝彦は答えず後から店内に足を踏み入れた。
「遅い!」
鋭い声が飛ぶ。立腹です、と顔面に書きなぐったような調子で、店内のたった一人の先客である若い男が腰を上げた。ペールブルーのシャツを着た青年で、地毛らしい柔らかな茶色の髪とどこかお人よしそうな顔をしている。二重ガラスの内部に花を散らしたテーブルの上には、すでにカップの底が見えている飲みさしのコーヒーがあった。
「滝彦、お前なあ、呼び出した方が遅れなや。コーヒー一杯空にしたで」
「悪いな。渋滞に引っ掛かったんだ」
渋滞などには当たっていない。しれっと滝彦は嘘を吐いた。唖然と見上げる七子をよそに、彼は椅子を二脚引くと、片方に戸惑う七子を座らせ、自分は隣に腰を下ろした。一方待たされていた青年は、愚痴を言い始める。
「こっちも暇とちゃうで。今日は法要やったしな。いったん大学に帰らなあかんかったし、教授はまた無茶言うし、先輩には苛められるし、女子の後輩にはからまれてカツアゲされそうになるし。俺院生やっちゅーのになんで一番研究室で地位低いん? 平常運転ちゃうぞ。じゃなくて、お前も他県までお疲れさん」
ぺらぺらと愚痴を立て板に水のごとく言って最後ねぎらった後で、青年は片方の眉を器用に釣り上げた。
「で、なんで椅子もいっこ引いてんの?」
確かに無人の席に椅子を引くのはおかしい。七子が不安げに隣の青年の顔を見上げると、ちょうど店員が注文を取りに来た。
「ご注文はお決まりでしょうか」
にっこりと滝彦に向かって微笑む女性店員に、滝彦はメニューをぱらぱらと見て、「コーヒーを」と注文する。
「ホットでよろしいでしょうか」
「ええ」
「かしこまりました」
下がろうとする店員に、礼津が手を挙げた。
「あ、すみません。俺も追加注文で。えーっと」
決めてから言え、という滝彦の冷たい眼差しに慌てて適当な注文をしようとしたのだろう。口を開きかけたその時、
「ぼく、コーヒー」
妙に幼い声が店内に響き渡った。
しん、と辺りが静まりかえる。店員は、困惑気味に辺りを見回す。がらん、としていて、他に客はいない。いったい誰が、と笑顔の強張る店員に、滝彦が圧迫面接気味に言葉を重ねた。
「コーヒーです」
「あ、え」
「彼はコーヒーが飲みたいそうです。そうだろう」
急に話をふられた先客の青年は「うえっ!?」と辺りを再度見回し、自分を指さした。
「お、俺、コーヒーって言ったかな」
「言っただろう。自分の発言には責任を持て。コーヒーでお願いします。ホットです」
「は、はい。かしこまりました」
店員は頭を下げると、心持足早に引っ込んだ。
心臓をばくばくとさせながら席に背筋を伸ばして座っているのは七子である。その膝上で、子だぬきはテーブルに前脚をちょこんと乗せたまま、真剣な顔で「ぼく、コーヒー」とまた言っている。おそらく意味は分かっていない。大人の真似をする子供と同じだ。
「き、きこえちゃった、ん、ですね」
「そのようだな」
相槌を打った滝彦を、不気味なものでも見るように青年が見た。
「滝彦、頭、大丈夫か」
「そっくりそのままのしつけて返したいところだが」
「だが?」
「礼津。お前、篠原七子を覚えているか?」
気味悪そうにしていた青年――礼津と呼ばれた彼は、ぴたり、と動きを止めた。さっと他人の顔に影が差すのを七子は目前で見てしまう。
「そら、忘れはせんやろ。特に今日はな」
「篠原七子の命日だからか」
「それもあるけど――て、この話はなしや」
終わり、と締めようとした礼津に、滝彦は「待て」と制止する。
「前提条件を言ってなかったな。俺は、ここ数年の記憶がないんだ」
「は?」
「正確に言うとな、2010年7月13日から現在までの記憶がさっぱりない」
淡々と言う滝彦に、しばらく礼津は開いた口がふさがらない様子だったが、やがて表情を改めた。
彼は次にこう言った。
「――お前もか」
驚いたのは七子である。礼津と呼ばれた青年に、滝彦同様記憶があるなら、会話がちぐはぐすぎる。礼津は神妙な顔つきで切り出した。
「実はな、一週間前、俺もここ数年の記憶がなくなっていろいろやらかしたらしい」
「らしい?」
「伝聞やからな。なんやその、色々聞きまわって、迷惑かけたようや。その間のこと、何も覚えとらんけどな」
ごそごそと礼津は自分のカバンを探った。中から一冊のノートを取り出す。
「記憶ない間にやらかした俺のまとめノートや。で、記憶ない俺から俺へ伝言書いてあった」
テーブルの上に、ノートを開く。意外に几帳面な文字で、読みやすい。そして、こう書いてある。
――滝彦か、有くんか、誰か記憶喪失やら言動変なって、篠原七子ちゃんの事件を調べはじめたらノート見せてやれ。話をしてやれ。未来の俺、頼むぞ!
「他にもいろいろ書いてあってな、あいたた思ってたけど、お前も記憶喪失って、偶然やないやろ。なあ、ホンマに――過去から来たんか?」
恐れるように、期待するように、そしてどこか否定を求めるように、複雑な表情で問うた礼津に、滝彦は言った。
「知らん」
ずるっ、と礼津はテーブルから肘を滑らせる。七子も、あわわ、と顔色を失った。本人はいたって平然としていて、店員が持ってきたコーヒーを礼を言って受け取り、一口飲んでから、
「分からんから調査してるんだ。俺が答えなんぞ知るわけないだろう」
ばっさりと二度切り捨てる。礼津は椅子に背を預け、脱力したのか天井を仰いだ。
「はー、そういう奴やった。ま、俺も過去を変えたろーとか変えられるんかとかあかんかったな。変えたい『今』があるなら、『過去』を変えたところで、変えたい『今』にはつながらんわ。そりゃ別の変えられた『今』や。タイムパラドックスっちゅーやつや」
よっしゃ、と彼は自分の顔を叩いた。
「協力したる。お前の『未来』、ええように変えて来い。有くん助けて、優花ちゃん助けて、七子ちゃんいう子助けたれ」
「篠原七子本人なら、俺の隣にいるけどな」
「ぶっ」
喉が渇いたのか演説するなり、コーヒーを口に含んでいた礼津は吹き出しかけて咳き込む。七子も座ったまま飛び上がるという器用な真似をやってのけた。
「半幽霊みたいな状態だ。膝にたぬきも抱えてる」
「たぬきぃ?」
「この時間軸に憑依すべき肉体がないからか。すると瑞樹有も――彼は弾かれたかもしれないな」
独り言のように呟き、滝彦は話を切り替える。有る程度互いの了解している事項をすり合わせた上で、尋ねた。
「つまり、瑞樹有は篠原七子の命日である昨年2014年10月1日、墓参りの帰りに刺殺されたということか」
「ああ。やりきれんけどな。やったんは、篠原七子ちゃんを暴行しとった加害者――七子ちゃんのお母さんが報復殺人した男子生徒の遺族や。これは精神鑑定で責任能力を問えず不起訴になっとる。無関係の有君刺してる時点でお察しや」
「連鎖しているな」
「復讐の連鎖言うたらなんやけど、これホンマありえんいうか、やりきれんいうか。ああ、これ見てみ。ネットの掲示板まとめ記事や。七子ちゃん苛めとった加害者で殺された男子生徒らな、特定されて、今度こそそのお察しのとおりや」
「――ネットで吊し上げられているな。実名、住所、遺族の氏名、勤務先までか」
七子はおそるおそるノートを覗きこんだ。記事に目を通し、ひぐ、と喉が鳴る。思わず口元を抑えた。涙が浮かんでくる。
(酷い)
その衝撃は少女の胸をぎりぎりと締め上げて涙腺を熱くさせた。同情? そうではない。何故なら、七子は知っている。同じ痛みを、知っているからだ。
「苗字がちょっと珍しいやろ。この男子生徒なんか、『黄麻』言うからな。割と特定が簡単やったんやろ、粘着質に追いかけられてる。生卵ドアにぶつけられて、人殺して張り紙張られて、この男子生徒のお姉さん、縁談破談になってる。当時大学生だったお兄さんは、内定取り消し。父親も勤務先を変えて、んで、また特定されてる」
「篠原瞳子夫人は?」
七子は震えた。かたかたと音がする。はた目には誰も座っていないかに見える椅子が、局地的に小さな地震でも起こったかのように小刻みに四脚を動かす。
ぎょっと目を見開いた礼津は、「ほんま、おるんか」と呟き、慎重に言葉を選んだ。
「こんなん言うたらあれやけどな、日本人て、敵討ちを美化する文化があるやろ。母親が娘の敵討ったったいうて、世論ではあんまり攻撃されてない。やりきれない、悲しい事件です、言うのがコメンテーターの常套句やったな。ネットでも賛否両論やけど、攻撃はどっちかというと、七子ちゃんに対して加害者側やった男子生徒らを目の敵しとった。証拠の動画が流れたせいもあるやろう」
礼津はコーヒーを一気にあおった。
「人間てな、自分が相手を責める権利を得た思ったら、簡単に相手追い詰めよる。自分が正義や思った時の人間はホンマ恐ろしい思った。何が怖いってな、相手殴ってる自分は正義やから、全く悪くない。相手が悪いから、殴ってもいいって、簡単に私刑を正当化してしまうことや。当事者置き去りにしてな、なーんも知らん第三者が悪者退治するんやで。篠原七子ちゃんも、有君も、第三者が誰かを気持ちよく殴るための免罪符ちゃうわ」
そう吐き捨て、「俺も同じ穴落っこちそうやわ」と悔しそうに顔を歪めた。
七子は――気が付くと、ぽろぽろと涙を零していた。
「あれ? あれ?」
拭っても拭っても、涙が勝手に落ちて来る。
「どした? いたいのか? いたいの?」
子だぬきが心配げに七子を仰いだ。七子は首を横にふる。
苦しいのではない。悲しいのではない。いや、胸がいっぱいだ。苦しいのかもしれない。少女は分からなかった。胸が痛くてたまらない。熱い。
他人の悪意や怒り。自身の不安。得体の知れぬ不安。それらが七子の外側や内側をずっと苛んで来た。全て負の感情だ。
(だけど)
だけど、と少女は思う。面識もない目の前の青年が憤り、自己嫌悪し、自覚しているその負の感情は。
(不必要なもの? 違う、よ。だって、私)
嬉しいのだろうか。違う。分からない、と少女は思う。しかし、分からないこと自体も不快ではない。この胸に灯った熱は、不快なものではないのだ。
滝彦は、やはり目の前の青年や隣の少女を慰めようともしなかった。彼は声色を変えることもなく礼津に尋ねる。
「瑞樹優花は――?」
彼女は、と。




