第八章 旅の最終日
一、竹舟での川下り
1
翌日も朝から良く晴れていた。
旅の四日目、今日の夜便で上海に戻るスケジュールである。
観光バスはその日の観光地を目指して、快調に飛ばしていた。
やがて脇道に逸れると、道路は舗装されて俺ぁず、山の中の曲がりくねったデコボコ道を臆することなく飛ばして行く。
対向車と擦れ違うたびに乗客から嬌声があがった。
しかし、運転手はスピードを緩めることなく、まるで乗客の嬌声を楽しむが如く、飛ばしに飛ばす。
その恐怖心を紛らすように、峪口が施川に語りかけた。
「しかし、ほんとうに木が少ない所だね。やっぱり、カルスト台地の所為なのかなあ?」
「学生のころ、峪口と阿久津とわしの三人で行った山口県の秋吉台と一緒か。石灰質だから木が生えないンだろうな」
「規模はだいぶ違うけどね。この地域は、数百万年前は海の底だったンだって」
「嘘だんべぇ」
「はははは……。嘘じゃないよ。このパンフレットに書いてある」
「そうか、そんじゃふんとだんべぇ。ふんで、あんな奇岩群ができたんだべぇ。石灰岩はやっけぇ(柔らかい)から、雨や風でボロボロ崩れるんだぁ」
「今でも隆起し続けているそうだよ」
「へーえ……。地球は生きている、か」
「うんだぁ。オメェにしちゃ、いいことゆうなぁ」
「それはそれは、お褒めに与りまして」
「そう、俺たちも生きている。しかし、どの山を見てもハゲ山ばっかりだなあ」
「ハゲ……、その言葉だけは止めてくんない。胸にグサッとくるからよ」
「えっ? あーっ、はっはは……。いやいや、めんごめんご」
「オメェ、かんげぇ過ぎだんべぇ」
施川は薄くなった頭を撫ぜながら、
「わしんとこの親父が……」
「うん、親父さんが……?」
「オマエさんの頭が悪いのは母親似だが、髪が薄くなったことに関しては、俺にも幾分の責任がある。もしカツラを買うなら、半分出してやる、って」
「へっへへへ……。 オメェんち(家)の親父さん、おもしれぇことゆうなぁ」
「笑い事じゃねえよお。……まったく」
と言ってから、もう一度頭をツルッと撫ぜあげた。
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ホテルを出発して小一時間が経過、どうやら目的地に着いたようだ。
そこは大きく開けた河原で、太い孟宗竹を五、六本束ねただけの船がたくさん係留されていた。
添乗員の“準備のできた方から二人一組で乗ってください”、という掛け声にしたがい、救命具を身につけた峪口と施川は、一番に竹舟に乗り込んだ。
「あッ! 駄目だよぉ~。お~い、俺ぁ独りじゃヤだぁよぉ。施川ぁ~、オメェ、代わってくんどぉー!」
邑中が情けない声をあげた。
「わかった、わかった。邑中、俺と代わろう。ほら、こっちへ来いよ。ほら、危ねえぞ。川へ落っこちるなよ」
「うへぇーッ! おっかねぇーッ!」
と悲鳴をあげながら施川にかじりついた。
「あっ、こら、かじりつくなッ!」
竹船は五、六メートルの長さで、先端から一メートルほどのところに火で焼きを入れ、反り返らしてある。水面を滑りやすくするためだろう。
真ん中に椅子が二つ、正面を向けて備え付けられていた。
観光客はそこへ座る。
邑中と施川を乗せた竹舟は、船頭によってズルズルと押し出され、舳先からザブーンと水しぶきをあげて川に飛び込んだ。
「うヘぇーッ! 濡れちゃった、濡れちゃった」
と、二人は愉しげに歓声をあげた。
続いて、峪口と楊燕を乗せた竹舟が川に飛び込んだ。と、それに気づいた施川が、
「あッ! 見ろ見ろ邑中……。ずるいぞぉー、峪口ぃーッ!」
邑中の肩を突っつきながら大声をあげた。
「あれぇ~……、しっぺえ(失敗)だぁ。ふんとは俺ぁが、……ああ、しっぺぇだぁ」
と嘆きの声をあげている。
「はっははは……。バイ、バァ~イ」
峪口はニヤニヤにしながら、小さく手を振った。
船頭は五十代と見受けられるが、体脂肪率がゼロではと思わせる、引き締まった筋肉質の身体を誇らしげに曝け出している。
贅肉でだぶつき、太りすぎや高血圧を気にしている我身と比較して、峪口は船頭の身体が眩しく感じられた。
他の船頭たちを見廻しても腹の突き出た者などは一人も俺ぁず、実に精悍な身体つきをしている。
峪口は生身の男として、敗北感を味合わされた気がした。
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峪口の乗った船の船頭は、他の船を気にすることもなく、竹竿を巧みに操り、川の流れに乗ってグングンと進んで行く。
いつしか施川と邑中の竹舟も追い越していた。
と、後ろから、
「船頭ッ! 抜けッ! 負けンなッ!」
「うんだぁ! ほれ、負けんな!」
と叫ぶ施川と邑中の声が聞こえたが、船頭に通じるはずもない。
施川が身振り手振りで意思を伝えようとしているが、船頭は困ったとばかりただニヤつくだけだった。
「はっははは……。あのバァ~カ」
峪口は隣の楊燕に話しかけた。
しかし、警戒しているのかあまり会話にノッてこない。
仕方がないので、峪口は船頭に話しかけた。
「船頭さん、一日に何回ぐらいやるの?」
「そうさなぁ……、今は国慶節の連休だから忙しくて、最低三回はやるなぁ。でもよぉ、普段は一回がええとこだぁな」
訛りのきつい標準語で答えが返ってきた。
「ところで、俺たち八十八元(約千三百二十円)取られたけど、船頭さんはいくらもらえるの?」
と峪口が訊ねると、
「回数は関係ねぇだよ。月に七百元(約一万五百円)と決まってるだぁ」
「そうか、じゃあ、暇な方がいいわけだ」
「まあ、そうだけんどよぉ、あんまり暇だとと、これんなっちゃうベよぉ」
と、船頭は手で首を切る仕草をして、くくくくっ…と笑った。
「この辺りじゃぁ、他に仕事もねぇしなぁ。俺ぁは三男坊だから、土地もねぇしよぉ」
とも、のんびりとした口調で付け加えた。
彼らは少数民族、漢民族のような一人っ子政策は適用されないのだ。
「船頭さん、今は下りだからいいけど、戻る時はどうするの?」
「ああ、トラック使う奴らもいるけんど、銭かかるべぇ。俺ぁ、この竹竿で遡るだよ」
「え、ええーッ! ほんとうですか、船頭さん?」
突然、楊燕が驚きの声をあげ、二人の会話に割り込んできた。
「くだ、あ、ごめん。下りで一時間だろう。上りじゃ、いったいどれだけ時間がかかるンだろう?」
峪口は楊燕の言葉を遮ることになった侘びを言って、自問するごとく船頭に尋ねた。
「あ、いえ、どうぞ……」
楊燕が顔を赤らめた。少し打ち解けてきてのが表情から察せられた。
「俺ぁなら、二時間で十分だぁ」
施川が“峪口ぃー! バカヤローッ!”と叫んで、峪口たちの船を追い越して行った。
「えッ!」
と驚く楊燕に、
「いいのいいの。無視、無視してください」
と峪口は笑いかけた。
4
「筋肉質になるはずですねえ。ヤンさん……」
「そうですわねえ。大変な重労働ですもの。安い給料で、これも中国社会の歪みです。政府の政策に問題があります」
楊燕は厳しい表情できっぱりと言い放った。その批判な口調に、峪口は驚きを隠せなかった。
峪口の会社の従業員も平気で共産党の悪口を言うことがある。
しかし、友人で中国駐在歴の長い或る会社の総経理から、
『峪口さん。うっかり悪口にノッては駄目ですよ。どんな場面でも共産党の悪口を言ってはいけません。貴方の会社にも政府のスパイがいるはずです。日本人は行動と発言を慎まなければいけません』
と忠告されたことがある。
そして、
『日本人の行動は逐一報告されています。電話なんかも盗聴されていると考え方がいいですよ。最近の中国はとても自由な雰囲気ですが、くれぐれも共産主義の国であるということをお忘れなく』
と付け加えられた。
そのとき峪口は、友人の忠告を“まさかそんなことが”と思ったが、最近は或いはほんとうのことかも知れないと考えている。
途中でいくつかある堤では、コロを使って船頭と乗客が協力して乗り越える。
「同じ川下りでも、昨日よりは面白いですわ」
と言って楊燕は、靴を脱いで素足になり川に足を浸して、
「ふふふっ…。とっても気持ちがいいわあ。峪口さんも、おやりになったら」
と峪口にも勧めた。
「よし、じゃあ、ぼくも……」
二人は川面に足をつけて、バシャバシャと子供のようにはしゃいだ。楊燕の笑顔が眩しかった。
船から飛び込んで泳いでいる者、二手に分かれて水鉄砲を打ち合う者と、他の観光客たちも童心に返ってはしゃいでいる。
川や海には大人をも童心に返す力があるようで、観光客は思い思いに舟遊びを楽しんでいた。
やがて川下りの終着点に到着、先に着いた施川と邑中が待っている。
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「ヤンちゃん、峪口が変なことしなかった?」
「なんと仰っているンですか?」
「ああ、ええ。私と一緒で楽しかったかって」
「わかりました。ええ、とても楽しかったですわ」
「なんだって?」
「峪口さんと一緒で、とっても楽しかったって……」
「ふんとかぁ…。俺ぁたちが言葉わかんねぇと思って、いい加減なことゆうなよぉ」
邑中が疑念を示したが、楊燕の明るい表情を見て納得したようだ。
「くっそーッ! おい、峪口ぃー、船頭さんにチップやれよ。俺たちの分もなあ」
「はいはい。楽しかったから、思い切って五十元ずつあげちゃおうっと……」
「お~お、気前のいいこと。わしがもらいたいくらいじゃ。相手が邑中だからな」
「なぁ~に、ゆってンだぁ~。迷惑したのは俺ぁの方だんべぇ。あ~あ、峪口と代わんなきゃえがったぁ」
安い賃金での重労働、三人の気の毒との思いとは裏腹に、船頭たちは実に明るく、また強かだ。
自分たちの豊かさと比較する三人の想い、それこそ思いあがりと言えるだろう。
与えられた境遇を呪うことなく、生活を謳歌している彼らを見ていると、“幸せってなんだろう?”、そういった基本的な疑問に行き当たる。
峪口が船頭にチップを渡していると、楊燕が“ありがとうございました”と礼を述べて、三人から離れて行った。
「あっ、あ~あ、行っちゃったよ。峪口ぃ~、上海で会う約束はしたのかあ?」
「別にぃ~、してねぇよぉ~」
「なんだよ、バカだなあ。せっかくのチャンスによぉ」
「嘘だんべぇ。オメェのことだから、抜け駆けしようと思ってンだんべぇ」
邑中が疑いの眼差しを向けた。なかなか鋭い。
「大丈夫だよ。そんなことはしないよ。あの娘は怖い」
駐車場までの道すがら、通路の両側には果物やお土産物を売る屋台がズラリと軒を並べていた。
手に手に品物を抱えて売りに来る子供たちもいる。
「子供が売りに来ると、買ってあげたくなるけど……まさか、全員から買うわけにもいかないし、ここは心を鬼にして」
と呟く施川の気持ちが、峪口にも痛いほど理解できた。
我々は、この物売りたちに対してもそうだが、得てして収入の多寡によって人生の価値そのものまでも計ろうとする。
しかし、ほんとうの幸せとは、いったいどちらを指すのであろうか……。
彼らの収入を聞いて優越感を持ち、また同情して過分なチップを渡すことで自身を納得させているが、実は心の奥深いところでは、彼らの生活に憧れているのかもしれない。
二、渓流の沢歩き
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バスは次の目的地に向かって山の奥へ奥へと進み、二十分ほどで目的地に到着した。
これから渓流の沢歩きをするのだという。
入り口でチェックを受けて、導かれるままに山道を十分ほど歩むと、やがて売店が軒を連ねる場所に出た。そこにはたくさんの先陣の客がおり、それぞれがなにやら身づくろいをしている。
添乗員が、沢歩きをする者は各自でヘルメットと草鞋を借りるようにと説明した。
峪口たちも、せっかくだから体験しみようと話がまとまり、二十元を支払って自分のサイズに合うヘルメットと草鞋を借りた。
三人が悩みながら、草鞋を草履のように親指を出して履いていると、
「それじゃ駄目、駄目。もっと大きいサイズと変えなさい」
と言って、売店のおばさんが峪口の草鞋を交換してきてくれた。更に、履き方も教えてくれる。
「なるほど、確かにそうだ。指先を包み込むように履かないと、岩で指先をケガする恐れがあるな」
「峪口は昔からおばさん連中にもてるなあ。なるほど、そうやって履くのか」
施川は一言多い男である。
「どれどれ、こうかぁ……。駄目だぁ。峪口ぃ~、履かせてくんどぉ」
邑中は不器用で中々うまく履くことができない。
「しょうがねぇな。ほら、貸してみろ。それにしても、デカイ足だなあ」
「バカの大足、っていいてぇんだんべぇ。へへへへ……」
「バカのデカチン」
施川が口を挟んだ。
身支度を整えたツアー同行者たちと一緒に、案内の男に導かれ、渓流伝いの細い山道を登って行くと、やがて高さが十数メートル、横幅も十メートルほどの滝に行き着いた。
先ずは、その滝を登るのだと言う。
2
峪口は、これは無理かと思ったが、よくよく見ると、滝の端の方に階段状に足がかりが彫られており、しかも鎖の手探りまでついているではないか。
先着の観光客がどんどん登って行く。中には途中で立ち止まって悲鳴を上げている者もいたが、後ろの同行者から励まされ、なんとか登り切っていく。
「これなら大丈夫。わしらも登ろう」
と言うよりも早く、施川が手探りの鎖に取りついたので、峪口も続いた。
「俺ぁは駄目だ。俺ぁ階段で行くから、上で待っててくんど。置いてくなよぉ」
邑中は滝の隣に作られた階段に向かった。
「ふーう……。だいぶ濡れたけど、気持ちがいいねぇ」
「ああ、冷たくて気持ちがいいわ。直ぐに乾くよ」
この崖が一番の難所と、上で待っていた案内の男が説明した。
同行の何人かは滝を登らずに、山道を登って来たらしい。その中に邑中もいた。
『そこから一キロほど、上流まで遡上できるようになっているので、終着点まで自由に行ってください』
と案内の男が言うのを聞いて、邑中も加わり三人は先へ進んだ。
「これなら俺ぁでもでぇじょうぶだぁ。う~う、ひゃっこくて(冷たくて)気持ちいい」
邑中も機嫌がいい。
渓流のあちらこちらに、写真撮影の絶好のポジションがある。
三人は交互に写真に納まりながら、上流へと向かった。
ところどころに難所があり、そこでは順番を待つ人たちで滞るが、大概は問題なくスイスイと進める。
やがて、最初の滝よりも低いが流れ落ちる水量が多く、激しい滝に到着した。
そこでも先行の者が登るのを待つ客が数名並んで待っていた。
「おっ、彼女だ。マダム・ヤンちゃんだ」
峪口たちに気づいた楊燕が笑みを湛えて軽く会釈した。
施川が“順番を譲るのでお先にどうぞ”と言うと、“いえ、けっこうです。私は真ん中を登りますから”との返事が返ってきた。
「真ん中、……?」
流れ落ちる水で隠れてはいるが、よく見ると、足掛りらしき穴が上に向かって階段状に並んでいた。
しかしその穴は、爪先が掛かる程度のもので、掴まるための鎖はなく、他に誰もそこにに取りついている者はいない。
「ヘーえ。彼女、あそこを登る気だ。度胸があるなぁ」
「どお、邑中君も、彼女の後を追ったら?」
「俺ぁ、いいよぉ~。まだおっちに(死に)たくねぇもん。施川ぁ、オメェならおっちんでも問題あんめぇ」
結局三人は無難なルートを選び上から見ていると、楊燕が真ん中のルートに足を掛けたところである。
三人は“大丈夫かなぁ…”と不安気に見下ろしていたが、そんな心配は全くの危惧で、楊燕はアッという間に登り切りった。
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峪口たちが拍手で迎えると、周りの観光客からも盛大な拍手が起こった。
彼女はと見れば、当然とばかりに平然とした顔をしている。
「いや、オレレエタ、オレレエタ。大人しそうな顔しているけど、芯は強そうだ。峪口の言う“上海の女性は、云々”の意味が良く理解できたよ」
施川が感心している隣で、邑中は呆然とした顔をしていた。
峪口が楊燕に、
「いやぁー、凄いですねぇ」
と、賞賛の声をかけると、
「私、とても怒っているンです」
と、突然言い出したので、
「えッ! 僕たちに、ですか?」
峪口は驚いて訊ねた。すると、
「あっ、いいえ、違います。ほほほ……」
と笑顔で否定しながら、昨晩のことを語り始めた。
楊燕の話によると、夜中に蟻に刺さされ痛さに飛び起きたのだそうだ。
確かに、蟻に刺されると痛い。
然も一匹や二匹ではなく、凄い数の蟻で一晩中眠れなかったという。
「ヘーえ。そうナンだ。よかったな、わしらは……」
と、峪口の説明を聞いた施川が、安堵の声をもらした。
「おいおい、『俺たちは良かった』はねえだろう。彼女、上海に帰ったら、ほんとうに旅行社を訴えるって、息巻いているよ」
「うーん……、怒る気持ちはわかるけど、麗ちゃんの会社だからなあ」
「まだゆっているよ、この男は」
とは言いながらも、麗という名前に、峪口の心も高鳴った。
その滝を登り切ると沢歩きの終着点だ。
ヘルメットを返して、草鞋も返そうとすると、“記念に持っていっていいよ”と言われたが、草鞋は無用の長物である。
「あれーえ、これ俺の写真だよ」
観光客が群がるコンピューターの画面を覗き込むと、確かに施川が滝を登り終えた瞬間の写真である。
画面には次々とツアー客の顔が浮びあがってくる。
「おっ、峪口だ。ヤンちゃんも……」
「二十五元で写真にしてくれるそうだけど、買うかい?」
「俺ぁのはねぇのかぁ?」
と邑中は画面をジッと覗き込み、しばらくして“俺だ俺だ”と歓声をあげた。
「なかなか男前に写っているから、買うかな。わしもヘルメットを被っていると、けっこう良い男だな。峪口ぃ~、金ある?」
「しょうがねえなあ。ちょっと待ってろ」
峪口は施川と邑中、そして自分の写真と楊燕の写真も合わせて購入した。
「ほら、オマエさんたちの写真。記念に奢ってやるよ」
「あんがと。あれっ、これ、わしじゃねえや。ヤンちゃんのだ」
「あっ、間違い間違い。彼女に渡さなくちゃ。寄こせよ」
「峪口ぃ~、なぁーにかんげぇて(考えて)んだよぉ~。スケベ」
「邑中には適わねえ……。オマエ、渡してこいよ」
「俺ぁはやだよぉ。恥ずかしいべよぉ~」
「そうか。じゃあ、わしが行ってくらぁ」
と、施川が邑中から写真を奪い取った。
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駐車場に向かってしばらく山を下ると、小さな小屋があり、その入り口には十名ほどの行列ができている。
その辺りは杉の林になっており、上海ではまず見られない杉の大木が生い茂っていた。
峪口が添乗員に問うと、
「これを使って下におりてください。山道を歩くと三十分以上はかかります。一人二十元です」
と説明された。
そこには上から下に向かって、木から木にワイヤーが張られていた。
お客はひとり一人ブランコ状の乗り物に座って、安全ベルトでガッチリと身体を固定し、滑車を使って一気に滑り降りるのだ。
その距離は、二、三百メートルはあろうか。
「面白そうだなあ。やろうやろう。ほら、二十元」
「ふ、ふんとにやんのかぁ? おっかねぇべよぉ~」
「そうか、じゃあ歩いていけばぁ…。独りでよぉ。三十分以上だぞ、迷子になるなよ。熊が出てくるぞぉ」
「施川ぁ~、オメェ、冷てぇなぁ。みんなで歩くべよぉ。な~あ、峪口ぃ~」
「嫌だよ。ほれ、覚悟きめろ。二十元、あるだろう?」
「ふんじゃあ、施川が先なぁ~。落っこって死んだら、俺ぁは歩くべぇ」
「こんにゃろう。よし、わしは行くぞ」
ブランコに座り身体を固定すると、男から背中を思いっきり押され、勢い良くワイヤーを滑り、アッという間に着地点に着く仕組みだ。
「ヤッホー! ……」
とかなんとか叫びながら、施川は滑り降りて行った。
峪口がブランコに乗ろうとすると、邑中は“俺ぁが先に行く”と遮った。
「あっ、ああああ……」
と悲鳴を上げて邑中が降りて行った。
その後に峪口も続いた。
壁にマットが立てかけられているのが目に入り、そこに激突して止まるのかと、峪口は身を硬くしたが、手前でうまい具合に減速され激突することなく着地した。施川は、
「面白いや、これ。もう一回やりてぇな」
「いいよぉ~。もう十分だべよぉ」
邑中は青ざめた顔をしている。
「いいけど、登りだから、上に行くのに一時間ぐらいはかかるぞ」
と言う峪口の言葉に、
「冗談、冗談」
と施川が応じた。
同じようにして滑り降りてきた添乗員によると、駐車場まではもう少し歩かなければならないと言う。
トイレを使ってから、三人はブラブラと山を下りだした。
「しかし、なんでも金を毟り取る仕組みになってるンだなぁ。まあ、日本の観光地もそういった傾向はあるけど、中国は特に凄いねえ」
「うんだなぁ~」
「そうそう、あの璃江下りにしても一人四百元(約六千円)だろう。払い込んだ旅行費は安いと思ったけど、なんだかんだと追加される仕組みになってるンだ。あっ、そういえば四百元、返してもらったっけ、施川さん?」
「えッ! ……返したじゃないの。ったく、もう」
「あっ、はっははは……」
杉木立の中を少し下りると、大きな吊り橋が表れた。
「わしゃ、こうゆうの大好き」
と言って、施川は勢い良く駆け出した。
5
「ほらほら、峪口ぃ~」
と言いながら、橋をユラユラと揺する。
「おっ、おいッ! 施川、こら、止めろッ! 他の人にめっ、迷惑だろうが……」
峪口は吊り橋が大嫌い、というよりむしろ恐怖を感じる。ユラユラと揺れる足元の頼りなさに、数歩踏み出しただけで足が竦み鳥肌が立った。
邑中は慌てて元の位置に戻ったようだ。
橋の袂で、
「施川ぁ~、止めろよぉ~。おっかねぇべよぉ。もう、やんなよぉ~」
「へへへへ……。写真、写真」
と、はしゃぐ施川を無視して、峪口は一目散に吊橋を渡り終えた。
渡り終えてからもしばらくは足の震えが納まらなかった。
そんな自分を悟られまいと、峪口はどんどん山を下った。
息咳切って追いついた施川が、
「峪口ぃ~。もしかしたら、恐かったンじゃないのぉ~。くくくく……」
と嘲笑しながら言った。
「うるせえッ! バカヤローッ! バカと煙は高い所が好き、ってゆうだろう」
と言い返した。
二人のところにようやく邑中が追いついて来た。
「あ~あ……、駄目だ駄目だ、俺ぁ。ああゆうのは心臓にわりぃ。施川は神経がたんねぇ(足りない)から、平気だんべぇけんどよぉ」
峪口たちが駐車場に辿り着くと添乗員が走り寄って来て、
「日本のみなさんと彼女……」
と言って楊燕を指差しながら、
「六時の飛行機に変更になりました。他の方たちは予定どおり八時半ですが、よろしいですか?」
という突然の申し出に、不満はあったが、よくよく考えてみれば、予定では家に着くのは夜中の十二時過ぎ、変更すれば十時前には着けると計算し、承諾した。
施川はといえば、楊燕と一緒の便と聞いて、
「なにも文句はありましぇ~ん」
と、端から喜んでいた。