お母上が理想なら、そちらと結婚なさったら?
バスカヴィル侯爵家のブレンドに婚約の初顔合わせで会った時、シェリルは宣言された。
「私の理想の女性は母上だ。母上に近づけるよう努力してもらいたい」
「はい。畏まりました」
ヘーレン伯爵家とバスカヴィル侯爵家の間には特に利益に関しての縛りは無い。
単に父親同士が同じ派閥の人間で、年頃だから結婚させようかと引き合わされたものだ。
シェリルもブレンドの言葉に特に異論はなかった。
(とても素敵な淑女でいらっしゃるのね)
母思いの息子というのは大変宜しいものだと思っている。
兄のリッターは母の小言を受け流して、婚約話に乗り気では無いからだ。
言い争いという程でもないが、毎日何かしらの衝突は見ている。
特に兄には心に決めた人がいる訳でもないが、まだ婚約はしたくないと突っぱねているのだ。
だが、シェリルは婚約に対して後ろ向きな考えは無かった。
いずれは嫁に行くものだと育てられた身としては、早いか遅いかの違いである。
少なくとも初心者となって、婚約するのが普通で。
ブレンドは見た目も良く、年齢も同じなので優良物件と言われる部類だ。
人が羨む結婚がしたいとまでは思わないが、憐憫や同情を向けられる結婚でなければいい。
そんな風に考えていた。
最初はそう思っていたのだけれど。
「手袋を脱ぐ時は、もっとゆっくりと時間をかけないと見苦しい」
「母上と茶器の持ち方が違う。もっと優雅に持ち給え」
「紅茶を飲む時に目線を上げるな」
何処の作法の教師だと思わず言いたくなったが、作法から外れたものではないので、シェリルは頷いて望み通りにするよう気を付けた。
とても厳しいご一家なのね、と納得しつつ、より一層礼儀作法には気を付けようと努力したのである。
自分に付けて貰っていた家庭教師にも、婚約者が細かい方なので細かく教えて欲しいと願い、上流階級の振る舞いを学んだ。
贈り物に関しても、気に入らない様子で文句を言われた。
「君には審美眼がないのか」
「母上に頂いた物を見てみたまえ」
好みの問題ではないだろうか。
金銭的な部分で侯爵夫人と伯爵令嬢が使える金額も違う。
色々と言いたい言葉をシェリルは呑み込んだ。
そして、贈られた衣装は前時代的というか古風というか、古臭いものだったし、地味な色合いだったので、何か悪意があるのではと思った程である。
「母上が君の為に選んだ衣装だ」
「ご夫人が召されるような衣装でございますね」
「母上に感謝すると良い」
胸元をきっちり隠し、襟首まで布で覆われた地味色の衣装。
シェリルは十も歳をとったような気さえしてきた。
ただでさえ、袖を通すのが嫌だったのだが、着てみたらやはり似合わない。
濃い茶色の髪に、葡萄酒色では沈んで見える。
もっと明るい色の華やかで、若い年齢でしか着られないような色が良かった。
父も母も不満をぶつければ、少し困ったような顔で宥めて来る。
「きっと彼もお前の肌をなるべく晒したくないのだろう」
「ええ、古風だけれど、素敵よ」
優しい両親の言葉に頷きかけた時に、兄が一言余計な事を言った。
「婆臭い」
シェリルは宴なんかに行きたくなくなった。
唇を嚙みしめていると、兄が更に言う。
「お前の良さを分かっていない男なんかと婚約なんて、やめちまえ」
「リッター!」
遮るように母が兄の名を叫ぶが、シェリルはその言葉にきょとんとした。
婚約を、やめる。
そんな事が許されるなんて思っていなかったのだ。
売れ残って陳列棚に並ぶよりは、早く買い手が付いた方がいいとされるのが結婚市場である。
相手の爵位も見た目も能力も問題は無い。
あるのは、性格だけ。
(でも、やめてもいいのなら少し気が楽になったわ)
夜会へ行くために迎えに来たブレンドの最初の一言は酷いものだった。
「野暮ったいな」
お前の母親が贈ったドレスですが??とシェリルは叫びたくなった。
なったが、申し訳なさそうな顔で微笑むだけにする。
「母上ならもっと優雅に着こなすものを……まあいい」
扇が百本折れる位に叩きたくなったが、それもシェリルは我慢した。
会場へ着けばやはり、同年代の令嬢達は明るい色の衣装に身を包んでいる。
「ブレンド、君は未亡人を連れているのか?」
「ああ、辛気臭いだろうが、婚約者のシェリルだ」
ぷちり。
堪忍袋の緒が切れる音がした。
シェリルは仮面のような笑顔のまま挨拶をする。
「お初にお目にかかります。この衣装はブレンド様のお母様がわたくしの為に選んで下さった衣装なのでございます。未亡人だとか古臭いだとか後家みたいだとか、そんな風に仰っては、侯爵夫人の審美眼が問われてしまいますわ」
周囲にも聞こえるように言えば、ブレンドが慌てた様に言い繕う。
「君が着こなせないだけだろう?」
「あら?では会場を見てくださいませ。同じ年齢の令嬢達がどんな色でどんな意匠の衣装を着ていらっしゃるか」
ブレンドの友人も引き攣った顔をして、ブレンドを見ている。
シェリルに対して思うところもあるかもしれないが、酷い衣装を贈っておいてそれを卑下するブレンドは頂けない。
「もういい……君とは話をしたくない」
「左様でございますか」
友人すら置いて人込みを割って何処かへと歩き去る姿を見て、シェリルは溜息を吐く。
取り敢えず、悪意の有無は関係ない。
衣装の事を言われるたびに、バスカヴィル侯爵夫人の贈り物なのだと説明し続けた。
その話が侯爵夫人かブレンドに伝わったのか、不機嫌なブレンドがシェリルの元へと戻ってくる。
「送っていくから君はもう帰れ」
「はい。そのように」
シェリルだって本当は一歩だってこの会場にこんな衣装で踏み込みたくは無かった。
そして一秒だって長く居たくは無かったのだ。
だから、ブレンドの言葉に素直に従った。
馬車の中で重々しくブレンドが言う。
「謝罪と訂正をするように」
はて?とシェリルは首を傾げる。
「謝罪とは何でしょう?」
「君の着こなしが悪いせいで、母上の審美眼が悪いと思われただろう!母上は大変傷ついていらっしゃる」
実際に趣味が悪いのでは、と言いかけてシェリルはもう一つを問うた。
「訂正とは?」
「母上が君に贈ったという話だ。審美眼の悪い物を贈ったと言われて、母上がまるで悪気があるかのような言われ方をしたんだ。良かれと思って贈ったのに!」
つまり嫌がらせだと思われて揶揄されたのだろうか、とシェリルは更に首を傾げる。
「訂正は出来ません。わたくしが嘘を吐いた事になってしまいますもの」
「母上の評判が傷ついてもいいのか?」
「わたくしはただ本当の事を申し上げたまでですわ。それを聞いた方々がどう思うかまではわたくしの知る所ではございませんの。良い物を贈ったと言いたいのでしたら、そう言えばいいだけではございませんか」
(それが出来ないと言うのなら、悪意が介在しているという事だわ)
じっと見つめると、ブレンドは、ふいと目を逸らした。
「君との婚約を考え直す必要がありそうだな」
「あら、奇遇でございますわね。わたくしもそう、考えておりましたの」
シェリルの返事に、ブレンドは信じられないという顔を向けてくる。
だが、今日の話を聞いただけでも、嫌がる令嬢は多そうだ。
「貴方の自慢のお母様でございますもの。その理想に近づくために努力を重ねたい令嬢を探される事をお勧めいたしますわ」
「後悔するなよ」
捨て台詞を吐いたブレンドを尻目に、シェリルは馬車から降りると振り返りもせずに邸宅へと歩き去った。
そしてそのまま、父と母が帰ってくるのを日常服に着替えて待つ。
皆に揶揄された衣装をいつまでも着ていたくはなかった。
「婚約を解消されるかもしれません、お父様」
シェリルに言われた伯爵は苦笑いを浮かべた。
何せ娘の顔は言葉の深刻さとは裏腹に笑顔だったからだ。
母も似たような雰囲気の笑みを浮かべて頷く。
「そうだと良いのだけれど」
「ん?それは解消されない、という事か?」
伯爵の問いかけに夫人は困った笑顔のまま答えた。
「今夜の夜会で既に、婚約者を虐める義母という噂になってしまったのですもの。そう簡単に新しいご縁は得られないでしょう?それでも解消してくださるかは、分からないですわ。かといって、こちらから解消するには決定打に欠けると思いますのよ」
決定打に欠ける。
令息本人が解消を匂わせたとしても、決めるのは家長だ。
それに、悪意はないと言われてしまえば、ただの行き違いとして終わる程度の話。
家格の低いこちらからそれでも強引に事を運べば、不興を買ってしまうだろうし、次はこちらが過保護だと揶揄されるのも面倒だ。
「分かりましたわ、お父様、お母様。出来るだけこちらに被害が及ばないよう配慮致します。ですがもし、解消のお話が出たら、お受けくださいませね?」
「ああ、勿論だ」
伯爵は力強く頷いた。
元々、友人同士の伝手での婚約である。
絶対ではないが、解消で揉めたくはない。
シェリルは無駄な時間を過ごしたくないなぁ、と思いつつその日はぐっすりと眠りに就いた。
「何か誤解があると思うのよ」
そう、上品な夫人が穏やかな笑みに乗せて言った。
シェリルは静かに返答する。
「左様でございますか」
夫人は婚約者ブレンドの母親で、今は逢瀬だと呼び出された喫茶店の中にいる。
婚約解消の匂わせから一週間後の事だった。
まだ婚約解消されていないのは、こっそり婚約を打診してみた相手から断られ続けているのかもしれない。
実際に解消してしまってから、正式な申し出を断られ続けるよりはマシなので、形だけでも良い雰囲気になる事を周囲に見せたいのだろう。
シェリルは茶番に付き合わされている。
そもそも逢瀬だと呼び出しておいて、この仕打ちだ。
しかしシェリルは二人を観察する事にした。
注意されたお茶の飲み方。
持ち手は基本と同じだ。
優雅ではあるけれど、そこまでシェリルと差がある様には見えなかった。
手袋を外す動作も、どちらかと言えばてきぱきと早い。
目線を上げるなと言われていたけれど、夫人はがっつりブレンドを見ているので、そこは違う。
(なあんだ……結局難癖を付けたいだけではないですか)
母親至上主義の特性に加えて、陰湿な嫌がらせ気質なのかもしれないと思い当たる。
(どれだけ努力しても、もっとゆっくりと言われて直したら今度は鈍間だと言われれば、直しようがありませんものねえ……)
そして今まさに二人は、二人にしか分からないブレンドの幼い頃の話で盛り上がっている。
シェリルは相槌を打つだけの器具と化していた。
その後も同行は母親に、歩く時も彼の横は母親の場所で、シェリルは侍女達と並んでその後ろを付いて行く。
「素敵な制服ですわね」
シェリルが声をかけると、夫人付きの侍女は目を丸くした。
「あ、ええ、はい……」
「あのお二人はお屋敷でもあんな風なのですかしら?」
気になって聴いてみると、侍女は難しい顔をした後で頷いた。
「まるで恋人同士のようですわね。夫人も若々しくて素敵でいらっしゃるし、ブレンド様は侯爵の若い頃にそっくりなんですって」
にこにことシェリルが言えば、シェリルの侍女が相槌をうつ。
「へえ…そうなんですかぁ。母親と仲の良い殿方っていらっしゃるんですね。お坊ちゃまはいつでも反抗期ですから、そんなものと思っていましたよ」
「でしょう?」
くすくすと笑い合う侍女とシェリルに、夫人の侍女は目を和ませる。
「伯爵家では、使用人とお嬢様の仲が宜しいのですね」
「ええ、うちでは母の教えで、使用人にも敬意を払うように躾けられておりますの。お母様に逆らうお兄様も、使用人には優しいのが面白いところですわ」
シェリルの言葉に、夫人付きの侍女は羨ましそうな溜息を吐いた。
少し離れた夫人とブレンドは楽しそうに散歩を続けている。
散歩道を歩く貴族達は、先を歩く二人と会釈を交わしてから、侍女と共に歩くシェリルをぎょっとした顔で見た後で、会釈を交わす。
婚約者より母親を優先する男と、息子の婚約者を侍女扱いする夫人の図だと思われたのだろう。
別にシェリルの意図した事ではなかった。
仲の良さを見せつけたいのか、それとも単に息子を他の女に渡したくない気持ちを優先したかったのか。
それは分からないが、自分達の居心地の良さを優先した二人は、シェリルの事など忘れてしまったのかもしれない。
貴族達の噂は巡るのが早いのだ。
明日には学園の友人達にも広まってしまうはずである。
それを、前を歩いていた二人は知らない。
誰もがにこやかに挨拶をしてくれたから、安心しきっている。
彼らが挨拶をした後、シェリルを見た人々の反応を、彼らは気付けなかったのだから。
シェリルは表向きには従順に二人の前で穏やかに微笑んで過ごしていた。
婚約解消をちらつかせた事で、大人しくなったのだろうと高を括っていたのかもしれない。
その後の逢瀬は全て母親同伴だった。
侯爵家でのお茶の席も、勿論夫人が同席をしていて。
伯爵家のお茶の席だけは、ブレンドだけがシェリルの目の前にいる。
そして、例の如く「母上の素晴らしさ」と「母上によく尽くせ」と「母上のようになれ」と大体その三つの雛形から作られた話題で過ごすのが常となっていた。
だからシェリルは気になって訊いてみた。
「もしかして、閨の作法もお母上と同じにせよと仰られるのですか?」
そう訊いた途端に、一瞬動きを止めた後でブレンドの顔が真っ赤に染まった。
「な、何と破廉恥な事を言うのだ!母上は決してその様な話題は……っ!」
「破廉恥な意味で聞いたのではございませんわ。結婚するのならば両家にとって子供を作るのは大事な責務ですもの。わたくしはきちんと侯爵夫人としての役割を熟さねばなりませんでしょう?」
シェリルが冷静に問いかければ、ブレンドも落ち着きを取り戻した。
そして考える。
「それは……確かに、君の言う通りかもしれない。勿論母上は完璧だから、母上に聞くのが良いだろう」
「つまり、侯爵夫人の閨の作法を、侯爵夫人から習って、実践して欲しいという要求でございますわね」
「……ああ、そういう事だ」
「分かりましたわ」
分かったけれど、やるとは言っていない。
シェリルがにこにこと承諾した事で、ブレンドは「漸く言う事を聞くようになったな」としか思っていなかった。
後にその発言がどんな波紋を呼ぶかも知らずに。
「ブレンド、お前噂になっているぞ」
友人の公爵令息のエルンストが真面目な顔でそう切り出した。
もう一人の友人である伯爵令息のテリーは半笑いで言う。
「婚約者の逢瀬に母親付きで行くんだって?」
「母上が婚約者と交流したいと言っているんだ。何が悪い」
本当に分かっていないブレンドを見て、テリーは笑みを引っ込めた。
眉を顰めたエルンストが聞く。
「それは一回だけか?」
「いや、最近はずっと同伴している。三回程度だが」
うわあ、と声をかけてきていなかった周囲の令息達は引き攣った顔を見せる。
「お前、それ、普通じゃないぞ」
テリーが汚物でも見るような目を向けて来て、ブレンドは眉間に皺を寄せる。
呆れたような顔でエルンストも付け足した。
「あの噂に真実味が増してしまったな」
「待て、どういうことだ、普通じゃないとは」
基本を分かっていないようで、令息達はうへあ、という顔をしながらも説明した。
「お前は逢瀬に婚約者が毎回父親を連れてきたら変だと思わないのか?しかも彼女は父親とばかり話して、父親に同行されて、婚約者の後ろをお前がついていくだけでも、逢瀬だと言えるのか?」
「何を言うんだ。私の母上と、彼女の父親を同列に語るとは失礼な。母上は慈愛と賢明さの権化であり、彼女が学ぶべき至高の手本だ。対して、彼女の父上が同行するなど、それはただの過保護か、私を信用していないという侮辱ではないか」
本気の切り返しに、エルンストは冷たく言い放った。
「父親を連れてくる彼女にはまだ、実家の庇護を受けるという道理がある。だが、母親と腕を組んで婚約者を後ろに歩かせているお前には、男としての矜持も、次期当主としての格も微塵も感じられない。男と女を同列に語るな。お前は母親という女の影に隠れて、男であることを放棄していると見做されるんだよ」
厳しい言葉に、ブレンドは目を泳がせる。
今まで築き上げた価値観が、他者から見れば普通と違っているのだ。
「いや、違う。ただ、母上を手本として……」
「……まあ、ここまで言っても無理なら仕方ない。君との友人としての付き合いも再考させて貰うよ」
エルンストが踵を返すと、テリーも続き、周囲の令息達も距離を置いた。
ブレンドは引き止める言葉も見つからずに、足元の床を見つめる。
寄親である公爵家の令息に見限られるという事は、社会的な死にまっしぐらだ。
意を決してブレンドはシェリルの元へ向かった。
「噂を否定して欲しい」
「何のお噂でしょう?」
ブレンドの言葉にシェリルは首を傾げた。
そのおっとりとした仕草に、ブレンドはいつもの母上節を使いそうになって呑み込む。
「今までの、色々だ……!」
「流行遅れの衣装を贈って頂いたのは事実ですわ」
「それじゃない!」
以前にその話は馬車の中で断ったのだが、また言い出したのかと呆れたシェリルはブレンドに否定されて他の理由を考えた。
「わたくしと貴方の逢瀬に夫人を同伴されたのは、皆様ご存知でございますよ?散歩道で色々な方とご挨拶したではありませんの」
「ええ、わたくしも父から話を聞いて驚きましてよ」
「自分の婚約者を侍女と歩かせて、母親と腕を組んで歩いていたなんて、ねえ?」
シェリルの周囲の令嬢達がくすくすと笑う。
筆頭はカーリスという伯爵令嬢で、シェリルの親友だ。
彼女が口を開いた。
「噂になったのは、色々な方があの通りで貴方がたの仕打ちを目撃したせいですのよ?今更シェリルが否定したところで、『婚約者に強要されて否定して回る哀れな令嬢』でしかありませんわ」
ブレンドはカーリスの言葉にぐ、と詰まる。
誰もが笑顔で挨拶をしてくれていたというのに、そんな目で見られているとは気づかなかったのだ。
縋るような目でシェリルを見るが、シェリルは困ったように穏やかな笑みを浮かべる。
「否定する気はございませんわ。だって、それではわたくしが嘘を吐いているという事になりますから、わたくしの評判に関わりますでしょう?」
「では、君は母上の評判に傷が付いても構わないというのか……!」
「お可哀想ですけれど、その評判を落としたのはご自分達だという自覚がございませんの?」
別に、母親と二人で腕を組んで歩いている貴公子が悪いのではない。
男性として女性を同行するのは当たり前だ。
現に色々な場所で、父や息子が娘や姉妹を同行しているのと同じで、息子が夫人を同行する事もある。
問題なのは、婚約者を差し置いて母親と二人で前を歩き、侍女と共に後ろを歩かせた事だ。
本来は逆の立ち位置で、息子と婚約者の仲睦まじい姿を後ろから見守るのが母親である夫人の位置である。
ふ、とシェリルは短く息を吐く。
「もし、侯爵が前侯爵夫人を同行して、夫人をその後ろで歩かせていたら、貴方はおかしいと思いませんの?」
「それは……」
漸く自分のしてきた事の異常さが少しは分かったのか、ブレンドの顔色が悪くなる。
「貴方はわたくしに母上に閨の作法を教わるように仰いましたけれど、それが侯爵家の伝統でして?」
まずい、とブレンドが思った時には周囲の令嬢達の反応も地に堕ちた。
今まではただ嗤うだけだったのに、もはや汚物を見る目に変わっている。
「まあ……貴方は母上様に閨の手解きを受けてらっしゃるの?息子の閨に入り込む母親なんて、悍ましいこと」
「まさかそこまで酷いとは思いませんでしたわ」
「何て恐ろしいのかしら」
事実を歪曲したカリーナの揶揄の言葉を受けて、周囲の令嬢もひそひそと呟く。
そしてその令嬢達の口から、早晩、各貴族家の当主や夫人にも広まるだろう。
「違う、それは……!そんな不潔で破廉恥なものではない!君が困る事のないように母上が教えを…!」
「失礼を承知で申し上げますが、どうしてもその様な教育が必要な場合は自分の母親に習うものでございますわ。それともブレンド様はわたくしの父に習いたいと仰るの?」
「……なっ、私が、君の父上に……? そのような……そのような、屈辱的なことが、許されるはずがないだろう!」
しまった、という顔をしたブレンドに、周囲の令嬢もシェリルも憐みの目を向ける。
ここまで具体的に言われないと理解出来ない、その自己中心的な思い込み。
追い詰められて本音を口にして、初めて彼も理解したのだろう。
「……あ、いや……それは……。母上が君に教えるのは、君が我が家で恥をかかないための親心であって……。だが、私が君の家で教わるというのは……その、そもそも男の私が、君の父上に、そんな……」
言い訳をしようとしたブレンドの声が小さくなっていく。
他家の親に、最も私的な領域を管理される事が、自分にとっては耐え難い屈辱であると認めてしまったのだから、取り繕うにも無理がある。
その屈辱を婚約者に与えたうえに教育であり慈悲だと嘯いてきたのだから。
シェリルはふう、と長く息を吐く。
「ここまで価値観の違いがあるのですもの。わたくしは貴方の理想に付いてゆく事は不可能であると言わざるを得ません。誠に申し訳ありませんが、貴方の理想の女性をお探しくださいませ」
「……ま、待て、シェリル! 価値観の違いだなんて、そんな……そんな言葉で片付けないでくれ!」
言うべき事を言ったシェリルは、ブレンドに背を向けて歩き出す。
周囲の令嬢達も静かにその場を後にした。
残されたブレンドは、自分の社会的な死を感じて蒼褪めたまま見送るしかない。
母親の教えが正しいと思い、思考を放棄していたつけが回ってきたのだ。
学園から帰宅して数時間後の晩餐。
ブレンドは冷たく凍りつくような侯爵の笑みに嫌な予感が隠せなかった。
「本日ヘーレン伯爵家より、婚約の即時解消が求められた。本来なら破棄されて有責になるにも拘らず、私との友情に免じての対応をしてくれた。感謝しなくてはならんな」
「まあ…感謝だなんて何を仰るの!格下の家門ではありませんの。それに、わたくしが歩み寄ったのに恥知らずな……」
「………噂は、カリーナという令嬢が、歪曲して皆に伝えたもので……些か度が過ぎていると……」
侯爵夫人の言い分はさておき、ブレンドは苦々しく言い訳をした。
だが、侯爵は馬鹿にしたように冷たい目を向ける。
「……黙れ。恥知らず共が。
お前たちが作法と称して他家の娘に押し付けてきた事が、他の貴族達から見てどれほど悍ましい狂気に映っていたか、まだ理解できていないのか」
そこでいったん侯爵は言葉を止めて、静かに笑う。
「世間ではお前が息子に高潔な閨の手解きをしていたと噂しているのだぞ」
「……まあ、旦那様。そのような下俗な噂を真に受けて、わたくしを辱めるのですか?当主となる息子が戸惑わないための高潔な導きですわ。それを……手解きだなんて、そんな卑猥な言葉で汚すなんて!」
侯爵夫人は怒りに震えながら抗議するが、ブレンドは顔を蒼褪めさせて言い縋った。
「……あ、父上。それは……違うのです、違います! 母上、やめてください! そんな……導きだなんて言葉を仰るのは! 学園でも……カリーナ嬢たちが、その言葉を、その……『親子で愛し合っている』という、あり得ないほどの侮辱に変えて笑っていたんです!」
ぶるぶる震えながらブレンドは続けて言う。
「父上、信じてください。私は母上と……そんな、指一本、そんな破廉恥なことは……! 私はただ、母上の教えに従うことが正しいと、そう思っていただけで……!」
父親は、震える息子と、頬を紅潮させて持論を述べる妻を眺め、葡萄酒を一口飲んでから再び冷たく笑った。
「……ほう。指一本触れていない、か。だが、世間はお前たちの言い分など興味はない。どう見られるかで決まるのだ。近親相姦の疑いのある母子を侯爵家に抱えておくわけにはいかぬ」
布巾で口を拭うと侯爵は氷のように冷たく宣言した。
「お前が息子を性愛の対象として見ていたのか、支配できる所有物として見ていたのかは知らぬが、どちらにしても母とは呼べぬ悍ましいものだ。淑女でもなく、母でもない。お前はただの怪物だ。私はお前に離縁を申し渡す。修道院で一生を終えるがいい」
「……怪物……? 旦那様、貴方は今、わたくしに向かって……! 離縁? 修道院? 冗談はやめてくださいませ! わたくしは、わたくしはこの家を、ブレンドを、これほどまでに……!」
悲鳴のように泣き叫んだ後、侯爵夫人は息子へ助けを求めた。
「ああ、ブレンド、助けて……。わたくしを、わたくしをあんな暗く冷たい修道院に閉じ込めないで! わたくしがいなければ、誰が貴方を愛してあげるというの……!」
「……ひっ……! 来ないで……来ないでください、母上……!」
手を差し伸ばされたブレンドは慌てて席を立って距離を取る。
「……父上の仰る通りです。私も、貴女も間違っていた……」
「何を言っているのブレンド!母を見捨てると言うのですか!」
茶番は終わりだと告げるように、壁際に控えている家令を侯爵が呼びつけて命じた。
「……連れて行け。この『怪物』が二度と私の前に、そしてこの息子の前に姿を見せぬよう、今すぐ屋敷から出せ。明日を待つ必要はない」
会釈をした家令が命じて、従僕達が夫人を抱えるようにして晩餐室から引きずっていく。
漸くその泣き叫ぶ声が重い扉に遮られた後で、侯爵は息子に視線を戻した。
「……ブレンド。お前は明日、領地へ向かうがいい。廃嫡はするが、今までお前に課した教育の分、領地で働いて返すのだ。平民として領地の為に働くことが、この家が世間に対して示す唯一の贖罪だ。二度とあの怪物の事は口にするな」
「……はい。ご厚情に感謝いたします、バスカヴィル侯爵」
ブレンドは最後の矜持を振り絞って、礼儀正しく頭を下げた。
決して許される事は無いと分かっている。
シェリルにも父にも世間にも。
「無事解消出来て良かったな、シェリル。これで晴れて俺と同じ気楽な独身貴族だ」
「まあ……お兄様と一緒になさらないでくださいませ。たった数か月で解放されたのですもの。また新しいご縁を結んで頂きますわ!」
「次はどんな婚約相手が来るか楽しみだな!」
「不吉な宣告をするのはおやめになって……!」
愛しい兄妹のじゃれ合いを見ながら、ヘーレン伯爵は次こそまともな縁談を組まないといけないなと心を新たにするのだった。
その横で伯爵夫人は、息子にも何とか婚約者を見つけようと牙を研ぎすます。
ヘーレン伯爵家は今日も平和である。
そういやマザコンものあんまり見ないな?と思って書いてみました。2号にブレンド可哀想…って言われました。そしてホラー!とも。なので、ホラータグつけました。他にも2,3パターン考えたのですが、ここまで追い込まれる系ではないので、気が向いたらまた書きます。




