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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜の音、風の歌

作者: 雷星

  紅い月は、まるで燃えるように夜空に君臨していた。

 空を飾る星々の煌めきはあまりに微弱で、月の圧倒的な存在の前には霞むしかなかった。流れる雲さえも、輝く月を避けているかのようだった。

 月明かりは、闇を浅く薄くしていく。

 荒れるに任された旧街道の雑草だらけの道も、月影に照らされ、闇に浮かび上がっていた。

 かつて大陸の広範を治めた王朝が、大陸全土を繋ぐために整備した街道も、王朝の滅亡以降整備されることもなく放置され、荒れ放題に荒れていた。もはや栄華の名残さえ見出だせない。

 敷き詰められた石は原型を留めているものも稀で、石の間から飛び出た雑草たちは、膝の高さにまで伸びていた。それでも街道と呼べなくはない程度には原型を留めている。

 王朝を滅ぼした森も、大陸全土を破壊し尽くしたりはしなかったのだ。

 だからこそ、生物は生き延びた。生態系は狂わされ、滅びに曝されはしたものの、生き延びることはできたのだ。

 彼女もまた、破滅的な森の現出から滅びを免れた種に属していた。

 赤い月影を一身に浴びながら、体に流れる忌まわしき血を思う。紅い血。人間の血と似て非なる血。醜悪な宿業そのものだ。

 夜の一族と呼ばれる。

 夜を生き、闇に潜む、呪われた血族。血塗られたさだめを背負い、血で血を洗う闘争に生涯を捧げる狂気の一族。その狂気こそが正気であると信じ、正義だと信仰してさえいる。

 彼女も、そうだった。

 身命を削り、死線を掻い潜ることに生き甲斐を見出だしていた。闘争こそがすべてであり、敵の肉体を引き裂く瞬間に喜びを見ていた。

 強者こそが正義であり、弱者は塵芥に他ならない。

 一族のあり方になんの疑問も抱かなかった。

 それがすべてだったのだ。

  それは彼女の青さの証明だったのかどうか。

  イヅナは、 足を止めた。全身に緊張が走る。風に血の臭いが混じっていた。人間の嗅覚ならば捉えられないほど微量な、いや、彼女と同族であったとしてもそれを感知できるのはごく少数に違いなかった。そして、その血が誰のものなのか理解できるのは自分をおいて他にはいないだろうという自負が、彼女にはあった。

  息を吐いて緊張を解く。緊張していることが露見すれば、相手に警戒される。気づかぬふりをしなければならない。それでいて周囲への警戒も怠るわけにはいかなかった。相手がひとりだとは限らない。いやむしろ、複数いると想定しておくべきだろう。今までがそうだったのだ。

  追手は、彼女の存在をこの地上から消すために派遣されている。あの血族は裏切りを許さない。里を抜け出すことなどあってはならないと考えている。その古錆びた考えが里を滅ぼしかねないものだとは思ってもいないのだ。

  不意に、大気が鳴いた。なにかで鋭く引き裂かれるような音。聴覚がその音をとらえたときにはイヅナの体は前方に倒れるように転がっていた。次撃が空を切るのが音でわかる。雑草の中に転がったイヅナは、気配もなく表れた敵が、もはや隠れようもなくそこに立っていることに気付いた。間違いなく里の追手だ。技量だけでそれと知れる。追手はふたり。こちらが立ち直る隙を与えまいと殺到してきた。声もなく、音さえ立てない。ただ研ぎ澄まされた殺気だけが、暴力的な奔流となって迫ってくるようだった。

 イヅナは、前方に転がりながら体勢を整えようとした。次々と襲い掛かってくる追手の攻撃をやり過ごしながら、折を見て片手を地に叩き付ける。反動で飛び上がり、見事空を切った追手の手元に踵を叩き込んだ。敵が武器を落としたのと同時に着地し、透かさずもう一方に対処する。伸びてきたのは槍。切っ先が月光にきらめいた。

 彼女は、槍の軌道を読むと、迷わず突っ込んだ。追手の槍は、イヅナの右肩を浅く切り裂く。鋭い痛みが走るが、彼女の意識は微塵も揺るがなかった。自分の体を押し込むように敵へと迫り、互いの息が触れるほどの距離まで接近する。

  そこでようやく、追手の顔を見るだけの余裕が生まれた。男だ。顔を隠してもいないのは、その必要もないからだろう。里抜けは重罪であり、追討は正義――こちらの急接近にさえ顔色ひとつ変えない男の目には、揺るぎない意志があった。

 だからこそ、加減はできない。

 イヅナは、固く握りしめた右の拳を男の腹に埋めるように打ち込むと、即座に足を払い、転倒する男から槍を奪い取って旋回させた。苦悶の声を上げる男の双眸が月光に輝いたように見えた瞬間、彼女の一閃は、男の首を胴体から切り離していた。血が噴水のように迸るが、見惚れている暇はない。

 そして、痛撃が来る。呼吸が苦しくなるほどの激痛が、背中から胸にかけて走る。最初にやり過ごした追手によるものだろう。追手に遣わされるほどのものだ。相当な手練れに違いなかった。

 見下ろす。血塗れた刃が、胸から伸びていた。貫かれたらしい。熱を帯びた痛みは、イヅナの意識さえ掻き乱そうとする。致命傷だ。深々と突き刺さった刃を抜いたところで、出血が酷くなるだけだ。逃れようがない。

  しかし、彼女は、追手を振り向き凄絶に笑った。

「ありがとう。これを待っていたのよ」

 月明かりの下、追手の顔は明らかになっていた。こちらも男だった。男の冷徹な顔には、動揺など見られなかった。ただひたすらに凍てついたまなざしを注いできていた。赤い目。燃え盛る炎のような、どす黒い血のような瞳が、赤い月の下で輝いている。

「死に場所を待ち望んでいたか。哀れな」

 男の声には幾許かの侮蔑が混じっていた。考えてみれば、それが男がイヅナに見せた感情らしい感情だったのかもしれない。

  イヅナはふっと笑うと、みずから前方へと倒れこんだ。追手の死体の上に覆いかぶさるように倒れながら、男が刀身を抜くのを待った。そしてその瞬間、彼女は全身全霊を注いだ。すぐに痛みは感じなくなったが、同時に意識を失いそうになる。視界が暗転した。断末魔が耳朶に突き刺さった気がするが、勘違いかもしれない。何分、イヅナには生きている感覚がなくなっていた。

 まるで肉体から意識が遊離したような感覚がある。霊魂という存在があるのなら、まさしくそれだけになってしまったような、とでもいえばいいのだろうか。だが、彼女は死んだわけではない。死ぬはずがなかった。

 傷口は塞いだのだ。大量に出血してしまってはいたが、死ぬほどではない。貧血で意識を保っていられるかどうか怪しい状態ではあったが、死ぬほどではない。止めを刺そうにも、その当の本人が死んでしまってはどうしようもない。

  追手の男は、死んだ。これは間違いない。

  真っ暗になった視界では、周囲の様子などわかるはずもない。が、イヅナはみずからの技術の粋を結集した最終手段が、あの男を返り討ちにしたことを確信していた。確認するまでもなかった。あの状況では、避けることはできなかったはずだ。

「ふん……首を刎ねろといったはずだがな。愚かな」

 女の声が聞こえたのは、その声があまりにも大きかったからではない。きっと、その声は聞かなければならなかったからだ。瀕死の意識は、それを捕捉するために復活する。

  視野が広がった。一瞬目を閉じてしまうほどの光を感じだ。目が、光を求めている。それを認識するために、視覚がその能力を最大限に発揮しようとしている。赤い月の光でさえ、網膜に焼き付くほどに感じる。夜の闇が闇でなくなるくらいに。

  それは、いた。

  彼女の視線の先、大きな岩の上に悠然と立っていた。長い長い黒髪が、紅い月に照らされて燃えているようだった。いや、燃えているのは、その両目だ。血族の特徴たる真紅の目が、街道沿いの草原に注がれている。冷酷な瞳。追手の男よりもよほど酷薄で、非常なまなざし。その瞳に映るものすべてが惰弱に見えるに違いない。

  長身痩躯。しかし、その華奢な肉体は、筋肉そのものであり、鍛え上げた肉体を持つ大男でさえ、彼女には敵わない。そして、その筋肉は柔軟性に富み、変幻自在でもあった。これだけ遠目に見ても、非の打ちようがなかった。一見隙だらけにしか見えないようでいて、どこにも隙がないのだ。このままでは一方的に殺されるだろう。

  もっとも、イヅナは素手に手を打っている。その手が通用するかどうかはわからない。しかし、この技はイヅナが独自に編み出したものであり、あの女にも披露したことはなかった。自分でもなぜかはわからない。きっと、こういうときのために隠していたのだろう。

  イヅナは、女がだらりと垂らした両手に注目した。十本の指の先からなにか糸状のものが垂れ下がっていた。月光を浴びて、紅くきらめく。

  血だ。

「生きているのだろう、イヅナ。辛うじて、といった様子だがな」

 女の高圧的な態度には、慣れきっていた。いや、それは当然なのだ。彼女は、イヅナにすべてを教えた、いわば師であるのだから。

  沈黙があった。イヅナは答えない。黙して、相手の反応をうかがうだけだ。うかがうのは好機。付け入る隙。

「反論する余力もない、か。だが、それは貴様が油断した結果だ。己の不甲斐無さを恥じて、死ね」

  女が、両手を振り上げた。十指から伸びた血の糸が、彼女の思う通りに躍動して虚空に踊る。街道周辺に張り巡らされていたのであろう無数の糸が、真紅の暴風の如く荒れ狂い、草花を薙ぎ払いながら一点へと収束する。その一点とは、追手の男を血の刀で返り討ちにしたまま立ち尽くすイヅナである。力尽き、身動きひとつ取れない女へと真紅の奔流が殺到する様を、イヅナは、師の後方に回り込みながら見ていた。

 十本どころではない数の血の糸が、女の全周囲から殺到し、突き刺さった。つぎの瞬間、イヅナは師の背後から、みずからに似せた擬態が、バラバラに崩れていくのを見届けていた。

「これは……」

「擬態です。あなたを欺くための」

 間髪入れず背後から告げられた言葉に、さすがの女も驚いたようではあったが。

「そうか……さすがはイヅナだ。わたしが全身全霊で作り上げただけのことはある」

 口調には威厳があり、動揺ひとつ覗かせていなかった。きっと相も変らぬ鉄面皮で、冷や汗ひとつ流していないのだろう。彼女の首元に手刀を突き付けたイヅナのほうが、わずかに気後れを感じるほどの佇まいだった。眩暈がする。血を使い過ぎた。そうしなければ女を欺くほどの擬態は作れなかっただろうが。

(まだ、持って!)

 胸中で自身を叱咤しながらも、彼女の口をついて出たのは冷ややかな言葉だった。

「ええ、おかげさまで血族の呪縛から解き放たれることができそうです。師匠」

「まだ師匠と呼ぶか」

「里を抜けても、あなたを尊敬してやまないのは変わりません。あなたのおかげで、わたしはわたしであることができるのだから」

「ふん……」

 イヅナの言い分が気に入らなかったのだろう。女は鼻を鳴らすと、視線を擬態へと向けたようだった。擬態はもはや跡形もなくなってはいたが、イヅナが擬態を構築するために費やした血が、師の血とともに草原に散乱していた。

 紅い月明かりの下、どす黒い鮮血で染め上げられた草原が広がっている。

「なぜ、わかった?」

 師が問いかけてきたのは、イヅナにしてみれば意外だった。イヅナの中では、師匠とは、問いを与えるだけの存在だったからだ。疑問を口にしたことなど、ついぞ聞いたことなかった。 端的な問いではあったが。

「血の臭いを嗅ぎました」

 イヅナは、朦朧とする意識の中で熱に浮かされたように答えていた。

「わたしの血はおまえの血も同じ。嗅ぎ逃すはずもない……か」

 師は、自嘲するでもなくつぶやいた。大気中にごくわずかに含まれていた血の臭い。それは、イヅナにとって嗅ぎ慣れた血の臭いだった。イヅナを育て上げ、作り上げた師の血の臭い。血を失うたびに吸っていた血の臭いなのだ。忘れるはずがない。逃すはずがない。そして、血の臭いを消すような方法などありはしない。

 旧街道沿いに張り巡らされた罠の存在を察知したイヅナは、師を出し抜く唯一の方法に賭け、そしてその賭けに勝ったのだ。

「だが、ここからどうする? いまのおまえでは、わたしに手傷を負わせることさえできまい」

 師の言う通りだった。師の目を欺くには完璧な擬態を作る必要があったのだ。そのために大量の血液を消費せざるを得なかった。結果、師を出し抜き、背後を取ることには成功した。

  だが、それだけだ。

  血を使い尽くした彼女には、師を殺すだけの武器さえ構築できなかった。いや、仮にそれだけの血を残していたとしても、返り討ちに遭うのが目に見えている。

  イヅナの師は、血族の中でも最高峰の戦闘技能者だ。誰もが彼女に師事を仰ぎたがるほどの存在であり、彼女の弟子であるということは、それだけで皆の羨望を集めた。それほどの人物なのだ。

  イヅナができたのは、その神の如き戦闘者の目を欺くということだけだ。それ以上はできない。

  追いつかれれば殺される。わかりきったことだ。

  里の理たる師が、イヅナの里抜けを許すはずがなかった。

  それでも己の技術が師に通じるかどうか試したくなったのは、宿業というよりほかなかったのかもしれない。

 イヅナは、ため息でもつくように言葉を吐いた。

「そうですね」

 首筋に突き付けていた手を下ろす。腕を掲げるのももはや限界に来ていた。。

「おまえはやはり、夜の一族以外の何者にもなれない」

「いま、ようやくわかりました」

 否定はしない。血族としての宿業が、師への挑戦を促した。結果、得られたのは一時の満足感に他ならない。勝利などあり得ない戦いに挑んで、手傷ひとつ負わせることもできないまま敗北しようとしている。だが、そこに暗い後悔はない。むしろ、充足感に満ち溢れていた。告げる。

「やはりわたしはあなたの弟子で、あなたを超えたかったのだと」

「わたしを超えるというのなら、もうしばらく弟子でいればよかったのだ。おまえが作り出した血の擬態、わたしにも見抜けないほど精巧なものだったぞ」

 師の言葉の柔らかさに、イヅナは驚きを隠せなかった。

「ふふ。その言葉が聞けただけで十分です」

「そうか」

 師は、それ以上なにもいわなかった。

  イヅナも微笑を浮かべたまま、時が来るのを待った。

 天には闇が満ち、紅い月が輝いている。夜を名乗る血に彩られた一族が死を迎える舞台としては、これ以上ないといってもいいのかもしれない。ふと、そんなことを想った。

  師とふたり見渡す風景は、凄惨な戦場以外のなにものでもない。追手ふたりの死体が転がり、膨大な量の血がばらまかれている。切り散らされた雑草さえも赤く染まっていた。

  気づくと、師が、こちらを見ていた。血族の証明たる真紅の瞳が、こちらを見据えている。いつも冷ややかで、無感情そのものといっても過言ではないまなざしに変化があった。しかし、それも一瞬で消える。いつも通りの鉄面皮に戻る。

  だが、それだけで、イヅナには十分すぎた。

 師が、しなやかに右手を掲げた。五本の指先から血液が迸る。血は瞬く間に縒り合され、鉄をも切り裂く糸となる。イヅナの細い首など、一瞬で切り離すだろう。

「さて、そこまでにしようか、おふたりさん」

 軽妙な声が聞こえた瞬間、イヅナの視界を赤い花びらが埋め尽くした。血の臭いが鼻腔を満たす。貧血の症状が和らぎ、朦朧としていた意識が少しだけ鮮明になる。血が補われたわけではない。錯覚だろう。

 視界を彩るのは血の花びらだ。血の臭いを撒き散らしながら舞い踊る深紅の花弁は、幻想的ですらある。

「ホオリか。邪魔をするな」

 乱れる花びらの向こうで、師が目を細めた。

「ホオリ……」

 知った名だ。夜の一族の中でも氏族と呼ばれ尊崇される出自にありながら、血族の掟に縛られることを嫌い、出奔した男。自由を謳い、追手さえも手玉に取って里に還してしまうような人物だ。規格外といってよかった。

 ホオリにだけは感化されるな、とは、師が口を酸っぱくするくらいいってきたことだ。

「なにもなければ、ぼくだって邪魔なんてしないさ。君の恨みは買いたくないからね」

 深刻な風でいて冗談めかしくいってくるのがホオリの手口だ、とも。

 血の花弁がふたりの間に割って入るように収束する。イヅナは仕方なく後ろに飛ぶと、師も舌打ちしながら飛び退いていた。

「里の掟を破るも、掟に従うも君らの自由だ。ぼくにとやかくいう資格はない」

 視界を覆い尽くすほどの花びらが竜巻のように螺旋を描き、やがて人の形に収斂していく。そして、男が出現した。黒髪に赤い両目を持つ、夜の一族の男。ホオリ。

 その目は、皮肉げに笑っている。

「イヅナ、いまのはただの幻術だ。おまえの擬態のほうが遥かに優れている」

「はあ……」

 なぜか競争心を剥き出しにしたような師の言い分に、イヅナは生返事を浮かべた。確かに師の言う通りなのだろう。肉体を無数の花びらに変化し、再び元の形に戻るなど、いくら氏族の出であろうとできることではない。

 夜の一族にできるのは、血液を変化させることだ。己の血液を操り、武器とする。イヅナは血を凝固させて刀とし、師は血を束ねて糸とするように。質量を欺瞞する秘儀によって血の量は増大化するものの、無制限ではない。

  そしてそれらは夜の一族の呪われた宿業が生み出した技術であり、それこそ忌むべき能力に違いなかった。

  血を消耗するが故に血を吸わねばならない。

  吸血鬼と呼ばれる所以だ。

「ただの、とは酷いな。あれだけの花びらを作るのにどれだけ血を消耗しなきゃいけないのかわかってる?」

「いまなら殺せるか」

「どうしてそう好戦的なのかな」

「まあいい。で、本題はなんだ? わたしを止めるだけの理由なんだろう?」

「里が滅んだ」

 ホオリが至極あっさりといい放ってきたのは、とんでもないことだった。イヅナは自分の耳を疑ったし、師は怪訝な顔をしていた。

「なにをいっている?」

「密やかに栄華を誇った夜の一族の里は、一夜にしてこの地上から消え去りましたとさ」

 彼は、面白くもなさそうに告げてくる。

「これで君らを縛る掟は意味を為さなくなった。里が失われたんだ。ほとんどすべての血族が死んでしまったんだ。生き残ったのは里にいなかったぼくと、君らふたり。ほかにもいるかもしれないが……絶望的だね」

「馬鹿な!」

「君の反応、予想通りだ」

「我らの里が滅びただと……! そんな馬鹿げた話、信じられるわけがない!」

 師が、声をあらげるのも無理はなかった。一族の里が一夜にして滅びたなどと、あり得ない話だ。

 師に匹敵する守護者たちによって護られた里だ。外敵に対する備えは万全といっても過言ではない。なにより、老若男女すべてが戦力になり得るのだ。血の使い方の巧拙に差はあれど、だれもが凶悪な戦士に変貌するのが血族の恐ろしさだ。

「別に攻め滅ぼされたわけじゃない」

 ホオリの声音は、いつになく冷ややかだった。

「森が滅びたんだ。森に抱かれた里は、滅びを共にするしかない」

「そんな……」

 イヅナは、絶句した。

 森を抜け出して数日。その間に滅びたというのか。そんな兆候はなかった。大いなる森の偉大なる支配は、永遠に続くものだと、里の長老たちが考えるように彼女も思っていた。信仰に近い。

 一族の里は、森に依存していた。共存と呼べるようなものだったのかさえ怪しいほどに、森の愛(と長老たちはいっていた)に寄りかかっていた。太陽に呪われ、夜に紛れるしかなかった血族にとって、森の闇は、心安らぐ地に他ならなかったのだ。

 森の闇があればこそ、夜の一族はささやかな繁栄を謳うことができた。

 その森が滅びれば、一族もまた滅びざるを得ない。

 とはいえ、その滅びは緩やかなものであるはずだ。一夜にして滅び去るなど、あり得るのだろうか。

「馬鹿げたことを」

「信じられないなら見に行けばいい。生き残りに会えるかもしれない。が、期待はできないね」

 ホオリは、ただ事実を述べているだけのようだった。声音にいつもの軽薄さがない。だからだろう。師は、口を挟むのを止めたようだった。

「だから君らを止めた。掟によって支配された里も、掟を強制するものもいなくなった以上、君らの行為は無駄になったのだからね」

 それに、と、彼は空の彼方に目線をやっていた。冗談めかしく続けてくる。

「君らのうちひとりでも死なれると、夜の一族の血が絶えかねない」

 イヅナは、深く静かに息を吐いた。こんな呪われた血など、絶えてしまえばいい。そう思ったが、口をついて出たのは別のことだった。

「師匠、どうするんです?」

「わたしは嫌だぞ」

 ホオリから顔を背けてそんなことをいってきた師は、すっかり毒気を抜かれてしまったかのようだった。

「なにがです?」

「子をなすにせよなんにせよ、こんな奴は嫌だ」

「はあ?」

 イヅナは、自分でも間の抜けた顔になっている自分を自覚したものの、だからといって冷静さを取り繕うことはできなかった。場の空気が一変してしまっていた。なぜかはわからない。が、死を覚悟したあの瞬間からは程遠い空気になってしまっていた。もはやあの状況には戻るまい。

  立ち込める血の臭いだけが、場の異常さを物語っている。

「ははっ、ぼくも嫌だよ。セツラ、君と結ばれるだなんて」

 ホオリは、師の名を口にすると、わざとらしく体を揺らした・

「考えただけで寒気がする」

「貴様にだけは言われたくない」

 師が一瞥を投げたときにはホオリの姿は消えていた。まるで幻術にでもかかったかのように跡形もなく。現れたときと同じく血の花弁が舞い散るような演出はなかったが。血が足りなかったのだろう。

 しばらくして、師が口を開いた。

「里が滅びた……か。そんなこと、考えたこともなかったな」

 彼女は心底困った様子だった。実際、考えたこともないのだろう。セツラにとっての里はこの天地そのものだったに違いないのだ。

  イヅナにとっての師のように。

「……これからどうするんです?」

「里に戻るさ。ホオリは嘘を言うような男ではないが、己の目で見ないことには信じられないからな。それに、生存者がいる可能性も捨てきれない」

 師は、こちらを見ていた。いつも通りの厳しいまなざし。冷ややかで、すべてを突き放すようでいて、心の中までも見透かしているかのような、そんな視線。その目に見つめられているだけで恐ろしさに震えたものだが、いまはどうだろう。

  むしろ安堵を覚えている自分に気付き、彼女は茫然とした。

「おまえは好きにするがいい。掟は里のものだ。里が失われたのなら、おまえを縛るものはなにひとつないのだからな」

「師匠……」

 イヅナがなにかをいおうと口を開いた時には、セツラは彼女に背を向けていた。長い黒髪が風に舞い上げられ、白いうなじが見えた。濃密な血の臭いが空に昇る。さきの戦闘で命を落とした同族の霊を天に運ぶかのように。

  朝が来れば、ふたりの亡骸は日に曝されるだろう。焼かれ、浄化されるのだ。

(浄化……か)

 皮肉なものだと思わざるを得ない。太陽に嫌われ、呪われた種族の最期は、日の光に焼かれることによる浄化こそ望ましいというのだから。

  風に煽られてざわめく草原の中で、イヅナは、口にするべき言葉も見つからないまま時が過ぎていくのを感じた。セツラとはここで別れたら最後、二度とは会えまい。彼女は里の復興こそ悲願とするだろう。それはイヅナの望むものではないのだ。

  彼女は、師に背を向けた。進むべき道などわかるはずもない。だが、もはや縛鎖は断ち切られた。この手足を縛るものはなにもないのだ。どこへだっていける。なんだってできる。

  イヅナは、紅い月の下で、ようやく産声を上げたのだ。

                                              了。

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