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第一章半枯れトリオ上海に集結

第一章半枯れトリオ上海に集結


一、プロローグ


1


二〇〇六年の国慶節(十月一日)を利用して、峪口真一は“桂林”ツアーへ参加することにした。

上海に駐在して六年、桂林ぐらいならいつでも行けるだろうとの思いから、とうとう今日まで行かずじまいとなっていた。

桂林は日本人に人気の観光地の一つで、中国といえば先ずは北京と上海へ、そして二度目、或いは三度目の旅行で訪れる方が多いのではないだろうか。

峪口が四十年来の友施川克己に、国慶節の連休を利用して桂林へ行くと話すと、施川は即座に、

『わしも行く。絶対に行くぞ』

と応じた。

「でも、会社は?」

と峪口が訊くと、

『出張、出張。問題ありましぇ~ん』

との答えが返ってきた。

もうすっかりその気になっている。

「中国人と一緒のツアーだけど……」

『ん、なにか問題あるの? わしも申し込んでくれ。安いンだろう?』

「まあ、確かに安いよ。三千元だったかな」

『一元は十五、六円だろう。三、五、十五……。四~五万円、といったとこか? あまり安くもないな』

「この時期は高いンだ。連休中じゃなければ千元で十分ナンだけどね。三泊四日だから、前後の日数を入れると六日間は必要になるぞ。それでもいいのか?」

『大丈びぃー。うん、大丈びぃー。出張、出張』

「知らないぞ、社長に怒られても」

『問題ありましぇ~ん』

「それならいいけど。ところで邑中も誘ってみない。ほら、去年のハワイ、計画倒れになっただろう」

『おっ、そうか。邑ちゃんパスポートも取って、やる気満々だったよな』

「ほんと、悪いことしたよ。俺の都合で中止にしちゃってさ。どう、誘ってみてくれる?」

『う~ん、わしは構わんけど……』

「そうか、そうか。あいつの家はこの時期は忙しいか」

『だろう。……アイツんとこは農家だからなぁ。去年のハワイ旅行は十一月の予定だったから大丈夫だったけどナ』

邑中和年は農家の長男で、大学卒業後に地方公務員として役所に勤めたが、十年後に退職して家業の農業を継いだ。

三人は高校の同窓生で家も近かった。

偶然三人は長男である。

それも付き合いが長く続いている要因の一つかも知れない。

「まあ、俺たちが心配しても始まらねぇ。とにかく訊いてみてくれよ」

『よっしゃ、わしの力でなんとか引っ張りだそう』

「頼むよ」

そんな電話でのやり取りがあって、十月三日に施川と邑中が上海にやって来た。


2


その日峪口は、二人を出迎えるために浦東国際空港を訪れていた。

峪口が喫煙場所で二本目のタバコに火を点けると、

― JL791便は、ただ今、定刻通りに、到着いたしました。

との場内アナウンスが流れた。

それから二十分も経たないうちに、施川と邑中は同じような小太りの身体を出迎えロビーに現した。

二人とも似たような体型だが、邑中の方が施川よりもひと回り大きい。

「いやいや、お出迎えご苦労しゃ~ん」

施川はハンカチで頭の汗を忙しなく拭きながら、峪口に照れ隠しの礼を言った。

「悪りぃなぁ~、峪口ぃ~」

軽い乗りの施川に対して、邑中はほんとうに律儀だ。もちろん性格もあるのだろうが、付き合いの深さにも起因しているのだろう。

峪口と邑中は保育園から高校までの同窓だが、施川は高校に入ってからの関係である。

現在の温厚な邑中からは想像できないが、小さいころの邑中はとてもヤンチャで、保育園をたった二ヶ月で退園になっている。

そんな実に珍しい経歴から、峪口に当時の邑中の記憶はなかった。

また、峪口と邑中は小・中ともに同じクラスになったことがない。

だからほとんど一緒に遊んだ記憶もない。

付き合いが始まったのは、クラスが同じになった高校二年生のときからである。

しかし邑中は酒も遊びもほとんどやらなかったので、大学入学後は、精々年に一、二度旅行へ行くくらいの付き合いであった。

峪口と施川は趣味が似ており、しかも就職した会社が近かったので、卒業後も誘い合ってよく遊んだ。


3


「ほんとに来ちゃったか」

「へへへっ…、今更そんなこと言うなよ。大変だったンだから、社長への言い訳……」

「そうだろうなぁ。六日間というのは長いし、それにオタクの会社に桂林での仕事なんてないンだろう?」

「うん、ない。だからわし、……実は、青島へ行っていることになっている」

「はっははは……、ばれても知らんぞ」

「でもよ。“少し長いですね”って訊かれたから、“青島から上海へ廻ります”って言ったら、社長がニヤリと笑って、“峪口さんによろしく”だってサ」

「あっははは……、そりぁ、間違いなくバレてるわ」

「へへへっ…。まあいいや、来ちゃったンだから。精々楽しくやりましょうよ、峪口さん。ねぇ、邑ちゃん」

「気持ち悪りぃな」

施川は、実に楽観的な男である。

「ところで邑中。この時期は忙しいンじゃねぇのか?」

「うんだ。ふんとは無茶苦茶忙しい。んだから、“俺ぁ行かねぇ”ってゆったんだぁ。そしたら恵子が、女房だけんど。その恵子がよぉ、“久しぶりでしょう。せっかく誘ってもらったンだから、行ってきなさい。後のことは、私がなんとかする”ってゆってくれただぁ。へへへっ…」

「おっ、ノロケやがった」

「悪かったな、無理に誘って」

「ふんなことねぇよ」

峪口の家も元は農家だったので、この時期の忙しさは知っている。

況して邑中の家は、峪口の家とは比較にならないほど、規模の大きな農家である。

「それにしても、良い母ちゃんだよな。アンタにはもったいない。なあ、峪口ぃ~」

「それは言える。何度か会ったことがあるけど、ほんとに優しい嫁さんだ」

と峪口が相槌を打つと、

「そぉでもねぇべよぉ。ああ見えて、恵子はきついんだかんな」

邑中が力を込めて言い切った。

「はっははは……、どこも同じだ。カミさんには頭があがらねぇな」

「その通り、触らぬカミ(神)に祟りなし、ってナ」

と言う峪口の言葉を受けて、三人は大声で笑った。


4


三人は、ごった返す出迎えロビーを抜けて、タクシー乗り場へと向かった。

「さっき随分歩かされたな。まるでディズニーランドの順番待ちみたいだ。普通はあんな長い距離歩かないよな」

施川が不満気に呟いた。

「出迎えの人たちが来客を見逃さないように、グルッと歩かされるのさ」

「まるでベコ(牛)の品評会だんべぇ」

邑中が農家の人間らしい喩えを言った。

「名前を書いたボードを持っていただろう」

成田空港なら出迎えロビーにわずかな柵しかないが、浦東空港では九十九ツヅラ折り状に歩かされ、ギラギラした視線を浴びる。

少し照れくさい。

「オキャクサン。タクシーハ、コッチダヨ」

「おッ! なんだ、いきなり」

出口のところで風体の良くない男から声をかけられ、施川が驚きの声をあげた。

「不要、謝謝。ほら、向こうだ。行くぞ」

「峪口ぃ~、オメェ~、今、なんてゆったんだぁ?」

「いらない、ありがとうだよ。わしにもそれくらいはわかる。なにしろ、上海へは何十回も来ているからナ」

「そんなに来てんのかぁ。ふんとかぁ、峪口ぃ~?」

「嘘嘘。精々、二、三回だろう」

「なんだ。相変わらずオメェは大げさだなぁ。ところで、さっきの男はなんだぁ?」

施川が指折り数えている。

― あんたの頭は十進法か……。

「アイツか、あいつは白タクだ」

「へ~え……白タク。まだ、そんなのがいんだぁ?」

「最終電車が到着するころになると、松戸でも柏でもウヨウヨいるよ」

「俺ぁ、遅い電車に乗ったことねぇからわかんねぇ」

と応じる邑中に、

「邑中は高級車に乗っているからな。電車なんて滅多に乗らないンだろう」

と、施川が冷やかすように言った。

「あんなの高級車じゃあんめぇよぉ。六百万ぐれぇのもんだぁ、てぇしたことねぇべ」

「邑中の金銭感覚はわしらとはだいぶ違うナ。わしはジャガー貯金しているけど、ぜんぜん貯まらねぇ」

「なんだぁ~、そのジャガー貯金ってのは?」

「へへへへっ…、ジャガーを買うための貯金だ。わしはあの車が大好きナンじゃ。いつか必ず買う」

施川の目に炎が燃えあがった。

「俺ぁまた、あんな猛獣買って、どうするんだべぇと思った。へへへっ…、車かぁ~」

「かぁ~、じゃなくて、カー(CAR)だよ」

二人で訳のわからないやり取りをしている。

「オメェの場合は飲み過ぎだんべぇ。酒を止めれば、直ぐ買えんべぇ」

「はっははは……、そいつは無理だ、無理。タバコは止めたけど、酒は、ぜったいに無理。うん、それだけは自信持って宣言する」

「邑中の車は、確か、クラウンだったよな?」

「うんにゃ、クラウンは前のだ。今はフーガ。典和、息子にせがまれて買い換えたんだぁ。息子にだよぉ、俺ぁが欲しかったわけじゃねぇよぉ」

「どっちでもええがナ。なあ、峪口ぃ」

「ああ、ところで息子はいくつだ? ずいぶん渋い車を欲しがるじゃねぇか」

「二十五、あれ、六だったかな……」

「いいの、言い訳は。それにしても、毎年買い換えているじゃなの。税務署が来ても知らねぇぞ」

「ふんなことねぇよ。オメェらしつけぇなぁ~。毎年じゃねぇよぉ。三年に一っけぇ(回)だぁ。それくれぇは普通だんべ」

「三年に一回だとぉ、普通じゃねぇぞ、それは。ものすごい贅沢ちゅうモンだ。わしんとこなんか、自慢じゃねぇが、もう十年以上同じのに乗っている。それもベンツじゃなくてブルーバードだ。さすがは邑中様、御大尽様だ」

「もう、いいよぉ~。施川はしつけぇなぁ~、相変わらずよぉ~」



二、日本人はカモ?


1


白タク紛いの客引きがカモを物色している。

タクシー乗り場が混雑しているからといって、うっかりこんなのに乗ると、べら棒な料金を請求されることになる。

それでも北京と比べれば、まだかわいいものだが。

「俺が前に乗る。二人は後ろへ乗ってちょうだい」

峪口が行き先を告げると、すかさず運転手が、

「どの道を行きますか?」

と訊いてきた。

廬浦ループー大橋ッ!」

峪口は少し語気を強めて答えた。

「日本人と見ると、ああやって、道を知っているかどうか確認するンだよ。わからないから任せる、なんてゆったら、豪い遠回りされるぞ」

「うへぇ、ふんとかぁ? 中国ってとこは油断も隙もあったモンじゃねぇな。ああ、おっかねぇ」

邑中が心細げに言った。

「ああ、でもこの連中なんて、まだかわいいものさ。さっきの白タクと比べればね。精々、二、三十元分、遠回りをするくらいのモンだ」

「し、白タクだと、どうなるンだよぉ?」

「まあ、二倍は要求されるだろうな。それでも命までは取られないからナ。はっははは……」

「まさか、施川ぁ…オメェ、引っかかったンじゃあんめぇ?」

「ずばり」

「シッ! 峪口。内緒、内緒」

「へへへへ……、施川らしいや。だいたいオメェは、昔っから落ち着きがねぇモンなぁ」

「落ち着きのないのは、親譲りじゃ。親に文句言ってくれ」

「なんでも親の所為にすんじゃねぇ。ふんでも、金で済めばええかぁ。ところでよぉ、峪口ぃ、明日は何時の出発だぁ~?」

「ええと……、確か、午後一時半の便だったと思う。後でよく確認するよ。出発は虹橋空港から、でも帰りはここ、浦東空港からだ」

「ふたっつあんのか、空港?」

「うんだ」

虹橋空港なら市内まで三十分、浦東空港だと小一時間はかかる。

以前は国際便も国内便も虹橋空港を使っており、その上、空港までの高速道路がなかったので、空港も市内の道路も大混雑をしていたものだ。

しかし日本と違って、上海市内の高速道路は無料なので助かる。

もっとも、いきなり、なんの前触れもなく封鎖されることを除けばだが……。

最近、羽田空港と虹橋空港間の便が飛ぶようになったので、ずいぶんと便利になった。

「じゃあ、朝はゆっくりだな。今晩は飲みに行くか。この前のカラオケは良かったなぁ。かわい娘ちゃんがたくさんいて、名前はなんてゆったかな。なあ、峪口ぃ、覚えてる?」

「バカ、知るかよ俺が。……でも、この前、糖尿病がどうとか言ってたけど、いいのか、飲んでも?」

「ああ、あれねぇ。この間人間ドック行ったら、“劇的に改善しています。よく頑張りましたね。これからも続けてください”って医者に褒められたンだ。だから飲んでもいいの」

「喉元過ぎれば、ってやつだな」

以前、生死を彷徨うような大病を患いながらも、“わしは一度死んだ人間じゃ”が口癖の、実に脳天気な男でもある。


2


「あれかい、リニアは?」

施川が突然、道路に沿って走る高架を指差した。

「そうそう。運が良ければ見られるかもしれないな」

「この間、事故があったンじゃなかった?」

「えッ! そうなの? 俺、知らなかったなあ」

「ドイツでもデカイ事故があったじゃないか。確か、同じころだったと思うよ」

「へーえ、知らなかった。こっちじゃ都合の悪いニュースは流さないからね」

「電気系統が焼けたとか、ニュースでゆっていたよ。上海のもドイツ製だろう」

「ああ、そうらしいね」

峪口の部屋のテレビにもNHK放送は入るが、先日もアナウンサーが、“天安門事件から十……”と声を発した途端、プッツンと映像が消えた。

チャンネルを合わせても、調整中のテロップが出て映像が映らなかったり、ノイズで見えないことがときどきある。

「リニアは、日本じゃ何十年もテスト走行を繰り返しているのに、実用化は少し早いンじゃないのかなぁ。なぁ…?」

と、施川が峪口の肩を叩きながら同意を求める。

「えっ? うん。……駐在員同士でよく冗談に言うンだけど。中国は金を取って人体実験している、って」

「機会があれば乗ってみようと思っていたンだけど、止めておこう」

「俺ぁも要ンね。絶対に乗んなぇかんな。乗るンなら、オメェ一人でどんぞ」

邑中はブルブルッと首を振った。

タクシーは、前に車がいるのが許せないとばかりに、飛ばしに飛ばす。

「荒っぽいな。別に急いでないし、リニアと張り合わなくてもいいから。峪口ぃ、なんとかゆってくれよ」

「彼らは回数だからナ。早く俺たちを降ろして、空港に戻りたいンだよ」

「峪口ぃ~、めぇの席はおっかねぇべ。シートベルト締めた方がいいどぉ」

「締めたいンだけど、壊れているンだ。まあ、こんなモンさ」

上海の運転手は元々輪タクあがりが多い。

七、八年前までは輪タクが我が物顔で道路を塞いでいたものだ。

しかし、突然の政府命令により上海市内は全面禁止となった。

その代わりの職として、彼らにタクシーの運転手の資格が与えられた。

大した試験もなかったらしく、結果として運転技術の未熟な者や交通ルールさえ知らないような連中が、運転手として多数排出されたのだ。

― まさに粗製濫造である。


3


「それにしてもひれぇ道だなぁ。きれぇに整備されている。おうおう、工場がいっぺぇだぁ。あれっ、パナソニックてな、ナショナルだんべぇ?」

「うん、そうだよ。この辺りは日系企業も多いンだ。空港も港も近いからね、上海市内へ三十分ぐらいだ」

「さっきまでは荒涼とした畑が続いてたけんど、この辺はマンションがいっぺぇ並んでンなぁ。一戸建てってのは、あんましねぇのかぁ?」

「あるにはあるけど、ほとんどマンションだ。上海人は一戸建てに住むのが夢だ。まあ、最高の贅沢だな。市内で一戸建てなんていったら、何億円もするよ」

「あのマンションなんか、いくらぐれぇすんだぁ?」

「そうだなぁ…この一年で、五十パーセントぐらいは値上がりしたから、平米当たり一万元、日本円で十四、五万円てとこかな。内装はなしだよ」

「てぇことは、百平米で千五、六百万円か。随分安いなぁ。一年で1.5倍かぁ」

「邑中、買っちゃえよ、十戸ぐらい。そんで、わしに一戸くれよ。へへへっ…」

「う~ん……」

「おい、本気か?」

やがて武装警察の訓練所が見えてきた。

「武装警察? なんだかおっかなそうだな。施川ぁ、オメェ顔隠せ」

「おっ、やべえ、やべえ」

施川は腰を折って膝を抱えた。乗りのいい男だ。

「やや、あれは橋か? あっちにも……、あれ、こっちにも……」

邑中が驚きの声をあげた。


4


黄浦江ファンプージャンにかかる橋だよ。俺たちがこれから渡るのが廬浦ループー大橋、右の方は南浦ナンプー大橋、左が徐浦シープー大橋だ」

「ファン、プージャンって、なんだぁ?」

「黄浦江、川だよ川。こっちじゃ大きな川をジャンて言うンだ」

「ふんじゃ、あの団子を串刺しにしたみてぇなのはなんだべぇ?」

「ふふふふ……、邑中君、ぼくが教えてあげよう。あれはテレビ塔、わしは登ったことがある。でもって、隣のデカイビル、あれが……? あれ、峪口、なんだっけ?」

「へへへっ…、な~んだ、知ららねぇんじゃねぇか」

「あれは金茂大厦ジンマオ・ダーシャ、今は中国一だけど、間もなく隣にできるビルに抜かれる」

「あっ、知ってる。わし、それ知っている。日本の森ビルだろう」

「おっ、施川君。エライ、エライ。ほら、霞んでいて良く見えないけど、半分ぐらいできているだろう。わかるか?」

「ん、……どこだぁ? どこだぁ?」

邑中が窓から身を乗り出した。

「ほら、あのビルの隣だよ。確か、再来年(’08)の完成のはずだ」

「ふ~ん。世界一かぁ?」

「いや、世界一は台湾のビルだよ」

「へーえ……、台湾に気を使ってンだんべぇ」

「はははっ…、そうかも。でも、中東のドバイだっけ、バカデカイの造る計画があるだろう。もう始まっているのかな」

「あっちは、石油のアブク銭があるからなぁ。金の使い道に困ってるンだろうよ。わしの会社に少し回してもらいたいモンだ」

「相変わらず赤字か、オメェんとこは。おっ、橋だ、橋だ。これはなんて名前だっけ?」

「ロープー・ダッチャベだよ。いい加減に覚えなさい、邑ちゃん」

「違うべよぉ。ループーだんべ。なぁ、峪口ぃ~」

「うんだうんだ。邑中君が正しい」

「あんれぇ。この橋、登れるンじゃねぇのかぁ~?」

「ああ、登れるよ。アーチ部分が五百五十メートル、世界最大ってことだ」

「オメェ~、よく知ってンなぁ~」

「ほら、あの左手に、川の向こうに見える尖がり屋根の建物。俺、あそこに二年間住んでいたンだ。この橋のオープンセレモニーも部屋から見ていた」

「わしが泊めてもらったとこだな」

「そうだ。右手の方で派手に工事をやっているだろう。ここが上海万博(’10)の会場になるンだ」

「へーえ。ふんで、この川はなんだっけ? まさか揚子江じゃねぇよなぁ?」

「邑ちゃんはうるさいな。まるで、小学生の遠足だ」

「いいべよぉ、俺ぁ初めてだもん。施川みてぇに、何十回も来てねぇもんよぉ~。へぇへへへっ…」

「俺も最初は揚子江かと思った。でも、うちの従業員に笑われたよ。“長江”はこんな小さくないって」

中国人は揚子江と言わず、長江と呼んでいる。

揚子江という呼び名は長江の上流部の一部をさす。


5


「これでちっちぇのかよぉ~。ウソだんべぇ」

「いや、揚子江の河口は向こう岸が見えないそうだ。中州に島があって、何千人も住んでいるンだってサ。岸から岸まで四十キロ以上あるそうだ」

「へーえ……、やっぱし中国はスケールが違うわぁ。なあ、施川ぁ~」

「わしゃ大連で生まれたンだ。昔の満州じゃ…」

「ふんとか!? オメェは残留孤児だったのかぁ?」

「バ~カ、そんなわけねぇだろう。わしは昭和二十五年生まれじゃ」

「昭和十五年の間違いだんべぇ。そのハゲ頭見っと」

「じゃーまし。その毛皮、毟るぞ」

やがて、高速道路を降りたタクシーは淮海中路に入った。

上海のメインストリートいもいえる淮海中路はさすがに混んでいてスピードを出せない。

峪口はホッと安堵のため息をついた。

「オメェ、毎ん日こんなのに乗ってンだぁ」

と、邑中が眉を曇らした。

「はははっ…、もう開き直り。年に四、五回は危ない目に合っているよ」

「四、五回、も……。オメェ、よく生きてンなぁ」

ぎっしり車が詰まっているにもかかわらず、運転手は右に左に車線を変え、クラクションを鳴らし続ける。

「それにしてもよく鳴らすねぇ、こっちの運転手さんは……」

施川は呆れたとばかりに大声で言い放ったが、運転手に通じるはずもない。

「これでも随分良くなったンだ、以前と比べればね。数年前に“ムダクラ禁止令”が出たンだ」

「なんじぁ、ムダクラってよぉ? キャパクラみてぇなもんかぁ?」

「おっ、キャパクラときたか。こら、熊、よく行くのか?」

「へへへっ…、俺ぁも男だんべよぉ。たまにはなぁ……」

「なにやった?」

「えへっ、えへへへっ…」

「気持ちの悪い笑いしゃがって、気持ちよかったか?」

「うん、えがったぁ…」

「あっ、このこの」

「いで、やめれ。いでってばよぉ施川ぁ~。あっ、くへっ、くくく……」

「はははっ…、俺の造語、無駄なクラクションだよ」

「おっと、危ぶねえ。それにしても凄い割り込みをするなぁ。日本なら間違いなくケンカだぞ」

「うんだべぇ、施川ぁ~。オメェなら二、三発はぶん殴ってンべぇ」

「おもしろいンだよ、上海人は。一旦割り込んでしまえば、割り込まれた方は文句を言わないンだ」

「おっ、あんたいい腕してるね。いやぁー、いい度胸してるよ、ほんと。その腕と度胸に免じて許してやるか、といった感覚かな」

「おっ、施川さん、よくご存知で」

「あらぁ~、そうなのぉ~」

ようやく東湖路に辿り着き、そこを右折すると峪口のマンション嘉麗苑である。

料金は百四十五元、峪口が交通カードで支払いを済ませた。

このカードは便利で、日本のパスモより多くの機能を備えている。

導入も日本より早かった。

このように、中国は最新のモノを取り入れる。

電話もいきなり携帯電話が普及、途中省略、だから発展も一足飛びだ。



三、上海のマンション事情


1


峪口はマンションのガードマンに、施川と邑中の来訪を知らせ、よろしく頼むと挨拶をした。

施川は調子よく、“ニイハオー。よろしくねえ”と笑顔を振り撒く。

邑中は身体を九十度に折り曲げて、“こんにちは。よろしくおねげぇします”と日本語で律儀な挨拶をした。

峪口の部屋は十八階、部屋に足を踏み入れた施川が、

「おっ、けっこう綺麗に片付けてあるじゃん。これでもいるンじゃないのぉ~?」

と言って小指を立てた。

「アホッ! あんたとは違う。週に一度、掃除のおばさんに来てもらっているンだ」

「おばさん? 若いおばさんじゃねぇのぉ…」

と峪口を横目で睨む。なかなか、鋭い男である。

「まだ言ってるよ、この男は。ほら、オマエさんたちはそっち部屋を使えよ」

「おおっ、デッカイベッドだこと。……邑中と寝るにはもったいねぇな」

「俺ぁだってやだンべぇよぉ。俺ぁソファーで寝てもいいかぁ?」

「よぉーし、じゃあ、邑ちゃんはあっちネ。ところで峪口ぃ、便所はどこだ?」

「そことあそこ、二つあるから好きな方を使えよ。なんなら両方一緒に使ってもいいぞ」

「いくらわしが天才でも、便所はひとつで、あらら、シャワーも二つかよ。すっんげぇ贅沢」

「けけけっ…、バカと天才は紙一重ってゆうべぇ」

「おっ、邑ちゃん、ゆってくれるじゃないの。うりうりうり……」

「くすぐってぇよぉ。えへっ、えへへへ、えへっ…、やめてけれぇー。くすぐってぇよぉ。峪口ぃ~、助けてくんどぉ~。うへっ、へぇへへへっ…」

「いつまでも遊んでいろ」


2


峪口の部屋は台湾人の所有物で、築十年以上経過しており、あちらこちらの傷みが激しい。

政治的に中国と台湾はいがみ合っているが、企業は中国にたくさん進出しており、資金も大量に流れ込んでいる。

中国人が台湾に入国するのはとても難しいが、台湾人が中国に入国するのは簡単だ。

それは当然かもしれない。

なぜなら中国政府は、台湾を中国の一つの省と位置づけているのだから。

したがって台湾人という存在はなく、住民は全て中国人ということになる。

2LDKでベッドルームが二つ、トイレもシャワーも二つ備えているが、それは外人用マンションとして、上海では普通の間取りである。

「独り住まいにはムダ、広すぎる」

「ほんとにぃ~、ひとりぃ~?」

と言って、施川は洋服ダンスを開ける仕草をした。

「アホッ! しつこい奴だな」

「施川ぁ~。あんまし他人の部屋を勝手に開けるモンじゃねぇどぉ」

「へへへっ…。ところで、ここの家賃はいくら?」

「一ヶ月千二百ドル」

「いくらだぁ、一ドルが百二十五円として、十五万円ぐらいか。高っけぇーッ!」

「そうかなぁ。この都心だぜ。それに治安も大切だろう」

「そらそうだ。礼金とか敷金はあるの?」

「礼金はなし、オーナーが払うだけ。でも、保証金が家賃の二か月分必要だ」

「敷金みたいなものか?」

「そう。でも途中で解約すると、全額没収される」

「十八階かぁ…。俺ぁ、こんなたけぇとこで寝るのは初めてだぁ。なんだか、ケツがこそばゆくってよぉ。ふんでも、地震があったらどうすんべぇ?」

邑中が窓から外を見下ろして不安げに呟いた。

「もちろん上海は壊滅するよ。なにしろ、地震がないことを前提に建物が建てらているから、基礎工事は相当軟いと思うよ。ここなら姉歯さんは大歓迎される」

「あのハゲがかぁ…」

「あっ、その言葉、胸にグサッときた。上海人は、上海には地震がないと、自信を持っているわけね」

「うまいこと言うね、さすがは施川さん。でも大丈夫だよ。上海はニューヨークと同じで、岩盤の上に造られた街だから、ほんとうに地震が少ないそうだ。うちの従業員の話だと、身体に感じたのは、今までにたった二度だけだって」

「何年間でぇ?」

「あいつは、三十五、六だったな」

「ふんでも、ねぇ(ない)って言い切れねぇべぇ 」

「それはそうだけど、まあ、確率的には相当低いってことだよ」

「来たら、来たで、しょうがねえよ、熊ちゃん。そんときゃ、諦めてちょうだい。死ぬときは、どこにいたって死ぬンだからよ」

「施川ぁ~、オメェの頭はお気楽でいいなぁ~」

「なにッ! ハゲげだとぉ」

「ははは……。そうゆう奴に限って、いざとなると慌てふためくモンなんだ」

「うんだぁ。施川はどうでもいいけんど、俺ぁ、まだおっちに(死に)たくねぇ」

「わしはどうでもいいだとぉ~、わしんとこの母ちゃんの前で、もう一度その言葉が吐けるか、ええーっ? しかし、それでよく飛行機に乗ったなぁ?」

「ふんとだよなぁ。ふんとだぁ」

邑中の身長は峪口の百八十センチより少し低く、施川の百七十センチよりは少し高い。

体重はどう贔屓目にみても九十キロはありそうだが、本人は八十キロだと言い張っている。

施川の体形は邑中とよく似ているが、施川がひと回り小さい。

そして二人とも、負けず劣らずヒゲが濃い。

施川のヒゲは濃いが頭髪はかなり寂しくなっている。


3


数年前まで外国人の住む居住区は限られていて、家賃が五千ドルなどというのも当たり前のことであった。

仲介する不動産業者は、借り手と貸し手の両方から礼金を取るのが普通で、ぼろ儲けした業者も多いことだろう。

最近はマンションの乱開発から競争が激化、オーナー側だけから礼金を取るのが普通になっている。

そういった情報が身近にいくらでもあるにもかかわらず、素直に手数料を支払っている馬鹿な連中もいるにはいるが……。

もっとひどいのになると、仲介業者に、『家賃が二千ドルぐらいのマンションを探して欲しい』などと頼む間抜けな日本人もいるらしい。

これはまさに鴨葱で、一番やってはいけない愚の骨頂である。

先日、この二つのことを同時にやってしまった間抜けな連中の話を聞かされた。

しかもその仲介業者は、その間抜けな連中の会社と日本で取引関係にある日系企業だというから、お笑いである。

以前は、中国の企業が日系の企業を騙すというのが、お決まりのパターンだった。

しかし最近は、日系の大企業が新参の日系企業を騙す例が増え、訴訟が絶えないと、上海に駐在している友人の弁護士から聞いた。

彼はそんな日系企業のあり方に、警鐘を鳴らし続けている。

理由としては、駐在員の駐在期間が考えられる。

大企業では三年ぐらいが目安で、その期間に成果を挙げないと、帰国後のポストに影響するのだ。

故に、日系同士でも将来を見据えてとか、長い目でお付き合いを、などと悠長なことを言っていられないことになる。

― 最大の要因は、日本本社のあり方にある。

峪口自身、六年間の駐在生活で部屋を五回替えている。一度目の理由は、家賃の高騰である。

再契約に当たって五割ほどの値上げを要求された。

二度目のときは、わずか数ヶ月の間にガス漏れ一回、水漏れ三回、漏電一回と立て続けに事故が発生、身の危険を感じたからであった。

三度目は、新築のマンションで黄浦江に面した眺めの良い立地で、ようやく落ち着けると思ったが、冬になると風向きが変わり、対岸の鉄鋼所が出す煤煙が部屋を襲った。

その臭いと塵にたまらず、引越しを決意した。

そして四度目は、二度目と同じような事故の多発が原因だった。

事故の度に修理にくる技師に、“この部屋の資材は相当悪いものが使われている。全部交換しないと、いつ事故が起こってもおかしくない”と指摘された。

そこで契約切れを待って、今のマンションに移った。

もちろん、入居前に電気系統、ガスと水道の配管などを徹底的に検査させたことは言うまでもない。



四、上海市内散策


1


「さぁ~て、まだ夕飯には少し早いな。散歩でもするか?」

「峪口ぃ~。さっき見えたテレビ塔、あすこは遠いのかぁ~?」

「いや、そうでもない。タクシーなら二十分もあれば行けるよ」

「俺ぁ、行ってみてぇなぁ。駄目かぁ~?」

「つまんないよ、あんなとこ」

「施川ぁ~、オメェは行ったことあんだべぇ。何十回もよぉ……」

「そうだな施川、行くか。邑中は初めてだし……」

「しょうがねえ。かったるい(めんどくさい)けど、付き合ってやるか。邑ちゃん、ありがたく思えよ」

「うん。あんがと」

三人は、浦東地区にある“東方明珠塔(テレビ塔)”でタクシーを降り、外灘の老上海の景色を反対側から眺め、国際会議中心センターから黄浦江の地下に掘られた外灘観光隊道トンネルを通って、浦西側の南京路に出た。

外灘の古い建物を眺めながらブラブラ歩き、和平飯店ホテルを右折して、南京東路の遊歩道を西に向かって歩き出した。

「ひょえーッ! もんのすげぇ人だなぁ」

邑中があまりの人の多さに驚きの声をあげた。

もっとも邑中でなくとも、上海の観光地、特に外灘や南京路の人の多さには、思わず目を剥くことになる。

況してや、今は国慶節の連休中である。

「今は国慶節(10/1)だからナ。ほとんど地方からの観光客だよ」

「オノボリさんか」

「君たち二人もねっ……」

「へへへっ…、うんだ。しかしひれぇ(広い)歩行者天国だなぁ。それになんげぇ(長い)しよぉ」

「長さは世界一っていうな、こっちの人たちは」

「夜んなっとこのネオン、すんげぇだんべぇ。香港みてぇによぉ」

「邑中、香港へ行ったことあるのか?」

「俺ぁだって、香港ぐれぇ行くべぇよ。去年も農閑期に母ちゃん連れて買い物行った。農閑期は安いべぇ。飛行機とホテル代込みで、一人サン・キュッ・パだ。温泉行くよっか安いモンよぉ」

「ダイヤモンドの詰め合わせでも買いに行ったのか?」

「うんだ。俺ぁこの時計、母ちゃんには指輪とネックレスと時計、うんと……?」

と指折り数えながら邑中は、金張りのゴツイ腕時計を曝した。


2


「おっ、そ、それってあれか、本物か? さっきから気になっていたンだけど、百万ぐらいするだろう?」

施川が目を剥いて言った。

「うんにゃ、百五十ちょっとだぁ。安かんべぇ、日本で買ったら三百万以上はするどぉ」

「安かんべぇって、やっぱりわしら平民には、お大尽様の金銭感覚に付いていけねえ」

「おい、早く仕舞えよ。そんなの持って来るなよなぁ、まったく。泥棒に狙われても知らねえぞぉ」

と言う峪口の言葉に、邑中が慌てて時計を隠した。

「へへへへ……、大丈夫だよぉ峪口ぃ~。誰も本物とは思わないよ。どう見たって、高級時計の本物を持つ顔じゃないもの。なあ、邑ちゃん」

「そういえば施川、オマエさん、この前上海に来たとき、ニセモノのローレックス買って帰ったな」

「シッ!」

「あんだぁ、ありぁニセモンか。オメェ随分自慢してたんべよぉ。変だとは思ったんだぁ。オメェみてぇなケチンボがよぉ。なんだ、やっぱりニセモンかぁ~。ふぅ~ん」

「へぇへへへ……、ばれちゃったか。安月給のわしに本物が買えるわけねぇだろう、どう考えたってよぉ」

「へへへっ…、そりゃそうだ」

などとバカなことを言い合いながら、三人は南京路を西に向かって人民公園まで歩いた。

そこから地下鉄に乗って峪口のマンションのある陜西南路駅へ向かった。

その晩、施川はいつものように、ビールから始まり日本酒、ウイスキーとグイグイと呷り、カラオケで演歌をがなりたて、いつの間にやら小姐(女性従業員)の膝枕で寝息をたてていた。

時刻を見ると、既に十二時を回っている。

「しょうがねぇなぁ~、まぁ~ったく。こぉ~んなに酔っ払ってよぉ~。家で飲ましてもらってねぇんだんべぇなぁ、きっと」

酒も歌も女性もあまり得意でない邑中には、苦痛でしかない長い長い時間だったことだろう。

しかし彼は、そんな不満をおくびにも出さず、薄い水割りをチビチビと舐めながらひたすら耐えていた。

― 気遣いのできる男である。

峪口と邑中で施川を部屋に連れ戻り、寝かしつけてからシャワーで汗を流した。

ようやく、二時過ぎにベッドに横たわれたが、邑中はほんとうにソファーで寝るはめになった。


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