第七章 平和ボケ、ニッポン
1
夜の七時半ごろホテルへ到着。
明日は桂林旅行の最終日、ホテルを八時に出発するという添乗員の説明を聞いて、三人は割り振られた部屋に入った。
「このホテルは、昨日と一昨日泊まったホテルよりもグッドだ」
施川が満足そうに親指を立てた。邑中も、“うんだ、うんだ”とうなずいている。
確かに、漓江の岸辺にたたずむホテルは八階建ての瀟洒なもので、前夜のホテルのように車の行き交う騒音もなく、室内も二倍くらいの広さがあった。
峪口がテレビのスイッチを入れて、チャンネルを変えるとNHK放送が映し出された。
「おッ! このテレビ、NHKが映るンだ。久しぶりぃ~」
邑中が驚きの声をあげ、番組に見入っている。
海外で日本語の放送を見ると、なんとなく嬉しくなるものだ。
「峪口ぃ~、施川ぁ~。日本とおんなじだぁ」
「おいおい、当ったり前だろう。変なことに感心するなよ」
峪口はどこのホテルに泊まっても、NHKが映るかどうかを確認する癖がついていた。
地方の三ツ星クラスに泊まって、思いがけずNHKの番組が入っていると、なんだか得をした気分になり、そのホテルの格付けをワンランクアップしたくなる。
「ところで二人とも、少し散歩しないか? 桂林の旅も明日で終わりだから……」 峪口はいつの旅行でも、最後の晩は幾分感傷的になり、その反動か逆に気分が高揚する。
「そうだな。屋台がたくさん出ていたから、冷やかしに行ってみるかあ」
「屋台? おもしろそうだな。行ってみんべぇ、行ってみんべぇ」
邑中もノリノリに応える。やはり二人も最後の晩で気分が高揚しているのだろう。
表に出ると昼間とは違い、爽やかな川風が吹いていて、日焼けとビールで火照った身体には心地良く感じられた。
「この河川敷はものすごく広いな。ところで、あそこにテントが三張りあるけど、中国人もキャンプをするンだ?」
河原に張られたテントを遠くに望みながら、施川が首をひねった。
「いや、違うと思う。恐らく欧米人だろう」
「んだんべ。日本人にゃ、おっかなくて、こんな所でキャンプなんて、できねぇべよ」
「うん。桂林って、治安はあまり良くないと思うな」
「観光地はどこも良くねぇもんなぁ」
「うん。それに家の作りを見ればわかるよ、治安状況は……。ほら、マンション周りの柵の高さ、それに窓の鉄格子も。あんなに上の方の部屋にも鉄格子が入っているだろう。上海だって、あそこまではつけないよ」
「ああ、なるほどな。あそこまでは猿でもなきゃ、登れねえものな。ということは、相当悪いってことだ」
「中国はおっかねぇな。俺ぁ、住みたくねぇ。そこいくと、日本はいいなぁ~」
「邑中、最近はそうでもねえだろう。日本もわけのわかンねぇ犯罪が増えているだろうよ。オマエんとこも、気をつけた方がいいぞ」
「俺ぁち(俺の家)はでぇじょうぶだぁ、なにしろセコムつけてっからよ。オメェんとこもつけろ、施川。安心だぞぉ。峪口ぃ~、オメェんち(家)はつけてンべぇ?」
と言う邑中の話を無視して、峪口は話しを続けた。
2
「ここに来る途中で、テントを担いだ白人とけっこう会ったじゃない。彼らはほんとうにお金を使わないよな。あれで一ヶ月ぐらい、あっちこっち旅をして歩くンだからナ」
「まあ、彼らは体力もあるから、泥棒さんも近づかないってわけか」
「どうみても喧嘩じゃ勝てそうもねぇもん。あっちはゴリラみてなモンだべぇ」
「日本代表、邑中熊男く~ん。対しますは、アメリカ代表、マウンテンゴリラくん。さて、どちらが勝つでしょうか……」
「はっははは……。施川、実況放送はいいから。ほら、あそこに果物屋がたくさん並んでいるから見に行こうよ」
「うん、行くべぇ。ほれ、施川も行くべぇ。女のケツばっか、追っかけてンじゃねぇよぉ」
擦れ違った若い女性の後ろ姿に、ジッと見つめている施川を邑中が急かした。
「クウーッ……、好いケツ。峪口、見てみろよ」
「うん、どれどれ……」
「ほれ、二人とも、早く行くべぇ。ほれ、スケベェ~」
と急かす邑中の視線も、女性の後ろ姿を捕らえて離さない。
「みんな溜まっているな。そろそろ抜かねぇとなぁ……」
と施川がポツリと呟いた。
道路際に数件の果物屋が軒を連ねている。
煌々と点けられた裸電球には羽虫が群れ飛んでいて、うっかりすると口に飛び込まれかねない。
時々大きな蛾も飛び込み、電球にバタバタと羽を打ちつけていた。
「今、ミカンの季節かな。日本のミカンと同じだ。一個喰っていい?」
と言うが早いか、施川は相手の返事も待たずに手に取ると、皮を剥いて一個丸ごと口に放り込んだ。
「美味い美味い。こっちはどうかな? これ、この赤い毛だらけのやつは、なに?」
「施川オメェは相変わらずガツガツしてンなぁ。ほーれ、店のオヤジが呆れてンべぇよぉ。ちったぁ、遠慮しろよぉ。恥ずかしかんべぇ」
「なーにが恥ずかしい。いいのいいの」
邑中に言われても、施川は平然として次を狙っている。
3
「なんていったかなあ、それ? ……茘枝とよく似た味なんだよなあ。ただ、果肉と種の間にある白い皮が、俺は嫌ナンだ。ほら、施川、喰えってさ。オヤジさんが剥いてくれたよ」
「ヘーえ、外見は卑猥な形をしているけど、綺麗な乳白色の果肉だ。どれどれ、……うん、美味いよ、これ。わしゃ日本に持って帰りたいけど、駄目だろうなあ」
「そんなにうんめぇかぁ。んじゃ、俺ぁにもくんど」
邑中もほおばった。
「ふんとだ、うんめぇわ。俺ぁも買ってけぇんべぇ。んでも、なんで持ってけぇれねぇんだぁ、施川?」
「峪口、どうしてなの? わかった、形が卑猥だからだ」
「なにが卑猥なのよ?」
「くくくくっ…、卑猥だろうよ、この形……」
「ドスケベェが、考え過ぎだんべぇ」
「そうかなあ……、ほれ、この形、だいぶ卑猥だろう」
施川が邑中の鼻先にその果物を突きつけた。
「うっぷ、止めれ」
「ふふふふ……、まあ、確かに見ようによってわね。くくくく……、持ち帰れると思うよ。成田で税関に申告して、検疫受ければ大丈夫だと思うよ。試してみれば?」
「税関……、じゃあ俺ぁいいわ。面倒臭えから、止めとくべぇ」
「なんだ邑中、税関でなんかあったのか? エロ本でも見つかったのか?」
「へへへへ……。そうじゃねぇけんどよぉ……」
「貴金属の類か? オマエさんは高い物は平気で買うくせに、つまんねえところでケチるからな。安い飛行機だの、脱税だのって」
「脱税じゃねぇよぉ、節税だんべぇ。名よりも実だ。へへへへ……」
などとじゃれあいながら、次から次へと試食を繰り返しただけで、結局なにも買わなかった。
「ほらほら、店のオヤジさん、嫌な顔しているぞ」
「ごめんね。また来るねぇー」
「うんだ、うんだ。俺ぁもまた来るべぇー」
「もう来るなとさ」
ホテルに向かって歩き出す三人……。
「あの海の家みたいな食堂、随分人が入っているな」
そこはまるで日本の海の家のような安普請の建物ながら、客で溢れかえり、嬌声が飛び交い活況を呈していた。
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「ああ、さっき添乗員が他の客に勧めていた食堂かもしれない。小耳に挟んだンだけど、安くて美味いと地元じゃ評判らしいよ」
「そうか、なにか喰ってみるか?」
「大丈夫かよ、施川? さっき焼け喰いしていたくせに。俺? 俺はあまり喰わなかったから小腹が空いたけどね」
「俺ぁ、ほとんど喰ってねぇから、大腹へったぁ」
「美味いものは別腹、没問題! 料理を少し頼んでビールでも飲もう」
「峪口ぃ~。ビールはいらねぇから、喰うモンいっぺぇ頼め。銭っ子は俺ぁが出すから、しんぺぇすんなぁ」
と、そこへ……。
「オジサンタチ、ニホンジン?」
突然、薔薇の束を抱えた女の子が、片言の日本語で話しかけてきた。
「お兄さんですよ、わしは。こっちの二人はおじいさんだけど」
施川が機嫌良く冗談を言った。
「オニイサン、アッハハハ……」
「こら、笑うンじゃありましぇーん」
「ジャア、オニイサン。ハナ、カッテヨ」
「じゃあ、は余計だけど、買ってあげるよ」
「アリガト、オニィ~サン。エッ、イッポン。……サンニンタカラ、サンポンカッテヨ」
「い、一本でいいよ」
「ケチンボなことゆうなよぉ、施川ぁ~。いっぺぇ買ってやれよぉ」
「セガワ、ケチンボ、ケチンボ。アッハハハハ……」
「わっ、わかったよ。いくら?」
「さすがはオニィ~サン、太っ腹ぁ~。十五元だそうです」
峪口が茶化した。
「二十元札しかねえや。よし、しゃぁねぇ待ってけ、泥棒ッ!」
「おいおい、泥棒はねえだろう。……三人には幸運が訪れるってさ」
「上手いこと言うねえ、お嬢ちゃん。頑張れよ!」
照れてはいるが優しい男でもある。
「わしはああいう子を見ると堪んないンだよ。わしがあの立場だったらとか、うちの娘が攫われてあんな立場になったらとか、いろいろと考えちゃうンだ」
「施川、おまえもか。実は俺もそうナンだ。これは娘をもつ父親の心情かも知れないな」
「俺ぁだって、そうだぁ~。和江、……娘のことが頭に浮かぶべぇ」
「裏に恐い親方がいるンだろうなあ。あの娘、どうゆう人生を歩むのかねぇ…」
峪口の言葉に三人がしんみりとしていると、突然、近くの河原からドドーン、ドドーンと花火が打ち上げられた。すると、その花売りの子が、
「オオーッ! ヒュー……、ヒュー……」
と奇妙な歓声をあげた。大きな声だったが、その横顔に悲しみを垣間見た気がした。
「なんだか切ないなあ……」
と誰かがボソリと呟いた。
「うん。今日は俺ぁも飲むべぇ」
言葉にこそ出さなかったが三人の想いは同じ、女の子の将来に幸多かれとの願いを込めて、乾杯を繰り返した。
強行日程に疲れた所為か、その晩、十時には三人揃って寝息を立てていた。
消し忘れたNHK放送が、その日のスポーツの結果を伝えていた。
― 日本はつくづく平和な国である。