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第三章 太陽は最高の画家だ

一、時間を守る中国人なんていやしねぇよ!


1


桂林の二日目、やはりいつもと同じように四時半に目が覚めた。

施川と邑中はまだ寝息を立てているので、テレビを点けるわけにもいかない。

かといって、狭いホテルの部屋では、行動も限られ、なにもすることがない。

― ああ、失敗した。別々の部屋にすればよかった。

と後悔してみても始まらない。

そこで峪口は、そっと部屋を抜け出し、ホテルの周りを散策することにした。

さすがにまだ早朝なので、時々車が行き交う程度で、街中は静かなものだった。

峪口は、ホテル前の道路を東に向かって歩き出した。

空を見上げると満天の星、上海の百万倍の星が瞬いている。

三十分、二キロほど歩いたか、そろそろ街が目覚め始めたらしく、車の量が増えてきた。

東の空が少し茜色に色づくと、星はドンドン消えていく。

やがて東の地平線が真っ赤に燃え出した。

中空にある太陽の動きはあまり早く感じないが、地平線に顔を出した太陽が上昇するスピードは想像以上に速い。

あっと言う間に、夜の帳を開けていく。

しばらくすると、峪口も街並みと一緒に黄金色に包まれた。

やがて太陽が顔を出し切ると、景色は百万色に色づけされる。

太陽は最高の画家だ。

描いた絵を刻一刻と変えてゆく。

毎日毎日、何十億年もそれを繰り返している。

一秒たりとも同じ絵はない。ゴッホやレンブラントが束になっても敵わない。

東から西に向かって放射状の雲が扇を広げていた。

峪口は太陽の光を全身に浴びながら進んで行く。

光と影、陽と陰のコントラストが美しい。

太陽は生命力の源、生きとし生けるもの全てに、それを均等に分かち与えている。辺りはすっかり明るくなり、いつしか道路は車で溢れ出していた。

― 少し遠くへ来過ぎたか……、二人もそろそろ目覚めたろう。

峪口はホテルに向って帰路を急いだ。


2


掛け布団を飛ばし大の字に寝ている施川のハゲ頭を張り飛ばし、ベッドの下で枕を抱いて寝ている邑中のケツを蹴飛ばした。

「いてッ!」

「いでぇッ! 誰だぁ、俺ぁの飯、取んのわッ!」

「なに寝ぼけているンだ。ほれ、二人とも起きろッ! 朝飯の時間がなくなるぞ。邑中、オマエ、ベッドから落っこちたのか?」

「オメェらのイビキがうっるさくてよぉ。オメェらすんげぇなぁ、両方からだもん、まるでステレオだんべぇよぉ」

「それで下へ寝たのかあ。いや、悪かったなあ。おい、施川、ほれ、そろそろ起きろ」

峪口はもう一度ハゲ頭をピシャリとたたいた。

「あっ、俺ぁもやんべぇ」

「いてっ、こらぁーッ! オマエらいい加減にせんかい。他人様の頭をペッタンペッタン、引っ叩くんじゃねぇ」

「なぁ~んだ、起きてんのかぁ。つまんねぇ。ほれ、もう一発、ハゲ頭、ぶっ叩かせろ」

「あっ、邑中、この野郎。どさくさに紛れやがって……。ところで、今何時だぁ?」

「七時だ。集合はロビーに八時だから、もうあんまり時間がねぇぞ。ほれ、もたもたしてっと飯抜きだぞ」

「もう一泊このホテルだったよな?」

「ああ、そうだ。貴重品だけ持ってけばいいよ」

「峪口ぃ、オマエ先に洗面しろよ。あれ、邑中は?」

「便所」

「ウンコか、どうりで臭いと思った」

と、施川は冷蔵庫から買い置きのビールを取り出した。

 三人は身支度を整え、七時半に二階のレストランへと向かった。既に同行者の幾人かは賑やかに朝食をとっていて、端の方に添乗員とバスの運転手の顔も見える。

峪口たちに気づいた添乗員が近づいて来て、

「昨晩は良くお休みになれましたか?」

と訊いてきた。そして、添乗員はバイキング方式の朝食について説明してから、

「八時、ロビーに集合ですよ」

と、念押しをすると席に戻って行った。


3


「期待してなかったけど、料理、けっこういろいろあるじゃない」

「んだなぁ、昨日の晩飯より豪華だんべぇ。俺ぁ、あんまり喰わなかったんべぇ、うんだから腹ぁ減ったぁ」

施川も邑中も豊富な料理にご満悦である。

「おっ、それ美味そうだな」

施川が峪口の料理に興味を示した。

「なんだぁ~、どれだぁ~?」

「この辺りの名物らしいから、喰ってみろよ、この麺。美味いよ。この上に乗せるインゲンの酢漬け、ちょっと辛めだけど、酸っぱさがアクセントになって、なかなかの味だ」

「なぁ~んだ、素麺みてぇのに、インゲン豆乗っけただけかぁ…」

「はいはい。君はなんでも、好きなものを取ってきなさい」

「米の粉の麺だね、これは」

峪口は以前上海で食べたとき、この漬物は酢漬けだと思ったが、昼食時に会社の従業員から、これは塩だけで漬けるのだと聞かされて驚いた。

甕の中に、家々に代々伝わる醗酵した汁があって、そこに塩だけを加え、野菜を漬け込むと、やがて酸っぱい漬物ができるそうだ。

「わしも喰おう。まだ少し時間あるよな?」

「俺ぁいいわ。いつも喰ってっから家で」

「じゃあ、邑中君は月餅を食べてみなさい。明日は中秋節、縁起ものだ。辛党の施川さんには甘すぎると思うけどね」

「月餅? 月餅ってあれだんべ、中村屋。俺ぁ、あそこでバイトしたことあんど。どこだぁ、どこにある?」

邑中は酒を飲まない分、甘い物には目がない。

 急いで朝食を済ませた三人が集合場所のロビーに行くと、ツアーの同行者たちはまだ半数も集まっていなかった。

おまけに観光バスも、まだだという。

「こんなものさ。時間通りに集まる中国人なんていやしない。まあ、金でもやるってゆえば別だけど。おっ、邑中、うまいか?」

見ると邑中の手には月餅が握られている。

「うんめぇ~」

「アンタは山羊か」

まだ八時だというのに、表に出ると太陽がカーッと照りつけてきた。今日も暑くなりそうだ。

「あれはなんだろな?」

施川がホテルの脇の方で営業をしている屋台を目ざとく見つけた。


4


「ん?  ……なんだろう?」

「なんだべぇ?」

「子供たちが並んで待っているよ。ちょっと見てみるか」

「うんだなぁ、見てみんべぇ」

三人は興味深げに屋台へと向かった。

「ふーん、チマキみてぇだなぁ」

黄、紫、紅などいろいろな色の粉を、蒸したもち米で包んで、それをもう一度蒸しているようだ。

「どう、美味しい?」

施川は隣で頬張っている子供に日本語で話しかけた。当然、子供はキョトンとした顔をしている。

「施川ぁ~、中国語じゃねぇと駄目だんべぇ。へへへへ……」

「なるほど、あの色のついた粉が餡のようになるんだ。オハギみたいなものかな?」

「おい峪口ぃ~。うんまそうだから、買ってみんべぇ。ほれ、銭。これで足りんべぇ?」

と言って、邑中は百元札を差し出した。

「そうだな買ってみるか。いいよ金は。……えッ! 五角」

「五角ってなぁ、いくらだぁ?」

「一元(十五円)の半分、しかも三個もくれたよ。三個で五角、これで儲かるかねえ?」

「ふんとかよぉ~?」

「ああ、ふんとだよぉ~。やっぱりこの辺りは、上海とじゃ金の価値が違うなあ」

「そういえば昨日、タクシー初乗り料金も七元じゃなかった? うん、あれはわしの奢りでいいよ」

施川が領収書を取り出し、ヒラヒラさせながら言った。

「おっ、さぁ~すが、太っ腹ぁ~。上海は十一元。なんでも安いねえ、桂林は」

「オメェ、要求してンじゃあんめぇ」

「あらぁ~、わかったぁ? どぉーれ……」

「ほら、邑中も一個」

「あんがと、…………」

「…………、邑ちゃん、わしのやろうか?」

「俺のも、どう?」

「いんねぇ」

ひと口頬張った三人は、互いに顔を見合わせてニヤリと笑った。



二、七星公園のパンダは世界最高齢?


1


十五分遅れで観光バスが到着。

最後のツアー同行者が乗り込んだときには、既に予定の刻限を三十分ほど過ぎていた。

それでも誰も苦情をいう者はいないし、遅れた本人たちも謝るでもなく、当然顔でバスに乗り込んで来る。

「こっちの人たちは遅れても謝らねえんだな。腹立つなあ。ほれ、そこのアベック。グズグズしてねえで早く乗れよ。ったくもう……」

「施川ぁ~、郷に入っては郷にしたがえってゆうべぇ。カッカすんじゃねぇよ。のーんびり行くべぇ」

ヒゲが真っ黒に伸びた顎を擦りながら、邑中が諭すように言った。

昨日からヒゲを当たっていないようだ。

施川もヒゲは濃いが、邑中のそれは中東の人たちのように濃かった。

やがて観光バスは動き出し、添乗員がその日のスケジュールを、例によって喧しく説明し始めた。

それによると、今日も桂林市内の観光がメインとのことであった。

「今日は市内観光と水晶館へ行くそうだ」

「なんだよぉ、スイショウカンてのはよぉ?」

「ほら、山梨とかへ旅行に行くと、大概水晶の加工場に連れて行かれるじゃない。あれと同じようなモンだと思うよ」

「お土産かあ、添乗員の余禄だな。わしはいいわ、買うつもりもねえし」

「とはゆってもなぁ……」

「水晶か……、俺ぁ行ってみてぇなぁ~。なんか、良い物あんべぇ」

「母ちゃんに土産か?」

「うんだぁ。なんか買ってけぇんねぇ(帰えらない)と。施川、オメエもなんか買え」

「そんなモン買って帰ったら、わし、母ちゃんと娘にバカにされるわ」

「まあ、まあ、それは行ってからということで。最初は七星公園だって……。おっ、もう着いたようだ。速いな。さあ、降りよう」

ホテルから十分ほどで最初の目的地、七星公園に着いた。

七つの峰が連なり、またそれが北斗七星と配置が似ているということから、七星公園と名づけられたそうである。

「公園?」

「そう、公園。桂林で一番大きな総合公園だって、さっ」

三人が降りようとすると、他のお客が添乗員となにやら揉めだした。

「どうした、どうした?」

揉めごとの好きな施川が覗き込む。


2


「バスに荷物を置いてはいけない、とか言っているな。全部持って降りろって」

「と言われても、わしは元々身ひとつじゃけん」

「オメェは他人のを持ってくな」

「わしゃ盗人か。おやおや、あのおじさん、水だけでも五、六本は持っているぞ。しかも果物も、バカデカイミカンだ。……文旦かな? ほら、お兄さん、あんたの親父だろうが、持ってやれよ」

「このバスはチェンジするらしいよ。いいから俺たちは降りよう、降りよう」

峪口は二人を促がしバスから降りて大きな伸びをした。そしてタバコに火を点けた。

「オメェはとうとうタバコを本格的に始めちゃったなあ。止めた方がいいぞ。わしは止めてもう三十年じゃ、結婚した年に止めたンだ」

施川は真顔で、ぼそりと言った。

「ああ、俺も二十年以上止めていたンだけど、こっちに駐在してから、なにかとストレスが多くてねえ」

「大阪か? どうしようもねえな、あいつら。テメェたちの会社は、しょっちゅう問題を起こしているくせによ」

「うん……、まあ、それももう少しの辛抱だ」

「なんだよぉ~、なんの話だぁ?」

峪口と施川はよくメールでやり取りをしているので、施川は上海の状況も知っていた。

「いいの。邑中君には関係のない話なの」

「なんだよぉ~、仲間外れかよぉ~」

邑中が不満気に言った。

「受けた義理と仇はきっちりと返さないとなあ、峪口ぃ」

「そうゆうこと。……義ぃ~理ぃ~と人情~を秤にかけりゃ~、とくらあ」

「いよッ! 健さん」

峪口と施川は学生時代、授業をサボってよく東映の任侠シリーズを見に行った。

トイレのすえた臭いが漂う高田馬場の映画館で、三本立てが三、四百円だった。

ようやくゴタゴタが片付いた様子で、全員が荷物を抱えてバスから降りて来た。

まだ、ブツブツ言っている者もいる。

「『そんなに仰るなら、私が全部持つわッ!』だって、とうとう添乗員が切れたよ」

「あの大男、大した荷物も持っていないのにネチネチとしつこいねえ。あのおじさんを見習いなさい。バカモノめっ!」

とおどけて言って、施川は自らプッと吹き出した。


3


添乗員から入場券を受け取り、約五百年前に架けられたという花橋を渡り、三人は公園に足を踏み入れた。

橋の下を流れる川は清く澄んでいて、上から見ると浅い川底に生い茂る藻や小石、小魚までが良く見える。

「いやぁー、それにしても熱いなあ。ビールでも売ってねえかな」

などとブツブツ言いながら、施川は売店を目ざとく見つけビールを買いに走った。

「まったく、朝から、好きだねえ。あんたも……」

と言う峪口には缶ビールを、邑中には水をそれぞれ渡した。

「おっ、わりぃなぁ」

「それにしても、なんだあ、この公園は。まるで昔のユネスコ村じゃねえか」

「ユネスコ村はよかったな。ところで施川、邑中。ほらあの建物、崖に包み込まれるように建っているだろう」

「うん、あれがどうかしたかあ?」

「なんでも千数百年を経ているンだそうだ」

峪口はプルトップをプシュッと開けて、ビールに口をつけた。

「へーえ、ほんとかねえ……」

施川はあまり興味を示さない。

「これ、空かねぇぞぉ~。どぉすんべぇ? うっちゃる(捨てる)きゃねぇかなぁ……」

中国製品には、時々なんとしても開封できないペットボトルがある。

その場合は、運が悪かったと諦めるほかはない。

「ほらほら、みんなに追いつこう。あそこで固まって写真を撮っているから」

なにやら幾何学模様の彫刻が施された白い壁面が百メートルほど続き、そこでツアーの同行者たちが他の観光客とともに一生懸命写真撮影に興じていた。

「これ、なんだべぇ?」

「説明書きによるとだ、中国が歴史上発明したといわれているものを表しているらしいよ。ええと、……華夏之光広場だって」

峪口はパンフレットで確認しながら二人に解説を加えた。


4


「するとあれだんべぇ、火薬とか印刷技術とか、だんべぇ?」

邑中はペットボトルに悪戦苦闘しながら言った。

「賢いねえ、邑中君は。良く知っているねえ」

「ただのデブじゃねえな」

「中学んとき、勉強したんべぇよぉ。ああ、オメェはやってねぇな。ところで峪口ぃ~、あの人間の絵はなんだべぇ? 身体のあっちこっちに黒い点があるべぇ。……あっ、そうか、ツボだぁ」

「ツボ? ……なぁーるへそ」

施川もようやく興味を示し始めた。

「そうそう。身体のツボを示しているンだって」

「へーえ。……それにしても、いつまで写真を撮っているンだよ。早く次へ行こうぜ」

「施川ぁ~、俺ぁの写真も撮ってくんどぉ。ほれ、カメラ」

「へいへい、わかりやした。はい、パッチン」

「んもぅ~、ちゃんと撮ってくんどぉ」

「モデルがわりいから、創作意欲がわかねえ。ほれ、パッチン」

中国人はほんとうに写真が好きである。

しかも撮られる方が一々ポーズを決めるので、一枚撮るのにとても時間がかかる。

それを交代交代でやるものだから、待つ方はイライラが募る。

「施川ぁ~、パンダが見られるとよ。一緒に写真も撮れるってさ」

「パンダねえ……、今じゃ、あまり珍しくもねぇな。それに、ここにも珍しいのが一匹いるしよぉ。へへへへ……」

「うん? どこだぁ~?」

邑中が辺りをキョロキョロと見廻した。

「まあ、そうゆわずに。去年まで、世界最高齢のパンダが飼育されていたンだそうだ」

「最高齢? そんなの、わからないだろう。誰か、中国中の野生パンダに歳を聞いて廻ったのかあ」

「へいへい」

ああいえばこうゆう、施川は寝おきの所為か妙に理屈っぽい。

「ほれ、行くべぇ。わけの分かんねぇことグダグダゆってねぇでよぉ。ほれ、行くべぇ」

邑中が施川の腕を引っ張る。

「いてぇーッ! わぁーったよ、わぁーった。バカ力出しゃがって」

「駄目だこりゃあ」

邑中は、どうしても開封できないペットボトルをゴミ箱に投げ捨てた。



三、巨大な鍾乳洞と巨大な駱駝ラクダ


1


添乗員の後について山を少し登ると、やがて大きな穴が口を開けていた。

上から見下ろすと、野球場がすっぽり入るほどの広大な空間が眼下に広がっている。

「そこの階段を下りろってサ」

三人は促されるままに、狭い怪談を慎重に下りて行った。

「ひょえー、だね。この広さ、半端じゃねえや。わしゃビックリこいた。ところでここには、なにがあるの?」

「ふんとだぁ。ひょえーだ、穴の底に下りっとふんとにデッケェなぁ。俺ぁもビックラこいた」

「鍾乳洞だってさ。ほら奥の方へ穴が続いているだろう」

ツァーの添乗員ではなく専任の案内人が、高さが五十メートル以上あるドーム上の天井の所々を、懐中電灯の光で照らしながら説明を始めた。

「ほら、施川、邑中、あそこ。懐中電気で照らしているとこ、茶色くなっているだろう」

「うん? あれが?」

「魚の化石だってよ」

「ふんとかよぉ……、ずいぶんデッカイべぇ」

「まあ、そういわれれば魚の形に見えないこともないけど、ほんとかねえ……? でも、涼しくていいや、ここは」

「日中友好のためだんべぇ、そうゆうことにしておくべぇ」

「ははははっ…。邑中、日中友好はいいねえ」

三人は添乗員の後について歩を進めた。

「おーお、確かに鍾乳洞だ。ライトアップされていて綺麗だけど、ほんとうの色がわからねえなあ。ここまでやると、ちょっとやりすぎじゃねえのか」

「ふんなこと、あんめぇ。綺麗だんべぇよぉ」

「君には、ほんとうの美しさというものが分からないのかね。こんな人工的なものを見て感動するなよ」

「施川ぁ~、そういえば学生のころにさあ、秋吉台へ行ったじゃない。あれとはスケールがだいぶ違うな」

「あれには感動した。確かにスケールは桁違いだが、こっちには感動がない」

「生ゆって。鍾乳洞ができんのに、どのくれぇかかるか、オメェ知ってっかぁ?」

「鍾乳石は一センチできるのに、百年かかるって聞いている」

「あんれ、オメェでも知ってンのかぁ。なぁ~んだ、つまんねぇ」

「そんなのはガキでも知っている。それにしても、あんとき峪口の親父さんに喰わせてもらったステーキ、美味かったなあ」

「なんだぁ、ステーキってのは?」

「そうか、あんとき邑中はいなかったンだ」

「そうそう、あれは相沢と一緒だった」

「相沢? あの相沢かぁ?」

「そうだ、修だ。あいつ死んじまったんだよなぁ」

「うんだぁ。可哀想なことしたなぁ」


2


「うん……」

三人はそれぞれの思いを込めて、同級生の死を思い出していた。

湿っぽくなった雰囲気を振り払うように、峪口はことさら明るく言った。

「おっ、あれがライオンでこっちが熊か、それであれが葡萄と林檎。えっ! こっちはペニスだって」

「ペッ、ペニス! あのお姐さん、可愛い顔して平然と言うね。意味はわかっているンだろうか? なんならわしのを……」

と施川は、ズボンのチャックを下ろす仕草をした。

「オメエ、警察に捕まっど。恥ずかしいから、止めてけろ」

「はっははは……。他のお客さんも笑っているから、わかっているだろうよ」

「まあ、言われてみれば、そう見えないこともないけどね」

「受け狙いだんべぇ。どこでも同じだぁ」

「ところで峪口ぃ~、この穴はどこまで続くの? もういい加減飽きてきたよ。早く外に出たいンだけど……。蒸し暑くって敵わねえよ」

施川がハンカチで汗を拭った。

「おかしいな、入ったところは涼しかったのになぁ。普通、鍾乳洞といえば涼しいはずナンだけど、ここは蒸すねえ」

「おおっ、すんげぇ。施川ぁ~、写真、写真撮ってくんどぉ」

「へいへい。ひとり元気だねぇ、邑ちゃんは。峪口ぃ、撮ってやってくれ」

「おっ、あいよ」

峪口が案内の小姐(女性従業員)に訊くと、天井を指し示しながら、あそこまで登ってそこからもう一度下るので、まだしばらく時間がかかるとの答えが返ってきた。

「あ~あ、ほんとかよぉ」

峪口は愚痴る施川の歩調に合わせて、観光客の最後尾をダラダラとついて廻った。

邑中はそんな二人にお構いなしで、添乗員についてドンドン先へ行く。

「おーお、元気のいいこと。さすがは野蛮人」

小一時間ほどして、

「ふーう、ようやく出口が見えてきた」

と施川は大きなため息をついた。

「今は十時半だから、二時間近く中にいたことになるのか」

峪口が時計を見ながら言うと、

「もうええ、もうええ。もう十分じゃ」

施川が飽き飽きといった表情で言い放つと、

「そぉかぁ~、面白かったべぇよぉ」

と、邑中は生き生きとした表情を二人に向けた。


3


「オマエ、穴から出て来ると、まるで野生の熊だな。そのヒゲ、なんとかしろよ。子供が見たらひきつけを起こすぞ」

「な~にゆってンだぁ。オメエのウンコがなげぇから、朝、ヒゲ剃る時間がなかったんだんべぇよぉ」

鍾乳洞を出て山を下ると、見晴らしの良い広場に出る。

そこではたくさんの観光客が、正面の駱駝山と名づけられた奇岩を背景に、写真撮影に興じていた。

その山は人の手が加わったのではと思えるほど、ほんとうに駱駝の姿を連想させる。

「いたいた。空港にたくさんいた外人さん、いったいどこへ消えたかと思ったら、こんな所に屯していたのか」

施川が素っ頓狂な声をあげた。

「そうナンだ。さっき、添乗員に文句をゆったンだ。三泊しかないのに、その内の二日間が市内観光じゃつまらないよ、ってね」

「ああ、そんでさっき添乗員と話してたのかぁ~。俺ぁ、またオメエの悪りぃ癖が出たのかと思ったぞぉ。で、なんだってぇ?」

「うん。なんでも、桂林市の決まりで、団体ツアーの場合、二日間は市内観光が義務付けられているンだとさ」

「ふっ、ふんとかぁ?」

「結局ね、有名な観光地は全部桂林市の外ナンだ。観光客が直接そっちへ行っちゃうと、市内にお金が落ちないだろう」

「なぁーるほど、そのために無理やり市内に留めておこうって魂胆か。やるね、桂林も」

施川は納得したように呟いたが、

「でも納得できねえなあ。なあ、邑中君?」

「うんだぁ。ふんであれかぁ、棚田へは行かねぇのかぁ?」

「ああ、行かねえとよ。なにしろ明後日を入れても一日半、中途半端な観光しかできない。パンフレットを見ると、郊外にたくさん良い所があるのになぁ。それにしても邑中、よく棚田とか知ってたな」

「俺ぁだってオメエ、旅行のめえ(前)には、少しは調べるべよぉ。どっかのアホとは違うかんなぁ」

「わしは細かいことにはこだわらんのじゃ。文句あっか」

「ねぇ。峪口ぃ~、申し込むとき、わかんねかったのかぁ?」

「パンフレットに棚田の写真が載っていたから、当然行くものだと思っていたよ。いや、申し訳ない。……ツアーに入らず、個人で来れば良かったかなあ」

「しょうがあんめぇ。施川ぁ~、文句ゆうなよぉ」

「いいって、いいって。わしは酒が飲めれば、観光なんてはどうでもいいのじゃ」

「そうだんべぇ~。オメェは酒飲んでっか、寝てっか、どっちかだんべぇよぉ」



四、畳彩山(風洞山)からの眺望は山水画



駐車場に着くと、朝とは違うバスが既に待機しており、全員を乗せて次の目的地の畳彩山に向かって走り出した。

畳彩山は桂林市の北方に位置し、名月峰、四望山、仙鶴峰、干越山の四つの峰からなっていた。

山腹に風洞があることから風洞山とも呼ばれている。

風洞山の頂からは桂林市内が一望できる。

「こっ、この山、登るわけ?」

施川はうんざりした表情を見せた。愚痴の多い男である。

「そうだよ。頂上に行くと桂林市内が一望できるそうだ」

「早く行くべぇ」

「まぁーったく、張り切っちゃってよぉ。単純バカはいいねえ。しゃあねぇ、付き合ってやるかあ」

「あんだぁ。ブチブチとうるせぇ男だなぁ」

「……蝶の館、なぁーんだ、土産売り場じゃねえか」

「通り抜けるだけだよ。ほら、他の連中も土産には目もくれないだろう。こっちも添乗員についてけばいいよ」

「もっとゆっくり行ってくれぇ~」

「じゃましい。誰だ、早く行くべぇってほざいた奴は」

「俺ぁだ。峪口ぃ、待ってくんどぉ」

五十メートルほど山道を登ると、やがて風洞と呼ばれる祠の前に出た。そこには観光客がたくさんいて、入れ替わり立ち替わり写真撮影に余念がない。

風洞の向こうから涼しい風が吹き抜けて来て、観光客を癒してくれる。

その祠の壁面には、至る所に詩文が彫られていた。

「施川ぁ~、悪りぃけんど、写真撮ってくんどぉ」

と邑中がカメラを差し出した。

「あいよ。……ところで峪口ぃ、このジイさんは誰?」

「ええとねぇ…。なになに、復旦大学の創設の一人だそうだ」

「フクタン大学?」

「上海でも一、二を争う名門大学だよ」

「へーえ、そうなのぉ…。ところでみんな座り込んでいるけど、ここで終わりかな?」

施川は例によって、大した興味も示さない。

「終わりじゃないよ。あっ、そうそう、君の大好きな周麗さんが卒業した大学だ」

「なにッ! 早く言ってくれ。そうか、周さんが……。なんか、このジイさん、他人のような気がしない。今回は会えないのかあ?」

「寝た子を起こしちゃったか」

「俺ぁも会いてぇ」


2


「ははははっ…、また今度ね。ほら、みんな祠の中に入って行くぞ」

「ふんとだぁ。んじゃあ、俺ぁたちも行くべぇ。ほれ、施川ぁ、腰あげろっ」

「まあ、待てよ、邑中。添乗員が動き出してからでいいよ」

祠のあちこちに立ち止まり、その都度添乗員が説明を加え、先へ先へと進んで行くと、少し開けた場所に出た。

そこでは土産物なども売られている。

「峪口ぃ~、このTシャツ五元だぁ。手描きだんべぇ。安いかぁ? ……そぉかぁ、安いかぁ。うん、こっちは扇子か、これも五元かぁ。七十円ぐれぇのモンだなぁ」

「確かに安いと思うけど、質も悪いから。あんまり期待するなよ」

「そぉかぁ。……んでも、土産にちょうどいいべよぉ。扇子、買うべぇ。峪口ぃ~、交渉してくんどぉ」

「止めとけ、止めとけ。後で後悔するぞ」

施川が制したが、

「うんでも、七十円とは、誰も思わねぇべぇ。十本ばっかし、もらうべぇ。五十元だな、ほれ、百元」

「ちょ、ちょっと待てッ! 金は仕舞っておけ。金は交渉してからだ」

「いいよぉ~。五十元だんべぇ」

「いいから邑中君、ちょっと待ちなさい。わしも北京で経験したけど、峪口先生に任せておきんしゃい」

「どこの言葉じゃ」

峪口は店番の男と交渉を開始した。

「邑中、二十本くれるそうだけど、どうする?」

「あんだぁー、五十元でかぁ~?」

「ほらな、わしの言ったとおりだろうが……」

「そぉ~んなには、いらねぇよぉ~。十本で十分だぁ。ふんじゃ、十本なら、二十五元でいいんだんべぇ?」

「なんだぁ、猫を踏んづぶしたような声だしゃあがって。そうはイカのおチンチンだ」

「邑中ぁ、施川のゆうとおり、そうはいかないのだ」

「あんでぇ? 二十本で五十元だら、十本で二十五元だんべぇ」

邑中は峪口に粘りに粘らせて、とうとう十本、三十元で購入した。

「意外と細かいな。やっぱり銭を残す奴は違うな。ほら、もたもたしているから、みんなはもう上へ行っちゃったぞ」

施川が呆れたとばかりに言ったが、邑中はとても満足らしくニコニコとしている。


3


その場所からは視界が開け、山の麓を流れる川だけでなく、連なる峰々も一望できた。

「へーえ、なかなか綺麗な眺めじゃ。ふーう、風が気持ちいいこと。……それにしても、十月の桂林が、こんなに暑いとは思わなかった。蒸し暑さも凄いねえ。まだまだ真夏だよ、桂林は……」

施川が邑中のお土産から扇子を一本抜き取り、パタパタと扇ぎながら言った。

「考えてみればかなり南だものなあ。直ぐそこはベトナムか、暑いわけだよ」

「ふんとかぁ~、ベトナムって、峪口ぃ~? ……そうかぁ~、そう聞いたら、汗が噴き出してきたぁ。おい、施川ぁ~、俺ぁの扇子、汚すなよなぁ」

三人はようやく同行者たちに追いついた。

「ふ~う、やっと追いついた。あれっ?」

「あらら、もう行っちゃうのね」

そこではまた、記念撮影が繰り広げられていたが、これからもっと良い場所に向かうという添乗員に促がされ、一行は急な斜面を再び登り始めた。

「ほれ、二人とも行くべぇ」

「あっ、こいつ、土産買ったら急に元気になりやがって」

一息つこうとしたが邑中に促され、峪口と施川は渋々同行者たちの後ろにしたがった。

「ひょえーッ! こりゃあ疲れるわ。ガソリンはないしなぁ……」

施川はビールをガソリン呼ばわりするのが常で、日本で峪口とウオーキングをすると、例えそこが、どんな田舎道でも自動販売機を探し出す。

本人は特殊能力で匂いがするのだと言い張るが、なーに、ただ購入した経験があるだけで、それだけあちらこちらで飲み続けていたということである。

「ほら、水」

峪口は水の入ったペットボトルを施川に投げ渡した。

「おっ、用意がいいねえ。ビールは駄目だ、身体がだるくなるからなあ……」

と施川は自らに言い聞かせるように呟いて、ゴクン、ゴクンと喉を鳴らした。

「ほら、邑中も」

「施川の飲んだやつかぁ~。オメェ、病気はでぇじょうぶかぁ?」

「あっ、そう。いらないのね」

傾斜がきつく、三人は汗だくになっていた。

「ふ~う、着いた、着いた。やっと頂上に着いた。いやー、絶景かな、絶景かな。それにしても、綺麗な川だなあ……」

「ふんとだ。俺ぁ、こんな景色、今まで見たことねぇ」


4


本来、この規模の『川』になると中国では『河』とか『江』というが、この旅行記の中では『川』で統一する。

「いいね、いいね。風情があるなあ。ほら、川に浮かんでいる船を見てみろよ」

「うん? オメェ、よく見えんなぁ……。あれは竹でできてんだんべぇ。太い孟宗を五、六本束ねただけだぁ」

「妄想?」

「違うべぇよぉ。妄想はオメェの頭ん中だんべぇ、エロハゲ。妄想じゃあねくてよぉ、孟宗竹だんべぇ」

「じゃかましい。どさくさ紛れに、誰がエロハゲじゃッ!」

「くくくく……、エロハゲねえ。言い得て妙だ」

「あ~あ、峪口までぇ~。それにしても絵になるなあ。あの漁師すっかり景色に溶け込んでいて、まるで山水画だ」

「オメェにしちゃあ、洒落たことゆうなぁ」

「そうだな、あれがエンジンつきでカーボン製の船じゃ、様にならねえものなあ」

「峪口ぃ~、あれをバックに一枚頼むよ」

「ほいきた」

「俺ぁも頼んべぇ。このカメラで撮ってくんろぅ」

「あいよ、わかった。どうだ、施川と撮るか?」

「いんね。峪口、オメェ一緒に撮るべぇ。ほれ、施川、撮ってくんどぉ」

と邑中がカメラを瀬川に渡した。

「よっしゃあ。あれえ?」

「うんにゃあ、どうした?」

「いや、なーに、大したことじゃねえ。ただ、邑中がどうしても画面からはみ出す」

「三人でも撮るかあ? 添乗員に頼むから」

「駄目だよぉ~。三人で撮っと、真ん中の人間は早くおっちぬ(死ぬ)べぇ。オメエら知んねぇのかぁ~?」

「ったく、迷信深い男だなあ。じゃあ、いいや。ほれ、邑中、わしと峪口で撮ってくれ。順番に撮ろう。しかし面倒くせえ男だなあ、オマエさんは……」

「施川ぁ~、オメェだって、まだ死にたくあんめぇ」

「はいはい。それにしても、吹き抜ける風が気持ちいいなあ。いやー、生き返るなあ」

「漓江、って言うンだ、この川は」

「リージャン? あれっ、そういえば峪口ぃ、以前もそんな名前言ってなかった?」

「よく覚えていたな。でもあれは『麗江』、雲南省『昆明』の先の方で『シャングリラ』の地名があるところさ。……ピンインはLiで同じだけど、厳密には四声が違う。それに文字も異なるンだ。桂林の漓江の『漓』は滴るとか濡れるの意味で、雲南省の方は麗しいの『麗』なんだ。どお、わかった?」

「うーん、よくわからないけど、とても参考になりました。ところでさあ、峪口がよく言うシャングリラって、どうゆう意味だよ?」

「うん。……地上の楽園とか、理想郷ってことかな」

「へーえ、すんげぇー。そんなにいいとこかあ? 行ってみてえなあ、わしも……」

「それはそれは素晴らしいところだよ。今でも目に浮ぶ。機会を作って、ぜひ行こうぜ」

「今度は俺ぁも誘ってくんどぉ。冬ならでぇじょうぶだからよぉ」

「おう、峪口、三人で、絶対に行こうぜ」

施川が力を込めて言い放った。



五、中国人のおやつは種?


1


やがてツアーの同行者が山を下りだしたので、三人もその後に随った。

「明日は漓江下り、もっと上流に行ってこの川を船で下るンだ」

「でも、俺ぁ泳げねぇどぉ」

「大丈夫だよ邑中君、君の場合は川に落ちても浮くから。ところでさあ、これからどこへ行くンだっけ?」

「水晶館。でもその前に、この公園で少し休憩するそうだ」

一行は、公園の中の木陰になった場所へ添乗員に導かれ、持参したお菓子や果物を食べる者、売店で買ったソーセージを齧る者と、それぞれが思い思いに休息に入った。

施川はビールがない、ビールがないと呟きながら、ペットボトルの水をチビリチビリと飲んでいた。

「峪口ぃ峪口ぃ~。あの家族ものすげぇなぁ~。テーブルの上が喰いっ散らかしたゴミでいっぺぇだんべぇ」

信じられないという表情で、邑中が峪口に囁きかけた。

「ああ……、しかも当然の如く、テーブルの上や地面にペッペッと喰いカスを吐き出している」

「ところでさあ、あの連中はなにを喰っているンだ? 種みたいなものを口に入れちゃ、次々に吐き出しているけど」

「恐らく、向日葵の種だな」

「向日葵の種ぇ?  あんなもん、喰うのかぁ~。……鳥の餌だんべぇ」

「中国人はあれが大好きナンだよ。カボチャとかスイカの種も良く喰う。塩味でけっこう美味いモンだよ」

「へーえ、あんなもん、美味いんかねぇ。峪口も喰うのかぁ?」

「ああ、時々スタッフからもらってね。でも面倒くさいのと、彼らみたいには上手く喰えないのとで、買ってまで食べることはないよ」

上海でも店番の小姐やオジサンたちが、店頭で食べている姿をよく見かけた。

足元には喰いカスが山をなしている。

口の中で上手に皮を剥いて、その皮だけ吐き出す。

峪口も何度か試みたが、歯と舌で上手く皮を剥くことができなかった。

「しかしあんなに公園を汚して、管理の人に怒られないのかなあ?」

「はははは……、こっちでは掃除を生業にしている人たちがいるからネ。私捨てる人、あなたは掃除する人といった具合に」


2


「峪口ぃ~。あのオヤジ、見てみろ、ほれ。あれ、サトウキビだんべぇ? あんな硬い皮を歯でバリバリ引っぺがしてンべぇ。よ~っぽど歯が丈夫なんだなぁ」

邑中は、その男の喰いっぷりに見とれていた。

「ほんとだ、すげえオヤジだ。俺たちよりかなり年上に見えるけどなあ」

「六十は優に超えてンべぇ」

「ああ、それは間違いない。七十ぐらいだろう」

「わしんとこの親父もすごいけどな。九十歳だけど、全部自分の歯だぜ。まだ、車も運転しているしよ」

「そういえば施川んとこの親父さんとは、俺が高校生のときに初めて会ったんだよなあ。去年だったかな、土手で会ったけどちっとも変わってなかったなぁ。百歳は軽くクリアできると思うよ」

「耳はだいぶ遠くなったけど、身体の方は健康そのものだよ。俺の方が先に行っちゃうかもナ……」

「バ~カ、オメェは殺されても死なねぇ」

表現は悪いが、邑中の思いやりのこもった言葉が飛んだ。

そこの公園では、ツアー客の他に地元の老人が四人でトランプに興じていた。

ひと通り腹を満たした同行者たちは、老人たちの迷惑を顧みず野次馬と化している。

「金を賭けているンだろうな?」

施川が囁きかける。

「中国人は博打好きだからな、当然賭けていると思うよ。俺はねえ、もし中国にパチンコが入ったら、働く人がいなくなるンじゃないかと心配しているンだ」

「オメェが心配しても始まんめぇよ」

「はははは……、そらそうだ」

「中国人殺ろすにゃ~刃物は要らぬぅ~、パチンコ屋ぁ~の二、三軒も造ればよぉい~、とくらぁ」

施川が下手な節をつけて唸った。

添乗員の、“それではそろそろ行きましょうか”という言葉を合図に、みなは一斉に立ち上がり山を下った。



六、入口では客、出口では唯の人


1


駐車場には、またさっきとは違うバスが待機しており、全員を乗せると、一路水晶館を目指して走り出した。

「水晶……、わしはいらんからな」

「まあ、そういうなって、施川ぁ~。お付き合い、お付き合い」

「ふんだよぉ。俺ぁが買うから、付き合えよぉ。ほーれ、起てよぉ~」

「しょうがねえなあ、見るだけだぞ。わしは直ぐに出るからな」

入口で仰々しく迎えられた一行は、如何にもといった感じで入場パスを渡され、展示物の説明をひと通り受けると売り場へと誘導されて行く。

店内に待機していた売り子たちは、さあ、カモが来たとばかりに、一斉に客を取り囲む。

観光地では、どこでもよく見受けられる光景である。

グルリと店内をひと廻りした峪口と施川は、結局なにも買わずに二十分ほどで入り口へ戻って来た。

手になにも持たない二人に、お愛想を言う者も笑みを浮かべるものもいない。

入るときとは大違いである。


2


しかし、上海に近い杭州などの観光地と比べると、従業員の売り込みは実にあっさりとしたものであった。給与が歩合給ではなく、固定給なのであろうか。

「ほらな、こんなもんだろう。あれっ、邑中は?」

「そういえば、一生懸命なにか品定めをしていたな。そのうち、出てくるだろう」

「放し飼いで大丈夫かいな。……ところで、ビールでも売ってねえかなあ」

と施川は、キョロキョロ辺りを見廻した。

「ないよ。施川くん、次は昼飯だから少し我慢しなさい。わかりましたか?」

「はぁーい! 昼飯ねえ、昨日と同じようなメニューだったら、悪いけど、わしはいいわ」

「まあ、どうするかは、料理を見てから決めようぜ」

施川と峪口は水晶館の表で、ブラブラと手持ち無沙汰に時間を過ごした。

それから三十分ほどすると、ようやくポツリポツリと同行者たちが表に出て来た。

「邑中の奴、出て来ねえなあ……」

「他の連中も、まだほとんど出て来てないよ。どうせ、約束の時間に全員揃うことなんてないンだから……」

それから十分ほどして、邑中が荷物をぶら提げて出て来た。

「おっ、なんか買って来たな」

「うんだぁ~、わりいわりいなぁ、待たせてよぉ」

なにかとても重そうな荷物だ。

「なに買ったンだよぉ、む~らちゃん?」

「いいべよぉ~、なんでもねぇよぉ~」

「どれ、ちょっと見せてみろ」

施川が強引に袋の中身を覗き込んだ。

「おっ、おおおお……、またバカデカイのを買ったなあ」

「なに、なに買ったンだ?」

「置物だよぉ~。いいべよぉ~」

「置物……、どれどれ……」

「いいよぉ~、見ねくていいよぉ~」

「な、なんだこりゃあ……、パンダか?」

「うんだぁー、水晶で作ったパンダだ。娘にいかんべぇと思ってよぉ~」

「娘さん、いくつだっけ?」

「二十八ぐれぇだぁ」

「オマエねえ、二十八の娘が喜ぶかあ……」

「いいべぇよぉ~。勝手だんべぇ」

「いいけどよぉ。だいたい、これガラスだろう。なぁー、峪口ぃ~?」

「うーん……、邑中には悪いけど、恐らくそうだなあ。水晶にしては綺麗過ぎるだろう。で、いくらで買ったの?」

「あのねぇちゃんが絶対本物だ、ってゆったもん」

「どのねぇちゃんが?」

「あのねぇちゃんだぁ」

「うん? あっ、添乗員だな」

「へへへっ…、うんだぁ。一万元てゆうのを三千元にしてもらった。安かんべぇ?」

「あのねぇちゃんは店とグルだぞ」

「ふんなことねぇよぉ~。オメェらと違って、親切に買い物に付き合ってくれもん」

「そらまぁーなぁ……、あっちは商売だからな」

「いいンだよぉ。俺ぁが買ったンだから、オメェらにウダウダゆわれたくねぇ」

「四万五千円ってとこか。いいいかぁ、今更返品てわけにもいかねえだろう」

「そうだな。わしらがウダウダ言っても始まらねぇなあ」

「うんだ」

峪口が予想した通り、予定の時刻を三十分ほど過ぎてようやく全員が揃い、バスは昼食場所へと向かった。

バスの中で、買ってきたばかりの水晶の腕輪を誇らしげに自慢しているご婦人もいる。


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