じゅうに
33
ひたひたと闇が押し寄せる。足元に、ぬるりとした冷たい感覚が押し寄せては引いていく。
『行きなさい。最初の階層へ。今度こそ運命を覆して――!』
ここに来る前、誰かのそんな祈りのような叫びを耳にした気がした。どこか狭くて息苦しいところに閉じ込められていたはずなのに。エリアスさんは? 他の皆はどうなったのだろうか。無事でいてくれるだろうか。エリアスさん、ごめんなさい――定まらぬ熱に膿んだ頭で七子はぼんやり周囲を見回した。暗い。夜だろうか。今はいつで、ここはどこか。そんな疑問が少女の内側に生じては泡沫のように弾け失せた。灰色に閉ざされた世界で、少女はようやく気付く。
――海だ。
彼女は海岸に立っていた。しん、と針が落下する音さえも耳に痛く聞こえてきそうな静寂の海辺に、音もなく波が打ち寄せる。少女の素足にまとわりついては引いていくものの正体は波だった。
水平線は遠く、何も見渡せない。何もない。あるのはモノクロームに塗り分けられた砂浜と海だけ。
――暗黒の海。
ふとそんな言葉が少女の内側に浮かぶ。
この海にはいつか来た。そんな記憶の欠片が彼女の内部をぞろりとおぞましい舌で舐め上げて行く。遠い昔。それとも最近。生まれた時? この海は何で出来ているのだろう。この海は。まるで熱をもたない、大きな質量を抱えるこの海は。
ここにいつかきっと来た。いいえ、ここから来た。私も。お母さんも。お父さんも。皆。
そんな風に思う自分を奇妙に思うこともなく、少女は水を両手ですくう。このすくっただけの水の中に、たくさんの人の魂が溶けている。たくさんの――かつてあった『記憶』も。
***
雨が降る。
ざあざあと。
雨が降る。
山岡中学校の三階建て校舎に隣接して作られた別棟の木造図書館。
雨は屋根に打ち付け、窓を激しく叩いては雨粒を涙のようにいくつも滑り落として行く。
「篠原さん、皆に相談したんだけれどね」
七子は俯き、プリーツスカートから黒いストッキングに包まれた己の足とローファーを見ている。人の顔を見ることができないからだ。自分に話しかける瑞樹優花の顔を見ることだって出来ない。
「あ、これは皆の意見で、私の意見じゃないんだけれどね」
優花は前置きして、ゆっくり噛んで含めるように七子に告げた。
「修学旅行は、篠原さん、男子達と一緒組の方がいいんじゃないかなあって」
七子は面を跳ねあげるところだった。かろうじて、意思の力でそれを抑え込む。
「一緒の班になるはずだったんだけれど、ごめんね。皆と相談したら、絶対その方がいいって。あ、でも弓ちゃん先生には私たちと一緒の班で報告してたし、篠原さんにも一応意見聞いてからにしようかってことになって」
七子は沈黙した。喉がひり付いて、言葉が出てこない。優花は嫌な間だとでも思ったのか、慌てて付け足す。
「……もし、篠原さんが嫌なら、私から他のみんなにかけあうから! 遠慮なく言ってね!」
七子は俯いたまま、顔面が歪むのを感じた。もう決定してしまっているのに、どうして否やを唱えられようか。七子が嫌だと首を振ったらどうなっていただろう。ぼんやり少女はその先を夢想する。優花は申し訳なさそうに仲間の少女たちに報告するだろう。「ごめんね、篠原さん、嫌だって。本人が了承しないなら、先生に変更報告できないし、仕方ないよ。篠原さんは悪くないよ。悪いのは私なの。私が最初に篠原さん入れてあげよって言ったんだし、今更変更したら、篠原さんも嫌なのあたりまえだよね。皆に迷惑かけてごめんね。私が最初に何にも考えてなかったのが悪いんだ」――すらすらと七子は優花が言うだろう台詞を想像できた。次の少女たちの反応もだ。「優花は悪くないよ! 篠原さんもわがままだよねー」「本当空気読めっていうか、優花の優しさに恩を仇で返すっていうか、信じらんないっ」「もう、皆止めようよ。修学旅行は楽しくしようよ。篠原さんは悪くないよ」「優花がそう言うなら――」
そこまで考えて、七子は妄想で終わらないだろうな、と少し笑ってしまった。すでにシナリオは決まっているのだ。そのシナリオで優花は、『一応篠原さんの意見も聞いて、快く篠原さんは提案を受け入れてくれたよ』と報告する。これは彼女たちの免罪符だ。心のしこりなく、純粋に修学旅行を楽しむための。
そこまで分かっていながら、七子は「……わ、かり、ました」と不明瞭にかすれた声で答えた。
「ホント!?」
顔を見なくてもわかる。優花は、名前のとおり、ぱっと明るく雰囲気を花開くように綻ばせた。
「よかった! 快く了解してくれて! みんなには私の方から報告しておくね! 篠原さんも気まずいでしょ、大丈夫、私に任せて!」
それから優花は七子の両手を取って握った。とってつけたように、まるで心の咎の負担を少しでも軽くするためのように。次々と機関銃のように喋る。
「あ、それからね、この間の話の続き、また見せてね。ええっと、エリアスさん、とってもかっこいいよね。あのあとどうなるのか、教えてね。あ、でも敵もかっこいいかも。魔神の位がタロットの大アルカナとか、やっぱり凄いいいよね。私のアイディア取り入れてくれてありがと! あれ、『乙女のユーリカ』ってゲームからのアイディアなんだよ! あれね、タロットの大アルカナの能力を持ったかっこいキャラたちがいっぱい出てくるんだー。今女子の間ですっごいはやってるんだけど、篠原さんはそういうの興味ないよねー。でね、ゲームに出てくる吸血鬼のレオン様がすっごいかっこよくって、滝彦くんにちょっと似てるの――」
ねえ、聞いてる? と不機嫌そうに優花に聞かれ、七子は曖昧に頷いた。話題がどんどん転がりながら、「修学旅行、楽しみだよね」、と優花は言う。やはり、七子は曖昧に頷くしかなかった。自分のクラスでの立場は理解している。ヒエラルキーの最下層だ。そして、『あの日』、最下層どころか、底を突き抜けた。もう七子は人間ではない。何をしたっていいゴミくずに成り果てた。修学旅行なんて行きたくない。せめて優花たちの傍で空気のようになりたかった。以前は大勢の中の一人が苦痛だった。まだマシだったと今なら言える。しかし、もうそれも許されない。男子生徒の班に入れられる。にやにやと彼らは七子の班入りを認めるだろう。優花の申し出を了承した時点で、自分が地獄の坂を転がり落ちて行く光景がはっきりと見えた。突き落とした少女は、不安におののく七子自身の顔をしていた――
***
すくった海水が七子の指の隙間を全て零れ落ちて行くと、記憶もまた七子をすり抜けて行った。この海は――
「きおくのうみ。かのうせいのうみ。たましいのうみ」
はっと七子の意識が明瞭になる。小さな影が七子の足元で、制服のスカートの裾を懸命に引っ張っていた。
「ぼくのおかあさんがいってたの。ぼく、ここからきたの?」
ぼく、わかんない。と子だぬきが小首をかしげていた。七子は無言でじっと子だぬきを見つめ、ぼろぼろと頬に涙を零した。
「たぬきさん――」
言葉にならずに、小さな体を抱きしめる。そっと。力の限り抱きしめてしまわぬように、全身全霊の力を込めて自分の中の暴風雨を抑え込む。どこに行っていたの。そしてどこから来たの。そして、そして、ありがとう。ひとりぼっちにしないでくれてありがとう。少女は子だぬきにすがりつくようにして、胸の内に抱きしめるのだった。
「ぼく、へんなところにつれていかれたの。ぼく、いっしょけんめい、さがしたのよ?」
ティフの王城で、邂逅した際に連れ去った優花の元から『いっしょけんめい』脱走したらしい子だぬきは、首をかしげながら七子の口元をぺたぺたと触った。柔らかい。温かい、その感触は少女の心の強張りをほどいていく。
「まいごになっちゃ、だめよ」
子だぬきは説教した。
連れて行かれて迷子になったのは子だぬきの方なのだが、彼の中では、いつも迷子になるのは自分の周囲の母親や人間のようだ。
この無力な存在。小さくて、何の力ももたない存在。その子だぬきは、言葉とふれあいだけで、七子の心を救ってしまう。人は、人の心を言葉で壊すこともできる。でも、と少女はもう知っている。人は、誰かは、他の存在を救うことだってできる。無力ではない。無力な存在に貶めてしまうのは、その手を拒絶してしまうからだ。その時、手は行き場を失ってしまう。
(私が、目を開けなければ――)
見えないのだ。聞こえないのだ。
七子は黒と灰色に閉ざされた世界に、面を上げた。一筋の光が、曇天より差している。いいや、最初から差していたのだ。ただ、七子が気づかなかっただけで。最初からあったのに。その光は、ずっと七子を呼んでいたのに。
「ごめんね、まいごになっちゃって。ううん、ありがとう。子だぬきさん、行こう。あのひかりのほうへ、一緒に歩いて行こう」
七子は子だぬきを胸に抱えて歩き出した。海は七子を呼んでいる。しかし少女は振り返らずに、かすかで弱弱しい、無力な光の筋へと歩いて行く。この光をかき消してしまうのも、光を束ねて道とするのも彼女次第なのだ。
言葉にならぬそれを少女は知っていたのだろうか。一人では辿り着けなかった。目を開けることすらできなかった。だけど、ようやく歩き出した彼女は――最初の階層へと、心を折るかもしれない真実を知るために歩き出した。そのことをも知らず。




