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第六章 旅のメインイベント、漓江下り

一、綺麗なトイレ


1


今日は移動日。

荷物を手早くまとめ三人は、朝食をとるために一階レストランへと向かった。

「ここの食事が一番美味いわ」

と大声で、施川は添乗員に皮肉を言ったが、もちろん彼女には通じない。

十月六日は中秋節、にもかかわらず、朝から真夏並みの日差しが観光バスの窓から差し込んでいる。

峪口、施川、邑中の三人を交えた上海からのツアー一行は、今回の旅のメインイベントともいえる漓江下りの出発地、磨盤山の碼頭へと向かっていた。

ホテルを出てから一時間ほどが経過。

一人二本ずつ、と持参したはずの缶ビールのうち三本を既に飲み干した施川は、先ほどから静かな寝息を立てていた。

よく眠る男である。

「よぉ~…、峪口ぃ~…」

いきなり目覚めた施川が、尿意を模様したと峪口に訴えた。

「そうはゆってもなあ……。後三十分ぐらいだそうだから、もう少し我慢しろよ。まったく三本も飲むからだよ」

「ふんとだよぉ~、ガツガツ飲むからだよぉ。罰だ、我慢しろ」

「駄目、もう駄目。なあ、頼むよ、この通りだ。バスを停めてくれぇー。停めないとここで遣っちゃうぞ」

施川が手を合わせ哀願のポーズを取った。

「チェッ! しょうがねえなあ。我慢しろ、漏らすなよ。頼んでみるから」

「シエ、シエ(謝謝)」

峪口の訴えに女性添乗員が気を利かして、トイレタイムにしましょうと、バスを停めてくれた。

真っ先に施川が飛び出すと、ぞろぞろと数名の男性がバスを降りた。

しかし女性たちからは、こんなところはできないと、苦情の声があがった。

「ふーう。あ~あ、すっきりした。ほらな、わしだけじゃないだろう。あっ、熊もいる。あいつ……。みんな我慢していたンだな。わしに感謝しなさい」

「おい、こら。汚い手で触るな。手を洗う場所なんてなかったろうが」

「へへへっ…、大丈夫だよ、ほとんどビールだから。アルコールで消毒したのと同じようなモンだろ」

と施川が言って、戻ってきた邑中に、

「こら、熊ッ! わしに文句を言ってたくせに、自分も行きたかったンだろうが……」

「ついでだんべぇよぉ。俺ぁ我慢できたけんど、これも付き合いってもんだべぇ。日中友好だべよぉ」

「ったく、調子のいい奴だなあ」

「オメェには負けるけんどよぉ、なぁー。峪口ぃ~。へへへへっ…」

「うんだうんだ」


2


それから三十分ほど走ると大きな駐車場に到着した。

随分早くホテルを出発したが、既にたくさんのバスが到着しており、船着場は観光客でごった返していた。

一斉にトイレに向かう女性群を見て、

「こんなときは、つくづく男に生まれて良かったと思うよ」

と、施川が実感を込めて言った。

「トイレってゆえば、桂林のトイレはとても綺麗だな」

「そうそう、どこだったっけ? ほら、陸君たちと一緒に行った……」

「蘇州か…、杭州か……」

「うーん……? ほら、ベンツ貸し切りで、黄色いお寺のあったとこだよ」

「寒山寺か、それなら蘇州だ」

「いやぁー、あれには驚いたのなんのって。腹の具合が悪くなって、峪口から紙をもらって便所に駆け込んだら、床に穴が五つ並んでいるだけだもの」

「仕切りのないトイレだろう。あれには参るよなあ」

「ふんとか? どやってやるンだ、ウンコ?」

「そりゃあ、考えてみなさい。穴しかねえんだから……」

「なんだぁ、他人のケツメド見てウンコすんのかぁ。 俺ぁには絶対できねぇ」

「いや、別に人のケツの穴を見なくてもいいけど。仕切りもなにもなしだからナ。好きな方を向いてやれよ」

「あんときは誰もいなかったし、非常事態だから、やったけどね。誰か入って来るンじゃないかと心配で、心配で……」

「杭州もそうだよ。蘇州とか杭州といえばかなり有名な観光地じゃないか。でも、トイレとかゴミとかにまるで気を使っていない。川なんてドブだもの、いずれは廃れるな、あれじゃあ」

「その点、桂林はすごいよ。市内のトイレはどこも掃除が行き届いているもの」

峪口はそのことにとても感心した。

中国の観光地はいずれも金儲けが第一で、環境の保全は二の次である。

世界遺産でさえも観光客が優先で、平気で手を加えてしまう。

桂林の立て看板に、

『これ以上自然を破壊すると、世遺産から外される恐れがあるので協力するように』

との注意書きがしてある。



二、風光明媚を絵にしたような風景


1


川面に待機している数十艘の船は、どれも同じ形で五、六十人ほどが乗れる大きさだ。

船の一階がテーブルと椅子のついた指定席、風景を眺めるための二階には、お飾り程度の小さな屋根がついているが、椅子はなかった。

漓江下りが始まっても観光客は誰も二階へ行かず、持参したお菓子や果物を食べながらお喋りを楽しんでいた。

すると昼食の注文取りがやって来て、五十元以上注文をすれば二階に席を用意すると、しきりに勧めている。一組の家族連れが手を上げた。

見れば歯の逞しいオヤジさんのいる同行者である。

「俺たちも注文しようか?」

と峪口が二人に訊くと、

「いいよ。どうせ美味くねえんだろう」

「いいよ。どうせうんまくねぇべぇ」

二人は声を揃えて否定した。

「あれだろう料理は? さっき見たけど、川エビと田螺、それと変な魚の唐揚げ。どう見ても、美味そうじゃねえもの。それに船の後の調理場、あそこで作っているンだろう。川の水をそのまま使っているンじゃないの」

と施川が付け加えた。

「弁当つくから、いいか。不味いとは思うけど」

「いいよ、どうせあれと同じようなものだろうから。船を降りてから、なにか美味いもの喰おうよ」

「うんだなぁ。弁当つくンじゃいいべぇ」

「でも、お二人さんよ。この川下り、四、五時間かかるンだぜ」

「ふ、ふんとかぁーッ!? そんなにかかんのかぁ~。今、九時半だんべぇ。うんと? 着くのは二時過ってことかぁ。めぇった(参った)な、そりぁーよぉ~」

「施川君。ビールも売っていることだし、便所もとりあえずあるから、まあ、安心して飲みなさい」

「俺ぁどおすべぇ?」

「あんたは、とりあえず寝てなさい」

川の両岸に広がる河川敷には、のんびりと水牛を追う農夫の姿があり、実にのどかな雰囲気を醸し出している。

水牛は一見厳つく荒々しいイメージを抱くが、とても穏やかな性格だという。

川の浅瀬では水牛が全身を水に浸け頭だけ出して、まるで温泉にでも入っているような、穏やかな表情を行き交う船の乗客に見せていた。


2


三十分ほど船が進むと、乗客はぞろぞろと二階にあがりだした。

案内図によると蝙蝠山の辺りである。

「おい施川。邑中。俺たちも上に行こう。この辺りから景色が良くなるらしいから」

「そういうことか。どうも聞いていた桂林の景色とは違うと思っていた。なるほど、写真で見たような山々が見えてきたわ」

船はのんびりと川面を下っていく。

やがて、それこそ風光明媚を絵に描いたような風景の草坪風光、冠岩と景色は移り変わっていく。

「おおっ、峪口ぃ~。これだ、これだよ。これこれが、桂林だよ」

「ふんとだぁ~。俺ぁも写真で見たことあんど」

二人は興奮気味に感嘆の声をあげた。

「お二人さん。……まだまだ、これからだよ、本番は……」

「ヘーえ、そうなの?」

両側に連なる奇岩、異岩の連続攻撃、周りでもシャッター音が絶え間なく響いている。

国人は実に写真が好きで、撮られる方は恥ずかしげもなくポーズを決め、うっかりしていると、どけろ、どけろとばかりに身体をぶつけられる。

「危ねえじゃねぇか。もし川に落っこちたらどうするンだ、ボケッ! 声ぐらいかけろ、ったく」

「施川ぁ~。怒んなよぉ~」

恋人らしき二人連れはすっかり自分たちだけの世界に入り込んでおり、辺りの人間など目に入らないほどの熱々振りを見せつけている。

川の水は深いグリーン、出発の地点よりだいぶ透明度が増してきた。

岸辺には孟宗竹の竹林が、どこまでも延々と続いている。

切り立った崖が多いが、川岸には時々砂浜となっているところも出てくる。

そういったところには、近くに村があるとみえて、船着場があり、洗濯物も干されていて、生活の臭いがした。

この辺りも見せ場のひとつで、パンフレットには波石風光と紹介されている。

鵜飼の漁師が多いとのことであるが、残念ながら見ることはできなかった。

時々、岸辺を散策する観光客らしき人たちの姿も目についた。

「施川、俺たちもあそこを歩きたいな」

「ああ、釣りもしたいしな。もう、長いことやってねえなあ。学生のころは二人でよく釣りをしたなあ……」

二人は学生時代、お金がないこともあり、近くの川によく釣りに出かけた。

夏休みなどはアルバイトと釣りに明け暮れたものである。

社会人になってからも休日はほとんど一緒に過ごし、更には帰宅時に待ち合わせて一杯などということがしばしばあった。

それでいつだったか峪口は、“あなたは私と一緒にいるより、施川さんと一緒にいる時間の方が長いンじゃない”などと女房に皮肉を言われたことがある。


3


「ツアーコースになっているみたいだよ。この辺りの村に泊り込んで遊ぶンだって」

「いいなあ、それ。宿はどうするの?」

「日本の民宿みたいのが、たくさんあるらしいよ」

「民宿か……。学生のころ、よく旅行したなあ……」

「うんでもよぉ~、三人だと、ていげい(大概)途中で喧嘩別れになったんべぇよぉ。オメェら、わがままだかんなぁ」

と言う邑中の言葉で、峪口の頭を学生時代の思い出が過ぎった。

「そうそう。……北海道のとき、この三人で行って、途中で別行動したんだよなあ」

「うんうん、覚えている。でも、あのときは勢いで別れたけど、一人になった途端に寂しくなってなあ」

施川が遠い過去を懐かしむように、しんみりと告げた。

「オメェもか。実は俺ぁもだぁ。別行動ってたってね行き先はだいたい一緒だんべぇ。二人の姿を見かけるたんびによぉ、よっぽど声かけんべぇと思ったけんど、やっぱり意地だんべなぁ、声かけらんねぇかった」

邑中も当時の気持ちを正直に表現した。

「一日目はよかったけど、二日目くらいから、合流を約束した日が待ち遠しくてさあ……。四日後に約束の場所で落ち合ったじゃない。あん時、実は俺、朝早くから近くをフラフラして、約束の時間がくるのを今か今かと待っていたンだ」

峪口も初めて告白した。

などと昔話に浸りながら、次々と訪れる山水画の世界に三人が魅入られていると、船の従業員がガタガタと二階の特等席にテーブル席を誂え始めた。

その如何にも遠慮のないガサツさが、三十数年前の思い出に浸る三人を現実の世界へと引き戻した。

「まぁーったく、もうすこし静かにやってほしいよな#。せっかく、心が俗世間を離れて幽玄界を彷徨っていたのに、台無しだよ」

「幽玄界か、……いつもながら上手いことをゆうねえ、施川さんは。シャングリラが桃源郷なら、ここは幽玄郷か」

「でも施川じゃ、意味はわかってねぇべぇ。へへへ……」

「あいつらだ。あのサトウキビの皮を歯でバリバリ引き剥がすオヤジがいる。おやおや、また、たくさん注文したねえ。喰えんのかよ、あんなに。なんなら、手伝ってやろうかあ」

「どうぞ、一杯、なんてことは絶対にゆわないだろうな。俺たちもビールでも飲もうか、施川?」

と、二階にいた客が競って一階に下りて行く。

どうやら昼の弁当が出る時間らしい。



三、羅漢果のにおいは○○○?


1


三人が一階の席に戻ると、

「あれ~え、俺たちの席に誰か寝ているぞ。あいつだ、添乗員にネチネチと文句を言っていた男。お~お、いい気なモンだよ。蹴飛ばしてやろうかな」

「止めとけぇよぉ、施川ぁ~。中国人全員を敵に回すっど。俺ぁ~、知らねぇかんな。弁当をもらって上で喰うべぇよぉ」

争いごとを極端に嫌う邑中が、慌てて施川を制する。

しかし峪口は、邑中が決して怖いから争いごとを避けるのではないことを知っている。

邑中は、切れた自分の存在が一番怖いのだ。

客室内の喧騒に、その寝ていた男が薄目を開け、その場の状況を察したのか、

「スイマセーン。アリガト、アリガト」

と日本語で言いながら起きあがり、峪口たちにお辞儀をした。

「あっ、いえいえ、どうぞ、どうぞ。そのまま、そのまま」

激しい言葉とは裏腹に、施川は調子のいい男でもある。

「ほ~れ、喧嘩しねぇで、よかったんべぇ」

三人はもう一度二階席に戻り、床に直接ドッカリと胡坐をかいた。

「それにしても暑いなあ。十月だってのに、三十度は超えているだろう」

「広西省は亜熱帯だからな」

屋根のない二階には、真夏並みのギラギラした太陽が容赦なく照りつけている。

「あの家族の席はいいなあ。庇つきだものなあ。よし、わしはシャツ脱いじゃおっと」

と言う施川に同調して、峪口もシャツを脱いでしまった。

「なんだよぉ~。オメェら、恥ずかしくねぇのかぁ~」

「いいから邑中も脱げよ。恥ずかしいって面じゃねぇだろう」

「そうだ邑、オマエも脱いじゃえ。でも、パンツは脱ぐなよ。いくらポコチンに自信があっても出すなよ」

「アホかぁ、施川ぁ~。俺ぁ、そこまでアホじゃねぇ」

と言いながら邑中も裸になった。

胸毛が凄い。

背中にも毛が密集している。

「お~お、久しぶりに見せてもらったけど、相変わらずすげえな。まるで熊だ。シャツを着た方がいいぞ。鉄砲の弾が飛んでくるかも知んねぇからナ」

施川が邑中をからかうと、

「だんべぇ、だから俺ぁ嫌だってゆったべぇ」

「はははは……。気にするな邑中。いや、立派なモンだ。うん、男として羨ましいよ」

「へへへへ……。そうだんべぇ。施川もヒゲは濃いけんど、身体と頭はツルッツルだもんなぁ~」

と邑中が逆襲する。

「ツルッツルだとぉ~。わしの一番嫌いな言葉だ」

と言って、施川は邑中の背中をビターンとたたいた。

「へっ、いてぇーっ! か、勘弁してくんろーッ!」

「勘弁できねえ。うりうりうり……。それにしても不味い弁当だなあ」

「あへっ、勘弁、勘弁。うんだなぁ。喰うモンねぇべよ。これ、なんだべぇ?」

邑中がなにやら得体の知れないオカズを箸で摘み、川にポイッと捨てた。

「おっ、おおーっ。それに、なんだこのビールは。ぜぇーんぜん、冷えてねえじゃねえか」

「まあまあ、お二人ともそう文句をいいなさんな。まあ、これが中国の一般庶民の旅行だと思ってさあ」

「峪口ぃ~、オメェは辛抱づぇなぁ。オメェはもう中国人になったんだんべぇ」

「へへっ…。そうかもしんねぇな。おい施川、ビールまでうっちゃる(捨てる)なよ」

「そりゃまぁ~、もったいねえから飲むけどよぉ~」


2


辺りがやけに騒々しくなった。

どうやら三人は寝入ってしまっていたようだ。

またぞろ、昼食を済ませた乗客が二階に上がって来たのだ。

九馬画山、黄布倒影と続く景色が美しい。

座り込んだままで、他の乗客の行動を見ていると、二十元札を翳し、盛んに記念撮影を始めた。

どうやら、黄布倒影といわれる風景が、二十元札のデザインに使用されているようだ。

「そうなの。峪口、持っている?」

「あるよ」

受け取った施川が、

「どれどれ、こっちか……。なるほど、ここだ、ここだ。確かに、ここだ。峪口、写真を頼むよ」

二十元札を顔の近くに翳し、施川がポーズを決めた。

そして撮影が終わると、再びどっかりと床に胡坐をかいた。

「おいこら、俺の金を仕舞い込むなよ」

「あらぁ~、バレちゃったぁ~」

「ほれ、俺ぁにも貸せってばぁ。峪口ぃ~、俺ぁも撮ってくんど」

時々、外人客満載の三階建て豪華客船が、三人の乗った船を追い越して行く。

「外人とは船も違うのか、わしらも一応ゲエジン(外人)だけどなあ。もっとも、峪口は違うけど。あ~あ、それにしても景色見飽きたな。まだ終点に着かないの?」

「まだ、十二時半だよ」

「ということは……、まだ残りが二時間以上か。いくら珍しい風景でも、これだけ続くと飽きるな」

確かに、行けども、行けども変わらない景色に、峪口も少々うんざりとしてきていた。

邑中も隣でデカイ欠伸をしている。

他の乗客たちも同じとみえて、一人減り、二人減りといった具合に抜けていく。

そしてとうとう、三人の他は熱々のアベックだけとなっていた。

「お~お、いいねえ~、うらやましいねえ~。バカイ(若い)ってのは素晴らしいことだ。それにしても、俺たちは眼中にないみたいだな。抱き合ってキスまで始めちゃったよ」


3


施川は螺螄山と呼ばれる異形の山に少し興味を示しただけで、もう一回寝ようと呟いて、床にゴロリと転がってしまった。

峪口にもその後の記憶はなかった。

ドンと、船が着岸する振動で三人は目覚めた。

到着地の陽朔県である。

あれから二時間も寝ていたらしい。

中国は省があり、次に市、そして県、鎮となるが、上海市や北京市は政府の直轄都市として、省と同格、或はそれ以上に位置づけられている。

「ふぁ~、やっと着いたかあ……」

「ちょっと長すぎるなあ。二時間もあれば十分だな」

と、峪口が言うと、

「どんな美人も三日一緒にいれば飽きる、ということか。そう言うことだ、お二人さん」

着岸してもいちゃつくアベックに、施川が言葉を投げかけた。

「うんだ、うんだ」

邑中が実感を込めてうなずいた。

駐車場に戻る途中の売店には、いろいろな果物が並んでいた。

南国の所為か、上海よりも果物の種類が多い。

峪口がその中のテニスボール台の大きさで、緑青のような深い緑色をした丸い果物を手に取った。

「パッションフルーツかな、これ?」

「峪口ぃ~。……羅漢果、って書いてあるよ」

「ラカンカ、このまま喰えるのかなあ? ……よし、じゃあ二個。えっ、五個買え、十元でいいって。じゃあ、五個もらうわ」

羅漢果を観光バスに持ち帰ると、運転手が、

「車内で食べちゃ駄目」

と慌てて注意を促がす。

峪口がなぜと訊くと、とても臭いので、みんなが迷惑するから、との答えが返ってきた。

どうやら、果物の王様といわれるドリアンと同じく、悪臭を発するらしい。

「でも、とても美味しいそうだよ、施川君」

「あれっ、ほら、あのおばさん……」

「羅漢果を喰いながら来るね。……なぁるほど、ストローで中身を吸っているンだ。あれなら臭わないな」

羅漢果は、桂林でもこの地でしか栽培ができない貴重な果物で、収穫の季節には盗難を恐れ、四六時中見張りを立てるそうだ。

それにしては安い。

上海でも乾燥させたものを漢方薬の一種として売っているが、なんに効くのかは、峪口も知らない。

中国では神様の果物とも呼ばれているそうだ。



四、昨日も鍾乳洞、今日も鍾乳洞


1


「これから、どこへ行くの?」

「ええと、ね? ちょっと待ってよ」

峪口は添乗員に大きな声で尋ねた。

すると、隣に座っている一人旅の女性が、

「鍾乳洞に行くそうですよ」

と、代わって答えてくれた。

それが糸口となり、峪口は彼女に話しかけた。

「どちらからいらっしゃいました?」

「上海です。みなさんは?」

「私は上海から、彼らは日本からです」

「このこの、峪口ぃ~、なに、話しているンだよぉー」

「まあまあ、少し待てよ。君はビールでも飲んで、静かにしていなさい」

「俺ぁ、ビールは飲まねぇ」

聞いたところでは、彼女は徐家匯に住んでいて、外資系企業の秘書をしているとのことであった。

峪口が上海に駐在を始めて、最初に住んだのも徐家匯のマンションである。

徐家匯といえば、今や上海でも一、二を争う繁華街となっていた。

当時の徐家匯は開発中で、大きなデパートはいくつかあったが、道路は舗装されておらず、信じられないかもしれないが信号機などなかった。

峪口が現在住んでいる場所からは地下鉄一号線で三駅、歩いて約四十分の距離である。

なぜ四十分なのかというと、峪口は駐在した当初、徐家匯から現在のマンションに近い会社まで、健康のためにと歩いて通っていたのである。

最初に住んだマンションの家賃は当時の二倍、今では一ヶ月二千五百米ドル以上ということからも、その発展振りが窺えようというものである。

「なぁなぁ、なんだってばぁ?」

「おっ、邑中君。随分と積極的だねぇー。好みぃ~」

施川が探るような表情をした。

「ふ、ふんなんじゃ、ねぇよぉ~」

邑中が表情を赤らめた。そういえば、なんとなく邑中の奥さんとイメージが似ていると、峪口は思った。

「うん。……まあ、このツアーに対する不満をいろいろとゆってるな。内容も良くないし、ホテルも最悪、料理も悪いと……」

峪口は彼女との会話内容を、かいつまんで二人に話した。

「ふんふん、なるほど。旅行社のパンフレットだと、ホテルは四ツ星のはずだったンだ。 でも、立地といい、部屋といい、どう見ても四ツ星とは思えないものな」

「ああ。上海に戻ったら、旅行社を訴えてやるってサ」

「性格きついな。俺ぁんち(家)と同じだぁ」

邑中が声を潜めて言った。

「アンタのとこは、どうでもいいの。彼女、優しい顔をしているけど、激しいなあ」

「上海の女性を舐めちゃいけませんよ、施川さん」

峪口は実感を込めて言った。


2


ファーストフードという商売柄、峪口の会社にもたくさんの女性がいる。

その優秀さも然ることながら、その芯の強さと逞しさには、何度も舌を巻かされたことがある。

その分、上海の男がだらしないと言えるのかもしれないが……。

「これから行く鍾乳洞もそうさ。なぜ、昨日も鍾乳洞で今日も鍾乳洞ナンだ、って怒っているよ」

「うん、わしもそう思うよ」

と言って施川は、彼女に笑みを送り、ペコリと頭をさげ、

「た・に・ぐ・ちぃ~、夕飯に誘えよ」

耳元で囁く。

「また、施川のわりい病気が始まったんべぇ」

「麗ちゃんに怒られても知らねえぞぉ~」

「遠くの麗ちゃんよりも、近くの……、ん、なにちゃん?」

「名前、Yang(楊)Yan(燕)さん。楊枝の楊に鳥の燕と書く」

「ツバメちゃん、かぁ…」

「ツバメちゃんはないだろう。ヤンさんにしなさい」

「ヤンちゃん。……マダム、ヤ~ン」

施川がなよっとシナを作り、節をつけて名前を言うと、邑中はヤンちゃん、ヤンちゃんと独り言のように呟いていた。

観光バスは船を降りた陽朔県から、桂林市内に向かって三十分ほど走り、冠岩鍾乳洞に到着した。

外で待つという峪口たちを添乗員は、“昨日のものより数段素晴らしいから、とにかく見てきてください”と説得した。

「施川。添乗員によると、昨日よりもいいらしいから、行こうか……」

「いいよ、ヤンちゃんも行くみたいだから、わしも行こう」

「オメェは、ほんとに現金な男だなぁ。スケベ」

「ス、スケベェー……、うるせえ、ムッツリスケベが」

「こらこら、スケベ同士で喧嘩するンじゃない」

「おっ、邑中よぉ。一番のスケベ男がなんか言っているぞぉ~」

「うんだぁ。やっぱりなんてゆっても、峪口が一番スケベェだんべぇ」

確かに添乗員がいうとおりで、スケールといい美しさといい素晴らしいものではあったが、どんなに美味しい料理も二日続きで、然も同じ味付けでは飽きるのが道理である。

また、中国の観光地はどこでもそうだが、一番の見所には必ず写真屋が店を出しており、タダでは撮影できない仕組みになっている。

この鍾乳洞もご多分に漏れず、そのような仕組みとなっていた。

それが中国人にとっては当たり前と見えて、誰も文句を言わず、素直にお金を払って写真を撮ってもらっている。


3


グルッと一廻りして表に出ると施川が、

「ところで、どうだった。ヤンちゃん、食事の件、オーケーだって?」

「いや、駄目だって。……食事内容を全部確認して、旅行社に苦情を言うンだそうだ」

「ヘーえ。……ほんとうにしっかりしているわ」

「うんだうんだ」

「ところでどうする、俺たちは?」

「麗ちゃんも駄目、ヤンちゃんも駄目か。はーあ、ため息が出ちゃうよ。よし、もう一度だけチャンスをやろう」

「誰に、やねん?」

と言う峪口の突っ込みに、

「もちろん、旅行社にさ。麗ちゃんの会社だろう」

「はははっ…、そうか。それにヤンさんと一緒に食事をしたいンだろう」

「あっ、たりぃ~。へへへ……」

「相変わらず調子のいい男だなぁ~、オメエはよぉ。奥さんに電話すんどぉ」

「まあまあ、へっへへへ……。女房には内緒、なッ! おい、邑中。しゃべんなよ。君はおしゃべりだからな」

「しゃべんめぇよぉ~。俺ぁ、口が軽いから、約束はできねぇけんど」

しかし予想に違わず、その日のメニューも一日目とほとんど同じものであった。

「ほら、ヤンちゃんは箸をつけないよ。怒っている、怒っている。くくくく」

忍び笑いをもらしながら、施川が峪口に尋ねた。

「“よろしかったら、一緒に食事に行きませんか?”って、中国語でなんて言うの? ここに書いてよ」

「止めとけよぉ~。俺ぁ、知らねぇぞ」

「そうだ施川。火に油を注ぐことになるぞ」

「そんなにすごいのか、上海女性は? ……」

「それは俺が、身に凍みて感じている」

と言う峪口の言葉を聞いた施川は、

「そうか、そんなに凄いのか。……君子危うきに近寄らず、だな」

とブツブツ呟きながら、ようやく諦めたようだ。

「誰が、君子だぁ? 笑っちゃうべよ。なーあ、峪口ぃ~。へっへへへ……」

邑中の突っ込みにも、施川は聞こえない振りをしている。

「ええい、くそッ! 焼け飲みだあ」

と言って、施川はビールを呷った。


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