第五章 マドンナ登場
一、ポニーテールの可愛い娘
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「ところで峪口ぃ~。あの娘……、可愛いなぁ」
施川が声を潜めて囁きかけた。
「うん、どの娘よ?」
「ほら、あのテーブル。オヤジ三人と一緒にいる娘さ。さっきからこっちをチラチラ見ているけど、わしに気があるのかもな」
「ねぇねぇ、絶対にねぇ。二人とも止めろよぉ~」
と制する邑中の言葉を無視して、
「添乗員じゃないかな、恐らく。どう見ても変な組み合わせだものな。それよりもアンタは人畜無害じゃなかった?」
「人畜無害だって、可愛いものは可愛いンだよ。峪口ぃ~、ちょっと話し掛けてみろよ」
二人は声を潜めてヒソヒソと話し続けた。
「止めろってばぁ~。オメェら駄目だよぉ~、喧嘩んなんべぇよぉ」
心配そうに邑中が忠告した。
邑中はこういったことが大の苦手で、三人で北海道に旅行したとき、女子大生から逆軟派され、部屋に逃げ帰って来たことがある。
その話を聞かされた峪口と施川は、しばらく笑いが止まらなかったものだ。
「いいじゃねえか、なぁー。写真を撮ってくれ、とか言って話し掛けてみろよ。なぁー、旅の恥はかき捨てって言うだろう。なぁー、峪口ぃ~」
「オメェは恥の大安売りだなぁ。日本の恥だんべぇ」
「けぇけけけけ……、なんと言われてもわしは気にしません。なぁー、峪口ぃ~」
先ほど目ざとく彼女に気づいた峪口も、ポニーテールの良く似合うその娘が気にはなっていたので、
「わかった、わかった。待っていろよ」
峪口は意を決して、その娘のいるテーブルへと向かった。
「うんもぉー、しょうがねぇなぁ~。俺ぁ知らねぇど。勝手にしろ」
後ろから、邑中の嘆きが聞こえてきた。
「対不起……」
と峪口がその女性に声をかけると、
「日本語、わかりますよ」
にっこりと微笑んだ女性から、流暢な日本語の答えが返って来た。
「ご旅行ですか?」
「ええ、そうナンです。あそこにいるおじさんたちと」
と言って、施川の方を指差した。
「ほっほほほっ…、手を振っていますね。面白そうな方たちですね。……いいですわよ。写真、お撮りします」
2
同行者の了解を得た女性が、峪口と一緒に二人のところへ向かった。
峪口の説明に施川は、
「彼女、日本語わかるンだ。なぁ~んだ、それなら最初からわしが行けばよかった」
そして女性が側に来ると、
「綺麗な方ですねえ」
と、恥ずかしげもなく言う。ほんとうにいつもながら調子のいい男である。
「お仕事ですか?」
「ええ、CITS旅行社です」
「CITS!? ……、ぼ、ぼくたちのツアーと同じだ。なあなあ、峪口ぃ」
「へへっ…、ぼくたちだと、笑っちまうべぇ。唐辺木がぁ」
「あんだと……」
「はっははは……。袁さんっていう添乗員の方、ご存知ですか?」
「もちろんご存知ですわよ、同僚ですから。ふふふっ…」
「ところで、あの人たちは?」
施川がこちらを見ている三人の男性の方を顎でしゃくった。
「韓国からのお客様です。これから空港にお送りするところですの」
「かっ、韓国語もできるンですか?」
施川の顔に尊敬の念が浮かんだ。
「ええ、簡単な会話ならできます。でも、どちらかというと、日本語の方が得意ですわ」
「じゃあ、じゃあ、あの、あの三人を送った後の予定は?」
興奮気味に期待を込めて、施川が質問した。
「今日はそれで終わりです。明日はまた別のお客様のご案内です。国慶節は忙しくって」
「た・に・ぐ・ちぃー……」
「なっ、なんだよ。気持ち悪い声を出して」
「あのさあ、ちょっと、こっち、こっち」
と峪口を自分の席に導き囁いた。
「どう、午後、彼女に案内を頼もうか?」
「そら、まあ、いいけど。でも、彼女の都合も訊かないと……」
「俺が訊いてみるよ」
こういうことには学生時代から、実に積極的な男である。邑中はその間、一言も言葉を発しない。
「はい、……いいですわ。そうですねえ……、四時ごろでしたら。ところで、みなさんはどちらのホテルにお泊りですか?」
施川が満面に笑みを浮かべた。
峪口も内心喜んでいた。
「わかりました。それでは四時にホテルへお伺いします。さあ、もう行きませんと……」
と言って、彼女は名刺を置いてテーブルに戻って行った。
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「Zhang・Liさんか」
「うん、なになに、張麗さんか。麗ちゃん、麗ちゃんと」
施川はすっかり舞い上がっている。
「オメェ、こうゆうことは、ほんとにうめぇなぁ~」
邑中がようやく口を開いた。女性の前では実に大人しい。
峪口が精算の合図を送ると、小姐が伝票を持って走って来た。
「なにっ! 六百九十元……、高いなあ。なになに……、雉が百八十元、桂魚が八十元、野菜炒めが三十元、チャーハンと焼きそばが同じく三十元と、ええと……、ビールが二十、二十五元!? たっけぇ! ……何本飲んだっけ?」
「八本!」
施川が元気よく応えた。
「そうか、そんなに飲んだのか。お茶が十元、おしぼりが十元だと、なんでも金を取るんだよなあ」
「峪口ぃ~。オメェ、えれえ細っかくなったなぁ」
「ああ、こっちじゃ、明細をよく見ないと誤魔化されるからね。会社の連中はもっとすごいぞ。伝票の明細を一品一品、全部チェックするもの」
「峪口ぃ~、もういいよぉ~、俺ぁが払うからよぉ~。ほれ、これで足りんべぇ?」
と、邑中が百元札の束を机にポンと置いた。
「割り勘にしようぜ。なぁー、施川?」
「うん、すっきりと割り勘にすんべぇ。あっ、また邑中の言葉がうつっちゃったよ」
「いいてばよぉ~。俺ぁが出すってばよぉ~」
「駄目ッ! はい、割り勘で二百元!」
「こらっ、施川っ! 三十元足りないぞ」
「細っかいこと言うなよ。段々中国人になってきたなあ、峪口は……。ああ、満足満足。どう、ホテルでひと眠りしようか、シャワーも浴びたいしね」
「うんだなぁ」
「そうするか。タクシー、タクシー、と……」
「おおっと、その前に、麗ちゃんにご挨拶、ご挨拶と……」
施川は嬉々として張麗の元に向かった。
二、恋の鞘当
1
峪口がホテルで目覚めると、時刻は午後三時を少し回ったところである。
酔いも手伝い、ベッドに身体を投げ出した途端に眠ってしまったらしい。
邑中はまだ豪快なイビキをたてている。
施川のベッドを見るともぬけの殻、トイレかと思ったが気配がない。
いったいどこへと心配していると、間もなくドアをノックする音が聞こえた。
「おーい、わしだぁーッ! 開けてくれえーッ!」
施川だ。
「どこへ行ってたンだ?」
「へへへっ…、楽しみで眠れなくて、表を散歩してきたンだ。それにしても埃っぽい街だなあ」
「そうだ。さっき、張麗さんから電話があったぞ」
「えッ! 麗ちゃんから。で、な、なんだって?」
「うん、……急に仕事が入ったから、約束はなしにしてくれってさ」
施川の表情が一瞬にして凍りついた。
あまりに落ち込む施川が気の毒になり、
「うそうそ、嘘だよ」
「峪口ぃ~、いくら大人しいわしでも怒るぞぉ~、ほんとによぉ……」
などと二人が戯れていると、部屋の電話が鳴った。
顔を見合わせる二人。施川に促がされ、峪口が電話を取った。
その様子を心配そうに見つめる施川が、
「麗ちゃん?」
と訊き、不安そうに峪口の顔を覗き込む。
「うん……」
峪口はわざと暗い顔で応じた。
「駄目、か?」
落ち込む施川に、峪口はにやりと笑いかけて、
「もう直ぐホテルに着くってさ」
「ほっ、ほんとか? こんどは嘘じゃねえだろうな」
施川の表情が満面の笑みに変わった。
「早く下に行こう。待たせちゃ悪いよ。いや、待てよ。シャツを変えようかな。なあ、どう思う?」
「好きにすればあ。邑中を起こさなくっちゃ……。おい、起きろよ」
「うらうら、早く起きろーッ! くらぁーッ! 置いてくぞお」
施川は邑中の身体を激しく揺すりながら怒鳴る。だいぶ気合が入ってきたようだ。
「うう~ん、もう喰えねぇ。あっ、……なんだ、どうしたんだぁ?」
と寝ぼける邑中に、
「うらうらうら、いつまでも寝ぼけてるンじゃねえ。うらぁーッ! 起きんかぁーッ!」
施川が身体をくすぐる。
「や、止めろ、止めろ。くすぐってぇよぉ。施川ぁ~、止めでぐれぇ~。わがった、起きっからよぉ~、起きるってばよぉ~」
叫び声をあげて、邑中は飛び起きた。
「わしらは先に行くぞ」
「ちっと、ちっと待ってくんど。冷てぇなぁ~、オメェらは。俺ぁヒゲ剃っからな」
「いいよ、そのままで。もう時間がない。直ぐ麗ちゃんが来るンだからな」
「直ぐだよぉ~。ちっと待っててくんどぉ」
「はいはい。……一階で待ってるよぉ~」
2
ロビーで待つこと十分、その間、施川の遅いな遅いな、大丈夫かなあ、ほんとに来るかなあ、という言葉を何度聞いたことか……。
そわそわと落ち着かない施川。
峪口が突然立ち上がって叫んだ。
「おっ、来た、来た!」
「えっ、ええ、えっ……。どこどこ?」
キョロキョロとする施川に、
「邑中が……」
と付け加えた。
「なんだ、不細工かあ」
「なんだ、石田純一かぁ、はねぇべぇよぉ」
「だ、誰が石田純一じゃ」
「へへへへ……」
「あれ、オマエさん、ヒゲ剃って整髪して。なんだよ、シャツまで着替えてきたのかあ。なに、期待してンだよ。それにしても派手なシャツだな」
「いいべぇ、余計なお世話だんべぇよぉ」
「まーったく、ぼくは女性には全然興味がありません、て面して、しっかりと狙っているじゃねえか」
「へへへへ……、男の身だしなみだんべぇ」
「なぁーにが、身だしなみだ。不細工な面曝しやがって、このムッツリスケベェが……。そっちで毛づくろいでもしてろ、まったくよぉ~」
「まあまあ、施川君。男はみんなスケベなものサ」
「なんだよお、峪口も麗ちゃんを狙っているのかあ。……やべえ、やべえ」
と言って立ち上がり、表に目をやった施川が、
「おっ、来た来た。麗ちゃんだ。今、タクシーから降りた」
と叫ぶが早いか、入り口に向かって走り出した。
「おい、落ち着けよ。恋人が来たわけじゃないンだから」
逸る施川は、制する峪口の言葉も聞かず、
「う、うーん、恋人、桂林の恋人。どうしようかなぁ……、結婚してくれって言われちゃったら、どうしょうかなぁ……」
などとバカなことを言っている。
「ねぇよ、ねぇ、絶対にねぇ。ブァ~カ、まぁーったくガツガツして、みっともねぇ」
と言いながら、邑中は悠然と立ちあがって入り口に向かった。
峪口は、その後ろにしたがった。
施川はタクシーのところまで出向き、満面に笑みを湛えて張麗を迎えた。
「遅くなりました」
張麗はひとり一人に丁寧な挨拶をした。
目をしっかりと見つめながら話す張麗に、峪口は照れながら、
「いえいえ、時間通りです。申し訳ないですねえ、お疲れのところを……」
と挨拶を返えしながら、胸にほのかなトキメキを覚えるのを禁じ得なかった。
「あちらに座ってスケジュールを考えましょうか?」
と促がされ、張麗と向かい合う形で三人はソファーに腰を下ろした。
「もう時間もあまりありませんから、遠くは無理ですね。どこかご覧になりたいところはございますか?」
「いえ、麗ちゃんがお奨めの場所ならどこでもけっこうです。お任せします」
施川が口を挟んだ。
「レイちゃん? って、私のことですか?」
「あっ、はい。日本語読みではレイちゃんです」
「そうですか。うっふふふっ…、麗ちゃん、なんて呼ばれたのは初めてですわ」
「峪口さんは如何ですか、どちらかおありですか?」
「いいんですいいんです、麗ちゃんのお奨めの場所で。なあ、峪口ぃ~。邑中っ! 文句ねえだろう」
施川は早くもライバル心をむき出しにしている。
「ねえねえ。ブァ~カ」
「うふふふっ…。それでは杉湖の日月双塔に行ってみましょうか。湖の中に美しい二つの塔が建っていまのよ。夜になると、それがライトアップされて、とても綺麗ですよ」
「あっ、いいないいな。そこは近いンですか?」
「ええ、ここからでしたら、そうですねえ……、車で二十分もあれば着きますわ」
「よし、そこへ行きましょう。峪口、カメラ持ったよな。邑中、銭持ったな」
「はいはい、お代官さま」
「へへへっ…、ブァ~カ」
「……? なんですの、お代官さまって?」
「ははははっ……、冗談です。日本のジョークですよ。峪口君、返事は一回ね。邑ちゃん、アンタは人間の言葉はまだ無理ね」
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四人は杉湖の湖畔でタクシーを降りた。
連休中の所為か湖畔は観光客で大賑わい、日本語もあちらこちらで飛び交っていた。
「それほど大きな湖ではありませんから、湖畔を一周してみましょうか? ほら、あれが日月双塔です。ここから双塔をバックにして、写真を撮られたら如何ですか?」
「よし、撮ろう。峪口、頼むよ。わしと麗ちゃんのツーショットを撮ってくれ」
「わかったわかった。こら、施川ッ! 肩を抱くなっ!」
「ったく、もーう。んだから、日本人はスケベっだってゆわれんだんべぇ」
邑中も呆れたとばかりに首を振った。
「あッ!」
「えッ! なんですの?」
「麗さん、フラッシュは焚かないでください。ハレーション起こしますから」
「そうですね。まだ、フラッシュは早いですわね。ハレーション……?」
峪口の言葉に生真面目に答える張麗に、
「へぇへへへ……、そうゆう意味じゃねぇべぇ」
邑中は、これこれ、と自分の頭を指差した。
「またまた、このぉ~。わしを陥れようとして。へへへ……、これこれ……」
と、施川は自分のハゲ上がった頭をピシャリと叩いた。
「えっ、……まぁー、面白い方。うふふふっ…」
張麗も声をあげて笑った。
「よし、施川、代われ。今度は俺と麗さんだ」
「えっ、えーっ、峪口も撮るのぉ~」
「あたりまえだろう。ほら、早くしろ」
「チェッ! しょうがねえなあ。よし、麗ちゃんだけ撮ろう、っと」
「こらこら、しっかり撮れよ」
「うふふふっ…、施川さんって面白い方ですね。みなさんお付き合いは長いのですか?」
「長いもなにも、もうかれこれ四十年。腐れ縁、腐れ縁」
「俺ぁとハゲじゃねくて、施川とは四十年ぐれぇのモンだべぇ。峪口とは、……うんと、ご、五十年だぁ」
「それこそ、えええーッ! ですわね。みなさんはそんなお年なんですかあ。とてもそうは見えませんけど」
「またまた、麗ちゃんはうまいこと言ってぇ。わしはともかくこの二人は、どう贔屓目に見ても年相応でしょう」
「まあ、施川さんたら。うふふふっ…」
「その頭で、ずうずうしい奴だ」
邑中が囁いた。
「うん? わしの頭がどうかしたか?」
「ボケは来てるようだけんど、耳はいいみてぇだな」
「ほほほほっ…。ところで、くされえんってどうゆう意味ですか?」
「腐れ縁。まあ、なんというか、その……悪い縁で、切ろうとしても切れない関係、とでもゆいますか」
「まあ、ご冗談を……。ほんとうは仲がおよろしいンでしょう」
「はっはははっ…。まあ、喧嘩したりくっついたり、正に腐れ縁かな」
考えてみれば不思議なもので、お互いに言いたいことを言い合いながらも、喧嘩することもなく、親しく付き合いだした高校生のときからでも、かれこれ四十年以上付き合いが続いていることになる。
峪口にとっても、四十年以上も変わらず付き合いが続いている友は、施川と邑中だけだった。
家が近いだけでは説明できないなにかがあるのだろう。結局は相性がいいということなのか。
4
「邑中、オマエも麗さんと撮れよ」
「俺ぁ……、いいよぉ~」
恥ずかしそうに応える邑中に、
「ほら、せっかくだから撮れよ」
と峪口が押し出して、二人を並ばせた。
邑中は顔を赤らめている。
― ほんとうに純朴な男である。
「三人でお撮りしましょうか?」
「すいませんが、二人ずつお願いします」
「あら、なぜですの?」
と怪訝がる張麗に、
「それが笑っちゃうンですよ。邑中がねーえ……」
施川が説明をしようとするとすると、
「あっ、いい、いい。なんでもねぇ。施川、黙れーッ!」
と邑中が慌てて遮って、
「三人で撮るべぇ。ほれ、早く並べ、並べ」
と峪口と施川を促がしたので、二人は顔を見合わせて大笑いをした。
「まーあ、おかしな人たち。なんですの?」
「はっははは……。ああ、可笑しい。笑いが止まらない。はっははは……。実はね、麗さん……」
「駄目だ、駄目だよぉ。早く行くべぇ、行くべぇ」
杉湖の湖畔は石の遊歩道が張り巡らされていて、歩いて一周できるようになっている。小一時間もあれば廻れるとのことだ。
観光客だけでなく、寄り添う若い恋人同士の姿もたくさん見受けられた。
「いいな、いいな。麗ちゃん、ぼくたちも座りましょうか。峪口と邑中は、二人でどっか散歩でもしてきてよ」
「まあ、施川さんたら。うふふふっ…」
湖畔を暫く歩むと大きな橋に行き当たるが、遊歩道はその橋の下を通り抜けられるようになっていた。
四人は冗談を言い合いながらのんびりと歩を進めた。
「ほら、あそこにガラスの橋がありますでしょう?」
「はい。あれは、ぜっ、全部ガラスですか?」
「そうですよ。綺麗でしょ、施川さん?」
「ふんとに綺麗だけんど、乗っかっとぶっ壊れんじゃねぇかぁ。おっかねぇなぁ」
「……? 邑中さんの言葉って、難しくて」
「へへへへ……。邑中のひょーじゅん語、わしにも理解できましぇん。峪口、通訳」
「あっ、ごめんなさい。私、まだ日本語があまり……」
張麗は雰囲気を読むこともできるようだ。峪口はそんな張麗を好ましく感じた。
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「ぼくの日本語が一番正しい。麗さんもぼくの日本語を勉強してください。施川と峪口のは田舎弁です」
と邑中が珍しく冗談を言った。
「まーあ。邑中さんも、ちゃんと話せるじゃないですか」
「実はそうナンです。でも、疲れる……」
「無理をするなよ、邑中君。君の特徴はやっぱり、だんべぇ言葉ナンだから。ところで、あの橋は中に入れるンですか?」
施川はいつものベランメエ調の語り口と違って、丁寧な受け答えをしていた。女性の前だとコロリと変わる。
現金な男である。
「ええ、中に入ることはできます」
「でも、鍵がかかっていますよ」
「今はお金を払わないと入れなくなっています。橋ができたばかりのころ、珍しいものだから、たくさんの人が押しかけて、重みで壊れちゃったンです」
「入ってみようか、麗ちゃん?」
「止めておきましょう。それよりも、日月双塔に登ることをお勧めしますわ」
「あれ、登れるンですか? それはいい、早く行きましょう」
施川がはしゃいで言った。
「煙となんとかは高い所が好き、ってね」
峪口が茶々を入れると、
「あっ、それは私も知っています。確か、バカ……」
「そう、バカです」
「酷いな、麗ちゃんまで」
「ほほほほっ…、ごめんなさい」
「当たっていんべぇよ」
邑中の言葉に、四人は顔を見合わせて大声で笑った。
「もう少し行きますと、向こう側に渡れる玉製の橋があります。その袂に樹齢千四百年とも千五百年とも言われている、大きなガジュマルの木がありますよ」
「ギョクって、なんですか?」
施川が興味深げに聞いた。
「高価な石のことですわ。高貴な方の椅子を玉座とか言うでしょう」
「へーえ、すごいですねえ。お金がたくさんかかったンでしょうね?」
「さあ、金額わかりませんけど、きっと大変なお金でしょうね」
間もなくその橋に行き着くと、橋の袂に大木が生い茂っていた。
幹が太く黒ずんでいて、樹の高さよりも広く、枝葉を空間に思いっきり広げた、南国特有の大木である。
「なるほど、デッカイわぁー!」
峪口も思わず感嘆の声をあげた。
「石丸電気かぁ…」
写真集を買うほど峪口は巨木に興味を持っていて、悠久の時を超えた巨木には、なにか不可思議なものを感じていた。
老後はカメラを担いで、全国の巨木巡りをしたいものだと考えている。
「さあて、そろそろ行きましょうか、峪口さん」
巨木に魅入られたように見入る峪口に、張麗が優しく声をかけた。
呼びかけで我に返った峪口は、
「すっ、すいません。つい、魅入られてしまいました。それにしても不思議なものですね」
「えっ、なにが、ですか?」
「いえ、いいンです」
峪口は巨木から感じる不可思議を言葉にしようとしたが、うまく表現ができない。
また、無理に説明しても、到底理解は得られないだろうと諦めた。
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四人は玉の橋を少し割って持ち帰ろうか、などと冗談を言い合いながら渡り終えた。
湖畔には鬱蒼と木々が茂り、真夏並みの暑い日差しを遮ってくれており、しかも湖面から吹く風が心地良く、長い距離を歩くことも苦にはならなかった。
しばらく歩いて行くと、やがて開けた場所に出る。そこにはベンチがいくつも置かれていたが、それぞれにアベックが席を占めていて、空きはひとつもなかった。
「ここは景色もいいし、少し休みたいンだけど、……席が空いてないねえ」
と、施川が辺りを見回し不満げに呟いた。
施川の不満が聞こえたわけでもないのだろうが、一組の男女がベンチを離れて行った。
すかさず駆け寄った施川が、
「麗ちゃん、こっち、こっち」
席は誰にも譲らないぞ、とばかりに大声でみんなを呼んだ。
「麗ちゃん、真ん中、峪口と邑中はそっち。オマエら、あんまり麗ちゃんに近づくなよ」
「ははははっ…。わかった、わかった」
「ほほほほっ…。ほんとうに施川さんて、面白い方ですわね」
「ちょっと待っていてください。売店で飲み物を買って来ますから。峪口ぃ~、麗ちゃんを口説くなよ。邑中、……オマエはいいや」
「バカゆってねぇで、早くけぇに行けッ! シッ、シッ!」
なんだかんだとうるさいが、気の良い男である。
「羨ましいわ。ほんとうに仲の良いお友達で……。男同士って、いいですわね」
「気の置けない男です。いい奴ですよ。少しうるさいけど。ふっふふふ……」
「少しじゃあんめぇよぉ。へぇへへへっ…」
「みなさんは旅行で、中国にいらしたのですか?」
「ええ、この邑中とあの施川は日本からですけど、ぼくは上海で仕事をしています。もう駐在して六年になります」
「そうなんですかあ。私も時々上海にまいりますのよ。もちろんお仕事ですけど。上海は大都会ですものね。私も、ぜひ住んでみたいものです。桂林は田舎でつまらなくて……」
張麗の言葉には、上海への憧れが色濃く漂っていた。
「こんな環境のいいところに住んで、それは贅沢ってもんですよ。上海は確かに刺激的だけど、住むにはあまりいい場所とは言えません。それに物価も高いし、住み難いですよ」
「それでも田舎の人間から見たら、住んでみたいと思いますのよ。こんど上海へ行く機会がありましたら、ご連絡してもよろしいですか?」
「えっ、ええ、もちろんです」
突然の申し出に、峪口はシドロモドロに応じた。
「ご家族の方も一緒ですか?」
「えっ、……いえ、単身です。ご連絡をいただければ、そんな嬉しいことはありません」
峪口は額の汗をそっと拭った。隣で邑中がニヤニヤしている。
「ほんとうですか、きっとお電話しますわ。お約束ですよ」
彼女の顔が少し紅潮したように見えた。
三、その声で、トカゲ喰らうや、ホトトギス
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「おいおい、いい雰囲気じゃないの。峪口ぃ~、このぉ~、このぉ~」
買い物から戻ってきた施川が、峪口を肘で小突く格好をした。
「はい、麗ちゃんと僕はウーロン茶。峪口と邑中はビールね」
「えっ、ビール。俺ぁ、ビールはいんねぇどぉ」
「なに遠慮しているンだよ、アル中の邑中さんと峪口さん」
「あら、お二人ともアル中ナンですか? うっふふふふっ…」
張麗は微笑みながら、怪訝な視線を二人に投げかけた。しかし、目は笑っている。
「ほぉーれ、麗ちゃんに誤解されたんべぇよぉ。バァ~カ。施川ぁ~、ほれ、交換しろ」
と邑中が缶ビールを施川に投げ渡した。
「またまた、麗ちゃんの前だからって格好つけるなよ」
「それはオメェだんべぇ。うんもーう……」
「そうか、しょうがねえ。邑中の顔を立てて、わしが悪者になってやるか」
「まだゆっているよ、この男は。……ところで麗さん、桂林で一番うまいものって、なんですか?」
峪口は話題を変えた。
「そうそう、夕飯は美味しいものが食べたいなぁ」
「うんだぁ。銭っ子は俺ぁが出すど」
施川と邑中も同調した。
「そうですねえ……、やはり魚なら桂魚。エビなんかも美味しいですよ」
張麗は少し考えてから答えた。
「桂魚は麗ちゃんと会った店で食べたから、なあ、峪口ぃ」
「うん」
「あら、そうですか。他にも美味しい魚がたくさんありますよ」
「地元の人たちがでぇ好きなものってゆうと、蛇とかゆうんじゃあんめぇ?」
「あら、邑中さんは蛇、お嫌いですかあ?」
「きれぇ(嫌い)てゆうか、俺ぁ喰ったことねぇもん」
「だったら、是非食べてみてください。美味しいですわよお」
「ふんだってよぉ~。峪口ぃ~。どうすんべぇ?」
邑中が峪口に情けない顔を向けた。
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「俺は上海で一度食べたことあるよ。こぉーんな太いやつの唐揚げ……」
峪口は両手の親指と人差し指で輪を作って二人に示した。
「うめぇかったかぁ?」
数年前に仕事上の交渉相手に勧めら、大王蛇と呼ばれる蛇の唐揚げを、仕方なしにほんの少しだけ齧ったことがある。
肉は少し固めでたっぷりと香辛料が効かされており、味わいだけからなら蛇とは気がつかなかったであろうが、如何せん、そのアーチ上の姿から蛇と認識できた。
「唐揚げよりスープが美味しいンです。それに皮を炒めたものは、美容にいいンですよ」
「まあ、蛇はともかく、他には?」
と峪口が訊くと、
「狗(犬)の肉も好まれていますね。だいたいが鍋仕立てですけど……。美味しいお店を知っていますから、なんでしたらご案内しましょうか?」
「犬ッ!? ……」
三人揃って、同時に驚きの声をあげた。
「そう狗です。冬は身体が温まりますし、とても美味しいですわよ。私も大好きです」
「その声で、トカゲ喰らうや、ホトトギス」
「まあ、峪口さん、なんですのそれ?」
「日本の俳句、川柳かな……? 麗さんのお話からこの句が浮びました」
「どうゆう意味ですか?」
「なんというか、その。……なあ、施川」
「おいおい、わしに振るなよ」
「ということは、あまり良い意味ではありませんね」
と、張麗は眉をしかめ怒った表情をつくり、一瞬間をおいて、うふふふっと笑った。
それがまた峪口には、なんとも魅力的なものに感じられた。
「ところで施川さん。お話しの中に時々『わし』という言葉が出てきますけど、どうゆう意味ですか?」
「俺ぁちゅう意味だんべぇ。ふんでもって、わしゃも同じだんべぇ。なんでオメェは、自分のことをわしって言うんだぁ?」
邑中が張麗に説明しながら、施川に質問した。
「うーん、なんでだろう? なんでか、わしの方が言い易いんだよなあ」
施川は自分でも首を捻っている。
「日本語っていろいろな言い方があるンですよね。だからとても難しいです」
「邑中みたいに、わけのわからない野蛮人言葉を使う奴もいるしなあ」
「まぁー、施川さんたら。うふふふっ…」
「ところで麗さん、蛇と犬はこの次にして、今日は普通の食べ物にしましょうか」
「あら、峪口さん。狗も蛇も普通の食べ物ですわよ。この辺りのお店ならどこでも、ごく一般的な食材として置いてありますもの」
「そうですか。上海ではサーズ以来、どちらも販売が禁止されています」
「まあ、上海の人たちは可哀想ですこと。美味しいものが二つも駄目だなんて」
「こればっかりは、いくら麗ちゃんのお勧めでも……」
「俺ぁ、ぜぇーったいいらねぇかんな」
「オマエさんはストレートでいいねえ」
「なんがぁ…?」
などと、取り留めのない話をしているうちに、辺りには夕闇が漂い始め、月も顔を出し、湖面にその姿を映し出している。
四、日月双塔に懸かる中秋の名月
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ライトアップされた湖畔は、幻想的な風景に変わっていく。
「ほら、見てください。日月双塔に月がかかって綺麗でしょう? 湖に写った姿が、また美しいでしょう」
「すっ、素晴らしい。まるで麗ちゃんのようだ」
「まあ、施川さんたらお上手なこと」
「いやあ、ほ、ほんとうです。素晴らしい……」
「うんだぁ」
峪口は日月双塔と月、そしてそれが湖面に逆に写る姿を一緒にカメラに収めた。
「金と銀の塔、どっちが太陽でどっちが月ですか?」
答えはわかっているが、峪口は月並みな質問をした。と、
「そんなの決まっているじゃん、金の塔が太陽に。ねえ、麗ちゃん?」
施川が得意げに答えた。
「あら、……施川さんは賢い」
「ま、またぁあ、バカにしてえ」
「うふふふっ…。でも、正しいですよ。金色の塔は全て銅で出来ていますのよ」
「なぁ~んだ、金じゃねぇのかぁ。少し削って、持ってけぇんべと思ってたのによぉ」
「まぁー、邑中さんがそんなことをおっしゃって……。施川さんならわかりますけれど。警察に突き出されても知りませんわよ。うふふふっ……」
「うんだぁ。施川じゃやりかねねぇ」
「あらぁー。わかっちゃったぁー」
「まぁー、ほほほほっ…」
「さぁて、登ろうか」
峪口の一言で、四人が腰をあげると、直ぐに男性がその席をゲット。恋人らしき女性を早く、早くと手招きしている。
「おっ、どこも男はたいへんだねえ。頑張ってね。峪口ぃ~、一人二十五元だって、四人でちょうど百元だ」
「はいはい、百元ね」
「いいよ、俺が払うってばよぉ~」
「邑ちゃんは後で食事代を払ってね」
「うん」
塔までは木製の橋がかかっていて、橋の途中に小島がある。
小島の中のクネクネとした歩道を進むと、やがて銀の塔の入口に辿り着く。
「あれ、階段を上がるの……、おかしいなあ? エレベーターがあるって書いてあったけどなあ?」
「峪口さん、銀の塔にはエレベーターがないンですよ。金の塔の方にありますから、そちらへ行きましょう。そこの階段を下におりてください」
「はい、ここですね」
「急ですから、気をつけてくださいね」
「あれぇ~、わしには言ってくれないのぉ~」
「うふふふっ…。施川さんも、ついでにお気をつけてください」
「あらら、冷たいこと」
「ふんじゃ、俺ぁはどうなんだぁ」
「君は気をつけなくていいの。麗ちゃんを煩わせないようにネ」
「まぁー、そんなことはありませんわよ。なんでしたら手をお取りしましょうか」
「えっ、うんにゃ、オ、俺ぁ、ひ、一人ででぇじょうぶだぁ」
と言って、邑中は顔を赤らめた。
「ブァ~カ、なに赤くなってンだよ。冗談に決まっているだろうが」
「うふふふっ…、そんなことございませんよ」
「それじゃあ、わしが頼むわ」
「さっ、行きましょうか、峪口さん」
「あらららら……」
「オメェの方が、ブァ~カ!」
地下に下りるとトンネルに行きあたった。
2
そのトンネルは湖の中を通っていて、まるで水族館のようである。
所々でガラスに寄り添うようにして寝入る魚の姿も見受けられた。
トンネルを五十メートルほど進むと、太陽の塔の入り口だ。
外壁も内壁も銅は磨きぬかれており、ピカピカと輝を放っていた。
入り口を潜ると、塔の真ん中辺りにエレベーターの乗り口はあったが案内人はいない。
セルフサービスである。
三人は一気に四階まで登った。
「うおっーッ! すんげぇーッ! すんげぇーッ!」
施川は感嘆の声をあげた。
「峪口っ! 写真、写真撮ってよ」
湖面を吹き抜ける風が窓から吹き込み心地良い。
「まだ、上があるよ。ここからは階段だ」
施川はドンドン上に登って行く。
三人もそれに続いた。
「おやぁ~、まだ上があるぞ。おーい、行くぞおーッ!」
「お~お、バカが張り切っちゃってよぉ」
「峪口ぃ~、わしがいないと思って、麗ちゃんに変なことするンじゃねえぞぉ~。邑中、よぉーく見張っていろよぉ~」
「まぁー……」
「あんなバカのゆうことは気にしないでください」
「うんだぁ」
塔の天辺から見る夜景は実に素晴らしいものだった。特にライトアップされた日月双塔は、その姿が湖面にも映り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
あまりの美しさに四人は、魅入られたように、しばらく無言のときを過ごしたが、その静寂は、やがて下から聞こえてくる喧しい声に遮られた。
どうやら他の団体客が登って来るようだ。
「あ~あ、せっかくの雰囲気が台無しだよ。まったく中国人はうるせえなあ。下りよう、下りよう」
「おいおい、俺たちはまだ上ったばかりだよ」
「いいじやないか、わしがたっぷりと見ておいたから」
「ふんとにオメェは、わがままな男だなぁ」
「へへへっ…、お陰さまで」
「なぁーんがぁ?」
既に施川の足はエレベーターに向いている。施川に先導されて一気に一階まで下り、こんどは銀の塔の入り口に立った。
「どうする、登る?」
と、峪口が訊くと、
「もう、ええわ。景色はあっちとほとんど同じだろう。それにこっちは階段だものなあ」
「うんだなぁ。麗さんも疲れたんべぇ」
「おっ、邑中君。ワンポイント追加」
施川が茶々を入れると、邑中は顔を朱に染めた。
3
銀の塔の一階には、なぜか景徳鎮の焼き物が展示されている。
「これって、高いんだんべぇ?」
張麗の話によると、なんでもお金で価値をはかろうとするのは、以前は日本人の特徴であったが、最近は上海人もマンションを見ればいくらだ、書画骨董を見ればいくらだと訊くので、添乗員に嫌がられているそうだ。
「よくわかりませんけど、高いものでしょうね」
張麗は邑中の質問を軽く受け流した。
「でも、見張りがいないンだから、偽物じゃないのかなあ。ねえ、麗ちゃん」
と訊く施川の質問に、張麗は応えなかった。
こっちこっち、という邑中の声に促がされて塔の外に出ると、大きな釣鐘と太鼓が置かれている。
「これ、はたいて(敲いて)もいいんだべぇ?」
「はい、大丈夫です」
との返事を聞くよりも早く、施川はバチをつかんでいた。
「なんだぁ、施川ぁ~。俺ぁが麗ちゃんに訊いてンのによぉ~」
そんなことにお構いなしに、施川は器用に祭り太鼓のリズムを湖面に響かせた。
ピアノも見様見真似で覚えたと豪語するだけあって、施川は音感が良いのか、太鼓も様になっている。
三人はそれぞれの悩みを吹き飛ばすように、代わる代わる太鼓を敲き、釣鐘を撞き、腹の底から笑いあった。すると、
「じゃあ、私も……」
と張麗も三人の後ろに続いた。
「ああ、すっきりした。すっきりしたら腹が減ったなぁ。へぇへへへ……」
と施川が笑うと、
「私も。うふふふっ…」
「俺も。へっへへへ……」
「うんだぁ。飯、喰いに行くべぇ」
とみんなが同意した。
日月双塔の上にはわずかに楕円がかった月がかかっている。
明日は中秋節、見事な満月が見られるはずだ。
五、チップはいただけません!
1
タクシーを拾って五分、
「このレストランでよろしいかしら?」
「麗ちゃんのお奨めなら、ぼくは文句ありましぇ~ん。峪口、文句ある?」
「へっ、ないよ、ない」
四人は木龍湖の見える窓側の席を選び、物思いに耽るように、しばらく夜景に魅入っていた。
明るくは振舞ってはいても、みなそれぞれ悩みがあるものだ。
峪口は断わりを入れてから、タバコに火をつけた。
すると施川が、
「ほんとうに、タバコは止めた方がいいぞ」
「そうだな……」
峪口は火をつけたタバコに口をつけず、灰皿でキュッキュッと揉み消した。
真剣に友を気遣う施川の言葉が心に凍みたからである。
「麗ちゃん。お任せしますから、美味しいものをたくさん注文してください。でも蛇と犬はけっこうです。へへへっ…」
「まあ、施川さんたら、ほんとうに注文しますわよ。ほほほほ……」
「邑中、試しに蛇を注文するか?」
「駄目ダァよぉ。俺ぁ、長いものと丸っこいのは駄目だからよぉ。もう少し大人になってからにすんべぇ」
「なんだ、丸っこいのって?」
と訊く峪口に、邑中はゲエロ(蛙)と答えた。
「とにかくビールもらってください、麗ちゃん」
元気よく施川が声を張りあげた。
「地元のビールがあるそうですけど、それでよろしいですか?」
「はいっ、けっこうどえーす。冷えたやつをお願いしま~す。邑中は水か?」
小姐が持ってきたビールに手を触れた施川が、
「よし、これならいい。お姐さん、もう三本ね」
と、早速ビールを追加した。
中国のビールは一般的にアルコール度数が低く、どれを飲んでも同じような風味で特徴がない。
どうやら、最初に外国から導入されたバドワイザーの影響らしい。
中国人は最初に井戸を掘ったもの(入ったもの)を尊重する帰来があり、中国産の有名な青島ビールなども、ご多分に漏れずバドワイザーと似たり寄ったりの味がする。
日本の銘柄も全て出揃っているが、日本とは異なり、サントリーが大きなシェアを占めている。
しかしどのメーカーのビールも、ラベルを取ったらわからないほど味が似通っていて、ビール好きにはいささか物足りなく感じられる。
2
前菜が出てからしばらくして、小姐がビニール袋を提げてやって来た。
袋にはなにやら蠢くものが入っている。
「た、峪口ぃ……。姐ちゃんがなんか持ってきけど、まさか蛇じゃあんめぇなぁ?」
邑中が耳元で囁く。
「ほほほほっ…、邑中さん、ご安心ください。注文したお魚を確認してくださいって、彼女が言っています」
「あんれ、聞こえたんかぁ」
「当たり前だろう、デカイ声で。魚ですか、どれどれ……」
袋を覗き込んだ施川は、ウヘッと素っ頓狂な声をあげ、もう一度中を覗き込んだ。
「黒くてクネクネしているから、蛇かと思ったけど、よく見りゃ鯰だあ、こりゃ…」
「どぉーれ……? ふんとだぁ、鯰だ。日本のと少し違うけんど、髭があるし、顔も確かに鯰の面だぁ」
「なんだ邑中には、鯰の親戚でもいるのかあ?」
「うんだぁ、ここにいんべぇ。頭の光っているとこなんか、そっくりだんべぇ」
と言って、邑中が施川を指差した。
「あっ、こいつ、わしの一番気にしていることを。その口に手を突っ込んで、ノドチンコガタガタ言わすぞ」
「あ~あ、おっかねぇ。でもよぉ、オメェも古いなぁ。由利徹だんべぇ」
「うふふふっ…。日本でも、この魚を食べるんですか?」
「うんだぁ。あんまし一般的じゃねぇけんど、喰うなぁ」
「わしは、ほれ、仕事の関係で岩槻にいたろう。あの辺りの名物で、よく喰ったなあ」
「そうか、施川はしばらく住んでいたものなあ。天ぷらかな、やっぱり鯰は……」
「蒲焼が美味いよ、淡白でさ。張麗さん、こっちではどうやって料理をするンですか?」
「そうですねえ……、だいたいはぶつ切りにして炒めますね」
張麗の言う通り、出された料理は見た目はともかく、どれも美味かった。
「ああ、うんまかったぁ」
「邑ちゃんにもわかったか。昼の店よりずっと美味かったな。麗ちゃん、ありがとうございます」
「ほんとほんと、張麗さんありがとうございました」
「いいえ、なにを仰いますか。すっかりご馳走になりまして、こちらこそありがとうございました」
「峪口君、邑中君。ここはわしが奢るけん、精算をしてくれ」
「またまた、ええ格好しいが。どうせ、後で割り勘ってゆうンだろう」
「図星!」
「施川ぁ~、いいってばよぉ。俺ぁが銭っ子払うからよぉ~」
「いいの、いいの。割り勘、割り勘」
「それでは私も……」
「と、とんでもありません。麗ちゃんからお金など、とってもとっても。こんなむさい男がいるにもかかわらず、ご同席していただいただけで光栄でございます」
施川が邑中を指差しながら言うと、
「オメェ、そんなに卑下すんな」
と邑中が切り返した。
「おおっと……、邑ちゃんも最近やるねえ」
「ほほほほっ…」
3
「え、えーッ! ……たったの百八十元?」
峪口が伝票を見て驚きの声をあげた。
「お高いですか?」
「いえいえ、逆です。あまり安いものですから、記入漏れがあるンじゃないかと」
「私が確認しましょうか?」
峪口から伝票を受け取り、チェックを終えた張麗が、
「間違いありません。全部入っていますわ」
「麗さんがゆうなら間違いないでしょう。……けれど、それにしても安い」
峪口はもう一度伝票に目を落とした。
「少ないンならいいンじゃないの」
「そうもいかないだろう。張麗さんに迷惑がかかるかもしれないぞ」
「そ、そうか、それは駄目だ。そういえば、さっきの店、六百九十元だったよな」
「うんだぁ。ひとり二百三十元だぁ。ふんでも、施川は二百元しか払わなかったけんど」
「おっ、まだ覚えていたか。しつこい奴だ、峪口を見習いなさい」
「そうだ施川、三十元払えよ」
「げげっ、ブルータス、お前もか」
「それにしても三人で六百九十元だなんて、いったい、なにを召し上がったのですか?」
今度は張麗が驚きの声をあげた。
「桂魚とか、雉とか、ええと……」
「そんなに高いものは頼んでいませんねえ。三人で六百九十元というのは、完全にボラレていますね。困ったものですわ。外国人と見ると直ぐに吹っかけるンですから……。なんでしたら、これから文句を言いに行きましょうか?」
「いえいえ、いいンですよ」
「そうだな、峪口。桂林の経済に貢献したと思えば、腹も立たねえよな」
「はっははは……、まあ、そうゆうことにしておこうか」
「うん駄目んどくせぇしよぉ。それにたかだか一万円ぐれぇの話だんべぇ」
「ま~あ、みなさんはお金持ちナンですねえ」
「へへへへ……、大したことねぇべよぉ」
「バ~カ、皮肉だよ」
峪口がお釣りを持って来た小姐に、その二十元はチップとして取っておいてと言うと、
「いいえ、いただけません」
と、きっぱりと断わられた。
「ああ、驚いた。これこそ驚いた」
「どうしました?」
「いえね、お姐さんにチップを渡そうとしたら断わられました。中国に住んで六年、初めての経験です」
「まあ、この辺りでは、そうゆうお店がけっこう多いですよ」
「経営者の考え方ナンでしょうか?」
「そうでしょうね。ここは確か、日本人の経営のはずですわ」
「いやぁー、お陰でボラレタ不快感が消えました。いい教育をしていますね。我々も見習わないと」
4
上海で飲食業を営んでいる峪口は、従業員のサービス感覚のなさにいつも辟易とさせられていた。
いくら教育にお金と時間をかけても、お客様から常々、笑顔がない、愛想がない、釣銭を投げられたなどと苦情を言われ、いったいどう教育すればと悩んでいた。
このとき峪口は、上海人だけでなく、素直な地方出身の従業員を採用することを思いついた。
「峪口さんは、どんなご商売をなさっているのですか? レストランですか?」
「日本のファーストフードです」
「峪口はこう見えても、日本で有名な会社の上海の責任者ナンですよ」
「施川、こう見えてもは余計だよ」
「ふふふっ…。そうですか、お偉いンですね」
「いいえ、私がオーナーというわけではありませんから」
「わしらはしがないサラリーマンです」
と施川が茶々を入れると、
「俺ぁはしがねぇ百姓だぁ。土地はいっぺぇあっけんどよぉ」
と邑中が付け加えた。
「お大尽さまぁ~、年貢を待ってくだせぇ。わしら百姓は首を括るしかねぇだぁ」
「駄目だ、駄目だ。代わりに娘を差し出せぇーッ!」
「…………?」
「なにバカやっているンだよ、麗さんが呆れているだろうが……」
「なんだかよくわかりませんけれど、ほんとに面白い方がたですね。漫才ですか?」
「あんれぇ、中国にも漫才があんのけぇ?」
「ええ、もちろんあります。面白いですよ」
「へーえ、そうナンだ」
「施川さんと邑中さんなら、中国でも人気者になれますよ」
「はっははは……、二人とも顔の面白さでは誰にも負けないかも知れませんが、なにしろ頭が悪…ではなくて、言葉ができませんからねえ」
「おっ、峪口ぃ~、わしの頭がなんだってぇ。えーえ、顔がどうしたってぇ。できそこないの熊男と一緒にするなよな」
「へぇへへへっ…、てぇして変わんめぇよぉ」
確かに施川と邑中は、体型も似ているしヒゲも濃い。
明日は仕事が入っているという張麗に、施川は未練たらしく、明日の夜はどうですか、としつこく食い下がっていたが、明日はどうしても無理と断わられ、ようやく納得した。
タクシーで帰途についても、まだ未練がましく、
「あ~あ、もう会えないのかぁ~。わしの桂林の恋も終わったなぁ…」
などと勝手なことを呟いていた。
「オメェは、ほんとにバカだなぁ~」
「余計なお世話じゃ」
そんな二人を横目に、峪口は張麗から渡されたメモ書きの入っている財布を、ズボンの上からそっと押さえた。