第二章 世界遺産、桂林へ
一、出発の朝
1
翌日の早朝……。
「……おーい、……おーい。……起きろよぉ~」
遠くに施川の声が聞こえ、峪口は目を覚ました。
「ううう~ん。……今、何時ぃ? オマエ、隋分早いなぁ」
峪口が眠い目を擦りながら施川を見ると、もう缶ビールを手にしている。
酒となると、時と場所を選ばない男である。
「なにいってんだよ、もう十時だぜ。これ、冷蔵庫にあったからもらったよ」
と缶ビールをかざしてた。
「それは構わないけど、昨日の酒、残らなかったのか?」
「へっ、へへへっ…、迎え酒だよ、迎え酒……」
「まったく強いなあ、施川は……。俺、すこし頭が痛いよ」
「ふんだ。まぁ~たく、昨日あんだけ迷惑かけたのに、いい気なもんだべよぉ。その上、朝っぱらからガタガタうるせぇしよぉ~」
邑中がソファーからむっくりと起き上がって言った。
「えっ、えええっ、わしがなんか迷惑かけたぁ~? 峪~口ぃ~、二日酔いなんて、そんなの、飲めば直っちゃうよ。一本、持ってこようか?」
施川が台所に向かおうとするのを、
「いい、いいよ、俺はいい。それよりオマエ、なんにも覚えてねえのか?」
と慌てて制した。
「ん? なにがぁ~? そうか、いらねえのか。じゃあ、わしはもう一本、と」
「まったくよぉー、施川には勝てねぇべ」
邑中が呆れ顔をしている。
「まあまあ、邑中。今に始まったことじゃないだろう。それより、なんか喰わなきゃな」
と峪口が言うと、
「冷蔵庫見たけど、なぁーんにもねえな」
呆れた、とばかりに施川が首を振った。
「上に凍らした飯があっただろう、雑炊でも作るよ」
「よし、わかった。わしが作ってやる。峪口は旅行の準備をしろ。邑中君はクソでもしていてくれえ」
「おっ、珍しいことがあるモンだ」
昨晩の罪滅ぼしのつもりか、施川が珍しく気遣いを見せた。
2
峪口がカーテンを開けると、窓の外は爽やかな秋晴れで、上海には珍しく青空が広がっている。
「おお、なんていい天気だんべぇ。峪口から上海には青空がねぇって聞いてたけんど、どうしてどうして、すんばらしい秋晴れじゃねぇかぁ。これも俺ぁの心がけがいいからだんべぇ。へへへへ……」
「なぁ~にが俺ぁの心がけじゃ、早くクソしてこい」
「うん」
「ちゃんと流しておけよ」
窓の側に近づいて来た邑中が、峪口の背中越しに、外を見ながら言った。
「おっかしいなあ。邑中の心がけが良いのはわかるけど、あっちにいるのは、それ以上に心がけが悪いはずだからなあ。なあ、施川ぁ」
「あ、あ~ん? なんか言ったかぁ~?」
「なんでもねぇよぉ~。オメェはいいから、早く、飯作れよぉ~」
「へぇーい、合点だ」
台所から機嫌のいい返事が返ってきた。既にビールが入っている所為か乗りがいい。
上海は黄砂の影響か、建築現場が多い所為か、空はいつも霞がかかったようにどんよりとしていて、滅多に青空を見せることはない。
上海のスタッフは、それでも晴れだと言い張るので、峪口は一歩譲って、そんな天候を“上海晴れ”と名付けていた。
「おお、いい天気だこと。もう直ぐできるからなぁ。うまいぞぉー、わしの作った雑炊は」
「へへへへ……、どうだんべぇ。峪口ぃ~、正露丸はあっかぁ?」
「熊ちゃん、あんたはゴミ箱でも漁ってなさい」
上海は緯度的にかなり南だが、気候はだいたい東京と同じで、一年に一度ぐらいは雪も降る。
やがて台所から施川が、
「雑炊ができたぞぉー! こっちへ来いよぉー!」
と叫ぶ声が聞こえた。
雑炊は醤油味で卵を落とし込んである。
峪口はひと口味わい、その味に驚いた。
「うまいッ! うまいよ。……雑炊のダシは、なんで取った?」
「おっ、ふんとだ。うんめぇ、うんめぇ。やればできんじゃねぇかぁ。ただの酔っ払いだと思ってたけんど、見直したべぇ。へへへへっ…」
「脳ある鷹は爪を隠すってナ。棚にダシの素があったからたっぷりと入れた。わし雑炊は自信あるンじゃ。鍋料理の後は、いつもわしが雑炊を作るンだ。これだけは負けねぇよ。娘もわしの作ったのが一番うまいってゆうもの。むふふふふ……」
施川は娘の顔を思い浮かべたのか、ニヤケタ顔で自慢した。
「そうかぁ、ふんじゃあ、ついでに後片付けも頼むべぇ」
「あららぁ……、邑中君、それはねぇべぇ」
唯一映る日本語放送のNHKニュースを見ながら、三人はしばらくの間、昔話に花を咲かせた。
「さぁーてと、十一時半だ。そろそろ出かけようか」
「空港まではどのくらいかかるの?」
「そうだなあ……、混んでいなければ、三十分ぐらいのモンだ。忘れ物するなよ」
マンションの入り口のガードマンが、三人の姿を見て、
『どこかへ旅行か? ……そうか、桂林か、うらやましいな。俺たちは仕事だ。なあ、相棒』
と隣の男に話し掛け、
『まあ、楽しんできなよ。俺たちの分もな』
と言って、ニッコリと微笑んだ。
二、えっ、中国人が並ぶ……?
1
峪口の懸念は危惧に終わり、高速道路はガラガラ、三十分ほどでタクシーは虹橋空港に到着した。
「おい、峪口ぃ。道が空いていてよかったと思ったら、カウンターは長蛇の列だよ」
「ふんとだぁ。こんじゃ、時間がかかんべぇ」
カウンターの前には、百人ほどの客が並んで順番を待っていた。
「でも、以前と違って、中国人もちゃんと並ぶようになったじゃない。わしが初めて上海へ来たのは、この空港だったよな。あんときは酷かったぁ」
「そうだ、あのころ浦東空港はまだ工事中だった。確かに以前は酷かった。並ぶというよりも、群がるといった感じだったものなあ」
それはほんとうに酷いものだった。
人々はカウンターを取り囲むと、いたるところから手を出す足を出すといった状態で、空港職員はそれを注意もせず、手近からただ機械的に処理していくだけだった。
当時は、日本人には耐えられない惨状を呈していた。その日は空港職員の適切な誘導もあり、手続きは二十分ほどで完了、三人は気分良くゲートへと向かった。
「また引っかかっちゃったよ、探知機に。ベルトまで外したンだけどなぁ。パンツも脱がなきゃ駄目かな。へへへへ……」
施川が不満げに皮肉を言った。
「俺もサ。経験上、中国では九十パーセントは引っかかる。見ていると、ほとんどの客が引っかかっているだろう」
「きっとあれだんべ、裏で釦を押してンだんべぇ」
と言う邑中を、
「邑中はパンツを脱いでも駄目だろ。なにしろ、金物がデカ過ぎる」
と施川が茶化した。
「あっ、はっははは……、確かにデッカイ。いやいや、北海道では驚いた、驚いた。俺はまたマクワウリでもぶら提げているのかと思った。邑中が風呂に入ると、ポッチャン、ポッチャン、ボッチャーンだものナ」
三人は大学二年の夏休みに、誘い合って、一ヶ月ほど北海道旅行をしたことがあった。
「そうそう、特に最後の音がデカイんだよなあ。さすがのわしも、これだけは黙って頭を下げさしてもらうわ」
「いやいや、先に風呂に入っていたオヤジがよ、くくっ…、鼻っ先に邑中の巨大な逸物を突きつけられて、目を剥いてたな。今思い出しても笑っちまうよ。くくくく……」
「またぁ~、峪口までぇ~」
とは言いながらも、なにか誇らしげな邑中であった。
2
「ははっ…、わりい、わりい。でも、検査のあとの対応はずいぶん良くなったよ」
「そうそう、ほんとうに横柄だった」
「そういえば俺、前に眼鏡用の小さなドライバーを取られたことがあるンだ。五センチぐらいのやつだよ。一緒にいた中国人スタッフが、“これでいったいなにができるンだ、ハイジャックでもすると思うのか”って食い下がってくれたけど、規則だ、規則だの一点張りで、とうとう返してくれなかった」
「自分が欲しかったンじゃないの、それって」
「たぶんナ」
待合室はたくさんのお客で溢れており、その喧しいこと、喧しいこと……。
「ほんとに中国人はうるせえなあ」
と言って、施川は耳を塞ぐ仕草をした。
「まぁな。慣れたよ、俺は」
「六年もいれば慣れんべぇ。白人もいっぺえ(多い)いる。半分ぐれぇいるべぇ。中国人に負けず劣らず、うるせぇなぁ。まるで農協の団体旅行と同じだんべぇよぉ」
と、邑中もそれに同意を示した。
峪口は、レディーファストとかなんとか、女性の前ではいい格好をするが、欧米人にも礼儀知らずが多いと常々思っている。
アジア人だからと見下しているのか、たまたま峪口の会社が入っているオフィスビルの白人がそうなのか、乗り合わせたエレベーター内で、辺り構わず大声で話す携帯電話には閉口させられる。
「田舎者だンべぇ、きっとよぉ。ふんでも何語だぁ、この連中は?」
と言う三人も、間違いなく田舎者だ。
「スペイン語か、ポルトガル語だろうな」
などと他愛もない会話をしていると、間もなく搭乗手続きが開始された。
「珍しいね、時間どおりだよ」
「ほら、去年の六月に北京へ行ったじゃない。あのときはなんの放送もなく、この空港で一時間以上待たされたンだ。焦ったよ、二人より少し早く着くはずが、遅れるンじゃないかと心配で……」
「そうそう、でもわしらも遅れて、結果的に空港でピタリと遭えたンだよな」
「うんだうんだ。どっかのバカが遅れてきたんだぁ」
そのときのことを思い出したのか、邑中が憤懣やるかたないといった表情をした。
飛行機まではバスでの移動、その運転の荒いこと荒いこと。途中で何度か急ブレーキを踏まれ、その度に乗客からは嬌声があがった。
「いてぇっ! わざとじゃねえか、まったく」
よろけた拍子に、バスの壁に頭を強か打ちつけた施川が、怒りの声を発した。
「まぁーったく、わしのヘッドはクッションなし、地肌に直にぶつかるンだからな」
と言って、薄くなった頭を撫ぜあげた。
「これかなあ、いや違うなあ。……あれかなあ、またまた違う。いったいどこまで行くンだよ」
峪口もイライラを露にした。
空港内に駐機している飛行機の間をバスは縫うように進む。
その度に乗客の身体は左右に傾ぎ、嬌声があがった。
そうして、ようやくバスは止まった。
「峪口ぃ~。この飛行機、でぇじょぶかぁ? ちっちぇ(小さい)し、小汚ねぇしよぉ……」
邑中が不安そうに訊いた。
「それは、私にも補償できましぇ~ん。ここまできたら諦めろよ」
「うんだなぁ。白人が多いから、でぇじょぶだんべぇ」
邑中が自らに言い聞かせるように呟いた。
「どうゆう基準だ、それって?」
3
飛行機は、定刻よりも十分ほど早く飛び立った。
「峪口ぃ時間前だよ。驚いたね、どうも。定刻より早く出発するなんて、日本じゃ考えられねぇな」
「全員揃ったんだべぇ。いいべ、遅れるよっかよぉ」
平行飛行に移っても、乱気流の所為か、機体が小さいからか、激しく揺れを繰り返していたが、三十分ほどしてようやく静まった。
「おっ! 一応ドリンクサービスがあるンだ。飯も出るのか?」
「簡単なものが出るはずだよ」
三十分ほどが経過し、
「おっ、来た、来た。綺麗なスチュワーデスだなぁ。峪口ぃ、わしゃビール二本じゃ」
「ないよ。ジュースでいいだろう?」
「俺ぁはジュースでいいだ。オメェもそうしろ」
なんだビールはないのかと、ブツブツ呟きながらジュースに口をつけた施川が、
「なんだ、このジュース。まるで砂糖水だ」
「文句を言わないの」
「こらぁーッ! 急に椅子を倒すな。まったくぅ頭にくるなあ」
と叫んで、施川は椅子の背をバンと叩いた。
見ると、零れたジュースがシャツを濡らしている。
「おい、施川ぁ~。止めろぉ~、喧嘩すんなよぉ~」
と邑中が必死にな駄目ている。
「ほら、前の奴、睨んでいるぞ」
峪口が囁くと、
「文句あるのか、この野郎ッ! 表に出ろッ! ……なんてネ」
と、施川は表情を崩して見せたが、目は笑っていない。
「よせよぉ~、施川ぁ~。周りの連中がこっち見てンべよぉ~」
再び邑中が不安げに囁いた。
「すいません、の一言が言えんのか、ったく。飛行機降りたら勝負するぞ」
施川の怒りの大きさを感じたのか、前の乗客は慌てて椅子の背を元に戻した。
「そうだよ、それでいいンだよ。最初から素直にやりゃいいモンを……」
と、ようやく施川は怒りの矛先を納めた。
「食べ物の恨みは恐ろしいとゆうが、施川の場合は、ビールの恨みが一番恐ろしいな」
「ふんとだ、俺ぁちの太郎と同じだぁ。餌食ってっとき、うっかり手ぇ出すと喰い付かれっかんなぁ。うん、気いつけんべぇ」
「なんじゃあ、わしは犬っころと一緒か」
「うんにゃぁ、太郎はかわいいけんど、オメェは……」
「かわいいけんど、なんだあ?」
「へっへへ……、言わねぇ方がよかんべぇ」
「おい、施川。飯が来たぞ。どっちにする? 飯か麺だってけど。邑中、オマエはどっち?」
「わしはライスとビール。邑中は麺にしろ。不味かったら交換じゃ」
「ビールはねぇってゆってんべぇよぉ。まぁ~ったく、調子いいンだかんなぁ~」
麺はきし麺状の麺に肉の入った汁を絡めもの、ライスはマーボ豆腐で、どちらにも漬物が二種類添えられている。麺もライスも一応温かかった。
「施川ぁ~。けぇんべぇ(交換しよう)」
「嫌じゃ、そっちも不味そうだから」
三、豚に真珠、ハゲにドライヤー
1
飛行機は二時間半ほどを要して、どうやら無事に桂林空港に着陸した。
施川はタラップを降りると、大きな深呼吸をしながら言った。
「は~あ……。それにしても暑いなあ。しかし田舎にしては、中々立派な空港だ」
「俺ぁ長袖だからあぢぃ、あぢぃ。施川に訊いたらよぉ、日本と同じくれぇだってゆうモンだから、半袖なんか持ってきてねぇべよぉ。どおすンだよぉ」
「国際的な観光地だからナ、桂林は。施川ぁ~、メールで入れといたろう。邑中に連絡しなかったのか?」
「中国は外面がいいか。あれ、連絡しなかったかぁ」
「これだもん、どっかで買うべぇ。峪口ぃ~、それはいいけんど、このツアーは現地集合なんだべぇ。どこへ集まんだぁ?」
邑中が不安そうな顔を峪口に向けた。
「待て待て、この説明書によるとだ。出迎えロビーに添乗員がいるはずナンだが……」
虹橋空港で乗るときには、外人はパスポート、中国人は身分証明書の提示を求められたが、桂林空港では荷物の引換券のチェックだけだった。出口で担当者が、荷物に付けられた半券と手持ちの半券とを照合している。
狭いロビーには、旅行社の旗を掲げた添乗員が数十名待っている。
「うへぇ。峪口ぃ、どれだよぉ~。大丈夫かぁ?」
「熊ちゃん、豚ちゃん、豚熊ちゃん。心配せんと、峪口君に任せておきんしゃい。わしゃは売店でビールでも買って来るけんネ」
「どこの生まれだオメェは……。施川ぁ~、あんまりウロチョロしねぇ方がいいどぉ」
「なぁ~に、大丈夫だ。売店はあそこだから、わしを置いていくなよ」
「おおっ、あれだあれだ。あの旗、CITS旅行社。おい、施川ちょっと待て、離れるな」
「ん……、かわい娘じゃん」
施川には、女性は全てかわいらしく見えるようだ。
「おい施川、急ごう。置いてかれちゃかなわんぞ」
「ほれ、施川ぁ~。早くぅ、早くぅ」
邑中は全てにおいて慎重な男だ。面倒見もいい。
峪口は到着を添乗員に告げ、バッチと帽子を三個ずつ受け取って、二人の所に戻った。
「あれ、施川は?」
「まぁ~ったく、駄目だよぉ~って、ゆってンのに、ビール買いに行っちゃうンだもん。あの、バァタレ」
「そうか、しょうがねえなぁ…。おっ、戻って来た」
施川がなにやら袋をぶら下げて戻って来る。
「おい、急げ。みんな揃っているそうだ。ほら、ほんとうに置いてくぞ」
「ほぉ~れ、施川ぁ~。早くぅ、早くぅ」
添乗員の掲げる旗の下に、十数名の旅行者が集まっている。
2
「この人たちと一緒に旅行するの?」
施川はビールを飲みながら訊いた。
「そうみたいだ。ほら、バッチと帽子」
「おう、あんがと。バッチはいいけど、この帽子はなんとかなんないのかよ」
「ブツブツゆうなよ。みんな同じものをつけているだろう。アンタが一番迷子になりやすいンだから、しっかり被っとけよ。ほら、もう行くぞ」
「へへへへ……、オメェが一番危ねぇんだと」
「あれ、熊の帽子とわしのとはサイズが違うのか? どれどれ……」
施川が邑中の帽子を取って自分の頭に乗せた。
「どうみても同じだよな」
再び邑中に被せて、
「おうおう、なんちゅうデカイ頭じゃ。くくくっ…、半分も入らねぇ」
「オメェと違ってよぉ、脳ミソがいっぺぇ詰まってンだぁ」
「へへっ…、糠ミソだろう」
「あれ、施川ぁ~、頭にカビ生えてっど」
「おっ、早速のお返しか。これはカビじゃねぇ、産毛じゃ」
「へへへっ…、産毛だとぉ。どれ、吹けば飛ぶんじゃねぇかぁ」
「こら、止めろ。息を吹っかけんじゃねぇ。大切に育てているンだからよぉ。まったく、なんの苦労もねぇモンだから黒々とさせやがって。毟るぞ」
「あっ、止めれ、止めれ」
「ほら、二人とも、行くぞ」
十数名の同行者と共に三人は、添乗員の導きにしたがい用意されたバスに乗り込んだ。
空はあくまでも青く、空気は澄み渡っている。
上海から二時間半、千キロばかり南に移動したことになる。ほぼ台湾と同緯度で、香港からは少し北西に位置する。
十月とはいえ暑い。
「なんだって? なんだって?」
「うん、今日の日程と明日の集合時間を説明しているンだよ」
「ヘーえ。オメェわかんだ」
「まあ、だいたいな。でも、訛りが強くてよくわからないところもある。後で紙に書いてもらうよ」
「オメェだけが頼りナンだからよぉ。施川じゃ、クソの足しにもなんねぇしなぁ」
「あらぁ~、邑ちゃん。ゆってくれるじゃないのぉ」
施川は既に二本目のビールを飲んでいる。
「おい、あんまり飲み過ぎるなよ。ところで、今何時?」
「五時を少し回ったとこだぁ」
邑中が自慢の腕時計で時間を確認した。
「えッ! 邑中、それって、日本時間だろう。時差が一時間あるンだぞ」
「そうかぁ~。ふんじゃ、四時か? 六時か?」
「四時だ、バ~カ。時計を一時間戻しなさい。時差もわからなくちゃ、高級時計も役に立たねぇな。まさに豚に真珠だな」
施川が口を挟んだ。
「ハゲにドライヤーだんべぇ」
「おっ、邑ちゃん、うまいことゆうねぇ」
「あんれ、怒んねぇのかぁ」
「わしは心が広いンじゃ。ところで、これからどうすンだ? わしはホテルで休みたいンだけど。眠くなってきちゃったよ」
「これだモンなぁ。市内観光をして、夕飯食ってからだから、ホテルに着くのは八時過ぎになるぞ」
添乗員は先ほどからしゃべりっぱなしで、そのうちに歌まで唄いだした。
旅に浮かれた同行の中国人たちも大はしゃぎである。
「少し静かにしてくれないかなあ」
施川はトロンとした目を瞬かせて言った。
四、ヘイ、賑やかにやろうぜ!
1
「おい、着いたぞ」
「えッ! どこ、どこ? ホテル?」
まどろみから目覚めた施川は、
「あ~あ、よく寝た。少し寝たらすっきりしたよ」
と頭を振り振り、首の骨をボキッと鳴らした。
「夕飯だよ。まぁ~ったく、市内観光の間中寝てるンだからな。いったい、なにをしに来たことやら……」
「だって、別に見るものないじゃん。象の鼻だの邑中のケツだのって……、まあ、そう見えないこともねぇけどナ」
「象の鼻山は桂林のシンボル的な存在ナンだぞ。バカにしちゃいけませんよ」
「ふんだ。近くで見っと、なかなかよかったぞぉー。ゾォー」
「施川、聴いてやれよ。珍しく洒落をゆっているようだから、邑ちゃんが」
「ふ~ん、そうなのお。えかったね、邑ちゃん。シンボルねぇ…まあ、そう言われると、なんとなく有り難味が増すわ。わしは遠くからチラッと見たから満足、満足」
「オメェはなんしに来たんだべぇ。この横着モンがぁ」
到着したレストランは、ツアーには付きものの大食堂である。
十人掛けの円卓が数十卓、峪口たちのツアー一向には二つのテーブルが割り当てられ、好きな所に座れとのことであった。
しかし、二組の家族が一卓を占領してしまったので、三人は残った卓の隙間に辛うじて尻を割り込ませた。
「わしらの他は二組の家族とアベックが二組、それと女性の一人旅か。峪口ぃ、あの女性はなんだろな?」
施川が声を潜めて囁きかけた。
「おい、施川。あんまりジロジロ見るなよ」
と峪口が耳打ちをした。
「そうはいっても気になるじゃん。後で話し掛けてみようよ」
コソコソと囁き合う二人に、
「駄目だよぉ~。止めろよぉ~」
と邑中が情けない声をあげた。
隣の円卓にはビールが運ばれ、気心の知れた家族同士のため大いに盛り上がっている。
比べて、こちらの混成部隊は静かなものである。
すると施川が、
「ビールは自分で頼むのか、なるほど。旅行費用には入ってないンだな。峪口、五、六本頼んでよ」
「ごっ、五、六本?」
「ああ、みんなに奢りさ。挨拶代わりによ」
「おっ、珍しいこともあるモンだ。ケチンボの施川の奢りとはよぉ。雪でも降んねければいいけんどぉ」
と言う邑中に向かって、
「がっはははは……、三人で割り勘、なっ」
「×・○・△・※……!?」
2
ビールが届くと、施川は早速一人旅の女性に近づきビールを勧めたが、その女性はにこやかに微笑みながらも拒絶している様子だ。
なおもしつこく勧める施川に、女性は助けを求めるような視線を峪口に向けた。峪口は施川に席へ戻るようにと目で促がした。
頭を掻き掻き席へ戻る施川に、
「施川ぁ~。ここは日本じゃねぇんだから、止めろよぉ~。ふんとに、いやーな顔をしていたぞぉ~」
と邑中が諭した。
「独りぼっちで寂しそうだったから、励まそうと思ったンだけどなぁ…」
決してスケベ心からではないと、強調したいらしい。
「ほらほら、施川。正面の女性がグラスを突き出してるぞ。ビール注いてやれよ。隣の彼氏にもナ」
「おっ、いいね、いいね。どうぞどうぞ。あっ、男は駄目ネ。へへへっ…、冗談、冗談、どうぞ。こっちもお隣に負けないように楽しくやりましょうよ。はい、御隣さんも」
施川は同じテーブルの人たちに、次々とビールを注いて廻った。気の良い男ではある。
「ほら、邑中も飲めよ。今日は、少しはいいだろう。なあ?」
「す、少しナ。ちっとでいいぞ。俺ぁ、直ぐ真っ赤んなっちゃうべよぉ~」
「いいよ、真っ赤でも、真っ黒でも。いいから、もう少し飲めよ、ほれ」
「こんで十分だぁ。もったいねぇからよぉ。もういいってばぁ~」
「ごっつい身体して、ほんとにだらしねぇな。バケツで飲みそうな面しやがって」
「俺ぁ酒飲むと、直ぐに眠くなっちゃうんだぁ」
邑中はアルコール類をほとんど飲まなかった。
「それにしても、誰からもご返杯がないね」
とブツブツ不満を言いながら、施川は席に座った。
「施川、こっちじゃナ、日本みたいに注いたり注がれたりしないンだ。だいたいな、いちいち立ち上がって行かなくともいいの。ビールを卓にドンと置いて、どうぞご自由にやってください、と言えばいいんだよ」
「それじゃ、なにか物足りないな」
「よしよし、ふんじゃ、俺ぁが注いでやるベぇ。ほれ、飲め」
「謝謝、あんがとさん。まさか、熊にビールをついてもらうとは思わなかったよ」
瀬川はグビッと一息に飲み干した。
「じゃあ、俺も。ほら」
「おっ、峪口君まで。すまんのお、謝謝」
そしてもう一度グビッと飲み干した。
「ほら、邑ちゃん。ご返杯ご返杯」
「いいってばよぉ~。俺ぁもう十分だぁ~。もったいねぇから、いいってばぁ~」
3
そうしている間にも料理は大皿でドンドン運び込まれ、テーブルに並べられていった。
「施川、ちょっと待てっ! 洗ってからだ」
峪口は、テーブルに置かれている急須の熱いお茶を茶碗に注ぎ、箸やレンゲを洗ってから、そのお茶をクルクルと回して茶碗を洗うと、空いている器に捨てた。
「これでオッケイ。まあ、気休めだけどね」
「なるほど、生活の知恵だな。よし、わしも」
「ふんじゃあ、俺ぁもやるべぇ。こうかぁ?」
「そうそう、こういう店は碌に洗ってないということもあるけど、なんといっても肝炎が恐いからな」
「そういえば、他の客もみんな同じことしているわ」
「うんだなぁ」
「アルコールを滲み込ませた携帯用ナプキンも売られているけど、そこまでやると、ちょっと嫌味だろう」
「肝炎って、そんなに多いのかぁ?」
「ああ、多いよ。俺の知り合いの駐在員が二人も罹ったからね」
「ど、どうなんだぁ、も、もし罹っとよぉ?」
「隔離される」
「か、かくりぃー! 俺ぁ、やだぁー!」
「俺ぁ、嫌だといってもなぁ……。峪口、どのくらい隔離されるンだい?」
「そうさなあ……、二ヶ月は隔離されるンじゃないかな。二人から入院中の話を聞いたけど、かなりきつかったそうだよ」
「んだべなぁ」
「隔離の場所はどこなの?」
「上海の郊外ってゆっていたな。日本人だからって特別扱いは一切なし、食事も中国人と同じだったそうだ」
「二ヶ月もか、たまんねぇべぇ、そりゃ。日本へけえっちゃ(帰る)いけねぇのかぁ?」
「ああ、よっぽどのコネがないと駄目らしいよ」
「喰うの止めんべぇ」
頼りなげに言う邑中に、
「わしは喰う。死ぬときは死ぬ」
「まぁ~た、ふんなことゆってよぉ。バカは気楽でいいなぁ」
「誰がバカじゃ」
「一番参ったのは食事よりもなによりも、なんにもすることがないってことだって。肝炎の治療方法はただ寝ているだけだからな」
「へ~え、くわばら、くわばら。なんか食欲がなくなってきたよ」
と言いつつ施川は、並べられた料理に次々と箸をつけていった。
4
「施川ぁ~、オメェ~、すんげぇ食欲だなぁ~」
大きな皿に山盛りされたご飯と川海苔の入ったスープ、キュウリと豚肉の炒め物、カボチャと鶏肉の炒め物、マーボ豆腐、ベロベロの牛肉の炒め物、そして川魚の蒸し物、味付けはどれも同じようなもので、澱粉でトロミがつけられていた。
「マーボ豆腐以外はみんな同じ味付けじゃん。この魚なんか焼いて欲しいよ。これ、桂魚ってやつだろう?」
「いや違うな。なんだろなあ? 鯉とも違うし、草魚かな?」
「泥臭くないし、まあ不味くわないけど、やたら骨が多くて……。 うん? 峪口ぃ~。これ、これ見てくれ。骨が二股にわかれてて、ものすげえ鋭い。こんなのが喉に刺さったら、病院に行かないと取れないぞ」
施川は口から骨を取り出し、峪口と邑中にかざして見せた。
「おおっ、凄い。大切に仕舞っておきなさい」
「俺ぁはもういいだ。ご馳走様ぁ~だ」
と言って、邑中は箸を置いた。
「この牛肉は異常に柔らかいな。薬づけだぞこれは。峪口、これは喰わない方がいいぞ。邑ちゃん、アンタは大丈夫だ」
「あんでぇ? 俺ぁだって喰いたくねぇべよぉ」
「そうナンだ、上海でも異常に柔らかい牛肉が出てくるンだ。俺は喰わないけどね」
「うちの会社の添加剤を使えばいいのによぉ。味もいいし、健康的だし……。うちの社長は絶対に肉は食わないけどね」
「田原社長は菜食主義かい?」
「いやっ! 菜食主義ってわけじゃないけど、とにかく動物は喰わない方がいいンだとさ」
「魚は食うンだろ?」
「うん、魚はね。人間とまったく種が違うからいいんだとさ。種の近い牛や豚を喰うから、最近わけの分からない病気が流行るんだ、って言っているよ」
「ふぅ~ん。そうゆうモンかねえ……」
一時間ほどで夕食が済み、バスは桂林市内のホテルへ向かった。
「それにしても桂林てとこは、川が多いなあ」
「ああ、川と湖の街だよ。両江四湖、二つの江、つまり川と四つの湖に囲まれている、という意味だって」
「よく知ってんなぁ~、峪口はよぉ」
邑中が、いかにも感心したという風に呟いた。
「空港に置いてあった、これに書いてある」
「なぁ~んだ。ふんなことだんべぇ」
五、どこが四つ星ホテルじゃ!
1
レストランから小一時間ほどで、バスはホテルに到着した。
市内の目抜き通りにしては少し寂しいが、とにかくここが桂林市の目抜き通りだ、と添乗員が言い張る道路脇に“桂林大飯店”は建っていた。
「これかあ……、まるでビジネスホテルだな」
桂林が一望できるホテルを期待していた峪口は、失望を禁じ得なかった。
「きったねぇなぁ。峪口ぃ~、ほんとに四ツ星ホテルかぁ? こんならは江戸屋旅館の方が、まだましだんべぇ。知ってっか、オメェら?」
「知るかあ」
「旅行案内には、確かに四ツ星クラスって書いてあるンだけどなあ……」
「うん、クラス?」
峪口が添乗員に確認すると、
『三人の部屋は特別室にしようと思いましたが、残念ながら今日は空きがありません』
との答えが返ってきた。
「なんだべぇ。うんめぇことゆって、ごまかしだんべぇ」
「そうだんべぇ、そうだんべぇ」
邑中と施川が不満を漏らすのを峪口は、
「中国の旅は、こんなものさ」
と慰めた。
チェックインを済ませシャワーを浴びてから、三人は市内観光に出かけることにした。
2
ホテルの前でタクシーを拾い、添乗員お勧めの木龍湖へと向かった。
湖畔は、グリーンやピンクの光で煌びやかにライトアップされており、色の不自然さはあるものの、中々の雰囲気を醸し出していた。
気候も良く、連休中ということもあり、湖畔は観光客と地元の人たちで賑わいを見せていた。
「ほほぅ~、綺麗だなあ。雰囲気もいいし、でも隣が峪口と邑中じゃあ、ちょっと興ざめだけどなあ」
「それは悪うございました。スナックASOKOの小百合ちゃんなら良かったか」
「えっ! な、なんで知っているの、ちみたちが? にょ、女房に内緒な」
恐妻家でもある。
「ははははっ…、自分でベラベラ喋ったじゃないか」
「誰だぁ、サユリちゃんてぇ? どうせ、駅の近くの小汚ねぇスナックだんべぇ」
「人畜無害がわしの売りナンだから、誤解されるようなこと言っちゃ駄目よぉ、峪口君。……な、なんだぁー! 小汚ねぇだあ。邑中、表へ出ろっ! なんちゃって」
一時間ほど湖畔を散策してホテルへ戻り、明日の朝が早いということから、峪口と施川は缶ビールを一缶ずつ空けて、九時過ぎにはベッドに潜り込んでいた。
ただでさえ狭いツインの部屋にベッドが三つ、デカイ男三人にはかなり狭かった。