旅好きの人
目の前に無数の扉が並んでいる。
「あなたは一つだけ、好きな扉の向こうに行くことができます。
安心してください。その扉の向こうに広がっているのは、パラレルワールドや異世界なんてものではありません。
ただこの日本の、あなたが今立つ地に続く、どこかに繋がっているだけですから。
どこか、あなたをあなたと知るもののない土地へお連れいたします」
佐藤傑はこの「扉が広がる部屋」のドアマンから渡された説明書を読む。
扉にはそれぞれにネームプレートが付けられている。
自身が立つ場所に近いところから「ふわふわ」「さらさら」「きらきら」と擬音が並ぶ。
傑は元来、旅好きの人間だった。自己紹介の際には趣味が旅行だと語った。
漠然と行きたいと考えていた場所を訪れ尽くすと、行き先を考えることが億劫となった。
それまでそれなりに旅行の回数を重ねていたので、旅に出なくなってからも旅行が好きだと語っても問題はなかった。
傑にとっては過去の話であっても、聞き手にとってはそれを知り得ない。
そして、「趣味が旅行」という言葉は非常にわかりやすく無個性で人畜無害な人間である要素となる。
こんなに楽なことはない、と気がついたのはいつのことだったか。
しかし本当に今の自分が好きなものも浮かばないので、あながち嘘でもないと、誰かに向かって言い訳をする。
そして今、自身を「旅行好きである」とするためにこの場所に立っている。
きっかけは何だったか。傑が職場で休暇申請をすると、同僚に「今度はどこ行くんだ?」と聞かれた。
なんてことない、ただの帰省であったはずなのに「どこかに行かなくてはならない」という不必要な圧を感じてしまった。
咄嗟に「晴れてるところかな」と答えた。確か実家の地方は雨の予報だ。
冷静に考えれば、帰省が目的の休暇はいたって一般的で、それ以上でもそれ以下でもない。まして旅行好きの人間の休暇が全て旅行の予定なんてこともないのだから、素直に答えればよかった。それなのに、その時の自分は投げられた言葉を脳で咀嚼せず、反射的に口を開いていた。
そこで見つけたのが、この怪しげな部屋だ。自分でもよく発見したなと謎の感心を覚える。
この休暇での本来の目的は当然のように存在していて、余分な時間は捻出できない。
移動時間をかけず、どこかに行ければそれで良い。
さっさと本来の予定を済ませ、残り半日となった休暇でどこかへ行く。
日本国内であれば、山奥でなければ明日の出勤までには戻ることができるだろう。
その部屋は、今の自分にどこまでも都合の良い存在だった。
結局のところ、行った実績さえできれば良いのだから滞在時間など必要ないのだ。
頭のどこかで自身を嘲りながら、扉を吟味する。
いくつかの扉を通り過ぎると「必要な場所」や「不必要な場所」と掲げられた扉が目に入った。
二つの扉の前で立ち止まる。
こいつは何を思って必要性を判断しているのだろうか。
率直な疑問が頭に浮かぶ。
しかし、選べる扉は一つだけ。その両方を確かめることはできない。
傑は立ち止まり、まず自身に不要なものを考える。
真っ先に脳裏に浮かぶのは見栄。それがなければ、今頃ただ帰路につき、翌日に備えて休息を取っていただろう。
今この瞬間に不要なものであれば決断までの時間だ。
こうしている今も刻一刻と休日のタイムリミットは迫っている。さっさと実績解除して適当に会話のできる土地を選ばなければならない。
思いついた不要なものはどちらも土地が関係するものではなかったが、なるほど。
「同僚に適当な報告ができる土地」それはある意味「必要な場所」だ。
ならばと、傑はそのまま「必要な場所」のドアに手をかけた。
かつて旅は「ふわふわ」とした気持ちの中で「さらさら」と流れる自然を感じ「きらきら」と目を輝かせたものだった。
いつから旅は「必要な」ものになったのだろう。
思わず口角が上がった。純粋な気持ちもなく、ただ消化するためだけに自身は不確定な扉を開ける。駅近なら良いと効率だけを求めた思考を持ちながら、一歩を踏み出す。
扉を越えた先の景色は、自宅から電車で数十分離れた場所にある公園だった。
振り返れば扉は消えていた。
これが必要な場所か、と目を細める。
以前、この公園によく訪れていた時期がある。
慣れ親しんだ景色に脱力する。
この土地は「あなたをあなたと知るもののない土地」なのか。
何度も訪れた土地。それなのに。
この公園は佐藤傑を知らない。
数いる公園を訪れる者の一人。
いや、公園の景色の一部であり、人ですらないかもしれない。
そうだ。何度も通った理由を思い出す。
あああああ。
声に出さず、叫んだ。
叫ぶことで思考が埋まり、その他にリソースが割かれない。
そのままシロツメグサの絨毯に倒れるように寝転んだ。
この場所は、語れないな。
きっと明日も自分は見栄を張るだろう。
自身は旅好きだし、晴れた場所に行く。
ただし、行き先は聞かないでくれ。
もう一度、叫ぶ。
この場所には人通りがほとんどないことを知っている。だから、かつての自分はこの場所を気に入っていた。
この場所で佐藤傑を知る者は佐藤傑のみ。
浮かんでは消える自尊心を不必要だと破り捨て、ただの景色の一部となれるだろうか。
雲一つない晴天の空から大量の圧を受けながら、いつかその圧と同じだけの力を跳ね返したいと願う。
今はできるだけ、このままで。
最後まで読んでくださりありがとうございます!




