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きゅう



30




 レジーナ河の対岸から押し寄せる『それ』を七子は呆然と見上げていた。

 少女は大泣きして、すでにくたくただった。

 ぼんやりした頭で、迫りくる光をただ見つめるばかりだ。


(きれい)


 美しかった。

 オーロラだろうか。

 光の帯であろうか。

 河の向こうから、何かがやってくる。

 油膜に歪めながら、『それ』は空間にたなびく金色の筋となって押し寄せてくる。

 波だ。

 木々をかすめる時、ひときわ金色に発光する。


「あ」


 エリアスが恐れるように七子をかばって背を丸めたが、それでもうおしまいだった。

 フレアが起こった。

 七子は目に焼き付けた。

 魔物も。

 人も。

 全てが時を止めた。

 エリアスすらも、動くことはできない。

 全て静謐なまでの、絶望的な時間停止。

   何かが七子の中に入り込んでくる。

 少女は硬直した。

 聞こえてくる。

 突き刺さる言葉。


 ――篠原さんてつまらない。


 ――篠原さんて人の話聞いてないよね。


 ――篠原さんて


 かつて、現実世界で七子が聞いた言葉。こちらでも、七子を元の七子に戻してしまった言葉。

 四方八方から言葉が七子に襲い掛かる。

 言葉は黄金色の鎖となって少女を貫く。


 ――篠原さん、これ、篠原さんが描いたの? 凄い!


 ――凄い、ねえ、これみてみて


 ――……笑える


 ――篠原、お前さあ。


 ――マジで、うわ。


 ――きもちわる。


(やめて)


 たくさんの言葉が七子を削いで行く。

 少女の青ざめた頬を涙が伝った。

 もう大丈夫だと思っても、そんなの嘘だと七子は痛いほど知っている。


(エリアスさんが、止めてくれたのに、私、どうして駄目なの)


 どうしてはねのけられないのだろう。

 どうして繰り返してしまうのだろう。

 七子は膝折れて、ただただ呼吸を止めた。

 少女の中に、追い出したはずのナディアがいる。

 ナディアは暴れたがっている。

 恐ろしい『言葉』にたった一撫でされただけで、七子の気持ちは折れてしまう。

 だから、嫌なものを全部壊してしまえと無邪気に笑う。

 何も考えたくない。

 辛いことは全部見なかったことにしたい。

 そんな自分がいる。

 ナディアを拒絶して、彼女は悲鳴を上げて出て行ったはずなのに、やっぱりナディアは『ここ』にいる。


(見ないで)

(私を)

(誰も、見ないで)

(恥ずかしい)

(ひとつも、変われないの)

(迷惑かけてばかり)

(いない方がいい)

(こんな自分が嫌い。大嫌い。誰にも迷惑かけたくないのに)

(エリアスさんがせっかく)

(いや)

(見ないで――!)


 上向きになったはずの気持ちが、氷水に浸かったみたいに凍えて行く。

 ぴしぴしと音を立てて七子の心は固まって行く。

 同時に、マグマのような何かが少女の中で荒れ狂う。

 これを押さえつけるだけで、七子は必死に力を注がねばならない。

 底抜けの桶に水を灌ぐように、押さえつけるほどに力が多く失われて行く。

 七子は思う。

 今度は暴れてはいけない。

 七子は、自らナディアになってしまってはいけないのだと、それだけは理解していた。

 誰かに迷惑をかけたくない。


(それくらいなら、私、消えてしまった方がいい)


 再び同じ思考の渦へと帰ってしまう。


(駄目、違う)


 少女はかすかに反論した。

 こんな自分でも、惜しんでくれる人がいる。

 七子がそう思えたのは、彼女がこれまでかかわった人々のおかげだった。少し前の七子なら、自分は消えてしまうべきだと、何度でも同じ結論を出していただろう。

 人は劇的に変わることなどできない。

 しかし、以前の七子と今の七子は、ほんの少しだけ、違ってしまっている。

 よくも悪くも、人は人とかかわることで、変わらざるを得ない。

 七子の中にはナディアがいる。

 でも、と少女は思う。

 ナディアだけじゃない。自分の中に、エリアスがいる。


(エリア……さん……きえ……だめ……じゃあ……)


 膨れ上がる何かを我慢できない。

 ならば、凍り付いてしまった方がいい。

 動けない。

 寒い。

 涙が滑り落ちたその瞬間。


 ――篠原。ちょっと来いよ。


 ねばつくような声が聞こえた。ざあっと全身から血の気の引く音がする。その衝撃に、とっさに少女は目も耳も塞いだ。

 駄目だ、絶対聞いてはいけない。本能的に拒否する。

 七子は自分が壊れてしまわぬよう身を縮めた。


 そうしてもっとも新しき魔神の少女は力を失った。

 活動を停止したのだ。

 七子が時を止めると同時に、周囲の時間が動き出した。

 兵士達は、魔神を捕える好機とばかりに殺到する。

 皮肉なことに、これを阻止するべく立ち回るはずであったエリアスは、暴走した七子自身によって既に満身創痍の姿だ。

 また主である彼女が活動を停止したことで大きく力を削がれている。

 時は動き出す。

 大きな黒波となって魔物が動き出し、帝国からの援軍が押し寄せる。

 エリアスは剣で打ち払った。

 この黒い騎士は驚いただろう。

 ほとんど人も同然の力しかない。

 いいや、もっと悪い。

 彼は大怪我を負っていた。

 かつで七子と出会った魔の森と状態は酷似している。

 立ち止まれば、足元に血だまりができた。

 ずるりと柄を持つ手が剣を滑り落としそうになる。

 血が流れていく。

 ふるう。

 足元に崩れた少女をその身でかばう。

 剣が重い。

 手が伸びてくる。

 少女を捕えようとしている。

 剣をふるう。

 身体に鉛をぶら下げられているようだ。

 重い。

 目の前が赤い。

 エリアスは歯を食いしばる。砕けよとばかりに奥歯をすり潰す。

 守るべき少女に無数の誰かがむらがる。

 切り捨てる。

 目の前がかすむ。  切っても切っても限りがない。

 重い。

 全身が、重い。

 もはや、彼は限界だ。

 七子の姿すら人々に覆い隠され、エリアスは追いつけない。

 何故なら彼はすでにもう立つことができない。

 彼の視界はどんどん狭まっていく。

 どうして。

 そう。

 地べたに這いつくばっている。

 動けない。

 起き上がれない。

 剣を突き刺し、立ち上がろうとするのに。

 歯を食いしばって、目の前の敵を一人でも切り捨てようとするのに。

 指一本。

 指一本すら動かせないのだ。

 この騎士をかつての既視感と絶望が襲った。


 エリアスは咆哮した。


 何もかも繰り返す。

 己の無力の果ての結末を。








 


 





 空は恐ろしいまでに美しかった。












 こうして、七子は彼女を封じたゲテナ統一帝国の捕虜となる。

 ティフ神聖国新王エドワードは精霊網を構築したことで国家防衛を果たしたが、一時人事不省となり、これをよく支えたマリア王妃も、帝国側への魔神引き渡し要求を強行するまでにはいたらなかった。

 国も人も混乱していた。

 何もかもが、逆らえない本流に押し流されていく。

 多くが失われ、あるいは得て、このレジーナ河畔域防衛線は終幕を迎えるのである。




 舞台は、西へ。

 大陸中原に広がるゲテナ統一帝国へと移ろうこととなる。



 

 大迷宮最下層。額縁が空中に無数浮かぶ異様な広間に、決して多くはない魔神達が集っていた。

 レジーナ河畔における様子を『額縁』の向こうの相手とチェスを指しながら興味深く見守っていた狡猾な魔神ジャムジャムアンフもまたその一人だ。  彼は少々事態の進行に驚いていた。無意識に彼は口元に手を当てる。


「――未来が少しずれているのか?」


 これに応じたのはカードから上半身のみ突き出したハートの女王だ。


「ええ。もっとも確率の高い未来を逸れているわ」


 ハートの女王は、その錫杖を空の額縁に向ける。額縁の中の『何もない空間』は波紋を起こした。


「全事象からランダムに篠原七子を観測した場合、もっとも起こりやすい確率と起こりにくい確率はあたかも『波』のような形をとるけれど……」

「もっとも起こりやすい結果は強め合い、重なり合うに従い、強い跡を残す。僕たちは盲目の漂浪者だ。見えないものは見えない。しかし、見えるはずのない『異なる未来』が見えているのだとしたら……」

「予断は厳禁よ。あなたはリスクヘッジに努めるべきねえ」

「おやおや、君に諌められるとはね。確かに『虚舟うつろぶね』の準備は最低限にして最も優先順位が高い。それだけは心得ているよ」

「『虚舟』とは言い得て妙ねえ。『うつろ舟』、『うつぼ舟』あるいは『空舟うつろふね』」


 ハートの女王は額縁に錫杖を差し向け、戯れに『虚舟』の模型を映し出す。

 ふてくされて床を転がっていたナディアが「ねえ」と顔を上げる。


「うつろ舟のお話してよ」


 少々子供かえりを起こしてしまったようだな、とジャムジャムアンフは苦笑し、「では僭越ながら」とそらんじた。


「常陸の国、はらやどり浜というところに「うつろ舟」が漂着した。

 奇妙な舟は香合おこういれのような丸い形をしており、上の方は透き通った硝子張りだった。

 舟内には見たことのない文字が書かれており、ひとりの異様な風体の女が乗っている。

 「どこから来たのか?」と尋ねても言葉が通じず、女は微笑するばかり。

 この女は手に箱のようなものを大事に抱えており、決してそれを離そうとしなかった。

 困った村人はついに女を舟に戻して海に再び返してしまったという」


 今は昔、誰も知らない物語。













「は? このはまぐりUFOみたいなん、『兎園小説』の『うつろ舟』じゃね?」


 遠くも近く、この台詞を口にすることとなる木島礼津へ、すでに波紋をなげかけながら。




 波紋は幾つも起こり、互いに干渉しあう。

 何の意味もない小さな出来事が重なり合い、打ち消し合い、やがていくつも。

 いくつもいくつも。

 大きく。




 大きく。





 『南総里見八犬伝』という小説がある。

 この筆者曲亭馬琴きょくていばきんが呼び掛けて集まった『兎園会とえんかい』で披露された奇談の一つを『虚舟』という――




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